第3章 伝記編――コスモロジーの創造と展開
トレヤと結婚する前に、すでにウィルバーは執筆というダイモンを見出し、自己実現のレベルに達していました。そして、さらなる高みであるトランスパーソナルなレベルへとその意識の重心を移行させるため、禅の修行なども遂行していたわけですが、そんな彼にも、健全にその高みに移行するには障害となる病理がありました。それが、愛されることに対する過剰な執着という古典的な不安神経症です。
この不安神経症がある限り、仮に意識の重心がトランスパーソナルなレベルに移行したとしても、自我への執着という影に脅かされ続けることになってしまいます。そういう事態を避けるには、今一度自我への執着を強烈に味わい、その病理的な姿を浮き彫りにして眺め、客観化しておく必要がありました。つまり、トランスパーソナルなレベルにすでに片足踏み込んでいるともいえる自己実現を一時的に失い、ナルシシスティックな自我を前面に登場させる退行が必要だったわけです。
その必要な事態を実現させてくれたのが、トレヤという女性でした。トレヤとの結婚生活における修羅の日々は、彼にナルシシスティックな自我を存分に味あわせ、その姿をまざまざと自覚させ、そしてついに、不安神経症を乗り越えさせたのです。それは悲劇的なものであったのですが、彼が意識の重心を何ものにも脅かされることなくトランスパーソナルなレベルへ移行させるために、決定的な役割を果たしたのでした。
こうして、障害を取り除いたうえで修行を再開し、ウィルバーは意識の重心をより深くトランスパーソナルなレベルへと移行させていくのですが、それに伴い、彼の思想に質的な変化が生じてくることになります。
沈黙の修行
ウィルバーはもともと(80年代から)、”System, Self and Structure”(『システム、自己、構造』)とタイトルが予定されていた統合的な心理学のテキストブックを書こうと思っていました。しかし、そのころ(1991年ごろ)主流となっていた思潮は、内面あるいは価値を生じる階層性を全く理解しようとしないフラットランド的なホーリズムでした。そこでは、人は、内面を含まない「生命の織物」と呼ばれる物理的全体における網目の一つであるとみなされたり(科学物質主義的フラットランドホーリズム)、あるいは、内面が重視される場合でも、伝統的なスピリチュアルな世界観におけるその深度は全く打ち捨てられたりしていました(ポストモダンによる価値相対主義のフラットランド)。
このような状況を目の当たりにしたウィルバーは、統合的な心理学のテキストブックは脇に置いて、フラットランドホーリズムを打破する、彼の統合的な哲学を詳しく書くことにします。それがコスモス3部作であり、その第一部がSex, Ecology, Spirituality(『進化の構造』)だったわけです。
この『進化の構造』を執筆するために、週に7日、1日10時間を著作のためにあてるという、禁欲的な生活にウィルバーは戻っていきます。そして、通常であれば一年ほどで一冊の本を執筆するウィルバーでしたが、『進化の構造』には例外的に、1991年(42歳)から1994年(45歳)までの3年間を費やしました。理由は、あらゆる学問分野の成果をひとつにまとめることを試みたからです。それは、「私は本当に世捨て人になったのです。実際、食料品の買い出しなどからも遠ざかり、三年間はきっかり四人の人間にしか会いませんでした」(『ワン・ティスト 上』、青木聡訳、コスモスライブラリー、2002、p.201)と述べられることになるような沈黙の修行となりました。
この修行の最悪の時期は、黙想に入って七ヶ月のときに始まりました。三ヶ月から四ヶ月の間、毎日仕事を終えると座りこんで泣いたと言います。そして、他者との皮膚接触が絶たれていたため、皮膚渇望という原初的な貪欲がウィルバーに襲いかかりました。それは極めて強烈であったため、そこから自分自身を解放できるまで修行を深めたころには、夢見の状態、深い眠りの状態にも持続する、鏡のような気づきの意識を彼は認め始めるまでになります。
このようにして、トランスパーソナルなレベルに意識の重心が深く移行していく中で、ついにウィルバーはコスモスがもつ四つの側面を見出すことになります。『万物の歴史』(大野純一訳、春秋社、1996)にはその経緯が書かれていますので、少し長くなりますが引用してみます。
