第9章 統合的な世界観に基づく政治姿勢とは(ウィルバー4の応用2)

はじめに

 第8章で心身問題にウィルバー・コスモロジーを応用してみましたが、この章は政治への応用です。
2009年9月、衆議院選挙で民主党が圧勝して新政権が誕生したとき、それを受けて海外でも様々な反応がありました。中国や韓国を始めとするアジア諸国では、歴史認識や経済などの、日本との二国間関係の行方に関する推測を中心に報道されましたが、アメリカや西ヨーロッパ諸国では、例えばイギリスのように、二大政党によって政権交代が当然のごとく繰り返されるような、成熟した合理的な国家になろうとしているのではないかという趣旨の報道もありました。
確かに、西ヨーロッパやアメリカでは、制度が民主主義に基づいているだけではなく、現実に異なる政治姿勢を持つ政党間で権力の移行が繰り返し実行されてきたわけですから、それら地域の諸国家の多くは、合理的な国家として成熟しているのでしょう。しかし、そのような合理的な国家の一つであるアメリカは、テロと環境問題という、現代社会における主要な課題の中の二つにうまく対処しているようには見えません。同時多発テロ後、イラクに対しては、大量破壊兵器の存在に関する根拠に欠ける言明をもとに非常に暴力的に対処したわけですし、地球温暖化問題に関する国際的な取り決めの京都議定書からは離脱したわけです。アメリカという国のカウボーイ的な特殊性がそのような行動に至ったことの原因の一つなのかもしれませんが、もっと根本的な原因として、理性という意識レベルでの、合理的な世界観に基づく政治姿勢では、原理的にテロや環境問題のようなグローバルな課題には対応できないということがあるのだと私は思っています。
それでは対応できるようにするにはどうすればよいのかということになりますが、「サングラハ教育・心理研究所」の岡野守也主幹が述べられているように、理性より一段上の、統合的な理性の意識レベルにリーダーが達し、そのレベルでの世界観で政治が行われることが必要なのだと思います(「サングラハ第106号」所載の『コスモス・セラピーとウィルバー・コスモロジー』を参照してください)。そして、日本の政権には、できれば合理性にとどまることなく、この統合的な理性のレベルでの世界観に基づいた政治姿勢をもつようになってほしいと思うのです。
この章では、なぜ合理的な世界観に基づく政治姿勢では、原理的にテロと環境問題というグローバルな課題には対応できないのかということと、そしてなぜ統合的な理性レベルの世界観(以下統合的な世界観とも呼ぶことにします)に基づく政治姿勢では対応できると予想するのかということを説明してみたいと思います。説明の順序は次のようにしたいと思います。

・理性の土台である、形式的操作という認識能力について簡単に説明します。
・形式的操作の能力を十分にはたらかせて事物を見る(これが理性を持っているということだとします)と、どのような世界観が得られるのかを考えます。これが合理的な世界観です。
・合理的な世界観では、人間を扱う政治姿勢はどのようになるのかを考えます。考えを進める準備として、典型的な政治姿勢のいくつかをまず分析してみます。そこから合理的なレベルでの理想的な政治姿勢を考えてみます。
・合理的なレベルでは、根本となる世界観の在り方から、テロや環境問題はうまく扱えないということを示します。
・統合的な理性の土台となるヴィジョン・ロジックという認識能力について簡単に説明します。
・ヴィジョン・ロジックを十分にはたらかせて事物を見る(これが統合的な理性を持っているということだとします)ことで得られる世界観の例としてウィルバー・コスモロジーを考えます。そして、この世界観の在り方から、統合的な理性のレベルなら、テロや環境問題をうまく扱えそうだということを示します。
・統合的な世界観では、政治姿勢はどのようになるはずかということを考えます。
・現実に統合的な世界観に基づいた政治が行われている国があるかどうかを考えます。また、日本そして世界全体でそのようなレベルの政治が行われるようになるのには、どのようなことが実行されるべきかを考えます。

現代人の意識レベルは認識能力においては形式的操作

 ピアジェ等の発達心理学によりますと、現代人の意識レベルは、認識能力に関しては、形式的操作のレベルにあると言われています。形式的操作期では、具体的世界を超え、あらゆる可能性を心に浮かべることができるようになります。例えば、『子どもの発達心理学』(高橋道子他、新曜社、1993、pp.132,133)には次のような記述があります。

ピアジェはこどもたちに1,2,3,4のラベルがついた無色の液体が入ったフラスコと、Gというラベルのついた、やはり無色の液体の入った容器を与え、「混ぜ合わせて黄色をつくる」という課題を与えた。この課題は、何と何を混ぜ合わせるか組み合わせを考え、計画的に混ぜ合わせていかなければ解決できない。
前操作期の子どもたちはでたらめに混ぜ、すぐにあきらめてしまった。具体的操作期のこどもたちは多少は組織的で、Gの液体を4つのフラスコに入れてはみたが、やがてこれ以上は何もできない、とあきらめてしまった。だが形式的操作期と目される子どもたちは、より組織的で、論理的であった。彼らは組み合わせの種類を考え、紙に書きとめ、順にその組み合わせを試し、課題に成功することができた。

この例ではっきりおわかりになると思いますが、数学的に言えば、形式的操作の能力とは順列組み合わせを理解できるということです。日本の学校教育では、中学校高学年から高校にかけての時期に順列組み合わせを学習します。そうしますと、成人であれば、すでに形式的操作の能力を持ってから十分な期間が経過しているはずですから、事物に関して、条件さえはっきりしていれば、原則的には、様々な可能性を全て思い浮かべることができることになります。そして、実生活において、自在にこの形式的操作を適用できるようになっているとき、人は理性を持っているとこのエッセイでは考えることにします。ではこの能力を事物に当てはめていくことによって得られる合理的な世界観について、自然観、社会観、人間観の順に、こうなるのではないのかということを考えてみたいと思います。

