第6章 ウィルバー・コスモロジーにおける左上象限の検討
人が行動する際には、その行動を引き起こすことになった、他者が目にすることのできない、その人の内面での何らかの状態があったのだと思えます。例えば、ある人のバナナを食べるという行動では、その人の空腹感、急いでいるので手軽に食事をすますことが望ましいとしたその人の思考、バナナは栄養があるというその人が持っているイメージなどが原因になっていることは十分ありそうですが、その際、空腹感、思考、イメージなどは、それらが引き起こした行動とは異なり、他者が目にすることができないその人の内面での状態だと思えるのです。これは一例にすぎませんが、一般に人が行動する際には、その行動と因果関係で結ばれているその人の内面での状態があるという考えに、多くの人は同意するのではないでしょうか。今回は、この多くの人が是認しているだろうことに関する考察を深め、その結果からウィルバー・コスモロジーをその左上象限を中心に検討したいと思います。
心的状態に関する二つの特性
人の内面を心と呼び、感覚、欲求、感情、イメージ、思考などとして生じている内面の状態を心的状態と呼ぶことにします。この心的状態には、先ほど述べましたように、その人の外面的行動と因果的関係を持ち得るという性質があるようです。この性質を、哲学者チャーマーズにならいまして、心的状態の心理学特性psychological property (『意識する心』、ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社、2001 p.38 The Conscious Mind, David J. Chalmers, Oxford University Press, 1996 p.16)と呼ぶことにします。
ところで心的状態は、感覚であれ、イメージであれ、思考であれ、体験において現れるもので、そこには、体験する主体であるが故に知られる何らかの感じがあると思えます。怒りの感情を持つときの独特な感じ、空腹であるときの独特な感じ、物理の入試問題を解くときの独特な感じなどなど、識別できる様々な感じがあると思えます。それに関してチャーマーズは次のように述べています。
……われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある。処理過程には、認知主体であるように感じられるところがある。この内的な側面が意識体験である。意識体験の範囲は、生き生きした色彩感覚から、背景に漂うごくかすかな香気にまで及ぶ。鋭い痛みから、出かかっていながら出てこない考えといった捉えどころのない体験に及ぶ。日常的な音響や匂いから、全身を包み込む崇高な音楽体験にまでいたる。しつこい痒みという些細なものから、深い実存的な苦悩の重みにまでまたがる。ペパーミントの味のように特殊なものから、自我の体験という一般的なものまで含む。体験されたこれらの質には全て大きな開きがある。しかしそのすべてが、心が内的に営む生の突出した部分をなしている。
トマス・ネーゲルが有名にした言葉を借りれば、あるものが意識的であるというのは、そのものにとって、そのものであるのはこういうことだといった何ものかがある場合である。同じように、心的状態が意識的であるのは、そういう心的状態であるとはこういうことだといった何ものかがある場合である。言い方をかえると、心的状態が意識的であるのは、それが質的な感じ――体験に結びついた質――をもつ場合である。そうした質的な感じは現象的な(フェノメナル)質(クォリティ)、略してクオリア(質感)とも呼ばれている。この現象的な質を説明するという問題が、まさしく意識を説明するという問題であり、実にここが、心身問題の難しい部分である(『意識する心』pp.24~25)。
外面的な因果関係と情報処理に関係する心理学特性に対し、この引用文で述べられている体験の主体として持つ内的な質を、これもチャーマーズにならいまして、現象特性 phenomenal propertyと呼ぶことにします。チャーマーズは、心が心理学特性と現象特性を持つという考えから、心に関する二種類の概念があるとして次のように述べています。
二つのはっきり区別できる心的概念がある。第一は、現象的な心的概念。これは意識体験としての心に関する概念であり、意識的に体験された心的状態としての心の状態に関する概念である。……(中略)……第二は、心理学的な心的概念。これは、行動に因果関係をつける、あるいは行動を説明づける基盤としての心的概念である。ある状態が行動を生み出すのに申し分ない因果的役割を果たしてれば、それはこの意味での心的状態ということになる。心理学的概念に従えば、心のある状態が意識という質をもつか否かは、ほとんど問題にならない。問題になるのは、それが認知体系に果たす役割である。(『意識する心』p.33)
少しまとめておきたいと思います。どの人にも、他の人からは隠されている心と呼ばれる内面があるとし、その心の状態を心的状態と呼ぶことにします。そうしますと、心的状態には二つの特性があるように思えます。一つは、行動(他者から見て取れる外面での出来事)を生じる因果的連鎖の一環となる特性で、それを心理学特性と呼びます。もう一つは、意識体験の主体であるが故に持つ、内面としての質的感じで、こちらは現象特性と呼びます。
他者の現象特性は存在するのかしないのか
ところで、次の引用文においてチャーマーズが述べていますように、心の現象特性と心理学特性は事実上常に一緒に生じるように思えます。
現象特性が実例となって現れるときは、必ず心理学特性も実例となって現れる。これは、人間の心というものについての一個の事実である。意識体験は何もないところでは起こらない。必ず認知プロセスと結びついており、ある意味では、そうした認知プロセスから起こるのであるらしい。例えば何かの感覚があるときは必ず、何らかの情報処理が進行している。お望みなら、これを対応する知覚といってもいい。同じように、幸せを意識として体験するときはいつでも、何らかの内的状態が幸せに対応する機能的な役割を演じているのが通例である。因果関係をもたない体験をするというのは、論理的にはありうることだが、体験的事実としてはそれらは並行しているように思える。(『意識する心』p.45)
眼に差し込んできた光の刺激を発端として、神経系において生理学的な情報処理過程が起き、その結果眩しいと感じ目を閉じたりするというような、一連の因果の連鎖が実現するとき、視覚体験において主観的な現象特性が生じているように思えます。このように心理学特性と現象特性の同時発生を認めますと、本来当人にしか知られないと思える内面的な現象特性についても、心理学特性の因果的な役割で、それと同時に起きている何かとして間接的に言及し、他者にその存在を伝えることができるように思えてきます。また逆に、他者の心理学特性から他者の現象特性の存在を知ることができるように思えもします。しかし、それはあくまでも間接的に言及するだけですから、他者の現象特性の存在については結局確たることを言うべきではないのではないでしょうか。例えば「緑色の感覚」という言葉で、緑色の物体を見るときに人が持つ体験の現象特性に言及するとして、その際の内実をチャーマーズは次のように分析してみせます。
<緑色の感覚>といった言葉でさえ、それが示す内容は外から持ってきた言葉で確定されている。<緑色の感覚>という言葉を学習するとき、われわれは実際には実物で具体的に示すことによって学習している――草や樹木その他が引き起こす類の体験に、この言葉を適用することを学んでいるのである。一般に、とにかく伝達可能な現象的カテゴリーがわれわれにある場合、それらはわれわれの外にあって典型的にそれと結びつくものか、あるいはそれと結びつくような心理学的な状態との関連で定義づけられる。たとえば、幸福というものの現象的な質について語るとき、<幸福>という語が指し示すものは、暗黙のうちに何らかの因果的役割を介して定着されている。何もかもうまくいっている状態、喜びに躍り上がるような状態等々である。おそらくこれが、ヴィトゲンシュタインの「われわれの内なるプロセスは外へ向かう判断基準を必要としている」という有名な言葉に対する、一つの解釈になるのであろう。
