ウィルバー思想の探究

増田満

はじめに

 確か2000年の夏だったと思います。トランスパーソナル心理学に関する造詣の深い友人と、「神」という概念について話し合う機会がありました。その時私は、フランスの小説家アルフレッド・ジャリの『超男性』という作品の中に「神は無限小である」という一節があったことや、不確定性原理で有名な物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの回顧録のタイトルが『部分と全体』であったことなどを雑然と脳裏に浮かべて、神とは「あらゆるところに偏在するのであり、あらゆる存在について、部分でもあり全体でもあるようなものと定義できるのではないのか」と適当なことを言い、それを聞いた友人が、私のように理屈っぽい人間は、「ウィルバーの本を読むといいのではないのか」と助言してくれたのを覚えています。今思い起こすと、それが、私がケン・ウィルバーの思想に接することになるそもそものきっかけでした。
ウィルバーという名前は、物理学と哲学を僅かずつ勉強しただけの私には、全くなじみがなかったのですが、助言に従って、早速『進化の構造1』と『進化の構造2』を読んでみました。そのときの読書体験は、これまでの人生の中で最も印象深いものの一つです。例えて言うなら、奥行きの感じられない平板な絵を見慣れていた者が遠近法を駆使した絵画を見た時に感じるだろう驚き、あるいはステレオ録音された音楽をずっとモノラル再生で聴いていたのをステレオ再生に切り替えて聴き始めた時に感じるだろう驚き、多分そういったことと類比できるような驚きを、知的な意味で感じたのです。
それまで私は、哲学関係に分類されている本を読むと、難解な概念に振り回されたあげく、結局は問題とされたことについて、「議論の出発点からほとんど離れていない地点に連れていかれたにすぎないのではないのか」という閉塞感で終わる場合がほとんどだったのですが(迷路の中を引きずり回されたあげく、もとの地点に戻ってしまったという感じです)、『進化の構造』では、ウィルバーの思考法とそのもとで展開される世界観に、他の思想家にはない眺望の広がりと未来に開かれた展望を感じることができたのです。そして、以前閉塞感を感じた議論や思想も、彼の文脈で見直すことで、あらためて私の心に鮮明に浮かび上がって来たりもしたのです(以前辿った迷路を上空から眺め直した感じです)。
こうしてウィルバーの解放感あふれる思考法と、その思考法から紡ぎだされる世界観のとりこになってしまった私は、サングラハ心理学研究所(現在はサングラハ教育・心理研究所)での『進化の構造』に関する講座にも参加するようになり、ウィルバー思想の学びを継続していきました。そして、私自身の彼の思想についての解釈や疑問について、あるいは彼の世界観を環境問題・心身問題・政治姿勢に応用する試みについて、何回かエッセイを書き、サングラハ教育・心理研究所の会報誌『サングラハ』に投稿もしてきました。
それは、自分が魅せられた彼の理論・世界観を、自身の言葉で書いて理解を深めたいという思いと、他の人に伝えてみたいという思いとの両者があったからです。また、彼の思想は一見難解に見えたとしても、少々時間をかけて慣れさえすれば、極めて常識的なものになりえるだろうという考えもありました。そういう思い、考えがあったため、2010年頃に、サングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹から、ウィルバーに関しての連載のお話をいただいたとき、力不足を自覚し厚かましいと思いつつも引き受けてしまったのでした。このエッセイは、その連載(2010年3月の『サングラハ』110号から2012年6月の123号まで)を手直ししたものです。当時連載を勧めてくださった岡野守也氏、毎回校正で多大な手間をおかけした編集長三谷真介氏には、ここで改めて深く感謝申し上げるしだいです。

このエッセイの狙いと概略
私が、このエッセイのもとになった「ケン・ウィルバー――コスモスの地図の製作者」という連載以前にサングラハ誌に投稿したエッセイの全ては、『進化の構造』で初めて登場した、四象限と進化・発達のレベルとを組み合わせてできる全象限全レベル( All Quadrants, All Levels)の統合的な世界観(AQAL)のもとに書かれています。この世界観は、曼荼羅様の下図で簡潔に表わされるのですが、これこそが、内面も外面も、個も集合も、そしてそれらの進化・発達の過程もすべて含んだ、コスモスの地図なのです。私にとってウィルバーは、何にもましてこのコスモスの地図であらわされるコスモロジーの制作者なのです。そこでこのエッセイの元になった連載のタイトルも、「コスモスの地図の制作者」としたのでした。

(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)

