第4章 ウィルバー1――レトロ・ロマン主義

 前章までで、一応ウィルバーの人生を辿る部分は終えました。今回からは、彼の理論に焦点をあててその変遷を辿っていきたいと思います。
この連載の第一回でも述べたことですが、ウィルバー自身が、自らの思想あるいは理論の変容過程を5つの段階に分けています。その五つの段階を特徴づける言葉を私なりに選んで列記していきますと次のようになります。

ウィルバー1 レトロ・ロマン主義
ウィルバー2 前超の誤謬の認識
ウィルバー3 多くのラインあるいは流れがある
ウィルバー4 全象限・全レベルのコスモロジー
ウィルバー5 統合的なポスト形而上学

今回は、ウィルバー1を扱います。これは、1972年冬、ウィルバーが23歳のとき、処女作『意識のスペクトル』において構築した「意識のスペクトル理論」です。さまざまな学派、あるいは宗派の理論、見解を統合して新たな理論を構築するその手法は、以後の彼の仕事全てを貫くことになります。

電磁波のスペクトル

 ウィルバーの「意識のスペクトル理論」は、そのヒントを電磁波のスペクトルから得ていますので、まずは準備として、波、光、電磁波、スペクトルなどの物理学的な概念について簡単に触れておくことにします。
私達は様々な物体を、そこから発した光を視覚器官で感知することで見るのですが、ここで登場する光とは、電磁波という波(波動)の一種です。
高校時代に理科の物理を選択された方は波について学習しているはずですが、物理を選択されなかった方もおられると思います。そこで、波の特徴が思い浮かべやすい水面波について少し述べてみたいと思います。
水槽に水を張り、水面中央付近の一点を周期的に指先や棒の先端でたたきます。そうしますと、たたいた部分の水が上下に振動します。この振動が周囲の水に伝わると、たたいたところを中心にして広がる同心円状の模様ができます。これが水面波です。波とは振動の伝搬ということです。
波が伝わっている水面の任意の一点に注目しますと、上がったり下がったりするわけですが、上がっているときには山ができていると言います。下がっているときには谷ができていると言います。そうして、時間が止まったと仮定して、水面全体を、波が始まった中央の場所から遠ざかる方向に眺めますと、山ができている場所谷ができている場所が交互に並んでいる様子が見渡せることになります。

図4-1 波長と振幅

この時、山から山までの距離、あるいは谷から谷までの距離を波長と言います(図4-1参照)。水面波の場合、水面の一点をたたいて波をつくるわけですが、たたき方の周期を短くしますと、この波長が短くなりますし、周期を長くすると、波長も長くなります。ですから、同じ水面波でも、波長の長いものもあれば短いものもあるということになります。
電磁波は、水の振動ではなく、電場と磁場とよばれる、方向と大きさを持った量の振動が空間を伝わってできる波です。電場とは、こすり合わせた物体に生じるプラスやマイナスの電気の間で働く、静電気力に関係するものです。また、磁場とは、磁石のN極やS極の間で働く磁気力に関係するものです。
これら電場と磁場との間には次のようなお互いの関係があることが知られています。周期的に変化する電場(振動する電場)は、そのまわりに周期的に変化する磁場(振動する磁場)をつくり、周期的に変化する磁場(振動する磁場)は、そのまわりに周期的に変化する電場(振動する電場)をつくると。
例えば、絶縁体で支えられた二つの金属板を平行に向かい合わせて置き、切り替えスイッチを介して電池に接続します。そうしますと、電池の+極に接続された方の金属板には+の電気が、-極に接続された方の金属板には-の電気がたまります。そうして板の間には+の電気から-の電気に向かって電場が出来ます。切り替えスィッチを入れ替えますと、金属板に接続される電池の+-の極が逆になりますから、金属板にたまる電気の+-も、電場の向きも逆になります。もし、誰かが、スィッチの入れ替えを周期的に行いますと、金属板間の電場の向きも周期的に変わることになり、振動する電場が出来ることになります。そして、先程述べました電場と磁場の関係に従って、この振動する電場は振動する磁場をその周囲につくることになります。そして、できた振動する磁場は、やはり先程述べました電場と磁場の関係に従って、その周りに振動する電場をつくります。そしてその振動する電場はそのまわりに振動する磁場をつくり、………。このようにして、電場と磁場の振動が次々に空間を伝わって波をつくります。これが電磁波です。
電磁波には、水面波やその他の波と同様に波長があります。真空中や空気中ですと、およそ3.8~7.7×10mの波長の電磁波が、目で見ることのできる光、可視光線です。可視光線では、波長の違いは色の違いとして私達には感じられます。最も波長の短いものは紫に、最も長いものは赤に見えます。太陽光や蛍光灯の光はさまざまな波長の可視光線を連続的に含んでいる白色光といわれるものですが、これをプリズムを通して波長ごとに連続的に分けてスクリーン上に映し出しますと、赤、オレンジ、黄、緑、青、紫というように、連続的に変化する虹状の光の帯ができます。これが光のスペクトルと呼ばれるものです。
赤い光より波長の長い電磁波は、赤外線と呼ばれ見ることはできません。また、紫色の光より波長の短い電磁波は、紫外線と呼ばれ、やはり見ることはできません。さらに、赤外線より波長が長いものには電波がありますし、紫外線より短いものにはX線、γ線などがあります。これら、見ることのできないものも含め、電磁波を波長の違いに従って連続的に並べた帯は電磁波のスペクトルと呼ばれます(図4-2参照)。