さまざまな「ニューパラダイム」の理論家――全体論者からエコフェミニスト、ディープ・エコロジストからシステム思想家まで――を見てみると、全員が種種さまざまなホラーキー、種種さまざまなヒエラルキーを提示していることがわかります。反ヒエラルキーのエコロジー哲学者でさえ、ふつう、原子は分子の部分であり、細胞は個別生物体の部分であり、個別生物体は家族の部分であり、家族は文化の部分であり、文化は全生物圏の部分である……といった類の自分自身のヒエラルキーを提示しています。それらが彼らの定義するヒエラルキー、彼らの定義するホラーキーで、「生物圏(バイオスフィア)」が何を意味するかについてのある種の混乱を除けば、かなり正確なホラーキーです。
そして同様に、正統派の研究者は彼ら自身のヒエラルキーを提示しています。道徳的発達、自我の発達、認識力の発達、自己欲求、防衛機制、などなどにおけるヒエラルキーが見出されます。そしてそれも、だいたい正確だと思われます。また、マルクス主義から構造主義、言語学からコンピュータ・プログラミングまでのあらゆるものにも発達論的ヒエラルキーが見出されます。それは、まったく果てしないのです。
言い換えれば、気づいていようといまいと、これまで提供されてきた世界についての地図のほとんどは、ホラーキーを避けることは不可能である(なぜならホロンをさけることは不可能だから)という単純な理由のため、実はホラーキー的なのです。世界中――東と西、北と南、古代と現代――から文字どおり何百ものこうしたホラーキー的地図が得られ、そしてこうした地図の多くはおまけに地図製作者を含んでいたのです。
そこである時点で私は単純にこれらホラーキー的地図のすべて――従来のものおよびニューエイジのもの、東洋のものと西洋のもの、前モダン、モダンおよびポストモダンのもの――システム理論から「存在の大いなる鎖」まで、仏教徒のヴィジュニャーナからピアジェ、マルクス、コールバーグ、ヴェーダ―ンタ哲学のマヤコーシャ、レーヴィンガー、マズロー、レンスキ、カバラ、などなどまであらゆるもののリストを作りはじめました。私は文字どおり数百ものこうしたもの、つまりこうした地図を床一面にびっしりのリーガルパッドの上に広げてみました。
………………
………こうしたさまざまなホラーキーを見れば見るほど、実際には四つの非常に異なるタイプのホラーキー、四つのタイプの非常に異なる全体論的順序があることがわかってきたのです。言われるとおり、それはこれまで指摘されたことはないと思います――たぶん、ばかばかしいほど単純だったからです。いずれにせよ、それは私にとってはニュースでした。が、いったんこうしたホラーキーすべてをこの四つのグループにわけてみると――そして、それらはその時点ですぐにぴったり収まったのです――各グループの各ホラーキーは同じ領域を扱っているのですが、しかし全体的に見ると、いわば四つの異なる領域があるということが非常にはっきりしたのです。(pp.110~112)
引用文中に、ホラーキーというまだ一般的には使用されていない語が登場していますので、それについてまずはご説明しておきたいと思います。
分子は原子を含みますので、原子に対しては全体です。しかしながら、分子の中には、細胞に含まれているものもあります。それらの分子は細胞に対しては部分です。このように、あるものに対しては全体でありながら、別のあるものに対しては部分であり得るものを、ホロンと言います。そしてこの部分と全体の系列によって現れる階層をホラーキーと言っているのです。
さて、引用文に描写されていることに戻りますが、以前は意識がトランスパーソナルなレベルへと発達していく過程にウィルバーの主要な関心は向けられていました。それが、この沈黙の修行の時期では、すでにトランスパーソナルなレベルに彼自身の意識の重心が移行してしまったせいなのでしょう、その高次な意識レベルから眺めることで顕わになる世界の有様の方へと彼の関心が移っていた様子がまざまざとうかがわれます。そして引用文最後に述べられている四つの領域が、彼の『進化の構造』以降の思想の柱の一つとなる、内面と外面、個と集合という二つの対となる概念を重ね合わせてできる、個的内面、個的外面、集合的内面、集合的外面という世界の四つの側面(以下四象限とも言うことにします)だったのです。
これら四つの側面を世界は持っているということは、多少哲学的な知識がある人にとっては、言われてみれば自明なことに思えるのでしょうが、ウィルバーが指摘していますように、明確に語られたことはなかったと思います。そしてこの四象限を柱として世界観が構成されたことに、私はウィルバーの意識の重心が十分にトランスパーソナルなレベルに移行していたことの証を見ることができると思うのです。何故そう思うのかを、ご説明したいのですが、その準備としまして、パーソナルなレベルとトランスパーソナルなレベルとでは、見えてくる世界の有様に、あるいはその有様を描いた地図に、そもそもどのような相違が現れるはずなのかということを、まず簡単に考察しておきたいと思います。
