補論B ウィルバー5は「志向的一般論の使用」という方法論を克服しているか

 ウィルバーは、ある批判者が、彼の「志向的一般論」をさんざんに批判していることに触れた後、「こいつは、少なくとも8つの異なる方法論を使用する、統合的方法論的多元主義について耳にしたことがあるのだろうかと思う」( “ What We Are, That We See Part 1: Response to Some Recent Criticism in a Wild West Fashion”, 2006 at http://www.kenwilber.com/blog/show/46 )と述べています。ここでウィルバーは、ウィルバー4における「志向的一般論の使用」に関する批判は、「統合的方法論的多元主義」という新しい方法論を使うウィルバー5には該当しないと主張しているようです(ウィルバーは自らの思想的発展段階をウィルバー1からウィルバー5までの5つに分けています。中でもウィルバー4とは志向的一般論を使ってウィルバー・コスモロジーを創造する段階であり、ウィルバー5とは統合的方法論的多元主義や統合的ポスト形而上学という概念が登場し、ポストモダニズムの考えを全面的に取り入れる段階です)。ただ、ウィルバーはその詳細を述べていません。そこで、彼のこの主張についてここで吟味したいと思います。
統合的方法論的多元主義とはいかなるものなのでしょうか。ウィルバー・コスモロジーには四つの象限があります(図B-1を参照して下さい)。全ての事象、現象は、この四つの象限において現れます。ウィルバーは、それら各象限における現象を探究するのに、二つの基本的な方法があるとします。内側から見る方法と、外側から見る方法です。例えば左上象限にある個的内面(「私」)を内側から見る方法と外側から見る方法についてウィルバーは『インテグラル・スピリチュアリティ』(松永太郎訳、春秋社、2008)の中で次のように述べています。

「私」は内側からも外側からも見ることができる。内側から見れば、この瞬間、私は「私」を内側から経験でき、現在経験していることを感じる主体となる。すなわち一人称の人間が、一人称の経験をしているのである。その結果は内観、瞑想、内的な現象学、観想などと呼ばれるものとなる。
しかし私は、この「私」に外側からアプローチすることもできる。これは客観的・科学的な観察者の立場である。この場合、私は、自分自身を客観的に見ることにする。あるいは自分を第三者として見る。この試みは、私以外の「私」にも広げることができる。すなわち人々が、それぞれの「私」をどのように経験しているのか、科学的に調べることもできる。この私―意識の最も有名な研究は、「システム理論」および「構造主義」である。(pp.57~58)

四つの象限それぞれの探究に関してこのような内側からと外側からの二つの方法があるのですから、合計八つの探究方法があることになります(代表的な方法を書きいれてある図B-2を参照して下さい)。コスモスを探究するには、これら八つの方法による探求結果を統合的に扱わなければならないというのが、統合的方法論的多元主義です。

図B-1 ウィルバー・コスモロジーの四象限図(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)

図B-2 8つの方法論

 ところで、ウィルバー4における「志向的一般論の使用」という方法論は、コスモロジーの大枠を設定するための方法論でした。つまり図B-1の大枠を構成するのが主目的です。それに対して「統合的方法論的多元主義」は、そのコスモロジーの細部を探究するための方法論で、大枠の中の現象について調べるのが主目的です。すなわち二つの方法論は全く役割が異なります。ですから、志向的一般論の使用と言う方法論に対するマイアーホッフの批判が統合的方法論的多元主義に当てはまらないのは当然のことです。しかしそのことから、志向的一般論の使用に対する批判をウィルバー5がまぬがれていると結論することはできません。ウィルバー5もウィルバー・コスモロジーを使っているのですから、その創造の方法として相変わらず「志向的一般論の使用」という方法論が想定されているのであれば、批判はそのまま成立します。そこで、ウィルバー5というものの概要を確かめながら、「志向的一般論の使用」という方法論がウィルバー5では断念されているのかどうか、そして批判を免れているのかどうかを確かめたいと思います(ウィルバー5の概要に関しては、『サングラハ第123号』での私の連載記事を大幅に参照しています)。