現象的な概念がこのように因果的基準に依拠していることから、われわれの心的概念が意味するものにはそれと結びつく因果的基準以外、何もないのだと示唆する人(ヴィトゲンシュタインやライルにもどこかそうした気味がある)も出てきた。(『意識する心』 p.46)
確かに、現象特性が、結局は外面的な因果関係を介してしか言及できないのであれば、それがあるとすることは無意味とも思えます。そうして、心的状態に関して語るべきは、心理学特性による側面だけで、心という内面があるとしたのは、そう思われただけで、実は内面はないとしてよいのだと思えてきます。チャーマーズは『意識する心』の中で、現象特性を欠くだけでその他はまったく変わりのない人間の複製、ゾンビという概念を登場させます。そして他者に関しては、内面である現象特性を知ることはできないので、他者はゾンビにすぎないという論理的可能性があると彼は考えているようです。
しかし、だからと言って、チャーマーズは、他者に現象特性が存在しないことの論理的可能性の現実性を主張しません。逆にその存在を確信して、次のように述べています。
意識体験を締め出してしまおうというのは、われわれ自身がそれをよく知っているという理由一つを採ってみても、筋の通らないやり方である。このようにじかに知っているということさえなければ、意識は生気論の「生気」と同じ道をたどることができた。別な言い方をすれば、われわれの意識に関する知識には認識の非対称があって、それは他の現象に関するわれわれの知識には現れない。意識体験が存在するというわれわれの知識は、まず何よりもわれわれ自身の例から導き出され、外的な証拠はせいぜい二次的な役割を演じるにすぎない。(『意識する心』p.138)
意識体験について、「われわれ自身がそれをよく知っている」と、「私」ではなく「われわれ」を主語にして述べていることに、チャーマーズが、自分は自分の内面があることをよく知っているので、他者にも内面があるのは当然だと考えている様子がうかがわれます。ということは、他者はゾンビであるという論理的可能性を彼は認めながらも、現実には他者にも自分と同様に、当人にのみ知られる内面、主観、現象特性があることに疑問を持っていないのです。しかし、自身に関して現象特性があることに疑問を持たないのは当然だとしても、他者に対してまで現象特性があるということに疑問を持たないのはどうしてでしょうか。私は当人として自分の内面を知っていますが、他者において当人(私)になれるわけではないので、他者の内面を自分の内面のように知ることができるはずはないと思います。そうしますと、チャーマーズに反して、他者に現象特性があることに疑問を持つのは当然なことだと思えてきます。
ただ、科学で確信されているようなことと比較すると、チャーマーズが他者の現象特性の存在に疑問を持たないのにはそれなりの理由があるとも思えます。例えば、机にせよ水にせよ、眼には見えなくても、原子からできているということを私たちは認めています。それは、現実の因果関係をうまく説明できるということを優先するという科学的な観点を私たちが受け入れているからでしょう。現象特性の場合は、私は自分に現に現象特性があること、そしてそれを伴う心的状態が因果的役割を果たしていることを事実として確認できます。そうしますと、他者の場合でも、外面的、客観的世界におけるその行動を見て、そこに私の行動におけるのと同様な因果的連鎖を見て取れますから、その因果的連鎖の一環としての心理学特性に、眼には見えなくても、私自身と同じように現象特性が伴っているのを想定することはそれほど不自然ではないように思えます。事実として自分の場合に成立していることをもとに、たとえ目に見えなくても、他者にも内面があり、私と同じことが起きていると想定することは、原子や素粒子に関する科学的な説明より不自然なことではないように思えるのです。
しかし一方で、私が他者になれない限り、他者の現象特性を自分のものとして体験できないことも確かで、そこに着目すれば、やはり他者に現象特性がない可能性も無視するわけにはいかないと思えます。
以上、チャーマーズの著作に書かれていることを中心に、内面に関して若干考察し、現象特性については、他者に関しては確信にいたらなくても、あると言ってもよさそうだというような、何ともあいまいな考えを私は述べてしまったのですが、哲学者ヴィトゲンシュタインが内面について述べていることを考慮しますと、他者に関しては、内面があるかどうか判断しようとすること自体が無意味となる論点があると私には思えてくるのです。
ヴィトゲンシュタイによる主体という内面のあり方の説明
チャーマーズは、認知活動の内的側面を、「認知主体であるように感じられるところ」としていますが、ヴィトゲンシュタインは、その主体について、次のように述べています。
五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
五・六三三 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
ここでの事情は眼と視野との場合とまったく同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。
そして、視野における何物からも、それが眼によって見られていることは推論され得ない。
(ヴィトゲンシュタイン全集1『論理哲学論考』、奥雅博訳、大修館書店、1975、p.97)
ヴィトゲンシュタインはここで、主体と言うのを、見たり、聞いたり、触感を持ったり、シンボルで指示したり、言葉・概念で言及したりして対象を知るもの、すなわち認知するもの(認知主体)としていて、それが、認知されるもの(対象)とは全く異なるあり方をしているので、対象によって構成される世界には属さないと言っているのだと私は解釈します。そうしますと、ここでの世界とは、客観的な世界にほかなりません。ある個人には、対象によって構成される客観的世界に属す身体や行動の客観的側面あるいは外面がある一方で、対象によって構成される世界に属さない、見たり、聞いたり、あるいは言葉・概念で言及したりできない、主体であることによる主観的側面あるいは内面があるのです。
そして、『哲学探究』の中では、内面の知についてヴィトゲンシュタインは次のように述べています。
他人の内的に語っていることがわたくしには隠されているというのは、〈内的に語る〉という概念の特性である。ただ「隠されている」はここでは間違ったことばである。というのは、たとえわたくしには隠されているとしても、かれ自身にはそれが明らかであるはずであり、かれはそれを知っていなくてはならないであろうからである。ところが、かれはそれを〈知って〉はいないのであって、ただ、わたくしにとって存在する疑いが、かれにとっては存在しないにすぎない。(ヴィトゲンシュタイン全集8『哲学探究』、藤本隆志訳、大修館書店、1976、p.440-441)
「かれはそれを知っていなくてはならないであろうからである。ところが、かれはそれを〈知って〉はいない」という部分に注目してください。ここにある「それ」は「かれの内面」のことなのは明らかです。そしてその内面をかれは「知っていなくてはならない」のに、「〈知って〉はいない」というのです。一見明らかな矛盾をこの引用文は含んでいるように思えます。しかしこの一見矛盾に思えることは、次のように解釈することで解消されると私は考えます。
他者の内面は私には隠されていますし、また私の内面は他者には隠されています。しかし、当人の内面は当人に隠されているわけではありません。しかもその隠されていないというのは、当人と離れて置かれた何かが、カーテンか何かによって隠されることが可能であるにもかかわらず隠されていないというのではなく、当人にはそのように隠されることがもともと不可能であるが故に隠されていない、ヴィトゲンシュタインはそう言っているのだと。このように、「かれはそれを知っていなくてはならない」ということを、隠されるのは不可能であるから知っているということだと解釈し、さらに、「ところが、かれはそれを〈知って〉はいない」という部分で言われていることを、隠され得るものを知るような仕方で知っているのではないということだと解釈すれば、ヴィトゲンシュタインの述べていることは矛盾したことではなくなると私は思うのです。