形式的操作能力によって生じる自然観

 第7章で述べたことですが、形式的操作の前段階である具体的操作期では、事物に関するあらゆる可能性を並列して眺められませんから、それらの可能な在り方を対比して批判的に考えていくこともできません。そのため、例えば「すべては土と火と水と空気」からできているというように、見えないところまで神話的な信念で固定的にとらえてすませたりします。ところが、理性を持つ人々は、神話的信念における見えない部分の無批判なドグマティックなつながりは一旦廃し、様々な事物が見た通りにばらばらにあるということから再度認識を開始し、それらにあらゆる可能性を見て取り、論理的な仮説をつくり、検証することによって相互のつながりを考えていきます。ただその時、分析して知られた事物相互間のつながりは、手順としては調べた結果現れる二次的なものですから、基本的には「ばらばらを通してつながりを見る」ことになります(図9-1参照)。

図9-1

 

このような、「ばらばらを通してつながりを見る」見方では、自然観は次のようになります。見た通りに私達がいて、そのまわりには自然環境があります。そして、様々なことを考え合わせていくと、私達の祖先は自然の中に自分たちの領域をつくりだし、広げてきたのであり、また、いまだに自然のものを食べたり使ったりして自然とつながりながら、自然に依存しながら暮らしているわけです。ですから、「私達は周囲に広がる(この大いなる)自然の一部なのだ」と。ここで注目していただきたいのは、結論のつながりを得るために、まずは私達と自然環境を分けて見ていることです。つながりは振り返ってみたときに現れる二次的なものであって、自然は根本においては私達の外側にあるわけです。

形式的操作の能力によって生じる社会観、人間観

 では、この形式的操作の能力では社会観はどうなるでしょうか。具体的操作期では、いろいろな規則、役割が社会にあることを把握し、それを一つの固定的な体系として理解し、その体系を中心として世界観を構成します。このような世界観は社会中心的、民族中心的、神話的と呼ばれます。例えば封建的な社会では、その社会の体系の基本になる、疑問を持つことは許されない身分制度的な考えがあり、その固定性のゆえに具体的操作段階の世界観と合致しています。そして、そのような固定的な考えは、各民族が持つ神話に基づいていたりしますので、この段階の世界観を神話的とも呼ぶのでした。
形式的操作期の認識能力では、固定的な体系に対し、様々な可能な在り方を対比し、よりよいのはどれか、より現実に合うのはどれか、より人々の生活を豊かにするのはどれかというように社会を批判的に考えていくことができるようになります。そのため、宗教や民族や神話を中心にした固定的な体系を持つ社会ではなく、より普遍的な、次に述べます基本的人権を持った個々人の生活に適切な、可変的な社会観を持つことになります。
それでは人について形式的操作の能力で考えていったとしましょう。そうしますと、いろいろな仕事や役割を、異なる肌の色の人でも、異なる国籍の人でも、異なる性の人でも、適切な教育を受ければ、同じように果たせるだろうとその可能性を見てとれます。そうしますと、人の本質とは肌の色や国籍や性別に必然的に結びつくものではないということがはっきりし、基本的人権の思想が確立していくことになります。このように、特定の国家や民族に属する人だけを尊重するのではなく、あらゆる人に普遍的な権利を認め尊重して連帯感を持つ時、世界中心的な世界観を持っているといいます。これが、人間に焦点を合わせたときの合理的な世界観であり、そこでは、人は、肌の色の違いや国籍の違いや民族の違いや性の違いなどに基づく不当な抑圧から解放されるべき存在として観られることになります。

合理的な世界観による政治姿勢とは

 以上述べてきました、合理的な世界観による政治姿勢はどうなるでしょうか。政治は人を扱う営みです。ですから、合理的な世界観においては、理想的な政治とは、人と言う基本的人権を持った普遍的な存在に健全な生活を保障するような営みとなるでしょう。それを具体的に考えるきっかけを掴むために、自由至上主義、古典的自由主義、リベラルという、合理的な政治姿勢の三つの典型例を、『万物の理論』(ケン・ウィルバー、岡野守也訳、トランスビュー、2002)、『政治学辞典』(弘文堂、2004)、『市場主義の終焉』(佐和隆光、岩波新書、2006)などを参考にして見ていきたいと思います。

