第8章 「志向的一般論の使用」というウィルバー・コスモロジー創造の方法論は妥当か――ジェフ・マイアーホッフの批判

 マイアーホッフは、『途方もない野望』(Jeff Meyerhoff, Bald Ambition : A Critique of Ken Wilber’s Theory of Everything, Inside the Curtain Press, 2010)で、志向的一般論の使用という、ウィルバー・コスモロジーを創造するために使われた方法論についても批判的に考察しています。それについて、関連した私の疑問と一緒に今回は検討してみます。
志向的一般論とは、学問の各分野で専門家によって論争が起きる際に、その背景となっている、既に合意された、素朴で堅固な知識のことです。ウィルバーは、統合的な認識能力(ヴィジョン・ロジック)で、それら志向的一般論を部分理論としてまとめ上げると、世界の全体像が見えてくると主張し、自らが創造したコスモロジーがまさにその全体像であるとしています。
マイアーホッフはこの志向的一般論の使用というウィルバーの方法論を、二つの仕方で批判しています。一つは、ウィルバー・コスモロジーの部分理論の多くが、志向的一般論とは言い難いという具体的検証による批判です。もう一つは、志向的一般論を使用する方法論は機能不能だという原理的批判です。

志向的一般論の使用という方法論とは何か

 志向的一般論についてウィルバーが詳しく書いている部分を引用してみます。

 本書は、私が志向的一般論( orienting generalizations )と呼ぶもので組み立てられている。例えば、道徳性の発達段階を論じるとき、誰もがローレンス・コールバーグによる道徳性の七つの段階を細かいところまで、あるいはキャロル・ギリガンによるコールバーグの枠組みの修正について細かいところまで同意しているわけではない。しかし人間の道徳性が少なくとも三つのおおまかな段階を経ることには一般的で十分な合意がなされている。すなわちどんな道徳システムにもまだ社会的に組み込まれていない誕生期の人間(「前慣習的」)、自分から、あるいは他者から、自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような一般的な道徳的枠組みを学ぶ時期(「慣習的」)、さらに成長を続け、自分の社会を省察し、ある適度な距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期(「脱慣習的」)の三つの段階である。
したがって発達の過程の細かい部分やその正確な意味はまだ真剣に議論されているけれども、三つの主要な段階が起こること、それも普遍的に起こることにほぼ誰もが合意している。これが志向的一般論である。それらは、大いなる合意を伴って、どこに森があるのかを示してくれる。たとえ木の数には同意できなくても。
もしさまざまな知の分野(物理学から、生物学、心理学、神学にいたるまで)からこれらのタイプの十分に合意された指向的一般論を取り上げ、それらを結び合わせれば、驚くような、またしばしばとても深い結論に達することができる。それは確かに驚くような結論ではあるが、すでに合意された知識以外のものを体現しているのではない。知識のビーズはすでに受け入れられている。それをネックレスに結び合わせる糸を用意するだけである。
以下の三巻は、成功しているかどうかはともかく、そのようなネックレスに結び合わせる試みである。少なくとも私はこのポストモダンの世界において、この種の試みでどの程度のことができるのかの見本を提供できたと思う。広い範囲の志向的一般論で作業することで、三部作は、宇宙、生命、そしてスピリットに関しての男性と女性の位置を示す見取り図を提供する。ディテールはどのようにでも埋めることができる。しかしおおまかなアウトラインは、さまざまな知の分野から抜粋した単純ながら堅固な志向的一般論で、驚くほど多くの証拠によって裏付けられている。
にもかかわらずこのおおまかな方向を示す見取り図は、固定したものでも最終的なものでもない。志向的一般論によって構成されているのに加えて、本書は何千もの仮説で満ちているといっておきたい。本書では私はあたかも一つの事実のように物語ることにしたが(そのほうが読むときにずっと面白いので)、どの一行も、その資格のある人による確認あるいは拒否に対して開かれていないものはない。本書で私が試みたことを、おそらく多くの人が「形而上学」と呼びたがるだろうが、もし「形而上学」が証拠のない思考を意味しているとすれば、そうした意味での形而上学的な文章は本書全体を通じて一行もない。
(Ken Wilber, Sex, Ecology, Spirituality, Second Edition, Shambhala, 2000, pp.5~6にある文章を、邦訳『進化の構造1』(松永太郎訳、1998, pp.4~5)の訳文を参考に再訳しました。そうした理由は、従来「志向的一般化」と訳されていたorienting generalizationを「志向的一般論」と訳した方がよいと考えたからです。また、文中にある三部作(Kosmos Trilogy)は、結局第一部である『進化の構造』以外に公式に出版されたものはありません。ただし、その第二部Sex, Karma, Creativityの抜粋はネットに掲載されています)。

