第7章 ウィルバー4――コスモスの地図

 ウィルバー1、ウィルバー2、ウィルバー3と、意識の発達に関する理論の変遷を辿ってきましたが、この章で扱いますウィルバー4は意識も含むこの世界全体に関する理論です。ウィルバーは、観察可能な客観的な面のみならず、意識という主観的な面も含む世界を、宇宙(universe, cosmos)ではなくコスモス(Kosmos)と表現しています。ウィルバー4はこのコスモスの枠組みとそのおおまかな内容に関するコスモスの地図とも言えるものです。
ウィルバー4が最初に提示された Sex, Ecology, Spirituality (『進化の構造』)は、1991年から1994年までの、いわゆる沈黙の修行の三年間に構想、執筆されました。前回扱いましたウィルバー3によりますと、意識が構造としてトランスパーソナル(超個)段階に移行するのは極めて稀なようですが、当時のウィルバーの意識は、構造には至っていないとしてもかなりの程度恒常的に観照者の状態を維持できていたようです。従ってウィルバー4は、当時彼が持ち得ただろう超個的直観のもとで創造されたのでしょう。
ところで、ウィルバーの意識の発達論からすれば、高次なレベルでは低次なレベルで把握できないことも把握できるようになります。たとえば、順列・組み合わせを網羅するための理論を、具体的操作段階の子どもは理解できませんが、形式的操作段階の子供は理解できます。同様に、パーソナルなレベルでは十分に納得できないことの中には、トランスパーソナルなレベルで直観的に把握できるものも多いはずです。合理的な考えに止まる限り答えを与えられない禅の公案に、禅定を重ねた者が答えられるようになることなどがそのような事態の具体例になるでしょう。おそらくウィルバー4において、ウィルバーは超個的直観で洞察した非二元的世界をパーソナルなレベルで合理的に理論化するという営みを試みたのでしょうが、当然ながら超個的なレベルに達していない人々を十分に納得させるものは作成できなかったのだと思います。しかしそうだとしても、それは決して無意味な試みではなかったと私は考えます。より高次なレベルで把握されることは、低次なレベルにある人々でもそれなりに推測なり解釈なりできるだろうし、それによってより高次なレベルに至るよう刺激を受けたりするだろうと思うからです。
例えば特定の事例(ピアジェが行った透明な液体を混ぜ合わせて黄色い水を作らせる実験など)に関して、検討すべき組み合わせ全てを網羅する手続きを具体的操作段階の子供達の前で実行し記録します。その後彼らに自分たちの好きなやり方で組み合わせを作らせ、どれもが先に記録された場合に含まれることを確かめさせます。そうすることで、理論的に理解できなくても、こうすると全ての組み合わせを網羅できるらしいと思わせることはできるでしょう。そして、そのような体験は、具体的操作段階の子ども達に形式的操作段階への発達を促す一助になるように思えるのです。
同様に、トランスパーソナルなレベルで得られた洞察をパーソナルなレベルで実感させられないとしても、パーソナルなレベルにおける見取り図なり地図なりとして投影することは可能で、そしてそのような見取り図を具体的事例にあてはめることで、パーソナルなレベルではうまく解決できない問題に新たな解決法の光を当てたり、パーソナルなレベルの人々にトランスパーソナルなレベルに発達するための刺激を与えたりできると思うのです。
ウィルバー4で表現されているのは、超個段階で洞察された非二元的な世界の有様を、パーソナルなレベルでの最も高次な認識能力であるヴィジョン・ロジックで解釈した地図であり、今述べたような有意味性を多分持っているのだろうと私は思いました。
このような私の仮定が正しく、また私のウィルバー4の解釈がある程度的を射たものであるならば、今回のエッセイをお読みいただくことで、どうやら誰もの意識がコスモスそのものの意識でもあると思っていただけるかもしれません。
本章の叙述は次のようにするつもりです。第Ⅰ部で私が解釈したウィルバー・コスモロジーの概要を私流の仕方で述べます。本来はウィルバーのテキストに従ってその概要を詳しく追うべきだったのかもしれませんが、彼の叙述には全体の構造に影響する矛盾した事柄が含まれていて、細かく追うと収拾がつかなくなると思いました。それでとりあえず私の解釈でその概要を述べることにしました。そして、そのウィルバー・コスモロジーがヴィジョン・ロジックの認識能力で描かれたものであり、しかも超個段階で直観されたであろう非二元的世界の有様になっているのだと論じます。第Ⅱ部では、彼のコスモロジーをホロンと言う概念で再構築し、その構造を明確にして、トランスパーソナル(超個)ということをより詳しく考察してみます。

Ⅰ ウィルバー・コスモロジー

人間の個的側面と集合的側面

 デジタル大辞泉には、「一般概念」あるいは「普遍概念」について次のように書かれています。

個々の事物のいずれにも同一の意味で適用される概念。魚・木・人間などの類。

すると「人間」という一般概念では、個々の人間は大きかったり小さかったり、あるいは髪の毛が多かったり少なかったりの違いがあっても、そこには人間としての何らかの共通性があるとみなしているわけです。その際、単数では共通性は意味をなさないのですから、複数の個人がいることが前提とされています。「人間」という一般概念が事実として成立するためには、人間が個と集合の両者として存在していることが必要なのです。
ウィルバーは、おそらくこのような考えから個と集合ということは人間という現実の、基本的な対となる側面だとしたのでしょう。彼は次のように述べています。

個体と社会(集団)は、一方が他方より高い価値を持つ別のコインではなくて、すべての、そして一枚一枚のコインの裏表なのである。同じものの二つの側面であって、根本的に違ったもの(あるいはレベル)ではないのである。(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、『進化の構造1』、春秋社、1998、p.138)

表と裏とか、右と左とか、上と下とかが一つのものにあるとされるとき、必ず二つ対になって現れます。そのような二つの側面間の関係を相補的関係と呼ぶことにします。ウィルバーは、人間の個々として現れる個的側面とそれらが集まって現れる集合的側面がこの相補的関係にあるとするのです。図7-1は、四角形で人間を表し真ん中に境界線を一本引いて、上側を人間の個的側面、下側を集合的側面としたものです。

