第8章 心身問題について(ウィルバー4の応用1)
はじめに
「心と脳の関係はどうなっているのか」という問いに代表される、いわゆる心身問題には多くの人が興味を持っているようです。私もその一人ですが、私の興味の中心は、脳科学や認知科学のように、脳の構造と心理的機能の対応関係を科学的に調べていくことにはありません。心と言う主観的なものと、脳や行動と言う客観的なものとを、そもそも各人が持っていること自体をどうとらえるのかにあります。
前章でも引用しましたが、『論理哲学論考』の中でヴィトゲンシュタインは、「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」と書いています。視界には見ている眼が登場しないように、周囲に広がる世界には観察者である主体は登場しないはずです。心は、観察者である主体のものであり、脳を含む身体は、周囲に広がる客観的世界の一部であるとすると、私は、身体としては客観的世界に属しているのに、心としてはその世界にはいないことになります。そういう事態をどのようにとらえればいいのか。納得できるような見解があるのか。それが私の興味の核心なのです。
以下、第Ⅰ部では、ウィルバーの著作を参考にして、心身問題に対する従来の見解を分類し、それらについての評価をまとめ、残る問題点を示しました。第Ⅱ部では、ウィルバーの全象限全レベルのコスモロジーでは、第Ⅰ部で残った問題点に対しても、一定の見解を持ちえることを示しました。第Ⅲ部では、そもそも心身問題に対する還元主義的な考えはどうして生じてくるのかを、ホロンの四つの象限の特質で説明し、心身問題が問題として生じなくなる意識レベルの具体的なあり方についても触れました。
Ⅰ 心身問題に対する見解の分類とその評価
何を問題にするのか
今私はコーヒーを飲みながら、心身問題について考えをめぐらせています。考えながら、口に入ってきたコーヒーの苦さや温かさを感じ、インスタントコーヒーとはおいしいものではないなと思ったりもしています。このように思考があり、感覚があり、判断があるといった具合に、私の心は、様々な心理的な出来事で満たされています。これらは、他の人が私と同じように体験することはできない、私の内面での、主観的な出来事です。そして、私は自分の内面を、主観的な出来事を、何の感覚器官も介することなく、直接知ることができます。
一方で、私が大いに信頼を寄せている科学的な探求の成果は、私が内面の出来事をありありと感じているとき、私の身体、特に脳では、対応して物理的な出来事が起きていると主張しています。例えば言語を使って思考しているとき、新皮質の特定の領域で、ニューロンや神経伝達物質が、ある特定の働きをしているようです。甘さや苦さを感じているときには、舌の感覚器官から、脳の特定の領域に、電気的な信号が神経回路で伝えられているようです。これらの物理的な出来事は、様々な装置を使うことで、原理的には、観察し捉えることのできる、私の外面での、客観的な出来事です。
私に起きている内面の(主観的)出来事と外面の(客観的)出来事、心と身体には、一方で何事かが起きれば、他方で対応した何事かが起きているようなので、密接なつながりがあると思うのですが、両者は似ても似つきません。一体どのように関係づけることができるのか。これが心身問題の中核だと思います。
問題を解決するための諸理論
ウィルバーは、この心身問題を解決しようと意図した理論として、物理主義と二元論と観念論をあげています。それらに唯心論も加えて、以下で簡単にその主張をまとめていきたいと思います。
①物理主義(科学的物質主義)
「物理学及び他の自然科学によって最もよく描写される物理的な宇宙のみがあり、その物理的な宇宙のどこにも私達は意識、心、経験、あるいは気づき、を見出さない。それ故、それらの『内面』は単なる幻想である(あるいは、よくても、どんな真正のリアリティもない副産物である)」(K. Wilber, Integral Psychology, Shambhala, 2000, p.175より訳しました)。この立場には、基本的な単位(クォーク、原子、ストリングなど)にのみ実在性(リアリティ)を認める場合と、脳、新皮質、自己組織化的な神経系などの、様々な複雑なシステムの高次な創発にも実在性を認める場合とがあります。いずれにせよ、内面(主観)に実在性を認めず、外面(客観)のみに実在性を認める立場で、内面を外面へ還元してしまう立場です。本当にあると言えるのは身体のみなのですから、身体と対応関係があるように見える心は、幻のようなものでしかないのです。
②唯心論
思考や感情や感覚などのまぎれもないこの直接経験こそが実在性を持っているとし、いくら科学が成功していようと、間接的に知られる外面(客観)に根本的な実在性は認めず、内面(主観)のみに実在性を認める立場で、外面を内面へ還元してしまう立場です。本当にあるのは心なのであり、心と対応関係があるように見える身体は、幻のようなものでしかないのです。物理主義とは反対の立場でありますが、心と身体の二つのうちのどちらかだけに実在性を認める還元論であることでは一致しています。
③二元論
「世界には二つの実在がある。意識と物質。どちらも他方に還元されることはない。その代わりにそれらは相互作用する(従ってこの立場の一般的な別称は相互作用主義である)」(ibid. p.176) 。