学問の様々な分野で、「細かい部分やその正確な意味はまだ真剣に議論されているけれども」、その議論の背景には、「誰もが合意している」、「単純ながら堅固な」理論なり知識なりがあり、それらを指向的一般論とする、とウィルバーは宣言します。そして、それら指向的一般論を、ただ眺めるだけではなく、ヴィジョン・ロジックと呼ばれる高度な認識能力で統合的に組み合わせる方法で、進化の「おおまかな方向」と「宇宙、生命、そしてスピリットに関しての男性と女性の位置」を示す見取り図を提供することができるとウィルバーは主張します。この方法論が、私が「志向的一般論の使用」と呼ぶものであり、またその方法論で得られた見取り図が、4つの側面(四象限)を持つホロンの階層構造を大枠とするウィルバー・コスモロジーなのです。
したがって、ウィルバー・コスモロジーの全体的な枠組みの根拠には、志向的一般論に関する専門家たちの合意と、その素朴さ堅固さがあるわけです。ただし、この見取り図は「固定したものでも最終的なものでも」ありません。何故なら、志向的一般論以外にも、細部を埋める「何千もの仮説で満ちている」からです。しかし、細部に仮説があっても、志向的一般論とそれによって知られる大枠は、固定的で最終的で覆し得ないとウィルバーは考えているわけです。
一見すると、ウィルバーの主張にはなるほどと思わせるものがあります。しかしながらマイアーホッフは、二種類の仕方でウィルバーの方法論を批判します。一つは、ウィルバーが使っているコスモロジーの部分理論の多くが志向的一般論とは言い難いというものです。もう一つは、志向的一般論を使用する方法論は原理的に機能不能であるというものです。これらマイアーホッフの批判と重なるところもありますが、私も上記引用文に疑問を持たざるを得ません。一つは、議論されている「細かい部分やその正確な意味」について検討することから、背景となる志向的一般論が覆されることもあり得るのではないかという疑問です。ウィルバーはそのような可能性を全く無視していますが、物理学が発展してきた過程などを振り返りますと無視するわけにはいかないと思います。もう一つは、ウィルバー・コスモロジーの大枠となる四象限とホロン階層という考えは、全ての部分理論の背景となるわけですから、当然志向的一般論とみなされるようになるはずなのでしょうが、それらを構成する基礎的部分には、専門家によって合意されているとは言い難い、堅固であるとも言い難い、すなわち志向的一般論とは言い難いものがあるので、ウィルバー・コスモロジーは彼の方法論に従ってできてはいないのではないのかという疑問です。これらの疑問は、マイアーホッフの批判を補うと私には思えます。
それでは、マイアーホッフの批判、そして私の疑問について、順次検討していきたいと思います。

