『蛇を踏む』感想

『蛇を踏む』感想

増田満

 『蛇を踏む』を読んだ多くの人が思うのでしょうが、私もこの作品は夢を素材にしているのではないかと思いました。夢を素材にしている文学作品で思いだすのは、夏目漱石の『夢十夜』、内田百閒の『冥途』『旅順入場式』、島尾敏雄の「ちっぽけなアバンチュール」、安倍公房の『笑う月』などです。

 今手元で確認できるのは、『冥途』、『旅順入場式』、『笑う月』だけですが、いずれにしろ、現実での論理と異なる夢の中の論理に、どうしても支配されてしまわざるを得ないという、思うに任せない夢の中でのありさまを描いています。そういう特徴が、私が夢文学とかってに想定している上記諸作品にはあります。

 それに対して『蛇を踏む』は、素材は夢から得ている部分が多いのかもしれませんが、創作するときに、夢の論理の支配を大幅にはなれ、別の論理を自由に取り入れてしまっているように思われました。夢の論理に従っていて思うに任せなくなっている比率が、上記諸作品に比べて非常に低く、私には夢文学とは認定しがたいと思えました。

 作者川上弘美氏は、自分の書く小説を「うそばなし」(あとがき)と呼んでいて、「自分の頭の中であれこれ想像して考えたこと」だとしています。彼女の作品は、この「自分の頭の中であれこれ想像して考えたこと」に負う部分が、夢の論理の支配に負う部分より大幅に多いところが、私が夢文学と思っている上記諸作品とは異なっているように見えます。

 例えば、単行本中の他の作品には量子力学という概念や、関連した「シュレーディンガーの猫」という思考実験の概念や、先端生物学の概念があからさまに登場しています。『蛇を踏む』においても、素粒子の状態に関して成立する「重ね合わせの原理」や分離不可能性や波束の収束など、日常的現実に当てはめようとするととてつもなく思われるような現象の論理が相当に当てはめられているようにも見ます。おそらく先端生物学の論理もしかりです。夢の論理に従うどころではありません。

 私の結論は、川上弘美さんの作品は、「夢文学」ではなく華麗な「うそ文学」だということです。そして、その「うそ」のあり方は、かなりの洗練度に達しているのでしょう。そのため、読んでいて思わず心の中で拍手してしまった私がいたのだと思います。

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