(1)自由至上主義(リバタリアン)  economic libertarian
「君が貧しいのは十分勤勉にはたらいていないからだ。個人は自身の失敗・成功に責任をとるべきであり、政府は経済活動に極力介入すべきではない」。このように考えるのが自由至上主義です。「意欲のあるものは報われ、怠惰なものは貧しさに甘んじる。格差社会もある程度致し方ない」。リーマンショック後の、アメリカ発の経済恐慌が始まる以前の日本の雰囲気はこのような傾向が大変強かったと思います。
「やるぞ!」という意欲は、個人の心、内面に生じます。すなわち自由至上主義は、個人の内面を強調する政治姿勢と考えることができます。自由至上主義では、確かに格差が広がるということはありますが、基本的人権の保障がその前提にはなっています。肌の色の違いや性別、あるいは出身階層の違いによって経済活動の自由や移動の自由が妨げられることはありません。そういう意味では、自由至上主義は、合理性のレベルでの一形態ということになります。
(2)古典的自由主義  classical liberalism
神話的だったり父権主義的だったりする、硬直的な伝統的世界観からの脱却を果たそうとするのが自由主義(リベラリズム)です。「人の苦しみの原因は、堕落した、抑圧的な社会制度である。すべての人間は平等に生まれるが社会は不公平に扱う」。そこで、個人の行動の自由が保障される必要性を何よりも強調するのがこの政治姿勢です。
古典的自由主義は、民族中心的な偏見に基づく慣習や、抑圧的で硬直的な社会制度・身分制度からの個人の自由を尊重するということで、内面より、外面での自由に着目しています。そして、個人の自由という普遍的な権利を希求するのですから、古典的自由主義の属すレベルはもちろん合理性です。ただ、そのような脱慣習的で世界中心的な高いレベルの意識のものでありながら、その意識自体が属する内面よりも、制度などの外面に焦点を合わせがちだということに、ある種の自己矛盾を持つと言えますし、また、自由を享受するのに必要な生活レベルを万人に保障するような、富の再分配による平等性の実現を忘れがちだということにも、古典的自由主義の問題点があります。
(3)リベラル liberal
リベラルは、抑圧的・不公平な社会制度からの自由の保障を古典的自由主義と共に希求するわけですが、自由そのものより平等ということに焦点を合わせ、富の再分配でより公平な収入をもたらすように社会制度を整えていくことを目指します。貧しすぎては、仕事に追われたり、あるいは金銭的な問題から十分な教育を受けられなかったりして、保障されたはずの自由を享受できないことになってしまうからです。アメリカの民主党や、高福祉国家を目指すヨーロッパの社会民主党、日本では、民進党、社会民主党などがこの政治姿勢に当てはまると思われます。
個人の自由により重要性をおくのか、それとも社会的な平等の方により重要性をおくのかという違いはありますが、リベラルも古典的自由主義と同様に、脱慣習的で世界中心的な、合理性という高いレベルの意識に発しています。しかし、その意識自体が属する内面よりも、行動や制度などの、見て明らかにすることができる外面に焦点を合わせがちだということに、古典的自由主義と同様にある種の自己矛盾を持つと言えます。またリベラルの場合、その平等という方針を過度に追求してしまうと、経済活動や芸術活動などにおける成功に対する報奨が必要以上に規制され、創造的な活動に対する人間本来の意欲を阻害し、社会の活気をなくしてしまうおそれがあります。

このように見てきますと、どの政治姿勢も、特定の要素を重視しがちで、満足のいくものではありません。例えば、自由至上主義が徹底されると、格差の度合いが極めて大きくなり、持てる者と持たざる者の分離を引き起こし、それが社会不安をもたらすことにもなりかねません。今、先進国で起こっている、若者を中心にした格差社会に抗議するデモは、そのような社会不安が生じ始めていることを示しているのではないでしょうか。また、リベラルによる平等主義が強調されすぎた、必要以上に過度な福祉国家であれば、富の再分配のための国家の統制が厳しすぎて、それはそれで人々の勤労意欲や向上心を阻害し、全く活気のない社会をつくり出してしまうかもしれません。
しかし現実の世界では、存在する個々の政党はある要素だけを強調するようであっても、全体としてはうまくいっている国もあるわけです。そのような国々では、一時的にはバランスが崩れるにしても、異なった政治的姿勢を持つ並存する政党間で権力の移行が果たされ、あるスパンで見れば、各要素のバランスがとられるようになっているようです。例えば自由至上主義的な政党が政権を握っていれば、人々の意欲、内面が尊重され、活気のある社会ができるかもしれませんが、そのために格差が広がりすぎ、社会不安を引き起こし始めたとします。そのとき社会主義的リベラルの政党が並存していて、民主主義に基づいて人々がそちらにより大きな権力を与え始めれば、外面の社会制度が富をより公平に再分配できる形に変更され、行き過ぎを戻すことになるでしょう。
このように、一つ一つの政党は特定の要素を強調するとしても、民主主義が機能して、並存するそれらに、バランスを取れるように人々が権力を付与できれば、安定した社会になるでしょう。成熟した合理的な国家では、このようなバランスが実現しているのだと思います。そして、日本で民主党が政権を奪取したことに、そのような成熟の兆しを見たと、それら成熟した国々のジャーナリストの幾人かは考え報道したのだと思います。
ただ問題は、バランスを取れるように人々が権力を付与できればという条件がつくことです。政権交代には時間がかかりますし、その間に取り返しがつかないほどバランスが崩れてしまうことがあるかもしれません。そういう危惧を払拭するには、やはり個々の政党の政治姿勢自体が、どの要素も尊重してバランスをとる必要性を自覚しているものであるべきだと思います。
そうしますと、人々の意欲を尊重し、職業選択や移動の自由を保障し、しかし過度の格差を引き起こさないように充実した福祉が実現するための富の再分配のシステムも改善しつづける。そして、基本的人権と民主主義の本来の考え方を、人々の意識にしっかりと浸透させるような合理主義的な文化を尊重する。このような政治姿勢が、理性のレベルでは理想的なものになるのだと思います。そして、日本も含む先進諸国の各政党は、現にこのようなバランスのとれた姿勢を目指していると思われます。そのため、従来よりも、政党間の政治姿勢および政策の相違は減少してきているのだと思います。
ところで、世の中の現状を振り返ってみますと、そこには二つの大問題があると思えます。民族主義的なテロの問題と環境問題です。