ウィルバー・コスモロジーの部分理論の多くが志向的一般論とは言い難いという批判

 ウィルバー・コスモロジーの骨子には進化ということがあります。この進化を指し示す部分理論としてウィルバーは、複雑性の理論(自己を組織化するシステムの理論)、ポール・マクリーンの脳の構造論(人間の脳は、爬虫類的である脳幹、原始哺乳類的である辺縁系、高等哺乳類的である新皮質が含んで超えるように進化してきたことを示す構造を持つと主張する理論)、ピアジェの認識の発達論、コールバーグの道徳性に関する発達論、ハーバーマスの社会発達論などを『進化の構造』で取り上げています。それらは当然志向的一般論とみなされているのだと思いますが、マイアーホッフの調査によれば、それらのどれ一つをとっても、既に合意された理論とは言い難いことになります。
マイアーホッフは、複雑性の理論に関しては十分に定義された専門分野とすることさえ難しいと指摘しています。ポール・マクリーンの脳理論に関しては、神経科学界で合意された理論と言うには程遠いと指摘しています。ピアジェの発達論の場合、その文化横断的な普遍性に関しては、多くの学者が懐疑的であると指摘しています。コールバーグの道徳性に関する発達論の場合、脱慣習段階については十分な経験的証拠は得られていないことを指摘しています。ハーバーマスの社会発達論に関しては、彼が頼るピアジェ、コールバーグらの個体発生の理論に関する疑問も含めて、発達の普遍性、進化性、累積性に疑いがもたれていることを指摘しています。もちろん、批判があっても、それらの理論が否定されるわけではありません。例えばピアジェの認識の発達論にしても、西洋文化圏において、しかもその認識能力の最も中核的な部分の発達にしぼれば、マイアーホッフもその妥当性を認めると思います。ですから、それらの理論は、それぞれの程度において有力だとは言えるのでしょう。とは言うものの、マイアーホッフの調査による限り、ウィルバーが要求しているようには、上記の諸理論は普遍性などに関して合意されてもいないし、従って堅固でもないのは確かだと思います。
ところでウィルバーは、先ほどの引用文の中で、明らかな仮説も含めて、読みやすくなるからという理由で、「本書では私はあたかも一つの事実のように物語ることにした」と述べています。ですから彼は、上記諸理論は仮説の方に属すのであり、志向的一般論として挙げているのではないと反論することが可能です。それに、生物が進化すること、ビッグバン仮説の大筋などは、マイアーホッフも上記諸理論と並べて批判の対象とはしていません。そうしますとウィルバーは、全く志向的一般論を使っていないわけではないので、マイアーホッフも彼の方法論の有効性を否定し去ることはできないのではないでしょうか。ウィルバーが取り上げている理論には、一見志向的一般論と見えるものにも、専門家たちが合意していないし、堅固でもないものが多数含まれているとわかっただけなのではないでしょうか。しかしマイアーホッフには、より強烈な、原理的な批判もあるのです。

志向的一般論の使用という方法論は機能不能である

 マイアーホッフは次のように述べています。

 私はウィルバーが志向的一般論を使用していないことを示してきた。しかしここで、志向的一般論は全く機能不能であるとさらに議論する。方法論が機能不能である理由とは、所定のアカデミックな論争の参加者が前提している「素朴で堅固」な背景知識が「素朴で堅固」に見えるのは、たまたまその論争における参加者が、背景知識の妥当性について論争していないにすぎないからである。何故彼らはその知識を討論していないのか?なぜならそれは、彼らの仕事ではないからだ。彼らの同僚たちが真であると見なしているものを討論するのはある別のアカデミックな部門における他の学者たちの仕事なのである。
発達心理学という重要な分野を取り上げてみよう。論争の参加者たちは、発達の過程があり、それは同定でき、相対的に不変な段階に従うと仮定している。しかしそれは、たまたま彼らが、その時に、それらの仮定あるいは志向的一般論を討論していないからである。それは、それらが討論できないことを意味しているのではない。Value Presuppositions in Theories of Human Development ( Cirillo, Leonard and Wapner, Seymour, eds., Hillsdale, N.J.: L. Erlbaum Associates, 1986 『人間の発達に関する理論において前提されている価値』)において、アカデミズムで最も尊敬されている人たちの幾人か――ジェローム・ケイガン、ジェローム・ブルーナー、キャロル・ギリガン、リチャード・バーンスタイン、そしてその他の人たち――が、認知の発達論的な記述の内に与えられている価値を、そして段階と構造について語ることが結局のところ妥当かどうかを論じている。言うまでもなく、いかなる同意にも達しなかった。この議論の参加者達は、彼らの言葉がリアリティを表しているとまさに仮定し、志向的一般論としているけれど、これは「素朴で堅固」な知識の一部なのだろうか?真理に関する表象主義的理論が非常に厳密な批判にさらされる、認識論における最新の論争では否である。そしてこのような事態は進展し続ける。ある人の志向的一般論は、別の誰かの論点なのだ。
自然科学者は、これは「ソフトな」社会科学に対しては真であるが、「ハードな」自然科学に対しては真ではないと異議を唱えるかもしれない。自然科学は、事実、説明、そして方法について確かにより強く合意している。科学者は、生物学的進化が生じるかどうかは議論しない。それは生じる。それは事実である。彼らは、それがどのように生じるかの詳細をまさに論じるが、しかしこれについては、将来において彼らが合意できることを私たちは思い描くことができる。彼らが合意しないだろうことは、それが生じるとは何を意味するかに関してなのだ。そしてこれが、もしウィルバーが全く異なる分野の知識を組み合わせ、物質、生命、そして心の進化についての首尾一貫した物語を語ろうとするなら、彼が答える必要がある種類の問いなのである。何故ならば、事実を記述することから物語を語ることへの移行は、事実から価値への移行であるのだから。
(Bald Ambition, pp.167~168)