すなわちヴィトゲンシュタインのいう内面とは、物体のように指し示したり、あるいは言葉やシンボルを使って間接的に示したりすることができる、隠されることが可能な対象ではなく、主体当人であるが故に知られる、対象とは全く異なるあり方をした何かなのだと思います。ところで対象とは異なるものは主体ですから、その何かとは、そして内面とは、主体のはずです。そしてこの結論は、「主体は世界に属さない」ということについて述べたことと一致します。
以上のヴィトゲンシュタインが述べていることについての私の解釈をまとめます。
内面は個人の認知主体としての側面である。そして内面、すなわち認知主体は、対象のように、隠されることが可能なような仕方で知られるのではなく、当人であることで、隠されようもない仕方で知られるものである。
ヴィトゲンシュタインの考えとチャーマーズの考えを比較して統一的な見解をつくる
ヴィトゲンシュタインの述べていることを解釈して導いた主体という内面は、チャーマーズが内面とする現象特性の前提になるものだと私は考えます。そのことをはっきりさせていきたいと思いますので、一度引用しているチャーマーズの文章を、特に注目したいところを赤くして今一度書いてみることにします。
……①われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある。処理過程には、認知主体であるように感じられるところがある。この内的な側面が意識体験である。②意識体験の範囲は、生き生きした色彩感覚から、背景に漂うごくかすかな香気にまで及ぶ。鋭い痛みから、出かかっていながら出てこない考えといった捉えどころのない体験に及ぶ。日常的な音響や匂いから、全身を包み込む崇高な音楽体験にまでいたる。しつこい痒みという些細なものから、深い実存的な苦悩の重みにまでまたがる。ペパーミントの味のように特殊なものから、自我の体験という一般的なものまで含む。体験されたこれらの質には全て大きな開きがある。しかしそのすべてが、心が内的に営む生の突出した部分をなしている。
トマス・ネーゲルが有名にした言葉を借りれば、あるものが意識的であるというのは、そのものにとって、③そのものであるのはこういうことだといった何ものかがある場合である。同じように、心的状態が意識的であるのは、そういう心的状態であるとはこういうことだといった何ものかがある場合である。言い方をかえると、心的状態が意識的であるのは、それが質的な感じ――体験に結びついた質――をもつ場合である。そうした質的な感じは現象的(フェノメナル)な質(クォリティ)、略してクオリア(質感)とも呼ばれている。
私が①の後に赤くした部分では、まず、「われわれが知覚し、思考し、行動するときには」とありますが、これにはすぐに「情報処理」という言葉が重ねられますから、「認知活動の際には」と言い換えることができると思います。そしてその後に、認知活動の際には、「認知主体であるように感じられるところがある」とされています。そして、この「認知主体であるように感じられるところ」が意識体験であり、認知体験の内的側面であるとされます。ところで、ヴィトゲンシュタインの考えでは、個人の内面とは主体(認知主体)であることでした。そうしますと、チャーマーズの「認知主体であるように感じられるところ」とは、ヴィトゲンシュタインの考えを重ね合わせて言いますと、「内面である認知主体であることを知るところ」となります。従って、認知活動には、対象について知るという外面的側面もある一方で、「認知主体を知る」という内面的側面もあることになります。そして、ここがチャーマーズには欠けているところですが、ヴィトゲンシュタインによれば、内面である認知主体を知るというのは、隠されたり疑われたりする可能性がある、対象を知るということとは全く異なり、主体当人であることで、隠されようがなく、疑われようもなく知るということなのです。
従って、認知主体を知るのは認知主体当人だけです。私は自分しか認知主体として知ることはできないのです。他者については、自分でない対象として指し示したり、名前その他のシンボルを使って間接的に言及する(知る)ことはできます。しかし、その内面である認知主体としての側面については、全く触れることも、語ることもできないのです。内面は当人にしか知ることができないのですし、パーソナルな立場に立つ私は他者当人になり得ないのですから。従って、他者の内面の存在に関しては、何らかの意見を持つことはできないのです。
それに対して、②の後の赤い部分にある、「体験されたこれらの質には全て大きな開きがある」とされる現象的な質の方は、その少しあとでトマス・ネーゲルに言及しながら述べられる、アンダーライン③を引いた「そのものであるのはこういうことだといった何ものか」として、他の質との差異において知られるものであり、内面においてこれだと指し示すことができると想定されています。またそのような差異の故に、このような心理学特性に関してはこのような現象的質が、あのような心理学特性に関してはあのような現象的質がと言うように、心理学特性との対応関係も指摘できるわけです。そのため、本来その存在について意見を持ちえないはずの他者の主体性が、心理学特性をシンボルとして使い、外面から間接的に指示することができる現象特性を伴って存在するようにも思えてくるのです。しかしいくら心理学特性との対応関係が指摘されようが、現象特性はあくまでも公共的な対象の世界には属さない主体のものですから、他者にあるとかないとかと語ることは本来意味をなさないのだと私は考えます。現象特性を差異化して心理学特性と対応させることができると言っても、それは私に関してしか有意味性を持たないと思います。
ヴィトゲンシュタインが述べている次のことは、極めて私秘的な主体と、それに対峙する対象世界についてあてはまるのでしょう。
「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中へ入ってくる。
哲学的自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学が関わる人間の魂でもない。それは形而上学的主体であり、世界の部分ではなくて、限界である。(『論理哲学論考』p.98)
概念的には、客観(外面)と主観(内面)は、貨幣の表と裏のように、互いに相補的な関係にあり、どちらか一方だけがあるとするのは不可能だと思います。そうしますと、私は私であることで、主観があることを実感していて、その私の主観と相補的な客観世界があると筋の通った主張ができます。これが引用文にある「世界は私の世界である」ということなのでしょう。現に今ここで意識体験をしているこの私と、それに対峙する客観的世界があるという主張です。ただ、他者に関してそのような状況を想定することは無意味なのです。
ヴィトゲンシュタインもチャーマーズと同様に、誰にでも主体が想定できるという仮定から議論を開始し、それが決して無意味な仮定ではないという考えにかなり傾きそうになっていたと思います。しかし彼は、主体を知る仕方と対象を知る仕方との相違を追究することで、そのような誘惑にはのらなかったようで、次のように述べています。
わたくしのかれに対する態度は、魂に対する態度である。わたくしは、かれに魂があるなどという意見をもっているのではない。(『哲学探究』p.355-356)。
このように、ヴィトゲンシュタインは自身に主観があるように、他者もそうであるとする態度をとると言うのです。しかしそのような意見を持っているのではないと、その有意味性は否定しているのです。