図7-1 人間の個的側面と集合的側面

実際人間一人一人は一応独立した全体性を持ちますが、実体として単独で存在することはできません。まずもって両親がいなければどの人も生まれなかったでしょうし、両親が生むだけでなく育てなかったら大人には成長できなかったでしょう(両親が面倒を見なくてもその人は成長したかもしれませんが、その場合には、親戚の方とかあるいは保護施設の職員の方とかが面倒をみる必要があったでしょう)。また、その両親自身、彼らの両親と彼らが所属する社会がなかったら、生まれたり成長したりすることはなかったでしょう。そうしますと、人間においては、個人(個)とその集合である社会とは本来切り離して考えることはできませんから、個的(Individual)な側面と集合的(Collective)な側面を持つとするのは自然な人間観の一つだと思います。

個人の内面と外面

 人間の個的側面の具体例である私は今、「内面と外面」についてどう説明すればいいのかなと考えたり、それにしてももぐもぐ食べているこのコンソメ味のポテトチップスはちょっと味がしつこいなと思ったりしています。ところでこういった考えや思いは、私の身体のように誰かが見たり触ったりできる客観的なものではなく、私だけが主観的に体験できる何かで、通常私の心とか意識とか呼ぶものに生じるようです。そして、それこそが私という存在の根源になっている気がします。「我想うゆえに我あり」とデカルトは述べたそうですが、確かにそのような気がするのです。
しかし一方で、そもそも身体がなければ考えたり感じたりできないようにも思えます。痛みを感じたり、何かを味わったり見たり聞いたりするとき、皮膚や舌や目や耳を通じて体験しているのですし、かぜを引いて体調が悪いとしっかり考えることができなかったりします。科学者は、脳の複雑な構造と人の思考能力との密接な関係を明らかにしています。そうすると、感じたり考えたりすることよりも、この身体の方こそが私という存在の根源であるように思えます。
私という存在の根源になっているものとして、心と身体と二つの候補を挙げましたが、ここではとりあえず次のようにしてみます。たしかに私には心もあるし身体もある。そして、私が何かを(例えば痛みを)感じるときには、私の身体には何らかの物理的刺激(例えば注射針の皮下への挿入)に対する物理的反応が生じているようだし、私が何かを考えるときには、私の脳は活発に活動しているようなので、私には、他の人が見たり触れたりすることのできない心とか意識とか言われる側面と、他の人が見たり触れたりできる物質的な身体という側面があり、両者は密接な関係にあると。ウィルバーは前者を内面(Interior)と呼び、後者を外面(Exterior)と呼んでいます。主観と客観とも呼んでいます。
念のために述べておきますが、内面は身体の内側のどこにもないと想定されています。私の身体の内側には内臓があったり脳があったりするわけですが、それらは解剖することによって他の人が見ることも触ることも可能です。しかし、いくら身体の内側を露にしても、私の思考を他の人が見たり触れたりできるようになるとは思えません。心とか意識とか言われる内面は、露わにできる空間的位置などない、物質的な形態はとらないものと想定されているのです。
私自身の主観的な側面(内面)と客観的な側面(外面)とについて述べてきましたが、私が普段接している家族や職場の同僚にも私同様に内面と外面があると言えるのでしょうか。彼らに見たり触ったりできる身体(外面)があるのは確かです。しかし覗いてみることが不可能な内面はどうなのでしょう。どんなに親しい人であれ、その心を覗いてみることなどできませんが、私は他者と思考の道具である言葉を共有していて、それを使ってコミュニケーションをとることができます。従って当然彼らに思考したりする内面があると考えてよいのでしょう。ウィルバーが個々人(人間の個的側面)には誰しもこのような内面と外面があるとし、相補的な二つの側面であるとしたのはもっともなことだと私は思います。

人間の集合の内面と外面

 前々節で私は、両親が所属し私も所属することになる社会(集合)がなければ自分は生まれもしなければ育ちもしなかったという趣旨のことを述べましたが、社会の様々な有様は誰もが目にすることができる外面ですから、人間の集合的側面に外面があるのははっきりしています。では内面はどうでしょうか。
いろいろな感覚、衝動、感情などが私の内面、心に生じますが、中でも人として私は、内面において様々な概念を使って思考することができます。私の思考は私個人のもので、そこに人間の集合的な側面とのつながりは一見ないように思えますが、それは大間違いです。今私は、ウィルバーの思想を題材に叙述しているのですが、この叙述の中に現れる様々な概念は私が創り上げたものではありません。私が成長していく過程で、私が属している共同体の中で、親や学校の先生や様々なマスメディア等々から学んできたものばかりです。つまり人としての私の内面にあるほとんどのものは、人々の集合に由来しているようです。
また私は、梅干を見ると、あの独特のすっぱい味覚がよみがえってきますし、その味覚には、梅干入りのおにぎりを食べたときの食感などが、すぐに連想できるといった形で密接に結びついています。この味覚やそれと関連した触覚への思いは、他の文化圏の人にいくら説明しても同じようには了解してもらえない、多くの日本人が共通に持つ感性だと思います。感性は心に生じる内面的なものですから、これは日本の食文化の中で育った私が、同じ文化圏で育った人達と共有している集合的内面の例と言えるでしょう。もう少し大がかりな例としては次のような価値観に関することも挙げられるでしょう。合理的な文化圏で育てば、人々は基本的人権を尊重する価値観を自然に持つことになるでしょうが、伝統に根付いた父権主義的な文化圏に育てば、合理的文化圏からすれば男女差別的と判断されてしまうような価値観を、差別的な意識など全くなしに自然に持つことになるでしょう。このように価値観は、その文化圏に属して初めてその自然さを実感できるもので、やはり集合的内面の一例といえるでしょう。
味覚への思いとか価値観を例に出しましたが、それらは大まかに言えば集団に共有された世界のとらえ方、世界観ということができます。このように人間には、集合においても内面があると言えそうです。私は、ウィルバーが人間には個的側面にも集合的側面にも相補的な内面と外面があるとするのを自然なことだと思います。図7-2は、四角形で人間を表し、真ん中に境界線を一本引いて左側を人間の内面、右側を外面として表したものです。

