第12章 宇宙論とウィルバー・コスモロジー
はじめに
宇宙物理学に関して多くの啓蒙書が出版されてきましたが、代表的なものの一つに、Stephen W. Hawking, A Brief History of Time, Bantam Book, 1988(スティーヴン・W・ホーキング、林一訳、『ホーキング宇宙を語る』、早川書房、1989)があります。そこには、ビッグ・バン宇宙論を初めとする、宇宙の始まりやその後の形成に関する物理学上の理論が紹介されていました。ウィルバーには、A Brief History of Everything, Shambhala, 1996 (ケン・ウィルバー、大野純一訳、『万物の歴史』、春秋社、1996)という似たタイトルの著作がありますが、そのタイトルづけには、いくら物理学が発達しても、万物を扱う理論には決してならないのだという主張が込められているようです。
ここまでの各章をお読みいただいた方には、ウィルバーが本気で万物を説明しようと試みたことをご承知いただけていると思います。この最終章では、そのような遠大なるウィルバーの理論を私なりに多少自由に解釈し直し、宇宙の始まりや別の宇宙の存在に関して物理学で述べられていることとの対応関係などについて、簡潔に述べてみたいと思います。
現象と非二元的本質
ウィルバー1を扱いました時に、私は『意識のスペクトル1』(ケン・ウィルバー、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、p.191)から次のような図を引用しました。
紙面上に黒い円が描かれています。この円は、周りの白い部分との境界がなければ現れません。円が現れるためには、そうである部分とそうでない部分を区分する境界と、両者を含む下地が必要です。この時、区分されてはいるものの、共通する下地があることで、円は円の周囲と一体でもあります。この区分されてはいても周囲と一体であるという単純な考えは、全ての形あるものに関してあてはまると思えます。例えば私の体は、皮膚という境界づけによって周囲の様々な物体から区別されることで現れますが、同時に私の体とその外側の両者が含まれる空間があることで、体は周囲とつながって一体であるとも言えます。
このように、実は一体と言える次元がありながら境界づけで区別できていることを、差異化と言います。そして図形や物体だけでなく、イメージや概念や思考などにしても、それらが現れる限りは、差異化によっていると思えます。例えば、人間という概念であれば、動物という概念や植物という概念と区別されますが、それら様々な概念を含む言語体系という背景となる文脈においては一体であると思われます。また、概念ということ自体、心に表れる他のものであるイメージや思考から区別されますが、それらを含む心理的領域において一体であると言えそうですし、心理的領域自体は物理的空間と区別され、かつそれら両者を含むこの世界において一体であると思えます。荒っぽく言いますと、具象的であろうが抽象的であろうが、どのような現象も、そうでないものと境界づけで区別されてはいるものの、しかし結局は全てと一体であると言える共通の背景を伴っていると思えます。
このように、全てこの世に現れるものは、そうでないものと共有する背景に依存して現れるとしますと、背景はその根底性の故に現れの本質と言ってよいでしょう。ところで境界はその両側を生じますので、境界づけを二元論ともいいます。そして現象の本質は、境界づけの前提であって、それ自体は境界づけられていませんから、非二元とも呼ばれます。時には基底、時には空、時には無、そして時にはコスモスと呼ばれることもあります。
日常生活においては、何らかの形なり意味なりを持つ境界づけられた現象こそがリアルに感じられますが、しかしいかなる現象にも、パラドクシカルにも、形や意味では捉えきれない非二元という本質があるのです。
主客の差異化という原初の二元論
『インテグラル・スピリチュアリティ』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、2008、p.337)には次のように書かれています。