パーソナルな世界観とトランスパーソナルな世界観との基本的相違について
その1 「我惟う故に我あり」と内面の私秘性
パーソナルな意識レベルでの代表的な思想家として、私の心に即座に浮かんでくるのはデカルトです。彼は『方法序説』(岩波文庫、谷川多佳子訳)の中で次のように述べています。
わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして『わたしは考える、ゆえにわたしは存在する[ワレ惟ウ、故ニワレ在リ]』というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。
それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。(pp.46~47)
デカルトは身体がなくても私が存在するということを仮想としてしか主張していないのですから、身体の存在が私の存在の必要条件となる可能性を否定しさったわけではありません。ですから、この引用文の後半における、「私」の実体性についての議論が短絡な議論になっているとは思いつつも、パーソナルな意識レベルにある私は、デカルトの言葉の主調に共感します。今この文章を考えながら書いている自分の存在に、何にも増してリアリティを私は感じるからです。眼を閉じて外界のなにものも見えなくなっても、そのように見えなくなったと思っている私がいます。
個としての私には、それが私の存在の十分条件ではないにしても、確かに身体があります(おそらく必要条件になるのでしょう)。そしてそれは外界とつながっています。外界の一部であるわけです。ではその一部をなぜ私の身体であるとみなすのかというと、動かそうと意図するとその意図どおりにこの手足を動かすことができるし、何かがぶつかってくれば、その衝撃の感覚を持つからです。私の身体でないものは、意図しても動きませんし、それらに別のものがぶつかっても、私は何も感じません。
これらの私の意図や感覚は、デカルトが「私」の存在証明の根拠とした思考が生じる心と呼ばれる領域にやはり生じます。そして私の思考や感覚などが生じるこの心と呼ばれる領域は、他の人には私と同じようには決して知られることがない、外界からは隠された内面だと思われます。身体は外界の一部で外面であり、他の人からも直接見られたり知られたりしますが、この心という内面は、自分だけが直接知りえる、私秘的な性質を持った、私の核心であると思われるのです。
長々と書いてきてしまいましたが、デカルトの言葉を参考に考えると、パーソナルなレベルでの自己感覚は次のようになると思います。「私には身体という客観的な側面と、心という主観的な側面があり、そして私という存在の根拠は、主観的で私秘的な心の存在にこそ求められる」。
そしてデカルトは、思考する「私」の明証的な存在性から、他の様々な事物の存在が芋づる的に証明されていくように考えを展開していくのですが、先程述べました個の内面の私秘性を認めますと、もし他者について仮に内面(心)があったとしても、その私秘性の故に、私からはあるともないとも言えないことになります。そうしますと、この世界は、私の内面と、私の身体(外面)がその一部になっている外部世界とからだけできていて、私以外の一切の内面は存在しない可能性が生じてきます。一種の独我論ですが、パーソナルなレベルに意識の重心がある人には、この独我論は否定しきれないことにならないでしょうか。全ての他者は、心を持たないロボットのような存在なのかもしれないのです(ロボットは心を持っていないと一応仮定しました)。
その2 私秘性を超えるトランスパーソナル
では、トランスパーソナルなレベルに意識の重心がある人には、独我論の可能性を生じてしまう内面の私秘性はどのように見られるのでしょうか。
トランスパーソナルということは、個を超えているわけです。そうしますと、そのレベルの意識では、私という個も、他者という諸個も同じようにながめることができるはずではないでしょうか。ウィルバーの言う<観照者>の意識では、そのような眺望を当然持つと考えられています。ここにこそ、パーソナルなレベルとトランスパーソナルなレベルとでの、見えてくる世界の有様の本来的な相違が現れる本源があると私は思います。