図7-2 人間の内面と外面


人間の四象限

 図7-1のように人間には相補的な個的側面と集合的側面があり、また図7-2のように相補的な内面と外面があるとしますと、両図を重ね合わせれば、結局は図7-3のように、個的内面、個的外面、集合的内面、集合的外面があることになります。それらの呼び方は、主観的個的、客観的個的、主観的集合的(間主観的、文化的)、客観的集合的(間客観的、社会的)というように、いろいろ考え得ると思います。ウィルバーは図7-3内部の直交する境界線を二つの座標軸とみなし、これら四つの側面を四つの象限(quadrants)とも呼びます。

図7-3 四象限


人間に至るまでの個的外面における進化の過程

 ダーウィンは生物の進化ということを理論化しましたし、現代宇宙論は、ビッグ・バンから始まる宇宙の進化の過程について述べています。それらをあわせると、物質的宇宙における、人間の身体にいたるまでの、次のような進化の過程を知ることができるとウィルバーは主張します。
ビッグ・バンで宇宙が膨張し始めてからしばらくして、まずクォークやレプトンなどの素粒子が登場し、次にそれら素粒子から合成されたより複雑な陽子や中性子など核子と呼ばれる粒子が現れ、陽子、中性子、電子から合成された原子が現れ、さらに分子が、高分子が、細胞が、神経系を持つ生物が、神経管を持つ生物が、脳幹を持つ爬虫類が、辺縁系を持つ哺乳類が、新皮質を持つ高等哺乳類が、そしてついには複合新皮質を持つ人間が、前段階の個体を含んで超えるようにして現れたと。
これは人間の個的外面である身体に至る進化の過程ですので、先ほどの人間の四象限図の右上に書き入れることにしますと、その結果は図7-4のようになります。この図で使われている用語は、『進化の構造1』の305頁にある図表の右上象限にあるものを、原書第二版 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したものです。和訳では、原書でmoleculeとあるところが細胞と訳されていたり、neuronal organismsとあるところが組織と訳されていたりしたので、それらを「分子」、そして「神経系を持つ有機体」と変えました。また、SFとあるのは、structure-function (構造-機能)の略語です。

図7-4

ところで、この系列に現れる原子、分子、細胞などは、全体性をもった個としてとらえることができますから、この右上象限で表現されているのは、人間の身体に至る進化の過程で宇宙に登場した客観的な個的存在の系列です。

四象限に亘る人間の進化を表す地図

 人間は相補的な四つの象限を持つわけですから、先ほどの右上個的外面の進化の過程に対応して、その他の象限においても含んで超えるという進化の過程があったとウィルバーは考えます。そして、意識の発達(左上象限における個的内面の発達)、文化の発達(左下象限における集合的内面の発達)、社会制度の発達(右下象限における集合的外面の発達)などに関する、心理学、社会科学などで得られた知見を組み合わせて、四象限にわたる人間に至るまでの進化の過程を図7-5のように地図化して示すことになります。

図7-5 (『進化の構造1』の305ページにある図を、原書第二版 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)

ウィルバーは後に、より人間に焦点を合せた四象限図も作っていますので参考までに図7-6として挙げておきます。

図7-6 人間に焦点をあてた四象限(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、『インテグラル・スピリチュアリティ』、春秋社、2008、p.36より)

 


個体発生は系統発生を繰り返すという考えの導入

 ところで、ヘッケルというドイツの生物学者によれば、個人の発達(個体発生)は、人という種が現れるまでの進化の段階(系統発生)を繰り返すことになります。例えば私は、母親の胎内で、魚類的、爬虫類的、原始哺乳類的な形態を、含んで超えるようにして次々に経ていくことで、系統的な進化の段階を辿って生まれてきたとするわけです。ウィルバーはこのヘッケルの考えを拡張的に取り入れ、人は宇宙の系統的な進化の段階をたどって生まれてきたとし、図7-5を、個体発生も表しているとみなします。
そうしますと、図7-5の右上象限に記入されている発達の系列は、宇宙における個的存在の外面的進化(系統発生)を表してもいるし、最も高度な種である人類の一個体の発達(個体発生)を表してもいるわけです。そして各レベルは、そのレベルにおいて現時点で存在している個を表していると見ることもできます。例えば段階8の辺縁系は、宇宙に最初に登場した原始的哺乳類(昔の私たちの先祖でもあるネズミのような動物)とそのレベルにとどまったままで水平的進化をしてきた現時点で存在している最も原始的な哺乳類(今もいるネズミ)を表していますし(系統発生)、人やそのほかの哺乳類の個体が発生途上で通過する辺縁系が形成される段階を表してもいます(個体発生)。そしてこの図のほかの象限には、対応した各象限での発達の様子が記入されているということです。
もう少し詳しく図7-5を見ておきます。原点は、系統発生としては、4つの象限全てを包含する宇宙の始まり(物理的にはビッグ・バンと呼ばれる現象)を、個体発生としては各個の誕生を示しています。系統発生の方で辿っていきますと、この宇宙の始まりからしばらくして、外面的個的存在として原子が現れます(右上レベル1)。四象限説では、全ての個的存在には内面があることになってしまいますから、当然原子にも、どんなに素朴であろうが、対応する内面があり、図7-5では左上象限に把握(prehension)と表記してあります。さらに四象限説では、個的存在は集合と対となる相補的な側面にすぎませんから、原子の誕生とともにそれらの集合も誕生します。この四象限図では省かれていますが、原子より基本的な個である素粒子は、真空から生成するときには必ず粒子と反粒子というペアになって生じ、個が登場すると同時に必ず集合も登場します。原子に関してそのようなことが言えるかどうか定かではありませんが、ウィルバーは人間同様に原子でも次のレベルの分子でも一般概念としての意味通りに現実に存在していると捉え、個と集合が相補的な側面になっていると考えているようです。そして彼は原子のレベルでの集合の外面的なあり方を右下象限で銀河系としており、内面的なあり方は左下象限で物質的としています。
こうした、4つの象限にわたる原子のレベルを含んで超える形で、やはり4つの象限にわたる分子のレベルが現れるという仕方で、次々と新しいレベルが宇宙に登場するわけです。その際、前段階のレベルでの個は、必ず次のレベルでの個より多く存在します。例えば、全ての分子は原子を部分として持っているのですから、原子は分子よりも数量的には必ず多くあります。全ての哺乳類は、爬虫類の本質的部分である脳幹を含んでいますから、爬虫類は哺乳類よりも数量的には必ず多くいます(分子の部分である原子が原子としてカウントされるように、哺乳類の部分である爬虫類的脳幹は、ウィルバー・コスモロジーでは爬虫類としてもカウントされます)。
次に、人に至って初めて現れる段階10のレベルを見てみます。外面的・個的側面を表す右上象限を見ますと複合新皮質となっています。これは人間が登場して初めて現れた脳の部位です。内面的・個的側面を表す左上象限で同じ段階10を見ますと概念と書かれています。ピアジェ等の研究によりますと、現代人は平均的に6歳ぐらいでその意識のレベルは概念を持てる段階に到達するそうです。そうしますと、段階10におけるこの右上象限と左上象限との対応関係から、人は6歳ぐらいで複合新皮質を機能させ始めると言えることになります。内面的・集合的側面を表す左下象限で段階10をみますと魔術的と書かれていますが、それは、呪文や呪いがリアルに息づく文化に人々は所属しているということです。左上象限との対応からは、概念を認識の主要な道具として使う人々が主導権を握っている集団の文化が魔術的だということになります。そのような文化が初めて現れたのは一万年以上も前のことでしょうが、現在でも同じレベルの文化をもった集団(ブードゥー教を信仰する人々の集団など)はありますし、高度な文化の中にもそのレベルの文化的要素が含んで超えられるという形で組み込まれてもいるわけです(様々な非科学的と思われる占いなどの行為が、合理性に達した社会にも、含んで超えられたレベルのものとして組み込まれているように見えます)。外面的・集合的側面を表す右下象限で段階10をみますと、鍬農業及び部族的/村落となっていますが、左下象限との対応からすれば、魔術的段階にある人々が中心となって形成している社会の経済・政治制度が鍬農業・部族/村落のレベルだということになります。
現代世界の先進国と呼ばれる国では、主導権を握る成人は左上象限において理性(形式的操作を認識の主要な道具として使用する)レベル、段階12に達しているとしますと、左下象限の段階12をみますと合理的な文化が実現し、右下象限の段階12を見ますと産業的な社会を持つ国民国家になっているのです。そうして、この段階12にある人は、段階12までの全てのレベルを含んで超えてきた存在ですから、理性的な人間としては国民国家のメンバーですが、動物としては生態系のメンバーであり、細胞としてはガイアのメンバーであり、原子としては銀河系のメンバーであり、全てのレベルで該当する集合のメンバーとなっているわけです。内面的には、最も上のレベルでは合理的な文化を人々と共有しており、最も下のレベルでは物質的な間主観的内面を原子と共有しているわけです。