図4-2 電磁波のスペクトル

同じ電磁波でも、波長が異なると性質も大きく異なります。例えば、赤外線は熱エネルギーを伝える性質が、紫外線は殺菌作用が、X線は物質を透過する性質が顕著です。
ウィルバーは、この電磁波に関する科学的な説明の形式を、人間の意識の説明に利用し、「意識のスペクトル理論」を作り上げたのです。

意識のスペクトル

 電磁波のスペクトルは、その示す波長(あるいは振動数)の違いから、先程述べましたように、電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線、γ線というように、いくつかの帯域にわけることができます。そして、別の帯域を研究すると、同じ電磁波を扱っているのに、全く異なる性質を見出すことになります。ウィルバーは、人の内面、意識の研究に関しても同じようなことが言えるのではないかと考えました。
例えば、西洋の心理学だけをとってみても、精神分析学もあれば、行動主義もあれば、実存心理学もあります。さらに東洋には、仏教やヴェーダーンタといった教えがあります。それらが、同じ人間の意識について異なる理論や異なる見解をもつのは、意識の異なる帯域、あるいはレベルに焦点を合わせているからだとウィルバーは考えたのです。彼は次のように述べています。

意識は多次元的である、あるいは、多くのレベルからなっている。心理学、心理療法、宗教のおもだった学派や宗派は、それぞれ異なったレベルに力点を置いている。したがって、これらの学派や宗派は互いに対立しているわけではなく相補的であり、それぞれのアプローチはそれ自体のレベルに着目している限りおおむね正しく、妥当なものである。こうして、意識に対するおもなアプローチの真の統合が実現可能になる。(『意識のスペクトル1』、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、1985、p.ⅹ)

そして彼は、図4-3に表されるような意識のスペクトル(レベル、帯域)を提示しました。

図4-3 意識のスペクトル

意識の進化

 図4-3には、心、実存、自我、という三つの主要な帯域(レベル)と、超個、生物社会的、哲学的、影という四つのマイナーな帯域が含まれています。また、第一から第四までの二元論が、主要な帯域に併記されています。そこには、意識のスペクトルは二元論によって順に登場してくるのだという考えがあります。ウィルバーは次のように述べています。

この進化を辿るには、各レベルの人間のアイデンティティに注目していくのがもっとも簡単である。というのは、それぞれの主要な二元論は、宇宙から有機体、自我、自我の一部といったように、進むにしたがって狭められ、限定されたアイデンティティ感覚を生み出すからである。(『意識のスペクトル1』、pp.235~236)

では、この進化の過程を順に辿って行きたいと思います。

<心>のレベル

 図4-3の一番下にある宇宙が、あらゆる事物の前提となる基底あるいは基盤です。世界には様々なものがあります。まず私の身体があり、その外側に私の身体ではない全てが含まれる広大な空間が広がっています。このとき、私の身体とその外側の全てとは、皮膚で境界づけられています。境界づけられてはいますが、その境界が存在するということは、共有する空間があるからです。背景となる空間がなければ、どこに境界があるかわからなくなるはずです。『意識のスペクトル』(p.191)では次のような例があげられています。面上に黒く塗られた円が描かれています。もし、円の周囲に白い面が広がっていなければ、円は認識できるでしょうか。円周と言う境界の内側に黒い部分、外側に白い部分があり、それらが共有する紙などの下地があるからこそ境界線が成立し、円だとわかるはずです。