④観念論
「心と身体は両者ともスピリットの形式である。それ故、それらは異質のものであるとか異なるものであるとかではなく、同じものの二つの側面である」(ibid. pp.176~177)。従って同じものの両面である内面と外面に何らかの対応関係があるのは当然です。
諸理論の問題点
次に、これら諸理論の問題点をあげていきます。
①物理主義
まぎれもないこの直接経験で満たされた心は、物質よりリアリティを持たないとは言いがたいと思えます。そもそも私達が物質的な世界を認知するのに意識作用が必要なのですから、物質的な世界の方が私達にとってよりリアルとは言えないのではないでしょうか。このような思いを払拭するような説明を物理主義者は用意できてはいないようです。
②唯心論
観察と実験に基づき、科学は輝かしい成果をあげてきました。今では心理作用と脳との関係の解明についても、驚くべき進展がもたらされているようです。これらの科学の成功を考えると、私の主観的直接経験のみが実在性を持ち、観察の対象となる事物に実在性がないというのは、説得力のない考えだと思われます。
③二元論
意識にも物質的な世界にもリアリティを与えるのが二元論の立場で、それによって物理主義と唯心論の困難を避けます。しかしその時、「どのように、根本的に異なるものが互いに影響を与え合うことができるのか」(ibid. p.176)という、新たな説明すべき問題が生じます。
④観念論
二元論の立場は、意識と物質的な存在を全く別の存在とするから問題が生じるわけですから、それらをスピリットという一つのものの二つの側面と考えれば相互作用という困難はなくなります。例えば、一人の人を右から見た場合の姿と左から見た場合の姿は異なっていますが、輪郭が一致するなどのある対応関係を持っています。何故なら、それらは別のものというより、一人の人の姿の二つの側面だからです。同様に心身をスピリットという一つのものの二つの側面と考えるなら、対応関係があること自体は当たり前なことになるわけです。従って、「もしスピリットを承認するならば、この立場は受け入れられる」のですが、「モダン及びポストモダンの哲学者は承認していない」(ibid. p.177)のです。つまり、スピリットについて一般的な承認を得ることが新たな困難として現れるのです。
①物理主義と②唯心論と③二元論の困難については、数々の議論が行われたにも関わらず、解決に至ったと認められた見解はないようです。それらの細かい議論に興味のある方には、『意識する心』(ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社 2001)を参考書としてお勧めいたします。ただ、どうしてそれら三つの見解は解決に至らないのかということについては、それなりの妥当な見解を持ちえると思います。それについて述べる前に、理解の一助にするために、量子力学という現代物理学の基礎理論が成立する過程でのエピソードに簡単に触れておくことにします。
波と粒子の二重性
高校で物理の勉強をした人は、原子・電子に関連した領域で、「波と粒子の二重性」という考えを学んだことを記憶しておられるかもしれません。「波」とは、振動の伝播のことです。例えば音という波は、空気の密度が大きくなったり小さくなったりの繰り返しが音速で次々に伝わっていくことで、空気自体が音速で動いていくわけではありません。また例えば、水面をたたいてできる水面波でも、水の上下の振動が伝わるだけで、水自体が振動とともに移動していくわけではありません。
「粒子」とは物質を構成する基本的な単位です。例えば電子とか陽子とか、微小な物体で物質は構成されていると言うときの、その微小な物体が粒子です。私達が日常使っているもの、例えばティッシュは、小さくちぎっていくことができます。これを進めて行けば、最も小さな単位、粒が現れるでしょう。それが粒子です。
古典物理学では、波と粒子という異なる概念を使用して様々な現象が語られることになります。ところが、量子力学という現代物理学の基礎理論が成立する過程において、元来波と考えられていたものが粒子の性質を持ち、粒子と考えられていたものが波の性質を持つと言わざるを得ないような現象が発見されました。
波の性質には、回折、干渉、屈折、反射があります。ここでは、干渉という性質に焦点をあてて話を進めてみたいと思います。二つのスピーカーを少し離して置き、同じ振動数の音を出し続けて、その前をゆっくり横切りますと、音は次第に大きくなり、次第に小さくなりを繰り返します。それは、二つのスピーカーから出た音が周囲に広がり、重なり合うことによって、強め合う場所や弱め合う場所が現れたからです。このように、二箇所から出てきた波が強めあったり弱めあったりする現象を干渉と呼んでいて、これは波特有のものです。