カントの批判的な哲学は、存在論的な対象に代わって、主体の構造をおいた。すなわち、私たちは、経験的な対象を、完全に実在性を持つ、予め与えられた(所与)のものとして受け取るのではなく、むしろ知る主体が、さまざまな特徴を、知られる対象に対して付与するのである。そうした特徴は、そもそも、はじめから対象に付属しているように見えるが、実際は違う。むしろ、それらは、知る主体と、知られる対象の共-創造によるものである。
ここで言及されている対象は、現象と置き換えていいと思います。全ての現象は、境界づけられ何らかの形を持っていますが、そうであるがために、認識者から独立ではないと言えるのではないでしょうか。例えば視覚的な形態は、視覚能力を持つ認識者の存在の想定のもとでしか現われようがないと思えます。視覚能力を持つ認識者がいないのに、あるいはかつていた事も無かったのに、様々な視覚的形態や色彩で満ち満ちた世界があると想定できるでしょうか。また、概念を構成し理解する能力を持つ人間のような認識者がいないのに、あるいはかつていたこともなかったのに、概念が存在すると想定できるでしょうか。全ての現象は、その現象の在り方を認識できる認識者の存在と切り離すことはできないと思えます。ウィルバー5では、そのような現象世界の在り方に関して、存在は、認識能力によって限界づけられる世界空間において現れるというように考えています。そうしますと、現象には、認識主体に対する対象という側面が必須ですから、主体(認識者)とその対象、あるいは主観と客観という境界づけが、全ての現象の根本にあることになります。この最も根本的な境界づけである主客の差異化は、『意識のスペクトル』などの著作では、原初の二元論と呼ばれています。
ウィルバーはこの根本的な主客の二元論について、『存在することのシンプルな感覚』(松永太郎訳、春秋社、2005年、pp.263~264)で次のように書いています。
この分裂、主体と客体の間のこの間隙、この最初の二元論こそ、意識のスペクトルを動かし始めるものなのである。それは、すべてのレベルにわたって作動し、思考するものと思考[この場合、思考自体]、知るものと知られるもの、感じるものと感じ、わたしと対象となるわたし、魂と肉体、自由と不自由、あるものとあるべきもの、などの間に間断のない、消しがたい、幻想の分裂、切断を作り出す。
宇宙(現象世界)の始まりにおける原初の二元論
もし宇宙(現象世界)に始まりがあるとするなら、そのとき、まっさらな非二元的な基底に、原初の二元論、主客の差異化が起こったはずです。主体と対象が現れることで始まったはずです。ところで、対象を認識する主体は、対象と境界づけられることで、実は現象となっているはずです。つまり、主体は対象と同じ現象界に登場してもいるはずです。しかし、先程述べましたように、全ての現象は、その現象の在り方を認識できる認識者の存在と切り離すことはできないとしますと、主体は見る側の立場と同時に別の主体から見られる対象の立場も採っていなければなりません。そうしますと、現象界の始まりでは、非二元的基底から複数の主体が登場し、またそれらは互いに認識し合うことで対象にもなっているという状況が生じたはずです。これらの主体かつ対象は、いずれも本質は非二元的な基底ですから、基底が、複数の、主体的側面と対象的側面を持つ個的現象として現れ、見たり見られたりを開始したとも言えます。基底をコスモスと言い換えますと、コスモスが自分で自分を見始めることで現象界が始まったことになります。
身近な例として、私達自身のことを考えてみてください。私達は主体として様々な現象を認識しますが、同時に他者から認識されて対象として現象界に現れてもいます。私達は主体であると同時に対象でもあります。現象界に登場するいかなる主体も、ただ主観的に存在するということはなく、主客両面を持つ現象として存在しているということです。しかし私達は同じ非二元的本質を持ちますから、その次元で言えば、私達は一体として互いを見ている(自分で自分を見ている)わけです。
ウィルバー4ではホロンという便利な用語が登場しますが、人間を初めとする、主客両面をもった一切衆生( all sentient beings )は、ホロンと呼ぶことができます。この用語法を使いますと、現象界は、複数のホロンの登場で始まったことになります。