ここで批判の論拠になっているのは、ある論争において、論争者達にとって既に合意されている、素朴で確かな、背景にある知識あるいは理論は、別の論者の論点に、あるいは当該論争者達にとっても別の機会に論点になり得るということです。一つ例をあげたいと思います。19世紀終わりごろまでは、物理学の基本理論はニュートン力学であり、空間は、ユークリッド幾何学に従う三次元ユークリッド空間であるということが、物理学者の多くが合意する確かな知識、すなわちウィルバー流に言えば指向的一般論だったわけです。しかし、どの慣性系からも電磁気学のマックスウェルの方程式を同等に使えるように、そしてどの慣性系で測定しても光速が一定であるという観測結果を説明できるようにするために、アインシュタインのような学者は、非ユークリッド幾何学的な考えを現実の物理的空間にあてはめていきます。そして特殊相対性理論が、実はこの空間は日常感覚になじみやすい素朴なユークリッド空間ではないと説明することになります。さらには、重力質量と慣性質量との等価原理からやはりアインシュタインによって一般相対性理論が導かれ、重力の働きで空間は曲がっていると捉えるまでに至ります。
この空間がユークリッド空間であろうが、異なる慣性系では物の長さが変わったり時間の進み方が変わったりする非ユークリッド空間であろうが、あるいは重力の影響で少々曲がっているような空間であろうが、日常の空間感覚には何の影響も与えません。日常生活では、ニュートン力学が想定しているユークリッド空間と、相対論が想定している非ユークリッド空間と、どちらが現実の空間を表していても、どちらが背景となる確かな理論であったとしても変わりはないのです。しかし、非ユークリッド空間の方が正しいと検証される視点においては、ユークリッド空間は否定され、指向的一般論の価値を失っています。そしてこの例は、結局専門家の合意も、そして素朴で堅固だということも、固定された最終的な理論の必要条件でも十分条件でもないことを示しています。従って、大枠において最終的で真であると言えるようなコスモロジーを創造するための一般的方法として、志向的一般論の使用を考えるのは間違いだと思います。ウィルバーが宇宙進化の方向性において理論を形成する際に、たまたまそのような方法論がふさわしいように見えたということにすぎないのではないでしょうか。
マイアーホッフは先ほどの引用文のなかで、「科学者は、生物学的進化が生じるかどうかは議論しない。それは生じる。それは事実である。彼らは、それがどのように生じるかの詳細をまさに論じるが、しかしこれについては、将来において彼らが合意できることを私たちは思い描くことができる」と述べています。この言明からすれば、マイアーホッフも、例えば人間へと至る生物学的進化のような事柄だけ見れば、否定しようがない志向的一般論であると認めているのではないでしょうか。しかし引用文の中では、そのあとに、「彼らが合意しないだろうことは、それが生じるとは何を意味するかに関してなのだ。そしてこれが、もしウィルバーが全く異なる分野の知識を組み合わせ、物質、生命、そして心の進化についての首尾一貫した物語を語ろうとするなら、彼が答える必要がある種類の問いなのである。何故ならば、事実を記述することから物語を語ることへの移行は、事実から価値への移行であるのだから」と述べられています。客観的と思われる視点に暗黙の内に含まれているであろう、進化や発達を規定する価値観にまで議論を広げれば、将来にいたるまで不動と思われる枠組みに関する合意さえ危うくなるとマイアーホッフは考えているように見えます。例えばウィルバーは、人間にまで至る進化の系列を見て、複雑性の増加を進化の方向性と一致させ、複雑性の増加に価値を置きますが、生命そのものの生き残りということに価値を置く見解からすれば、複雑性が増加する方向性とは一致しない別の進化の系列を見出すことになるかもしれません。先程の引用文の中でマイアーホッフが言及していたValue Presuppositions in Theories of Human Developmentには次の一節があります。