光もこの干渉という現象を起こします。光の場合には、光源の前に狭い隙間、スリットを置きます。そのスリットを光が通過するとそこから前方へ光が広がっていきます(このような現象は回折と呼びます)。さらにその前方に、別の二つのスリットを平行に作っておきます。そうしますと、第一のスリットから広がった光が、今度は前方にある二つのスリットを通過し、それぞれのスリットから再び前方に広がり、二箇所から出た光が重なることになります。これで、二つのスピーカーを出た音が重なるのと同じように、光を重ねていることになります。光の場合には、重なった光を二つのスリットの前方に置いたスクリーンに当てます。そうしますと、スクリーン上に、明るい場所と暗い場所が交互に現れ、縞模様がつくられることになります。明るいところは二箇所から出た光が強めあう場所で、暗い場所は弱めあう場所です(図8-1参照)。
図8-1(『改訂版高等学校物理Ⅰ』(数件出版)より)
この実験はヤングの実験と呼ばれるものです、この実験結果から、光は音と同じように干渉を起こし、波であるということがはっきりします。ところで、光が関係する現象の中に、光電効果というものがあります。これは、光が金属にあたるときに、金属中にある電子が飛び出してくるという現象ですが、その実験結果を説明するのに光を波と考えるとうまくいきません。そこでアインシュタインは、光量子仮説というものを唱えました。その仮説によれば、光電効果の際には、光は、光子と呼ばれる粒子の流れだと考えるべきなのです。光電効果以外にも、コンプトン効果など、波とみなしてきた光やその他の電磁波を、粒子とみなさなければならない現象が知られるようになりました。
その後、物理学者ド・ブロイが、波と考えられていた光が、ある場合には粒子として扱われなければならないのなら、電子など粒子と考えられていたものの方は、波として扱われなければならない場合があるはずだと考えました。そして、電子の流れである電子線を使って、電子が干渉を起こすことが実験的に確かめられたのです。例えば、光のヤングの実験と同じように、二つのスリットに電子線をあて、スリットの前方の平板にあたる電子の数の分布を濃淡で表すと、光と同じように縞模様が得られるのです(詳しくは高校の「物理Ⅱ」の教科書などを参照して下さい)。
このように、光や電子などの、物理的世界を構成する基本的な存在が、波の性質と粒子の性質の両者を持つことを、波と粒子の二重性と呼んでいます。これは、古典的な物理学の枠で考える限り、きちんと説明できない事柄です。その後も、直観的には広がりをもつように思われる波動的な存在が、観測するときに突然粒子として確定した場所に現れるのをいかにして説明するのかという観測問題とか、一度相互作用した素粒子は、どんなに離れたところにあろうが、あたかも一体のものでもあるかのように振舞うという分離不可能性の問題など、日常的な概念では明確に説明し難い問題をはらみながらも、量子力学は、古典物理学を超えて発展していきました(これらの問題に関しては、デスパーニア著、丹治信治訳、『現代物理学にとって実在とは何か』、培風館、1988を参照して下さい)。
長々と、量子力学の発展過程で生じた問題点について述べてきましたが、私が参考にしたいのは、量子力学成立の初期段階で中心的な人物であったニールス・ボーアの、波と粒子の二重性についての次のような見解です。
量子論は、相補的な概念“波”と“粒子”を用いて、自然の二重性格的記述を許すにすぎないから不満足なものである、ということがいつも繰り返し言われている。しかし量子論をほんとうに理解した人なら誰でも、ここで二重性格を論じようとは夢にも思うまい。彼は、この理論が原子的現象の統一的な記述であり、それを実験に適用して、普通の言葉に翻訳しようとする場合にだけ、いろいろちがったもののように見えることもありうると思っているだろう。量子論は、われわれがある事柄を完全に理解することができるが、それにもかかわらずそれを語る場合には、描像とか比喩しか使えないことを知らされる一つのすばらしい例だ。この場合、描像と比喩は本質的に古典的な概念であって、だから“波”や“粒子”もまた古典的な概念なのだ。それは、正確には現実の世界に適合しないし、お互いどうしは部分的には相補的な関係にあり、だから矛盾してもいる。それにもかかわらず現象を記述する際には普通の言葉の枠内にとどまらねばならないので、真の事実に近づくには、これらの描像によるしかないのだ。(W.ハイゼンベルク 湯川秀樹序、山崎和夫訳、『部分と全体』、みすず書房、1974、p.336)
相補的な概念とは、互いに排除しあうが矛盾はしない概念です。ここでは、古典物理学における“波”と“粒子”という二つの概念が相補的な関係にあると考えられています。この相補的という関係に関して、ここで深く検討することはしません。ただ、ボーアの見解の中で参考にしたいのは、古典物理学にとどまる限り、量子論が捉える現象は、互いに排除する関係にある“波”と“粒子”という二つの概念を使って記述せざるを得ないということです。そして、実際に量子論、あるいは量子力学を学び使用し精通している人たちは、古典的な“波”と“粒子”という概念では表しつくせない数学的な構造なり概念なりを自分たちが扱っていることを、はっきり自覚しているのです。
主観(内面)と客観(外面)の二重性
