第1章 伝記編――自己実現へ

内面の発達に対する共感と感動

 映画『マイ・フェア・レディ』でオードリー・ヘップバーンが演じたヒロインのイライザは、ハイティーンらしき花売り娘で、強烈になまったロンドンの下町英語を話します。そして、その日その日の生活の糧になるお金を稼ぐことできゅうきゅうとしています。
ある雨の夜、いつものように町で花を売っていた彼女は、レックス・ハリソン演じる音声学の権威ヒギンズ教授と出会います。彼は様々な英語のなまりを探索収集している最中でしたが、「もし上流階級の正統的な英語を話すことができるようになれば、高級ブティックの店員になることだってできるぞ」と、イライザに夢のような可能性を示唆します。その示唆が、彼女の内面でこれまでまどろんでいた何かを活性化し、心の中で希望の鐘を鳴らします。
このとき彼女の内面で活性したのは何でしょう。認識能力に関するピアジェの発達論によれば、人は形式的操作と呼ばれる、様々な可能性を心に並べて眺め渡すことを可能にする能力を獲得できるそうです。それは、親の階級、職業、経済力によって将来のあり方が決まってしまうのに身をまかせることなく、それらの所与の条件から独立した自分の様々な可能な将来像を筋道立てて考え、自主的に自らの未来を選択していくのに必須な能力です。そのような高度な能力が、彼女の内面で、ヒギンズ教授の示唆をきっかけに目覚め始めたと私は解釈します。
結局イライザは、ヒギンズ教授の特訓を住み込みで受けることになり、苦闘の末、上流階級の英語を話せるようになるのですが、その時、自らの将来に関する可能性が現実味をもって眼前に広がり、理性を持つことの喜びが彼女の心に満ち溢れることになります。そして「私は一晩中でも踊れたわ( I could have danced all night )」と、ベッドの上で、あの誰でも聞いたことのあるメロディーに乗って歌い始めます。
ピアジェの考えに従えば、私達は誰でも、大人になる過程で形式的操作という認識能力を活性化させることになります。そして、その能力を自らの未来に適用することで、イライザの場合ほど顕著ではないにしても、同質の解放感を味わうことになります。私がこの映画に感動したのは、そのような自らも体験したはずの感覚を、ドラマティックに構成されたイライザの物語を見て無自覚的に再確認し、人間の内面的な発達の過程に肯定的に共感したからだと思うのです。
『マイ・フェア・レディ』では、その喜びに至るまでの苦闘も描かれていますし、また喜びの後に待っている、理性の段階に特有な「自己同一性の危機」の状況も描かれていますが、私は、何にも増して、理性を持つことの喜びの描写に共感と感動を覚えました。
ところで、このエッセイでは、まずウィルバーの人生を簡単に辿っていくことになります。そこでは、理性のレベルから実存のレベル、そしてトランス・パーソナルなレベルへと彼の内面が成長していく様子を認めることができます。先ほど私はイライザに共感できたことを述べましたが、ウィルバーの成長の過程にも、私は共感と感動を覚えることができました。それを読者の皆様に少しでもお伝えすることができればと願いつつ、このあと書き進めていこうと思います。
ただし、叙述の力点は、成長の喜びよりも、「自己同一性の危機」を潜り抜け自己実現するまでの苦闘、そして「実存の危機」を克服しトランス・パーソナルなレベルへ意識の重心が移行する際に待ち受けていた修羅場におくことになります。