もしダーウィン的な進化の特徴が、種―生命(species-life)の存続ではなく、うまく適応できなかった種の「犠牲」もあてはまる、生命それ自体の存続の手段としての種の流動性と可塑性という事実にあるのなら、そのとき発達は、種―特殊的(species-specific)な遺伝構造の安定性あるいは存続を、生物学的な規範として前提することはできない。このように、遺伝的不変性(genetic invariance)あるいは生殖的優勢の存続に基づく発達の規範は、生態学的な遺伝学に道を譲る。そこでは、発達の規範は、すでにある種―生命の形態にではなく、惑星的な生命の、種内的(intra- specific)というより種間的(inter-specific)な安定性に関係している。 (p.122)

ウィルバーのように人間という特殊な種へと至る、進化の一系列に見られる複雑性の増加に価値を置くのではなく、多様な種を含む生命そのものの存続に価値を置くのであれば、地球が置かれた宇宙環境に対するより優れた適応性を持つように生態系全体が変容することこそが本来の進化でありより良いのです。その場合、人間に至る系列は、コスモスの進化の頂点への道程を示しているのではなく、既に滅びた巨大恐竜への系列と同様に、生態系全体の進化における流動的な一要素とみなされるのが当然なのです。このように進化の意味自体が変わってしまえば、進化の枠組みに関する合意も揺らぎかねないのではないでしょうか。
以上マイアーホッフの二種類の批判について述べてきましたが、次に私の二つの疑問について考察していきます。一つ目は、「細かい部分やその正確な意味」について検討することから背景となる志向的一般論が覆されることの可能性を認めるべきではないのかという疑問です。ウィルバーはそのような可能性を無視していますが、科学の発展における実例を見ると無視しがたいと思うのです。

議論されている「細かい部分やその正確な意味」について検討することから、背景となる志向的一般論が覆されることもあり得るのではないか

 ウィルバーは、志向的一般論によって大きな枠組みはゆるぎないものとなり、その細部に変動があろうが、大枠が変更されることにはつながらないと考えています。しかし、それは大きな間違いではないでしょうか?客観的検証をモットーとする自然科学においてでさえ、そのようなことが起こった事実があります。先ほど述べました、空間把握がユークリッド空間としての把握から、非ユークリッド空間としての把握に切り替わったこともそのような一例になるでしょうが、量子力学が登場する過程では、もっと劇的な、物質に関する志向的一般論とも言えるような考えが揺るがされた例が見られます。
物質は電荷を持った粒子(荷電粒子)からできていて、それら粒子は、温度に従って振動しますから、電磁波を放射することになります。ドイツの物理学者マックス・プランクは、そういった電磁波の観測から、振動する荷電粒子のエネルギーが、あるエネルギー素量の整数倍になっていると仮定すればデータをうまく説明できることを発見します。彼は、「この仮定にはなんら物理的重要性はなく、公式を導くための単なる数学的な道具に過ぎない」(ウィキペディア日本版、プランクの法則より)と、自身の法則はどちらかというと些細なことだと考えていたようですが、このエネルギーの量子仮説(量子化)は、アインシュタインの光電効果に関する光量子仮説とともに、量子力学登場へとつながっていき、ニュートン力学、相対性理論と連なってきた古典物理学における、当たり前と思われていた物質観を揺るがすことになります。
古典物理学では、物体のどのような細部であろうと、あるいはどのような究極の粒子であろうと、その位置や運動量、あるいはその他の物理量は、ある定まった値を持っているだろうし、部分ごとの同一性はゆるぎないものであると考えられていました。それは素朴で確かなことだったのです。読者の皆様の直感にもそれはしっくりと合うのではないでしょうか。人間の身体の位置、運動量、電気量、質量などもろもろは決まった値を持ち、個人個人の身体は別々の同一性を持つように、一人の身体を分けていった部分ごとも定まった物理量と個々の同一性を持っていると。ところが量子力学では、素粒子の位置や運動量、あるいはスピンなどその他の物理量も、必ずしも定まってはいないし、相互作用したいくつかの粒子の間には、別々の粒子とは言い難い分離不可能性という関係があると主張されたりもします。このような、非日常的な存在の仕方は、必ずしもミクロな世界にとどまるのではなく、ある種のブラックボックスの中の、死んでいるとも生きているとも言えない猫の存在に関するシュレーディンガーのパラドックスに見られるように、巨視的な世界にも及ぶ可能性があり、いまだ統一的な見解を得るに至っていないようです。アインシュタインは、このような不可解な物質観につながりかねない量子力学をどうしても受け入れることができなかったと言われています。
このように、初め些細と思われ、既成の考えの内に解消されると期待されたことが発端となり、専門家たちによってすでに合意され確かと思われていた知が、大きく揺るがされる可能性が客観性の高い科学においてもあるわけです。ですから、どのように覆されるかは予想もつきませんが、ウィルバー・コスモロジーで最も堅固な志向的一般論と見える生物進化や宇宙進化に関しても、それらがある意味で表層的な見かけに過ぎず、実は別様にみなせる観点が生じるという可能性を否定できないと私は思います。こういったことから、マイアーホッフの二番目の批判にある、「所与のアカデミックな論争の参加者が前提している『素朴で堅固』な背景知識が『素朴で堅固』に見えるのは、たまたまその論争における参加者が、背景知識の妥当性について論争していないからである」と言う主張は、少し変えて、「所定のアカデミックな論争の参加者が前提している『素朴で堅固』な背景知識も、その妥当性について論争する状況が生じる可能性を否定することはできない」とでも修正すれば、そのとおりだと思うのです。

