第2章 ウィルバーによる進化論理解とエロスの必要性に関する主張は妥当なものか
――フランク・ヴィッサーによる批判

 フランク・ヴィッサー(Frank Visser)は、Ken Wilber: Thought as Passion (SUNY Press, 2003)という、ウィルバー思想に関する研究書の著者であり、Integral World (Integralworld.net)というサイトの主宰者です。
Ken Wilber: Thought as Passionは、ヴィッサーがウィルバー本人にインタビューした上で書かれており、ウィルバーが序文まで書いていますが、その後ヴィッサーはウィルバー思想に対する批判的傾向を強めていったらしく、彼が主宰するIntegral Worldというホームページには、様々な人たちによる、ウィルバー思想に対する批判的エッセイが多数掲載されています。
今回取り上げますのは、ヴィッサー自身によるウィルバー思想の批判です。Integral Worldに掲載されている、彼の以下の諸エッセイを参考にしました。彼の主張は、「ウィルバーは進化論を間違って理解していて、その間違った理解を、エロスという進化への神秘主義的動因の必要性を主張するために使っている」とまとめられると私は考えています。

・The ‘Spirit of Evolution’ Reconsidered: Relating Ken Wilber’s view of spiritual evolution to the current evolution debates, 2010
・Ken Wilber’s Mysterianism: How Not to Make a Case for Spiritual Evolution, 2009
・Why We Have Bodies: Evolution as an Experiment in Body-Building, 2013

ウィルバーの見解

 進化論とエロスに関するウィルバーの考えを、ヴィッサーのエッセイを参考に、ウィルバーの叙述を引用しながら再構成したいと思います。まずは、『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)の冒頭部分からの引用です。

宇宙の事象は単に起こるのであり、その背後には何も無く、すべては偶然でありバラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる――「おっと!」という具合に。この「もののはずみ」の哲学は、いかに洗練され、もっともらしく聞こえようと――実証主義から科学的唯物論まで、分析哲学から史的唯物論まで、自然論から経験論までその現代的な名前も数も膨大なものにのぼっている――せんじつめればいつも同じ答えになる。すなわち「そんなこと聞くもんじゃない」。(『進化の構造1』、p.1 SES, 1995, p.3)

ここでは、偶然性に基づく「もののはずみ」の哲学が、自然科学の基本にあるというウィルバーの考えが表明されています。したがって、ネオダーウィニズムという進化の標準的理論とみなされているものも、ウィルバーの考えでは、遺伝子の偶然的な突然変異による理論だということになります。そのため、ネオダーウィニズムでは説明できない進化の現象があるとウィルバーは主張していきます。

……フレッド・ホイルからF・Bソールズベリーに至る科学者が行った計算は、百二十億年では、たった一個の酵素を偶然に生み出すにさえ不十分なことを示しています。
言い換えると、偶然以外のなにかが宇宙を突き動かしているということです。伝統的科学者にとって、偶然がかれらの救いでした。偶然が神だったのです。偶然がすべてを説明するだろう。偶然――プラス果てしない時間――が、宇宙を生み出すだろう、と。彼らは果てしない時間を持ちあわせておらず、ですから彼らの神は惨めにも彼らを見捨てるのです。そういう神は死んだのです。偶然は、宇宙を説明する当のものではありません。 (『万物の歴史』大野純一訳 p.44~45、 A Brief History of Everything, 1996, p.23 )

宇宙の年齢は138億年とも言われているのに、われわれの体にある酵素をつくるのにさえ120億年かかってしまうのですから、偶然性では現在のように人間まで登場しているような宇宙の進化のありさまは説明できないということです。ウィルバーは同じ本の中で、他にも偶然性では説明できない進化の事例を挙げています。