パーソナルなレベルにおいては、仮にあるとすればその人にしか知り得ないとされた内面が、個を含んで超えたトランスパーソナルな<観照者>には知られ得ることになるのです。このような<観照者>的体験を報告している例として、『進化の構造1』(松永太郎訳、春秋社、1998)から、量子力学の波動方程式にその名がつけられてもいる、著名な物理学者、エルヴィン・シュレーディンガーの言葉を引用してみたいと思います。
あなたを突然無から呼び出し、しばらくのあいだ、このあなたにはまったく無関心な光景を楽しませているものは何か。あなたの存在の条件はまわりの岩と同じくらいに古い。何千年にもわたって男は戦い、苦しみ、子どもをつくり、女は苦しみの中で子供を生んできた。100年ぐらい前にも、この同じ場所に男、あるいは女が来て座り、あなたと同じように息をのみ、切実なる思いで夕陽の中に消えて行く氷河の光景を見守ったのに違いない。あなたと同じように彼は男と女から生まれた。彼はあなたと同じように苦しみ、束の間の喜びを感じたであろう。彼は誰かほかの人間だろうか。彼はあなた自身ではないのか。このあなたの「自己」とはいったい何か?(p.9)
トランスパーソナルなレベルで体験されたことは、原理的に、パーソナルなレベルの言語で完全に表現することはできません。超えたレベルで知られたことは、超えられたレベルでは把握しきれないと言うことです。従って、<観照者>のレベルで知られたことは、その土台になっているパーソナルなレベルに意識の重心が戻っていたり、あるいはそのレベルで表現したりする際には、実感の薄まった色褪せた推測でしかなくなってしまうことでしょう。
テレパシーと呼ばれる超能力現象のような、非常にリアルに感じられる他者の意識についての体験も、語られる時には、話者のパーソナルな解釈のもとで語られているわけですから、基本的には推測の域にとどまらざるを得ないのだと思います。そのため、今引用しましたシュレーディンガーの言葉も、パーソナルな意識で表現されなければならなかったために、疑問形の形になっていますが、それでも私には、実際に彼が時空を超えて、トランスパーソナルなレベルで、氷河の光景を前にしてその美しさに息をのんだ他者の内面を体験したことについて述べているように思えるのです。
しかし仮に推測の域にとどまるとしても、上位のレベルで見た事は下位のレベルでも、工夫することで、それなりに詳細に表現することは可能だと思います。例えば、3次元あるいは4次元(あるいはそれ以上の次元)の立体あるいは超立体の在り方は、2次元の平面上で展開図あるいは透視図として表現はできます。同様に、トランスパーソナルなレベルで見た事は、見取り図あるいは地図という形でパーソナルなレベルでもそれなりに表現できると思うのです。
それでは、もしトランスパーソナルなレベルで見えた事をパーソナルなレベルで表した地図があるとすれば、そこに必ず含まれていなければならないことは何でしょうか。これまで述べてきましたように、パーソナルなレベルでは他者にはあるのかないのかも知り得ないとされている内面が、トランスパーソナルなレベルでは確かめられることになるのだとしますと、どの人にも、外面だけでなく内面もあるのなら、トランスパーソナルなレベルに意識の重心が移行した人の描く地図にはそのことが疑問の余地のないこととして組み込まれているはずです。
コスモスの地図
1994年、三年間の沈黙の修行の成果として、Sex, Ecology, Spirituality (『進化の構造』)が完成し、1995年に出版されます。1996年には、『進化の構造』のダイジェスト版とでも言える、A Brief History of Everything(『万物の歴史』)が出版されます。“A Brief History of Everything”というタイトルは、1988年に出版されてベストセラーになった、物理学者スティーヴン・ホーキングの A Brief History of Time (『ホーキング、宇宙を語る』、林一訳、早川書房、1989)を意識してつけられたのだと思います。世界は物質的な側面だけでできているのではないという気持ちがそこには込められているのでしょう。
『進化の構造』と『万物の歴史』には、個と集合の座標軸と、内面と外面の座標軸によって張られる四つの象限における、進化と発達という、万物を説明するコスモスの地図が創られていました。このコスモスの地図の最も簡潔なものを、ここに掲げておきたいと思います。