ウィルバー・コスモロジーの大枠は志向的一般論たり得ない

 このエッセイでは、ほぼ毎章ごとにウィルバー・コスモロジーの四象限図を掲載しましたので、読者の皆様の中にはその図の様子がばっと頭に浮かぶ方もおられるでしょう。あの図からすぐわかるのは、ウィルバー・コスモロジーの大枠は、四象限と進化・発達におけるホロン階層の重なりだということです。そうしますと、四象限とホロン階層ということは、いかなる部分理論(志向的一般論およびコスモロジーに調和すると思われる何千もの仮説)に対しても背景となる、究極の志向的一般論にいずれはなるはずです。そういう意味で、四象限とホロン階層は、ウィルバーの言からすれば、「すでに合意された知識以外のものを体現しているのではない」はずです。ですが、実際にはそれらは合意された知識(志向的一般論)どころか、議論し尽くされていなかったり、あるいは論争中であったりする事柄を含んでいます。ですから、結局志向的一般論の使用という方法論は全く実現されていないのではないのか、これが私の二番目の疑問です。
まず、四象限という構造を組み上げる部分理論として、個人を代表とする個的存在に内面と外面の二つの側面が存在していることがあります。ところで、この連載では、ヴィトゲンシュタインの考えを紹介しながら、他者の内面の存在を有意味に語ることに対する疑問に触れました。日常的には、誰にも心という内面と身体という外面があるのは当たり前に思えますが、専門家には他者に内面があることに関して議論があるわけです。かなりの量引用したチャーマーズの著作『意識する心』(林一訳、白揚社、2001)でも、内面と外面の関係について最終的な結論が出されているわけではありません。アンドルー・スミスなどは、そういった混乱を避けるために、彼が提唱するウィルバー・コスモロジーの対案(ワン・スケール・モデル)では、内面象限を扱うことさえ避けています。どの個人にも、内面と外面、あるいは主観と客観という二つの側面があるということは、有力な一理論とは言えても、既に合意された、覆しようのない指向的一般論とは言い難いと思います。
また、ホロン階層の中核にある、含んで超えるという発達の仕方に関しては、やはりこの連載で様々な異論があることを指摘しました。右上象限で、原子、分子、細胞、組織、器官というような系列だけを見れば含んで超えるという素朴な発達の系列があるように見えます。左上象限でも、ピアジェの理論における認識の発達だけをみるなら、確かに含んで超えるという素朴な系列になっているようにも見えます。しかし、ウィルバーがやはり大幅に取り入れているハワード・ガードナーの理論については、含んで超えていると言えるのは認識のラインにおける発達ぐらいであり、自己や世界観などのその他のラインでの発達は、否定されて置き換わる移行構造をなすとウィルバー自身が述べています。また、右下象限で合理的社会が、下位レベルである家族・部族社会や生態系を含んで超えていると言えるでしょうか。あるいは左下象限で合理的文化が、神話的文化、呪術的文化を含んで超えていると言えるでしょうか。ウィルバー自身が、それらを、左上象限での多くのラインと同様に移行構造だと考えてさえいるのです。
ウィルバー・コスモロジーの大枠が覆し難いことにほとんど疑問を抱いてなかった頃の私は、ウィルバーが主張するように、いずれは細かいところまで辻褄を合わせられると思っていました。上下水道などの都市基盤を生態系における水循環システムが形を変えたものであるとみなし、家族・親戚制度は昔の集団/家族の段階が形を変えたものであるとみなし、地方自治体制度はやはり昔の部族/村の段階が形を変えたものであるとみなせば、それら下位の各段階が現代合理的社会に含んで超えられているとできるのではないかと考えたりしました。また、合理的文化の中にも、神話的な要素、呪術的な要素が組み込まれていて、神話的な段階の文化、呪術的な段階の文化が含んで超えられていると見なしたりもしました。そのようにつくろうことが、今でも意味のないこととは思いませんが、しかしそのためにホロン階層は、もともと想定されていた素朴さとはかけ離れたものになってしまい、志向的一般論と見なすのは困難になっていきます。逆にその含んで超えられる有様が明らかに見える、右上象限での、原子、分子、細胞、組織、器官というような系列に関しては、右下象限も融合した別の系列がスミスによって提案されていることは、すでに触れた通りです。これらのことから、ウィルバー・コスモロジーの大枠は、「すでに合意された知識以外のものを体現しているのではない」とはどうも言い難いと思えるのです。

