第10章 ウィルバー5――統合的なポスト形而上学

はじめに

 『進化の構造』(ウィルバー4)はコスモス三部作の第一部です。第二部はいまだ出版されていませんが、その草稿の一部が、“Kosmic Karma and Creativity” (『コスモスのカルマと創造性』)という仮題のもと、A,B,C,D,Gという五つの抜粋としてネットに掲載されています。その抜粋A冒頭のイントロダクションの章には次のように書かれた部分があります。

(いわゆるウィルバー5の素材である)「統合的なポスト形而上学( Integral Post-metaphysics)」は、全象限全レベル(A Q AL)の枠組みに完全に当てはまるけれども、今日まで一般的に使用されてきたいかなる概念によっても説明され得ない。私は、この10年あるいは20年ほどの間、(以下における多少の引用が明らかにするように)ポスト形而上学(「ウィルバー5」)的な仕方で考え続けてきた。しかし私はそれらの思想を、既に出版された著作の術語へと変換しようとしていた――著述はそれ自身の生命を持っているのであり、それは著述の興味深い一面である。とにかく、以下の記述の中での、「統合的なポスト形而上学」の表題のもとにある諸側面は全て、全象限全レベルの枠組みに当てはまる。しかし、それらは、その枠組みを深みのある仕方で再解釈している。さらに言えるのは、私の以前の著述は少なくとも何らかの歴史的先例を持っていたのだが、統合的なポスト形而上学の多くは、いかなる種類の先例も持っていない。見るに値するほどの何らかのメリットを残すか否かにかかわらず、それはまったくオリジナルである。
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統合的なポスト形而上学――そしてその系である統合的な方法論的多元主義――は、多くの理由において重要であると私は信じている。第一の、最も重要なのは、(スピリチュアルであろうがそうでなかろうが)いかなるシステムも、モダンのカント哲学と、ポストモダンのハイデガー思想を取り扱えなければ、知的な体面を保って生き延びられる望みはないということだ(それらに同意しようがしまいが、それらは取り組まれなければならないのだ)――そしてそれは全てのスピリチュアリティはある意味でポスト形而上学的であることを意味する。第二に、光のスピードより遅く動く対象に適用されたアインシュタイン物理学がニュートン物理学に収斂していくように、統合的なポスト形而上学は、プレモダンのスピリチュアルなそして形而上学的なシステムの本質的な部分を、それらの今や正しくないことが示された存在論的なお荷物を伴わない形で生成することができる。このことは、私の考えでは、統合的なポスト形而上学の中心的な寄与である――それ自身は形而上学を含むわけではないが、プレモダンの文化的な限定された条件のもとで、全象限全レベルの枠組みでの一つの可能な形態として形而上学を生成することができるのだ。それは、全象限全レベルの枠組みが、プレモダンの変数を使いながら作動する時、古い形而上学へと収斂するということである(アインシュタイン物理学が、たとえそれ自身は非ニュートン的であっても、ニュートン物理学に収斂するように)。

ウィルバーが「統合的なポスト形而上学」をウィルバー5の範疇にあるものとして捉えていることは上記引用から明らかです。そして統合的なポスト形而上学が重要である最大の理由は、それがモダンの哲学(カント)とポストモダンの哲学(ハイデガー)に対応できるものであるからだと考えていることもはっきり読み取れますし、また、再解釈していると述べながらも、この統合的なポスト形而上学は結局ウィルバー4の全象限全レベルの枠組みに当てはまるのだともされています。
この連載でも詳しく扱いました四つの象限と進化・発達のレベルを重ね合わせたウィルバー4の全象限全レベルの枠組みは、プレモダンの階層構造、モダンの主観と客観の差異化、ポストモダンのコンテクスチュアリズム・構造主義などの一連の思潮を含んで超えるような世界観の枠組みですから、統合的なポスト形而上学がウィルバー4にあてはまるものであるならば、モダンの哲学とポストモダンの哲学に対応できているのは当然です。しかし、統合的なポスト形而上学では、その枠組みを「深みのある仕方で再解釈している」というのです。その再解釈の部分が、ウィルバー5の核心になるのだと私は思います。では、「深みのある再解釈」とはどういうことなのでしょうか。
先程、全象限全レベルの枠組みは、プレモダンの階層構造、モダンの主観と客観の差異化、ポストモダンのコンテクスチュアリズム・構造主義などの一連の思潮を含んで超えるような世界観の枠組みだと述べました。ウィルバー4では、このような枠組みのもと、様々なことが、これまでになくうまく配置できることが示されました。再三再四掲載してきました、発達段階が書き込まれたコスモスの四象限図がその代表例です(私はそれをコスモスの地図と捉えました)。ウィルバー4では、そのような地図の製作に焦点が置かれていたと思います。それに対して、ウィルバー5の統合的なポスト形而上学では、先程の引用文の中に、「プレモダンのスピリチュアルなそして形而上学的なシステムの本質的な部分を、それらの今や正しくないことが示された存在論的なお荷物を伴わない形で生成することができる」とありましたように、その枠組み(全象限全レベル)の存在論的特質などの方に焦点が合わされているようです。在るとはどういうことかを論じる存在論は、知るとはどういうことかを論じる認識論とともに、哲学の大きな柱です。そうしますと、ウィルバー5では、ウィルバー4で登場した全象限全レベルの枠組みの背後にある哲学に焦点を合わせていると捉えればいいのだと思うのです。
確かに、ウィルバー4の世界観を支える哲学は、『進化の構造』以降の一連の著作も参考にしますと、従来の哲学のテーマであった存在論と認識論とを、視点(Perspective) 、世界空間(Worldspace)などの概念のもとに統合し、そして、あらたに指示の理論を認識論の重要な要素として据えることになります。ここではそれを、プレモダン(近代以前)、モダン(近代)、ポストモダン(近代以後)を統合して現れた枠組みを支える哲学だということで、「ポストポストモダンの哲学」と言うことにします。また、プレモダンにおける形而上学は、ポストポストモダンの哲学に基づいて再解釈されますと、モダンにもポストモダンにも対応できる「統合的なポスト形而上学」(“ Integral Post Metaphysics”)として継承されることになるようです。形而上学は、本論で述べますようにプレモダンでの存在論とも言えるものですから、それが統合的ポスト形而上学へ継承される過程を見ることで、当然ながらプレモダン、モダン、ポストモダンを統合するポストポストモダンの哲学が顕わになってくるでしょう。ですから、ウィルバー5が先ほど述べたように焦点をポストポストモダンの哲学にあわせているのなら、その範疇に統合的なポスト形而上学が入ってくるのは自然なことになります。
前置きが長くなってしまいましたが、以上のようなことから、ウィルバー5では全象限全レベルの枠組みの背景にある哲学に焦点が置かれているとこのエッセイでは考えることにします。実は以前、『サングラハ第99号』(2008年6月)と『サングラハ第101号』(2008年9月)に、「ポストポストモダンの哲学と統合的なポスト形而上学」という、全象限全レベルの枠組みの背景にある哲学をテーマとしたエッセイを掲載していただきました。当時とは、少々私自身の考えが変わったところもありますが、大まかには一致しています。そこで今回は、ある程度までは掲載済みのエッセイをなぞる形で、ポストポストモダンの哲学と統合的なポスト形而上学についてまとめていくことにします。
叙述の手順は次のようにするつもりです。
Ⅰ プレモダンの世界観とその世界観を支える哲学、存在論と認識論をある程度はっきりさせます。形而上学は基本的にはプレモダンでの世界観に由来していますから、この部分は、形而上学の意味を考える部分でもあります。
Ⅱ モダンの本質を主観と客観との差異化ととらえます。またモダンでは、主観は個的にのみ捉えられていること、そして客観的世界においても、集合を個に還元して扱う(ばらばらな個というものの集まりという意味しか集合は持たないと考える)原子論的傾向があることを確認します。そうしてモダンなら、プレモダンの世界観をこのように改訂してしまうだろうということを考えてみます。現実のモダンの展開においては、客観的科学によるヘゲモニーのような、極端な現象が起こったわけですが、ここでは、モダンの本質に素直に従うとこうなるであろうということを論じたいと思います。
Ⅲ モダンでは、さきほど述べましたような、個を中心にして扱う傾向のため、主観的な面では独我論という考えが生じたり、客観的な面では原子論的な考えの限界が生じたりします。そしてこれらの問題は、主観的には間主観性を強調するポストモダンによって、客観的には生態学、システム理論・複雑系の科学などによって、個には還元できない、個と相補的な集合的側面を導入することで解消されるということを論じたいと思います。モダンでは、主観と客観の相補性のために、純粋な客観ということは意味をなさないことになったのですが、ポストモダンでは、個と集合の相補性のために、純粋な個ということも意味をなさなくなることを確認します。さらに、認識者には、主観・客観の二側面に、個・集合の二側面を重ね合わせた、四つの側面(象限)があることを指摘します。
Ⅳ 現代科学では、生物の発生(個体発生および系統発生)に関する発生生物学や進化論、物質レベルでの混沌からの秩序の生成に関する散逸構造論、宇宙の根源的な発生とその進化に関するビッグ・バン宇宙論とその発展形であるインフレーション宇宙論、これら諸理論によって客観的な世界での含んで超えるという創発による動的な歴史性が明らかにされたことを指摘します。また、ポストモダンの修正された構造主義によって、意識や文化という主観的な側面でも動的な発達や進化が明らかになったことを指摘します。そうして、この現代科学とポストモダンの修正された構造主義によって明らかになった、客観的側面・主観的側面の両者における含んで超えるという動的な創発性を、すでに論じられた主観と客観の相補性、個と集合の相補性に重ねることで、プレモダン、モダン、ポストモダンを含んで超えるような世界観が全象限全レベルという枠組みにおいて構成できることを示します(これがウィルバー4です)。さらに、このプレモダン、モダン、ポストモダンを統合した世界観を支える哲学、すなわち存在論と認識論に相当するものを、ポストポストモダンの哲学として提示します。
Ⅴ 最後に、ポストポストモダンの哲学(ウィルバー5)から導かれるいくつかの帰結(コスモスのアドレス、対視点相対主義、統合的なポスト形而上学と非二元性の関係)について述べます。存在論と認識論を視点で統合することができるようになります。

