『変身』の感想

『変身』の感想 

増田満

『変身』との出会い

 私が都立高校に入学したのは70年安保の騒乱がほぼ消え去った1973年でした。その年から私服で登校できるようになった学内はのどかで自由な雰囲気でした。1年生用の現代国語の教科書には安倍公房の短編『棒』と埴谷雄高のエッセイ『夢の科学』が掲載されていたことをよく覚えています。

 特に『棒』は印象的でした。ある中年男性が、子ども達と散歩していた途中でデパートの裏側の階段でぼんやり一休みしていると、突然棒になってしまうのです。このような展開の小説があることに驚きました。ちょうどそのころ、国立近代美術館で行われていた「シュールレアリスム展」で、ダリ、キリコ、ミロ、そして古賀春江といった、国内外のシュールレアリストの絵画を見たこともあって、絵画や文学では、抽象化とは異なる意味での極めて思い切った画面構成やストーリー展開が行われていたことを知りました。

 高校1年生と言えば16歳前後ですから、発達心理学的には形式的操作の認知能力を大々的に使うようになる時期です。例えば事物の可能な並べ方や組み合わせを心の中に思い浮かべることができるようになる時期で、数学で言えば順列組み合わせの理論が十全に理解できるようになる時期です。そういった認知能力で様々な事象を眺めれば、具体化していないたくさんの可能なあり方を思い浮かべ楽しんだりできるわけです。

 自身の将来について色々な夢を描いたり、あるいは社会のあり方や自然環境のあり方についても色々な可能性を思い浮かべたりでき始める人生のこの時期を振り返れば、おそらく多くの人が、心理的に解放感に満たされていた(そして親をバカにしたりして生意気になっていた)ことを憶えているのではないでしょうか。

 ともかくそういう時期にうまい具合にシュールレアリスム的な小説や絵画に触れたことで、非常なインパクトを私は受けました。特に安倍公房にはその後多くの作品を楽しませてもらいました。『バベルの塔の狸』という小説では、主人公が上野を思わせるような公園で、狸に影をとられて透明になってしまったりするのです。何か哲学的な意味が表現されていたのでしょうが、影を取る狸(取らぬ狸)が登場したりすることが面白くてしょうがなかった覚えがあります。要は、斬新で巧みな可能世界の表現に夢中になれた時期でした。

 ところで、本題の『変身』の作者カフカのことを知ったのも、安倍公房が影響された小説家としてであったと記憶しています。

最初に『変身』を読んだときの思いは

 『変身』を読んで、その斬新な設定にともかく楽しませてもらいました。翻訳では主人公がある朝起きたら「毒虫」になったとされていますが、その「毒虫」とはどんな虫かはっきりしません。背中が固いということなので甲虫類(昆虫の一種)なのだろうかとか、羽はなさそうだけど足はたくさんあるようなので、節足動物でも昆虫とは異なるワラジムシやダンゴムシのようなものなのだろうかとか、でも足が細長いようなので、やはり昆虫類なのだろうかとか、とにかくいろいろ思いを巡らせました。(高橋義孝訳、新潮文庫、昭和52年44刷を自分は持っていて今回読み返しました。初めて読んだのは図書館で借りた本だったと思います。ただ、その時も「毒虫」という訳語であったのは確かです)

 ほかにも面白がっていろいろとああだこうだ考えたはずです。ところが、毒虫に変身することに対する上記の単純な熱中以外はあまり思い出せません。それでも、物語の最後で、主人公の立場にたって救いようのない悲しい気持ちになったことを、そして家族の立場に立って安堵と解放の気持ちを抱いたことを覚えてはいます。主人公の立場と家族の立場とで、救いようのない気持ちと救われた気持ちの両者を同時に味わうというアンビバレントな意識を持ったことをなんとなく覚えています。

久しぶりに読んで

 今回久しぶりに読みましたが、その受け取り方は昔と変わりました。(今回資料としてもいただきましたが、何年か前にNHK「100分で名著」で取り上げられたのを見たので、その内容を全く振り返らなかったわけではありません。しかし全体を読み返したのは本当に何十年ぶりです)。

 先ほど書きましたが、当時はその大胆な導入に喝采を挙げる気持が他の気持ちを圧倒していた気がします。ところが今回は、障害を持ち介護を必要とする者に対する家族の気持ちについて考えを巡らしたりしました。

 仮に家族の一人が脳梗塞や加齢で、体が不自由になったり認知症になったりして、他の家族が介護しなければならなくなった場合、最後までしっかり面倒を見てあげたいという気持ちと、面倒くさいので早めに施設に入ってもらいたいあるいはいっそなくなってしまってほしいという気持ちの両者が、その相対的な強度の大小関係は様々であっても、家族の各人の心に生じるのではないでしょうか。

 介護対象の障害者との発症以前の関係性に左右されるのでしょうが、初めはしっかり面倒を見てあげようという気持ちが圧倒的なのが一般的でしょう。しかし、障害が悪化したり、いつまで介護が続くのか見通しがつかなくなったり、障害者との意思の疎通がますますとりにくくなったりして、不満や疲労を強く感じ始めると、早くこの状況から脱したいという気持ちが強くなって、次第に介護がおざなりになったり、早く施設にいれようとしたり、いっそ死んでほしいと思ったりしやすくなるのではないでしょうか。また介護される側からすれば、家族からの孤立感をどんどん深めることになったりもするでしょう。

 しかし、もしその障害が『変身』にあるように、毒虫になるという形態で起きたとすれば、最後までしっかり面倒を見てあげたいという気持ちと、早くこの状況から脱したいという気持ちとのバランスは、早急に後者へ傾くように崩れそうに思えます。あまりに障害が途方もないので、バランスが崩れていく際の葛藤(うしろめたさ)などはそれほど問題にならないで済むのではないかと思えます。場合によっては、小説中の父親のように、最初から関係性を拒絶するかもしれません。『変身』は主人公の父、母、妹の振る舞いで、そのような有様のバラエティをわかりやすく描いていてくれていると今回私は思いました。

古典は成長する

 というわけで、夢多き十代半ばの頃の私と、両親を多少なり介護して見送った経験を持つ六十代半ばの今の私とでは、同じ『変身』を読んでも、焦点の当て方が変わっていることを確認できました。

 埴谷雄高は「古典は成長する」と述べました。古典と言われるような優れた作品は、様々な見方が可能で、時代の変化や読み手の年代によって、新たな解釈を楽しむことができるということでしょう。私にとって『変身』はそのような古典としての資質を十分に備えた作品だと思えました。

 『審判』と『城』も読みましたが、その長さと複雑さゆえに、多くの人にとっては『変身』ほど優れた古典足りえないのではなかろうかという思いも強くしました。

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