結論

 以上述べてきたことから、志向的一般論の使用という方法論を使っているからという理由で、ウィルバー・コスモロジーに他のコスモロジーより優れた地位を手放しで与えることはできないと私は結論します(別の観点からは優れていると言えるとしても)。ウィルバーは、他のコスモロジー製作者と同様に、自身が正しいと思った考えを提案したにすぎず、その大枠が最終的に真なるものであるとするための特別な方法論的根拠を与えていないと思います。私には、次のようなマイアーホッフの批判も、ウィルバーの方法論の妥当性を判断する参考になると思えます。

全ての部分的な真理は互いに調和しなければならないというウィルバーの信念の背後に隠れているのは、全ての部分的な真理は一つの真なる世界に対応するという議論の余地ある仮定である。もし全ての科学の全ての真理が首尾一貫した全体を形成できるなら、それはそれらが何かを共通して分かち持っているからである。その共通するものが、世界であり、リアリティであり、事物があるというその仕方である。しかしながら、哲学者ネルソン・グッドマンは、世界の一つの首尾一貫した描像に融合できない矛盾する真理があるという強烈な議論をなした(訳注. Nelson Goodman, Ways of Worldmaking, Indianapolis: Hackett Publishing, 1978, pp. 2~3、邦訳『世界制作の方法』、菅野盾樹訳、筑摩書房、2008年、pp.19~20を参照して下さい)。グッドマンは、太陽の動きの例を使う。「太陽は空を貫いて動く」という言明と「太陽は静止している」という言明は両方とも真である。最初の言明は、私たちの日々の観察によって実証できる一方で、二番目の言明は、太陽系についての私たちの太陽中心的理解の土台である。一つの視点からは太陽は動き、しかし別の一つの視点からはそれは静止しているというそつのない説明は、事物を正しくとらえているように見える。しかしグッドマンは、そこで問う。全ての視点を離れての太陽の動きとは何か?それ自体においてのその動きとはいかなるものか?心は空白になる。全ての視点から独立した太陽のあり方は、私たちが言える限りにおいては一つもない。ウィルバーが仮定しているように、全ての真なる説明の首尾一貫性を保障する一つの方法があるのではない。あるいは、たとえあるとしても、私たちはそれと接触していることを立証することはできない。哲学者アンドルー・ブレイズはグッドマンの仕事を詳しく説明し、現実の世界に関して多元性があると議論した(Andrew Blais, On the Plurality of Actual Worlds, Amherst: UMass Press, 1997)。これは哲学において支配的なものではないが、しかし、この種のたくさんの議論は、私たちに、ウィルバーのプロジェクトの哲学的な土台に関わる問題を示してくれる。
(Bald Ambition, pp.171~172)