ウィルバー・コスモロジー

 そしてウィルバーは、この人間に至る進化の過程を宇宙全体の進化の過程と同一視し、この図が宇宙全体の枠組みを表していると考えます。ただし、宇宙( universe )という言葉ですと、物理的な面だけをイメージしやすいと彼は指摘し、外面も内面も含んだ全体は、頭文字Kで始まるコスモス( Kosmos )と呼ぶことを提案します。コスモスが四象限で表される4つの側面を持ちながら、ビッグ・バン以来前段階を含んで超えるという進化を重ね、その個的側面においては、外面的には複合新皮質、内面的には自己意識をもった人間にまで到達していて(人間を超えた存在がまだ現れていないと仮定し、人間を宇宙の進化の精華として見ています)、さらに先へと続いていくとするのです。そしてこのような彼の世界観はウィルバー・コスモロジーとも呼ばれています。またこの四象限と進化の組み合わさった世界観で物事を見ていく姿勢をAQAL(All Quadrants, All Levels 全象限全レベル)と言います。
こうしてコスモスとは、ビッグ・バン以来登場してきた全てのレベルの、内面と外面を持った個とその集合の総体とみなされるわけです。素粒子とその集合(コスモス全体の時空を覆います)、原子とその集合(すべての銀河)、分子とその集合(分子の存在する惑星の領域を覆います)、細胞とその集合(ガイアと通常呼ばれています)、動物までの生命とその集合(生態系、生命の網と呼ばれています)、人とその集合(人間社会)、そしてそれらに対応した内面も合わせた総体がコスモスだとウィルバーは考えたのです。
そうしますと、コスモスとは、内面と外面、個的側面と集合的側面という二種類の相補的な対概念を重ね合わせてできる四つの側面を持つ様々なものが集まってできているわけですから、コスモスそのものがそれらの側面を持っているという言い方をしてもかまわないと思えます。それは、私の内面もこのエッセイの読者諸氏の内面も、私が飼っている猫の内面も、あるいは周りに無数にある分子や原子の内面も、宇宙(コスモス)そのものの個的内面でもあるということです。私と友人が語り合っているとしたら、ウィルバー・コスモロジーでは宇宙(コスモス)が宇宙(コスモス)と語り合っているということでもあるし、私が猫を撫でていれば、宇宙(コスモス)が宇宙(コスモス)を撫でていることでもあるわけです。私が何かに怒り、何かを憎み、何かに苛立っていれば、それは、宇宙(コスモス)が宇宙(コスモス)に怒りや憎しみや苛立ちを持っているということにもなるわけです。