繰り返しになりますが、私は主体であり、それを、対象を知るのではない隠されようのない仕方で知っているのですが、それは当人であることによってしか成立しない、極めて私的で秘められたことなので、他者がそのような主張をしても何の有意味な意見も持ちえないのです。他者が(例えばヴィトゲンシュタインが)、「私には確かに主観がある」と言ったり書いたりしても、それは言語行為において機能的に、すなわち心理学特性において発言されているだけで、現象特性の前提となる主体としての彼の隠された内面の存否についての意味ある内容はいっさい含んでいないのです。さらに、このようなことさえ言えるのかもしれません。ヴィトゲンシュタイン的な主体ということが意識体験にとって第一義的であるとするなら、人間と同じような心理学特性を示す人工知能があったとして、それが意識体験を持つかどうかという問題を提起することは、人間である他者に意識体験があるかどうかと問うことと同様に無意味であると。人間であろうが同じように振る舞う人工知能であろうが、そのものとなっていない限り、対象的なあり方をしない意識体験の有無について有意味なことは一切言えないからです。
ウィルバーは主観をどのようにとらえているのか
図6-1 ウィルバー・コスモロジーの四象限図(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)
チャーマーズの考え、ヴィトゲンシュタインの考えを参考に、内面、主観、主体と言われることを巡って考察してきましたが、ではウィルバーは主観、内面について、どのような考えをもっているのでしょうか。図6-1にウィルバー・コスモロジーの四象限図を示しました。左上象限が、個的存在の内面、例えば人間の主観あるいは内面を示しているわけです。そこに書かれている把握、被刺激性、感覚、知覚、衝動、情動、シンボル、概念、具体的操作、形式的操作、ヴィジョン・ロジックは認識能力です。このことから、ウィルバーは、主観というのを、大まかには認識者(認知主体)としてとらえていることがわかります。誰かが何かを見ているのであれば、見ている誰かが主観で、見られている何かが対象です。観察しているのであれば、観察者が主観で、観察されているものが対象です。何らかの認知活動が行われるときには、認知する方が主観であり、認知される方が対象なのです。
ところで、ヴィトゲンシュタインは認知主体について、見ている眼が視界に属さないように、「主体は世界には属さない」と述べたのですが、ウィルバーも基本的には同じように主体を捉えていると私は思います。例えば『進化の構造1』(松永太郎訳、春秋社、1998年)で彼は次のように述べています。
哲学においては、経験的な自我(エゴ)と純粋自我(エゴ)または超越的な自我(エゴ)との間には、大きな区別がつけられている。経験的な自我(エゴ)は知覚または内省の対象となりうるかぎりの自己である。カント、フィヒテ、フッサールによる純粋自我(エゴ)または超越的な自我(エゴ)とは、純粋な主体性(または観察する自己)であって、どのような対象にもなりえないものである。この観点からすれば、純粋な自我、純粋な自己は、ヒンドゥー教徒の言うアートマン(あるいはそれ自体、けっして目撃されることのない――けっして対象となることのない、だがすべての対象を含む純粋な目撃者)とほとんど同一である。
さらにフィヒテのような哲学者によれば、この純粋な自己は絶対精神(スピリット、霊)と同一であって、まさしくそれはヒンドゥーのアートマン=ブラフマン(梵我一如)の公式そのものなのである。(p.357)
この引用文で述べられている純粋自我というのは、ウィルバーが一足飛びに、すべての対象を含むとしたり、絶対精神とかアートマン=ブラフマンとかと同一視を試みてしまっていることを除けば、ヴィトゲンシュタインによって「世界に属さない主体」と表現された、対象とは全く異なるあり方をした主体に一致するはずのものだと私には思えます。そしてウィルバーは、いかなる対象にもなり得ないが故に無限定であり、それについて語ることもできないはずの主観について無理に語るために、対象を列挙し、そしてそれらは主観ではないと否定していく手法を使います。
否定による主観の示唆
見る方、観察する方、認識する方である主体(主観)に対峙する、見られる方、観察される方、認識される方である対象(客観、客体)にはどのようなものがあるのでしょうか。認識能力によって、認識可能な対象も変わってきますので、認識能力の分類と対象の分類には対応関係があります。ここでは、ウィルバーによる、肉の眼、心の眼、スピリットの眼(観想の眼)という、きわめて大まかな認識能力の分類を使って考察したいと思います(図1の左上に書かれている認識能力に関連して言いますと、大まかには、肉の眼とは把握から情動、心の眼とはシンボルからヴィジョン・ロジック、スピリットの眼とは、図にはありませんが、ヴィジョン・ロジックより高次とされるトランスパーソナルなレベルとなります)。彼は次のように述べています。
……人間には、異なった知の様態(モード)のスペクトルがあり、それが異なったタイプの世界空間(ないし異なった主体、異なった客体、異なったモードの時間と空間など)を開示する、ということである。
最も簡単に言えば、少なくとも三つの眼がある。それは肉体の眼、心の眼、そして観想の眼であって、それぞれの眼に専一的に依存すると、それぞれ経験論、合理主義、そして神秘主義を生み出すのである。『目から目へ』は、それぞれの知のモードは、特定の、しかもそれぞれ妥当な参照枠を持っていると主張する。すなわち感覚野(センシビリア)、知性野(インテリジビリア)、超越野(トランセンデリア)である。……(『統合心理学への道』、松永太郎訳、春秋社、2004、p.124)
肉の眼の対象となる感覚野は、空間、時間、そして物質の領域です。心の眼の対象となる知性野は、理念、イメージ、概念、論理、数学、哲学、そして心そのものの知識の領域です。観想の眼の対象となる超越野は、仏性、アートマン、スピリットなどのトランスパーソナルなものの領域です(『進化の構造1』 p.428で述べられていることを参考にしました)。そして彼は「感覚領域、精神領域、そしてスピリチュアルな領域があり、全てはリアルであり、そして経験的な対象の領域である」( Eye to Eye, Third Edition, Shambhala, 2001, p.63にある文章を私が訳しました )と述べています。つまり、通常客観的とされる物質的な世界のみならず、人の心(内面)に現れるとされるものも、そしてトランスパーソナルなレベルで現れるとされるものもウィルバーは対象とし、純粋な主観、純粋な認識者は、それら対象のいずれでもないとするのです。『進化の構造1』から、その否定の過程に関連して述べられた部分をいくつか連ねて引用してみます。
……純粋な「目撃者」(エックハルトはそれを「主体の本質」と呼ぶ)は、見ることはできない。単純な理由で、それ自体が見る者だからである。そしてこの見者は純粋な空性、純粋な明け開けであり、その中ですべての対象、経験、もの、出来事が起こるのだが、見者はただそこで持続しているだけである。見られるものは、対象、有限なもの、被造物、イメージ、概念、ヴィジョンである。そして私たちはまさしくこれらのどれでもないのである。(p.479)
……「自己」とは身体でも、心でも、思考でもない。感情、感覚、知覚でもない。それは徹底的にすべての対象、すべての主体、すべての二元性から自由である。それは見られるものでもなく、知られることもなく、思考の対象になることもない。……(p.482)
……「自己」はあれでもないし、これでもない。まさしく、あれやこれの目撃者だからであり、それゆえにすべてのあれや、すべてのこれを超えているのである。「自己」は一つである、と言うことすらできない。なぜなら一つということもまたある属性であり、知覚されたり、目撃されたりできるものだからである。「自己」はスピリットでもない。むしろ「自己」とは、今、ここでこの概念を目撃しているものである。「自己」は目撃者でもない。それもまた一つの言葉や概念であり、「自己」とは、今、ここでその概念を目撃しているものである。「自己」とは「空」ではない。「自己」とは純粋な「自己」ではない。(p.482)
このように、否定を連ねていかなる対象でもないとすることで、ウィルバーは純粋な主観、「自己」をあぶりだそうとするのですが、その行きつく先は、「今、ここで」意識体験している主体となるというのです。それは、体験の主体として、対象とは異なるあり方をしており、隠されるのが不可能な仕方で知られるヴィトゲンシュタイン的な主体と同じと言うしかないと思います。ヴィトゲンシュタイン的な主体についてはすでに多くを述べてきましたが、現実の意識体験における私としてしか想定できません。どの人にもあるとして有意味に想定できるものではないのです。ウィルバーもそのような考えに至るはずだったと思います。そして、そのような主体が、ウィルバーが構想する四象限での左上象限に充当されるべきであったと私は思うのですが、実際にはそうなりませんでした。