現象界の始まりについての以上の考察を、物理学での考えと比較するとどうなるでしょうか。物理学者ヴィレンキンは、1982年に発表した『無からの宇宙の創造』(“Creation of Universe from Nothing” , Alexander Vilenken, Physics Letter,1982)という論文で、「文字どおりの無から、量子的トンネル効果によって宇宙はド・シッター空間へと創造された」と述べています。非二元的コスモスが自他の二元論(境界づけ)を行い現象界が生じたことを物質的世界に投影し、それを物理学的に探究するなら、このように表現されるであろうと思えます。非二元は、物理学的には物質も時空もない無と表現するしかないと思えるからです。また宇宙物理学では、宇宙の始まりのすぐ後にたくさんの素粒子が登場したとされますが、これは、主客両面をもつたくさんのホロンが登場したことを物理的な側面において表現しているのだと解釈できそうです。この解釈では、主体としての主観的側面と対象としての客観的側面の両面を持った最も素朴なホロンの、物質的世界への投影が素粒子なのです。実際ウィルバー4では、素粒子を初め全ての個と扱い得るものは、私達個々人と比べればはるかに素朴でしょうが、それでも主観的側面もあるのだと考えられています。
原初の二元論は空間と時間の始まりとも言える
ウィルバーはこの根本的な主客の二元論に関連して、『意識のスペクトル』で次のようにも書いています。
この主体と客体の間にある空間(スペース)は、時間という要素を持っている。なぜなら時間と空間は、分離したものではないからである。時間と空間は、ニュートンの物理学におけるように絶対的に分離したものではなく、連続体である。最初の二元論のなかに含まれている時間という要素こそ、主体/客体という最初の二元論に対する二次的な(二番目の)二元論にほかならない。それは死と生という二元論である。最初の二元論と二番目の二元論は別々のように見えるが、それは議論をわかりやすくするためである。「意識のスペクトル」の発生の物語を少しやさしく語るための手立てである。実際には、わたしたちは空間(最初の二元論)のなかに生き始めるや、時間(二番目の二元論)のなかに生き始めるのである。(『存在することのシンプルな感覚』p.264に引用されている部分より)
原初の二元論によって互いに見合う複数のホロンが現れコスモスが現象し始めたとしますと、複数を含む広がりである原初的な空間が登場したと言えます。また、始まったということは、その後があるから始まったといえるのですから、原初的な時間が登場したとも言えます。原初の二元論で現象界が始まったということは、このようにして時空が登場したと言いかえることができると思えます。物質的世界にその状況を投影するなら、物理的時空間が登場したと言うことになります。次の図が時空の登場をイメージするのに役立つかもしれません。
空間は本来的に四象限に差異化されている
ところで、現象界の始まりにおいて、主客の両面を持つ複数のホロンが登場したわけですから、ホロンは必ず集合のメンバーとして生じています。そのため、主客という境界づけと、個と集合という境界づけの二対の境界づけが現象界の始まりからあったことになります。ウィルバー4でご説明しましたように、これらの差異化を重ねて四つの象限ができますから、実は現象界にはその始まりから四つの象限があったことになります。複数のホロンによる現象界の広がり(空間)は、本来的に四つの象限に差異化されていたのです。先程の時空の誕生の図に、四象限という空間の差異化を重ねて、全体の形を円から正方形に変えて図式化しますと、次のようになります。
世界は視点からできている
『インテグラル・スピリチュアリティ』(p.368)には次のように書かれています。
たとえば個体のホロンとしての私は、すくなくとも4つの象限-視点を持っている。私の存在は、私の視点、私たちの視点、それの視点、それらの視点を持っている。しかし、ペプシ・コーラのビンには感覚がないので、4つの象限は持たない。しかし、ビンは、私の象限/視点を通して見られることができる。私という視点を通して、私はあなたに、ペプシのビンについて個人的にどう考え、感じるのかを語ることもできる。あなたと私は、ビンについて語り合い、私たちの視点を形成することができる。私は、ビンを科学的な方法で(「それ」または「それら」として)見ることができ、たとえば、その分子構造などに関して議論することもできる。
