第5章 ウィルバー2――前超の誤謬
意識のスペクトル理論(ウィルバー1)では、人は全てと一体化した非二元的な存在としての宇宙意識を持って生まれます。その後、原初の二元論と呼ばれる境界づけによって、非二元的な宇宙は有機体と環境に二分され、その一方の有機体に自己が同一化することで人の意識は実存(ケンタウロス)のレベルに進化します。次に有機体が精神と身体に二分され、精神の方に自己が同一化することで自我のレベルに、そして精神が、その一部を影として分化することで、ペルソナ(仮面)のレベルに進化します。
この繰り返される二元論による進化(evolution)の過程の後に、統合による意識の深化(involution)の過程が始まります。ペルソナは影と再統合され自我のレベルへと戻り、自我は身体と再統合され実存のレベルへと戻り、実存のレベルでの有機体は環境と再統合され、生まれた当初に持っていた、非二元的な宇宙意識のレベルへと戻っていきます。
このように、ウィルバー1では、人生をスタートさせたばかりの幼児と、最高度に意識を発達させて非二元的な覚りを開いた聖人とが、宇宙意識という同じレベルの意識を持つことになります。
確かに幼児も聖人も二元論的ではない意識を持つのでしょうが、幼児が自我も自我を支える言語能力も持っていないのに対して、聖人は、自我も言語能力も持っています。このように大きな違いがある両者の意識を同一視することにウィルバーは次第に耐えがたくなっていきます。そして、幼児は個としての自我意識に至っていない前個的(pre personal)な意識レベルにあるのに対して、聖人は自我も言語能力も含んで超えた超個的(transpersonal)な意識レベルにあるとすべきだと考えるようになります。意識のスペクトル理論では、この前と超の区別ができていなかったとし、その間違いを前超の誤謬(pre/trans fallacy)と呼ぶようになります。
この誤謬を克服するための新たな理論がこの章で扱うウィルバー2です。
人の意識は前個的としてスタートする
ウィルバー1(意識のスペクトル理論)では、<心>(宇宙意識)→超個→実存(ケンタウロス)→生物社会→自我→仮面(影)→自我→生物社会→実存→超個→<心>というように、意識は、仮面のレベルを折り返し点として、進化と深化の過程を辿って変容していきます(図5-1参照)。それがウィルバー2では、プレローマ→ウロボロス→身体自我(中軸的、プラーナ的、イメージ)→メンバーシップ認識→初期と中期の自我(仮面)→後期の自我(仮面)→成熟した自我→生物社会的帯域→ケンタウロス(実存)→微細(サトル)→元因(コーザル)→アートマンというように意識は変容していくと訂正されます(図5-2参照)。
図5-1 ウィルバー1における意識の変容
図5-2 ウィルバー2における意識の変容
ウィルバー1では、最初と最後に同じ非二元的な<心>(宇宙意識)があったわけですが、ウィルバー2では、最初はプレローマと呼ばれる、物質的世界に埋没した、自己と世界との境界がまったく認識されていない前個的な意識があり、最後には、アートマンという、それまでに生じた個としての全ての意識レベルを含んで超えた超個的な非二元的意識があることになります。
意識の発達には一貫した形式がある
ウィルバー1では、自己が同一化する領域が分化によって次第に狭くなっていくことで意識は進化していきます。そして進化に引き続く深化の過程では、意識はかつて脱同一化した部分を再統合していきます(図5-3を参考にしてください。白い部分は自己と同一視されている領域、灰色の部分は自己から疎外されている領域です)。つまり、意識の発達において、前半では同一性の部分化が、後半では同一性の統合が発達の形式となるわけです。ウィルバーは意識の発達は、含んで超えるという形式で進むと述べていますが、ウィルバー1では、真に含んで超えると言えるのは、後半の深化の過程のほうだけです。前半の進化の過程では、持っていたものを失っていくのです。
図5-3 ウィルバー1における発達
それに対してウィルバー2では、発達の形式は、分化―脱同一化―統合という「含んで超える」という形式に一本化されます。分化によって、新しいより高次なレベルが登場し、自己は低次のレベルから脱同一化して、新しく登場した高次なレベルへと同一化していきます。そして脱同一化された低次なレベルは放棄されるのではなく、新しいレベルの下位構造として統合され、高次のレベルから操作されるようになるのです。