(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)
先程述べましたように、トランスパーソナルなレベルでは、別の個も同等に味わうことができるのでしょうから、私という個に内面と外面を認めることができるのなら、別の個にも内面と外面の両方があるのかないのかを確かめることもできるはずです。そしてあるということが確かめられたとしますと、内面と外面を持った多数の個が存在することが疑問の余地のない事実として立ち現れることになります。そして多数ということは、そのような2面性を持った個の集合があるということですから、内面と外面そして個と集合の重なりによって創られる四つの側面の存在が、トランスパーソナルな意識レベルでは全く当たり前のこととして立ち現れてくることになるでしょう。
ウィルバーのコスモスの地図にある四象限は、このように推測できるトランスパーソナルなレベルでの認識の特徴を見事に表わしています。そのため、この四象限を柱として世界観が構成されたことに、私はウィルバーの意識の重心がトランスパーソナルなレベルに移行していたことの証を見ることができると考えたわけです。
ウィルバー以前にも、トランスパーソナルな視点からコスモスの地図を創ろうとした人は多々いたのだとは思います。しかし、20世紀も後半にならないと、相対性理論及び量子力学を背景とするビッグバン理論、分子生物学を背景とするDNA遺伝学、そして散逸構造の理論等々、ヴィジョン・ロジックという認識能力を自然界の把握のために駆使して初めて得られる現代科学の成果はいまだ現れていませんでした。したがって彼らは、ウィルバーのように、それら宇宙全体の進化を説明するための核となるような成果も視野にいれてコスモスの地図を創ることはできなかったのです。
ところで、図の右上象限の個的外面においては、原子から複合新皮質をもつ人間までの進化の階層が挙げられています。それら全てには、対応する内面が左上象限に描かれていますから、ウィルバーは、最も低いレベルでは、原子あるいは素粒子にまでも、人に心と身体があるように、外面に対応する内面があることを、トランスパーソナルなレベルで確認できたのでしょう。
この地図については理論編で詳しく扱うつもりですが、その意味することは結局次のことです。「ここにはコスモスの包括的な枠組みが表わされている。そして私達一人一人が、驚くべきことにそのコスモスそのものでもあるのだ」。どの人の個的内面も、コスモスそのものの個的内面なのです。このことは、おそらく多くの人が、ヴィジョン・ロジックという思考能力を働かせて、ウィルバーの著書を丁寧に読むことができれば納得するはずです。しかしそれは、パーソナルな意識レベルの人が、ウィルバーの著作に啓発されて初めて理論的に、そして見取り図的に理解するにすぎないのであり、独自にその世界観を提出したウィルバー本人は、トランスパーソナルな意識レベルから、実感的にコスモスを眺めることができたていたはずだと私は思うのです。そしてこのトランスパーソナルなレベルで見た事の、パーソナルなレベルでの極めて包括的な見取り図の作成ということが、私にとっては、ウィルバーが『進化の構造』で成し遂げた最重要な事柄だったと思うのです。
天空から地上へ
沈黙の修行を通じて、ウィルバーの意識の重心は、トランスパーソナルなレベルへ深く移行することになり、そして、そのレベルでの認識能力を通じて世界を見渡し、見えた事をパーソナルなレベルでの展開図として、コスモスの地図に表わしました。
ところで、トランスパーソナルなレベルに移行することは、個を超えることですから、個として死ぬことも、個としてより誠実に生きることも、個に心底執着しているパーソナルなレベルにおける場合のようには怖くなくなります。そのため、ウィルバーは、今まで以上に、生きる過程で生じる悩み、苦しみ、悲しみを強く感じはしても、同時に、それらはもはやたいしたことではないとも感じていたのだと考えられます。
そして個を超えた人生の<観照者>であるとき、そこには、個からの究極的な解放があるのでしょう。サングラハ教育・心理研究所での『維摩教』の講座で、岡野主幹が小乗仏教の覚りについて、「全てを手放したら自由になった、天空に行けた」と語っておられましたが、沈黙の修行当時のウィルバーの心境は、この小乗仏教の覚りの境地であったのだと思います。
