第6章 ウィルバー3――ラインの導入

 幼児は自我も自我を支える言語能力も持っていないのに対して、悟りを開いた聖者は自我も言語能力も持っています。このように大きな違いがある両者の意識を、ウィルバー1では同じ非二元的な超個的宇宙意識であるとして同一視しました。それに対し、そこには前超の誤謬があるのだとして、新たに創られた理論がウィルバー2でした。
では、次のような事例はどのように説明すればよいのでしょうか。
科学者とも呼ばれる人であれば、理性的な思考ができるはずですから、合理的な世界観を持ち、民族主義や利己主義にとらわれないはずだと思われます。ところが、特定の民族の優越性を合理的な根拠もないままに信じた科学者や、あるいは自らの名誉に利己主義的に執着した科学者も歴史上いたようです。ウィルバーはその代表例としてナチスに心から賛同し加担した科学者をあげています。また、覚りを開いていると言われているような人であれば、おそらくその超個的な観点から、あまねく存在に慈悲の気持ちを抱いているはずだと思われるのですが、そのような人々の中にも、やはり特定の民族や私利私欲への執着を優先しているとしか思えない行為を取った人もいたようです。
これらのような事例を説明できるようにウィルバー2を改良した理論が今回取り上げるウィルバー3です。そこでは、意識の発達には多様な側面(ラインlineあるいはストリームstream)があり、それら諸側面は相互に独立しているのだとされます。また、意識には、含んで超えて発達していく構造と、どの構造レベルでも発現可能な状態とがあるとされます。
以下、第Ⅰ部では、ラインや状態を導入するためのひな形となる意識発達のモデルについて、主に『万物の歴史』(ケン・ウィルバー著、大野純一訳、春秋社、1996)を参考にして説明します。次に第Ⅱ部においては、モデルに導入するラインについて基本的な特徴を説明します。そして第Ⅲ部において、ライン導入によって生じる問題点について述べます。第Ⅳ部では、状態について述べます。
なお、第Ⅲ部までは、『サングラハ106号』(2009年7月)所載のエッセイ『ライン――意識における相対的に独立した発達の諸側面』での論考に多少の変更を加えたものであることをお断りしておきます。

Ⅰ 『万物の歴史』における意識の発達のモデルについて

「基本構造」と「自己」と「世界観」による意識の発達のモデル

 ウィルバーは、『万物の歴史』の中で、意識の発達を梯子と登り手と眺めという譬えを使いながら巧みに説明しています。梯子は意識の基本構造の譬えで、その段が、基本構造のレベルの譬えです。低い段から順に書いていきますと、

1.感覚物質的 2.夢想的・情動的 3.表象的(概念的) 4.規則・役割的(具体的操作)
5.形式的・反省的(形式的操作) 6.ヴィジョン・ロジック 7.心霊的 8.微細
9.元因

となります。
各レベルを表す言葉からも明らかなように、基本構造の発達は、認識の構造の発達とほぼ同一視されています。そしてこの基本構造自体には自分というものはありません。自己という登り手が、段と自己とを同一視することによって、自己成長の様々な段階が生み出され、また自分のいる段からの、自己と他者との変わりゆく様々な眺め、世界観が生じることになります。そのような、意識の発達段階の一例を表わしたのが次の表1です。そこでは、世界観の要素として、自己感覚、自己欲求、道徳感覚などが挙げられています。

表1(『万物の歴史』p.221の記述をもとに加筆して作成しました)

それでは、意識の発達の様子を一度簡単に辿っておくことにします。

感覚運動期
感覚運動期では、運動をしながら、感覚知覚で対象を認知していきます。そして、自分の指を噛むと痛いのに毛布を噛んでも痛くないというように、感覚と運動を通じて自己と外界との区別を知っていきます。この段階では、外界は、感覚運動的に自己との違いが感じられるだけですから、構造的な世界観と呼べるほどのものはありません。そしてその欲求も、生理的なものにとどまります。

前操作期
前操作期では、周囲の環境や対象物を、イメージやシンボル、そして概念で認識するようになります。感覚と運動を通じての自分の体と対象物との物理的区別はすでにできていますが、使い始めたイメージ、シンボル、概念との明確な区別はできていません。そのため、極めて自己中心的な認識を行い、衝動的に行動しますので、自己感覚は衝動的とされます。
自己中心的な認識は、次のような例によく表れています。この時期の子供に、半面には赤色、残りの反面には緑色が塗られたボールを見せ、それを回して確認させます。そのあと赤の面を子供に向け、反対側にいる大人には何色が見えているかと尋ねますと、赤が見えていると子供は答えます。つまり、相手の視点に立っての認識は全くできないわけです。
このように、外界と自己とはまだ未分化な面が多く、認識も自己の視点のみからしますから、外界は自分の思い通りになるというように極めて自己中心的に考え、道徳感覚は世の中の慣習などに無頓着な、前慣習的なものになります。例えば、お呪いを唱えると自分の願いがかなうことになるはずだというような世界観に基づく道徳感覚です。このような世界観は呪術的とか魔術的とか呼ばれます。また、この段階での欲求は、世界観の自己中心性から、自己の安全ということになります。

具体的操作期
先ほどの前操作期で述べましたボールの実験を、具体的操作期の子供に対して実施しますと、子供は大人には緑が見えていると答えます。相手の視点に立っての認識が可能になったわけです。このように他者の視点を取ったり、あるいは世の中にある規則、役割を把握したりする能力が具体的操作です。そうして、子供は、様々な規則・役割がある社会を一つの固定的な体系として理解し、その体系に則った世界観を構成するようになります。
このような世界観は社会中心的、民族中心的、神話的と呼ばれます。例えば封建的な社会では、その社会の体系の基本になる、疑問の余地を持つことは許されない身分制度的な考えがあります。そのような固定的な考えは、各民族が持つ神話に基づいていたりしますから、この段階の世界観は神話的とも呼ばれるのです。
自己認識についても、前の段階までの、物理的、身体的な認識から、社会における役割においての認識に重心が移っていきます(役割自己)。また自己感覚は、規則・役割の把握を中心にした認識能力のため、それらに従うことを当然とする、順応的(適合主義的)なものとなります。そして欲求は、従うべき規則・役割を持つ組織への所属となります。また、道徳感覚は、所属する組織社会を中心とする慣習的なものになります。