合理的な世界観に基づく政治姿勢でテロの問題に十分対処できるか

 世界各地でテロが起き続けています。例えばイスラム教の若者が自爆テロを行う場合、彼もしくは彼女の世界観は、イスラム教の教えに影響を受けた、おそらく神話的な要素の強い、原理主義的なものだと思われます。合理性のレベルでの人権を振りかざし、イラクと戦ったアメリカは、戦争には勝ちましたが、戦後のイラクでは、テロがやむことがありません。これは合理性ではテロを沈静化に導くことは無理だということを示しているのではないでしょうか。そうだとしたら、なぜ無理なのでしょうか。
合理性では、基本的人権を普遍的なものだと考えていますが、そのような考えに同意できるのは、その人が理性の段階の合理的な世界観を持っているからです。異なる世界観を持っている人は、理性の段階でと同じような熱意を持って基本的人権の普遍性に同意することはないでしょう。例えば、男性のほうが女性に比べより神に近くすぐれた存在だという神話段階の世界観をもつ人々には、合理性段階の人々の考えを正確には理解できません。その人たちは、形式的操作の能力を持ち、数学における順列・組み合わせは理解できるでしょうが、そのような能力を様々な事象に適応した結果として登場した、合理的な文化には属していないのです。そのため、合理性段階の世界観に接したとき、その考えを吸収し、当たり前だと思うようになるには、時間をかけてそれなりのステップを踏んでいくことが必要になるでしょう。このような、人の内面には発達の段階があり、いまだ合理性に至っていない他の段階では、一足飛びに理性的な概念を正しく理解することはできないという事実の把握が合理的世界観には欠けているのではないでしょうか。
それに関して思いだすのは、同時多発テロ事件のあとで、少なからずのアメリカ人が、アメリカの豊かさに対する貧しい人々の嫉妬が、テロの背景にあるとしたことです。そこには、アメリカがそれまでに中東で行ってきたイスラエルよりの行為や、クルド人を迫害するフセイン政権に援助をしていたことに対しての自省の欠如、そしてそれらがその地の人々にもたらしたであろう不公正さに対する悪感情への無関心が感じられます。歴史学者ジョー・ダワーが言うように、合理的世界観を標榜するアメリカ人たちの、神話段階の人々が持つ世界観に対する想像力の欠如が認められます。
このような無関心、想像力の欠如を持つ合理性段階の人々は、神話段階にある社会を、基本的人権をよしとする合理的なものに変えようとするときに、人々の内面が合理的なレベルにステップを踏んで到達できるように手助けして待とうとはせず、人権を尊重した場合の社会システムを強引に押しつけようとしてしまうでしょう。そのような場合、意思の疎通は成立していませんから、押しつけられた側では反発が先立ってしまい、神話段階の民族主義的な文化を持つ社会から、合理的な文化を持つ社会に発達することはかえって難しくなり、テロもなくならないでしょう。アメリカがテロとの戦いにおいて陥っているぬかるみ的現状はこのようにも見ることができるのではないでしょうか。
ところで合理性は、モダンとも呼ばれますが、現代では、ポストモダンと呼ばれる、少し高級そうな合理性が主導的になっています。このポストモダンであれば、人の内面に発達の段階があるということを把握できているでしょうか。
ポストモダンでは、多様な価値観を許容します。多元主義、あるいは多文化主義といわれるような姿勢がポストモダンのものです。この姿勢では、合理的な文化にも、民族主義的な文化にも、原則あらゆる文化に同等の価値を認めます。それはしかし、発達の段階に基づく価値の違いを認めないということでもあります。そうしますと、ポストモダンでは、様様な文化が野放図に乱立することを許容しかねないわけで、例えば、非常に自己中心的な意識レベルに発する文化にも、世界中心的な合理的文化と同等な権利を与えてしまうようなことにもなりかねません。自らはポストモダンという高度なレベルにありながらも、自らが許容した排他的な文化に、自らの首を絞めさせることにさえなりかねませんから、テロのない社会をつくるどころか、世界中にさらなる混乱を導くかもしれません。このように考えてきますと、ポストモダンも含む合理的な世界観では、結局テロという問題には十分には対処できないと思えます。

合理的な世界観で環境問題に十分に対処できるか

 テロとならんで大きな問題は、あるいはそれ以上に大きいかもしれない問題は、地球温暖化などの環境問題です。もうだいぶ前のことになってしまいましたが、アメリカ合衆国が地球温暖化を防止するための京都議定書から離脱するということがありました。日本ではどうでしょうか。年金問題に代表される、福祉などの、人間社会の制度をめぐる問題については熱心に議論され、各党がマニフェストでその政策を提示し、切迫感も感じられますが、環境問題に関しては、マニフェストに必ず取り上げられてはいますが、福祉に比べると、切迫感に欠けた扱いしかされていないように見えます。そのような傾向が、原子力発電所の災害対策にある種の甘さを生じ、東北大震災での多大な放射性物質による環境汚染につながってしまったようにも私には思われます。
今アメリカと日本について述べましたが、これら合理性段階にあると思われる諸国家が、環境問題にそれほど積極的になれなかったということは、合理性ではテロだけでなく、環境問題を解決することも十分にはできないのではないのかという疑いを生じさせます。
「形式的操作の能力によって生じる自然観」という節で述べましたが、合理的な世界観は、「基本的にはばらばらを通してつながりを見る」ことで構成されます。そのため、私達と自然環境が分離して存在することが、私達と自然とのつながりを捉える前提になっているわけです。つながりは二次的であって、根本的には自然は私たちの外側にあるわけです。
そうしますと、合理的世界観では、人間の社会の内側で生じる問題ほどには、外側の自然にかかわる環境問題に積極的にはなれないでしょう。そのため十分な対処ができないことになってしまうのだと思います。
以上、合理性では、原理的にテロや環境問題に十分な対処ができないのではないのかということを述べてきました。その論拠は、合理性では民族中心的な文化も合理的な文化も横並びに見てしまうこと、自然を自らの外側に見てしまうことでした。ところでウィルバーは、形式的操作を超えた認識能力として、ヴィジョン・ロジックというものを考えています。そこで、このヴィジョン・ロジックを事物に当てはめたときに持つ統合的な世界観に基づけば、テロと環境問題の解決が期待できるかどうかを考えてみたいと思います。そしてその世界観に基づく政治姿勢はどうなるかと考えを進めていきたいと思います。