ウィルバーの四象限は主体から切り離された現象特性を左上象限にあてはめている
ウィルバー・コスモロジーの四象限における左上象限には認識能力が書かれているわけですが、それは行動において科学的(心理学的)に探求され得る客観的な心理学特性を表す心理学的概念です。しかしこの象限は、内面的、主観的なものとされているのですから、書かれているのは心理学的概念であっても、それは便宜上のことで、実際にはチャーマーズが主題とする現象特性を表しているのだと思います。チャーマーズの考えを検討した際に述べましたように、現象特性は心理学特性との対応関係を使って指示せざるを得ないので、本来客観的な心理学特性を表す心理学的概念を使わざるを得なかったのでしょう。とは言うものの、心理学的概念は本来、行動における因果的連鎖の一環である心理学特性を表すのですから、個人の客観的側面(右上象限)にも書かれるべきだと思うのですが、図6-1を見ますと、心理学的概念の代わりに個人の脳のシステムなどが書かれています。その理由は、心理学特性には、内面での現象特性という対応物が想定される一方で、それ自身が属している外面においても物理的対応物があるとされているからだと思います。チャーマーズの『意識する心』から、そのことに関連する内容を含む部分を引用してみます。
心身問題で一番難しいのは、一個の物理的システムがどうやって意識体験を生み出せるのか、という問題である。われわれは物理的な体験と意識体験を結ぶものを、二つの部分に分解してもよさそうだ。物理的な体験と心理学的な体験を結ぶもの、そして心理学的な体験と現象的な体験を結ぶものの二つである。すでに見た通り、一個の物理的システムがどのようにして心理学特性をもちうるかについては、われわれにはもうかなりはっきりした考えができている。心理学的な心身問題は解決されているのだ。残るは、こういった心理学特性になぜ、どのようにして現象特性が伴うのか、という問いである。たとえば、痛みにつながるああいった刺激や反応のすべてに、なぜ痛みの体験が伴うのかという問題である。(p.49)
具体的には、人間の場合でしたら、脳というシステムの物理的状態が心理学特性の担い手であるという事は客観的世界においてはっきりしているとチャーマーズは考えているのです。そうしますと、個の客観的側面である右上象限は、心的状態の因果的役割(心理学特性)を含む行動と、その心理学特性を担う物質的対応物の両者を含むことになります。ウィルバーは、そういうことを了解していて、しかし左上象限で、現象特性を表すために心理学的概念を書かざるを得なかったので、重複をさけて、右上象限には、心理学特性の物質的対応物のみを書くことにしたのかもしれません。ちなみにその物質的対応物とは、人間では図1の右上象限に実際に書かれている脳のシステムでしょうが、人間と同じような心理学特性を示す人工知能が仮にあれば、複雑な電子回路ということになるのでしょう。
私が問題視するのは、左上象限が、本来そこに当てはまるべきヴィトゲンシュタイン的な主体を無視しているために、無批判にどの個にもあてはまるものになっていることです。ヴィトゲンシュタイン的な主体は、隠しようもなく今ここで意識体験している私とするしかないのです。他者である誰かの主体を想定することは無意味なのです。ところが心理学特性と対応関係がある現象特性をヴィトゲンシュタイン的な主体から切り離してしまえば、外面である心理学特性はどの個も持っていますから、現象特性も誰もが持っているとして問題はないように見えてきます。そうして、ヴィトゲンシュタイン的な主体のために極めて私秘的であるはずの左上象限が、他者に想定されてまったくかまわないとされてしまうのです。
何故ウィルバーは左上象限を主体から切り離された現象特性の象限にしてしまったのか
ウィルバーは、左上象限が、ヴィトゲンシュタイン的な主体を第一義とする象限であることをはっきりさせるべきだったと思います。しかし実際には、意識体験の二次的な意義しか持たない現象特性を主体から切り離して左上象限に置き、イメージ、概念、論理、数学、哲学などと同様な心的対象にすぎないとしてしまったと私には見えます。何故そのようになってしまったのでしょうか。その経緯について推察してみたいのですが、まずは、推察の起点として、ウィルバー自身が述べていることを、少々長いですが引用してみます。後の説明の都合上、私は空き行を二カ所に挿入して三つの部分に分けました。もともとは空き行の挿入などはなかったことをあらかじめお断りしておきます。
わたしとは誰か、わたしとは誰か、わたしとは誰か、深く問い続けよ。
わたしは、自分の感覚に気が付いている。ならば、わたしはわたしの感覚ではない。ではわたしとは誰か。雲が空に漂っている。思考が心のなかに漂っている。感情が体のなかを漂っている。わたしは、それらのいずれでもない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃するものだからだ。
わたしは、雲が存在するのか、感情が存在するのか、思考が存在するのかなどと疑うことはできる。しかし、今、この瞬間、それらを目撃している意識は疑うことはできない。なぜなら、疑いという行為を目撃しているのが目撃者の意識だからである。
わたしは、自然の中の対象ではない。身体のなかの感覚ではない。心のなかの思考ではない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃することができるからだ。無限に広がり、空であり、明晰であり、純粋であり、透明なこの「開け」は、公平に、あますところなく、起こることすべてに気づいている。自在にすべてを映し出す鏡として。
すでに、この「偉大な解放」を少し、感じられたのではないだろうか。今、この瞬間の気づきに安らぐ。すでに単なる客体、単なる感情、単なる思考の窒息するような拘束から自由になった感じを味わっているのではないだろうか。すべての対象は、来たりては、去る。しかしあなたは、この広々とした、自由で、開け放たれた「目撃者」であり、対象の苦しみ、拷問から離れているのだ。
この純粋な「開け」、神聖な「自己」、無形の「目撃者」、原因としての「無」、広大な「空」のなかに「すべて」が起こり、しばらくのあいだとどまり、やがて去ってゆくということ、そしてあなたはこの「開け」そのものである、ということ、これこそ、深遠な発見である。あなたは身体ではない。思考ではない。これでもない、あれでもない。あなたは「空」であり「自由」であり、「開け」であり「解放」である。
この発見……あなたはすでに半分の道を行っている。あなたは、すべての有限な対象から自分を切り離した(自己同一化を脱した)。あなたは無限の意識として安らいでいる。あなたは自由であり、オープンであり、透明であり、光を放つものであり、空間に先立ち、時間に先立ち、涙と恐怖に先立ち、苦しみ、苦痛、死に先立つ存在としての至福の空に浸されている。あなたは偉大な「不生」、「深遠」、属性をもたない基盤(グラウンド)を見つけたのである。それはかつてあり、今もあり、これからもあり続けるグラウンドである。
しかし、なぜ、それが半分の道なのか。なぜなら、あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべての自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由と充満性(フルネス)への「突破(ブレイクスルー)」が起こるからである。「目撃者」それ自体が消えてしまう。空(そら)を目撃するかわり、あなたは空(そら)である。大地に触れるかわり、あなたは大地である。雷を聞くかわり、あなたは雷である。あなたとコスモスは一つである。太平洋を一息で飲み込むことができる。エヴェレストを手の上に載せることができる。超新星があなたのハートで渦巻き、太陽系があなたの頭のかわりとなる。