「部分と全体」と「進化・発達のレベル」

 私は、部分としての細胞を持っています。私が腕を上に上げようと決め、腕を上げると、腕の部分である細胞全てが持ち上がります。また、私の構成部分としての細胞には、筋肉の細胞もあれば、内臓の細胞もあり、赤血球もあり、様々な種類がありますが、それらはその役割に忠実に機能していて、全体としての身体が維持され活動するためにのみ存在しているようです。そういったことから私には全体の在り方を決める中枢があり、全体を構成する部分である細胞などは、全体が健全に機能している限りその中枢に完全に支配されることになっているようです(この中枢は内面的には主観的意図で、ウィルバーはホワイトヘッドのdominant monad 支配的単子という言葉をあてはめています。 Integral Spirituality, pp.145-146、『インテグラル・スピリチュアリティ』、pp.214,215より)。また私の体は、ただ集まっただけの個々の細胞には決してできないような、音に対する反応、光に対する反応、社会的な任務の遂行など、様々な活動ができるということで、構成部分の細胞を超えています。
同じようなことは、全体としての分子と部分としての原子についても言えます。全体としての水分子は、部分としての水素原子二つと酸素原子一つからできているわけですが、水分子が個体や液体や気体という様々な状態で活動する時、構成部分である水素原子と酸素原子には、単独の水素原子や酸素原子のような自由は全くなく、常に全体である水分子の構成部分として働き続け、水分子の中枢に完全に支配されているように見えます。また分子は個々の原子ではなし得なかった様々な分子的な活動をするということで原子を超えています。
二つの例を挙げましたが、どちらの場合にも、全体は部分を含んで超えていて、部分は全体に支配されています。このような部分の全体に対する関係を、内的(Internal)な関係と言います。そうでない場合外的(External)であるといいます。例えば、全体は部分に対して、含まれてもいないし超えられてもいないし、支配されてもいません。したがって、全体は部分に対して外的です。
部分と全体のこの関係が、進化とか発達とかにおけるレベルということと関係しています。既に述べましたが、物質的な宇宙はおおよそビッグ・バンと呼ばれる現象によってはじまり、直後にクォークやレプトンなどの素粒子と呼ばれる個が登場し、次に素粒子から、陽子や中性子と呼ばれるより複雑な粒子が合成されて個として現れ、陽子、中性子、電子から合成された原子が個として現れ、さらに分子が、高分子が、細胞が、神経系を持つ有機体が、神経管を持つ有機体が、脳幹を持つ爬虫類が、辺縁系を持つ哺乳類が、新皮質を持つ高等哺乳類が、複合新皮質を持つ人間が個として現れ、それらの集合として宇宙も姿を変えてきたというようにウィルバーは考えています。
この個的存在の系列が、進化の系列だとすれば、進化の特徴は、新しい段階のものが前段階の存在を構成部分として含みながら、前段階にはなかった新たな性質を付け加えて超えるという形で生じる(創発する)ということになります。このとき、含まれる前段階のものは、含みこむ新しい段階のものに対して先ほどの内的な関係にあることをウィルバーは見て取り、全体と部分という関係は、進化の系列におけるレベルの違いを表しているとしたのです。しかもウィルバーは「低位の全体がその部分をなす高位の全体は、それを構成する全部の要素に対して決定的な影響力を持つ」(『進化の構造1』、p.37)と述べています。
ところで、分子は原子を部分とする全体ですが、分子自体は細胞の構成部分になり得ます。従って、細胞の構成部分になった場合には細胞に対して部分となります。このように、コスモスに存在する個は部分を持つ全体であると同時に、より高いレベルの存在の部分となる可能性を持ちます。
進化の過程で現れる個的存在の系列は系統発生と呼ばれます。それに対し一個体の発達は個体発生と呼ばれます。ウィルバーが個体発生は系統発生を繰り返すというドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの考えをとりあげ、一人の人の発達(個体発生)は、人という種が現れるまでの進化の段階(系統発生)を繰り返しているとしたのは既に述べました。例えば私は、母親の胎内で、魚類的、爬虫類的、原始哺乳類的な形態を次々に経ていくことで、宇宙の系統的な進化の段階をたどって生まれてきたと見るのです。
ただし、生まれてくるまでのこの個体発生の過程は、おもに肉体の構造の発達ということですから、それらの構造が実際に機能していく過程の多くは、生まれてから後にみられることになります。幼児には、魚類的、爬虫類的、原始哺乳類的な行動が目立つわけですし、やがて高度な哺乳類であるチンパンジー的な行動を、そして人でないとできない行動をするようになるわけです。

「部分と全体」は「個と集合」とは異なる

 ところで一見「部分と全体」に似たものに、前々節で考察しました「個と集合」というものがあります。例えば個々の細胞とそれら細胞からできている身体とは、部分と全体の関係にあります。それに対し、個人と個人が所属する人間社会は個と集合の関係にあります。どちらの場合にしても小さい部分が集まって大きな全体を造っているので同じような関係性とみなしがちではないでしょうか。ところがウィルバーは、細胞と身体との「部分と全体」の関係と、人と社会との「個と集合」の関係は全く異なると主張します。
構成部分の細胞は、全体としての身体に従っています。構成部分の細胞は身体に対して内的です。このとき、仮に全体の身体がなくなっても、部分の細胞は培養液の中などで存在し得ますが、部分の細胞がなくなれば全体の身体は存在し得ません。あるいは、原子とそれが構成する分子も部分と全体の関係にありますが、仮に全体としての分子がなくなっても、部分としての原子は分子の部分ではない形態で存在し得ます。しかし、原子がなければ絶対分子は存在し得ません。部分がなくなれば全体もなくなるが、全体がなくなったとしても部分がなくなるわけではないという非対称的な関係性が部分と全体の間にはあるとウィルバーは考えるのです。
それに対し、個である個人は共同体の中で相互作用を円滑に進めるために集合である社会に従っていますが、しかし完全に従わなければならないというわけではないし、社会がその支配を強制できるわけではありません。メンバーである個は、集合に対して内的な関係にはないのです。また、ウィルバーにとって、個と集合は一つのものの二つの側面ですから、どちらかだけで存在するはずはないのです。集合としての社会が存在しないなら、個としての個人も存在しないし、個としての個人が存在しないなら、集合としての社会も存在しないのです。個としての原子が存在しないなら原子の集合は存在しないし、原子の集合が存在しないなら、個としての原子も存在しないのです。
このように「部分と全体」の関係は「個と集合」の関係とは異なります。「部分と全体」では、レベルの低い部分がなくなればレベルの高い全体もなくなりますが、レベルの高い全体がなくなっても、その部分になり得るレベルの低い存在は独立して存続し得ます。それに対して「個と集合」では、個がなければ集合はありませんし、集合がなければ個もありません。そして個とその集合は同じレベルです。
従って、集合である社会を全体である身体に例え、個である個人を部分である細胞に例え、全体としての社会の歯車のように個人を扱うとしたら、大きな間違いを犯すことになります。ファシズムや共産主義による独裁が行ったことが、そのような間違いの具体例だとウィルバーは考えているようです。
時に人間は全体としてのガイアの一部であると言われたりしますが、この表現はウィルバー・コスモロジーの枠組みでは混乱を生む原因になりかねません。ウィルバー・コスモロジーでは、人の細胞レベルが集合的なガイアのメンバーなのであり、人のそれより上のレベルは、ガイアのメンバーではありませんし、もちろん部分でもありません。理性レベルまで含む個人は、その集合である民主的な国民国家のメンバーですが、ガイアは細胞レベルの集合であり、そこには民主的な国民国家などありません。個人は、ガイアのメンバーでもないし部分でもないのです。
同じような混乱が、人は生態系の一部だと言うような時にも生じ得ます。人の部分である概念を使うより下のレベル(外面で言えば、複合新皮質より下のレベル)だけ見ればそれは生態系のメンバーです。しかし、人は概念を使用できる以上のレベルも含み、それは生態系のメンバーではありませんし、生態系の部分でもありません。時に環境運動を熱心にしている人の中には、身体の細胞が身体という全体の一部であるように人は生態系の一部(生命の網の網目の一つ)であるのだとする人もいるようですが、その人は、ウィルバー・コスモロジーからすれば、「部分と全体」ということと「個と集合」ということとの差異化ができていないわけです。その差異化をしないままで環境運動を推し進めると、いくら善意で行われていても、一種のファシズムに帰結し、非常に歪んだ結果を招来してしまう可能性があるとウィルバーは主張します(彼はそのような環境運動を、『万物の歴史1』の500ページでエコファシズムと呼んでいます)。人は生態系のレベルを超えているからこそそれを破壊することも保護することもできるとウィルバーは考えているようです。