形式的操作期
具体的操作期では、規則や役割を理解するといっても、現前する具体的世界に限定されています。しかし形式的操作期では、具体的世界を超え、あらゆる可能性を心に浮かべることができるようになります。例えば、透明な液体が入っている五つのコップを用意し、その内の三つの中にある液体を混ぜ合わせると、黄色くなる場合が一通りだけあるようにしておきます。そのことを子供たちに伝え、そして黄色い液体を作ってみなさいというと、具体的操作期の子供はランダムに組み合わせ、うまくいけばそれで終わりますが、うまくいかないのが続くとあきらめてやめてしまいます。形式的操作期の子供は、全ての可能な組み合わせを考えながら順番に混ぜていくことができるので、必ず黄色い液体をつくることができます。
このような形式的操作の認識能力で自己の可能性を見ることで、人は自身を様々な役割から明確に差異化された存在として認識しはじめます。例えば、自分はサラリーマンでありまた父親であるというように、表面的には役割で描写できるとしても、将来自営業者になったり、親権を失って父親でなくなったりして、他の役割を持つことも可能であり、あるいは実際に持つことになるかもしれないことがわかっていますから、役割とは独立した自由な存在として把握された本当の自己という概念も生まれるようになります。これがいわゆる自我の確立の段階で、人は個人主義的な自己感覚をもつようになります。そしてこのような可能性を他者にも見ることによって、人種や国籍や出自にはよらない基本的人権の思想も生まれてくるわけです。そして、この基本的人権を持った個人として認められることがこの段階での欲求となります(自己承認の欲求)。
また形式的操作期では、社会の体系に関しても、様々な可能なありかたを対比し、よりよいのはどれか、より現実に合うのはどれか、より人々の生活を豊かにするのはどれか、というように批判的に考えていくことができます。そのため、批判の対象になりやすいドグマティックな要素を含む、宗教や民族を中心にした世界観ではなく、より普遍的な個人の権利に基づく、世界中心的な世界観をもつようになります。これが理性にもとづく合理的な世界観です。
つまり具体的操作期、形式的操作期と進むにつれて他者の視点をより広範にとれるようになり、自己中心性が克服されて、社会中心的(民族中心的)、そして世界中心的な世界観を持つようになるわけです。
ピアジェの発達段階論をさらに展開させて考えているウィルバーによれば、形式的操作期の後にヴィジョン・ロジックという段階があることになります。

形式的操作を超えたヴィジョン・ロジック
形式的操作という認識能力では、ものごとに関する様々な可能性を並列して眺めることができたわけですが、ヴィジョン・ロジックという認識能力では、一歩進んで、それらの可能性を統合的にとらえるようになります。そのため、ヴィジョン・ロジックという認識能力を駆使できる統合的な理性のレベルでは、合理的な探求の成果を、単に眺め渡すだけでなく、統合的な全体性の中に当てはまる要素として扱うことになります。
ここに、形式的操作に基づく理性とヴィジョン・ロジックに基づく統合的な理性との質的な相違があります。理性では、「ばらばらを通してつながりを見る」のですが、統合的な理性では「統合的な全体において、つながりや階層を見る」ことになるのです。例えば、各国の政治的リーダーの思考形式で考えてみますと、合理性の段階にあるリーダーたちであれば、「自国の利益はこうだ」という意見を提出しあい、様々な可能な立場があることを理解し、その間の矛盾を調整し、妥協点を見出そうとするのでしょうが、統合的な理性の段階のリーダーであれば、単純に矛盾を調整するというよりは、「いったいどういうあり方が、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」(岡野守也、『自我と無我』、PHP、2000、p134)と最初から発想するようになっているわけです。
自己認識ということで言えば、合理性という前段階では、現実の役割から自由な、様々な可能性を持った自己という見方が成立したわけですが、ヴィジョン・ロジックでは、可能性の背後まで見ようとするより包括的なスタンスを持つために、現在の自己に至るまでの形成の歴史まで見通そうとします。そのため、身体的自我と心的な自我とはこの段階の自己において階層的に統合されますので、この段階の自己は、半人半獣のキャラクターの名をとってケンタウロスと呼ばれることになります。また、自己感覚は自己の高度の統合性から生じる自律的なものになります。
世界観の方はどうでしょうか。ウィルバーによれば、ポストモダンの多文化主義では、先史時代とそれほど変わらない文化も、高度な合理的な文化も、発達のレベルの違いはあまり考慮せずに同等に扱う傾向があるようですが、ヴィジョン・ロジックによる統合的理性の段階では、それら様々な文化を、単に並列的に眺めるのではなく、そのレベルの高い低いも見通して、階層も含んだ統合的構造において扱うようになるはずです。この統合的理性の段階での世界観に何か名前を付けるなら、統合的多文化主義とでも言えばよいでしょうか。
そうしてそれら様々な文化の中には、人間が内包するいかなるレベルに相当するものも含まれるようになります。それらレベルには動植物と共有するレベルも内包されているでしょうから、統合的多文化主義では、あらゆる動植物とそれらを含む自然も考慮されることになるはずです。そのためこの世界観に基づく道徳観は、人間の普遍的な人権だけではなく、動植物を含むあらゆる存在にもそのレベルにふさわしい権利を認める地球中心的なものとなります。そのような世界観の代表的なものが、ウィルバー4におけるコスモロジーなのですが、それは次章の主題です。
再び自己認識に戻りますが、ヴィジョン・ロジック段階では、自己は、様々な可能性を持った自由な個人であるだけではなく、その包括的な見方から、統合的な世界と不可分な存在でもあります。そのため、この段階の人々は、自らの様々な可能性の中から、自他共に利をもたらすような、自分の使命と思えるような役割を見出し従事したいという、自己実現の欲求をもつことになります。
ヴィジョン・ロジックの段階で意識は個としては最高度に達するのですが、発達がさらに続くと、個を超えた自己超越と呼ばれる段階へと入り込むことになります。

