補論A 三つの、似て非なる方法論
――「志向的一般論の使用」と「志向的一般化」と「便宜的一般化」

  私が「志向的一般論の使用」と呼ぶことにしたウィルバーの方法論は、「専門家たちが合意した、素朴で堅固な諸理論なり諸知識( orienting generalizations 志向的一般論)をヴィジョン・ロジックと呼ばれる高度な理性で統合することで、一体であるこの世界の揺るがしようのない全体像(大枠)を得る」ということです。そしてこの方法論を実行した結果、この世界は四象限とホロン階層の重なりによる大枠の構造を持つことがわかり、全ての真なる理論あるいは知は、その大枠の部分として、結局はぴたりと当てはまることになるとウィルバーは主張します。さらにこの結果は、彼のトランスパーソナルな体験による洞察と一致するとも主張します。すなわち彼の方法論は、高度な理性と志向的一般論があれば、トランスパーソナルな洞察に一致するコスモロジーが構築できるという考えに基づいています。
ところで、私が「志向的一般論」と訳したorienting generalizationは、通常、orienting generalizationsと複数形で使われる語であるため、一つの方法論として解釈するのは困難であると思いますが、『進化の構造』など、ウィルバーの著作の邦訳では、「志向的一般化」と訳され、それ自体が方法論であるように解釈されています。また、ウィルバー思想の影響のもとに構想されたインテグラル理論においても、「便宜的一般化」と訳され、やはりそれ自体が方法論であるように解釈されています。そのため、私がこの連載で扱ってきた批判者達が考えるウィルバーの方法論(「志向的一般論の使用」)と、日本で「志向的一般化」あるいは「便宜的一般化」という訳語のもとに想定されたウィルバーの方法論とは似て非なるものになっています。その違いを明らかにするために、ウィルバー思想の代表的な解釈者であるサングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹とインテグラル・ジャパン株式会社の鈴木規夫代表取締役(以下鈴木代表とさせていただきます)の、orienting generalizationに関する考えを考察してみたいと思います。
岡野主幹の考えでは、「志向的一般化」とは、「予め『全てのものは宇宙と一体であり、宇宙が創造したものである』という結論への方向づけ(orientation)があって、その結論を裏付けまたは支持するような自然科学、社会科学、人文科学の諸分野の広く合意されてまではいないとしてもそれなりに有力な説を、集めてまとめ上げる試み( generalization )」です。すなわち、個を超えたトランスパーソナルな体験に基づく洞察からスタートし、そのような洞察による方向付けを支持するような有力な説を組み合わせてコスモロジーを造り出すという方法論です。岡野主幹は、ウィルバーの方法論はこのようなものだと解釈し、それと自身が従来抱いていたコスモロジー創造の方法論とのおおまかな一致を見出し、ウィルバー・コスモロジーからも利用できそうな部分は取り入れ、サングラハ独自のコスモロジーを創造するに至ったのだと思います。
しかし、これは私が解釈するウィルバーの方法論とは全く異なる、というよりも全く逆方向の方法論です。ウィルバーも瞑想によるトランスパーソナルな体験やそれにもとづく洞察も持っているわけですが、しかしコスモロジーを創造するための彼の方法論は、トランスパーソナルな洞察を起点にするわけではありません。パーソナルな領域での諸志向的一般論を起点にし、それらをヴィジョン・ロジックという高度な理性で統合することによって、トランスパーソナルな洞察と一致する、一体であるこの世界の真なる世界像(コスモロジー)が得られるとしているのです。つまり、パーソナルなレベルから、トランスパーソナルな洞察に一致するコスモロジーが得られると考えているのであり、使用される志向的一般論の真理性を覆すことはできないとしています。
それに対し岡野主幹の「志向的一般化」では、いくら有力な理論なり知なりを使うと言っても、その真理性を断言しているわけではなく、基本的には仮説として扱っています。従ってまた、ウィルバーのように、全ての真なる理論がその部分理論として当てはまる世界像が得られると主張しているわけでもありません。先程も述べましたように、岡野主幹の場合、もともとトランスパーソナルな洞察に起因する独自のコスモロジーの構想があり、ウィルバー・コスモロジーに接した際に、その方法論を「志向的一般化」と解釈して、自らの構想を発展させるために利用したのだと私は推測します。そのため、ヴィッサーやマイアーホッフ、そして私などのように、ウィルバーのコスモロジーの全体を内面化し、その真意について細かく探求しようなどというこだわりはおそらくなかったのだと推察します。
一方鈴木規夫代表は著書『インテグラル・シンキング――統合的思考のためのフレームワーク』(コスモスライブラリー、2011年)で次のように述べています。