現象と非二元的本質

 ウィルバーの最も初期の作品である『意識のスペクトル』には次のような図があります。

紙面上に黒い円が描かれています。この円は、周りの白い部分との境界がなければ現れません。円が現れるためには、そうである部分とそうでない部分を区分する境界と、両者を含む下地が必要です。この時、区分されてはいても、下地を共有することで、円は円の周囲と一体でもあります。この区分されてはいても周囲と一体であるという単純な考えは、全ての形あるものに関してあてはまると思えます。例えば私の体は、皮膚という境界づけによって周囲の様々な物体から区別されることで現れますが、同時に私の体とその外側の両者が含まれる空間があることで、体は周囲とつながって一体であるとも言えます。
このように、実は一体と言える次元がありながら境界づけで区別できていることを、差異化と言います。そして図形や物体だけでなく、イメージや概念や思考などにしても、それらが現れるのは、差異化によっていると思えます。例えば、人間という概念であれば、動物という概念や植物という概念と区別されますが、それら様々な概念を含む言語体系という背景においては一体であると思われます。また、概念ということ自体、同じく心に表れるイメージや思考から区別されますが、それらを含む心理的領域において一体であると言えそうですし、心理的領域自体は物理的空間と区別されますが、同時にそれら両者を含むこの世界において一体であると思えます。荒っぽく言いますと、具象的であろうが抽象的であろうが、どのような現象も、そうでないものと境界づけられ区別されてはいるものの、結局は全てと一体であると言える共通の背景を伴っていると思えます。
このように、全てこの世に現れるものは、そうでないものと共有する背景に依存して現れるとしますと、この背景はその根底性の故に現れの本質と言ってよいでしょう。また、境界はその両側を生じますので、境界づけは二元論とも呼ばれています。そして全ての現象の本質である背景は、全ての境界づけの前提であって、それ自体は境界づけられていませんから、非二元と呼ばれます。時には基底、時には空、時には無、そして時にはコスモスと呼ばれることもあります。
日常生活においては、何らかの形なり意味なりを持つ境界づけられた現象こそがリアルに感じられますが、しかしいかなる現象にも、パラドクシカルにも、形や意味では捉えきれない非二元という本質があるのです。このような、トランスパーソナルな洞察は、ウィルバー5でも継承されています。

主客の差異化という原初の二元論

 『インテグラル・スピリチュアリティ』には次のように書かれています。

カントの批判的な哲学は、存在論的な対象に代わって、主体の構造をおいた。すなわち、私たちは、経験的な対象を、完全に実在性を持つ、予め与えられた(所与)のものとして受け取るのではなく、むしろ知る主体が、さまざまな特徴を、知られる対象に対して付与するのである。そうした特徴は、そもそも、はじめから対象に付属しているように見えるが、実際は違う。むしろ、それらは、知る主体と、知られる対象の共-創造によるものである。(p.337)

ここで言及されている対象は、現象と置き換えていいと思います。全ての現象は、境界づけられ何らかの形を持っていますが、そうであるがために、認識者から独立ではないと言うのです。例えば視覚的な形態は、視覚能力を持つ認識者の存在の想定のもとでしか現われようがないと思えます。視覚能力を持つ認識者がいないのに、あるいはかつていた事も無かったのに、様々な視覚的形態や色彩で満ち満ちた世界があると想定できるでしょうか。また、概念を構成し理解する能力を持つ人間のような認識者がいないのに、あるいはかつていたこともなかったのに、概念が存在すると想定できるでしょうか。全ての現象は、その現象の在り方を認識できる認識者の存在と切り離すことはできないと思えます。ウィルバー5では、そのような現象世界の在り方に関して、存在は、認識能力によって限界づけられる世界空間において現れるというように考えています。そうしますと、現象は、認識主体に対する対象という側面が必須ですから、主体(認識者)とその対象、あるいは主観と客観という境界づけが、全ての現象の根本にあることになります。この主客の差異化という最も根本的な境界づけは、『意識のスペクトル』などの著作では、原初の二元論と呼ばれています。

宇宙(現象世界)の始まりにおける原初の二元論

 『インテグラル・スピリチュアリティ』では、四象限について次のように書かれています。

象限(内部/外部×単数/複数)は、さらに根本的なものであり、宇宙創成において一人称、二人称、三人称よりも先に分化した(実際それらを生み出した)概念である。(p.434)