含んで超えるという進化・発達の在り方は集合的側面でも成立するのか

 前節で、一応ウィルバーの世界観の大まかな様子を述べましたが、ここで特に確認しておきたいことが、集合的側面においても含んで超えてきたということが成立しているかどうかです。個的外面では、確かに私の体は原子を含み、分子を含み、細胞を含み、魚類の段階の神経管を含み、爬虫類の段階の脳幹を含み、原始的な哺乳類の段階の辺縁系を含み、そして複合新皮質を持つまでに至っています(図7-7を参照して下さい)。

図7-7 進化におけるレベルの包含関係(右上象限)

同じ含んで超えるという進化・発達の在り方は、左上象限でも見てとることができます(左上象限の詳しい発達論については、前回のウィルバー3をご覧ください)。例えば、概念の能力がそもそもなければ、具体的操作の能力で概念を使って規則や役割を構成することはできません。そして具体的操作は、概念の段階にはなかった規則や役割を構成するという機能を付け加え、概念を様々に組み合わせたり内容を変えたりすることで、概念をコントロールすることができます。上位の発達段階である具体的操作は、下位の概念を含んで超えています。
左上と右上の象限で含んで超えるという在り方の現実性を確認しましたが、ウィルバー・コスモロジーではコスモスは四つの象限にわたって進化・発達してきたのですから、左下(文化)と右下(社会)の集合的側面でもそうなっているはずです。たとえば彼は次のように述べています。

もし心圏(ヌースフィア)が生物圏(バイオスフィア)の一部であるなら、心圏(ヌースフィア)を破壊すれば生物圏(バイオスフィア)も消滅するはずだが、実際は逆である。生物圏(バイオスフィア)を破壊すれば、心圏(ヌースフィア)も破壊される。それは生物圏(バイオスフィア)が心圏(ヌースフィア)の部分であって、その逆ではないからである。(『進化の構造1』、p.148)

単に宇宙が生物圏(バイオスフィア)よりも大きなために、私たちは宇宙のほうがより重要であり、意味があると考える。しかし宇宙はより基礎的なだけであって、生物圏(バイオスフィア)のほうがより意味があるのである。なぜなら生物圏(バイオスフィア)は、それだけ多くの実在(リアリティ)をその内部に包含し、より大きな全体を包括し、より深い深度を持ち、事実として全宇宙をその存在のなかに包摂しているからである。超越し、包含しているのである。(『進化の構造1』p.153)

概念を持つような人間の集合(心圏)は人間を除いた生物の集合(生物圏)を含んで超えているということです。また、生物の集合は物質的宇宙(物質の集合)を含んで超えているということです。このように、集合的側面でも含んで超えているとウィルバーは主張しているのですが、ダメ押しのように生物圏は全宇宙をその存在の中に包摂しているとまで述べています。そこまで言うと何か途方もないことにならないでしょうか。そこで左下象限の文化と右下象限の社会の発達についてもう少し考察したいと思います。

集団の世界観(文化)の発達と社会の発達

集団の世界観(文化)はリーダーの世界観できまる
先述しましたように、文化というのを、大まかに集団に共有された世界観と考えることにします。では、集団の世界観はどのように決まっていくのでしょうか。集団には必ずリーダーがいます。そのリーダーの描く世界観が、集団全体の世界観になっていくということではないでしょうか。例えば、「サングラハ教育・心理研究所」主幹の岡野守也氏によれば、日本には神仏儒習合的な集合的世界観があったわけですが、なぜそのような世界観が共有されていたかといえば、日本のリーダーたちが、神道的な神話・仏教的な教え・儒教的な道徳をよしとして、それらを取り入れ広めたからだと考えられます。そうしますと、仮に文化が発達するのであれば、それはリーダーの世界観の発達に対応していることになります。ウィルバーはおおよそそのように考えているようで、彼のコスモロジーでは、文化の発達の構造は基本的には個人の世界観の発達の構造と共通であり、レベルの名称も共通になっています。そこで、集団の世界観の発達を考察するために、ウィルバー3を説明した第6章の内容の繰り返しになりますが、個人の世界観の発達を、感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期、そしてヴィジョン・ロジックの順に、簡単に確認しておきたいと思います。