このように、境界があるということは、その外側と内側の両者が共有する下地となる空間があって初めて言えるわけで、内側だけ、あるいは外側だけを持つ境界はありえません。サングラハ教育・心理研究所の講座で、岡野主幹はよくホワイトボードに面を二分する線を引っ張って説明されますが、線を引けば面は二つに境界づけられます。しかし、そのもとになったホワイトボードの面は相変わらず一つの面です。
このようなことは、空間的なことに限らず、全ての識別できる事物・事象について言えるのではないでしょうか。例えば、私という人間には、思考や感情や感覚が生じる、心とか意識とか言われる自分にしか直接的に知りようのない主観と、身体という物理的宇宙の一部である客観があるというデカルト式二元論を考えてみます。このように主観と客観という区別をしたとき、両者は区別されても無関係ではありません。どちらも私についてのものです。この私という共通の基盤があるからこそ、主観的な面もあれば客観的な面もあると言えるのではないでしょうか。考えてみれば、主観だけしかないのにそれを主観的ということに意味はないでしょうし、客観しかないのに、それを客観的ということにも意味はないでしょう。これは、上がなければ下もない、右がなければ左もないという空間における話と同じだと思えます。
全てはこのように、具象的であろうが抽象的であろうが、境界づけられることで現れてくるのだとウィルバーは考えます。そうして、全てには境界づけられて浮かび上がるための共通の基盤があるとし、結局それ自体で存在するものはないとします。そういう意味で、存在は根本においては切れ目のない全体ということになります。この全体をウィルバーは宇宙とかリアリティとか呼んでいるのです。
意識のレベルを考えるときには、この全体を、もっとも基本となるレベルに当てはめ、<心>と呼んでいます(『意識のスペクトル』の原著ではMindという言葉が当てられているため、訳語は心となっています。もちろんこれは、通常の個人の心ではありません。そこで区別するため、このエッセイでは<心>と表記することにします。後には、Spiritという言葉が当てられ、スピリットあるいは霊と通常訳されるようになりました)。ただし、本来は意識に限定されない全ての基盤ですから、意識という限定された領域のレベルとして扱うのは、あくまでも便宜上のことです。
では、この進化の出発点となるレベルでは、より具体的には意識状態はどのようになっているのでしょうか。幼児が持っている意識とはどのようなものなのでしょうか。ウィルバーは有機体的意識という言葉をそれにあてはめ、次のように述べています。

有機体的自覚とは自我のレベルでふつう、不器用にではあるが、見る、触る、味わう、嗅ぐ、聞くという形で言及されているものである。…こういった「感覚的自覚」は、非象徴的、非概念的な瞬間的意識である。有機体的自覚は現在のみの自覚である。われわれは過去を味わったり、過去の匂いを嗅いだり、過去を見たり、過去に触れたり、過去を聞いたりすることはできない。同じく、未来も、味わったり、嗅いだり、見たり、触ったり、聞いたりすることはできない。要するに、有機体的意識にはまさしく時間がなく、時がないために、当然、隔たりがないのである。有機体的自覚は過去も未来も知らず、内部と外部、自己と他者も知らない。このように、純粋な有機体的意識は、絶対的主体性と呼ばれる非二元的自覚に全面的に参与しているのである。(『意識のスペクトル1』、pp.204~205)

幼児の有機体的意識は、いわゆる宇宙意識と同等視されています。
意識のスペクトルの一番下のレベルの話をしてきましたが、それより上のレベルは、存在の基底である宇宙を境界づけることによって生じるとウィルバーは考えを進めます。一つの境界を引くと、それによって二つの領域が生じます。そこでこの境界づけは二元論と呼ばれることになります。特に、「私とは何か」という問いに対する答えともなる、自己感覚あるいは自己同一性の変容をもたらす二元論に着目して、ウィルバーは意識のレベルの発生を考えていくことになります。

超個の帯域

 このレベルは、環境と個の区別が自覚される実存のレベルと、そのような自覚のない<心>のレベルとの狭間になります。それは、環境を自己からしだいに区別し始めてはいるものの、その区別が曖昧であったり、部分的であったりする帯域です。あるいは区別する準備の段階です。
夢を見ない深い眠りの状態や特定の瞑想状態の人が体験するヴェーダーンタのコーザル体、人間の将来の行為すべてに影響を及ぼすカルマが蓄えられているとされる仏教心理学におけるアーラヤ識、あるいはユングの集合的無意識などが、完全に非二元ではないが、しかし個を超えた意識状態であるとして、この超個の帯域に含まれることになります。