あなたは、「一者の味わい(ワンテイスト)」である。おこること一つひとつ、そのすべてである、空なる鏡であり、まったく透明であり、無限で、永遠で、解放すら超えている、それが……あなたである。
そこで、デカルト的な二元論――こことあそこ、主体と客体、空なる目撃者と目撃されているすべてのもの、という二元論――は最終的に解体され、非二元の一味となる。目撃者と完全に接触すると、その時、ただその時のみ、それは根源的な非二元性へと超越される。そして半分ではなく、ついに故郷に到着したのである。今、ここである、常に現前する「あるということ、そのもの」へ。
どのように、最終的に、そして完全にデカルト的な二元論を克服した、と言えるのだろうか。簡単である。完全にデカルト的な二元論を克服した時、あなたは、あなたの顔のこちら側で世界を見ているのではない。世界は一つであり、あなたはそれである。あなたは一瞬一瞬、起こっていること、すべてと一つである。あなたは顔のこちら側で世界をのぞいているのではない。こちら側と向こう側は、震撼させるような明瞭性と確実性をともなって、一つとなる。それはあまりにも深い発見なので、まるで五トンの岩が頭に落とされたようである。それは、逃しようのない感覚である。
その時(実はそれが、あなたに常に現前している状態なのであるが)、特定の肉体への同一化はなくなる。頭のなかの意識への同一化はなくなる。あなたとは、頭のなかから世界をのぞいているものなのだという拘束がなくなる。個人的な心身への縛り付けられるような関心はなくなる。そのかわり、意識は常に起きているあらゆることと一つである。意識は、コスモス全体を抱擁する。広大で、開けており、透明で、光を放ち、無限に自由で、無限に充満しているこの開けであり、したがって、すべての客体とすべての主体は、この「一者の偉大な抱擁」のなかで、官能的に結ばれる。眼のこちら側の存在としてのあなたは消え去る。あなたは「すべて」となる。あなたとは、一瞬一瞬におこること、それそのものすべてである、と直接、実際に感じる(ちょうど、以前、あなたは自分とは、あなたが肉体と呼ぶ、有限で、分離した、部分的な、死すべき魂である、と感じていたように)。
内側と外側は一つになる。それは、こうして起こりえるのである。
(『存在することのシンプルな感覚』、松永太郎訳、春秋社、2005年 pp.14~17)
三つの部分に分けた引用文の最初の部分に注目してください。そこでは、「わたし」という、任意の個ではなく、文章を読みながら現に意識体験をしている主体が、どのような客体でもないとする否定の手法を使って「わたし」を追求する部分です。このような方法論で突き詰めることで、いかなる対象でもない、疑いようもない、現に今ここにおいて意識体験しているこの私、純粋な主観にウィルバーは行き着きます。そしてそれは、この私としてしかありえない、極めて私秘的なヴィトゲンシュタイン的な主体と一致するはずだと思われます。
ところが、二番目の部分では、「すでに、この『偉大な解放』を少し、感じられたのではないだろうか。今、この瞬間の気づきに安らぐ。すでに単なる客体、単なる感情、単なる思考の窒息するような拘束から自由になった感じを味わっているのではないだろうか。すべての対象は、来たりては、去る。しかしあなたは、この広々とした、自由で、開け放たれた『目撃者』であり、対象の苦しみ、拷問から離れているのだ」とあります。そこでは、「今、この瞬間の気づき」における主体が、他者である「あなた」において実現しているとされています。その直前まで、現に意識体験をしているこの「わたし」について問い続けていたのに、突然任意の「あなた」、すなわち「わたし」にとっては対象でしかない「あなた」を「わたし」に置き換えていて、妥当な議論とは言えない断絶を見ることができます。なぜでしょうか。それは、ウィルバーが、断絶しているところに挿入すべきだった、主体の知に関する議論をきちんとしなかったことによるのだと思います。ヴィトゲンシュタインは、主体は、対象と異なり、主体当人であることで、隠されようもなく知られるとしました。この議論があれば、他者の主体について、それがあるかないかについて言うのは意味をなさないことがわかりますから、いきなり「わたし」の探求から「あなた」も含めた私たちの探求へと切り替えることはなかったはずです。ところがウィルバーは主体の知の特殊性の議論を省いたため、強引な論の進め方、あるいは誤謬とも言えることをしてしまい、最終的にヴィトゲンシュタイン的な主体を左上象限にあてはめそこねたのだと私は考えます。
二番目の部分の最後の段落に注目してください。そこでは、「すべての有限な対象から自分を切り離した」としても、探求は道半ばだとされています。ウィルバーは先ほど述べましたように、「わたし」の探求から、任意の個における自己探求へと、誤謬とも言える議論の飛躍をしてしまっているのですが、論を、断絶の無い、順を追った丁寧な流れの方へ遅まきながら戻すなら、ここで言われる「すべての有限な対象から自分を切り離した」その結果の自己とは、本来はヴィトゲンシュタイン的な主体であるこの「わたし」でとどめておくべきです。従って探求が道半ばだというのは、ヴィトゲンシュタイン的な主体、純粋な主観にまでいたっても道半ばだと直すべきなのでしょう。ではなぜ道半ばなのでしょうか。三番目の部分の最初の段落にその理由は書かれています。その部分を、ウィルバーが不注意に「あなた」としているところを、現にその文章を読んでいる、意識体験をしている「わたし」に置き換えて書き直してみます。書き直したところは赤くすることにします。
しかし、なぜ、それが半分の道なのか。なぜなら、わたしがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべての自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由と充満性(フルネス)への「突破(ブレイクスルー)」が起こるからである。「目撃者」それ自体が消えてしまう。空(そら)を目撃するかわり、わたしは空(そら)である。大地に触れるかわり、わたしは大地である。雷を聞くかわり、わたしは雷である。わたしとコスモスは一つである。太平洋を一息で飲み込むことができる。エヴェレストを手の上に載せることができる。超新星がわたしのハートで渦巻き、太陽系がわたしの頭のかわりとなる。
すなわち、さらなる半分の道においては、現実の意識体験におけるこの「わたし」と、対峙する対象との原初の二元論における垣根が超えられることになるので道半ばなのです。そしてさらに先で語られるように、最終的には非二元の一味になるというのです。それは、他者を含むすべてがこの私であると言わざるを得ないようなトランスパーソナルな体験をしたという、パーソナルなレベルでは無意味としか言いようのない主張なのです。現に意識体験しているこの私が、実はどの人の私でもあると確信してしまうような事態なのです。こうしたトランスパーソナルな体験を座禅の実践などを通じてすることによって初めて、他者の内面について論じ始めることができるのです(パーソナルな立場では相変わらず無意味ですが)。ウィルバーは不注意にもこのような順を追った論の進め方をせずに、先回りしてトランスパーソナルな立場から他者にも内面があると断定し、ヴィトゲンシュタイン的な主体から切り離された現象特性を左上象限に当てはめてしまったのだと私は思うのです。
振り返ってみますと、左上の内面、主観に関しては、三つのアプローチが見られると思います。一つ目は、ヴィトゲンシュタインが主題にしている、対象化は不可能な純粋な主観というアプローチです。二つ目は、チャーマーズが主題にしている、ヴィトゲンシュタイン的な主体から切り離されて心の眼の対象と化した現象特性というアプローチです。ただし、そのベースには、当人にのみ隠されようもなく知られるヴィトゲンシュタイ的な主体がありますから、いくら対象化されても、今ここでの私の意識体験にとどまるものです。その仕組みをチャーマーズは結局無視してしまったのです。三つ目は、ウィルバーが主題とする、主観と客観との原初の二元論を超越する、トランスパーソナルな非二元というアプローチです。この三つ目のアプローチは、その超越性から、左上象限にはおさまりません。それをウィルバーは迂闊にもパーソナルな主体と結びつけ、チャーマーズ同様に、当人にのみ隠されようもなく知られる主体の私秘性を無視してしまったのです。