個人の世界観の発達
感覚運動期では、外界は、感覚運動的に自己との違いが感じられるだけで、構造的な世界観と呼べるほどのものはありません。
前操作期においても、外界と自己とはまだ未分化な面が多いため、外界は自分の思い通りになるという極めて自己中心的な世界観を持っています。例えば、お呪いを唱えると自分の願いがかなうことになるはずだというような考えが支配する世界観です。このような世界観は呪術的とか魔術的とか呼ばれます。
具体的操作期では、他者の視点を取ることができるようになり、いろいろな規則、役割が社会にあることを把握し、それを一つの固定的な体系として理解し、その体系を中心として世界観を構成します。このような世界観は社会中心的、民族中心的、神話的と呼ばれます。例えば封建的な社会では、その社会の体系の基本になる、疑問を持つことなど許されない身分制度的な考えがあり、具体的操作期の世界観と合致します。そして、そのような固定的な考えは、各民族が持つ神話に基づいていたりするわけで、それがこの段階の世界観を民族中心的とか神話的とか呼ぶ所以です。
形式的操作期の認識能力では、固定的な体系に対して様々な可能なありかたを対比し、よりよいのはどれか、より現実に合うのはどれか、より人々の生活を豊かにするのはどれか、というように批判的に考えていくことができます。また、人種や出自にかかわりなく人間には平等に基本的な可能性が備わっていることを洞察することにより、普遍的な個人の権利(基本的人権)を認めるようになります。その結果、特定の宗教や特定の民族ではなく、より普遍的な個人の権利に基づく世界中心的な世界観を持てるようになります。これが理性にもとづく合理的な世界観です。
つまり具体的操作期、形式的操作期と進むにつれてより広く他者の視点をとれるようになり、自己中心性が克服されて、社会中心的(民族中心的)、そして世界中心的な世界観を持つようになるわけです。
次にヴィジョン・ロジックの段階ですが、形式的操作という認識能力で得られた合理的な探求の成果を、単に眺め渡すだけでなく、統合的な全体性の中に当てはまる要素として扱うことになります。例えば形式的操作期であれば、多様な世界観を並べて見渡すことで、相対的多元主義、例えばポストモダンの多文化主義的な世界観が達成されますが、この時点では、いまだ統合には至っていません。その理由は、進化・発達を通じて登場してきた諸文化の、レベルの相違というものが、それらを見渡す際の重要な要素として扱われていないからです。そのため、それら多様な世界観(文化)を等価値に見てしまい、先史時代とそれほど変わらない文化も、高度な合理的な文化も、基本的には同じレベルで並列しているように見てしまうのです。
それがヴィジョン・ロジック段階に至ると、レベルの高低も見ようとするので、単に多様性を認めて並べるだけでなく、その多様性のなかに階層構造を通じてのつながりをも見るようになります。そうしますと、様々な文化を階層も含んだ統合的構造において扱うことになりますから、単なる多文化主義ではなく、言わば統合的多文化主義とでも言うべき世界観が実現するようになります。

集団的領域でも発達は含んで超えている
図7-5あるいは図7-6の左下象限に文化の発達が書かれています。魔術的以降のレベルが、人が現れたことによって初めて登場した文化のレベルです。それ以前は、類人猿レベル以下の生物なり無生物なりに相当する存在が登場することで初めて現れた集合的内面(文化)のレベルです。人類の場合、先程述べましたように、個の内面である左上象限において、新しい世界観をもったリーダーたちが現れ、そのリーダーたちの世界観が、共同体の世界観である文化の基本的な在り方を決めていくのであれば、左下の文化の発達は、先程簡単にまとめました個の内面における世界観の発達と一致させて見ていけばよいことになります。
また、リーダーたちの世界観に基づいて、文化同様に、右下の社会の構造も定まっていくはずです。呪術的な、血縁を中心とする部族が分散して存在する地域に、例えば「我々もおまえらも太陽の神の子孫だ」という神話的主張をする、神話段階の征服者が現れれば、彼らはその神話的主張に反することを禁ずる法をつくり、神話に基づいた固定的身分制度を有する前近代的国家ができたりすることにもなるでしょう。また、フランス革命当時のように、神話的な段階の社会で新しくリーダーになった人たちの世界観が合理的であれば、法体系は基本的人権を中心にしたものに造り替えられ、教育制度、経済システム、都市基盤など全てもその世界観にマッチするように造り変えられていくことになるでしょう。
このように集団の進化・発達を見ますと、排除して置き換えられているように見えます。例えば、固定的身分制度を持つ国家は民主的国家に排除され、置き換えられるのではないでしょうか。そしてこれは、含んで超えるという発達の在り方と矛盾しているのではないでしょうか。
以前右上象限での進化・発達を辿ってみましたが、爬虫類的脳幹は人間の脳の基本的部分として残っていても、爬虫類の変温的な肉体ではなく、人間の恒温的な肉体にマッチした形で残るわけです。また、哺乳類的辺縁系も人間の脳の基本的部分として残っていますが、尻尾などは失われています。つまり含んで超えるときにはその本質的な部分だけが、高次のレベルの土台として新しいレベルにマッチする形で残るわけです。集合的側面でも同じことが言えるのではないでしょうか。
例えば、農村では里山、都市では上下水道を初めとする都市基盤が、人間の生物的レベルでの生理的欲求を支える社会的土台になっていて、それらは本来の自然の変容した形だと考えられないでしょうか。また、古代の家族・部族は、現代社会に家族制度・親族制度として組み込まれて社会の土台として残っていると言えないでしょうか。あるいは封建的国家は、合理的国民国家を支える連邦制のようにして残っていると考えられないでしょうか。このように仮定すれば、右下の外面的集合的側面でも、発達・進化は個的象限と同じように含んで超えるという形で起こっていると言えそうに思うのです。
左下の文化的側面ではどうでしょうか。現代社会でも、人の誕生、結婚、葬式の際には、一種の儀式が行われることが一般的ですし、地域社会の結びつきを確認するのに祭りが行われるのも一般的です。そしてそれらの多くには、風土的要素が反映しています。また、オリンピックやワールドカップサッカーの会場では、かなりの程度、民族中心的あるいはナショナリズム的な世界観が顕わになっています。いずれにしても、理性で風土的あるいは民族的要素はコントロールされているのでしょうが、それらの要素は、私達が自らの同一性を確認し、合理的な文化において心理的に安定した生活を送っていくのに不可欠な土台の一環になっているように思えます。
また、どのような人であっても、最も低いレベルから発達を始めますから、合理的な世界観を最終的に獲得するまでに、様々なレベルでの世界観を構成しながら発達する必要があります。そのためには、生育する社会の中に、各レベルでの文化的要素が含まれていることが必要になるのではないでしょうか。例えばおとぎ話や神話、ファンタスティックな小説や漫画や映画やテレビ番組などが、理性によって不適切な面が削除されるなどの修正を施されているにしろ、成長していく子供には必要だと思えますし、大人にとっても、自身の内に含まれる土台となっているレベルを再確認して健全に保つために、それらに接することが時に必要になるように思えます。このように、左下の内面的集合的側面でも、やはり発達・進化は、個的象限同様に、含んで超える形で起こっていると言えそうではないでしょうか。
ただ一つ気になることがあります。すでに引用した文中でウィルバーが生物圏は宇宙全体(物質圏全体)を含んでいると述べていることです。そこには、今私が述べてきた以上のことが言われていると思います。ここまで私は、人間の各側面ごとに含んで超えるということが実現されているかどうかを考察検討し、そのように言えなくもないと結論しました。ただしそこで含んで超えるというときの含むとは、前段階の全てではなくその本質的な部分を含むということです。ところがウィルバーは、たとえば人間の個的側面が原子の個的側面を含んでいるように、人間の四つの側面が、人間に至るまでに表れた全ての段階の四つの側面を丸ごと含んでいることになるのだという論理を使用しているようにも見えるのです。従って、人間は原子の集合的側面である銀河だって含んでいるのだよと。しかし個的側面の特定の発達段階で妥当であると見えたまるごと含んで超えるというあり方が、他の段階や他の側面にも通用するのかどうかは吟味する必要があるのではないでしょうか。私にはウィルバーの論旨に飛躍が感じられます(ただし第二部では、四象限を持つホロンという概念を使い、そこでは含んで超えるとは四象限まるごと含んで超えることだとしました)。
ウィルバー・コスモロジーは、分かち難い側面である四つの象限をもったコスモスが、含んで超えるという進化の過程を経て現在にいたっているという、全象限全レベルの世界観になっていることを一応確認してきました(詳細に関しては疑問を残したままです)。次に、このウィルバー・コスモロジーがヴィジョン・ロジックの認識能力で描かれたものであり、しかもトランスパーソナルレベルで直観されたであろう非二元的世界の有様になっていることを説明したいと思います。