主として参考にした文献

 話を進める前に、ウィルバーの人生をたどるのに、主として参考にした文献に触れておきます。
ウィルバー自身が私的な出来事に焦点をあてて書いた作品には、全集第二巻( The Collected Works of Ken Wilber Volume Two, Shambhla, 1999 )所収の “Odyssey”(1978)というエッセイと, 『グレース&グリット 上』および『グレース&グリット 下』(ケン・ウィルバー , 伊東 宏太郎訳 1999、原著は Grace and Grit, 1991 )、『ワン・テイスト 上』および『ワン・テイスト 下』(ケン・ウィルバー , 青木聡訳、コスモス・ライブラリー、2002、原著はOne Taste 1999)という一連の著書があります。これらが、彼の人生をたどるための、最も基本的な資料となりました。それ以外に参考にしたものとしては、サングラハ教育・心理研究所、岡野守也主幹の『トランスパーソナル心理学』(青土社、2000)、『自我と無我』(PHP新書、2000)、オランダ人Frank Visserの Ken Wilber: Thought As Passion, State University of New York Press, 2003 、原子炉技術者Lew Howardの Introducing Ken Wilber, AuthorHouse, 2005 、「インテグラル・ジャパン」のホームページにある、鈴木規夫氏の『ケン・ウィルバーの紹介』と与謝野務氏の『ケン・ウィルバーについて』、そしてWikipediaのKen Wilberの項目などがあります。
どんなに平凡に見える人でも、実際には大変多様な側面を持っていますから、その人となりをある程度まで描写するには、多くの視点から眺める必要があります。ウィルバーのように傑出した人物であれば、なおのこと多くの視点から眺めることが必要になると思います。ですから、もしこのエッセイを読んでいただき、彼に興味を持たれるようでしたら、上述しました諸文献もご自身でお読みになられることを強くお勧めいたします。

極めて優秀な生徒

 ケン・ウィルバー(Kenneth Earl WilberⅡ)は1949年1月31日に、アメリカ合衆国オクラホマ州オクラホマシティーに生まれました。
ウィルバーの父親は空軍で働いており、数年ごとに基地から基地へと移動していたそうです。そのためウィルバーは、例えば高校を終えるまでの4年間に、4つの異なる学校に在籍することになりました。そのような度重なる転校歴にもかかわらず、彼は生徒会(school body)の活動的なメンバーになり、生徒会長に二度選ばれたというのだから驚きです。また、フットボール、バスケットボール、バレーボール、体操、トラック競技にも優れ、それらで活躍することで人気者になることも楽しんだようです。そうして、最高の成績を収めた例外的に優秀な生徒として、卒業時には総代のスピーチをしたといいます。当時を振り返って彼は次のように述べています。

誰もが僕を愛すべきだと考えて、誰かそうじゃない奴がいると、不安になるのさ。だから子どものころの僕は、気が狂ったようにそれを過剰補償したものだよ。級長とか卒業生総代とか、フットボール・チームのキャプテンになったりしてね。受け入れられることを求める狂気の踊り、みんなにぼくを愛してもらおうと、求愛のダンスを踊ってた。拒絶されることに対する恐れ。‥‥ぼくは心を開放して、過剰に外交的になったんだよ。(『グレース&グリット 下』、p.32)

そしてこのような状態を、古典的な不安神経症であったと自身で診断しています。
この頃、彼の最大の情熱が向けられていたもの(これをウィルバーはダイモンと呼んでいます)は、明白なことの論理的な探究、すなわち自然科学(物理学、化学、生物学)と数学でした。
理性を支える認識能力は先述しました形式的操作ですが、数学的に言えば、順列や場合という事柄が理解できる能力です。与えられた条件のもと、考え得る全ての可能性を論理的に並べあげていける能力です。眼の前に現れている自然界にその能力を適用すれば、様々な法則性を見て取ることができます。
ウィルバーによれば、形式的操作より高度な認識能力に、ヴィジョン・ロジックと呼ばれるものがあります。この能力では、様々な可能性を並べたてるだけでなく、それらを統一的にまとめ上げることができるようになります。数学的に言えば、順列や場合の全てを統一的に眺め、統計学的に全体を把握する能力になるのでしょう。アインシュタインの一般相対性理論などは、宇宙全体の時空構造を扱うわけで、ヴィジョン・ロジックを自然界の物理的レベルに適用して得られる最高度の科学理論だと言えます。
度重なる転校などものともせず、極めて優秀な成績を修めたり、賞をもらったりしていたことからすると、ウィルバーは高校生の頃より、形式的操作とヴィジョン・ロジックの両者に大変長けていたのだと思われます。そして、スポーツ選手が肉体的能力を最高度に働かせて競技するように、彼は形式的操作およびヴィジョン・ロジックの能力を自然科学や数学の領域で最高度に発揮していたのでしょう。ただ、それら高次の能力を、人文学的な面に適用するということには、それほど熱心ではなかったようです。
こうして理科的な分野で才能を発揮しながら、その一方で、高校後期から大学初期までは、ビールをよく飲み、女の子のことが頭から離れないような状態で、典型的なタイプの若者としても、人生をエンジョイしていたようです。