Ⅰ(形而上学)

プレモダンの世界観と形而上学

 『進化の構造』以降のほとんどの本で、ウィルバーはヒューストン・スミスの『忘れられた真理』(菅原浩訳、アルテ、2003)から引用したものを、プレモダンの世界観の典型として提示しています。それによりますと、実在(リアリティ)にもそれを認識する自己性にもレベルがあります。地上(Terrestrial)、中間(Intermediate)、天上(Celestial)、無限(Infinite)が実在の方のレベルであり、体(Body)、心(Mind)、魂(Soul)、スピリット(Spirit)がそれらを認識する自己性のレベルです(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、『インテグラル・スピリチュアリティ』、2008、p390~391を参考にしました)。
地上的なものである物質は、体で認識でき、物質ではない、理念などの抽象的な存在や、神と表現される無限的な存在は、心以上の自己性で認識できる。このように、世界は階層構造をなす諸存在とそれを映しだす認識する自己性で構成されることになっています。諸存在のレベルは時間を超越して与えられており(所与ということです)、また各レベルにおける諸存在は、どのように認識されるかから独立して存在しています。もし認識者がいれば、その自己性に、存在のそのままのあり様が、たとえ一部にすぎなくとも映し出されるということになります。人間は、少なくとも体と心を持っていますから、地上的な物質と、中間的な理念などを認識することができます。また、この人間の例でわかりますように、心を持つということは、それより下のレベルの体も持っていることになります。つまりプレモダンでの階層では、自己性においては、上位のものは下位のものを含んで超えていて、入れ子構造になっているわけです。
形而上学(メタフィジクス)は、もともとアリストテレスが自然学(フィジクス)の後(メタ)に著した学を意味したのですが、通常は、プレモダンの世界観で言うところの、実在においては地上を超えたレベル、自己性においては身体を超えたレベル、簡単に言えば物質を超えたレベルの存在論ということになります。プレモダンでの存在の階層をまとめますと、表1のようになります。

表1 プレモダンでの存在の階層論

プレモダンの哲学のまとめ

存在論 レベルごとに様々な実在がある。実在のレベルに対応した、自己性を持った認識者がいる。レベルは超時間的、すなわち所与である。また、自己性において、上位レベルは下位レベルを含んで超えている。

認識論 認識者の自己性に、様々な実在のそのままの姿が反映されることで認識は行われる。ただし、自己性のレベルによって、反映できる実在のレベルの上限がきまる。

Ⅱ(主客の差異化)

モダンにおける主観と客観の差異化

 モダンを象徴するフレーズは、多くの人が述べていますように、『方法序説』や『省察』での、デカルトの「我思うゆえに我あり」だと私も思います。よく、近代的自我の誕生と言われたりするわけですが、最も要となることは、主観と客観をはっきり差異化したことだと思います。
この連載ではたびたび引用していますが、ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』(奥雅博訳、大修館書店、1986、p.97)で、「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」、「ここでの事情は眼と視野の場合と全く同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである」と述べています。観察する主体、つまり主観的な存在は、そのまわりに広がっている観察される対象の客観的な世界には登場しないということです。もし客観的な存在のみを存在と言うのであれば、主体は存在しないことになります。
たしかに、観察するものが観察されるものの領域に登場しないのは当然でしょう。そうしますと、いろいろなものを知覚する主体としての私は客観的な世界にはいないはずです。ところが私の身体は観察できます。ですから客観的な世界の一部です。ということは、この私には客観的な部分がある一方で、心というか、意識というか、知覚したり、考えたりする主観的な部分が別にあることになります。このように、デカルトの心身二元論的な解釈は、ヴィトゲンシュタインの記述などを参考にしますと、主観と客観の差異化から自然に帰結してくる考えだということが、よくわかるのではないでしょうか。不思議なことですが、例えばこのエッセイを書いている著者(個人)には、異なる世界に属する主観的な側面と客観的な側面があるようなのです。ここで一つお断りをしておきますが、「私」という言葉は、主体となっている個人の主観的な側面にのみ使用するときもありますが、一般的には主観的と客観的の両面を持つ全体をさします。どちらの意味で使っているのかは、文脈から判断していただきたいと思います。
ここでウィルバー特有の用語法も確認しておきたいと思います。例えば認識者の肉体という客観的な部分は、外から観察できるわけですから、認識者の外面とも言うことにします。客観的と外面という言葉をほぼ同義に使うことにします。また、認識者の意識は、外から観察して見えるというものではありません。これは認識者の内面とも言うことにします。主観的と内面という言葉をほぼ同義に使うことにします。
結局モダンの世界観では、世界は、客観的な部分と主観的な部分の両者をもって知覚・観察・思考などを行う認識者と、認識の対象となり得る客観的な存在とから構成されることになります。そしてモダンでは、主観による観察によって知られた、客観的な対象に関するデータをもとに、科学が客観的な世界を次々と明らかにしていきました。天上の世界は、ガリレオの望遠鏡から現代のハッブル望遠鏡にいたるまでの観測機器を駆使して集められたデータと、それに裏付けされた宇宙論によって、詳細に探求されてきました。その過程では、プレモダンで言われていたような、聖霊などが棲む場所は見出されませんでした。また、脳生理学は、様々な心の働きには、脳における物理的な対応現象があるということを明らかにしました。プレモダンで、心より高次なものとされている魂やスピリットに関連した意識状態にあるといわれる人にも、特定の脳波が計測できるというように、物理的な対応現象があるようだということさえわかってきました。
つまりプレモダンにおいて物質を超えるとされたレベルにおける実在(中間、天上、無限)は、客観的な世界に存在しないということ、また主観的な自己性の全てのレベルには、実は物理的な対応物が存在するということがモダンでは明らかになったわけです。