私の批判の核心は、ウィルバーは、ヴィトゲンシュタイン的な主体の知に関する議論をきちんとすべきであったということです。パーソナルなレベルの限界であるヴィトゲンシュタインン的な主体に関する議論を丁寧にすることが、そのパーソナルなレベルにある人が、自らのレベルの限界を納得し、わだかまりなくより高次なレベルに進むための準備になると思われますし、ウィルバーはそのような進展を促すことを自らの目的の一つにしていたと思うのです。そういうことから、彼がヴィトゲンシュタイン的な主体に関する妥当な議論をし尽くさなかったことは、極めて残念なことだと思います。
純粋な主観を第一義とする個的内面を左上象限にあてはめると四象限モデルは縮退する
左上象限は、個人の内面と呼ばれたり主観と呼ばれたりもする、主体としての側面です。そしてこの主体は、現に意識体験している私には隠しようもなく自明なのですが、他者には決して知られることはないし、また私は他者の主体について有意味に語るべきことを何ももたないのです。ですから、私にとって左上象限は、最も私的な、現に意識体験しているこの私という主体の象限とするしかありません。ただこの私的な主体は心理学特性と対応させられる現象特性を持つため、心理学特性の言葉で指示されることにもなります。
右上はその私の、心理学特性に関係する行動と、物質的身体の象限です。右下は、行動と身体両者の所有者である個の集合の象限です。ところで、全ての個の行動と身体は、その集合の象限に登場してもいるはずですから、右上の、私という個の行動と身体の象限は、右下の、行動と身体の集合の象限と一緒にしてもさほど問題はないと思います。ウィルバーが四象限のうち、右上象限と右下象限を一つと見なし、四象限をビッグ・スリーという三つの側面としても見なせるとしたのにはそのような考えがあったのだと思います。
左下の、集合的内面ですが、これらは間主観的な象限です。しかし、ヴィトゲンシュタイン的な主体がベースになっている左上の主観はあくまで私の主観でしかなく、他者の主観に対しては、その有る無しについて有意味に語れないのですから、そのような他者の主観と関わるとされた間主観的象限に関しても、有意味に語れることはないはずです。
以上述べましたことを考慮しまして、図6-1を参照しながら、あらためて四象限を検討しますと、次のようになると思います。左上は、この私の象限です。極めて私的で、他者の内面には一切かかわりはありません。しかし、この私の内面の現象特性は、心理学特性の言葉でその差異化の内容を表すことはできます。その際、仮に人間にはヴィジョン・ロジックというレベル13までの心理学特性があるとするなら、それに対応するレベルの現象特性までを私は内面において含んで超えて来たことになります。右上と右下をひとまとめとした右側は、レベル13までの外面の象限です。そこには、銀河系、惑星、ガイア・システム、有機的生態系から、統合された全地球的社会までの、現代人に進化するまでの(客観的)宇宙の全歴史が含まれることになります。もし現代人(到達点はレベル13です)を超えた進化が実現していないとするのであれば、右側象限は客観的宇宙のすべてと一致することになります。左下は、図1ではレベル13までの間主観的象限ですが、私でない他者の内面に関して語ることは無意味ですから、空白とするべきです。そうしますと、四象限モデルは、次のように左下象限を欠くように変更すべきだと私には思えます。
図6-2 ヴィトゲンシュタインの考えを考慮に入れて改訂した四象限モデル
後の議論のことを考えなければ、図6-2は図6-3のような二象限モデルに書き直してもよいと思います。左側象限は、今ここで意識体験している私の象限であり、右側象限は私に対峙する客観的世界です。
図6-3 二象限モデル
ウィルバーはトランスパーソナルな立場から語っている
パーソナルな立場からは無意味としか言いようのないことを、ウィルバーはおそらくトランスパーソナルな立場から語ってしまっているのだと思います。まず、彼はあきらかに他者の内面があるとしています。そのため、パーソナルな立場からは無意味とも思える他者の左上象限と、間主観的な左下象限を想定しています。そうしますと、私だけでなく、どの人にも内面があるのですから、単独の個の内面を表す左上象限は、個の数だけ存在することになります。しかし、左上象限に対峙する右側象限および左下象限は客観と間主観の象限ですから、どの個の内面による左上象限に対しても共通で同じものとして対峙します。ここで、ある個の内面を左上象限に持ち、それに対峙する右側象限および左下象限をあわせ持つ存在を新たにホロンと定義することにします。そうしますと、左上の個的内面の単独性により、ホロンは個の数だけ存在するのですが、その右側象限、左下象限は、全てのホロンが共有するものとなります。そのような事情については、以前「サングラハ」誌上に書かせていただいたことがありますので、ここに再掲してみます。引用文中の「人間」や「人」は、個人の内面を左上象限とする四象限あるいはビッグ・スリーを持つホロンであると解釈してください。
例えば、二人の人間を想定してみます。二人ともホロンです。この二つのホロンはお互いの集合的側面を共有しています。人間としての基本的世界観(かなりの幅を持たせています)、そして人間社会を共有しているのです。従って、基本的には、二つのホロンを集合的側面で区別することはできません。では個的側面ではどうでしょうか。個的であるから、内面であろうが外面であろうが、ともかく二つのホロンを区別できるのではないでしょうか。私は個的外面ではできないと考えます。外面は客観的な側面ですから、一方の人の個的外面は、実はそのままの形で他方の人の集合的外面の中に他者の外面として現れるはずです。客観的外面ですから、自分として現れようが、他者として現れようがそこに何の本質的な相違もありません。ウィルバーは四つの象限を、個的内面(主観的側面)、集合的内面(間主観的側面)、客観的側面の三つに簡略化してビッグ・スリーと呼ぶことがあります。そうしても実質上問題が生じないのは、今述べましたように、個的外面は、集合的外面にそのまま顕わになり得るためです。ですから、個的外面では、実はホロンを区別することはできないのです。
しかし個的内面は違います。例えば私が体験することは、私そのものでなければ持ちえない純粋に私的なものだと思えます。今朝私は少し大きな余震のために恐怖を感じましたが、それはその時私でなかったなら体験できなかったことです。今思い起こしているのは、すでにその体験ではなく記憶による再構成ですし、またその体験が起きた時に、近くにいた他の人が私の表情を見てどのように私に感情移入しようが、私になっていなければ決して同じ体験をしたことにはなりません。もし誰かが私になっていたのだとすれば、そのときその他人は他人ではなく私だということになってしまいます。
以上でうまく議論できたかやや不安はありますが、ホロンの四つの象限の内、ホロン間で共有できない唯一の象限が、個的内面です。確かにホロンには集合的側面もありますが、ホロンが区別されるのはこのように個的な上側象限の、しかも左側の個的内面においてですから、宇宙の最も基本的な構成単位であるホロンを考えるときには、個的側面に焦点を合わさざるを得ないわけです。(「サングラハ第118号」p.61~p.62)
以上は、図6-1のレベル13までが実現しているとしての、人間だけに、すなわち人間の個的内面を左上象限とするホロンだけに関することです。ただし、ウィルバーは、人間だけでなく、どのようなレベルの個であっても(原子でも分子でも植物でも動物でも)、その内面を想定して左上象限として扱います。そして、同じレベルまでの右側象限と左下象限を対峙させ、それらの組み合わさった四象限もつくります。私はそれもホロンと呼ぶことにします。つまり、レベルは様々あるにしても、四象限が分かちがたい側面として揃っている存在をホロンと呼ぶことにします。その際、左上だけは、どのようなレベルであろうが、単独の個の内面であるしかないのですが、右側と左下の象限は、そのレベル以上のホロンとは共有することになります。例えば、甘木太郎という人間の内面をその左上象限に持つレベル13のホロン、エレキという猫の内面をその左上象限に持つレベル8のホロン、Aという原子の内面をその左上象限に持つレベル1のホロンを図示しますと、図6-4、6-5,6-6のようになります。