翼は前肢から進化したという標準的観念を取り上げてみましょう。一本の肢から一枚の機能的翼を生じさせるには、おそらく何百もの突然変異が必要です。半分だけの翼は役に立ちません。半分だけの翼は、肢として不適当だし、翼としても不適当です。走ることも飛ぶこともできませんからね。それにはなんの適応的価値もない。言い換えれば、半分だけの翼では餌食にされてしまうのです。翼は、ある動物にこういう何百もの突然変異が、全部一挙に起こるときにのみうまく働くでしょう。その上、それらと同じ突然変異が異性の別の動物に同時に起こらなければならず、またそれから彼らはともかくお互いを見つけ、食事をし、若干飲み物を取り、交尾し、そして真の機能的翼を持った子孫をもうけなければならないのです。
信じがたい話ですね。これは限りなく、絶対的に、まったく信じがたいことです。ランダムな突然変異では、とても説明できません。圧倒的に大多数の突然変異は、なんにしても命取りなのです。それなのに、どうやって同時に起こる命取りでない数百もの突然変異を得られるのでしょう?あるいは、さらに言えばその四つか五つでもいいのですが。しかし、いったんこの信じがたい変容が起こってしまえば、以後自然淘汰は働きの劣る翼からより良い翼を実際に選択するでしょう……でも、翼そのものはどうなんでしょう?誰にも見当がつきません。
さしあたり、全員がこれを「量子的進化(クウォンタム・エヴォリューション)」「突発的進化(パンクチュエイテッド・エヴォリューション)」あるいは「創発的進化(エマージェント・エヴォリューション)」と呼ぶことにあっさりと同意しました。根源的に新しい、創発的な、信じがたいほど複雑なホロンが、一足飛びに、量子的なしかたで、つまり中間的形態についての何の証拠もなしに、出現するのです。ともかく生き延びるためには、数十ないし数百もの同時的で命取りにならない突然変異が一度に起こらなければならない、例えば、翼であれ眼球であれ。(『万物の歴史』、p.39~40 A Brief History of Everything, 1996, p.20 )

ここでの議論は、翼や眼球のようなものは、中途半端な形状では役に立たないので、自然選択で段階的に出来てくるはずはなく、一度に特定の突然変異が重なる必要があり、そのようなことが偶然に起こることはありえないという議論です。また、後には次のような議論もウィルバーは持ち出しています。

新しい種の最初の例――例えば、最初の哺乳類――が登場したとき、それは決して単独で生じるのではない。最初に登場したのは、哺乳類の個体群全体である。それについて考えればわかるだろう。新しい種が登場するには、多数の主要で有効な突然変異が生じなければならない。それが起きることに対するオッズは、もちろん天文学的である。さらに悪いことには、同じ多数の突然変異が異なる性の別の動物に起きなければならない。そして、全世界的な惑星上で、それらは互いを見つけなければならない。そしてつがい、そして子孫が生き残りつがう。そしてそれら全てがおこるオッズは、信じることができたり、可能であったりする範囲外である。 (http: / / www. kenwilber. com/ professional/ writings/index. html に掲載されているKosmic Karma and Creativityからの抜粋Excerpt A: An Integral Age at the Leading Edge, 2006の一節を私が訳しました)

新しい種が登場すること自体、偶然性ではまったく説明できないということです。これら、新しい分子構造(酵素)とか、器官とか、種とかが創発することは、偶然性では説明しがたいことから、ウィルバーはネオダーウィニズムに次のような評価を下します。

標準的な、行き当たりばったり(ランダム)の、新ダーウィン説的な自然淘汰という説明は、絶対にもう誰もそれを信じていません。進化は、明らかに部分的にはダーウィン説的自然淘汰によって働きますが、しかしそのプロセスは、まったく誰にもわからないメカニズムによってすでに起こった変容を選択するだけのことなのです。(『万物の歴史』、p.38~39  A Brief History of Everything, 1996, p.20 )

そうして、偶然性に基づく進化論(ネオダーウィニズム)で説明できない新奇な創発には、コスモスとの一体化を目的とするエロスと呼ばれる自己超越の動因が必要だと考えを進め、次のように述べます。

<コスモス>には形成動因、目的(テロス)があるのです。方向性を持っている。どこかに向かっているのです。その基底は<空>です。その動因は、ますます首尾一貫したホロンへと<形>を組織することです。 (『万物の歴史』p.45 、A Brief History of Everything, 1996, p.23 )