もし宇宙(現象世界)に始まりがあるとするなら、そのとき、まっさらな非二元的な基底に、原初の二元論、主客の差異化が起こったはずです。主体と対象が現れることで始まったはずです。それはウィルバーも認めるところでしょうが、先の引用文では、四つの象限の差異化が起こったとされています。どうしてそう言えるのか、ウィルバーは説明していません(所々で、重要なポイントになることの説明をあいまいにするという傾向を私はウィルバーに感じ、彼の考えを正確に追いたい私は、とまどうことがあります)。しかし、私には重要に思えるので、私なりの説明をここでしておきます。対象を認識する主体は、対象と境界づけられることで、実は現象となっているはずです。つまり、主体は対象として現象界にも登場しているはずです。そして、先程述べましたように、全ての現象は、その現象の在り方を認識できる認識者の存在と切り離すことはできないとしますと、主体は見る側の立場と同時に別の主体から見られる対象の立場も採っていなければなりません。そうしますと、現象界の始まりでは、非二元的基底から複数の主体が登場し、またそれらは互いに認識し合うことで対象にもなっているという状況が生じたはずです。これらの主体かつ対象は、いずれも本質は非二元的な基底ですから、基底が、複数の、主体的側面と対象的側面を持つ個的現象として現れ、見たり見られたりを開始したとも言えます。基底をコスモスと言い換えますと、コスモスが自分で自分を見始めることで現象界が始まったことになります。
身近な例として、私達自身のことを考えてみてください。私達は主体として様々な現象を認識しますが、同時に他者から認識されて対象として現象界に現れてもいます。私達は主体であると同時に対象でもあります。現象界に登場するいかなる主体も、ただ主観的に存在するということはなく、主客両面を持つ現象として存在しているということです。しかし私達は同じ非二元的本質を持ちますから、その次元で言えば、私達は一体として互いを見ている(自分で自分を見ている)わけです。
ウィルバー4ではホロンという便利な用語が登場しますが、人間を初めとする、主客両面をもった一切衆生( all sentient beings )を、ここではホロンと呼ぶことにします。ウィルバー・コスモロジーでは、素粒子や原子なども内面を持つとしているため、一切衆生に含まれます。この用語法を使いますと、現象界は、複数のホロンの登場で始まったことになります。
現象界の始まりについての以上の考察を、物理学での考えと比較するとどうなるでしょうか。物理学者ヴィレンキンは、1982年に発表した『無からの宇宙の創造』( “Creation of Universe from Nothing” , Alexander Vilenken, Physics Letter,1982 )という論文で、「文字どおりの無から、量子的トンネル効果によって宇宙はド・シッター空間へと創造された」と述べています。非二元的コスモスが自他の二元論(境界づけ)を行い現象界が生じたことを物質的世界に投影し、それを物理学的に探究するなら、このように表現されるであろうと思えます。非二元は、物理学的には物質も時空もない無と表現するしかないと思えるからです。また宇宙物理学では、宇宙の始まりのすぐ後にたくさんの素粒子が登場したとされますが、これは、主客両面をもつたくさんのホロンが登場したことを物理的な側面において表現しているのだと解釈できそうです。この解釈では、主体としての主観的側面と対象としての客観的側面の両面を持った最も素朴なホロンの、物質的世界への投影が素粒子なのです。実際ウィルバー・コスモロジーでは、素粒子を初め全ての個と扱い得るものは、私達個々人と比べればはるかに素朴でしょうが、それでも主観的側面もあるのだと考えられています。
ところで、現象界の始まりにおいて、主客の両面を持つ複数のホロンが登場したわけですから、ホロンは必ず集合のメンバーとして生じています。そのため、主客という境界づけと、個と集合という境界づけの二対の境界づけが現象界の始まりからあったことになります。これらの差異化を重ねれば、ウィルバー・コスモロジーにあるように四つの象限ができますから、実は現象界にはその始まりから四つの象限があったことになります。複数のホロンによる現象界の広がり(空間)は、本来的に四つの象限に差異化されていたのです。

コスモスの習性(ハビット)

 ところでウィルバー5には、コスモスの習性(ハビット)という考えがあります。私は、この考えによって、ウィルバー5はウィルバー4が志向的一般論の使用に関して受けた批判を免れていると考えます。『インテグラル・スピリチュアリティ』にはコスモスの習性に関して次のように書かれています。

チャールス・パースは、存在としての自然の法則というのは、自然の習性のようなものに近いと言っている。私も同感である。私達は、それを「コスモスの習性」ないし「コスモスの記憶」と呼んでいるが、これによって(存在と認識の)実在(リアリティ)のレベルが再解釈できる。最初にそれらが創発するとき、それは比較的オープンで、創造的であるが、いったん、そこからの特定の反応が何度も繰り返し起きれば、それはコスモスの習性として定着し、ますますふるい落とすことが難しくなる。( p.349 )

ウィルバー・コスモロジーの四象限図(図B-1)において、より原点に近いレベルでの現象の振る舞いは、長く繰り返され続けたために、極めて安定したコスモスの習性になっている場合があり、後の時代にいくほど、それらは所与・アプリオリで動かしがたいものと見なされるようになるというのです。例えば原子についてウィルバーは次のように述べています。