ボーアが波と粒子の二重性について語っている形式は、心身問題に対してある程度あてはめることができると思われます。私達が世界を記述する際に使わざるをえない基本的な概念の中に主観(内面)と客観(外面)という対になる概念があるとしたら、世界の記述には、客観的な存在と対応する主観的な存在の両者が必然的に現れるはずです。なぜなら、主観と客観は観察という関係で結び付けられていて、観察は観察する主観的存在と観察可能な客観的存在の両者があって初めて成立するからです。一方だけと言うことはあり得ません。類似した例としては、右と左という対となる概念を考えてもらえばいいと思います。どちらか一方だけでは右も左も成立し得ないはずです。同様に客観と主観も一方だけでは成立し得ないはずです。そうであれば、もし私達が各自、自分には心、主観、内面があると認めるなら、観察できる客観的な世界があり、その一部が私達の身体となって、周囲と相互作用しているのは当然なことではないでしょうか。こう言ってもいいでしょう。主観・客観という対概念を使用して世界を描写する限り、私に、対象を見る主観的側面と、対象として見られる客観的側面の両者があるのは不可避なことであると。このように考えると、内面(心)と外面(身体)の間に相互作用がなければ両側面の存在を認められないというような考えはそもそも筋が通らないことになります。
心身問題に対する考え方として、初めに四つの立場をあげましたが、今述べてきましたたような、一方があれば他方もなければならないという対概念の考えからしますと、一番目の物理主義は、主観と客観という対概念を使いながら、その中の客観のみで済まそうというもので、根本に矛盾をはらんでいます。また、二番目の唯心論は、物理主義とは逆に、物理的世界は私達の心が作り出したものであるとし、主観と客観という対概念を使いながら、主観のみで済まそうとするものですから、これも根本に矛盾をはらんでいます。三番目の二元論ですが、主観と客観という両者に実在性を認めますが、その二つの側面をそれぞれ単独で存在できるものとして扱い、むりやり橋渡しをしようとしているところに矛盾があります。もともと私の主観と客観、内面と外面は単独では存在しえないのです。
先ほどは左右という対概念の例をあげましたが、今度は表と裏という対概念を参考に考えてみることにします。例えばボールの半面を緑色に塗りこれを表面とします。残りの反面には赤色を塗りこれを裏面とします。そうしますと、このボールに異なる色の両面があるということは当たり前だと思われるかもしれませんが、それは私達が、ボールが立体的であることを知っているから当たり前だと思っているわけです。発達心理学によりますと、このようなボールを用意し、前操作期と呼ばれる発達段階の子供にまずは表面を見せ、次に裏面を見せ、異なる色の両面があることを確認させます。そして次に表面を見せ、反対側にいる大人には何色が見えているかと聞きますと、自分に見えている表面の緑色が見えていると答えます。具体的操作期と呼ばれる次の発達段階の子供は、大人には裏面の赤色が見えていると答えます。これは、前操作期の子供には他者の視点がとれないのだと説明されますが、表面と裏面という両面をその本体である立体は持っているということを把握できていないということだとも言えます。
同様に、もし私に主観と客観、内面と外面があるなら、それらの両側面を何故持つのかとか、どうして一定の対応関係があるのかとかは、両者を持つ本体の在り方に依存するのであり、その本体を認識できない限り、確たることは言えないのではないでしょうか。そのように考えてみますと、いくらモダンとポストモダンの哲学ではその本体であるスピリットを承認できないと言っても、第四の、観念論の立場こそが、心身問題に対する考え方として、唯一妥当性のあるものだと思われてきます。
人の姿は、左から見た姿と右から見た姿で描写し尽くされるのではありません。あるいは、前の姿と後ろの姿で描写しつくされるのでもありません。本当の姿は、左から見るとこうなり、右から見るとこうなり、前からみるとこうなり、後ろから見るとこうなるといった、左と右、あるいは前後を超えた立体的なものなのです。同様に、主観と客観という対概念の枠内のもとで表現する限り、私は、内面と外面の二つの側面を持った存在ですが、その両側面で描写し尽くせない、内面と外面を超えた何かでもあるはずだと観念論は考えるわけです。そしてその何かを、観念論ではスピリットと呼んでいますし、ウィルバーは非二元と呼んでいるのです。
ここで先述しました物理学の例を思い出してください。量子力学に精通することなく、古典力学の「波」と「粒子」という概念で構成される枠内に止まる人には、素粒子が何故あるときには波のように振舞いあるときには粒子のように振舞うのか、納得はいきません。それに対し量子力学に精通した人は、古典的概念で説明し尽くすことはできないが、それらで表そうとすると、どうしても二重性として表現せざるをえないことになってしまう、古典的概念を超えた数学的な理論構造をはっきりと知っているので、それを知らない人のような形では疑問を抱かないのです。
結局この例とパラレルなことが心身問題で成立すると私は思うのです。主観と客観という対概念で構成される概念システムの枠内にとどまる人(モダンとポストモダンの人です)は、心と身体、内面と外面で自分を知りますが、それらを持つ本体の在り方を知っているわけではないので、二面があることに疑問を抱いたりします。それに対して、内面と外面を超えて認識できる人がもしいるなら、主観と客観を基本とする枠内ではどうしても納得させることのできない本当の構造を知っていて、でも主観と客観を基本とする枠内で表現しようと試みるなら、不十分でも、その二面を使って表現せざるを得ないとも了解していますから、無理な解釈を試みるようなことはしないのです。