第一と第二の二元論と実存のレベル

 有機体的意識のところで「感覚的自覚」ということに言及しました。幼児は感覚をもっているのですが、その感覚において、主体と客体とを区別しているわけではありません。ところが、毛布を噛んでもいたくないのに、指をかむと痛いというような感覚的体験が積み重なると、自分の身体とそれ以外の環境との境界が意識されるようになっていきます。これがウィルバーの言う第一の二元論です。この二元論によって、有機体と環境が分離したものとして確認され、自己は有機体に同一化します。このときの境界は皮膚とほぼ一致させて考えれば良いと思います。そして、この境界づけにより、環境にある他者と自己との隔たりが生じ、空間が登場します。
こうして、有機体と環境とが切り離され、自己を有機体と同一視すると、次にその有機体に対する執着とその非在に対する恐れが生まれてきます。子供の頃、夜寝るのが怖かったのを私は時に思い出しますが、多くの人が同じ記憶をお持ちではないでしょうか。そのまま意識が途切れて、二度と取り戻せなかったらどうしようという恐怖。闇と同一視された無に対する恐怖です。意識が取り戻せず、無に帰するということは死ですから、第一の二元論に引き続き、死の不安という実存的恐怖が頭をもたげたわけです。
ところで、誕生は過去を持たない状態です。人生はスタートしたばかりなのですから。それに対して死は未来を失った状態です。もう私はいないのですから。そして私達が生きている現在そのものとは、過去を持ちませんから誕生した何かです。また未来を持ちませんから死んだ何かです。つまり現在とは、誕生でもあり死でもあることになります。私が現在というこの瞬間を生きているということは、実は誕生と死を同時に体験しているということなのです。ウィルバーはこの事態を、現在の瞬間を生と死に分断し二元論化することで、過去、現在、未来という時制が誕生したのだと説明します。これが第二の二元論です。こうして第一の二元論とこの第二の二元論により登場した時空間における有機体に人間のアイデンティティは移行し、実存のレベルが形成されます。

生物社会的帯域

 実存のレベルを形成した自己対他者という二元論において、必然的に自己は社会の中で他者との交流を持ちます。その交流において有機体は幾分生物学的、大半が社会学的な文化的前提である、家族の構造、文化的信念、神話、言語、法律、倫理、禁忌、論理、規則、超法規(メタ規則)などといった社会的フィルターを吸収し内面化することになります。家庭で、幼稚園で、小学校で、私達は様々なことを学び、躾けられて育ったわけです。
ウィルバーは特に言語の役割を強調しています。言語は、私達にとって、魚にとっての水のようなものであり、しかも区別を生み出すという普遍的な機能を果たすのだとします。そのため、「言語とその子孫である抽象的な知性は、人間の二元論の主源泉なのだ」(『意識のスペクトル1』、p.217)とし、こうして、生物社会的帯域においては、自己は多岐にわたる二元論を、特に言語によって内面化していくことになります。確かに子供用の本には、周囲にある様々なもの、お店や信号機や車や電車などを言葉で区別して教えるための、大きな文字の短い文章と、色彩豊かな絵であふれています。
ところで、人間を精神と身体とに分けた場合、言語活動は精神の活動です。そのため、この生物社会的帯域は、精神と身体を分離し、精神の方に自己の同一性を見出していく第三の主要な二元論を準備しているということにもなります。

第三の二元論と自我のレベル

 実存のレベルにおける有機体とは、身体と精神とを持った全体です。そのため、有機体を半人半獣のケンタウロスと表現することがあります。人の部分が精神を、獣の部分が身体を表わすわけです。ところが、人間が生物社会的帯域を通り抜けていく過程で言語の内面化が進むと、身体は精神によって利用したり操作したりできる道具的な存在としての面が強くなっていきます。そしてついに「私は身体である」ではなく、「私は身体を持っている」という感覚にいたります。このとき、精神と身体は分離され、精神の方に自己は同一化し、その自己が同一化した精神は自我と呼ばれることになります。この分離が第三の二元論です。ウィルバーは次のように述べています。

われわれは実存のレベルを、時間と空間のなかに存在する精神身体的な有機体とのほぼ全面的な同一化と定義した。われわれは自我を、全体的だが生物社会化された精神身体的有機体のほぼ正確な心的・象徴的表出と定義する。(『意識のスペクトル1』、p.221)

例えば、自分を父親であり、エンジニアであり、日本人でありなどと特定の役割やイメージの集合のように捉えているとき、その人は、心的・象徴的表出としての自我と同一化しているわけです。
この二元論には、実存のレベルにおいて直面しなければならなくなった死からの逃亡という要素も絡んでいます。肉体は傷つきやすく、また病に倒れやすいものです。それに対し観念は腐食も崩壊も受けつけないように見えます。「自我」とか「自己」という観念に同一化することで、死を遠ざけるあるいは死から逃避できるように思えるのです。