自己超越(心霊的(サイキック)、微細(サトル)、元因(コーザル))
ヴィジョン・ロジックの段階では、世界と不可分な世界内存在として自己を認識すると述べましたが、その意識の重心は個にあります。それが自己超越においては、意識は、個を超えたものへと変容していくことになります。「あなたの<自己>が<コスモス>全体の<自己>――顕現した全世界よりさらに輝く最高のアイデンティティ、個別の自己の結び目をほどき、それをみごとに葬り去る最高のアイデンティティ――と交わる」(『万物の歴史』、p.298)と述べられるような事態が起こりはじめるわけです。
自己超越の最初の段階は心霊的と呼ばれますが、そこでは世界と一体化した超越的自己は自然として捉えられます。例えば、「気持ちのいい自然の散歩をし、意識がリラックスし、解放的になって、美しい山を見つめます。すると突然――突然見ている人はいなくなり、ただ山だけがある。そしてあなたは山なのです」(『万物の歴史』、p.302)というような自然との一体感がこの段階では起こるわけです(自然神秘主義)。
次の微細段階では、世界と一体化した超越的自己は神格的形態で捉えられるようになります。例えば、内面的光明や音などを、「キリスト教徒はそれをキリストまたは天使または聖者として見るかもしれないし、仏教徒はサンボカカーヤまたは仏陀の至福神として見るかもしれないし、ユング派はそれを<自己(セルフ)>の元型的体験として」(『万物の歴史』、p.317)見るかもしれません。このように神格で世界との一体化を捉えるのが神性神秘主義です。
ところで、具象的であろうが抽象的であろうが、全ての形あるものは境界づけられることで現れてくるのだとしますと、全てには境界づけられて浮かび上がるための共通の基底があることになります。例えば、黒板に境界線を引き、二つの領域に分けたとしても、境界づけの基盤となる分かち難い黒板の面がなければならないわけです。そういう意味で、存在は根本においては切れ目のない全体、空ということになりますが、この切れ目のない基底自体には形はありません。元因段階では、世界と一体化した超越的自己は無形の基底として見られることになります(無形神秘主義)。
基底としての自己は、世界の一切の現象を超越的に<目撃>することになるのですが、しかし、目撃される一切の現象自体が実は基底のありのままの姿であり、基底が現象世界以外の在り方をしているわけではありません。このような気づきが生じることで、世界としての最終的な自己超越が達成されることになります(非二元神秘主義)。こうして、『般若経』のいう、「色即是空、空即是色」という基底と顕現との一体であることが覚られることになります。
自己超越の各段階では、自然と一体化したい、あるいは神と一体化したい、あるいは空を体得したいというように、それぞれの段階に特有の超越的同一化を欲求として持ちます。また、自己超越に立ち至ることで、一切衆生とのアイデンティティをリアルな自己意識として体験しはじめますから、一切衆生への慈悲に基づいた道徳感覚を持つようになります。

含んで超えるという意識の基本構造の発達の在り方

 ここで意識の基本構造である認識の発達の仕方に注目し、その特徴を確認したいと思います。そこで、先述しました基本構造の発達段階を、Integral Psychology, Ken Wilber, Shambhala , 2000の巻末にありますチャートの、基本構造の欄を参考に再度書いてみます。

1.感覚 2.知覚 3.衝動・情動 4.イメージ 5.シンボル 6.概念
7.具体的操作 8.形式的操作 9.ヴィジョン・ロジック 10.自己超越的

これらについて、例えば次のようなことが言えます。個物を表象する5のシンボルの能力が既にあるからこそ、それに付け加わって、ある種の個物の全集合を表象する6の概念の能力が機能し得るわけですし、またその概念の能力があるからこそ、それに付け加わって、概念を操作する7の具体的操作の能力は機能し得るわけです。このように、認識の発達では、あるレベルに達したということは、それ以下のレベル全てが恒久的に機能し続けていることを意味します。基本構造は、含んで超える発達をするわけです。
この含んで超える発達をする意識の基本構造の各段階に、自己が同一化することで、自己と世界観の要素である自己感覚、欲求、道徳などは発達していくわけですが、それらは、基本構造のように、下位のレベルを含んで超えるのではなく、否定して排除することによって発達します。例えば、表1にある自己の発達を取り上げますと、成熟した自我は、役割からは自由な自分というものですから、その前段階の役割としての自分とは相容れないわけで、成熟した自我であるときには、役割としての自分は否定されていて、同時に存在しているわけではないのです。倫理においても、社会中心的であるということは、その前段階の自己中心性を否定・排除して現れます。そこで、自己や世界観などの発達は移行的であると言われることになります。
基本構造である認識の構造は、梯子に譬えられていました。梯子の上の段(高次の認識能力)は下の段(低次の認識能力)が存在し続けていなければ存在できません。また、世界観の要素である自己感覚、欲求、道徳は、梯子の各段における眺めに譬えられていましたが、ある段における眺めが実現しているとき、別の段での眺めは存在していないわけです。