自己同一性の危機と実存の危機

 1967年、18歳の時に、ウィルバーはデューク大学医学部進学コースに入学します。そして、先ほど述べましたように人生をエンジョイしていたようですが、1969年、20歳のとき、医学の勉強は配管工をちょっと上等にしたような仕事であり、創造の喜びに欠けると判断し、デューク大学医学部進学コースを2年で中退し、長い髪で帰郷します(Boomeritisより転載の写真参照)。当時両親はネブラスカのオマハ郊外、オフート空軍基地に駐在していました。ベトナム戦争時の徴兵を避けるためもあり、彼はオマハのネブラスカ大学に入学し、生化学を学ぶことになります。新しい発見があったり、新しい理論がつくられていたりして、医学より生化学の方がより創造的だという考えが彼にはあったようです。
この頃、それまでの信念体系が土台から崩されたと彼は言います。それは、ある日突然、これまでの自分から離れる時がきたと気づいた感じであり、動揺も苦さも涙もなく、単純に不幸せ、Sourであり、それ以上でもそれ以下でもなかったと彼は回想しています。
「自分とは何か」という問いに、深く形式的操作の能力を適用して考えさえしなければ、自己はその時自分が得ている表面的な役割などに同一化しています。私は学生である、会社員である、父親である、夫である、母親である、妻である、などなどと。ところが、形式的操作を「自分とは何か」という疑問にまともに適用すると、自分は現に得ている役割以外の別の様々な役割も持ち得ると、可能性を見て取れますから、役割と一義的に結びつけることはできない、それからは独立した自由な自己(自我)を見出すことになります。そのため、では役割で自分が定義できないのなら、一体自分は何者なのかと問い続けることになり、それが答えられないままになると、自らの同一性も、人生の意味も見失い、「同一性の危機(アイデンテティー・クライシス)」や「実存の危機」に陥ったりするわけです。
以前のウィルバーは、科学に夢中になること、飲んで騒いだり、女の子に夢中になることで、それらの危機はいまだ表面化していませんでした。しかし、あるとき『老子』を手にし、その第一章を読みながら立ち続けたそうです(The Collected Works of Ken Wilber Volume Two, Shambhla, 1999, p.15にその文章の一部が引用されています)。
このときウィルバーは、科学と極端に異なる、自分からは遥かに離れた世界を認めることになります。古代の賢人の精神が、彼の内面の深いところの琴線に触れたわけです。科学は、「私とは誰か」、「人生の意味は何か」、「なぜ自分はここにいるのか」という問いに解答を与え、アイデンティティ・クライシスや実存の危機を克服させてくれるものではなかったのです。
それでウィルバーは、周囲の友人、家族などの心配をよそに、東洋の哲学と宗教、西洋心理学と形而上学について、一日8~10時間、とりつかれたようにむさぼり読むという、孤独な読書と研究の日々を過ごすことになります。それは、「不安、酸っぱい人生、不幸な自我、本質的に無常、非実体、痛みである自我」(The Collected Works of Ken Wilber Volume Two, Shambhla, 1999, p.21)などで特徴づけられる実存の現実からの解放へいたる長い道程の第一歩となります。
1971年、22歳の時、彼は優秀な成績で卒業し、化学と生化学の学士を取得し、ネブラスカ大学(リンカーン)での生化学の奨学生の資格も得ます。そして大学院へ進学するわけですが、すでに科学はウィルバーにとって夢中になれるものではなくなっていましたから、生化学の講義をさぼり、所属する研究室での課題をうまくごまかして学生生活を続けることになります。そして生化学の模擬授業の代わりに「リアリティとは何か。そして、いかにして我々はそれを知りうるか」(『グレース&グリット 上』、p.20)という講義を2時間してしまい教授たちから顰蹙を買ったりもします。
そんな状態で、しなければならないという感じで、心理学、セラピー、宗教、哲学の、西洋と東洋の様々な学派の概念的統合へと突き進みます。結局大学院はマスターで終えて離れることになります。一方で禅への傾倒は著しく、毎日3時間の瞑想、月1回全日の瞑想をしていたそうです。そして皿洗いの仕事などで月に350ドルを稼ぎ、そのうちの100ドルでシャンバラ出版社から本を買い、残りでアパートの家賃や生活費をまかなっていたそうです。