哲学の帯域

 生物社会的帯域を通過する際に、様々な文化的前提を内面化していき、第三の二元論の準備をすると述べましたが、この哲学の帯域においては、「子供は、両親にとって個人的禁忌となっている経験を自覚しているので、両親に『見棄てられる』ことを恐れ、(生物社会的帯域の)通常の社会的抑圧のほかに、そのフィルターの個人的側面によって自覚にのぼることを妨げられた感情を抑圧する」(『意識のスペクトル1』、p.246)ことになります。例えば、憎しみは悪であるという哲学的な信念を両親が持っていれば、子供は当然その影響を受けることになります。そしてそれが無意識化されフィルターになったものが「哲学的無意識」と呼ばれるものであり、生物社会的帯域とこの哲学的帯域で形成されたフィルターを透過できない感情を無意識化することで、第四の二元論が行われることになります。

第四の二元論と影のレベル

人間は好ましくない自分の自我の諸局面を否認しようとさえする。自分自身の望ましくない面を意識内に取り入れることを拒否するのである。ふたたび、人間のアイデンティティは移行し、今回は、自我のある局面へと移り、われわれが影のレベルと呼ぶ次のスペクトルのレベルを生み出す。(『意識のスペクトル1』、p.169)

とウィルバーは述べています。実際には否定的肯定的を問わず、興味、衝動、欲求、情動、性格などの自我の諸局面が投影され、影になる可能性があるわけですが、特に否定的な面が影になりやすいのは確かです。例えば「私は怒りにとらわれるような人間ではない」という怒りという情動に対する否定的なフィルターが働くと、怒りは生じても、それはすぐに投影され、その人は誰かを怒る代わりに世界が自分を怒っていると感じたりします。そうしますと、次に怒った世界は自分を拒絶していると思い、世界が暗くみえ、憂鬱になって来ます。
また、「私は憎しみにとらわれるような人間ではない」という憎しみという情動に対する否定的なフィルターが働くと、憎しみが生じても、それはすぐに投影され、人を憎む代わりに、その人が自分を憎んでいると感じたりします。情動のベクトルを変えてしまったわけです。
情動ではなく、自分にとって好ましくない自身の否定的性向に直面せざるを得なくなったときにも、直面していますのでなくすことはできませんから、やはり他人の中に投影する場合があります。そうして、投影した先の他者を魔女狩り的に疎外したりします。ときに、裁判官や警察官や教師による不道徳的な犯罪が話題になったりしますが、そのような犯罪にいたる経緯には、普段悪徳を取り締まる側の者に、実は人一倍強く抑圧された当の悪徳的傾向が存在する場合があり、それが表面に出てしまったということが考えられます。
ありふれた欲求の投影の例も一つ述べておきます。学校を終えた中学生のレオ君は、家に帰ったらすぐに宿題を終わらせて、テレビを見たりゲームをしたりしたいという欲求をもっていたとします。ところが、自分の怠惰な性格のため、宿題をしようしようと思いつつも、おやつを食べたり、ちょっとだけテレビを見たり、なかなか机に向かえなかったとします。そんな時、レオ君の母親がソファにいる彼の姿を見て、「宿題はもう済んだの」と一言言うと、宿題をしようとしているのは自分の欲求の一部であったのに、それが母親の自分に対する欲求であるかのように投影し、自分を教育ママゴンの被害者に仕立て上げ、「いちいちうるさいな」と癇癪を起したりします。怠惰という否定的な性格も棚の上に置き忘れています。
こうして、「自らの自己イメージを受け入れられるものにするため、人はそれを不正確なもの」(『意識のスペクトル1』、p.233)にするわけです。そして、この不正確な貧困化した自己イメージは仮面(ペルソナ)と呼ばれ、「外部にあるかのように見える、見離され、疎外され、投影された自我の局面」は影(シャドウ)と呼ばれることになります。
このように、「第四の二元論―抑圧―投影は……無意識の影――自我が意識から追い出し消し去ろうとした、抑圧された特徴や欲望の全て――を生み出す。……もちろん、われわれはある意味でこの影を自覚してはいるが、間接的に、ゆがめられた形で自覚しているにすぎない。というのは、それを『外部』の人や物に投影し、自分では知らないふりをするから」(『意識のスペクトル1』、p247)なのです。そして影は、様々な場面で表面化し、神経症の症状の形を取って人を悩ますことになるのです。