観念論的立場の納得不可能性と他者の内面に対する疑惑
通常私達は、ヴィトゲンシュタインの言葉にあるように、自分(主観)とその周りの客観的世界という、主観と客観という対概念が基本になって構成された概念システムの枠内で全てを捉えざるを得ないようになっていると思われます。そうだとしますと、観念論的立場が妥当な見解だとしても、主観と客観を基本とする概念枠(概念システムの枠)に止まる人にたいしては最終的な説得力を持ちません。何故なら、ある概念枠に止まるということは、それを超えたあり方を把握できないということだからです。主客を超えたスピリットあるいは非二元を、実感的にこういうものだと把握できないからです。
以上がこれまで述べてきたことの簡単なまとめですが、実は別の大きな疑惑を隠したまま記述してきました。ここまでの記述は、私にはあてはまっても、他者に当てはめることはできないのではないのかという疑惑です。何故なら、自分の内面はリアルですが、他者の内面は私にはリアルではありません。他者が本当に私と同じようにリアルに感じられる内面を持っていると言えるのか。あるいはそもそも内面があると言えるのか。これが別の大きな疑惑です(この疑惑に関しては、永井均著、『<私>のメタフィジクス』、勁草書房、1986を参照して下さい)。第Ⅱ部では、ウィルバーの全象限全レベルによるコスモロジーによって、主客を超えてスピリットを把握する可能性と、今新たに述べました他者の内面に関する疑惑の両者に対して、ある妥当な見解が得られるということを説明したいと思います。
Ⅱ 全象限全レベルの適用
他者の内面の存在について
心身問題は私だけではなく、その他の人の問題でもあります。ところが、私は自分の心を直接的に体験しているのに、他者の心を直接体験することはできません。そこから、他者に私と同じように内面があって、同じように心身問題が生じると考えてよいのかという哲学的な問題(疑惑)が現れてきます。
ウィルバー・コスモロジーでは、人を始めとする、この宇宙に存在する個には、主観と客観の分かち難い両側面だけでなく、個と集合の分かち難い両側面もあるとします。例えば私に、意識という主観的側面があるとするなら、必ず身体という客観的側面があるとしますし、また私に個人としての個的側面があるとするなら、必ず集合のメンバーになっているという集合的側面もあるとします。
そうしますと、個である私がいると認めることは、そのような私は必ず集合のメンバーですから、同様な個である他者が必ずいなければなりません。そして私が個として基本的に内面と外面を持つなら、同様の存在である他者も内面と外面を持つはずなのです。従って、主観と客観、そして個と集合という二つの対概念で世界を捉える限り、他者に私と同じように心(内面)があるのかという問いは、筋の通った問いではなくなります。内面と外面を持つ私が存在するなら、同様に両面を持つ他者が必然的に存在するのです。
ウィルバー・コスモロジーでは、主観・客観と個・集合の二種類の対概念を重ねて、世界を捉える四つの側面を考えるのでした。それらは、図8-2のように四つの象限を使って表わされることが多いので、四象限とも呼ばれることになるのでした。
図8-2
この四象限説からしますと、もはや他者が内面を持つことは、私達自身の認識の形式がもたらした前提だということになってしまうわけです。
次に、観念論的立場を最終的に認めるには、スピリットあるいは非二元ということを承認する必要があるということについてです。ウィルバーによれば、モダンとポストモダンでは承認しないということでした。そうしますと、人が、モダンあるいはポストモダンという認識の様態から脱して、スピリットあるいは非二元ということを認識できる様態を持てる可能性があるのかどうかということが、観念論的立場を是とするための必要条件になります。これを論じるための準備として、理性を持つ人(モダンとポストモダンの人)の認識能力である形式的操作について振り返っておくことにします。
理性段階の認識の形式である形式的操作とは
具体的操作段階と形式的操作段階という二つの発達段階の違いを説明するのに、ピアジェに言及しながら、ウィルバーは次のような例を挙げています。
子供に無色の液体の入った五つのグラスを見せる。そのうち三つのグラスに入った液体を混ぜ合わせると黄色になる。子供は、黄色を作ってみるように言われる。
具体的操作期の子供は三つのグラスを一度に組み合わせてみる。子供はこの実験を具体的に行う。子供は正しい組み合わせに行き着くまで組み合わせを続けるか、やがてあきてやめるかする。
形式的操作期の思春期の子供は、まず五つのグラスから、考えられる三つの組み合わせを全部試して見なければね、と言いながら実験を始める。子供は心的なプラン、または形式的操作によって、たとえおぼろげにであれ、試さなければならない組み合わせをすべて見ることができる。子供は具体的操作を繰り返すことで、この理解に達する必要はない。むしろ子供は『心の眼』で、すべての可能な組み合わせを考えなければならないことを見るのである。(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、『進化の構造1』、春秋社、1998、pp.364~365 )