ホロンは四つの象限を持っているのですが、何かを認識するとき、自らの四つの象限のいずれかを通じて見ることになります。また、認識者には特有の認識のレベルがあります。人間は形式的操作のレベルまでの能力を使うことができますが、チンパンジーはおそらくシンボルのレベルまでの能力を使うことができ、魚であれば、知覚までの能力を使うことができるという具合です。そうしますと、ホロンは、象限だけでなく、レベルを通じても見ることになります。このように象限とレベルの重なりで見ることを、視点を通じて見るということにします。ウィルバーは通常象限のみで視点を設定しようとしますが、このエッセイではレベルも含めることにします。ホロンは象限と認識能力によって指定される視点を通じて対象を見るのです。
ところで対象は、境界づけられることで現れているわけですが、その境界づけは、すでにその対象を境界づけた認識者の視点によって設定されていたはずです。そうしますと、ホロンが対象を見るということは、自らの視点で、すでに設定されている視点に現れた対象を見るのですから、視点に視点を重ねることになります。10章で述べました視点の重なりの例をもう一度挙げてみます。
「ジョンは、地球生態系を調査している」
この言明ではジョンが主体です。彼の認識能力のレベルは形式的操作であるとします。そして、彼は科学的に一人で調査しているとしますと、客観的個的象限を通して見ているとことになります。また、地球生態系はヴィジョン・ロジックと呼ばれる、形式的操作より上のレベルの世界空間に存在しますし、集合的システムですから、客観的集合的象限に存在しています。そうしますと、最も簡略化した視点を付記して先ほどの言明を書き直しますと、
「ジョン(レベルは形式的操作、見る象限は客観的個的)は、地球生態系(レベルはヴィジョン・ロジック、存在する象限は客観的集合的)を調査している」
となります。この場合、認識者のジョンのレベル(形式的操作)は、認識される存在のレベル(ヴィジョン・ロジック)より下ですから、結局彼は地球生態系をふさわしいレベルでは理解できないことになります。
『インテグラル・スピリチュアリティ』p.60でウィルバーは次のように述べています。
行動や、指示を伴ったそれぞれの視点から、現象の世界が生み出される。世界空間が結果として4象限の同時生起をする。
現在の現象世界の豊かさは、宇宙が始まって以来、ホロンが主体として他のホロンから構成される対象を見たり、また自らが対象としてあるいは対象の一部として他のホロンから見られたりしながら活動し続け、新たな境界が創られ、新たな現象が現れ、新たなホロンが登場してきた結果だと考えられます。ところで、見たり見られたりするとき、先程述べましたように、ホロンは自らのレベルと象限とで指定される視点に基づいて、やはりあるレベルと象限とで指定される対象を見るのであり、また別のホロンから、そのホロンのレベルと象限とで指定される視点から見られるのです。ですから、コスモスが新しい現象、新しいホロンのレベルを創ってきたということは、視点に視点を重ねる結果であるとも言えるのではないでしょうか。ウィルバーがコスモスは視点でできていると述べたことの内実は、こういうことではないのかと私は考えています。
ペプシのボトルであれば、それは私と共有する間客観的な視点に現れているのでしょうが、それを私は、さらに自分の四つの視点のいずれかを通じて見ることになります。そのとき、視点に視点が重なり、うまく調和することもあれば、衝突することもあるでしょう。特に衝突する際など、新たな種類の境界づけが生まれて、新奇な現象が生じるかもしれません。ペプシのボトルはある人の主観的視点において新たに境界づけられ、合理性レベルでの新奇な芸術作品(現象)として生まれ変わるかもしれないのです。
コスモスの習性(ハビット)とコスモスの地図