無数に存在する多種多様な情報を整理・統合するための方法として、インテグラル理論は「便宜的な一般化」(orienting generalization)という方法を用います。難しそうな言葉ですが、その意味するところは非常にシンプルです。 “orienting” とは、共同作業を進めていくための共通基盤を築くために、関係者に基本的な事実を認識してもらい、その意識を方向づけするということです。そして “generalization” とは、多様な情報の中に存在する共通事項を見極めて、それに言葉を与えるということです。
それぞれの専門領域には、数多くの流派が存在しており、また、それぞれの流派の中でも、多数の研究者や実践者が独自の意見を主張し合いながら、対話や議論を展開しています。多くの場合、それぞれの関係者の主張や理論は相互に相容れないものであり、それらを調停することなど、とうてい不可能なことであるように思われます。こうした状況を前にしたとき、私たちはそのあまりの情報量のために途方に暮れてしまいます。
こうしたときに必要となるのは、状況を俯瞰して、全体を大雑把に鷲掴みにするということです。そこで「便宜的な一般化」においては、関係者の意見の間に存在する細部の相違点に注目するのではなく、それぞれの意見が合意している共通項に焦点を絞ります。つまり、関係者が対話や議論をするときに前提としている共通の条件は何かを明確にするのです。
例えば、心理学と言う領域には、実にさまざまな理論や方法が存在しています。ひとつひとつの理論を詳細に吟味していくと、そこには、しばしば、相互に相容れない洞察や認識があるように思えます。しかし、それらの理論をより高い視点から見渡すと、そこにはいくつかの共通項があることが朧気に浮かび上がってきます。
例えば、それらはすべて人間に「心」というものがあることに同意しています。また、それらはすべて人間の心が何らかの理由のために、傷ついたり、病んだりしてしまうことに同意しています。そして、それらはすべて適切な方法で支援や治療を行うことにより、そうした状態を改善させることができることに同意しています。結局のところ、それぞれの理論は、こうした共通の土俵の中で独自の見解を提示しているにすぎないのです。
(pp.13~15)

以上の引用文からは、「便宜的一般化」は、意志疎通のためのプラグマティックな方法論なのであり、ウィルバーが目指すような、一体なるこの世界の真なる世界像(コスモロジー)を創造することとの直接的な関連は感じられません。得られる一般的見解の真理性などに関する哲学的議論を受け付ける余地などなさそうです。例えば、人間に心があるというときに、自身の心と他者の心とのあり方の相違などを哲学的に吟味することなどには関心を持たない方法論です。確かに、ある領域で、様々な議論があるとしても、その議論の背景となる、論争者たちに合意された、素朴な一般論があるとすることではウィルバーの考えと一致しています。ウィルバーはしかし、その一般論は堅固であり、この一体である世界の真なるコスモロジーをそれらによって創造できるかのように考えていて、それをマイアーホッフも私も批判しました。ところが、「便宜的一般化」では、素朴な一般論の実践性こそが重要なので、同じような批判は当てはまりません。本質的なところで、ウィルバーの方法論とは全く異なるものだと言えます。ただし、『インテグラル・シンキング』には次のような一節はあります。

さまざまな文脈に参加していると、私たちはこの世界には実に多様な実践の体系(システム)があることに感嘆します。
音楽家には音楽家としての実践があり、登山家には登山家としての実践があり、教育者には教育者としての実践があり、政治家には政治家としての実践があります。また、同じ組織の中でも、設計部門には設計部門としての実践があり、生産部門には生産部門としての実践があり、販売部門には販売部門としての実践があります。いうまでもなく、そこで用いられている発想や方法は異なりますし、また、その領域で一人前になるために個人が通過することになる成長の過程は異なります。
こうした状況において、そこに統合の可能性を見出そうとするとき、果たしてどのようなことができるのでしょうか?
ケン・ウィルバーによれば、一般的には、そのためには、それらの多様な存在の深層に存在する類似点や共通点を見出すことが求められるといいます。つまり、それぞれの文脈を超えて、この世界全体に働いている法則性に思いをはせるようになるというのです(便宜的な一般化)。
(p.119)