自己実現―ダイモンの発見

 1972年、23歳のころ、家庭教師もしていたウィルバーは、エイミーという生徒に出会い、一年同棲した後に結婚します。
1973年、24歳のとき、精神分析(フロイト)、禅(仏教)、行動主義、実存主義(キルケゴール)などなどの各学派は、異なるアングルから異なるレベルを見ていると考え、いよいよそれらの統合が成就することになります。特に意識においては、パーソナルとトランス・パーソナルの二つの大きな領域があると考え、いわばそれら領域の地図製作(cartography)を行うわけです。老子との出会いから4年が経過したこの年の秋、ウィルバーは統合の成果である『意識のスペクトル』を書き上げます。この時の状況について、彼は次のように述べています。

「何をしたいのか、なぜそうしたいのか、なぜここにいるのか、何を達成しようとしているのかを理解していた。執筆をしているときには、より高次の自己を表現しているのであり、疑いや引け目を感じることはなかった」「23歳のとき、ぼくは我が家にたどりつき、自分自身を見出し、僕の目的、僕の神を見出した」(『グレース&グリット 上』、p.102)。

これは、アイデンティティ・クライシスを克服し、自己実現を成就したのだという宣言です。ウィルバーのダイモンは執筆であるとはっきりしたわけです。
ここで、自己実現ということを、ウィルバーの発達論における自己の発達という観点から、一度明確にしておきたいと思います。
理性以前の神話的段階においては、自己は役割と同一化する傾向にあります。ところが、先述しましたように、理性の段階において、人は様々な可能性を見ることによって、役割から自由な自己である自我を見出します。ただ、その自己の解放において、理性以前の神話的な意識段階で同一化していた役割を含んだ上で超えないと、逆に自らの同一性を見失ったり、人生の意味を見失ったりして、アイデンティティ・クライシスや実存の危機が生じます。しかしその時、自由な自我が、自らの様々な可能性の中から、自分の使命と思えるような役割を見出し、自らの責任のもとでそれに従事し、しかもその行為が、理性のレベルの人が当然持っているだろう世界中心的な世界観(普遍的な人権を基盤とする道徳観)において、自他共に利をもたらすようであれば、自己実現を成就したと言えることになります。
このとき、アイデンティティ・クライシスは克服され、実存の危機もある程度まで克服されます。横道に少しそれますが、最近よく、二世議員ということが否定的に言われることが多いようです。確かに、世襲と言う流れだけで二世議員になったということであれば、望ましいことではないと思います。しかし、一度実存としての自らの在り方をしっかりと確認し、そのうえで政治家と言う役割を自己実現的に選んだのであれば、二世であることなどは問題ではなくなると思います。
話を戻しますが、確かにウィルバーはこの時期に自己実現を成就したと言えるでしょう。しかし、自己実現だけでは、実存の危機は克服できません。人生の意味を獲得するという部分は克服されても、そのすばらしい自分が死ななければならない有限な存在であるということが、そしてその死に対する本来的な不安が相変わらず残されます。この不安は、もし個人性を超えるレベルへと発達できれば(自分を超えることができれば)克服できそうですが、ウィルバーは、そのための道筋をすでに用意していました。彼の理論自体が個あるいは自我を超えるトランス・パーソナルなレベルを含むものであったわけですし、そのレベルへ達するために、座禅などの実践をも初めていたからです。
1977年、28歳のときに、The Spectrum of Consciousness (『意識のスペクトル1』『意識のスペクトル2』、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、1985)が出版されます。ウィルバーはレクチァーやセミナーをするようになり、人々は、いかに彼が卓越しているのかを語るようになります。それが一年ほど続いた後、彼は昨日書いたものについて講義をするか新しいものを書くかについてためらいを捨てます。会議に行くことをやめ、教えることをやめ、インタビューを受けることをやめ、大学の職も断ります。著述こそが彼のダイモンなのです。
瞑想(スピリットの修練)、著作と思考(心の修練)、肉体労働(肉体の修練)は、スピリット・心・肉体全てのレベルに調和を与えました。特にガソリンスタンド員、皿洗い、八百屋の店員として、それらの仕事で何とかして暮らしている人々と共に過ごしたことは、本や大学では得られないものをウィルバーに与えてくれたそうです。そうして、自由な雰囲気の中で、『意識のスペクトル』の通俗版であるNo Boundary (『無境界』、吉福伸逸訳、平河出版社、1986)は書かれることになります。