個の独立性と初期モダンの原子論的傾向

 認識者の主観は、その認識者特有のものです。例えば私は、決して他者の主観的内面をもつことはできないと思います。このように、主観を持つ認識者は本来個的で、他の個からは完全に独立したものと見なされます。
また、この連載では何回か述べた事ですが、プレモダンの認識レベルでは、事物に関するあらゆる可能性を並列して眺められませんから、それらの可能な在り方を対比して批判的に考えていくこともできません。そのため、例えば「すべては土と火と水と空気からできている」というように、見えないところまで神話的な信念で固定的にとらえてすませたりします。ところが、モダンの理性を持つ人々は、神話的信念における見えない部分の無批判なドグマティックなつながりは一旦廃し、様々な事物が見た通りにばらばらにあるということから再度認識を開始し、それらにあらゆる可能性を見て取り、論理的な仮説をつくり、検証することによって相互のつながりを考えていきます。そのような見方を、岡野主幹にならって、「ばらばらを通じてつながりを見る」と表現してきたわけですが、その際、「ばらばらをなるべく細かくして再構成していくことで、客観的な世界をより根本的なところからより完璧に見ていくことができるようになる」と考える傾向が初期モダンでは強く見受けられます。そのため、細かく分ける方向での探究は、細胞、高分子、分子、原子、素粒子へと進み、それらの組み合わせで世界を説明するという、初期モダンでの原子論的な考えにつながっていきます。そしてこれらの個物は、認識者と同様に、その本質は同レベルの他の個から独立したものとして考えられています。
以上述べてきましたモダンによって、プレモダンの世界観はどのように改訂されることになるのでしょうか。

モダンによるプレモダンの改訂

 モダンは、主観と客観を差異化することにより、客観的に存在するものに関しては、当然客観的な証拠を要求することになります。そうしますと、プレモダンにおける中間、天上、無限というようなレベルにあると言われるものは、客観的な証拠に欠けるものとして、心、魂、スピリットという認識する自己性の主観的な領域に吸収され、極端な場合には単なる迷信として扱われたりします。
また、心、魂、スピリットは、プレモダンでは、体(物質)を超える認識する自己性のレベルとされたわけですが、モダンで心と脳の対応関係が次第に明らかになることによって、それら主観的なものには、その対応物として、客観的な物質的構造があるとされます。逆に物質的なレベルでの認識する自己性と考えられた体は、主観的な感覚と考えればよいことになります。
感覚には感覚器、心には脳、そしてもし魂、スピリットという主観的なものがあるなら、それらにも対応する客観的な物質的構造があるはずだとされるわけです。モダンでは、認識者の主観の全てのレベルにおいて、プレモダンでは一番下のレベルにおかれていた物質が、対応する外面を構成しているとされます。
また、様々な構造を持った物体は、細かく分けていくことで現れる、原子的存在の組み合わせとして扱われることになります。
以上をまとめますと、モダンによってプレモダンの世界観は、次のように改訂されると思います。
第一に、全ての自己性を持つ存在(認識者)には、内面に対応した物質的な外面があり、よりレベルの高い内面には、より複雑な構造をもつ外面が対応していることになります。例えば昆虫でも、感覚器はありますから、単純な内面はあります。原始的哺乳類では、感覚器に加えて、ある程度複雑な脳ももっていますから、初歩的な心は持っているように思われます。従ってモダンでは、内面を持つのは人間以上の存在とは限らないことになります。そして客観的世界からは、証拠の得られない中間、天上、無限は排除されます。
第二に、主観的なものとして、心のレベルまでは認めます。魂やスピリットについては、そのような意識状態を体験できる認識者も少なく、従ってそれらの意識状態に対応する客観的な側面のデータも十分ないため、それらの存在はいまだ積極的に肯定されているとは言い難い、留保の状態にあります。客観的世界から排除された中間、天上、無限のうち、理念などの中間に属するものは心の領域に、天上、無限は魂、スピリットの領域に吸収されます。形而上学の対象だった、物質を超えるレベルは全て主観的領域に入れられてしまうわけです。まとめますと、表2のようになります。モダンはこのように、プレモダンを批判的に統合できると思うのですが、この統合された世界観を支える哲学(存在論と認識論)へと話を進めていきたいと思います。

表2

客観的な存在の不可知論と還元主義

 モダンの存在論はどうなるでしょうか。主観的な存在と客観的な存在とから世界が出来ているとしますと、どちらのリアリティを強調するのかによって存在論のあり方も変わってきます。
デカルトですと、方法論的懐疑を推し進め、「我思うゆえに我あり」と、私という主観的な存在に確実性の第一の根拠(哲学の第一原理)を置くことになるわけですが、それを足がかりに、次には方法論的懐疑を逆に辿り、客観的な存在にも主観に対置するものとしてそのリアリティを認めます。
それに対して、安易に客観的存在のリアリティを認めない考えがあります。金は金色をしているわけですが、それは白色光が十分にあるという条件のもとで、人が見ると金色に見えるわけです。青い光だけが当たっている場合には金色に見えませんし、犬は白黒の世界を見ているということですから、白色光が当たっていても、犬には金色には見えません。そうしますと、金は金色をしているといっても、金色は金そのものの性質ではなく、認識者との間の媒介物(例えば光)や、認識者自体の認識能力(例えば色覚の有無や認識したことを表現するために使っている様々な概念の有無)によって左右される性質だということになります。結局、対象そのもの(物質的な対象の場合カントは有名な「物自体(Ding an sich)」という言葉で表現します)を私達は認識できないのだろうということになります。客観的な存在に関する不可知論です。そうしますと、決して認識することのできない、主観から分離した客観的な存在について語ることに意味があるのかという議論が生じてくるでしょう。そういう考えが極端に走ると、実際に私達が有意味に語れることは、すべて主観が生み出したものだという考え方にたどりついたりもします。こういう考えは、唯心論と言われたりします。
しかし逆に、客観的な存在のほうに重きを置く考えもあります。薄暗がりで見ると、タヌキをキツネと間違えたりします。疲れていると、眼の前にあるリンゴの数を間違えたりします。間違えたことは、薄暗がりにいた動物を明るい所に連れてきて再度見たり、眼の前のリンゴを指で触りながら数え直したりして正すことができます。複数の認識者がその在り方に関して意見を異にする客観的と想定された事象については、実験等で検証することで裁定を下すこともできたりします。先ほどの金についての話でも、認識者と認識されるものとの間にある媒介物や、認識者の能力を明確にすることによって、客観的な存在について、次第に明らかになっていくと考えることもできそうです。最近物理学者は、物の究極の単位を求めて、クォークやレプトンと言われるような素粒子や、振動するひものような存在について語っています。それと同時に、素粒子によって構成される宇宙の全体像についても、実は10もの次元があるのだというようなことを語っています。それらについて語る物理学者は、以前よりもより正しい、客観的な世界に関する知識を獲得していると考えているのではないでしょうか。
また、単に客観的なものだけでなく、主観的な存在と言われるものの客観的な対応物についても次々にあきらかになっていきますと(例えば心に対応する脳の構造機能)、主観的存在を客観的な存在に還元してしまう科学的物質主義のようなことが主張されることになります(例えば「心は脳によって創り出される」という考え)。
ウィルバー4の応用編で述べましたが、客観的な存在と、主観的な存在のどちらかに全ての根拠をすえてしまおうとする、これら唯心論や科学的物質主義のような還元主義的な説明の仕方は、結局は不毛なものでしかないでしょう。私の感覚や感情や思考は、どう私の脳細胞の発火現象などを調べても、露わにはならないと思えます。確かにそれは、私の内面で起こることに対応はしているのでしょうが、そのものとは到底思えません。主観が客観に還元できるとは思えません。また逆に、実験や観察によって明らかになってきた科学的成果は、客観的世界のあり様について、私の主観的な思い込みを次々に覆してきています。客観が主観に還元できるとも全く思えません。
もし、主観と客観という概念を使って、ある程度首尾一貫したモダンでの存在論を組み立てようと思うなら、還元主義はあきらめるべきだと思えます。概念論的に考えても、主観は客観があって初めて成り立つわけですし、客観は主観があって初めて成り立つはずだからです。どちらかだけということはあり得ません。世界は客観的存在だけでできているというとき、対峙する主観がないのにそれを客観的ということに意味があるでしょうか。逆に、世界は主観的な幻想だというとき、対峙する客観がないのに、主観的ということに意味があるでしょうか。主観、客観という概念を使うからには、両者を必ず対にして使わざるを得ないと思えます。カントのように、主観から独立した客観的な物自体を考えることは意味をなさないと思います。主観から独立して、何か本質的なものを設定しようとするならば、それは純粋な客観ではなく、客観と主観の差異化以前あるいは超越した何かということになると思います。