このように、理性の段階での認識の形式である形式的操作では、人は心の中に様々な可能性を並べて見渡すことができます。理性の前段階である具体的操作期ではそれができません。引用した例で言えば、形式的操作期の子供が、全ての組み合わせはこのようになるよといくら説明しても、具体的操作期の子供には、何故それでいいのか、結局は納得できません。それは、同じレベルの認識形式を持っていないからです。
ところで、形式的操作の段階では、人は心の中に様々な可能性を並べて見渡すことができるというのですが、「見渡す」というとき、見渡す主体と見渡される対象が前提とされています。つまり主観と客観という対となる概念が認識の前提となっているわけです。このように、理性の段階では、主客の対概念が基本となった概念枠で世界を見ています。また、理性の段階では、具体的な有様だけでなく、可能性をも見渡すことができます。可能性を見るということは、「他」の視点を取れるということです。本人以外にも、内面的な視点をもつ他者、個が想定されているわけです。自分だけでなく、他者がいる。個が集まった集合があることも前提とされています。
第Ⅰ部では、主観と客観の対概念が理性の段階での認識の概念枠になっていると述べましたが、今のように見てきますと、それに加えて個と集合という対概念も重ねるべきだとわかってきます。従って、両方の対概念を組み合わせた四象限という概念枠は、実は理性の段階での認識の枠組みであり、同時にその限界を示しているのだと言えそうです。
スピリットを承認することの可能性について
合理性の段階にある人々が、自身を四つの側面を持った存在として捉えたとします。そのとき、それらの側面だけでは捉えきれない本体があるわけです。繰り返し同じような例をあげて恐縮ですが、例えば立体的な人の姿は、左右の側面だけで表わされるわけではなく、様々な側面を超えた立体的な姿です。そうしますと、私達が、自身を四つの側面で描写しているとき、それが理性の段階で認識できる限界枠であるとすれば、もはやそれら側面を持つ本体については確たることは言えません。枠内で認識するということは、枠を超えたあり方を認識できないことでもあるのです。「本当の私達は、客観・主観を超越し、個・集合も超越した、四つの側面を持つ何かだ」と言えるだけです。そして言ってはみたものの、本当の在り方である何かについて確たることが言えないので、はっきりしている側面へ本体を還元してしまおうなどと考えてしまい、物理主義や唯心論や二元論に陥ってしまったりするのだと思えます。
もし理性の段階にとどまらざるを得ないのであれば、これ以上を望むわけにはいかないのですが、全象限全レベルのウィルバー・コスモロジーには、四象限に進化・発達ということが重ねあわされています。その様子は図8-3を見ると思いだしていただけるはずです。
図8-3 (『進化の構造1』の305ページにある図を、原書第二版 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)
そこには、左上象限に意識の発達という要素があり、形式的操作を超えた認識能力の可能性が示されています。ヴィジョン・ロジックは、形式的操作を超えた認識能力ですが、それは、四つの象限を超えた本体を実際に見ることができる段階というよりは、推測をして、図8-3のようにどうにか地図化できると言う段階です。では、実際に見る段階は設定されていないかと言うとそうではありません。トランスパーソナル心理学で探究されているように、そのような可能性を実現するための方法論がすでにあり、一部の人々ではすでに実行されてもいるようなのです。ですから、もしその方法論を実践し、意識のレベルを理性を超えて上昇させることに成功したなら、その時には、「なるほど、たしかに私は理性の段階では人間とは四つの側面を持つ何かだとしか言いようがなかったが、実際それらの側面を超えた存在であることを確認できた」と主張することになるでしょう。その確認を、理性の段階にとどまる人にいくら説明しても実感的に納得はしてもらえませんが、理性を超えた人に説明すれば、共感を持って受け入れてもらえるはずなのです。そして、観念論が妥当な理論であると完全に承認されることになるのです。
このように、人が、モダンあるいはポストモダンという認識の様態から脱して、スピリットあるいは非二元ということを認識できる様態を持てる可能性を、ウィルバー・コスモロジーは含んでいるのです。
Ⅲ ホロン概念による心身問題のまとめ
ホロンとは四つの側面を持った個である
ホロンについては、第7章で述べました。コスモスの進化の過程で登場してきた、分かち難い四象限をもった存在で、全体性を持ちながらも、より高次の存在に対しては部分になり得る存在です。ただし、左上象限(個的内面)は一つ一つの個に特有な側面で、そのためにホロンは個の数だけあるのでした。図8-2はコスモスの四象限ですから、その左上象限は全ての個の内面を表していますが、ホロンの場合にはただ一つの個の内面を表すとしたのでした。
例えば、二人の人間を想定してみます。二人ともホロンです。この二つのホロンは、どちらも人間ですから、お互いの集合的側面を共有しています。左下象限の人間としての基本的世界観、そして右下象限の人間社会を共有しているのです。従って、二つのホロンを集合的側面で区別することはできません。では個的側面ではどうでしょうか。