さらに、比較的近年に書かれた『インテグラル・スピリチュアリティ』では次のようにまとめています。

顕在する宇宙が、進化しているということは、必ずしも進化に関するネオ・ダーウィン理論をすべて受け入れるということを意味しない。私は、大学で生物化学と生物物理学を専攻したが、進化のメカニズムについて理解できていないことに関する本は、国会図書館を何倍分も埋めるだけの量があった。私は、またインテリジェント・デザイン説にも賛成しない<宇宙は、知性あるものによって造られた、とする説>。しかし、こうした説を信奉しなくても、進化には何か創造的な「引き」のようなものが働いているのは、認識できるだろう。ホワイトヘッドのいう「新奇性へと向かう創造的な前進」である。この働き、別の言い方でいえば、エロスは、進化という事実を理解するうえで、完全に現実的な結論であろう。しかし、ポスト形而上学は、あくまでもオッカムのかみそりの原則<最小限の説明が、最もよいとする>にしたがうので、余分なものを仮定しない。ただエロスのみが、説明としては、消去できないものである。(『インテグラル・スピリチュアリティ』、p.439、 Integral Spirituality, 2006, p.236)

このように、ウィルバーはエロスの必要性に確信を抱き続けているわけですが、進化が創造的でスムースに前進しないことから、あらかじめのデザインのようなものがあるとは考えないのです。

ネオダーウィニズムに関するウィルバーの理解は妥当か

 まず、ネオダーウィニズムの標準的解釈として、ウィキペデアの文章を引用してみます。

遺伝学の成果により、ネオダーウィニズムはダーウィニズムが進化の原動力とした自然選択に加えて倍数化、雑種形成なども進化の原動力として視野に入れるようになった。さらに、ダーウィニズムの選択説とは異質な説として議論を呼んだ中立進化説なども取り込んだ総合説が現代進化論の主流であり、これも含めてネオダーウィニズムと称する。近年では生態学や発生学(進化発生学)の知見なども取り入れており、自然選択と突然変異を中心とはするがそれだけで進化を説明しようとするのではなく、より大きな枠組みとなっている。(ウィキペディア)

いろいろと書いてはありますが、自然選択と突然変異が中心にあるということははっきりしています。そしてこのネオダーウィニズムについて、『利己的な遺伝子』の著者として有名なリチャード・ドーキンスは、ウィルバーの『進化の構造』が出版されるよりも一昔前に出版された本の中で、次のように述べています。

ダーウィニズムを攻撃する人々の大多数は、不適切といっていい熱意をもって、そこにはランダムな偶然性以外の何もないという間違った考えに飛躍する。生命の複雑さは偶然性のアンチテーゼを体現しているので、もしあなたがダーウィニズムは偶然性であるとするなら、あなたがダーウィニズムを簡単に否定できるのはあきらかだ!私の課題の一つは、この熱心に信じられている、ダーウィニズムは「偶然性」の理論であるという神話を破壊することである。(Richard Dawkins, The Blind Watchmaker, 1986, Preface xvからヴィッサーが引用した文を私が訳しました。公式に出版されている訳本は『ブラインド・ウォッチメイカー――自然淘汰は偶然か?』、日高敏隆 監修、中嶋康裕・遠藤彰・遠藤知二・疋田努訳、早川書房、1993年です)

そして別の本では、ウィルバーも言及していましたフレッド・ホイルが行った、120億年では、たった一個の酵素を偶然に生み出すにさえ不十分なことを示す計算自体は正しいとした後で、次のように述べています。

ホイルとウィックラマシンギ(Wickramashinghe)が見誤ったのは、ダーウィニズムはランダムな偶然性の理論ではないということである。それはランダムな突然変異プラス非ランダムな累積的な自然選択の理論である。何故、洗練された科学者にとってさえ、この単純な点を把握するのがそんなに難しいのか、と私は思ってしまう。(Climbing Mount Improbable, Viking, 1996, p.66の文章を私が訳しました)

もしダーウィニズムが本当に偶然性の理論なら、それは機能しないだろうことは、ひどくギシギシと音がするように、際立って明らかなことである。あなたは、眼あるいはヘモグロビン分子が全くの乱雑で頑固な幸運によって自分で組みあがるのに、無限の時間がかかるのを計算するのに、数学者あるいは物理学者である必要はない。目と膝、酵素と肘の関節、そしてその他の生命の驚異に対する天文学的な非実現性は、ダーウィニズムに特有な難問であるどころか、全ての生物の理論が解かなければならないものであり、ダーウィニズムが独自にまさに解いたのである。それは、その非実現性を、小さな、操作可能な部分に砕き、必要とされる運を消し去り、非実現性という山の背後を回り、緩やかな斜面を、100万年に1インチずつずり上がるのである。(Climbing Mount Improbable, Viking, 1996, p.67~68の文章を私が訳しました)