ヴィジョン・ロジックとは

 形式的操作という認識能力では、ものごとに関する様々な可能性を並列して眺めることができたわけですが、ヴィジョン・ロジックという認識能力では、一歩進んで、それらの可能性を統合的にとらえるようになります。それは、ヴィジョン・ロジックという認識能力を駆使できるレベルでは、合理的な探求の成果を、単に眺め渡すだけでなく、統合的な全体性の中に当てはまる要素であることを前提として扱うからです。ここに、形式的操作を駆使できる理性のレベルと、ヴィジョン・ロジックを駆使できる統合的な理性と呼ぶことにするレベルとの質的な相違があります。理性では「ばらばらを通してつながりを見る」のですが、統合的な理性では「統合的な全体において、つながりや階層を見る」ことになります。繰り返し使わせていただいている例ですが、各国の政治的リーダーの思考形式で考えてみますと、合理性の段階にあるリーダーたちであれば、「自国の利益はこうだ」という意見を提出しあい、様々な可能な立場があることを理解し、その間の矛盾を調整し、妥協点を見出そうとするのでしょうが、統合的な理性の段階のリーダーであれば、単純に矛盾を調整するというよりは、「いったいどういうあり方が、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」(岡野守也、『自我と無我』、PHP、2000、p.134)と最初から発想するようになっているわけです。
そしてこの統合的な理性の段階での代表的な世界観が、ウィルバーの、四象限とレベルを重ね合わせたコスモロジーだったわけです。

統合的な世界観の一例としてのウィルバーのコスモロジー

 心理学、自然科学、文化人類学、社会学などの、様々な分野で、合理的な探求の膨大な成果が得られてきたわけですが、統合的な理性では、ヴィジョン・ロジックという認識能力で、それら膨大な成果を統合的な全体性の中に当てはまる要素として見渡し、統合的な世界観を持つようになるわけです。その代表的な例が、ウィルバーの、四象限と進化・発達のレベルを重ね合わせた全象限・全レベルのコスモロジーです。
詳しい説明は第7章ですでに行いましたが、ウィルバーは、私達が世界を捉える基本的な枠組みとして、客観(外面)と主観(内面)という対概念に、個と集合という対概念を重ねてできる、世界を捉える四つの側面を考えます。それは、内面的・個的、外面的・個的、内面的・集合的、外面的・集合的という四つの側面で、通常二つの直行座標軸によってつくられる四つの象限に当てはめます。
人間を例にとって四つの側面を見てみます。内面的・個的側面は個人の意識です。内面的・集合的側面はその人が属している集団の文化です。また、外面的・個的側面は個人の行動特性や肉体の構造で、特に脳の構造・機能を示しています。外面的・集合的側面は、物理的環境や、その人が属している社会の経済、政治等のシステムを表しています。
ウィルバーは、この四象限に、進化・発達という考えを重ねて、図9-2で表わされる極めて統合的な世界観を作り出したのでした。

図9-2 (『進化の構造1』の305ページにある図を、原書第二版 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)

図9-2の原点は、4つの象限全てを包含するコスモスの始まり(物理的にはビッグ・バンと呼ばれる現象)を示しています。この宇宙の始まりからしばらくして、右上の外面的個的存在としては原子が現れます。四象限説では、全ての個的存在(メンバー)には内面がありますから、当然原子にも、どんなに素朴であろうが、内面があります。図9-2では左上象限に把握と表記してあります。個的存在の誕生とともに、それらの集合も誕生します。原子のレベルでの集合の外面的なあり方は、右下象限に書かれている銀河系です。もちろん初期銀河系は、現在のありかたとはかなり異なってはいたでしょうが、基本的な特質はこの時期に現れたわけです。集合にも、外面とともにメンバーに共有される内面が現れますから、図9-2では、左下象限にとりあえず物質的と書かれています。
今述べました、4つの象限にわたる原子のレベルを含んで超える形で、やはり4つの象限にわたる分子のレベルが現れます。ただ、次のレベルが現れても、前段階のレベルでの個体数は、数量的には次のレベルでの個体数を超えて存在し続け、以降に登場するレベルを維持し続けるための土台となります。例えば、原子は分子よりも数量的には必ず多くあり、分子が存在し続けるための土台として、分子に含まれない形としても多数存在し続けるわけです。外面だけでなく内面も持つ宇宙、コスモスは、このように含んで超えるという進化を続け、様々なメンバーを生み出してきたわけです。
現代世界においては、先進国と呼ばれる国の社会の主導権を握る成人は、この図では、左上象限において理性(形式的操作)のレベル、段階12に通常達しています。そうしますと、左下象限の段階12をみますと、合理的な文化が実現し、右下象限の段階12を見ますと、産業的な経済システムを持つ国民国家という社会が存在することになります。人類全体のリーダーシップを先進国が握っているとすれば、大雑把に言えばこの段階12の四つの象限が、人類の現状を表していることになります。私達は、段階12までの全てのレベルを含んで超えてきた存在です。ですから、理性的な人間としては、国民国家のメンバーでありますが、動物としては生態系のメンバーであり、細胞としてはガイアのメンバーであり、原子としては銀河系のメンバーであり、全てのレベルで、集合のメンバーとなっているわけです。内面で言いますと、上の方のレベルでは、私は合理的な文化を他の人達と共有しており、下の方のレベルでは、物質的な間主観的内面を原子と共有しているわけです(原子と何らかの相互理解を持っています)。
このようにウィルバーの世界観とは、コスモスが四象限で表される4つの側面を持ちながら、ビッグ・バン以来、前段階を含んで超えるという進化を重ね、その個的側面においては、外面的には複合新皮質、内面的には自己意識をもった人間にまで到達していて(人間を超えた存在がまだ現れていないと仮定しています)、まだ先へ続いていくとするものです。この四象限と進化の組み合わさった世界観によって、宇宙の進化の精華としての人間のありかたがはっきりします。そして、この世界観には合理的な探求の膨大な成果が、統合的な全体性の中に当てはまる要素として見渡されていますので、統合的な世界観の例となっているわけです。