理論上の危機

 『意識のスペクトル』は意識の基本構造を描いていて、グロフやヒューストン・スミスの仕事同様、よくできた地図ではありますが、ヘーゲルがカントを批判して述べたように、意識の動力学的な発達に関する感性に欠けているとウィルバーは自省します。そこで、発達の動力学的要素を取り入れたThe Atman Project (『アートマン・プロジェクト』、吉福伸逸・ブラブッダ・菅靖彦訳、春秋社、1997)の著作を始めます。
ウェルナー、ピアジェ、コールバーグら、構造主義者たちの研究による西洋心理学では、幼児や新生児においては、主体と客体、自己と他者、内側と外側が一つの状態にあります。それに対し、東洋および西洋の神秘的伝統においては、究極の状態は主客の融合あるいは非二元です。この二つの関係を、基本的に同じと見ていたのが『アートマン・プロジェクト』の初稿でした。そこでは発達の全過程は次のようなUターン構造になっていました。

無意識のトランス・パーソナルな融合union(パラダイス的)

意識的な、分割され、疎外されたパーソナルな自己

最終的なトランス・パーソナルな融合unionである意識的な全体
(この上なく幸せなパラダイス、もとに戻る)

 しかし、このUターン構造は何かおかしいぞとウィルバーに思わせ、理論的に困難な時期に立ち至ることになります。おかしさを正そうとすることに肉体的な痛みまで感じ、内面的には、知的な意味でモーターを空回りさせているようであったと述べています。もし肉体労働に携わらず、座禅をすることもなければ、暴力的なことをあちこちでしていたかもしれないと回顧しているほどの状態でした。神話は、エデンから男と女は落ちたと言っていますから、神話に書かれていることに系統発生の初期の状態を読み取って、系統発生と個体発生の平行性を利用して解決策を得ようとしても役に立ちませんでした。
1978年のそのころ、ウィルバーは、以前『意識のスペクトル』を読んでリンカーンまで訪ねてきたジャック・クリッテンデンと、『リ・ヴィジョン』誌を創刊します。東西思想の研究、科学と宗教の接点などを扱うもので、ウィルバーがリンカーンで割り付けし、ケンブリッジのクリッテンデンがその後の仕事全てを行ったそうです。このジャーナルの仕事と人類学へのより道が、『アートマン・プロジェクト』での困難の解決を中断させます。『リ・ヴィジョン』誌には、困難が解決されていないままの『アートマン・プロジェクト』が4回にわたって連載されました。
1979年、30歳のとき、『無境界』が出版されます。このころ、瞑想の実践は、片桐老師のもとで最初の見性を得るところまで進んでいました。そして、人類学へのより道が、ウィルバーに『アートマン・プロジェクト』での困難解決へのカギに気づかせます。初期人類の意識はトランス・パーソナルではなく前パーソナルであり、エデンは、前自我的で、反省の能力、不安、疑い、絶望の能力がないという意味で天国的であるのにすぎないと気づいたのです。
Up from Eden (『エデンから』、松尾弌之訳、講談社、1986)に結実するこの研究は、自己意識(ペルソナ、エゴ、ケンタウロス)から始まり超意識(トランス・パーソナル、ユニバーサル)へいたる『意識のスペクトル』の地図に、それらより下の方のレベル(物質、植物、爬虫類、哺乳類)を付け加えることになりました。結局より完全な意識のスペクトルあるいは存在の大いなる連鎖は、物質-プレローマ、爬虫類-ウロボロス、哺乳類-肉体、ペルソナ、エゴ、ケンタウロス、サイキック(心霊)、サトル(微細)、コーザル(元因)、アルティメット(究極)となります。それは、西洋神学のより簡略化した言い方では、物質から肉体、心、魂、霊(スピリット)へということです。