例えば、物質のレベルから身体自我のレベルが分化すると、自己は物質から脱同一化して身体自我の方に同一化していきます。そして物質のレベルは身体自我の下位構造として統合され、身体自我によって操作されるようになります。同様に、身体自我のレベルから自我のレベルが分化すると、自己は身体自我から脱同一化して自我に同一化していきます。そして身体自我は自我の下位構造として統合され、自我によって操作されるようになります。このような進化の過程を表わす図5-4では、下位のレベルが上位においても含まれて存続していることを示すために、上下間の線は点線にしてあります。
図5-4 ウィルバー2における発達
以上、ウィルバー1とウィルバー2の全体的な相違について見てきましたが、次に、ウィルバー2に従って、自己感覚の発達と言う観点から、意識の発達を簡単に辿ってみたいと思います。
潜在意識から自己意識へ(プレローマ、ウロボス、テュポーンあるいは身体自我)
・プレローマ
このことには多くの方が同意されるのではないかと思いますが、ウィルバーによれば、誕生した新生児は、自己と自己でないもの、自分の身体と周囲の環境を区別できません。ここで言う環境とは物質的宇宙です。つまり新生児の自己感覚とは、周囲の物理的世界と変わりない物質的なものだというわけです(この物質的段階で自己感覚という表現を使うのには違和感がありますが、便宜上使わさせてください)。このような自己感覚を持つ自己をプレローマ的自己と呼びます。
プレローマ的自己は、物理的世界に埋め込まれ一体となっていますから、それにはこことあちらというようなギャップは無く、従って距離は存在しませんし、どんな次元の空間もありません。空間がなければ、対象物を序列的に認識することもありえませんから時間もありません。新生児のプレローマ的自己には対象も空間も時間もないわけです。
しかし、新生児は出来事には気づいているとウィルバーは言います。時空間を始めとする様々な概念を使用してほとんどの認識活動を行う私達からは、それらの概念が入り込む余地の一切ない、いかなる出来事がありえるのかと不思議には思えますが、それでも、生まれたての新生児は泣き叫んでいますから、その反応からしても、出来事に対する何らかの原初的気づきはもっているのだと思われます。もしそうだとしますと、私達の深いところに、含んで超えられた形でそのような気づきは常に働いているのだとも思います。
・ウロボロス
ところで誕生直後から、人は母親の乳首(あるいはそれに代わるもの)に吸いついて栄養を吸収するようになります。心理学の言葉では、この時期の幼児は口唇期にあると言いますが、ウィルバーは、この時期の自己感覚をウロボロス的と表現しています。
ウロボロスとは、「自分の尻尾をくわえ、自己完結した未分化な塊をなす神話上のへび」(『アートマン・プロジェクト』、ケン・ウィルバー著、吉福伸逸・プラブッダ・菅靖彦訳、春秋社、1997 以下断りがなければ引用は同書からです)のことです。この時期の幼児は、口の感覚を通して、何か自分自身の外側にあるものをほのかに認識し始めます。しかしそれはほのかであり、確たる対象として分化しているわけではありませんから、くわえているものが自分自身になっているウロボロスでこの段階を表現しているわけです。
・テュポーンあるいは身体自我
幼児は、乳首を吸うだけでなく、様々なものを見たり、聞いたり、嗅いだり、吸ったり、噛んだり、しゃぶったり、打ったり、押したりしはじめます。そしてそのたびに、気持ち良かったり、熱かったり、痛かったり等々、様々な感じを持ちます。そうしたなかで、自己感覚の発達に関連してくるような一例として、「幼児が毛布を噛む。と、それは痛くない。自分の親指を噛む。と、それは痛い」(p.44)という事態をウィルバーはあげています。
このような例に見られる、「外部触覚と内的感覚データの同時的生起によって、その人自身の身体(中軸的身体)は残りの世界とは別個の何かとなり、そこで自己を非自己と識別することが可能となる」(p.35)わけです。いま現在私たちが様々な感覚を通して自分の外側にある様々な対象を把握する能力は、このように獲得してきたわけです。