統合的な世界観における人間とは

 ウィルバーの世界観では、人間は四つの象限を持っていて、その四つの象限各々に、含んで超えるという発達の過程で通過してきた全てのレベルを、不可欠な土台として持っていることになります。現在の人類を全体として考えますと、右上象限で言えば原子、細胞、神経管、脳幹、辺縁系、新皮質を複合新皮質の土台として、左上象限で言えば把握、感覚、知覚、情動、概念、具体的操作を形式的操作の土台として、左下象限で言えば、物質的、呪術的(自己中心的)、神話的(社会・民族中心的)な文化の制御された形態を合理的(世界中心的)な文化の土台として、右下象限で言えば、銀河、生態系、そして様々な民族的な集団の制御された形態を国民国家の土台として持っていることになります。別の言い方をしますと、左上の形式的操作までに相当する全てのレベルの、四象限におけるコスモスの全てが、不可欠な土台として人間には含まれていると見ることになります。

統合的な理性の段階ではテロに対処できるか

 そうしますと、統合的理性の段階では、様様な文化をポストモダンの多文化主義のように単に同等に並べるだけでなく、そのレベルの高い低いも見通そうとしますから、それらを階層も含んだ統合的構造において扱うこともできるようになるはずです。それで以前、この統合的理性の段階での世界観を、統合的多文化主義とも呼んだのでした。
とりあえずこのレベルの世界観が基本にあれば、合理性の世界観が基本にあるとき以上には、民族主義的なテロの問題をうまく扱えると期待できるのではないでしょうか。何故なら、民族中心的な世界観は、含んで超えるという発達の過程を踏むことで、合理的な世界観へと到達できることがはっきりと理解されていますから、民族中心的な世界観を持つ人々に、合理的な価値観へと進むのに必要なステップを踏んでいけるような方策を考えるはずだからです。そして、いきなり合理的な価値観を押し付けて反発を招き、テロを誘発することはないと思うからです。
2010年12月以降に、「アラブの春」と呼ばれる、チュニジア、エジプト、リビアにおける民主革命が起こりました。これは、インターネットなどを通じて諸外国の価値観が不可避的に当地の人々に伝わり、それを受容した人々自身の価値観が集合的に変容していくことで内から生じた現象に見えます。このような、内からの変容を促す姿勢を、統合的な理性の段階では持ち得るはずです。リビアでは、NATOによる軍事介入もありましたが、それは、ヨーロッパ諸国の反対にも関わらずアメリカがイラクに強引に介入したときとは異なり、国連安保理の決議とアラブ諸国の指示の上でのものでした。そこには、統合的な理性へと国際社会が進みつつある兆しを見ることができた気もします。

統合的な理性の段階では環境問題に対処できるか

 また、合理的な世界観では「基本的にはばらばらを通じてつながりを見る」ので、「私達がいて、その回りには自然環境があって」という、私達と自然環境が分離して存在することが、私達と自然とのつながりの前提になっていると先述しました。合理的なレベルで、「私達は大いなる自然の一部なのだ」と考えるとき、その考えが生じてきた源には、私達の周囲に広がる、私達の外側の自然、そして私達の外側の宇宙という捉え方が残っているのです。それに対して統合的理性の世界観では、生態系を含む自然環境は人間という存在の右下象限での土台であり、人間の一部です。もはや私たちの外側にあるわけではありません。そうしますと、合理性と統合的理性と、どちらの世界観を持っている方が環境問題に切迫感を感じるかといえば、当然統合的な理性の方になると思います。
いくら環境問題について政治家が重要性を語り、目標を提示しても、その実行がなかなか伴わないのは、環境が根本において自らの外側、周囲にあると理性的に見ていたからだと思うのです。それに対して、語本来の意味には矛盾するようにも見えますが、統合的な世界観では、環境は私達の周囲にあるのではなく、私達の一部です。自然は人間の一部として内側に見られるのです。自らの内なる問題には、周囲の問題以上に当然切迫感を感じて対処することになると思います。環境問題への迅速な対処が、統合的な理性の意識レベルでは実現されそうだと期待できます。

統合的な世界観では政治姿勢はどのようになるか

 もし、レベルとして、合理性で十分だというのであれば、人々の意欲を尊重し、職業選択や移動の自由を保障し、しかし過度の格差を引き起こさないように充実した福祉が実現するための富の再分配のシステムも改善しつづけ、そして基本的人権と民主主義の本来の考え方を人々の意識にしっかりと浸透させるような合理主義的な文化を尊重するような政治姿勢が理想であると考えられるわけですが、現代世界が直面しているテロと環境という二つの問題を解決するためには、合理性では十分ではないという結論に至りました。何故十分ではないのかといいますと、どちらの問題を解決するためにも、「人間という存在には、内面においても外面においても、個的側面においても集合的側面においても、進化に基づく階層的なレベルが含まれている」ということの実感的把握が必要なのに、合理性ではそれが十分にできていないからです。
私達の中には、合理的な面もあれば、哺乳類と共有する情動的な面もあれば、爬虫類と共有する衝動的な面もあります。また、私たちの集合的な側面が仮に合理性のレベルに達していても、そこには神話的なレベルでの世界観の要素や対応する社会制度の要素も、呪術的なレベルの世界観の要素や対応する社会制度の要素も、様々な生物と共有する生態系も土台として含まれています。また、認識能力だけに注目すれば、世界中の成人は形式的操作以上に達しているのでしょうが、地域によって、それを十分に事物に当てはめてしまえているかどうかには程度の違いがありますから、各地ごとに異なったレベルの多様な文化が併存していることになります。人類全体としては、それら多様な文化全てが合理的な文化の土台として扱われるべきなのです。
このように、私達が、自身の内に、成長してきた過程で現れた全てのレベルを、個的側面のみならず、集合的側面においても、土台として含んでいることを実感的に認識するとき、統合的な世界観を持っていると言えるわけです。そうしますと、統合的世界観において人間が健全に存在するには、その四つの象限が、全てのレベルを含んで超えるという形で健全に保持されていることが必要不可欠な条件となります。
このような人間観から、統合的な理性の段階の政治姿勢では、すでに述べました合理性での理想的な政治姿勢を含んだ上で、次のような目標が付け加わると思います。左上では、「自然環境および多様な文化を尊重し統合することを志向する意欲」の促進。右上では、「自然環境および多様な文化の統合を実現するにふさわしい地球市民的行動」の促進。右下では、「自然環境および多様な文化の統合を実現するための全地球的なシステム」の創造。左下では、「四象限と発達の全レベルを含むような基本的な世界の枠組みにもとづいて、人々に自然環境および多様な文化を尊重し統合することを志向するように促す統合的な文化」の創造。
そしてこのような政治姿勢は、テロを誘発しないように細心の注意を払いながら、諸文化に、統合的な文化に達するための自然なステップを踏むように促し、また環境問題に対しては、人間存在の土台の問題として、切迫感を持って臨むようになるはずだと思います。