そして、別の所では、「つまり、世界が多数の要素を寄せ集めたものではなく、常に『一』なるものであることを認識するのです。」(同書、p.126)と書かれていますから、一見ウィルバーと結局は同じことを言っているようにも見えますが、ウィルバーのように、そのようなリアリティの揺るがし難い像が得られるとまでは主張していません。
以上岡野主幹と鈴木代表のorienting generalizationという語の解釈について述べてきました。岡野主幹は「志向的一般化」という訳語を用い、トランスパーソナルな洞察に一致するような世界像を描くための方法論だとします。鈴木代表は「便宜的一般化」という訳語を用い、認識の背景にある大きな文脈に気づき、行動を整理できるようにするための方法論だとします。どちらの場合も、ウィルバーの「志向的一般論の使用」という、全ての真なる理論が部分理論として当てはまる、一体であるこの世界の揺るがし難い全体像を得るための方法論とは異なります。
両氏の考えとウィルバーの考えとの間に、なぜこのような相違が生じたのでしょうか(ここでは「志向的一般論の使用」という解釈がウィルバーの考えだとさせていただきます)。その大きな原因は、初めに指摘したことですが、orienting generalizationという語の意味を両氏が方法論と解釈してしまったことにあると思います。私の考え、あるいはこの連載で扱ってきました批判者の多くの考えでは、この語の意味するのは、「志向的一般論」と言う、専門家によって合意された、素朴で堅固な、もはや揺るがしようのない真理性を持つ理論なり知なりのことです。基本的に仮説として扱うべき通常の理論なり知とは異なります。ところが岡野主幹も鈴木代表もその語を方法論としてとらえたため、志向的一般論という理論なり知なりと、基本的に仮説として扱うべき通常の理論なり知なりとの区別がウィルバーによってなされていることが見えなくなったのではないでしょうか。その結果、全ての理論なり知なりは、基本的には仮説でしかないと見ることになり、ウィルバーのように志向的一般論という特異な存在を主張しなかったのだと私は推測します。
岡野主幹も鈴木代表も、私の考えではウィルバー解釈としては間違っているわけです。しかし一般論としては極めて常識的で、ウィルバーの特異な方法論に対するマイアーホッフや私の批判は当てはまらないわけです。例えば次のようなことが言えると私は思うのです。仮に岡野主幹のコスモロジー関係の書物が英語に翻訳されたとします。そしてヴィッサーやマイアーホッフ、あるいはポストモダニズムの思想家が、ウィルバーのコスモロジーに関する著作を読む前に岡野主幹の本を読んだとします。彼らは、そこに描かれているコスモロジーを、とりあえずトランスパーソナルな視点からの一案としてとらえ、一種のプラグマティズムから、場合によっては合意し、さらには実践を試みる可能性もあると思います(確信に至る可能性もあるでしょう)。ですが、もし彼らが、岡野主幹の本を読んだ後で、そこに参照されているウィルバーの本を読んだとしたら、その論理の飛躍に気づき、結局はこのエッセイにあるような批判をすることになると思うのです。例えば岡野主幹が取り入れている四象限説などは、誰にでも内面があるとするトランスパーソナルな視点からの自然な発展だと見なすことができますから、ポストモダニズムの思想家の中には、座禅の実践でそのような視点を内面化し、確信を持って四象限説を受け入れる者が現れる可能性も想定できます。しかし、誰にでも内面があるというトランスパーソナルな視点が、専門家がすでに合意した、素朴で堅固な指向的一般論であるとすることは、いまだ多くの哲学者が議論を戦わせているテーマであることが明らかな状況では、誤謬としか彼らには思えないでしょう。そして、ウィルバーの方法論では、そのような誤謬が平然と事実であるように主張されていることを、厳しく批判することになるでしょう。