ただし、この時に持つ対象のイメージは、現前しているものだけに限られますし、自己感覚も時々刻々の刹那的なものです。またこの段階では、「憤怒、恐怖、緊張、食欲、そして満足、または単純な快楽」(p.28)といった原―感情を持ち、そのため、「快感を追求し、不快感を回避しようとする」(p.29)快―不快原則に幼児は従うとされますが、これら原―感情も持続するものではありません。
しかしとにもかくにも、「幼児は新しく浮上した身体に同一化し、その様々な感覚や感情に同一化して、しだいに大きな物質宇宙全般とそれらを区別する」(p.44)ようになり、中軸的―プラーナ的身体自我の段階に達するわけです。
中軸的―プラーナ的身体自我の段階では、現前する対象物を思い描く(イメージする)能力しかないのですが、本格的なイメージ能力を持つようになりますと、現存しない対象物を思い描くこともできるようになりますし、感情や感覚を持続的に呼び起こしたりすることもできるようになります。こうして、「感覚運動期の終わりにかけて(二歳前後)、子供はかなり安定した“対象の恒常性”のイメージをもつところまで自己と非自己を区別するようになっており、その上で筋肉を使ってそれら対象物に物理的な操作をくわえられる」(p.45)ようになります。そうして、安定した統合された身体と言う「身体イメージ」を持つようになり、自己感覚は身体自我段階の最終局面に達します。その際、「イメージされた、したがって持続された恐怖」である不安と「イメージされた快感」(p.40)である望みとをもつようにもなりますから、単純な快―不快原則から、願望達成と不安縮減という志向も発生するようになります。
しかし身体自我としての自己は、いまだ、「強い本能的欲求、衝動性、快感原則、不随意的欲求と放出など」(p.45)の支配下にあります。物理的対象を操作できるようになったとは言え、生物学的身体には拘束されているわけです。この拘束を表わす意味もあって、この段階は半人半蛇の神話的存在の名を取り、テュポーンと呼ばれているわけです。
自己意識の発達(メンバーシップ認識、仮面、成熟した自我、生物社会)
・メンバーシップ認識
イメージを使って対象を捉えていた幼児は、やがて言語を習得し始めます。言語は人の集団で使われているコミュニケーションの主要な道具で、そこには集団の世界観が埋め込まれていますから、言語を使って様々なことを認識することは、人の社会という集団のメンバーとして認識することでもあるわけです。こうして幼児は、言語で支えられたメンバーシップ自己を持つようになります。
ところで、言語には名前が含まれていますが、名前はシンボルの代表です。身体的自我のレベルでは、イメージで対象を捉え、イメージは対象と似ていました。それに対して、シンボルは対象と似ている必要はありません。そのため、シンボルを使用しますと、イメージ以上に、対象が現前していなくてもそれを思い浮かべたりできる能力が向上しますし、シンボルという代替品を操作することで、対象の操作を予行することもできるようになります。また、言語には類概念も含まれていますから、人は個々の対象、例えばある特定の馬を名指すだけではなく、馬一般と言う類を指摘することもできるようになります。そしてまた言語には構文法も時制も含まれています。そのため、出来事を時系列に従って、因果的に順序立てて捉えていけるようにもなってきます。
・仮面(初期・中期・後期自我)
こうして人は、身体を自己感覚として持っていても、その身体は、イメージではなく名前で指示され、時制を通じて存在する一貫性のあるものとみなされるようになります。こうして身体感覚から分化した心的自我が徐々に姿を現し、自己はそれに同一化していきます。これが概念的自己、初期自我(4~7歳)の段階です。
言語で培われた概念による自己把握はさらに進み、自身を、例えば子供であるとか男であるとか、社会における役まわり(ペルソナ)で把握する傾向が次第に強まります。こうして中期的自我(7~12歳)の段階にいたります。この段階では、概念を用いて物理的、生物学的な具体的世界を操作できるようになります(具体的操作)。