しかし、コスモスの地図に表現されている世界観では、どの人も、その個的内面は、コスモスそのものの個的内面だということです。それは、やはり岡野主幹が大乗仏教の覚りについて、「全てを手放したら、全ては私のものでした。私は宇宙でした」と語っておられたのと同じだと思います。沈黙の修行中、ウィルバーは小乗的な覚りの境地で天空を飛び回り、そこから世界を眺め渡していたのでしょうが、その結果得られた実感的理解は、大乗的な世界観でした。彼は『ワン・ティスト 上』の中で次のように述べています。
無形の<観照者>として休息することは、根源的な解放と抵抗しがたい義務の両方をもたらす。解放とは、あなたが物質世界の束縛から自由になり、プロセスの中だけに生き、死に、そして苦しむようになることである。そして義務とは、この解放の無限の空間において、他者も同じ救済、すなわち彼ら自身の最も真なる<自己>そして最も深い<状態>――純粋な<空>、純粋な<スピリット>、純粋な神性――を見出すように助力するべく駆り立てられるのを感じることである。(p.121)
解放は小乗の境地から、義務は大乗の境地から生じてくるものだと思います。What really Matters ( Tony Schwartz, Bantam Books, 1995 『本当に大切なこと』)の著者、ジャーナリストのトニー・シュウォーツとの交流を通じて、人間の成長と変容に関する統合的アプローチをより多くの人々に向けて発信する必要性に気づかされたウィルバーは、表舞台へと出て行きます。「あなたは、自分自身の根源的な実現を認めてもらうために、耳を貸さない世界に対して穏やかにささやくことを考えた事はないだろうか?だめだ。友よ、それではだめだ。あなたは叫ばなければならない。あなたが見たことを、ハートから、あなたにできるあらゆる方法で叫ばなければならない」(『ワン・ティスト 上』、p.58)からです。大乗的な義務を遂行するためには、コスモスの地図の下側に描かれている集合的な象限を通じて訴え、活動しなければならないのです。
そしてこのようなウィルバーの境地に共鳴するように、「『進化の構造』――そして特に『万物の歴史』――が出版されて以来、非常に慣習的かつ保守的な分野――特に、政治、ビジネス、教育――において」彼の仕事に対する関心が高まり始めます。
トランスパーソナルなレベルに焦点があてられていた『進化の構造』以前の初期の仕事ではこのようなことはありませんでした。ところが、『進化の構造』に登場した四つの象限は、レベルにかかわらず存在し、当然日常的な出来事もカバーしますから、象限自体の有効性を見出すために、各象限の超個的(トランスパーソナル)なレベルまでを含めたり、あるいは信じたりする必要はなくなったのです。そして、モダンおよびポストモダンのフラットランド還元主義に不満を持ち、包括的でありながらより統合的なアプローチを求める、学校の教師、フロリダ州知事の関係者、NASAの研究者、オーストラリアのビジネス専門家、モトローラ社の人事担当者、バイオサイエンス・ラボラトリーの創始者、刑務所教育の権威者など、特に教育、政治、ビジネスを含む様々な分野の人々から連絡を受けるようになったウィルバーは、彼らと交流するようになります。
義務の遂行へ
『進化の構造』は大変な反響を呼び、『リ・ヴィジョン』は3誌連続でウィルバーの特集を行い、1997年1月、ウィルバーに捧げられた「ケン・ウィルバー会議」がサンフランシスコで開催されます。
会議の直前に、『リ・ヴィジョン』誌での批判への回答を含む Eye of Spirit ( Ken Wilber, Shambhala, 1997, 『統合心理学への道』、松永太郎訳、春秋社、2004)が出版されます。また彼はこの1997年を通じて私的経験の日記をつけます。その日記はまとめられて、後にOne Taste (『ワン・ティスト』)として出版されます。それは、彼の個的内面の記述です。表現においても、個的内面も含む四つの各象限を尊重しようとし始めていることが感じられます。