例えば私達人間が今日原子を探究するとき、私達は私達の解釈をそれらにもたらす。しかし私達の解釈はこれらの深く染められたコスモスの習性に対して、相対的にほとんど影響を持たない。それが、粗悪な歪んだ解釈が、原子それら自身の行動によって健全に拒絶される理由である。(http: / / www. kenwilber. com/ professional/ writings/index. html に掲載されているKosmic Karma and Creativityからの抜粋Excerpt Aより)

人間の意識のレベルが上昇するに従って、原子の振る舞いに新たな解釈が与えられます。現代物理学でしたら、量子力学的な解釈が与えられることになるわけですが、原子の振る舞いのパターンは極めて安定したコスモスの習性になっていますから、この解釈によってそのパターンが影響を受けることはほとんどなく、常に同じパターンを調べているのだと安心して、実験観察による科学的な探究を継続していけることになります。人間で言いますと、サバイバルが最大の価値であったレベルは極めて安定したコスモスの習性をもたらしていますから、全ての人間が、ほぼ普遍的に食べ物、住処、水に対する欲求を持っているわけです。
習性になってから時がそれほど経過していないものであれば、それを変えるのは比較的容易なはずです。例えば、前合理的慣習的段階では、利子をとることは不道徳と見なされていたわけですが、投資が莫大な富を生み出す可能性が高くなった合理段階での産業社会では、不道徳とは見なされなくなりました。また、いくつかの先進国では、慣習段階でタブー視されていた同性婚が認められるようになっていますし、あるいは結婚に変わり、自由度の高いパートナーという関係が主流になってきてもいます。これらは、再解釈によってコスモスの習性が改訂された例になると思います。しかし、先程述べました生理的欲求に関する習性や、あるいはもっとさかのぼり、私達を構成する原子の振る舞いの習性などを、再解釈で変えることはほとんど不可能と思えます。それらは実質上アプリオリと見なされてもかまわないものになっているのです。
しかし、原子の振る舞いにしろ、人間の生存への欲求にしろ、根底においては所与ではなく習性ですから、そのパターンを崩すことは極めて難しいとしても、不可能ではないはずです。どれほど覆しがたいと思えても、習性である限り変えられるはずです。ところで、この現象世界でもっとも覆しがたいコスモスの習性といいますと、それは原初の二元論でしょう。あるいは、原初の二元論による四つの象限という枠組みでしょう。より正確に言いますと、四つの象限において振舞うことです。ウィルバー4では、志向的一般論の使用という方法論があったため、この枠組みは覆せないとされていました。それがウィルバー5では、宇宙の初期からの、最も深く刻み込まれたコスモスの習性と解釈しなおされ、覆され得ることになったのです。しかしいかなる状況で可能になるのでしょうか。
覚ったと言われるような人の中には、現象の世界のその本質である非二元ということに自覚的に気づける人もいると言われています。もし、非二元に浸れるとすると、それまで制限を受けていた全ての境界づけから離れ、まっさらな非二元において新たに境界づけを開始する自由を持てるのではないかと推察されます。そうだとしますと、そのまっさらな非二元において、新たに何らかの差異化(二元論)を実行したなら、新たな現象界、宇宙が発生することになるのではないでしょうか(主客以外のいかなる基本的二元論があるのかその内容を想像することは私には不可能ですが)。

結論

 ウィルバー4では、志向的一般論の使用という方法論で、原初の二元論を大枠の一部とするコスモロジーがゆるぎないコスモロジーとされたわけですが、ウィルバー5では、それは宇宙の初期から繰り返し使われ、ものすごく深く刻み込まれてはいるものの、あくまでコスモスの習性としてとらえられることになります。そのため、覆し得ないわけではありません。すなわち、あらゆる構造は脱構築できると言うポストモダニズムの徹底化がウィルバー5では図られているわけです。つまり、ウィルバー4における志向的一般論の使用という方法論は、彼自身によってもはや排除され、ウィルバー・コスモロジーは、トランスパーソナルな洞察に適合するような、ポストモダニズムにおける数あるコスモロジー案の一つになったわけです。
私は、ウィルバー5にはマイアーホッフの批判は当てはまらないと結論します。ただしその理由は、ウィルバーがほのめかすように、「志向的一般論の使用」に代わる「統合的方法論的多元主義」という新たな方法論が登場したからではなく、結局のところ彼が、あるタイプのポストモダニズムを取り入れ、穏当なポストモダニストと実際上何の変わりもない立場に立ったからです。