自己の遍在性

 自己や世界観の要素は発達していくわけですが、では、ある個人に注目したときに、その人は、そのとき達していると考えられている特定のレベルでの自己や世界観からのみ反応を示すのかというと、そうではありません。『万物の歴史』でウィルバーは、倫理の例をあげ、ある発達のレベルにあると言われる個人は、およそ50パーセントはそのレベルに対応した反応を示すが、25パーセントはそれより上の反応、25パーセントはそれより下の反応を示すとしています。ところで、倫理などの世界観の要素のレベルは、登り手である自己のレベルによって決まるはずですから、世界観の要素のレベルに広がりがあるということは、結局は、自己のレベルに広がりがあるということに帰することにもなります。自己や世界観の要素は、完全にある一つのレベルに特定されるというわけではなく、重心があり、その上下のレベルに広がりを持っているということになります。
ウィルバーは、自己のこの広がりを、ふくらみを持った水滴の在り方に例えていますが、このエッセイでは、自己の遍在性と表現することにします。
以上で、『万物の歴史』での意識の発達のモデルについて、基本的なことは述べられたと思います。簡単にこのモデルの特徴を確認してみます。

・含んで超えるという形式で発達する認識の構造と同一視された基本構造
・基本構造の各レベルに同一化することで移行的に発達する自己
・自己のレベルに対応して発達する世界観
・自己の遍在性

ところで、このモデルでは、基本的に基本構造と世界観の要素はパラレルに発達します。確かに、重心を中心に広がりがあるわけですが、基本構造が形式的操作に達しているのに、世界観が民族や自己に全く執着しきってしまうということはないはずですから、ナチスに加担した優秀な科学者の存在をうまく説明できないわけです。そこでウィルバーは、ラインという概念を導入することになります。

Ⅱ ラインの導入とその基本的な特徴

ラインとは

 人の意識、内面の発達に関しては、Ⅰで言及しました認識、自己、欲求、道徳などのほかにも、スピリチュアリティ、感情、美学などの様々な側面があります。ある個人について、それらの側面がどのように発達しているのかを表すグラフの一例を挙げてみます。縦軸が発達の度合いを示しています。

図1.統合的な意識のグラフ

この図は、1例ではありますが、一般的に、各種の発達の側面の間には、この例にみられるように、発達のレベルにずれがあります。このずれの存在から、ウィルバーは意識の発達の各側面には独立性があるとし、それらの側面を、 Integral psychology などの著作では、共通に使える意識のレベルを通じて発達するライン(Line)あるいは流れ(Stream)と呼んでいます。
その様々なラインの一例を、『インテグラル・スピリチュアリティ』(ケン・ウィルバー著、松永太郎訳、春秋社、2008、P.93) から引用してみたいと思います。それらのラインは、その発達段階(レベル)が、そのラインに特有な人生の問いに対する答えから知られますので、それらの問いと、代表的な研究者(あるいは学説)の名前も付記しておくことにします。

表2

 この、新しく導入されたラインについて、付加的な説明をしていきたいと思います。

認識というラインは恒久的構造を持ち、その他のラインは移行構造を持つ

 第Ⅰ部では、認識の発達の構造は恒久的であり、世界観の要素である自己感覚、倫理、欲求などの発達の構造は移行的であると述べました。この考えは、ラインを導入した後も受け継がれます。表2における認識のラインでは、あるレベルに達したということは、それ以下のレベル全てが恒常的に機能し続けていますから恒久的な構造です。その他のラインでは、新しい段階は前段階を否定排除して現れますから、移行構造を示すと考えることができます。

ライン間における「必要であるが十分ではない」という論理的な関係

 ところで、高度な機能に対応できる極めて複雑な電子回路を持つコンピューターが用意されていても、実際にそのコンピューターで作業するためには、ソフトがインストールされ、作業目的に合うように電子回路のスイッチが入ったり切れたりする必要があります。同様に、高度な機能に対応できるように、極めて複雑な身体の構造が用意されたとしても、それが用をなすように機能するには、その身体機能の構造の生理学的な回路において、適切なスイッチの切り替えなどが実現する必要があります。例えば、赤ん坊は複合新皮質までの構造を持っていますが、大人のように複雑な言語活動はできません。それは、複合新皮質の構造がうまく機能するための、言わばソフトがインストールされていないからです。しかし、適切な体験を、適切な時期に十分することで、ソフトのインストールが終わると、いよいよ身体の構造が適切に機能し始めるようになります。それと同時に、対応する、内面の能力も機能することになります。
このようなわけで、内面すなわち意識が発達するには、身体の構造的な発達が先行していることが前提になりますが、それだけでは十分ではないわけです。論理的な言い方をしますと、身体の構造的な発達は、内面の諸ラインの発達に対して、「必要であるが十分ではない」という関係にあるわけです。『統合心理学への道』(ケン・ウィルバー著、松永太郎訳、春秋社、2004、p. 570)には、次のように書かれています。

身体機能的な発達は、認知的発達にとって必要であるが、十分ではない。同じく認知的な発達は間人格的な発達に対して、間人格的な発達はモラルの発達に対して、そしてモラルの発達は善の観念の生成に対して、それぞれ必要であるが十分ではないという関係に立っている。