統合による意識の深化

 意識の進化の過程では、宇宙そのものが、二元論の過程を繰り返し、そのたびに現れる二つの領域の一つに自己が同一化することで、人の意識のレベルが形成されるのでした。そのため、スペクトルの階段をのぼるたびに、同一化する宇宙の局面は狭まり、潜在的な脅威に見える疎外された局面が増えていきます。そうして、「実存のレベルでは、自分が周囲の環境から切り離され、潜在的にそれによっておびやかされていると想像する。自我のレベルでは、自分の身体からさえ疎外されていると思いこみ、環境ばかりか身体も、自分の存在にとって潜在的な脅威と感じるようになる。影のレベルでは、自らの精神の一部からさえ切り離されていると思う。こうして環境、身体、そして自分自身の精神さえも異質な脅威と感じる」(『意識のスペクトル2』、p.6)ようになります。
ウィルバーによれば、この脅威を癒す各レベルにおけるセラピーは、そのレベルを創りだした二元論によって分離された領域を統合することで行われます。この再統合の過程は、意識の深化(involution)と呼ばれ、最終的には源泉である<心>の想起へと至ることになります。以下、この深化の過程を辿っていきたいと思います。

仮面と影の統合

 すでに述べましたように、自我の特定の側面を疎外して影にすることで、人は自らのイメージを受け入れられるものにするわけですが、ウィルバーは、この疎外は二つの結果を伴うことになると述べています。

第一に、われわれはもはやこういった側面を、自分のものとは感じなくなる。そのため、それらを用いることも、それらに基づいて行動することも、それらを満足させることもできない。こうして、われわれの行動の基盤は著しく狭められ、縮小され、欲求不満にさらされる。第二に、これらの側面は、いまや環境のなかに存在するかに見える。…自分自身のなかでそれを切り捨て、環境のなかに「それを見」、それによって自らの存在がおびやかされる。(『意識のスペクトル2』、p.9)

そうして、神経症などの症状をもたらすことにもなるわけですが、その根本には分離があるわけですから、自我のレベルにおけるセラピーでは、自らの忘れ去られた性向を思いだし、再所有する、あるいは自らの投影された局面、影と再同化を果たし、再結合することで症状が治癒されると考えられるわけです。例えば、進化の過程の方で述べました中学生の欲求の投影の例では、彼は、勉強をするのは、母親の強制ではなく、自分自身の欲求の一部だと思い出し、自分の中で解決すべきことだと気づくべきなのです。
再統合することで、「仮面と影との分裂は『全体化されて癒され』、わたしはおのずと正確かつ受け入れ可能なひび割れのない自己イメージ、つまり、心身一体となった完全な有機体の正確な心的表現を発展させる…。わたしの精神はこうして統合され、わたしは影のレベルから自我のレベルへと下降する」(『意識のスペクトル2』、p.51)ことになります。そうして、それまで異質かつ危険で、まったく制御不可能なものだと思われていた精神のすべての面を含む正確な自己像に至りつきます。特に否定的な側面を統合するには、友達を許容するのと同じやさしさと理解で自分自身を扱う必要があるとウィルバーは言います。
自分の否定的影を再所有することで、それに基づいて行動することになっては、治癒と言うよりは退化と言うべきではないかと思われるかもしれません。しかし、自覚的に再所有することは、必ずしもそれらに基づいて行動するということではありません。そういったものが無意識な領域に抑圧されている場合こそ、無自覚に影の命令に従い、取り返しのつかないようなことをしてしまうのです。

自我と身体の統合

 進化の過程において自我と身体との分離が果たされる際には、その準備段階として、生物社会的帯域がありました。生物的な部分では、例えば、フロイト的なコンプレックスのもとになる、性などに関する禁忌が、社会的な部分では、倫理や様々な文化的要素が、私達の無意識化されたフィルターとして内面化されるわけですが、それらが、バイアスがかけられる以前の「実存的自覚の領域と、その領域を『表す』ものとわれわれが素直にも信じている抽象的な地図および意味との間に横たわる広大な溝(ギャップ)を表す」(『意識のスペクトル2』、p.66~67)わけです。
その地図の中には、その地図を形成するのに主要な働きをした言語を擁する精神と身体との二元論、そして精神の身体に対する優位性が組み込まれています。そのため私達は、「私は身体である」ではなく、「私は身体を持っている」という感覚を持つようになるわけです。例えば英語では「頭痛がする」というのではなく、「頭痛を持っている(I have a headache)」と言いますが、このような言語表現を日常的に使っていれば、確かにその論理が子供の心理に組み込まれていくことになることでしょう。ウィルバーは少々極端に次のように述べています。

人間とは心であると主張する人々は、ふつう、身体のなかでは何ら興味のあることは進行しておらず、そこに意識を置くことは実に退屈な行為でしかないと主張する。
………
こういった偏見は哲学的および生物社会的無意識の内に深々と埋め込まれている。
(『意識のスペクトル2』、p.102)