ウィルバーが、『進化の構造』でコスモロジーを創造する以前の、トランスパーソナル心理学の天才的理論家とみなされていた時代の思想なり理論なりについては、『意識のスペクトル』を始めとする代表作を読みましたが、正直に言いますと、私にとってそれほど関心を抱かせるものではありませんでした。しかし、私がとりこになった、ウィルバーのコスモロジーあるいは統合的な世界観は、四象限と並んで進化・発達のレベルが大きな柱として含まれています。そして、進化・発達は含んで超える過程をたどるとされています。そうしますと、もしウィルバーの思想・理論・世界観自体が健全に発達してきた結果が彼のコスモロジーだとすると、彼自身が以前持っていた思想・理論・世界観を含んで超えるように形成されてきたはずです。従って、私が常に焦点を合わせてきた『進化の構造』以降の統合的な世界観をより深く理解するには、その世界観に至るまでの形成の歴史を跡付けることが不可欠だと思うようにもなりました。
実はウィルバー自身が、自らの思想あるいは理論の変容過程を5つの段階に分けていますから、その5つの段階を簡単にでも振り返ってみる必要性があると考えるようになったのです(ウィルバーはそれらの段階を、Phase 1, 2, 3, 4, 5 と呼んでいますが、この連載ではウィルバー1、2、3、4、5と呼ぶことにします)。参考までにその五つの段階を特徴づける言葉を私なりに選んで列記していきますと次のようになります。

ウィルバー1 レトロ・ロマン主義
ウィルバー2 前超の誤謬の認識
ウィルバー3 多くのラインあるいは流れがある
ウィルバー4 コスモロジー――全象限・全レベル
ウィルバー5 統合的なポスト形而上学

そこでこのエッセイは、ウィルバーの伝記的な事柄と、『意識のスペクトル』から『進化の構造』に至る理論形成史も簡単にではありますが含むことにし、最終的に、全象限全レベルの世界観(ウィルバー4)と、それを支える「視点(Perspective)」、「世界空間(Worldspace)」、「統合的なポスト形而上学( Integral Post Metaphysics)」(ウィルバー5)などの概念の、ある程度詳細な探究・説明にまで到達することを目標にしました。そして、読者の皆様に、ウィルバーの統合的な世界観、あるいはコスモスの地図に馴染んでいただくのに少しでも役立つことができれば幸いだと思いました。
さて、いずれコスモスの地図(ウィルバー4)については詳細に述べることになりますが、ここでその包括性のほんの一端でも知っておいていただいた方がいいと思いますので、先ほどの図にあります四つの象限について簡単に説明し、それを通じてデカルトとカントの哲学を俯瞰してみたいと思います。

四象限説
私達一人一人に心と体がありますが、体はお互いに観察して確認し合える各人の客観的な部分ですし、思考や感情や感覚が生じる心は、お互いに直接観察し確認することはできない主観的な部分です。ただこの二つの部分には、密接な対応関係があるようです。例えば私が何かを(例えば痛みを)感じるときには、私の体には何らかの刺激(例えば注射針の挿入)が加わって、神経を通じて脳にまでその情報が伝わっているようですし、私が何かを考えるときには、私の脳は活発に情報処理活動しているようです。そうしますと、これらは人の並列した二つの部分というよりは、二つの側面と考える方が自然だと思います。ウィルバーは、これら二つの側面を内面(Interior)と外面(Exterior)と呼んでいます。
ところで、私達一人一人は個であって、独立した全体性を持ちますが、実体として単独で存在することはできません。まずもって、両親がいなければ生まれなかったでしょうし、彼らが生むだけでなく育ててくれなかったら、大人に成長はできなかったでしょう。両親が面倒を見てくれなくても私達は成長したかもしれませんが、その場合でも、親戚かあるいは保護施設にいる職員の方とかが面倒を見てくれる必要があったでしょう。また、両親自身、彼らの両親と彼らが所属する社会がなかったら、私達を生んだり育てたりすることもなかったでしょう。
そうしますと、個である私達一人一人は人間の集合である社会と切り離して考えることはできません。人には、個的(Individual)な側面と同時に、人間社会のメンバーであらざるを得ないということで、集合的(Collective)な側面もあると言えそうではないでしょうか。ウィルバーはそのように考えているのです。
人には内面と外面があると述べ、次に個的側面と集合的側面があると述べました。この二種類の対になっている側面間にはどのような関係があるのでしょうか。先ほど人は、所属することになる社会という集合がなければ生まれもしなければ育ちもしなかったと述べましたが、このことは、誰もが目にすることができる外面の話です。従って、人には、外面において、個的側面のみならず集合的な側面があるのは明らかです。では、内面ではどうでしょうか。
いろいろな感覚、衝動、感情などが人の内面、心には渦巻いていますが、中でも人は、内面において様々な概念を使って思考することができます。思考は個人的な活動で、そこに集合的な側面は一見ないように思えますが、少し考えてみますと、それは大間違いのようです。
例えば私は今、ウィルバーの思想を題材にエッセイを書いているわけですが、このエッセイの中に現れる様々な概念はもちろん私が創り上げたものではありません。私が成長していく過程で、私が属している共同体の中で、親や学校の先生たちから学んできたものばかりです。つまり、人としての私の内面にあるほとんどのものは、人の集合に由来しているわけです。このように人には、内面においても、個的側面のみならず集合的な側面もあることになります。
そうしますと、人には結局、内面的・個的、外面的・個的、内面的・集合的、外面的・集合的という4つの側面があることになります。それらの呼び方は、主観的個的、客観的個的、主観的集合的(間主観的、文化的)、客観的集合的(間客観的、社会的)というように、いろいろ考え得ると思います。ウィルバーは、これら4つの側面を、図示する際には、直交座標でつくられる4つの象限に当てはめます。先ほどの図を参照していただけばはっきりしますが、左上象限が内面的・個的、右上象限が外面的・個的、左下象限が内面的・集合的、右下象限が外面的・集合的側面を表します。それで、側面と言う代わりに、象限ともウィルバーは呼ぶのです。
ところで、人に内面と外面があり個的側面と集合的側面があることを、立体的な物体に左側面と右側面があり上面と下面があることと同じように考えることができるなら、対となる一方に根本性があるのではありません(左より右のほうが根本的だとか、上より下の方が根本的だとかいうことはありません)。対になって現れてくるのは、相互に還元できない相補的に存在せざるを得ない両側面です。ウィルバーは人に関する四象限を、立体が左右両側面と上下両側面を持つように、必然的に持たざるを得ない相補的な四つの側面と捉えているのです。ところが、立体的な物体の左右両側面相互間や、上下両側面相互間に特定の対称的関係があることを私達は納得していますが、四象限の間に独特の対応関係があることは、私達には納得できていないように思えます。例えば私には何故この心と身体の二つの側面に特定の対応関係があるのか見当もつかないのです。それをウィルバーはこのように考えているようです。立体の場合には、その全体を私達は見ることができますから、各側面間に、ある特定の対称的関係があることを納得できるのですが、人に関しては、その全体を私達は把握できていないので、各側面間に特定の対応関係があることを納得できていないのだと。
またウィルバーは、人間であったり、蛇であったり、植物プランクトンであったり、あるいは原子であったりする、世界を構成する全ての種類の存在にこれら四つの側面があるとしています。これを以下では四象限説と呼ぶことにします。以上が先ほどのコスモスの地図にある四象限の簡単な説明です。ではこの四象限説を通して、デカルトやカントの哲学を眺めてみたいと思います。