内面、意識には、すでに述べましたように、様々な側面、ラインがあります。それらの中で、身体の構造があるレベルで適切に機能し始めると同時に最初に機能し始めるラインを、ウィルバーは明らかに認識のラインだと考えています。何故かと言いますと、ここで、様々なラインを表記した表2を再び見ていただきたいのですが、認識のラインでのレベルは「何に気づいているのか」という問いに対する答えから特定されるのですが、その他のラインでの問いは、その気づいているものに関して、さらに問う形になっているからです。
例えば、価値のラインであれば、「気づいているものの中で、何が重要なのか」と問うことになりますし、欲求のラインであれば、「気づいているものの中で、何を欲しているのか」と問うことになります。身体の構造的な発達が認識の発達の前提になると先ほど述べましたが、次に認識の発達が、その他のラインの発達に対する前提となるわけです。まず、認識能力があるレベルに発達し、そののちに別に必要な条件が満たされて初めて、その他のラインが同じレベルに発達することになるわけです。すなわち、論理的には、認識の発達は、その他のラインの発達に対して「必要であるが十分ではない」わけです。これが、諸ラインの発達の様子を表す心理グラフ(図1参照)において、常に認識の発達のレベルが最も高く位置していることの説明です。
この「必要であるが十分ではない」という関係は、認識以外の他のライン相互の間にも成立し得ます。自己は、「私とは誰か」という問いに対する答えでその発達のレベルが知られるラインですが、価値、倫理、人間関係、欲求などでは、問いは全て「私」に関してたてられています。つまり、「私は誰か」という問いの答えが前提となって、それではその私は、例えば、何を欲しているのかという問いがたてられ、欲求の発達段階が知られるということになります。従って、それらは、自己のラインの発達段階より上の段階にまで発達していることはあり得ません。
また、倫理のラインでの問いは、「何をすべきなのか」ですが、これは、属している社会のなかで、人としてどのようにふるまうべきなのかということですから、人間関係のラインでの「どのように人と交流すべきなのか」という問いの答えが前提の一つになるでしょう。例えば、「協調的に交流すべき」という人間関係での前提があってはじめて、倫理は慣習的なレベルに発達することになるでしょう。ですから、倫理のラインのレベルは、人間関係のラインでのレベルより高くなるということはあり得ません。また、倫理は、先ほど述べましたように自己の発達を前提としていますから、自己のラインでのレベルより低くなってもいるわけです。
様々な関係がライン間にはあるとは思います。しかし、発達のレベルの違いを考える上での基本的な関係性が、この「必要であるが十分ではない」というライン間の論理的な関係です。この意識の発達の要素間における論理的関係は、『万物の歴史』でもある程度述べられてはいました。しかし、ライン間の独立性を相対的なものにする、明確な関係性として扱われるのは Integral Psychology 以降のことになります。

自己関連ラインと自己の遍在性

 前節で述べましたように、自己は、「私とは誰か」という問いに対する答えでその発達のレベルが知られるラインですが、価値、倫理、人間関係、欲求などでは、問いは全て「私」に関してたてられています。つまり、「私は誰か」という問いの答えが前提となって、それではその私は、例えば、何を欲しているのかという問いがたてられ、欲求の発達段階が知られることになります。これら、自己の発達を前提とするラインは「自己関連ライン( self-related lines )」と呼ばれ、様々なラインの集合の部分集合をなすことになります。『万物の歴史』での、登り手の自己の眼に映る眺めである世界観の各要素は、この「自己関連ライン」の一部になります。
ところで、特定の自己関連ラインにおいて、同一の人が示すレベルは、実は一定ではありません。例えば、通常は世界中心的な道徳段階にある人が、あるスポーツイベントにおいては、民族中心的な道徳段階を示すことは多々あります。すでに第Ⅰ部で述べましたが、道徳(倫理)の発達に関しては、その人が達しているとされるレベルが示される割合は実は50パーセント程度に過ぎず、それぞれ25パーセント程度の割合でその上下のレベルが示されると言われています。
そうしますと、自己関連ラインにおいて異なるレベルが同一人によって示されるということは、前提となる自己も一つのレベルにとどまり続けているのではないことを示していると考えられます。
また、異なる自己関連ラインは、相互に密接な関係があるとは言え、異なるラインですから、通常示すレベルもやはり異なり得ます。例えば、自己感覚は良心的個人的であり、道徳は世界中心的でありながら、欲求はそれらより下のレベルの所属であったりすることがあり得ます。そうしますと、自己関連ラインについては、先ほど述べましたように、自己の発達がその前提になっていますから、異なる自己関連ラインが表面に現れることで異なるレベルが示されるということは、そのたびに自己のレベルが変動していることになります。これもやはり、自己が一つのレベルにとどまり続けているのではないということを示していると考えられます。
このように、自己関連ラインに広がりがあること、そして異なる自己関連ラインは異なる通常のレベルを持ち得ることから、自己には、レベルを超えた広がりをもつという、遍在性があることになります。
以上、ラインについて、いくつか付加的な説明をしてきましたが、これらを踏まえて、ラインの導入によって生じる問題点と、その解決に向けた展望について述べていきたいと思います。

Ⅲ ラインの導入によって生じる問題点と解決に向けての展望

[1] 基本構造を認識の構造に一致させてよいのかどうか
ウィルバーの理論では、どれだけ「含んで超える」という過程を経てきたかと言う統合性の度合いで、基本構造である認識のレベルの高低は定義できます。しかし、ここで空間的な高さを考えてみてください。様々な物体が高さを持っていますが、高さそのものは、物質的な内容を持っているわけではありません。3000mの山があるとは言いますが、3000mがあるとは言いません。重さでも、100gの鉄の塊があるとは言いますが、100gがあるとは言いません。同様に意識の高低について考えたとしますと、その高度そのものが認識という意識の具体的な内容をもっているのはおかしいことになります。
意識において発達するのは、認識だけではありません。価値や倫理や美学など、表2で表されているような様々なものがあります。それぞれが異なる仕方で、またすでに述べましたように、ずれたりしながら、同じ意識の側面(ライン)として、共通に使える縦軸のレベルを通じて発達するのですから、意識の基本構造を、意識そのものの構造ととらえるのであるなら、その統合性の度合いは、本来は、一ラインにすぎない認識などの、ある特定の種類の発達の内容を含むわけにはいきません。インター・ネットに掲載されています “ Kosmic Karma and Creativity” からの抜粋 “ Excerpt D ” note 38の一節を訳してみます。

「基本構造」あるいは「意識の基本的なレベル」は、今や術語的には、発達の抽象的な縦軸の尺度として使用される。そして、それらの具体的な場は、現実の認識の構造によってとって代わられる。