これらの引用文から明らかですが、ネオダーウィニズムは、偶然性だけでなく、偶然性とは異なる自然選択の理論でもあるわけです。ホイルによる、120億年ではたった一個の酵素を偶然に生み出すにさえ不十分なことを示す計算結果は、自然選択を無視したものであり、ネオダーウィニズムの説明能力を否定するものではないわけです。ネオダーウィニズムでは、自然選択という要素があるからこそ、無数の可能性が次々と消去され、ある狭い範囲の可能性へと絞られていくのです。ウィルバーは自然選択が理論の一部になっていると知りながら、何故か、ホイルのような一部の学者や、創造論者や、インテリジェント・デザイン論者と同様に、ネオダーウィニズムは結局は偶然性のみに頼った理論であると誤って解釈しているわけです。
ところで、ウィルバーがネオダーウィニズムを攻撃する際の論法として、眼や翼は中途半端な形成状態では役に立たないということがありましたし、哺乳類が個体群として飛躍的に発生することの困難さということがありました。これらの主張に対しても、科学的な反論はあります。まず眼と翼について、ヴィッサーはSteven Dutchという研究者が次のように述べていると指摘しています。

実際、半分形成された眼と翼は、非常に有用であり得る。光を感知する能力は、どれほど未発達であろうが、有機体が、隠れ家を探し、食べ物をみつけ、捕食者を避けることを可能にする。同様に、半分形成された翼は、しばしば想像されているほど不用ではない。眼と翼は完全に形成された場合にのみ機能するというのは完全に間違いである。( The ‘Spirit of Evolution’ Reconsidered: Relating Ken Wilber’s view of spiritual evolution to the current evolution debates, 2010 )

次に、哺乳類が個体群として飛躍的に発生することの困難さについてですが、実際には飛躍的ではなかったという研究があるようです。哺乳類の進化は、その石炭紀後期における単弓類の先祖(絶滅した爬虫類の一種)以来、多くの段階を通過したのであり、ウィルバーが描くような飛躍的な創発というよりは、ゆっくりと少しずつ進化してきたのであり、突然変異プラス自然選択で十分説明できそうな過程であるということが、ヴィッサーがWikipedia on “The Evolution of Mammals”から引用した文にうかがえます。
ヴィッサーのエッセイでは、リチャード・ドーキンスの著書からの引用が中心的役割を果たしていますが、その他の学者の文献や、百科事典類からの引用なども含んでおり、ネオダーウィニズムは標準的な理論として確立しており、その中心的な考えは、自然選択と偶然性を背景とする突然変異であることは明確であり、ウィルバーの理解は、妥当なものではないようです。

ヴィッサーの結論

 ヴィッサーはウィルバーとリチャード・ドーキンスの考え方を、三段論法風にまとめています。

ウィルバーの三段論法
Ⅰ. 科学は進化における創発を偶然性で説明しようと試みる。
Ⅱ. 偶然性は進化における創発を説明できない。
Ⅲ. それ故、偶然性以外の何か、すなわちエロスが必要とされる。

ドーキンスの三段論法
Ⅰ. 進化論は偶然性と自然選択に基づく。
Ⅱ. 自然選択は進化における創発を説明できる。
Ⅲ. それ故、他の説(すなわち、神、スピリット)は必要とされない。

結局、ウィルバーの三段論法においては、ネオダーウィニズムに関しては、最初の仮定が偽なので、最後の結論も偽になるわけです。科学は偶然性のみに基づくという誤った解釈を、エロスの必要性の根拠にすることはできないということです。