グッドマンの主張は、「あらゆる知なり理論なりには、その内容から切り離すことのできない視点があり、どの視点からも独立したリアリティを疑問の余地なく設定することはできない。この視点からはこう見え、別の視点からはああ見えるという、視点から独立した同一の何かが仮にあるとしても、それにつきあたった、あるいはそれを知る視点を持ったと断言することはできない」とまとめることができると私は思います。ウィルバーの信念は、このような議論に真っ向から立ち向かうものです。そして、彼は、首尾一貫した一つの世界があるという自らの信念に従って、その世界を表現する包括的なコスモロジーを創造しようと試みたわけです。様々な理論を眺めながら、こうなるのではないかという予想を抱き、その予想に合うように諸理論を組み合わせたわけです。その際に彼が用意した方法論が志向的一般論の使用であったわけですが、以上述べてきましたように、彼の方法論は首尾一貫しないものであり、またその方法論を彼が履行しているとは言い難いと思います。そして、方法論から離れても、彼の提示したコスモロジーには様々な整合しない面があると指摘されていること、またその指摘を克服できぬまま今に至っていることをすでにこのエッセイでは述べてきました。
そういう状況が生じるのを当初から予感していたためかどうかわかりませんが、『進化の構造』においてウィルバーは、自らのトランスパーソナルな洞察の信憑性を読者に納得させるために、自らの方法論に全く反することまで行います。彼は多くの人が大まかに正しいと考えているネオダーウィニズムを、すなわち彼の考える指向的一般論の代表としてもいいような理論を、驚くべきことに誰も信じていないと主張します。そして、多くの専門家が賛同していないホイルのネオダーウィニズム批判を正当なものであるとして取り上げ、進化をうまく説明するには、自らのトランスパーソナルな洞察に基づくコスモスの進化への意志、エロスが必要だと説きます(その顛末の詳細は、ヴィッサーによるウィルバー・コスモロジー批判を扱った第2章をご覧ください)。彼の方法論からすれば、ネオダーウィニズムが志向的一般論として成立していることこそが、エロスの存在に一致すると議論すべきだったのではないでしょうか。このように、自らの方法論に矛盾することまでしてトランスパーソナルな洞察の正しさを説こうとすることは、私にウィルバーが自らの方法論に不安を抱いていたのではないかという疑いを抱かせるのです。
トランスパーソナルな洞察とでも呼べるようなものがあることを、自分に体験がないからといって私は否定しようとは思いません。それどころか、そのような体験をし続けている事実に私は気付いてないのではないかとさえ思ったりしています。従って、そのような洞察に基づいてコスモロジーを築きあげる試みが成功する可能性も否定しません。しかしながら、そのような試みが成功することがあっても、その成功の是非に関してパーソナルな合理性に立脚して判定を下せるはずがないと思うのです。ところがウィルバーはそのような限界を打破しようとして、志向的一般論の使用という方法論を思いつき、実行したつもりになっていたのですが、それは幻想にすぎなかった。私の結論はこのようにも言えます。
私は、ウィルバーが志向的一般論の使用という方法論の鎧をまとわずに、自らのコスモロジーをトランスパーソナルな洞察につながる世界観の一案として単純に提出してくれればよかったと思います。とは言うものの、ウィルバーが首尾一貫しない方法論を主張したことなどにはこだわりを持たず、持続可能な社会を築くための基盤として提唱されている、多くのスピリチュアルなコスモロジーの中の一つとして単純に見ればいいのかもしれません。持続可能な社会を追求する人たちからは、それらコスモロジーの呼びかけの背後にあるスピリチュアルな意識に共鳴する者が少なからず現れ、彼らによって改善されたコスモロジーに合意する人々が多数派となる社会が出現することも大いにあり得ると思うからです。