分離した心と身体の統合(セラピー)は、おもに心の方からアプローチしていくものと、おもに身体の方からアプローチしていくものとの二つに大別されます。ウィルバーは前者のグループとしては、実存分析、人間性セラピー、ロゴセラピーを、後者のグループとしては、構造的統合、ハタ・ヨーガ、ポラリティー・セラピーを例として挙げています。
そして、統合によって、実存のレベルへと深化すると、自己感覚に身体も含まれることになります。私は、「自分の身体を持つ」のではなく、「自分は身体でもある」と感じるようになるわけです。「私は頭痛を持っている」のではなく、「私は頭において自分自身を傷つけている」のです。「私の心臓が血液を送り出している」ではなく「私が自分の心臓で血液を送り出している」のです。

実存のレベルでの不安

 精神と身体との統合により、全的有機体としての自己感覚を再復するわけですが、その個としての自己感覚は、もともとは、進化の過程において、第一と第二の二元論によって発生したのでした。第一の二元論(原初の二元論)によって、有機体は環境(他者)と分離されます。次に、その有機体における、存在と無あるいは生と死という第二の二元論が、有機体に時間感覚を持たせます。誕生とは過去をもたないことであり、死とは未来を持たないことであり、現在は誕生と死とを併せ持つのでした。
そしてウィルバーは、この二つの二元論の否定的側面として、自己と他者の衝突(「他者は地獄」)や、存在と無との衝突(「死に至る病」)、さらには、そのような衝突や争いにともなう「恐れとおののき」を指摘しています。
実存のレベルにおいて、実存主義哲学は、これらの否定的側面に次のように対処します。まず原初の二元論に起因する自己と他者の衝突ですが、「世界内存在」という用語もありますように、世界内における存在であるということを自覚的に受け入れ、自己対他者という二元論を他者と分かち合うことによって対処します。そして、第二の二元論に起因する存在と無あるいは生と死の衝突による不安のほうですが、その運命を直視し受け入れること(実存的決断)で対処します。「たとえ自分の運命を選ぶことができなくても、運命に対する態度を選ぶことができ、その点にこそ実存的自由が存在する、という自覚」(『意識のスペクトル2』、p.116)によって対処するわけです。しかしこれらは、「発生してしまったそれらの二元論を根元から切り倒すのではなく、できるだけ健全な方法でそれに対処する」(『意識のスペクトル2』、p.114)だけです。
この第一あるいは第二の二元論の否定的側面に対する対処には他にはどのようなものがあるのでしょうか。自我のレベルでは、第二の二元論に対しては、腐食しそうもない観念による見せかけの不死性に逃げ込むことが考えられましたが、実存に目覚めたものには受け入れられない対処法です。
公的宗教では、原初の二元論に対しては、それを他者と分かち合うのではなく、「偉大なる他者(神)を崇める」ことによって対処し、第二の二元論に対しては、死を受け入れるのではなく、例えば天国での永遠の生によって死を否定することで対処します。この公的宗教の対処は、たとえ偉大であろうとも、結局は他者を認めているわけですから、実存のレベルを超えるものではなく、「発生してしまったそれらの二元論を根源から切り倒す」対処法ではやはりありません。
ウィルバーは、各宗教には、バラエティに富んだ公教的な部分と、他宗教と共通している秘教的な部分(神秘主義)とがあるとし、これら二つの部分について次のように述べています。

秘教的宗教と公教的宗教とを分かつこの分割線は原初の二元論にあたる。原初の二元論の「上」に、実存的―生物社会的レベルが横たわり、その「下」に、<心>のレベルが横たわっている。<心>のレベルを体験し、それについて語るために実存―生物社会的レベルに上昇する者は誰であれ、その「宗教的」体験を、自らが操ることのできる唯一の象徴、すなわち、生物社会的帯域が提供する象徴で粉飾せざるをえない。……公教的宗教の多様性は、文化的なイデオロギー、特異性、パラダイムの多様性、つまり生物社会的帯域の多様性を反映する。(『意識のスペクトル2』、p.120)

つまり、公教的ではない秘教的部分にこそ、文化的なバイアスのかかっていない<心>のレベルでの体験が秘められているわけです。そしてこの「神秘主義が、有機体全体と環境との原初の分裂を癒し、全宇宙(<心>のレベル)を回復する」(『意識のスペクトル2』、p.125)ことになります。

有機体と環境との統合――<心>への帰還

 <心>のレベルと実存のレベルの間には、超個の帯域があります。この帯域についてウィルバーは次のように述べています。

超個の帯域は、個人が<心>に触れ始める地点を表わすといってもよかろう。彼はいまだ直接的には自分の正体が<心>であることを理解していないが、洞察と体験をとおして、実際に自分の内に、自分を超えた何かが存在していることを理解している。(『意識のスペクトル2』、p.139)