つまり、認識という具体的内容は、「基本構造」そのものではないということです。そこでウィルバーは、『インテグラル・スピリチュアリティ』や“ Excerpt D ”では、厳密な意味で扱う場合には、基本構造という言葉を意識そのものの構造を表すのに使うことにし、認識の構造を表すのではないことにしています(具体的イメージを造るために、便宜上同一視する場合も多々あります。また Integral psychology では、基本構造と認識の構造は同一視されたままです)。
そうしますと、表1の梯子の欄に書かれている認識能力を表す言葉を、意識そのものの発達のレベル・高さ・統合性の度合いを表すために使うわけにはいかなくなります。そこで、意識そのもののレベルを表すのに、ウィルバーは、意識の内容とは関係のない、色を表現する言葉をよく使うようになりました。例えば、具体的操作が相当するレベルはアンバー、形式的操作が相当するレベルはオレンジというように。
また、この意識のレベルの区切り方は、何段階にしなければならないということはありません。ウィルバーは、温度を表すのに摂氏と華氏があり、1気圧での水の融点と沸点との間の区切り方が両者で異なっているが、どちらも温度を表すのに支障なく用いられているということを類似的な例として挙げています。ですから意識に関しても、例えば大まかに3段階に区切る場合もありますし、あるいはより細かく区切る場合もあり得るわけです。そのような自由度はありますが、結論としては、意識そのものの統合性の度合いで定義される基本構造のレベルを通じて、様々な意識の具体的側面(ライン)は発達していくことになるわけです。
しかし、認識のラインだけが恒久性を示していること、そして認識のラインがその他のラインに対して「必要であるが十分ではない」という特殊な関係にあることを述べました。このように、一ラインでありながら、認識だけは他のラインに対して特別な地位を占めています。この特別な地位について理解するため、あらためて、認識の本来の意味である「知るということ」に立ち戻ってみます。各レベルにおける認識能力によって、知ることができる事物の可能性は決まることになります。あるいは、その認識者にとっての、世界のありかたの可能性が決まることになります。このような、認識能力に対して相対的に世界のありかたの可能性が定まる場を、世界空間と呼びます。
そうしますと、世界観とは、個人については、その自己のレベルから見える、世界空間の具体的な在り方を言っているわけですし、集合についてであれば、そのメンバーが共有している世界空間の具体的な在り方(文化)を言っているわけです。そして認識以外のラインとは、世界空間の具体的な在り方である世界観の要素ということになります。ですから、世界空間の在り方を決める認識のラインの発達が、世界空間の具体的な要素であるその他のラインの発達の前提になるというのは当然のことになります。そのような、他のラインに対する明確な、より基本的なラインであるという特殊性を考えると、基本構造を認識の構造と同一視することに、それほど問題はないのではないかという疑問が生じてしまいます。
空間的な高さの違いに関しては、例えば山がなくても、空間的な間隔として考えることができますが、意識のレベルの場合、認識と言う不可欠な大きな山があり、その他のラインは、その山を登る様々な道にすぎないとすれば、高さの違いを認識のレベルの違いで表現することに問題はなくなるのではないでしょうか。” Excerpt D ” note 39の一節を訳してみます。

研究調査は、他のラインのほとんどに対して、必要であるが十分ではないということを示しているので、私は過去において、認識のラインにおける、現実のレベルを、しばしば意識の空的なあるいは基本的なレベルの最善の表示として使用してきた。

しかし今ではそうはしないというわけなのですが、私自身の意見は、引用した文中の、「ほとんど」が、「全て」ということであり、そして認識というラインの発達が、もし他のライン全ての前提となる、もっとも包括的なラインであるというのであれば、そこには、他のいかなるラインの内容と競合するものも含まれてはいないわけですから、基本構造として使用し続けるのに何の障害もないということです。ただし、これは、意識の発達だけを視野に入れた場合の意見です。意識のレベルは、次回に扱う四象限説でより明確にしますが、身体のレベルとも関係しています。あるいは社会や文化と言った集合的な発達にも関係しています。従って、それら全てを視野に入れるなら、レベルそのものの定義は、認識と言う個的内面に特有の要素を使うのはやはり適切ではないと考えます。

[2]発達の基本的な在り方と移行構造をもつラインの発達の在り方との矛盾をどう解釈するか
ウィルバーは、意識は含んで超えるという形で発達するとしています。確かに認識のラインはその通りです。しかし、移行構造を持つ認識以外のラインでは、基本的に前段階を否定して排除して発達しますから、含んで超えるという発達の基本的な要素を満たさないで発達することになってしまいます。このことはどう考えればよいのでしょうか。
現実の自己の在り方に立ち戻ってみますと、成熟した自我として自分を実感していても、役割としての自分や、身体としての自分を失ったわけではありません。仮に読者の皆さんの自己感覚が成熟した自我であっても、同時に、学校の先生であるとか、市役所の職員であるとか、それら社会の中で持っている役割も、成熟した自我としての自分に所属する、いわば対象として扱える自分(自己)として認識しているはずです。このような客体的な自己を、ウィルバーは distal self (遠隔自己)と呼び、自己感覚を帯びている主体的、本質的自己を、 proximate self (近接自己)と呼んでいます。このように遠隔自己と近接自己という異なる自己を設定することで、彼は非本質的な自己の存在を説明します。
さらに、近接自己と遠隔自己との両者をまとめたものを、overall-self(全体的自己)とウィルバーは呼んでいます。そうしますと、遠隔自己を、含んで超えられた自己として扱うことで、全体的自己で新たに自己のラインを定義すれば、自己のラインも、認識のラインと同様に、恒久的な、前段階を含んで超えて発達するラインとみなせそうな気がしてはこないでしょうか。つまり、近接自己だけだと移行的ですが、遠隔自己も含めた全体的自己だと、認識と同様に、恒久的なラインであると考えられるわけです。 Integral psychology, p. 227, Chapter 4 note 1 の一節を訳してみます。