一方の人の個的外面は、他方の人の集合的外面の中に他者の外面として現れています。ところで、客観的外面である限り、自分として現れようが、他の人から見られて他者として現れようが、そこに何の相違もありません。すなわち、メンバーが共有する集合的外面の中に、私達の個的外面は全て完全に含まれているわけです。実際ウィルバーは四つの象限を、個的内面(主観的側面)、集合的内面(関主観的側面)、客観的側面の三つに簡略してビッグスリーと呼ぶことがあります。そうしても実質上問題が生じないのは、今述べましたように、個的外面は、集合的外面にそのまま顕われ含まれているからです。ですから、個的外面は実は二つのホロンで共有されており、それによって二つのホロンを区別することはできないのです。
しかし個的内面は違います。例えば私が体験することは、私そのものでなければ持ちえない純粋に私的なものです。他の人が私の表情を見てどのように私に感情移入しようが、私の感情体験を決して持ち得ないのです。そうしますと、ホロンの四つの象限の内、個的内面だけがホロン間で共有できない唯一の象限になります。確かにホロンには集合的側面もあります。しかしホロンには個的内面という相互に冒しがたい個別性があるのです。コスモスは、このような、個的内面で区別することのできる無数のホロンの総体なのです。
私と言うホロンと他者というホロンの四象限図
個人は、人間というホロンです。今、私と甘木太郎という二人を考え、そのホロンを、四象限図で示してみますと、図8-4のようになります。個的外面と集合的外面は、前節で述べましたような理由から、まとめて右側象限の外面として扱うことにします。
図8-4
仮に人間のレベルが、図8-3におけるレベル13であるとしますと、各象限は、レベル13までの全てのレベルを含んで超える形で構成されていることになります。例えば右側の外面であれば、銀河系から情報化された全地球的社会までを、左下の集合的内面であれば、物質的からケンタウロス的文化までを持っています。それらは、第7章で述べましたように、個体発生と系統発生の両者を含みますから、系統発生的な面に焦点を合わせますと、人間には宇宙の全歴史が含まれることにもなります。
二人のホロンは、右側の外面と左下の集合的内面においては、レベル13までの全てを含んでいて、共有しています。これらの側面は全ての人間が共通に持っているわけで、これらでは人間を個として識別することはできません。しかし、左上の個的内面は、先述しましたように、極めて私的であり、二人の人物では共有できません。この側面は、全てのホロンの、その個別性を識別できる側面であり、重なり合うことは決してありません。
心身問題に関して何故還元主義的な見解は生じるのか
ところで、私に、個的内面である心と、対応した個的外面である身体とがあることは、日々実感していることでもあります。また、個的外面である身体は周囲の集合的外面の一部であることも、周りを見渡すことで実感できます。そして、家族、同僚、同国人、外国の人、そして様々な動植物と共感的にコミュニケーションをとることで、様々なレベルで集合的内面のメンバーになっていることも実感できます。私は、私の4象限図の右側、左上、左下の三つの領域全てを実感できるわけです。そして、これらのうち、右側と左下は他者と共有さえしていますから、他者のそれらの領域についても私は実感的に知っていることになります。
しかし、ホロンである限り、実感的にその存在を確認できないものが他者のホロンの個的内面なのでした。ただ、他者のホロンの個的内面にはそれに対応する個的外面があります。そしてその個的外面は私と共有している外面世界の中に登場します。そのため、他者の個的外面を通じて、その分かち難い側面として他者の個的内面の存在を間接的に私は知ることができます。あるいは、他者とコミュニケーションを取ることで、共有する集合的内面を通じて、その分かち難い側面として他者の個的内面の存在を間接的に私は知ることができます。このように、あるホロンの個的内面と別のホロンの個的内面の間には、共有する外面あるいは共有する集合的内面を通じて間接的なつながりはあるのです。しかし、繰り返しますが、右側外面と左下集合的内面(文化)とが、他のホロンと共有することで直接のつながりを確認できるのに対し、個的内面だけは、共有することで他のホロンと直接的につながりを確認することはできません。
私にとって自分の個的内面は直接的であり、何にも増してリアルです。ところが他者、例えば甘木太郎の個的内面は、私にとっては、彼と共有する左下象限あるいは右側象限を通じて間接的にその存在を知るにすぎないもので、他の象限程リアルではないのです。この自他の個的内面の非対称性こそが、心身問題に対して還元主義的な考えが生じてくる原因になっていると私は考えます。