このように人は、初期、中期的自我の段階を通じて、この具体的な世界の中で、様々な性格や役割(ペルソナ)を持った存在として自己を捉えるようになり、脱同一化した身体感覚をコントロールすることで、衝動的、本能的ではなくなりますが、さらに、自分自身の具体的思考さえも操作できるようになります。自らの身体も含む、物理的、生物学的対象を扱うのに使っていた、形式的・言語的な概念自体をも操作できるようになるわけです(形式的操作)。例えば、二値論理学で操作され、真であるとか偽であるとか判断されるのは、命題という概念です。
このように、概念自体を扱えるようになりますと、それまで子供が同一化していた、具体的世界から抽出したいくつかの適切なペルソナ(たとえば「おとなしい良い子」など)から脱同一化し、それまでは抑圧されていて影(シャドウ)になっていた様々な可能なペルソナ(例えば「健康な活発さ」や「自己主張」のペルソナ)も考慮することができるようになります。こうして、初期、中期よりもさらに人は仮面的存在として充実していき、後期自我段階(12~21歳)に至ります。
・成熟した自我と生物社会的帯域
こうして、初期、中期、後期自我段階を通じて、言語を中心とする心的なもので様々な自己の側面を捉えてきたわけですが、それら多様な諸側面、諸ペルソナを統合する、思考する私という成熟した自我が現れます。これは仮面の自我ではありません。さまざまな側面を持った私を反省的に捉え、それら側面を統合する、デカルトの「我想う故に我あり」の我、近代的自我といわれるような自己です。この自己のもと、影になっていた側面も含んだ様々な可能なペルソナを統合して、社会的にスマートに適応するようになった自我が実現します。これが成熟した自我です。
成熟した自我の段階と次のケンタウロスという段階の間に生物社会的帯域があります。この帯域について、ウィルバーは次のように述べています。
この境界線――成熟し、社会的に適応した自我と、本来のケンタウロスとの一般的境界線――を、わたしは<生物社会的帯域>と呼ぶ。<生物>は“身体”(テュポーン)を表わし、<社会的>は“メンバーシップ”と“メンバーシップ的諸概念”を表わす。すなわち、生物社会的帯域はメンバーシップ的認識と粗い(グロス)身体性の上限を示し、それを超えたところには、…因習的、自我的、制度的、社会的形態を超越した存在領域が広がっているのである。同じ理由によって、生物社会的帯域を超えた自己および存在の領域は、超言語的、超概念的、超社会的な傾向をも示す。(p.122)
生物社会的帯域とは、個としての発達において順に現れた、身体的自我と成熟した心的自我の両者が、脱同一化されたものとして同等に目の当たりに現れ始める段階です。
実存から超個へ(ケンタウロス)
意識が言語的な自我―心を超越し始めるとともに、それはほとんど初めて、自我―心と他のすべての下位レベルとを統合できるようになる。つまり、もはや意識がそれら諸要素の内どれか一つと独占的に同一化していないために、それら全てが統合できるのである。身体、ペルソナ、影(シャドウ)、自我――すべてが、より高次の統合へと導かれる (p.98)
身体と心が統合されるこの段階には、身体を象徴する獣と心を象徴する人との両者が合わさった、半人半獣のケンタウロスという神話的存在の名前がつけられています。
ところで、コミュニケーションの道具である言語に支えられる心的自我は、世界と不可分な世界内存在です。また、それと統合される身体的自我は、含んで超えてきたという歴史性を人に思い起こさせ、認識させます。そのため、ケンタウロス段階の自己は、世界とも自らの形成の歴史とも不可分な、極めて包括的な全的個であることを自覚することになります。言わば、個としての成長の頂点に至っているという自覚をもちます。そうして、社会に適応した成熟した自己を超えて、自らの内発的判断で、全的個としての全ての可能性の中から、最も意味ある人生を選択していこうという自己実現欲求を持つようになります。
しかし、このように世界や歴史と不可分な全的個として自己を自覚するということは、個であるということ自体から脱同一化し始めていることを意味するのではないでしょうか。ウィルバーはオーロビンドの次のような言葉を引用しています。