モダン(科学に関しては近代科学)の存在論と認識論のまとめ

存在論 客観的側面と主観的側面の両面を持つ個としての認識者と、客観的な対象がある。いずれにしろ客観は主観と相補的にしか設定できない。認識者は、その主観において他の認識者の主観から完全に独立している。客観的対象には様々なレベルの個(体)があるが、それらの組み合わさった集まりとして客観的世界はできていて、個は、他の同レベルの個から基本的に独立している(分子は他の分子から、人は他人から基本的に独立して存在している)。互いから分離した主観なり客観なりを考えることはできないが、主観と客観の差異化の基底としての(本質的な)何かを考えることはできる。

認識論 認識者は、認識者ごとにもつ主観のレベル、あるいは認識能力に応じて、対象を認識する。ただしそれは、主観と客観の差異化のもとでの対象の認識であるから、主観と客観の差異化の基底としての何かを考えるなら、知られるのはそれの現象のみである。また知は、客観的対象に関するものと、主観に関するものがある。どちらにも共通の認識過程として、経験ということがあげられる。客観的な現象の知は、五感による観察、あるいは五感の機能を拡張した機材による諸実験で得られた客観的データによって検証される。主観的な知は、現象学的な直接体験で得られた主観的なデータによって検証される。プレモダンでは憶測であったものの多くは、モダンでは検証によって排除される。

モダンの問題点

 ところでモダンには、大きな問題が三つあるように私には思えます。第一はこうです。自分に内面があり、それに対峙する客観的な世界があるということは言えたとしても、他の人についてはどうなのか。私は他者の内面を持つことはできません。それなのに他者にも私同様に内面があると言っていいのでしょうか。
第二はこうです。客観的な世界内において、集合を単純に細分化された部分の集まりとだけ見ていては、世界の有様を説明することができそうにありません。例えば物理学には熱力学という分野があります。気体を独立した分子や原子の集合と考え、統計学的に理論を構成する学問です。高校で物理を学んだ人でしたら、分子運動論を思い出していただければ、初歩的なイメージが得られると思います。そこに現れる熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)によれば、世界はひたすら無秩序な状態に進んでいくことになります。最終的には、無秩序が隅々にまで行き渡った熱的な終焉が訪れるというようなこともその理論から言われたりしました。このような原子論的な理論では、高度な秩序を持つ様々な存在に満ちた世界の有様を説明できません。
第三はこうです。認識者、例えば人間には、主観的側面と客観的側面があるわけですが、その両面をもつその本体はいったいどのようなものなのかという疑問が残ります。アナロジカルに考えてみたいと思います。人の姿には、右の側面と左の側面を考えることができます。両方とも同じ人について描写していて、対象性などの対応関係はありますが、異なった描像を与えています。そしてそれらに人の姿の全てを還元することはできません。他にも上下から見た姿、裏表から見た姿など、限りなく側面のペアを考えることができます。立体的な構造についての知識が、左側面と右側面やその他の側面の在り方を本当に理解するには必要です。同様に、主観的側面と客観的側面があると言うためには、最終的にはそれらの側面のもとになるもの(本体)について知られる必要があるのでしょうが、そのような知識ははたして持ち得るのでしょうか。
第一についてはポストモダンが、第二については生態学、複雑系の科学、システム理論がある結論を用意しています。そしてこれらはともに、個と集合との相補性の問題としてまとめることができます(Ⅲで扱います)。そして、第三については、ポストポストモダンの世界観の持つ非二元性と統合的なポスト形而上学がある程度の結論というか予想を用意しています(Ⅴで扱います)。

Ⅲ(四象限)

ポストモダンとシステム論/複雑系の科学による集合的背景の指摘

 認識する主観的存在として、私は、感覚、感情、思考などの内面での作用を持っています。ところで、特定の場面でどういう感覚、感情を持つか、あるいはどのように考えるかは、育ってきた文化的環境に大きく左右されます。例えば、日本の文化の中で育った人は、梅干しを見た時には、酸っぱい感覚が自然に湧いてくるでしょうし、おにぎりの味覚なども関連して思い出されることでしょう。また、富士山を見れば、日本の象徴に対する思いが湧いてくるでしょうし、人の家を訪問するときには、プレゼントを渡して「つまらないものですが」と言って謙遜して見せるのが当然だと思ったりするでしょう。また、日本語の中には、仏教用語がたくさん入っていますから、日本語を使って考えれば、無意識的にも、仏教的な世界観が心の中に広がってくることでしょう。例えば、仏教用語の縁という言葉が日本語の中には埋め込まれていますから、人々の間にある目に見えない運命的なつながりのようなものに関するセンスが、日本人の意識には気づかぬうちに備わってしまっているように思えます。
つまり、私達個々人の内面には、文化と呼ばれる集合としての内面から得られた要素がたくさんあると考えられますし、それらは普段、私達の個人的な意志を超えて作用しているようです。ポストモダンでは、このような、個人の内面の背後にある文化的な文脈というものを重視しますので、個人の内面は孤立したものではなく、他の人達と共有する集合的な側面がもともとあるということになります。この間主観的な側面をはっきりと自覚することで、ポストモダンでは、独我論的な世界観はなりたたなくなります。他者にも私と同じように内面があることは当然なのです。
実は客観的な面でも似たようなことが言えます。人は様々な客観的な行動様式を持っていますが、それらの様式は、住んでいる社会の在り方によって左右されるものが多くあります。腕時計をつけ、時間通りにスケジュールをこなしていく行動様式は、分刻みの時間を基準にして事を進行させる社会の在り方に影響されています。動物でも、個体の多くの特徴は、それが属する生態系という集合的システムの在り方に左右されるものがほとんどです。また、一見個々の在り方から全体がはっきり理解できると思える場合でも、実はその背後に全体から見ないとわからない深い意味が隠されている場合もあります。例えば、個々の動物たちが食ったり食われたりしている有様から自然全体を考えますと、そこは弱肉強食の世界のように見えますが、それらをつなげる生態系として見ますと、個々の動物の強弱と言うことには還元できない食物連鎖という全体性の中で様々な動物たちが生きていることが見えてきます。個を中心に局面的に見ていてはわからない、動物たちの生態学的役割が全体から初めて見えてくるわけです(このような考えについては、岡野主幹の著作『コスモロジーの心理学』、青土社、2011、p.160~162を参考にしました)。確かに個々の個体がなければ集合は成り立ちませんが、逆に集合全体からの働きかけも見なければ、個々の個体が全体の中で持つより深い意味は見えてこないわけです。
客観的な面でもう少し基礎的なレベルでの例を挙げてみたいと思います。物理学には熱力学という分野があります。気体を独立した分子や原子の集合と考え、統計学的に理論を構成する学問です。そこに現れる熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)によれば、世界はひたすら無秩序な状態に進んでいくことになります。最終的には、無秩序が隅々にまで行き渡った熱的な終焉が訪れるというようなこともその理論から言われたりしました。それに対して、複雑系の科学は、集合(システム)であるということが、個の集まりとしてだけ見ていては説明のできない、秩序の生成と維持をもたらす場合があることを明らかにしました。原子や分子にまで細分化しなくても、システム理論や生態学は、集団のメンバーである個体が、その集団を含む全体的環境とダイナミックな関係を持つことを明らかにしています。個と集合は分かち難い相補的関係を持っているのです。
ウィルバーの著書、『インテグラル・スピリチュアリティ』の330頁には、「システム理論は右下象限を、ポストモダンの構造主義は、左下象限を扱い、それぞれ集団の外面と内面を扱っている」と書かれています。モダンでは、認識者には主観的側面と客観的側面があり、その主観は完全に個として独立したものと考えられたわけですが、その主観の背後には、間主観的な文化(集合的内面)があると明らかにされ、個的主観は集合的主観(間主観)の在り方に相対的だとされるのです。また、客観的な科学における生態学やシステム理論や複雑系の科学も、個の集まりには還元できない集合全体を扱うもので、逆に集合から個への働きかけを明らかにしたのです。そうしますと、ポストモダンと生態学などの全体を扱う科学とによって、内面においても外面においても、集合から個への働きかけというものが強調されることになります。確かに個が集まって集合はできるわけですが、逆に個というのは、集合からの働きかけによって始めて存在し、そのあり方が決まってくるという面もあるのです。