洞察としては、ユングが元型の直接的具現とみなした神話があります。ウィルバーの考えでは「神話は、統合的でパターン化されており包括的である。それはほかのいかなる象徴的体系よりも真実に近い実在(リアリティ)の表現である。神話は、それ自体、すべての二元論を廃絶するわけではないが、それらを停止させる」(『意識のスペクトル2』、p.136)ことができるのです。また、体験としては、身体離脱体験、アストラル旅行、透聴、そしてユングの元型自体をウィルバーはあげていますが、確かに、これらの体験は、通常の個の範囲を超えた体験です。
しかしこれらは、洞察であったり、あるいは、個と環境の二元論の一部を壊した体験であったりするのですから、完全な非二元的な<心>の体験ではありません。何故なら「ある意味であなたは<心>を見ることができない。なぜなら、<心>とは見るものだからだ。しかし、別な意味で、あなたは<心>以外のものを決して自覚することがない。なぜなら<心>は見られるものすべて」(『意識のスペクトル2』、p.142)だからです。洞察は、あくまでも察して見ているのですから、見ることのできない<心>には達しません。超常体験は、個と環境の境界の一部を超えただけで、ほとんどの部分では、相変わらず生物社会や自我のレベルで形成した、世界を見るための地図を通して見ています。<心>においては、全ての二元論が超えられているわけですから、洞察する主体と客体とは超えられていますし、主体が見るために創られた地図の全ても超えられているはずです。それでは、本来語られそうもないこの非二元的なレベルとは、あえて語ろうとするなら、どのように語られることになるのでしょうか。ウィルバーは次のようなエックハルトの言葉を引用しています。

愚かな人々は、神があちら側にいて、自分がこちら側にいるような形で、神を見ると考える。そうではないのだ。神とわたしとは、わたしが神を知覚する行為のなかで一つなのである。(『意識のスペクトル2』、p.183)

今回のエッセイの冒頭の方でも述べましたが、<心>とは、全てに共有される基底です。いつも、そこにあるわけです。従って逆説的な言い方になってしまいますが、「<心>のレベルとは、われわれの現在のふつうの意識状態」なのです。そして、このふつうの意識状態を自覚し、「人間が宇宙と一つであるとき(原初の二元論がないとき)、彼の外には彼の存在をおびやかすものはまったく存在し」(『意識のスペクトル2』、p.198)なくなります。同時に、原初の二元論を前提としていた存在と無の論争(第二の二元論)もなくなります。その一方で、「原初の二元論を治療することによって、われわれは自分たちにおこるあらゆることに対して責任を担うこと」にもなります。何故なら、「今、自分に起こっていることは、自分自身が行っていることだからである。自分の活動が世界の活動であり、またその逆もなりたつためにそうなるのである。わたしと世界がもはや分離していないとすれば、『それ』が『わたし』に対してすることと、『わたし』が『それ』に対してすることは、一つの同じ活動」(『意識のスペクトル2』、p.260)になるからです。

「意識のスペクトル理論」のまとめ

 意識のスペクトルを、その進化と深化の過程にそって辿って来ましたが、ここで、いくつかの特徴を箇条書きにまとめてみたいと思います。

・意識の進化のスタートにおいて、すでに全てはあり、一体化している。
・二元論によって、自己とみなされるものとそうでないものが分割される。
・二元論が重なっていくことによって分割は進み、自己と見なされる領域は狭められていくが、それが仮面になったところで、狭めることで進行してきた進化は終わる。
・次に意識の深化と呼ばれる統合の過程が始まり、最終的にスタートと同じ、全てとの一体化の状態にもどる。
・進化とは、度重なる二元論による傷害の悪化の過程であり、深化とは、統合によるその治療の過程と見なされる。

最後の項目に、分離ということに対する、ウィルバーの否定的な価値観が見てとれます。そして、赤子と同じ意識レベルに戻ることで治療は完結し、最善の状態になるわけですが、この考えの故に、ウィルバー1はレトロ・ロマン主義という言葉で特徴づけられることになります。

前超の誤謬

 ウィルバーは今回ご説明いたしました意識のスペクトル理論に、前超の誤謬と呼ばれる大きな欠陥を見出すことになります。
幼児の有機体的意識を<心>のレベルと同一視するなら、それは全てのレベルを含んでいることになります。もし、進化の過程における二元論で新たなレベルが生まれるのだとすると、幼児の有機体意識にそれらが含まれているのは矛盾することにならないでしょうか。赤ちゃんは話せないし、自我も持っているとは思えません。そこでウィルバーは、幼児の有機体意識は前パーソナルであるとし、個を超えたトランスパーソナルな意識とは区別して考えるようになります。これが次回ウィルバー2の説明の主題となります。