ふつうの人間は自分自身の外側、自分の意識の外部にある世界と触れながら、心と諸感覚[粗い心身]のなかで生きている。意識が微細化すると、それははるかに直接的に事物と接触するようになる。つまり、事物の形や外面的影響だけでなく、それらの内部にあるものとも接触をもつようになる。……まず世界内の広範な事物の宇宙と直接的接触を持ち始め、次にはいわばそれらを内包する――自分自身のなかに世界を見るといわれるように――形になり、ある意味でそれと同化するようになる。自己の内に万物を見、万物の内に自己を見る……これを普遍化(宇宙化)という。(pp.141~142)
こうして、ケンタウロスから超個のレベルへと、自他を、そして万物を統合するようなレベルへと、意識の発達は継続していきます。
自己超越へ(微細(サトル)、元因(コーザル)、アートマン)
・下位微細(星気体的(アストラル)―霊的(サイキック))自己
自己超越の最初の段階は微細と呼ばれますが、それはさらに下位と上位とに分けられています。下位微細の意識は、星気体的―霊的と言われます。
意識の発達を振り返ってみますと、自己が物質的環境から脱同一化し、身体自我に同一化しますと、それは身体を使って、物質的環境を操作できるようになりますし、自己が身体から脱同一化し、自我(心)に同一化しますと、それは心特有の概念や構文法などを使って、身体とその周囲の世界に働きかけられるようになります。同様に、下位微細において、自己が自我からも脱同一化し、より高次の微細自己に同一化していきますと、「それは微細自己独特の構造(サイ、シッディ)を用いて心と身体と世界に働きかけられるように」(p.176)なります。そのため、体外離脱、サイコキネシス、テレパシーなどの超能力を持ったりします。
これらの能力は確かに個を超えています。体外離脱でも、サイコキネシスでも、個の身体を超えたところにその意識が及ぶわけですし、テレパシーでは、他者の心にさえ意識が及ぶわけです。私自身はこれらの能力を持っていませんから、その存在について強く主張はできません。ただ関連してよく思い出すのは、評論家の立花隆氏がキューブラー・ロスにインタビューしたときの話です。
それにしても、彼女がついこの間体外離脱してプレヤデス星団に行ってきたといいだしたときにはびっくりした。思わずまじまじと彼女の顔に見入ってしまった。あるいは彼女がこの問題についてそれ以上話そうとしなくなったのは、それが原因かもしれない。彼女は、この男は私の話を信用していないようだと素早く感じ取ったのかもしれない。(『臨死体験 上』、立花隆、文芸春秋社、1994、p.440)
そうして、彼は、体外離脱を夢ないし入眠時幻覚ではないかと考えます。意識の発達に関して、超個的レベルをまともに取り合おうとしなければ、そのような解釈に落ち着くと私も思います。しかし、超個的なレベルへの発達の可能性を認めるなら、キューブラー・ロスのように優れた論理的思考力と確立した自我を持つ人が言うことに、ある種の信憑性を認めざるを得ないと私は考えます。
ところで、このような能力を持ち得る意識領域自体が自覚の中に浮上してきますと、「さまざまな高次の元型的ヴィジョン、音、光明がわき起こってくる」(p.214)とウィルバーは述べています。そして、上位微細のレベルに達します。
・上位微細自己(元型的神性、上層自己、上層心)
わたしはただ、この領域が普遍的かつ一貫して、高次の宗教的直観的と文字どおりの霊感(インスピレーション)の領域、ビジャマントラと象徴的ヴィジョンの領域、青と白と金色の光の領域、めくるめく輝きと啓示を耳にする領域として語られているとだけ述べておこう。これは、より高次の諸存在、案内者(ガイド)、天使的存在、イシュタデーヴァ、デャーニ・ブッダ(禅定仏)達の領域であり、それらの存在はすべて…われわれ自身の存在の高度な元型的(アーキタイプ)形態にほかならない。(p.147)
とウィルバーは上位微細について述べます。
個を超えた領域は、自分の源であると同時に、自分以外の諸存在の源でもあります。そのような大いなるものを、この上位微細のレベルでは、私達が持つ自身の根源的イメージである、案内者、天使などの元型的形態で捉えるということです。しかし、案内者、天使というように捉えると、それは自己に対する他という捉え方をしていることになり、自分自身ではないようにも見えてきます。自分自身として、あるいはその源としてその大いなるものを捉えるときには、それらは、通常の心および自己から分化した、<上層自己(オーバーセルフ)>ないし<上層心(オーバーマインド)>と呼ばれます。