視点に視点が重ねられるとき、多くの場合では同じパターンの重ね方を繰り返していると思われます。日常生活がパターン化されていることにそれはよく現れていると思います。毎日毎日私達は新たに視点に視点を重ねているわけですが、基本的には、同じ視点の現象に、同じように自らの視点を重ね、重ね方に一定のパターンをつくる傾向があるようです。客観的視点にある停留場とそこに近づくバスに、急いで仕事に行こうという主観的視点を重ね、運動感覚的レベルで体を動かして乗車するというように。しかし、あるとき、同じと思っていた現象が異なるように見えてきたりすることがあります。それは、ホロンが、これまでになかったパターンの視点の重ね方を採りはじめたのかもしれません。それが繰り返されると、新しいレベルの認識能力と世界空間が確立されたりすることもあるでしょう。宇宙の進化は、そのように、以前の視点のパターンを超えた視点のパターンが登場することで進行するように思えます。ここで、ウィルバーのコスモスの習性という考えについて触れておきたいと思います。『インテグラル・スピリチュアリティ』(pp.349,350)には次のように書かれています。
チャールス・パースは、存在としての自然の法則というのは、自然の習性のようなものに近いと言っている。私も同感である。私達は、それを「コスモスの習性(ハビット)」ないし「コスモスの記憶」と呼んでいるが、これによって(存在と認識の)実在(リアリティ)のレベルが再解釈できる。最初にそれらが創発するとき、それは比較的オープンで、創造的であるが、いったん、そこからの特定の反応が何度も繰り返し起きれば、それはコスモスの習性として定着し、ますますふるい落とすことが難しくなる。
約六〇〇〇年前の時点では、(非常に単純化して言えば)獲得可能なものは次のとおりであった。意識のレベル(偉大なる連鎖の理論家たちが誤って定着させた、存在と認識のレベル)から言えば、人間は古代(アルカイック)の類人猿から進化して「マジェンタ」の呪術、「レッド」の権力、「アンバー」の神話-メンバーシップへと進化した。多くのラインをまたがる、これらの4つの意識のレベルは、今や人間に獲得可能になった。だれもが公平に生まれ、今や「定着した」レベルを通過して成長した。定着というのは、パースの言うように、コスモスの習性として定着したというだけのことである。
ウィルバーの言うところのコスモスの習性(ハビット)は、繰り返されることになった視点のパターンにあたると私は考えています。それは対象と認識のパターンであり、そのパターンが様々に繰り返されることで現象界は豊かになり、ときに質的に新しいパターンが登場することで豊かさに進化が加わり、新しいレベルが登場するのだと。引用文では、レベルに関連したパターンに特に焦点が合わされていますが、同じレベル内でのパターンにも様々な変異が生じ得ると私は思います。ところで、以下に再掲するおなじみの四象限図は、現象界の基本的な境界づけを表わしているわけですが、その境界づけから生み出されるレベルと象限で指定される座標点が、基本的な視点を与えることになります。そして座標点(視点)の豊かさが、現象界の豊かさを表わすことになります。
深いパターンのアプリオリ性
コスモスの地図において、より原点に近いレベルでの視点の採り方は、長く繰り返され続けたために、極めて安定したコスモスの習性になっている場合があります。従って、後の時代にいくほど、それらは所与・アプリオリで動かしがたいものと見なされるようになります。例えば原子について、 “ Excerpt A”の中でウィルバーは次のように述べています。
例えば私達人間が今日原子を探究するとき、私達は私達の解釈をそれらにもたらす。しかし私達の解釈はこれらの深く染められたコスモスの習性に対して、相対的にほとんど影響を持たない。それは、粗悪な横断的な解釈が、原子それら自身の行動によって健全に拒絶される理由である。
人間の意識のレベルが上昇するに従って、原子の振る舞いに新たな解釈が与えられます。現代物理学でしたら、量子力学的な解釈が与えられることになるわけですが、原子のパターンは極めて安定したコスモスの習性になっていますから、この解釈によって原子のパターンが影響を受けることはほとんどなく、常に同じパターンを調べているのだと安心して、実験観察による科学的な探究を継続していけることになります。人間で言いますと、サバイバルが最高の価値を持ったレベルは極めて安定したコスモスの習性をもたらしていますから、全ての人間が、普遍的に食べ物、住処、水に対する欲求を持っているわけです。