この年、ウィルバーは新作 The Marriage of Sense and Soul ( Ken Wilber, Random House, 1998, 『科学と宗教の統合』、吉田豊訳、春秋社、2000 )を主流派の大きな出版社に直接売り込むことにします。この本では、トーマス・クーンが The Structure of Scientific Revolution (Thomas S. Kuhn, The University of Chicago Press, 1962,『科学革命の構造』、中山茂訳、みすず書房、1971)で指摘した科学的手法のエッセンスが、宗教のスピリチュアルな本質と相反するものではなく、逆にその本質を確立するものだと主張されますが、同時に人類が繁栄するためには「近代西洋の法律的、政治的、そして市民的自由を持ち、それを保護的な基盤として活用しながら、変容的な霊的実現―そして、その慈悲―を考慮に入れる」必要があるのだというメッセージも含んでいました。そして、この著書を主流派の出版社から出すことで、「そうしたメッセージを持つ『科学と宗教の統合』が、超合理的なスピリチュアリティの方向にリベラルがどれぐらい動くことができるかを見るテストケースに」(『ワン・ティスト 上』、p.128 )なるとウィルバーは考えていました。
結局『科学と宗教の統合』は、ニューヨークのランダムハウス社から出版されることになり、これまで前例のないことでしたが、彼は有名な書評家たちに会ったり、ブック・ツアーを行ったりします。1998年、出版の際には、アル・ゴア、ビル・クリントンによるウィルバーの業績への賞賛が伴うことになりました。
この頃ウィルバーは、彼の理論に関心を持つ研究所の依頼で講演を行ったり、旧友のサムが企画した一時間6回のドキュメンタリー『巡礼の旅(Pilgrimage)』の顧問として署名したりするのですが、中でも、1997年の夏に、慈善家のグループがウィルバーと接触し、世界の増大する複雑な問題へのより包括的そして統合的な対応を前進させる組織あるいは研究所を始めるための現実的な資金の提供を申し出たことは、その後の彼の活動に大きな影響を与えました。
その申し出を受け、ウィルバーは、400人ばかりの、世界の指導的で統合的な思想家を、彼のコロラド、ボールダーの家での一連の会合に集まるよう招待します。そして1998年に、統合理論の教示と適用のためのインテグラル・インスティチュートが設立されます。インスティチュートのホームページには、その理念・目的について次のように書かれています(翻訳引用しました)。
インテグラル・インスティチュートの使命は、人間性を満開の自己への気づきへと覚醒させることである。研究、教育、そして意図的、行動的、文化的、社会的な自己への気づきを助長するためのイベントを用意することによって、インスティチュートは、人間の条件を改善しようとしている全ての領域におけるグローバルなリーダー達を援助する。インスティチュートのヴィジョンは、善き生活における様々な追求に関する、分離した、そして部分的な視点を、慈悲的に統合するのに必要な気づきを伴う人間性の実現である。
インスティチュートは、世界の最も複雑な問題を解決するのを助けることを目的とする。インスティチュートの主要なゴールの中には、21世紀における人間性に直面する複雑な、グローバルな問題を解決するための指導性に関する調査と啓発がある。特に、複雑な相互依存によって特徴づけられ、包括的、統合的、そして非部分的な扱いでしか解決されえないような諸問題。地球温暖化、資本主義の進化的な形態、政治的、宗教的、そして科学的な領域での文化的な争いなどの全てが、インスティチュートが新たな明晰性をもたらしたいと希望する問題の例である。
1999年、50歳のときに、1997年の日記を『ワン・ティスト』として出版します。また、これまでの作品を再編集したCollected Works (『全集』)八冊を、次の年にかけてシャンバーラ社より刊行することになります。
2000年、Integral Psychology ( Ken Wilber, Shambhala, 2000, 予定されていたSystem, Self and Structureを簡略化したもの)、そして A Theory of Everything ( Ken Wilber, Shambhala, 2000, 『万物の理論』、岡野守也訳、トランスビュー、2002 )が出版されます。どちらも、『進化の構造』で登場したコスモロジーを背景とした、読み応えのある各論の書になっています。Integral Psychologyでは、『統合心理学への道』でも議論されていました、心身問題に関する話題が継続して扱われています。1996年に出版されました、ディビッド・チャーマーズのThe Conscious Mind ( David J. Chalmers, Oxford University Press, 1996, 『意識する心』、林一訳、白揚社、2001 )に対する、トランスパーソナル的コメントという位置づけもできるようなものになっています。