・下位元因自己(最終神、すべての元型的形態の点源)
微細領域において、自己は元型的神格のなかに溶解する(イシュタデーヴァ、イーダム、禅定仏などとして)。下位元因領域に入ると、今度はその神格―自己が、みずからの根源であり本質である最終―<神>のなかへと消え去る。(p.159)
とウィルバーは述べています。
元型的神格には様々な形態があるわけですが、全てが共有する根源に様々な形態があるということはないわけですから、それらはさらなる根源、最終神あるいは点源とよばれるものに収束していきます。
・上位元因自己(<形なき自己実現>、超越的<目撃>)
次にここ上位元因領域では、その最終神―自己が、同様にそれ自身の初源基盤へと還元される。<無形性>のなかへと溶け去るのである。一つ一つのステップは意識の増大であり、また<自覚>の強化であって、それは最後に一切の形態が<無形性>の内の完全かつ根底的な解放へと回帰するまで続いていく。(p.159)
前回ウィルバー1のところでも述べましたが、具象的であろうが抽象的であろうが、全ての形あるものは境界づけられることで現れてくるのだとしますと、全てには境界づけられて浮かび上がるための共通の基底があることになります。例えば、黒板に境界線を引き、二つの領域に分けたとしても、境界づけの基盤となる分かち難い黒板の面がなければならないわけです。そういう意味で、存在は根本においては切れ目のない全体、空ということになりますが、この切れ目のない基底には、形はありません。<無形性>のなかへ溶け去るということは、切れ目のない全体としての自己、すなわち基底に気づくということなのです。
・最終的変容(アートマン)
自己は基底と一体化することで、世界の一切の現象を超越的に<目撃>するわけですが、しかし、目撃される一切の現象自体が実は基底のありのままの姿であるわけです。基底が世界と言う在り方以外の在り方をしているわけではありません。このようにして、「世界からの超越ではなく、世界としての最終的な超越」(p.163)が達成されます。
かくして、自己の中心は<元型>であることが明らかになり、<元型>の中心は最終―<神>であることが明らかになり、最終―<神>の中心は<無形性>であることが明らかになったように――<無形性>の中心は全<形象>世界以外の何物でもないことが明らかになる。もっともよく知られた仏教経典である『般若経』はいう。「色即是空、空即是色(形象は空性にほかならず、空性は形象にほかならない)」。(pp.162~163)
そうしてこの<意識>は、「世界を“操作する”のではなく、ただ全世界のプロセスとして“働く”ばかりとなり、上下、聖俗の別なくあらゆるレベル、領域、段階を統合し、融通しあう」(p.164)ことになります。
人の意識は前個的としてスタートするが、全てのレベルを深層構造として持つ
以上、ウィルバー2における、意識の発達論を駆け足で辿ってみました。繰り返しますが、ウィルバー1では、最初と最後に同じ非二元的な<心>(宇宙意識)があったわけですが、ウィルバー2では、最初はプレローマと呼ばれる、物質的世界に埋没した、自己と世界との境界がまったく認識されていない前個的な意識があり、最後には、アートマンという、それまでに生じた個としての全ての意識レベルを含んで超えた超個的な非二元的意識があることになります。
ここで、誕生時の幼児の意識は、前個的なものなので、個的レベルの自我や超個的レベルの覚りの意識と全くかかわりがないように考えてしまいますと、ウィルバー2を理解し損ねることになります。
たしかに生まれてしばらくの間は、人はネズミやトカゲやカエルや魚と同じように、自我からも覚りからもかけ離れた意識をもっているかもしれません。しかし、すでに生まれた時点で、人であれば、もし順調に成長したならば、自我を持てたり、あるいは覚れたりするような可能性があるはずです。それに対してネズミやトカゲやカエルや魚には、そのような可能性はないようです。
脳の構造などにしても、生まれた時点で、機能しているかいないかは別にしても、人には複合新皮質がありますが、ネズミにもトカゲにもカエルにも魚にも、人のような複雑な脳の構造はありません。これは、意識の可能性の相違に関する外面的な表れであるように思われます。