病理を除いて、各基本的な波は、その前段階を超えて含むので、自己が、例えば形式的操作と同一化していると言うことは、全体的自己が形式的操作までの基本的な波の全てを含んでいるということを意味する。特に、これは通常、近接自己が形式的操作のあたりで組織化され、そして遠隔自己が、形式的操作以前の(運動感覚から具体的操作までである)全てを含んでいることを意味する。自己の重心がヴィジョン・ロジックに移行するとき、形式的操作は遠隔自己の一部になり、そして近接自己はヴィジョン・ロジックあたりで組織化される。

道徳、欲求などの自己関連ラインが移行構造だということは、それらのラインが、近接自己を前提としていて、その近接自己が移行構造を持っているからだと説明できます。例えば、マズローの理論に現れる欲求の構造は、近接自己によって生じる欲求だけを見ているから移行構造になっていると考えるわけです。実際、欲求の場合でも、以前の段階の欲求、例えば食物や安全の欲求はなくなってしまうのではなく、基本的欲求として残ります。ただ、それらが第一の欲求ではもはやないということです。そこで、基本的欲求の方は、遠隔自己が結びついたものとして残っていると考えれば、近接自己が結びついた欲求と遠隔自己が結びついた欲求との両者を合わせた欲求は、恒久的なラインになると考えることもできます。つまり、諸自己関連ラインは移行構造とされたわけですが、それは近接自己と関連した部分だけに焦点を合わせているからそうなるのであって、遠隔自己も含む全体的自己と結びつけて捉え直すことで、恒久的構造に転換させることもできるわけです。
倫理や欲求などの自己関連ラインは、梯子段からの眺めと譬えられ、各段での眺めは異なるため、移行構造として考えられたという面があると思いますが、より高い所の眺めは、その視界の一部として低い所の眺めを含んでいると考えることもできます。そのように考えれば、恒久的なラインであるとするのも不可解ではなくなるのではないでしょうか。
他の移行構造についても、同様な考えを当てはめることはできそうです。ただし、認識の場合には、以前の段階が全て、高次の段階が機能するために同時に機能する必要があります。例えば、概念を規則に従って操作する具体的操作の段階が機能するためには、概念、シンボル、イメージなどの以前の段階全てが機能している必要があります。それに対して、例えば倫理の場合、世界中心的な段階が機能しているとき、それ以前の社会中心的あるいは自己中心的な段階は、視野に入っていても否定されています。それらの以前の段階は、状況において当てはめることができる対象的な段階として存在してはいますが、あくまでも否定的な要素としてですから、そういう意味では、移行構造と恒久的な構造との違いは確かにあります。
以上、第Ⅱ部、第Ⅲ部にわたって、ラインについて長々と考察してきましたが、最後に、ラインを導入するきっかけとなった課題との関係についてはっきりさせておきます。

ラインによる課題の解決

 今回のエッセイの冒頭で、私は次のように書きました。「科学者とも呼ばれる人であれば、合理的な世界観を持ち、民族主義や利己主義にとらわれないはずだと思われます。ところが、特定の民族の優越性を合理的な根拠もないままに信じた科学者や、あるいは自らの名誉に利己主義的に執着した科学者も歴史上いたようです。ウィルバーはその代表例としてナチスに心から賛同し加担した科学者をあげています。また、覚りを開いていると言われているような人であれば、おそらくその超個的な観点から、あまねく存在に慈悲の気持ちを抱いているはずだと思われるのですが、そのような人々の中にも、やはり特定の民族や私利私欲への執着を優先しているとしか思えない行為を取った人もいたようです。」
確かに、ラインという考えを導入すれば、ナチスに加担した科学者は、認識のラインにおいては形式的操作あるいはヴィジョン・ロジックの高みにまで発達していながら、道徳のラインは社会中心的、民族中心的な段階でとどまっていたのだというように説明できます。ただ、悟りを開いていると言われているような人が、民族主義や私利私欲に執着しているとしか思えない行為を取ったという例には、状態という概念もその説明には必要になるとウィルバーは考えています。

Ⅳ 状態について

状態とは

 通常中学高学年以上の人であれば、意識の基本構造は形式的操作の段階に達していますから、例えば数学で順列や組み合わせを習えば、それを理解することができます。この能力は一度獲得すればほぼ失われることはありません。このように、安定して維持される意識の構造に対して、一時的に現れる意識の状態というものがあります。
基本構造がどの段階であっても、人は起きているときの意識状態、寝て夢を見ているときの意識状態、夢も見ず深い眠りに落ちているときの意識状態を毎日体験します。このように実際に体験する意識の在り方を状態と言います。
状態には、今述べました覚醒、夢見、深い眠りなどの自然な状態の他に、変性状態、非-通常状態、外因性の状態(薬物使用など)、内因性の状態(瞑想状態のような訓練された状態も含む)などもあります。ただし、それら特殊な状態も、結局は自然の状態のヴァリエーションであるとウィルバーは考えています。
『インテグラル・スピリチュアリティ』によれば、偉大なる叡智の伝統では、少なくとも次の5つの自然な意識の状態があるということです。

1.粗大な覚醒の状態 自転車に乗ったり、このページを読んだり、身体運動を行ったりしているときの状態。(粗大(グロス))
2.微細な夢見の状態 鮮明な夢、鮮明な白昼夢、視覚化の訓練、あるタイプの形ある瞑想。(微細(サトル))
3.元因・無形の状態 深い夢のない眠り、広大な「開け」ないしは「空」の体験。(元因(コーザル))
4.目撃者の状態 これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態でも、目撃者はそれを目撃する。(目撃者(ウィットネス))
5.常に現前する非二元的意識 これは状態と言うよりは、他の全ての状態に対して常に現前する基底である。そして、そのようなものとして経験される。(非二元(ノンデュアル)) (p.112)