認識者の四つの側面

 モダンによって、認識者には主観的な側面と客観的な側面があるとされたわけですが、個として考えられたこの主客を持った認識者に、実はその背景となる集合的な側面があることになりました。そうしますと、認識者には結局、主観・客観と集団・個という二種類の対概念を重ね合わせて、主観的・個的(内面的・個的)、主観的・集合的(内面的・集合的)、客観的・個的(外面的・個的)、客観的・集合的(外面的・集合的)という四つの側面があることになります。ウィルバーはこの四つの側面を二つの直交座標によってつくられる四つの象限に当てはめて図示することが多く、そのため、各側面を象限(quadrant)と呼んでいます(図1)。

図1

人間を例にとって、この四つの側面(象限)を見てみます。内面的・個的側面(左上)は個々人の意識です。他者にはどうしても同じように体験することのできない、その人の持つ感覚や感情や思考や意志などがここに含まれます。内面的・集合的側面(左下)はその人が属している集団の文化です。例えば、その人が所属する文化圏の人達独特の感性や嗜好や価値観があれば、それらが、その文化圏を特徴づける、集合的内面ということになります。外面的・個的側面(右上)は個人の行動特性や肉体の構造、特に脳の構造・機能のことです。外面的・集合的側面(右下)は、物理的環境や、その人が属している社会の経済、政治等のシステムのことです。
私は個人ですが、肉体的にも精神的にも、社会において、集団からの働きかけがなければ、ほとんど成長することはなかったでしょうし、そもそも生まれなかったでしょう。個がなければ集合はないが、集合がなければ個もないという、主観と客観との関係にも似た相補的な関係が明るみにでてくるわけです。主観においても客観においても、純粋に個的な存在を設定し、集合をそれらの集まりに還元していく原子論的な還元主義は成立しないことがあきらかになったのです。

四つの象限を通して世界を見る

 認識者には、自らに分かち難い相補的な四つの象限がありますから、任意の事象を認識する時には、自らの四つの象限を通じて行うことになります。例えば、眼の前にコーヒーカップがあるとします。それを私は、自分の左上象限を通じて、「好ましい形だな」と主観的に見ることもできるし、あるいは左下象限の日本文化を背景に、「その渋い色合いは和風ですね」と、友人と語り合うかもしれませんし、あるいは右上象限の個的外面を通じて、その硬さや成分について客観的に調べ始めるかもしれませんし、あるいは右下象限の日本の社会を背景に、その値段の適正さについて考え始めるかもしれません。そのとき、私は視点を、各象限に置いています。つまり、認識者の4つの象限は、その認識者が何かを見るときに視線が通過しなければならない直接的な側面なのです。

ポストモダン(構造主義)とシステム理論/複雑系の科学による存在論と認識論のまとめ

存在論 周囲の集合的世界から分離し、完全に独立した個はない。どの個も、集合という背景のもとにある世界内存在である。認識者という個には、相補的な主観的と客観的との側面がもともとあるとされたのだが、そのような個に、やや矛盾した属性になってしまうが、背景となっている集合的側面があるとされる。従って、主観的と客観的のそれぞれに個と集合の側面があるので、重なり合って、互いに相補的な四つの側面(象限)があることになる。

認識論 モダンでの認識論に付け加えるべきは、認識者が、自らの四つの象限を通じて、様々な事象を眺めることである。

Ⅳ(全象限全レベル)

現代科学における発達・進化の理論

 現代科学では、生物の発生(個体発生および系統発生)に関する発生生物学やダーウィンに始まる進化論、物質レベルでの混沌からの秩序の生成に関する散逸構造論、宇宙の根源的な発生とその進化に関するビッグ・バン宇宙論及びその発展形であるインフレーション宇宙論、これら諸理論によって、個体に関してもそれらの集合に関しても、客観的な世界での含んで超えるという創発による動的な歴史性が明らかにされてきました。そこには、個体発生は系統発生を繰り返すというヘッケルに由来する考えも重要な要素として組み込まれています。
例えば私たちの身体の発達を考えてみます。私たちは、母親の卵子と父親の精子が結合することで、人としての発達をスタートさせるわけですが、精子と卵子が結合した後には、母親のおなかの中で、魚類的な段階、そして爬虫類的な段階、原始哺乳類的な段階を通じて発達し、複合新皮質を持った人として体外に出てきたわけです。しかし考えてみますと、精子や卵子の細胞があるためには、その材料となる分子があったわけです。また、分子があるためには、その材料となる原子があったわけです。そして原子があるためには、電子、クォークなどの素粒子があったわけです。
そうしますと、私たちの体は、素粒子のレベルから始まって、原子のレベル、分子のレベル、高分子のレベル、細胞のレベル、原始的有機体のレベル、そして魚類的なレベル、爬虫類的な脳幹を持つレベル、原始哺乳類的な辺縁系を持つレベルなどを通じて発達し、最終的に複合新皮質という高度な脳の部位を含むレベルにまで到達していることになります。そして上位のレベルは、下位のレベルを含んで超えて現れています。例えば、分子は原子が組み合わさってできているわけですから、原子を含んでいますし、また原子が組み合わさることで、ばらばらな原子では現われ得なかった様々な特徴を実現しているということで、原子を超えています。
ところで、素粒子から人の複合新皮質へという発達段階は、ひとりの人間の個体発生の段階とみることもできますが、元来は、宇宙の歴史における、人が現れるまでの個的存在の系統発生の段階です。
宇宙はビッグ・バンで始まり、まず素粒子が現れ、原子が素粒子を含んで超えるようにして現れ、分子が原子を含んで超えるようにして現れ、細胞が分子を含んで超えるようにして現れ、そして宇宙が始まっておよそ138億年が経過して、人が、それ以前の一連のレベルを含んで超えるようにして現れた。これが宇宙における個的存在の系統発生です。
こうしてみますと、おおまかにはウィルバーが主張しているように、一人の人の発達(個体発生)は、人という種が現れるまでの進化の段階(系統発生)を繰り返しているようです。私は、宇宙の系統的な進化の段階をたどって生まれてきたのです。
ただし、生まれてくるまでのこの個体発生の過程は、おもに身体の構造の発達ということですから、それらの構造が実際に機能していく過程の多くは、生まれてから後にみられることになります。幼児には、魚類的、爬虫類的、原始哺乳類的な行動が目立つようですが、やがて高度な哺乳類であるチンパンジー的な行動を、そして人でないとできない行動をするようになります。
以上、個の発達進化について述べてきましたが、それに対応させて集合の発達も明らかになっています。原子の誕生とともに銀河系が、分子の誕生とともに大気を持つ惑星としての地球が、そして海が、大陸が、細胞そしてより複雑な生物の登場によって様々なレベルの生態系が登場します。そして人の誕生とともに、古代国家や帝国、そしてより高度な社会が登場してきます。
以上の個と集合の発達進化の様子をまとめますと、客観的な宇宙のその歴史も含めた全体像は、おおよそ表3のようになります。