統合的な世界観に基づいた政治が行われている国はあるのか

 すると統合的な理性の段階の世界観を持つ人々が指導者になっている国があれば、その国家理念や制度はより具体的にはどうなるでしょう。たとえば次のようなことが必ず言えるはずです。環境問題は自分たち内部の問題で、極めて切実ですから、(1)タイムスケジュールも含んだ、持続可能な社会を実現するための具体的ヴィジョンを持っていて、環境問題への対処を後回しにしていない。また、人とは自然を含んだ存在ですから、(2)基本的人権の中に、自然環境の権利が含まれている。そしてあらゆる段階を自分とつながった統合的な全体の中で見るので、(3)あらゆるレベルの文化圏の人にも、あるいは生き物にも、そのレベルに相応しい権利を認め、尊重する。もしこれらが国家理念や国家の制度に組み入れられている国があれば、その国の指導者は、統合的な理性の段階にあると考えて間違いないでしょう。
『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎、朝日新聞社、 2006)には、スウェーデンは、「生態学的に持続可能な社会への道(緑の福祉国家)」を選択し、1996年に「25年後の2021年次の望ましい社会を想定したプロジェクト」をスタートさせ、99年に「2021年のスウェーデン――持続可能な社会に向けて」という研究成果を公表したとあります。そして、この「将来のあるべき社会の姿」への長期ヴィジョンを実現するために、行動計画が作られ、新しい法律の作成・社会制度の変革・技術開発の変革が実行されつつあるそうです。これらのことは、先ほど述べた(1)が満たされていることを示しています。
また、「緑の福祉国家」には、①社会的側面、②経済的側面、③環境的側面という三つの側面があります。①と②は、合理的世界観における人間を大事にする側面で、従来どおりの合理的な福祉国家としての側面です。③は、新たに加わった環境を大切にするという側面であり、その背景には、「健全な環境は基本的な人権の一部」という考えがあります。つまり、人間という概念の中に、その土台としての自然環境が含まれています。人間は、登場するまでの進化の過程で現れた自然の全てのレベルを含んだ存在だという考えがそこにはあるようです。これは先ほどの(2)そのものです。
また、同じく『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』によれば、動物保護法では、「動物は本来持っている自然行動を考慮した環境で飼育されなければならない」とされ、例えば繁殖用の母豚の飼育であれば、寝床、餌場、排泄場所を別々にしなければならないとされています。さらに、『スウェーデンの挑戦』(岡沢憲芙、岩波新書、1991)では、民族解放運動への支援活動、積極的な開発援助や難民受け入れ策を展開し、第三世界との連帯を実現していると書かれていました。これらのことは、(3)が満たされていることを示していると考えていいと思います。
このように、スウェーデンの社会民主主義体制では、明らかに指導者は統合的な理性の段階にかなり前から達していたようです。つまり、一定数以上の人たちが左上で統合的な世界観を持ち、右上でその世界観にふさわしい行動をし、社会でリーダーとして認められ、そのリーダー達は権力を使って社会の制度、システム、基盤を、その世界観にふさわしいものに造り変えていっていると。そのあとに続くシナリオは、「そのような制度の中で、特に教育において、リーダーがよしとする行動規範と、世界観が教えられていくことにより、多くの人々の行動のレベルと世界観のレベルがリーダーのレベルと一致するようになり、そのため、人々に共有される文化としての世界観が統合的な理性のレベルに達し、そしてそのような統合的な世界観をもったリーダーが絶えることなく登場してくることで、文化のレベルが維持され、社会のシステムは維持改善されていくようになる」でしょうが、スウェーデンでは、どこまでこのシナリオをたどってしまっているのかは、私にははっきりわかりません。「持続可能な国家のビジョン」というシンポジウム論集(持続可能な国づくりの会、2008)に掲載されました、サングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹の「持続可能な国をつくりうる心」に、スウェーデン人が興味をもつことについてのアンケート結果がでていましたが、それによりますと、第一位休暇、第二位自然、第三位スポーツとあります。「休暇」は自由な自我を普段の役割から解放することを、「自然」は自分の中に含まれている生物的な次元に親しむことを、そして「スポーツ」は、サッカーチームなどを応援することで所属する社会あるいは民族との結びつきを確認することを意味しているなら、自分の中に様々なレベルが土台として含まれているという、統合的な世界観の一般社会への浸透が、スウェーデンではかなりの程度進行しているのだろうとは思われました。