そして、これらの主要な意識の状態は、発達のいかなる段階であっても、程度の差こそあれ、すべての人に獲得可能だということです。

トランスパーソナルな状態を顕現させる訓練は、状態を構造に転化させ得る

 『インテグラル・スピリチュアリティ』には次のように書かれています。

心身統合段階(ケンタウロス)とそのヴィジョン・ロジック(多視点的な論理)を超えて、さらに3つないし4つの高度の構造があり、この「構造」は、その特徴が3つないし4つの高度の「状態」に非常に似ているため、その違いを見極めることは困難である(p.132)

また、『統合心理学への道』には次のように書かれています。

長期の観想的な実践により、どのような個人も一時的な状態を恒久的な状態に変容させることができる。
………
こうしたケースにあっては、それぞれの領域(心霊、微細、元因、非-二元)は、単に一時的な状態としてではなく、恒常的に獲得される意識の構造ないしパターンとなる。このような恒常的な力が出現したとき、状態は、構造ないし段階となる。 (pp.416~417)

状態は、どの意識段階においても起こりえると言っても、特にトランスパーソナルな領域の状態は通常意図的に起こせるものではありません。しかし、瞑想などによって、心霊、微細、元因、非-二元の順に、一定の方法でその実現を鍛錬することで、ある程度意図的に状態を得ることができるようになります。それが恒常化するときに、トランスパーソナルな状態が安定的な構造に転化するというのです。ですから、トランスパーソナルな構造ももちろんあるわけです。ただ、構造化に至ることはきわめて稀であり、高次の意識を得ていると言われているような人の多くは、状態を実現するにとどまると考えられるわけです。

状態は段階において解釈される

 先述しましたように、瞑想の状態も結局は自然な「状態」のヴァリエーションですから、人はどの構造段階においても粗大、微細、元因、非二元のどの状態も至高体験として経験できることになります。そして人は、その状態を、構造段階から解釈するのだとウィルバーは述べています。呪術段階の人は呪術的に、神話段階の人は神話的に、多元的段階の人は多元的に解釈するのです。
例えばあるキリスト教徒の内面に、「集中した内面的な啓示(照明)、光の体験という微細な状態」(p.133、以下引用は『インテグラル・スピリチュアリティ』からです)が生じたとしましょう。彼女はそれをおそらくイエス・キリストないし聖霊との出会いであると解釈します。そしてもし彼女が呪術段階にあったとすれば、このイエスは、彼女の「すべての願いを叶えるよう世界を変える、個人的な救世主」(p.133)です。イエスは呪術師であり、水をワインに変えたり、パンや魚を作り出したり、水の上を歩いたりします。この段階は前-慣習的で自己中心的ですから、イエスは彼女にしか興味を持っていないのです。
もし彼女が神話段階にあったとすれば、「イエスは、永遠の真実をもたらす人」(p.133)です。彼女はその信念において絶対主義的ですから、イエスが語ったとされることを文字通り信じます。もし信じなければ、彼女は「永遠に地獄で焼かれる」のです。彼女の世界観は集団中心的ですから、「救い主としてのイエスを信じるもののみが救われる」(p.133)ことになります。
もし彼女が合理性の段階にあったなら、イエスは神聖な存在ではありますが、同時に完全に人間です。「神聖な神の普遍的な愛を説く教師のよう」(p.134)に捉えられます。この教師は、神話のどこまでを合理的に扱え得るかがわかっています。彼女はイエス・キリストの説く普遍的な愛によって救済されます。しかし、ほかの人々は異なった道を通って同じように救済されることも可能だと彼女は考えます。「多元的宗教性」を彼女は完全に認めるのです。
そして彼女が統合段階にあれば、「キリスト的な意識を他の世界の聖霊の表現と統合」(p.134)して捉えようとさえします。
このように、どの状態をどの構造で捉えるかによって、その解釈の在り方が様々であることを示す、次のようなウィルバーとアラン・コムによるW-C格子というものがあります。

図2 W-Cの格子(『インテグラル・スピリチュアリティ』p.131の図をもとに作成。番号は私が付け加えました。)

縦軸は意識の発達段階を、横軸は意識の状態の段階を示しています。各格子点が、どの状態がどの段階で生じたかを示し、その時の段階による状態の解釈を推測する起点となります。例えば先程の、イエスを呪術師として捉えた彼女の解釈は、2-Ⅱの格子点を起点として推測できます。
このように状態という概念を導入することで、次のような事例が説明できるとウィルバーは言います。

非常にスピリチュアルに発達した人(啓示と合一の段階にまで発達した人)が、慣習的で、順応的な心的態度、そして外国嫌い、自国中心的な態度を見せることがある。チベットや日本の瞑想の師に、しばしば見られることである。瞑想の状態として非常に進んでいるが、構造として「アンバー」から「オレンジ」であり、そのためその時間を超えた仏法(ダルマ)の解釈が、はなはだ「自民族・集団中心」で満たされている場合がある。(p.142)

つまり、トランスパーソナルな意識を持つと言われる人(一般に覚っていると言われる人)には、安定的に構造としてそのレベルに達している極めてまれな人と、状態としてのみある程度意図的にそのレベルを実現できるにとどまる大部分の人がいるわけです。そして、さまざまな状態は、どの段階にも起きえるのですから、状態のみでトランスパーソナルな高みに達している人は、段階がものを言う日常でのその解釈は、民族中心的であったり自己中心的であったりするわけです。

おわりに

 特定の民族の優越性を合理的な根拠もないままに信じたり、あるいは自らの名誉に利己主義的に執着したりした科学者の存在、特定の民族や私利私欲への執着を優先しているとしか思えない行為を採った覚者の存在。それらを説明するために、意識の発達の諸側面であるラインあるいはストリームという概念と、どの段階でも生じ得る様々な状態という概念とを導入したのがウィルバー3です。次章で扱いますウィルバー4では、個人の意識を一側面とするコスモスの在り方が主題となります。