表3

そうしますと、客観的な外面は、聖書にあるように、全てのレベルが、宇宙が始まるとほぼ同時に登場し、そのまま存在し続けたのではなく、創発的に、より高次なものが新たに登場してきたということになります。では内面ではどのようなことが言えるのでしょうか。

ポストモダンにおける発達・進化の理論

 『インテグラル・スピリチュアリティ』の406頁には、次のように書かれています。

スノウの言う二つの文化が、一つは左側(象限)の人文学であり、もう一つは右側(象限)の自然科学である、ということを見てきた。
この二つの文化は、互いに争っているばかりか、それぞれ自分の中でも内戦をおこしている。右側の世界では、それは原子論対システム論という形で、常に戦われてきたが、左側の世界では、さらに激烈で決定的な、近代(モダン)の主観論者(ゾーン1,3)対ポストモダンの間主観論者(ゾーン2,4)の戦いが行われた。

ウィルバーのコスモロジーに慣れている方には明らかでしょうが、「右側」は客観的外面のことです。「左側」は主観的内面のことです。ここで注目していただきたいのは、「近代(モダン)の主観論者(ゾーン1,3)対ポストモダンの間主観論者(ゾーン2,4)」と書かれているところです。ゾーンということは次章で説明したいと思っていますが、とりあえず次のことを今は指摘しておきます。ゾーン1と2は個の内面にあります。ゾーン3と4は集合の内面にあります。そうしますと、主観論者(ゾーン1,3)にも間主観論者(ゾーン2,4)」にも、個と集合の両面が含まれていることになります。右側の世界での原子論は個を中心に、システム論は集合を中心に世界を見ていこうとする姿勢ですが、左側の世界での主観論者と間主観論者は、その名からしますと、同様に個を中心とする見方と集合を中心とする見方のように思えますが、ここではそうではないようです。Ⅲでの「ポストモダンとシステム論/複雑系の科学による集合的背景の指摘」とタイトルをつけた節では、ポストモダンは個的内面に対する文化的文脈を明らかにするものであり、その限りでは、右側でのシステム論にうまく対応していました。そして『インテグラル・スピリチュアリティ』の330頁には、「システム理論は右下象限を、ポストモダンの構造主義は、左下象限を扱い、それぞれ集団の外面と内面を扱っている」と書かれていますから、確かにそのような意味でウィルバーはポストモダンという言葉を使っていたはずです。
しかし先程のゾーンという言葉が登場した406頁からの引用部分では、ポストモダンの間主観論は、個的側面と集合的側面の両者に対して使用されています。あきらかに、330頁からの引用と異なる意味でポストモダンという言葉は使用されていることになります。ここで使われているポストモダンは、間主観論というよりは、主観的領域にも間主観的領域にも当てはまる構造主義的な文脈ということを実は意味しているのでしょう(従って、引用文の主観論者の考えも、主観的領域にも関主観的領域にも当てはまるものだということになりますが、ここではポストモダンに関することのみにとどめておきます)。
ではここでの構造主義について、『インテグラル・スピリチュアリティ』85頁から参考となりそうな部分を引用してみます。

歴史的に言えば、構造主義学派は、(狭い意味で)左下象限におけるゾーン4のアプローチから始まる(たとえばレヴィ・ストロースやヤコブソンなど)。つまり、彼らは「私達」という対象に対して、ちょうどキャロル・ギリガンが「私」という対象に行ったような調査を試みたのである。すなわち、集団の内面の現実(リアリティ)に対して、客観的・科学的な三人称的アプローチを試みたのである(それはギリガンやグレイブスやキーガンがおこなう何十年も前のことであった)。すぐに明らかになったのは、構造主義のこのアプローチは、修正されるべきものであるということであった。それは非-歴史的[歴史を考慮しないもの]で、集産主義的なものであった。修正の最初のステップは、歴史的な、または発達論的な構造主義(または系統学)にすることであり、二番目は、個人(左上象限)に対してのアプローチと、文化(左下象限)を扱うアプローチとを分けることであった。
発達論的な構造主義が個人(ゾーン2)に適用された最初の成功例は、1900年に、アメリカの最も偉大なる心理学者で先駆的な天才であるジェイムス・マーク・ボールドウィンによってもたらされたものである。その学生の中にはジャン・ピアジェもいた。ボールドウィンは、さらに著名な発達論的な構造学者、たとえばヤン・ゲブサーやシュリ・オーロビンドのような人々よりも、さらに先行していた。……ゲブサーのモデルは、大きな影響力を持った。多分、非常にシンプルに構想され、単線論理的であったためかもしれない。このモデルは、現在では、よく知られている。彼の主要な段階は、古代(アルカイック)、呪術(マジック)、神話(ミシック)、合理的(ラショナル)、統合的(インテグラル)・非-視点的(ア・パーステクティブ)である。

この引用文の中に登場する、修正された後の、個人の意識と文化の両者を発達論的に探究するものが、ウィルバーが新たに言及しようとした構造主義だと思います。個的内面に対する集合的内面(間主観的側面、文化)という文脈を指摘するポストモダンの間主観主義は、修正される前の、例えばレヴィ・ストロースの文化人類学のようなものだったわけです。修正された後のものには、個人に関してはピアジェの発生的認識論があります。また、集合的な文化に関してはゲブサーのものがあります。探究の過程では集合的サンプルからのデータを使いますので、その意味では個人に関するピアジェの発生的認識論も間主観的ではありますが、その内容は、個に対する間主観的な集合的文脈を扱うものではなく、その発達論的な歴史的背景を扱う構造主義です。また、間主観的な文化自体に関しても、発達的な歴史的背景を扱う構造主義は当てはめることができるのです。そうしますと、外面においてこの修正されたポストモダンの構造主義に対比させるべきものは、個に対する集合的背景を顕わにするシステム理論ではなく、個そして集合の発達論的な歴史的背景を扱う進化論や発生的生物学や散逸構造理論になると考えられます。
ところで、ピアジェによる発生的認識論を拡張したウィルバーによる個の意識の発達段階、そしてゲブザーの発達理論を拡張したウィルバーによる文化(集合的内面)の発達段階については、ウィルバー3とウィルバー4のところで述べました。それをまとめてみますと表4のようになります。