ウィルバーの四象限説でデカルトとカントの哲学を俯瞰する
デカルトは方法論的懐疑の手法を用い、疑いえる事物を全て排除していった末に、どうしても疑いえない「我思う故に我あり」という事実を見出しました。この感じたり考えたりする我というものをこの意識と言うことにすれば、この意識の存在こそがどうしても疑い得ない、哲学(存在論および認識論)の第一原理だと言うのです。
ところで意識とは、他者からは観察によって見ることのできないその人個人の主観あるいは内面といえそうです。従って四象限説で俯瞰してみますと、デカルトの第一原理とは、四つの同等な象限の内、左上の象限にあてはまります。つまり、内面と外面、個と集合という2組の対概念において、それぞれにおける一方だけに根本性を置こうとする、極めて還元的でアンバランスな哲学を構成していることになります。多くの哲学書が、デカルトの第一原理をめぐって書かれてきたようですが、ウィルバーの四象限説は、誰にでも一目でその思想的立場が把握できるようなモデルになっているのです。
別の一例として、カントの哲学も取りあげてみます。彼には有名な3批判書があります。その中の「純粋理性批判」は感性界を扱うもので、四象限説で言いますと客観的な右側の2つの象限を扱う哲学です。『実践理性批判』は道徳を扱うのですから、四象限説では間主観的な左下の象限を扱う哲学です。『判断力批判』は美学を含む主観的な判断を扱うのですから、四象限説では個的主観的な左上象限を扱う哲学です。このように、カントの哲学は、四つの象限全てを視野に入れた哲学だということが俯瞰できます(ただし、ヘーゲルと違って、進化という要素は欠けているようです)。
このように他の思想家の思想を俯瞰できる理由を、ウィルバーの世界観の柱の一つでもある意識の階層理論に則って考えますと、次のように説明できると思います。
『進化の構造』以降の彼の著作は、ヴィジョン・ロジックという、通常の理性より高次の段階の意識で書かれているので、読者は少なくとも彼の著作の読書中は、そのヴィジョン・ロジック段階での視界を彼と共有することになる。そのため他の通常の理性段階の思想家の本を読むときとは質的に異なる体験ができ、またそれら理性段階の思想を高い意識レベルから俯瞰できるようにもなるのだと。このような理由付けが正しいかどうかについては、このエッセイが進む過程で読者の皆様に判断していただきたいと思います。

2017年 9月21日