もし個的内面を自分の個的内面で代表させてしまったなら、これこそがリアルで実在性を持つとし、その他の全ての象限を個的内面に還元し、唯心論的な考えに至るのも当然ではないでしょうか。それに対して、もし個的内面を他者の個的内面で代表させてしまったなら、それは右側象限(外面)の向こう、あるいは左下象限(集合的内面)の向こうにある間接的なものにすぎなくなります。そのとき、右側象限(外面)を通して見るなら、個的内面より右側外面の方が直接的であり、科学的物理主義のように個的内面を外面に還元してしまうような考えに至ったりもするでしょう。また、左下象限(文化)を通して見るなら、個的内面より左下象限の方が直接的であり、ポストモダンの文脈主義のように、「意識に立ちのぼる、ほとんど全ての事象は、それ自身は見られることのない間主観的なネットワークの産物である」(『インテグラル・スピリチュアリティ』、p.399)というような考えに至ったりもするでしょう。
心身に対して還元主義と言う見解が何故生じるのかは、このように、自他のホロンの左上象限(個的内面)の非対称性から説明できると私は思うのです。
スピリットを承認できる意識レベルの在り方とは
観念論を最終的に是とするためには、主客という二面で描写されるその本体を認識できる意識レベルに達する必要がある、というように第Ⅰ部では議論しましたが、理性の認識の枠組みとしての四象限を知った今となっては、それを次のように言い換えることができます。
個々人は四つの側面(あるいはビッグ・スリーという三つの側面)をもったホロンである、ということを最終的に是とするためには、そのように描写されるその本体を認識できる意識レベルに達する必要がある。
では、そのような意識レベルの具体的あり方についてどのようなことが言えるのでしょうか。手掛かりとして、先程述べました、自他の間での、個的内面の非対称性ということがあります。ホロンの四つの側面のうち、左上の個的内面以外は、実感的に認識できます。しかし、個的内面だけは、自分の個的内面は実感的に認識できるのに、他者のそれはできません。もしホロンというものの本体のあり方を十分に認識できるのだとすると、このような非対称性が解消される(あるいはそういう非対称性が生じるのが当たり前だと実感できる)ようになっているのではないでしょうか。それは、他者の個的内面を自分の個的内面のように体験することができ、逆に自分の個的内面を、外面や間主観的コミュニケーションから推測せざるを得ないような他者の立場から見ることができるようになって、非対称性を確かめることができることになっているということです。
それは、ホロンの本体としての在り方を認識できるときには、当然個的内面に関して同一人からの見方と他者からの見方のどちらの見方もできるようになっているはずだろうということです。より具体的に言いますと、読心術(テレパシー)は、他者の個的内面を体験できるようになっていることを示していると思えます。また、ある種の体外離脱体験において、自らの姿を離れた所から見ているようになっているときには、自己の内面を他者の立場から間接的にしか推測できない状況になっていることを示していると思えます。そのような体験ができるようになっているということが、ホロンの本体、スピリットを承認できる意識レベルに立ち至っていることの具体的な兆しを示しているのだと思うのです。
7章で、コスモスはホロン超越的(トランスホロニック)なありかたをしていると述べました。そしてそのホロン超越的であるということは、すべてのホロンの個的内面を持つことができるということでした。もしあるホロンが、コスモスのように、全てではなくても、いくばくかでも他のホロンの個的内面を持つことができるなら、それはもはやホロンではなくなっていることですから、やはりホロン超越的になっていると言っていいと思います。そうしますと、人がホロンを超えて、ホロン超越的になったなら、自分と言うホロンの内面を、通常の自身の立場からと、他者の立場からの両方から見ることができるようになっていますし、また、その個的内面を体験できるようになった他の個的ホロンの個的内面も、やはり自身の立場からと、他者の立場からの両方から見ることができるようになっています。と言うことは、ホロン超越的になることで、ホロンの本体をそのまま認識できるようになるのではないかと思えてきます。
仮にそうだとしますと、7章で述べたことですが、理性を超えた意識としてトランスパーソナルな段階があり、そのなかにさらに細かい段階が設定されているということは、実はトランスパーソナルに相当するホロン超越的(トランスホロニック)な段階に、他のホロンの個的内面を体験できる程度の違いでさらに細かい段階が生じるということではないかと私は思います。例えばトランスパーソナル心理学でいうところの自然神秘主義とは、物質的なレベルでの他のホロンの個的内面をとれるトランスホロニックな段階であり、トランスパーソナル心理学でいうところの神性神秘主義とは、神話レベルでの他のホロンの個的内面をとれるトランスホロニックな段階であり、というようなことが考えられるわけです。
このホロン超越が究極にまで進み、コスモスに完全に重なるときには、人は全てのホロンの個的内面を体験できるようになります。そのときには、自身を含む一切衆生は、自分自身でもあり他者でもあるのですから、この究極のホロン超越レベルでは、自分も全ての他者も、自分としていつくしむことができる一方で、他者として冷めた目で見ることもできます。それは、全てに対して、執着と無執着の両者の気持ちを同時に持つことができることだと言えるのかもしれません。