表4

個的な欄は人の個体発生とも、系統発生とも見ることができます。系統発生として見ますと、おそらくシンボル以下のレベルはチンパンジーなどの類人猿と共有しています。情動以下のレベルは一般的哺乳類と、衝動以下のレベルは爬虫類と共有しています。このように、内面でも、外面と同様に、含んで超える進化の仕方をしてきたわけです。モダンでは、すでに主観的内面にレベルがあり、動物にも、その外面的構造の複雑さに応じたレベルの主観が割り当てられたわけですが、表4では、表3にある外面における発達の様子に対応させて、原子にも、そのレベルでの主観的内面があるとして、把握と書いてあります。原子同士で互いを感知できるような何らかの主観性があると考えるわけです。進化という連続性を徹底させるのであれば、原子あるいは素粒子にも、プリミティブな内面的側面を設定するのは、それほど奇異なことではないと思います。
集合的側面でも個的内面と同様です。表では人間の文化の場合が書かれていますが、哺乳類一般は、人間ですとチュポーンと呼ばれるような集合的内面のレベルまでを、爬虫類一般ですと、人間ではウロボロスと呼ばれるような集合的内面のレベルまでを持っていることになります。人間の文化は、現時点では合理的までのレベルを含んで超えるように持っているわけですが、可能な在り方としてそれより高次のケンタウロス的、神秘主義的という項も入れてあります。
この表で、大まかには、(個的と集合的の両方の)主観的な世界の、その歴史も含めた全体像が表現されることになります。

外面と内面、個と集合の両者における含んで超えるという創発の理論を統合し、ポストポストモダンの全象限全レベルという世界観へ

 前々節と前節とに表示しました二つの表を並べてみます。両表は、個において、主観的側面と客観的側面がレベルごとに対応するように作成されていますから、並べることでそのまま、この世界にある個の進化・発達段階と、その個の集合の進化・発達段階が見てとれる事になります。それが表5です。

表5

この表を下からみていきたいと思います。宇宙が始まってしばらくしたころ、素粒子から原子が創発します。この原子には内面があり、それは把握と呼ばれる、極めて原始的な感覚のようなものです。それには、他の原子を識別できる機能があるものと考えられます。原子にはその集合的背景があります。内面的には物質的な文化、外面的には銀河系です。このように考えますと、現代科学とポストモダンの修正された構造主義による世界観においては、原子という概念は、低レベルでの単なる客観的個というよりは、主観的側面も、集合的背景という側面もふくんだものとなってしまいます。
時間が進みますと、表にはありませんが、原子の次には、分子という個が生じます。この分子は、原子という個を含んで超えています。四つの象限において、原子のレベルを含んでこえて、新たな分子レベルでの四つの象限も持つわけです。その後高分子、細胞と進みます。細胞は、それまでに現れた原子、分子の四象限を含んで超えて、プレローマ的な集合的内面、惑星という集合的外面を創発的に持ち始めます。そのとき、宇宙は四つの象限をもった、細胞と分子と原子と素粒子とからできていたわけです。
今は、仮に形式的操作能力を持った人間までが登場した状況であるとしますと、先程の表の粗い段階に従いますと、四つの象限をもった、原子、細胞、原核生物、真核生物、神経系を持った生物、神経管を持った生物、爬虫類的脳幹を持った生物、辺縁系を持った生物、新皮質を持った生物、複合新皮質を持った人間、という諸段階の存在の総体として、全宇宙はあることになります。
以後、内面と外面を持った宇宙をコスモスと言うことにしますと、コスモスの全体は今述べました四つの側面を持った存在の総体です。そこでウィルバーは、この表にある四つの項目(主観的・個的、主観的・集合的、客観的・個的、客観的・集合的)を四つの象限に当てはめ、みごとなコスモスの地図を作り上げました。それが図2です(ウィルバー4です)。

図2(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、『進化の構造1』春秋社、1998、p.305にある図の右上象限を、原著の二版である Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部変えたもの。和訳では原著でmoleculeとあるところが細胞と訳され、neuronal organismsとあるところが組織と訳されていたので、それらを「分子」、そして「神経系を持つ有機体」と変えた)

先ほど辿ってきました外面的個的側面での発達は、図1の右上象限に書かれています。それは、宇宙における個的存在の進化の段階(系統発生)を表してもいるし、最も高度な種である人類の一個体の発達の段階を表してもいるわけです。そしてもちろん、現時点でのすべての個的存在がいずれかにあてはまる発達のレベルを表してもいます。例えば辺縁系は、宇宙に最初に登場した原始的哺乳類を表してもいますし(系統発生)、人やそのほかの哺乳類が発生途上に通過する辺縁系が形成される段階を表してもいますし(個体発生)、また、現時点で存在している最も原始的な哺乳類を表してもいるわけです。
そしてこの図のほかの象限には、対応した各象限での発達の様子が書かれています。原点は四つの象限全てを包含するコスモスの始まり(物理的にはビッグ・バンと呼ばれる現象)を示しています。
このコスモスの地図についても、さらなる詳細は、ウィルバー4を扱った各章を見ていただきたいと思いますが、現代世界においては、少なくとも先進国と呼ばれる国の社会の主導権を握る成人は、左上象限において理性(形式的操作)のレベル、段階12に通常達しているとしますと、左下象限の段階12をみますと、合理的な文化が実現し、右下象限の段階12を見ますと、産業的な社会の国民国家が存在することになります。大雑把に言えばこの段階12が、私たち日本の成人の状況を示していることになると思います。私達は、段階12までの全てのレベルを含んで超えてきた存在です。ですから、理性的な人間としては、国民国家のメンバーであり、動物としては、生態系のメンバーであり、原子としては、銀河系のメンバーであり、全てのレベルで、集合のメンバーとなっているわけです。
このようにウィルバーの世界観とは、宇宙(コスモス)が四象限で表される四つの側面を持ちながら、ビッグ・バン以来、前段階を含んで超えるという進化を重ね、その個的側面においては、外面的には複合新皮質、内面的には自己意識をもった人間にまで到達していて、まだ先へ続いていくとするものです。この四象限と進化の組み合わさった世界観で物事を見ていく姿勢が全象限全レベルです。この説によって、宇宙の進化の精華としての人間のありかたがはっきりします。この世界観は、プレモダン、モダン、ポストモダンを統合した、ポストポストモダンの世界観と言えます。

ポストポストモダンの世界観における哲学(存在論と認識論)

存在論 全ての事物は、四つの象限と進化・発達のレベルで差異化された結果現れる、コスモスという本質(基底)の現象である。コスモスは、四つの象限を持つ存在の総体と見ることができる。レベルは創発してきたのであるから、所与ではない。

認識論 認識とは、認識者が自らの四つの象限を通じて、コスモスの四つの象限に現れる存在(現象)を知ることである。認識者には、認識の基本的能力に関してレベルがあり、そのレベルによって認識可能な世界空間が決まる。上位のレベルの世界空間は下位のレベルでの認識能力では十分に理解できない。例えば、動物には、海や川といった、言語能力で開かれる世界空間にある存在を知ることはできない。あるいは、形式的操作のレベルの世界空間にある基本的人権という概念は、具体的操作の認識能力では十分に理解できない。
主観と客観、個と集合との両者の組み合わせを、四つの側面として認めるからには、それらの各面に関して知るということを確定する方法が必要になる。客観的な側面では、一般には、外的経験による客観的な証拠によって知は確定することになる。モダンの客観的科学はその手続きを踏んできたわけだが、では、主観的な側面での知も確定するにはどうすればよいのか。外的経験による客観的証拠を得る過程において、客観的な要素を除いた部分を考えればよい。それは、指示「もしこれを知りたければこれをせよ」、直接的経験「直接体験ないしデータの感受」である。さらにポストポストモダンでは、認識者の主観に関して間主観的な文脈と認識能力の発達論的レベルを前提とするので、経験から得られたデータに関して、共同体的確認「指示と直接的経験を満たした人々との結果――データ、証拠――の照合」という、科学のみならず、数学、内観、瞑想、観想等にも通用する要素を要求することになる。