このような考察からすれば、生まれた時点で、潜在的には、人にはより多くの可能性があるということで、ネズミやトカゲやカエルや魚とは異なった意識を持っていると言うべきではないでしょうか。
ウィルバーの考えでは、人として生まれた時点で、その後の発達において出現する可能性のある全ての意識レベルが、すでに深層構造として存在していることになります。これは発現的深層構造と呼ばれます。受精卵の時点で、人のDNA遺伝子には肉体的な発現可能性に関する情報が書き込まれています。発現的深層構造は意識面での遺伝情報のようなものだと捉えればよいと思います。そうしますと、幼児の意識は前パーソナルにすぎないと言っても、深層構造まで含めれば、全てのレベルが潜在的にはあるわけです。この発現的深層構造を含むように図5-4を描き直しますと、図5-5のようになります。灰色の部分が発現的深層構造の未発現の部分を示しています。
図5-5 発現的深層構造も含んだ発達のモデル
発現的深層構造を形成する過程がある
しかし、人は生まれた時点で発現可能な深層構造を持っているとするなら、その深層構造はいつつくられたかということを説明しなければなりません。ウィルバーは『チベット死者の書』に書かれていることを、それについての説明の一例として紹介しています。この説明は輪廻転生を前提としています。
人は死後、バルドと呼ばれる状態において、生きている間に含んで超えてきた各意識レベルの発現内容を忘却し、しかしそれは全くなくなってしまうのではなく、その構造は無意識化されて深層構造として残ります。この過程が図5-6の下側に書かれています内化(involution)と呼ばれるものです。
ウィルバー2の意識の変容は、より正確には、図5-2にこの内化を付け加えることで図5-6のように表わされます。生まれ変わった後、この深層構造を持つからこそ、諸動物とは違って、人には覚る可能性もあることになるわけです。
図5-6 深層構造も含む意識の変容
この説が正しいかどうか私には全くわかりませんが、人が現実に持っている意識発達の可能性を説明するためには、内化に相当する何らかの過程を設定すべきだとは思いますし、またもし意識の過程に物理的な過程が伴っているとするなら、この忘却の過程には、私達の肉体的発達の原点である有精卵がつくられるまでの、両親の出会いとそれに伴う精子と卵子の結合などの物理的過程が伴っているのかもしれません。なお、内化はinvolutionの訳語ですが、同じinvolutionという語が、ウィルバー1では「深化」と訳され、再統合の過程という全く異なる意味を持っていました。ウィルバー1とウィルバー2の間では、「心mind」や「ケンタウロスcentaur」など、同じ語に対し異なる意味が付与される例があります。
意識にはラインあるいはストリームと呼ばれる様々な発達の側面がある
優秀な科学者であれば、合理的な世界観を持ち、民族主義や利己主義にとらわれることはないと思われますが、民族主義的な優越性を抱く科学者や、あるいは自らの名誉に利己主義的に執着する科学者も歴史上いたようです。ウィルバーはそのような代表例として、ナチスに心から賛同して加担した科学者をあげています。また、覚ったと言われるような人であれば、その超個的な観点から、あまねく存在に慈悲の気持ちを抱いておられると思われますが、そのような人の中にも、やはり民族主義や私利私欲に執着しているとしか思えない行為を取られた方もおられたようです。
含んで超えて意識は発達するのだとすると、高次の意識レベルに達した人であっても、低い意識レベルも持っていますから、当然それらが活性化されることはあるのでしょうが、それは、すでに獲得されたより高次の意識によって、ある程度コントロールされて行われるのだと思われます。しかし、今述べましたように、高い意識レベルにあると思われる人が、人間性のある側面においては、コントロールできないままに低いレベルの意識を活性化しているとしか思えない事例があります。
このような事例を説明するために、意識発達には多様な側面があり、それら諸側面は相互に独立しているのだとウィルバーは考えを進めます。そして、それらの側面をライン(line)あるいはストリーム(stream)と呼び、新しい意識発達のモデル、ウィルバー3がつくられます。これが次回の主題です。