図6-4 人間甘木太郎の内面を左上象限とするホロン
図6-5 猫エレキの内面を左上象限とするホロン
図6-6 原子Aの内面を左上象限とするホロン
これらの図において、原子Aと猫エレキの右象限と左下象限は、例えば甘木太郎という人の右象限と左下象限に含まれていて、その包含の様子は図6-7のように表現できます。ただし、左上象限だけは、繰り返しますが共有されることはありません。他者の内面があるということを、トランスパーソナルな立場から言えたとしても、個の内面は、定義上単独のものでしかないのは動かしようがないからです。
図6-7 甘木太郎のホロンの四象限図に、甘木太郎、エレキ、Aの各ホロンの右側象限と左下象限の包含関係示す
コスモスはトランスホロニックである
図6-1はコスモスの四象限図だったのですが、コスモスは、全てを含みます。そして現時点ではレベル13における人間が進化の頂点になるとしますと、コスモスの四象限図における右側客観的象限及び左下間主観的象限もレベル13までしかないことになりますから、人間のホロンの四象限とコスモスの四象限とにおいて、右側象限と左下象限は一致します。しかし、左上象限に関しては、人間の四象限とコスモスの四象限では大きな違いが生じることになります。さきほども述べましたが、いくらトランスパーソナルな立場からどの個にも内面があると主張されても、個の内面を表す左上象限は単独の個のものでしかありません。それに対して、ウィルバーが言うコスモスは、主観も客観も含めたすべてですから、左上はもはや単独の個の内面をあてはめるわけにはいきません。個的内面という単独性を含む定義を超えて、全ての個の内面をあてはめなければならないことになります(図6-8参照)。
図6-8 コスモスの四象限
そこでコスモスは、もはやホロンを超えていることになります。そのため、コスモスはホロン超越的trans holonicであると言うことに「サングラハ第118号」で私は決めたのでした(超ホロン的と日本語ではすべきかもしれませんが、私にはその語感がしっくりこなかったものですからホロン超越的としました)。こうしたコスモスの超越的な事態は、パーソナルな立場からは全く無意味です。まず、ヴィトゲンシュタイン的な主体が、どの個にもあると断定し、さらに、コスモスの左上象限には、全ての個の内面が同時に当てはまるとするのですから。そのような事態に何らかの判断を下すことは、パーソナルな立場にある私にはできないことです。
この連載では、スミスとゴッダードの批判にも触れました。今回の批判と彼らの批判との関連について少し述べておきたいと思います。スミスは、ヴィトゲンシュタイン的な主体の極度な私秘性を全く認識していなかったように思えますが、チャーマーズの心理学特性と現象特性に関する議論は認識していました。そして現象特性の理論化に関する困難さを考慮し、個的内面について触れることを拒否しています。心に関しては、その心理学的特性、すなわち行動の因果的連鎖における役割だけを扱うと彼は決断しています。ですから、彼が扱うのは、ウィルバーの四象限で言えば右側だけです。そして右側は、ウィルバーがビッグ・スリーという考えにおいてしているように、一まとめの領域として扱えるのですから、スミスが自らのモデルをワン・スケール・モデルと呼ぶのは、そういう意味からもふさわしいと思います。そして右側外面の範囲においては、ウィルバー・コスモロジーに対して鋭い批判をしていると思います。ただし左側の象限、そして象限を超越した非二元については、それらに触れることのない彼に、何ら建設的な批判も期待することはできません。
一方ゴッダードは、左上象限における私秘性を認めていて、次のように述べています。
……客観化して間接的に知る以外に、他者の精神的経験を直接に感知することについて語ることは、不可能なだけでなく非理知的なことである (少なくとも、トランスパーソナルな意識が高次で統一的なレベルからその区別を包含するまでは)。……こうして、論理的に必然的な経験の私秘性(プライバシー)が帰結する。 (インターネット・サイトIntegral World に掲載されているGerry Goddardの論文、Holonic logic and the dialectics of concsiousness : Unpacking Ken Wilber’s Four Quadrant Model , December 2000にある文を訳しました)
この引用文からすれば、個的内面の私秘性を認めてはいるのですが、しかし彼は、ウィルバー同様にヴィトゲンシュタイン的な主体の知についてのきちんとした議論はしないまま、どの個の内面についても語れるとしていますので、すでにトランスパーソナルな視点を個の内面に導入しています。そこに言わば手落ちがあると思います。ただ、ある個人の客観は、別の個人の主観であるというような仕組みが主客の相補性について提案されていて、私には、その独自なトランスパーソナルな考えは、パーソナルな立場とトランスパーソナルな立場を接続する可能性をはらんでいるのではないかとも思えました。
まとめ
チャーマーズは、認知主体という内面の知が、対象の知とは全く異なることを追究しないままに議論を進めました。そのため、どの個人も認知活動において認知主体である感じを持つことができると考え続け、ついに内面の私秘性にいたることはありませんでした。このエッセイではチャーマーズの著書からの多くの引用文が登場しますが、中でも詳しく検討したものの中に、「われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある」という部分があります。もしチャーマーズがヴィトゲンシュタイン同様に主体の知の特殊性に注目できたなら、この部分の主語である「われわれ」は、実は今ここで体験している「私」でしか在り得ないというようなことが著書のどこかで指摘されることになっただろうと私は思うのですが、そうはなりませんでした。チャーマーズは、ヴィトゲンシュタイン的な主体に関する論理を把握するには至らなかったと私は見ます。
ヴィトゲンシュタインも、私が引用したテキストでは「かれ」の内面についての議論から始めますから、他者にも主体であることによる内面を一応仮定していたわけです。ところが、内面、主体の知は当人であることによって隠しようもない仕方で得られるのだと理解します。主体の知は、隠され得る対象の知とは全く異なるのです。そのため、意味を持つ内面は、今ここでの意識体験におけるこの私と言う主体でしかありえず、他者の内面の存在について語ることは無意味だという、内面の私秘性の結論を得ます。
ウィルバーは、例えば私が『存在することのシンプルな感覚』から引用した文章などでは、私と言う、今ここで現に意識体験している主体が、いかなる対象でもないと論じていくことで、純粋な主観を探求します。従いまして、チャーマーズよりもヴィトゲンシュタインよりもストレートに私秘的な主体に到達してよかったと思うのですが、議論の途上で、トランスパーソナルな体験を重ねてしまったがために、純粋な主体、すなわちヴィトゲンシュタイン的な主体の知の特殊性に関する議論をしないまま、内面の非二元化へと進んでしまいます。そのため、純粋な主観の私秘性は省かれてしまいました。
私のウィルバーに対する批判は、ヴィトゲンシュタイン的な主体をその知の特殊なあり方までしっかりと論じた上で、全ての個に内面を想定するトランスパーソナルな立場にたった四象限モデルに進むべきであったということです。またそれに引き続き、通常のホロンにおける四象限では左上象限を単独の個の内面とすれば、コスモスの四象限における左上象限は、全ての個の内面を含むという超越性があるという考えも述べました。