最後に、ポストポストモダンの哲学(ウィルバー5)から導かれるいくつかの帰結(コスモスのアドレス、対視点相対主義、非二元性と統合的なポスト形而上学との関係)について述べます。そこでは、存在論と認識論は視点のもとで統合されてしまいます。

コスモスのアドレスと対視点相対主義

 ポストポストモダンでは、相補的な四つの象限において、レベルが時間とともに創発的に進化してきたことになります。それは、レベルで指定される認識者の認識能力と、存在が現れる世界空間が、創発的に進化してきたということです。
結局、ポストポストモダンの存在論や認識論では、存在、認識の前提として、四つの象限と創発的な進化のレベルということがあるわけです。認識者が存在(コスモスの現象)を知るとき、その存在はレベルで指定される世界空間の四つの象限のいずれかにあらわれ、認識者はその存在を、自らのレベルで指定される認識能力で、自らの四つの象限のいずれかを通じて見ることになります。
従って、ポストポストモダンの世界観では、存在と認識について語る際には、象限とレベルを存在者と認識者の両者に指定する必要があります。この指定を、ウィルバーはコスモスのアドレスと呼んでいます(指定は細かければ細かいほどより正確になります。例えば、象限とレベルの他に、ライン、タイプ、ステート(状態)などが付け加えられた例が『インテグラル・スピリチュアリティ』441頁に挙げられています)。ここでは、『インテグラル・スピリチュアリティ』にある簡単な例を、さらに簡略化して取り上げてみます。

「ジョンは、地球生態系を調査している。」

この言明ではジョンが主体です。彼のレベルを認識能力で表すと、形式的操作のレベルにあるとします。そして、彼は科学的に一人で調査しようとしているとしますと、客観的個的象限を通して見ていることになります。また、地球生態系はヴィジョン・ロジックと呼ばれる、形式的操作より上のレベルの世界空間に存在しますし、集合的システムですから、客観的集合的象限に存在しています。そうしますと、最も簡略化したコスモスのアドレスをつけて先ほどの言明を書き直しますと、

「ジョン(レベルは形式的操作、見る象限は客観的個的)は、地球生態系(レベルはヴィジョン・ロジック、存在する象限は客観的集合的)を調査している」

となります。この場合、認識者のジョンのレベル(形式的操作)は、認識される存在(地球生態系)のレベル(ヴィジョン・ロジック)より下ですから、結局は地球生態系をふさわしいレベルでは理解できないことになります。
このように、ポストポストモダンでは、存在や認識は、象限とレベルとの両者に相対的なものでしかないということになります。デカルトは、「我思うゆえに我あり」と、思考する「私」を哲学の根源に置いたわけですが、ポストポストモダンでは、在るとか知るとかの前提になる、象限とレベルを哲学の根源に置くわけです。ここで、存在や認識の様態を決める象限とレベルをまとめて改めて視点と言うことにすれば、ポストポストモダンでは、存在や認識の全ての前提に視点があるわけです。視点のもとで存在や認識を考えることが初めてできるのです。こういう言い方は野暮ったいかもしれませんが、ポストポストモダンの哲学は対視点相対主義とでも表現できるかもしれません。

全象限全レベルの枠組みの非二元性と統合的なポスト形而上学

 ところで、視点を設定するということは、境界づけをすることに他なりません。例えば客観的な視点を取るという時には、主観と客観という境界づけをしているわけです。ところで、これはウィルバー1を扱って以来何回も繰り返してきたことですが、境界づけをするということは、境界づけの前提となる基底があって初めて成立することです。モダンでは、境界づけられた結果をバラバラに扱う傾向が強いわけですが、ポストモダンを経たポストポストモダンでは、相補的に四つの象限を考えますので、境界づけの背後にある基底を暗黙のうちにも設定していることになります。そのような基底は、時に空と呼ばれたり無と呼ばれたり、あるいは境界づけによる二元性以前の背景であることから非二元と呼ばれたりもしています。
このように、全象限全レベルというポストポストモダンの枠組みは、その背景に非二元性を持っています。これもたびたび言及してきましたアナロジカルな例ですが、物体には右側面と左側面があります。両者は相補的な関係にありますが、ただこれらをよく知ったからといって、その両側面をもった立体を知ったことにはなりません。実際にその立体の姿を見るということが決定的な意味を持つと思われます。だとしますと、コスモス(宇宙)には四つの側面があるというとき、本来はそれですませるのではなく、その四つの側面に境界づけられたその本体を知る必要があるはずです。
実はこの必要性に対して、統合的なポスト形而上学がある意味で決定的な示唆を与えてくれます。形而上学における魂やスピリットと呼ばれる、心を超えた段階は、ポストポストモダンの世界でも、個的内面において可能性は否定されず生き残っています。また、中間以上の実在も、間主観的な内面という形で生き残ることができます。例えば、理念などの中間的実在であれば、ポパーがいう知識の世界、世界3のようにとらえることができそうですし、天上や無限的実在も、魂やスピリットレベルでの間主観的存在(神秘主義的文化)として捉えられるかもしれません。モダンでは主観の領域に吸収されてしまう形而上学的実在が、間主観の領域での現象として復活できるかもしれないのです。これら、ポストポストモダンで生き残る可能性がある形而上学的存在に関する学が統合的なポスト形而上学ということになるのでしょう。
ポストポストモダンの全象限全レベル自体は、ヴィジョン・ロジックという意識段階(個的内面)で持ち得る世界観です。そこでは非二元性は理論的に設定されるのみで、体験的に把握できるわけではありません。そのヴィジョン・ロジックの段階を超えて、四つの側面を持つその本体を体験的に知ることができる意識の発達段階の可能性を、統合的なポスト形而上学が魂やスピリットとして示しているとすることができるわけです。
もしそうだとしますと、そのような意識レベルに到達できなければ、ポストポストモダンの世界観、哲学は、結局は表面的な世界観とその哲学に留まることになるでしょう。差異化を超越した、本質としてのコスモスを実感的に知りたいと思うなら、統合的なポスト形而上学が示す可能性を試してみる必要があります。具体的には、ポストポストモダンの世界観をしっかりと理解したうえで、ウィルバーが唱えているような、全象限全レベルにわたる、統合的な生活実践を実行する必要があるのでしょう(Ken Wilber, Integral Practice, Integral books, 2008 を参照してください)。そこでは、禅などに代表されるような瞑想的な実践も取り入れられることになります。そしてもし、より高次なレベルに達することができれば、ポストポストモダンの世界観自体が、含んで超えられることになるはずなのです。
以上、ウィルバー5について述べてきましたが、プレモダンのレベル、モダンの主観と客観の差異化、ポストモダンでの個に対する集合的背景の発見、ポストポストモダンによるそれらの発達論的統合とコスモスの非二元性(境界の前提となる基底)の指摘。以上が常にこのエッセイの背後に方向性としてあったわけです。そしてウィルバー5では、私は、コスモスという非二元的本質の一現象にすぎないことになります。言い方を少し変えますと、私という現象の本質は、非二元的コスモスだということです。

参考文献
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スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理 宇宙を貫く複雑系の法則』(米沢冨美子訳)日本経済新聞社 2000
ケン・ウィルバー『意識のスペクトル1,2』(吉福伸逸・菅靖彦訳) 1993,1997
ケン・ウィルバー『進化の構造1,2』(松永太郎訳) 1998
ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』(松永太郎訳) 2008
http://wilber.shambhala.comに掲載されている”Kosmic Karma and Creativity”からの抜粋Excerpt A,B,C,D,G
岡野守也『コスモロジーの心理学』青土社 2011