習性になってから時がそれほど経過していないものであれば、それを変えるのは比較的容易なはずです。例えば、前合理的慣習的段階では、利子をとることは不道徳と見なされていたわけですが、投資が莫大な富を生み出す可能性が高くなった合理段階での産業社会では、不道徳とは見なされなくなりました。また、いくつかの先進国では、慣習段階でタブー視されていた、同性婚が認められるようになっていますし、あるいは結婚に代わり、自由度の高いパートナーという関係が主流になってきてもいます。これらは、再解釈によってコスモスの習性が改訂された例になると思います。しかし、先程述べました生理的欲求に関する習性や、あるいはもっとさかのぼり、私達を構成する原子の振る舞いの習性などを、再解釈で変えることはほとんど不可能と思えます。それらは実質上アプリオリと見なされてもかまわないものになっているのです。
コスモス発生時からのコスモスの習性をもし再構築できるとしたら
しかし、原子の振る舞いにしろ、人間の生存への欲求にしろ、根底においては所与ではなく習性ですから、そのパターンを崩すことは極めて難しいとしても、不可能ではないはずです。どれほど覆しがたいと思えても、習性である限り変えられるはずです。全ての本質は非二元ですから、どんなにアプリオリに思える境界づけも、本質に戻ることで、それを取り払うことは不可能ではないと思えます。ところで、この現象世界でもっとも覆しがたい境界づけといいますと、それは原初の二元論に基づくものでしょう。別の言い方をしますと、四つの象限に従って振舞うこと、あるいは時空において振舞うことです。これらの習性を覆すことは本当に可能でしょうか。
私は可能だと思います。覚ったと言われるような人の中には、現象の世界のその本質である非二元ということに自覚的に気づける人もいると言われています。もし、非二元に浸れるとすると、それまで制限を受けていた全ての境界づけから離れ、まっさらな非二元において新たに境界づけを開始する自由を持てるのではないかと推察されます。そうだとしますと、そのまっさらな非二元において、新たに原初の二元論を実行したなら、新たな現象界、宇宙が発生することになるのではないでしょうか。物理学では、私達のこの宇宙だけでなく、たくさんの宇宙が実はあるのではないかという考えがありますが、それは、覚者が新たな二元論を開始し、新たな現象界を発生させていることの物理的側面への投影なのではないかと私には思えたりします。これら複数の宇宙(現象界)は、仮にあるとしても、互いに区別できるかぎり、背景として共有する非二元という本質があるはずですから、そういう意味では異なる宇宙も結局は一体であると言える次元があることになります。
おわりに
ウィルバーの思想は、そのスケールの大きさで多くの人を魅了してきました。しかも彼の思想は、こういう考え方をしてみたらどうかという提案ではなく、科学における見解と同様に、吟味すべき理論という側面が強いものです。従って、吟味に耐えられなければ、やがては乗り越えられてしまうことになるでしょう。
ウィルバー4を扱った章の中で述べましたが、ホロンという概念の扱いについて、私にはどうもウィルバーは一定していないのではないかという疑念を持っています。また、内側と外側(inside and outside)、主観と客観(subjective and objective)、内面と外面(interior and exterior)という、これら三つの対になる言葉が意味することの差異化についても、ウィルバーは明確にできていないのではないのかという想いもあります。多分ウィルバーの理論に対する疑問の多くは、きちんと読んでいないための誤解に基づいているのでしょうが、中には本質的な疑問もあるかもしれません。特に、初めウィルバーに傾倒していた人が、後に批判的な態度に変じたとすれば、それについては注意深く考察しておいた方がよいと思えます。