再び『アートマン・プロジェクト』に戻ると、それまでウィルバーを戸惑わせ苦しめた問題がクリアーになってきました。特にピアジェの幼児期の子どもについての言葉「自己はここではいわば物質的である」が決定的だったと述べています。またヘーゲルによれば、「サークルはその終わりをその目的として前提している」わけですが、しかしそのゴールは幼児の融合状態の再復ではなく、アートマン的な状態の目的論的発見であり、それは全ての人の究極の条件でありまた徹底的な可能性の実現であると考えたわけです。ここで究極は再復ではありますが、時間以前の再発見なのです。時間、空間、自己、欲望、記憶、分離、道徳、同一性、肉体、世界以前であり、幼児のナルシシズム的な自己充足への退行とは別物です。
与えられたレベルから自己は差異化し、次の高次のレベルへ超越し、低次を高次に統合する。この含んで超えるという発達の原理を明確にすることで、幼児の状態は自我を持たないのに対し、トランス・パーソナルな状態は自我を持った上で超えているという違いが見えてきたわけです。すなわち、以前の「無意識のトランス・パーソナル→パーソナル→意識的トランス・パーソナル」というUターンは間違いで、正しくは「無意識の前パーソナル→パーソナル→トランス・パーソナル」なのです。この間違いを「前超の虚偽」と呼びます。
「前超の虚偽」は、『アートマン・プロジェクト』で提示され、『眼には眼を』に掲載された『前超の虚偽』というエッセイで詳述されました。
1980年、31歳の時、『アートマン・プロジェクト』第二版が出版されます。
1981年、32歳の時、『エデンから』が出版されます。ジャック・クリッテンデンは家族を養うため、『リ・ヴィジョン』誌の編集に携わるのをやめます。そしてこのころウィルバーは、9年間の幸せな結婚生活を経て、エイミーと別れたそうです。彼は『リ・ヴィジョン』誌立て直しのためマサチューセッツ州ケンブリッジに引っ越します。『リ・ヴィジョン』誌は結局、ヘルドルフ出版に経営権を譲渡することで救われることになります。働き、学び、書き、観想する生活を継続することで、最も解放された、理想的状態にウィルバーはこの時あったのではないかと思われます。
1982年、33歳のとき、The Holographic Paradigm and other Paradoxes (『空像としての世界』、井上忠訳、青土社、1992)が出版され、そのころサンフランシスコ、ティブロンに移り、フランシス・ヴォーンの家に間借りし、彼女と、彼女の恋人のロジャー・ウォルシュと一緒に住み始めます。
1983年、34歳のとき、A Sociable God by Ken Wilber (『構造としての神』、井上章子訳、青土社、1984)が出版されます。このころウィルバーが持っていたものは、机、椅子、タイプライター、4000冊の本だったということです。この夏、フランシスとロジャーの紹介で、サンフランシスコ湾を望む友人宅でウィルバーはテリー・キラムと会います。それは、互いに出会う定めを感じた程の運命的なものだったようです。
ところで、ヴィジョン・ロジックに至るまでに獲得する一連の思考能力は、「我想う故に我あり」というデカルトの言葉にはっきり現れていますように、自我に必然的に結びつくものです。この自我に結びつく思考(著述)に、他の誰にも増してダイモンとして執着しているウィルバーですから、自我を含んで超えて、トランス・パーソナルなレベルへと意識の重心を移行させるのには、通常の瞑想だけでは足りないのではないでしょうか。