私の評価

 私はヴィッサーの議論は妥当なものだと思います。ネオダーウィニズムは、十分に合意された、単純であるがしっかりとした、ウィルバー言うところの指向的一般論の一つなのだと思います。したがって、ウィルバー・コスモロジーを構成する要素として扱われるべきです。
ウィルバーは、エロスという進化への神秘主義的動因があると考えています。その客観的世界での現れを、科学的に説明するのがネオダーウィニズムだということにすれば、話の辻褄は完全に合います。ところが彼は、あらゆる科学と同様に、ネオダーウィニズムは偶然性にしか基づいていないという、はなはだ問題のある考えに執着し始め、しかもそれがエロスという進化への神秘主義的動因の必要性の証拠として使えることに気づいたのでしょう。そうして、ホイルの計算結果を援用して、エロスの必要性を証明したつもりになっていたのでしょう。しかし、もともとネオダーウィニズムが偶然性にのみ基づいているのではないという妥当な考えに照らせば、ウィルバーの試みは全くの誤謬に終わるしかなかったわけです。
この章の初めの方に引用しましたが、ウィルバーは現代の自然科学は、「全ては偶然でありバラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる」という哲学に基づいていると思い込んでいるようですが、どうしてここまで強い思い込みを持ったのだろうかと言う疑問が残ります。
ウィルバーは、宇宙の事象が生じる背後には何も無いとし、そして全ては偶然でありバラバラであるという考えを批判しています。しかし、実際の宇宙論で言われていることは、そのような単純なことではありません。例えば、ある説によれば、量子力学のトンネル効果のようなことによって、無から宇宙が発生したようなことが言われたりもしましたが、この場合、宇宙の発生自体は偶然性に基づくにしても、ばらばらと言うには程遠く、宇宙全体は、ホーキングが昔唱えたような、量子力学の波動方程式の解として扱える場のようにイメージされていたと思えます。仮に、ウィルバーがそれほど現代宇宙論のことを調べていなかったとしても、彼自身の著書『量子の公案』(ケン・ウィルバー編著、田中三彦・吉福伸逸訳、工作舎、1987)などを見ると、彼は、現代物理学を築いてきた人たちが、単純な分析的思考というよりは、極めて弁証法的な、彼が言うところのヴィジョン・ロジック的な思考をしていたことをよく理解していたはずです。そのような人々が始めた探求の系譜に連なる宇宙論を、「すべては偶然でありバラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる」というような言葉で片づけられるように考えていたことが私には今一つ合点がいきません。
また、ウィルバーが自然科学における結果を神秘主義的エロスの必要性の根拠としようとしたこと自体にも彼の首尾一貫性のなさを私は感じます。自然科学は、差異化された客観的な象限内を探求するもので、理性的なレベルでの行為です。神秘主義的なエロスというのは、自然科学が扱う客観的な象限も、対する主観的な象限も統合的にあつかう、理性より高次なレベルでのスピリットに関連しています。そうしますと、理性レベルの科学の探求結果がいかなるものであっても、それによって、それより高次なレベルでのスピリットに関してそのあり方を根拠づけられると考えること自体が矛盾していると思えるのです。
例えば、具体的操作段階の認識能力では数学の組み合わせの考えは理解できないでしょうが、それより高次の形式的操作段階の認識能力では理解できます。あるいは、神話段階の世界観を持つ人々は、仮に民主主義に基づく合理段階の社会を見ても、あくまでもその固定的な秩序の側面のみを見て、その多視点的で可変的な本質は理解しないと思います。一般的に、高次なレベルで初めて見出されるものは、低次なレベルではそのあり方を確定するような手掛かりはどこにも見出せないのだと思います。そうしますと、エロスなる理性を超えたレベルと関係したことについては、理性レベルの科学的な探求からはそのあり方の手掛かりは見いだせないことになるはずです。言えるのは、「エロスを把握している者からすれば、科学的探究から得られたネオダーウィニズムなどの指向的一般論は、そのエロスの客観的側面に従っているとみなせるらしい」ということに過ぎないと思います。それなのにウィルバーは、科学的探究の中に、理性を超えた非二元性につながるエロスの存在の証拠を見つけるという、本来不可能なことを試みたと私には思えるのです。
ヴィッサーの批判は的確だと私は思いますが、しかしそれによってウィルバー・コスモロジーが全く否定されるようなことはないと思います。ただ、ウィルバー・コスモロジーを構成するにあたって、極めて重要な指向的一般論の一つであるネオダーウィニズムを間違って理解したこと、またドーキンス達によってすでに強烈に批判されていたホイルの考えや、翼や眼や哺乳類の創発に関する、自らの素人的考えを、コスモロジーの動因(エロス)の必要性の証拠に使おうとしたこと、それらには、残念ながらウィルバーの理論構成に対する粗雑さのようなものを感じてしまいます。
次章は、Andrew P. Smithのウィルバー・コスモロジーに対する批判と対案を扱います。