日本そして世界中で統合的理性の段階の文化が実現するには

 世界中の人々が、人類としてつながっているわけですから、仮にスウェーデンで統合的理性の段階の文化が実現しているのだとしたら、当然日本でも、そして世界中でも実現できるのだと思います。そのために必要な要素について若干考察しておきたいと思います。

1.日本で統合的な理性の段階の文化が実現するためには
統合的な世界観をもつ政治的リーダーが現れることがもっとも大きな要素になると思います。それに関して、「サングラハ第108号」(2009年12月)にこの章のもとになったエッセイを書きました。当時国連での気候変動に関するサミットで、鳩山首相が「1990年比で二酸化炭素25%削減」ということを表明したばかりでもありましたので、彼はもしかすると統合的な理性レベルでのリーダーではないのかと思ったのですが、その後の有様を見まして、本当にがっかりしてしまいました。しかし、是非近い将来、統合的な理性レベルのリーダーが、日本の権力の中枢にも現れてほしいと思います。
このリーダーの存在という要素以外の要素として、次のようなことが考慮されるべきだと思います。

(1)日本の民族的な文化を再認識してプライドを持つ
「サングラハ 第103号」(2009年1月)に掲載されていた岡野主幹の「持続可能な社会に向かう思想と政治」というエッセイに次のような一節がありました。

ルターの代表的著作の一つ『キリスト者の自由』に有名な以下のような言葉があります。「キリスト者は全ての人の上に立つ自由な主人であって何人にも服従しない。キリスト者は全ての人に仕える僕であって何人にも服従する。」これもまた、前半は「自立」、後半は「連帯」を促す思想であることは明らかです。
こうして見ていくと、近代になって、キリスト教の「愛」の精神が非宗教化されて社会主義の「共同体・連帯」という思想に至ることも自然な流れとして納得できるでしょう。
そうした自国の文化の発展として近代化を進めることができたのと、他国(特にアメリカ)の強制によって近代化させられたのとが、口惜しいかなスウェーデンと日本の決定的な差だと思われます。

つまり、日本が統合的理性の段階に進むに当たって、含んで超えてきた土台として、健全な民族的文化が存在することが望ましいわけですが、日本の場合、日本文化が健全な土台になっていないというわけです。土台が不健全なままで先に進んでも、それでは砂上の楼閣をつくることになりかねません。それを避けようと思うなら、ここで今一度日本文化を振り返り、そこに合理性の中に発展していくとみなせる要素を確認しておくことが必要です。日本の民族的な文化として、神仏儒習合ということを岡野主幹は掲げられていますが、「日本精神史の四つの高峰について」(「サングラハ第64,65,67号」)で述べられていましたように、仏教において、世界に誇るべき高みを日本文化が持っていたとするなら、また、日本と言う国がその形を形成する上で、十七条憲法という文化的礎を持っていたとするなら、そのことを多くの日本人が深く再確認することが、スウェーデンと同じように、確たる土台を持って統合的な理性の段階の文化に進むための必要条件になるのだと思います。
スウェーデンの場合、文化的な面に呼応して、集合的外面でも、含んで超えるという過程を順調に進んできたらしいことがうかがわれます。何故なら、豊かな自然が残存し、また健全な形で王政が保持されていたりするからです。今それらは、緑の福祉国家において、統合的な理性段階の意識で改めて制御されながら、健全な形で持続的に残存し続けていくのでしょう。
日本の場合、私が身近な出来事として見てきました、この40年間での多摩丘陵の変容などを思い返しますと、局所的には取り返しのつかないことをしてしまっていると言わざるを得ませんが、国全体としては山岳地帯が多く、有効利用できる土地面積が狭いため、豊かな自然が残されていると言えないわけではありません。それから、これはアメリカの占領政策によることですが、天皇制が合理的な憲法のもと維持されています。これら、豊かな自然、文化の象徴としての天皇制を、再確認された神仏儒習合の文化とともに、速やかに統合的な理性段階の意識で、しかも日本人自らの意思で再統合すれば、それらは日本が緑の福祉国家として歩んでいく際のよい土台になると思われます。

(2)コスモロジー教育
土台がしっかりしていることは必要ですが、次に、なるべく若いころから、その土台を含んで超える、目標としての統合的な世界観に親しむことが望ましいと思います。ウィルバーの世界観が、統合的な世界観の一例だと述べましたが、含んで超えてきたという進化・発達の在り方が鮮明に表れているのは、右側象限の外面的な宇宙の進化です。そこで、岡野主幹が「コスモス・セラピーとウィルバー・コスモロジー」(「サングラハ第98,99,101,102,104~106号)で語られているような内容に相当する事項を、学校教育のカリキュラムの中に必修項目として組み入れることが望ましいと考えます。

2.世界で統合的な理性の段階の文化が実現するためには
統合的な理性の段階の文化は、最終的には全地球的なものになる必要があります。そのためには、次のようなことが実現されていくべきだと思います。

(1)先進的な国々が共同して、統合的な理性に基づく政策を提示し全地球的に実行する。
(2)国連は合理性に基づく基本的人権に関しての憲章を、統合的な世界観における、コスモスの進化の過程を含んで超えている存在としての人間の人権に関する憲章に発展させる。
(3)国連が主導し、統合的な世界観に基づく世界標準のコスモロジーを造り、各国の教育カリキュラムに組み込んでもらう。そのコスモロジーでは、世界中の民族的神話が、その民族に属する人々がプライドを持てるように評価されていることが極めて望ましい。

インターネットで結ばれたこの世界では、あらゆる地域の人たちがコミュニケーションを取ることが可能になっています。先述しましたように、「アラブの春」という現象は、そのような情報社会によって人々の集団的意識の変容が加速された例ではないかと思います。そうしますと、国連主導で統合的な理性の文化への取り組みが始まれば、かなり短期間で地球規模の変容が起こるのではないかと期待できます。
次章ではウィルバー5を扱います。