『万物の理論』では、ビジネス、政治、科学、教育とスピリチュアリティを結びつけることと、それらがスパイラル・ダイナミクスのような発達心理学とどのように統合されるのかを示すことが試みられています。特に政治への言及には興味深いものがあり、リベラルと保守を統合する第三の道について述べられています。この本には、個人的な思い出もあります。サングラハ教育・心理研究所の岡野主幹が翻訳をされた際、私も下訳の段階で幾分お手伝いをさせていただきました。いつもながらのことですが、ウィルバーの本は多量の注を含むのですが、その中の、特に政治に関するものを下訳した際に、左翼、右翼、革新、リベラル、保守などの概念を、四象限と発達の段階説で捉えるとどのように説明できるのかを学べたことは貴重な体験になりました。
2001年6月に、ウィルバーはマルシ・ウォルタースと結婚し、翌年離婚します。
2002年、 Boomeritis ( Ken Wilber, Shambhala, 2003 )というウィルバーが書いた小説が出版されます。主人公は30歳ほど若い設定のウィルバー自身で、大学院で人工知能を専攻しています。その若者の親の世代、すなわちベビーブーム世代とも呼ばれる現実のウィルバーの世代を、現代の若者を通して批判的に振り返るような内容になっています。『アンクル・トムの小屋』、『若きウエルテルの悩み』、『エミール』などの文学作品が世界を変える影響を与えたことを考慮し、自らの思想を世界に発信する様々な試みの一環として書かれたものです。特に、サルトルが自らの実存主義思想を背景とした小説『嘔吐』を書いたことが意識されていました。もちろん Boomeritis の場合には、スピリチュアルな意識へとつながっていく、ポスト・ポストモダンの思想が背景にあります。
この年から2004年にかけて、インテグラル・インスティチュートのインターネットにおける発展を押し進めることになります。
2005年、インテグラル・インスティチュートのブランチであるインテグラル・センターが開始されます。
2006年、 Integral Spirituality ( Ken Wilber, Shambhala, 2006,『インテグラル・スピリチュアリティー』、松永太郎訳、春秋社、2008 )が出版されます。すでにネット上で発表されていました、コスモロジー三部作の第二部の抜粋の内容が多く含まれています。統合的なポスト形而上学(世界のスピリチュアル‐宗教的伝統をモダンとポストモダンの論理に対応できるように再構築したもの)、ウィルバー-コム格子(縦軸は意識のレベル、横軸は意識の状態の系列)というアイデア、様々な視点を明示的に表示できる統合的な数学という記号法、四象限を含んで超える8つのゾーンというアイデア、そして統合的な生活実践(『ワン・テイスト』あたりから継続的に紹介され続けている全象限全レベル的な日常生活における実践法)の解説を含んでいます。
2008年、 Integral Life Practice ( Ken Wilber, Integral Books 『[実践]インテグラル・ライフ』、鈴木規夫訳、春秋社、2010)が出版されます。「全レベル、全象限」という、人間の心身の主要なレベルと次元、すなわち、自己、文化、そして社会・自然において、身体、心、魂、そしてスピリットすべてを同時に鍛錬する統合的な生活実践について具体的に書かれています。
『サングラハ』111号の書評でご紹介しました『インテグラル理論入門Ⅰ』(青木聡・久保隆司・甲田烈・鈴木規夫著、春秋社、2010)によりますと、1985年に罹患したREDDによって、2003年頃からウィルバーの健康状態が悪化したそうです。そして、2006年の暮れには、一時危篤状態にまで陥ったといいますが、そのような状況にもかかわらず、その後も、執筆活動、そして様々な組織とのかかわりを継続し、次のような状況に至っていると書かれています。
インテグラル研究所と同様の組織機関を設立しようとする機運が世界的に広がっています。現在は、そうした組織が、北米のみならず、ヨーロッパや南アメリカの諸国、そして、オーストラリアや日本などでも設立されています。それらの組織は、それぞれに性格を異にしながらも、個人・組織・社会の治癒と成長を目的として、さまざまな活動を展開しています」(pp.15~16)
こうして、21世紀を通じて、彼の思想に影響を受けたたくさんの人々が、大乗的な義務の遂行を継続していくことになるのでしょう。
現在(2010年)ウィルバーはデンバーに住んでいるそうです。