ヴィジョン・ロジックとは

 形式的操作という認識能力では、ものごとに関する様々な可能性を並列して眺めることができたわけですが、ヴィジョン・ロジックという認識能力では、一歩進んで、それらの可能性を統合的にとらえることができるようになります。そのため、ヴィジョン・ロジックという認識能力を駆使できる統合的な理性のレベルでは、形式的操作を駆使した合理的な探求の成果を、統合的な全体性の中に当てはまる要素として捉えようとします。ここに、形式的操作とヴィジョン・ロジックとの質的な相違があります。形式的操作段階では、「ばらばらを通してつながりを見る」のですが、ヴィジョン・ロジック段階では、「統合的な全体において、つながりや階層を見る」ことになります。例えば、各国の政治的リーダーの思考形式で考えてみますと、合理性の段階にあるリーダーたちであれば、「自国の利益はこうだ」という意見を提出しあい、様々な可能な立場があることを理解し、その間の矛盾を調整し、妥協点を見出そうとするのでしょうが、統合的な理性の段階のリーダーであれば、単純に矛盾を調整するというよりは、「いったいどういうあり方が、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」(岡野守也、『自我と無我』、PHP、2000、p.134)と最初から発想するようになっているのです。

ウィルバー・コスモロジーはヴィジョン・ロジックの成果である

 形式的操作の前段階である具体的操作期では、事物に関するあらゆる可能性を並列して眺められませんから、それらの可能な在り方を対比して批判的に考えていくこともできません。そのため、例えば「すべては土と火と水と空気」からできているというように、はっきりとしないところまで神話的な信念で固定的にとらえてすませたりします。それに対して形式的操作を駆使できる理性段階の人々は、神話的信念におけるはっきりしない部分の無批判なドグマティックなつながりは一旦廃し、様々な事物が見た通りにばらばらにあるということから再度認識を開始し、それらにあらゆる可能性を見て取り、論理的な仮説をつくり、検証することによって相互のつながりを考えていきます。ただその時、分析して知られた事物相互間のつながりは、手順としては調べた結果現れる二次的なものですから、基本的には「ばらばらを通してつながりを見る」ことになります(図7-8参照)。

図7-8

例えば、私達がいて、そのまわりには自然環境があり、考えてみれば私達の祖先は自然環境から出てきたのであり、また私達自身、自然のものを食べたり使ったりしてつながりをもって暮らしているわけで、だから、「私達は(この大いなる)自然の一部なのだ」というような見方がその典型です。「私達がいて、その回りには自然環境があって」という、私達と自然環境が分離して存在することが、私達と自然とのつながりの前提になっているわけです。
ところで、ドグマティックな神話的前提を廃した理性の段階での科学的探求は、現代自然科学においては、この宇宙はビッグ・バンから始まり、素粒子、原子、分子、細胞、魚類、爬虫類、哺乳類、そして人と、前段階を含んで超えるようにして進化してきたことを示すまでにいたっているとウィルバーは見ます。つまり、宇宙にあるものは全て、同じ根源からの進化を通じて一体であり、現在の私達の中には、宇宙のビッグ・バンから始まる137億年の進化の過程の全てが、層をなして詰まっていることが示されたと見ています。
実はこの現代科学の説明は、ヴィジョン・ロジックを使用したものだと考えられます。形式的操作の次のヴィジョン・ロジック段階では、ものごとに関する様々な視点と可能性の存在を自覚して探求するだけでなく、その探求結果に「統合的な全体における、つながりや階層を見る」能力が付け加わるわけです。したがって、今述べてきました、現代科学で考えられている、根本において何の区別もなかった一つの宇宙が、含んで超えるという深化の道程で、様々な形を現してきたというストーリーは、平板な形式的操作の能力で達成されることではなく、ヴィジョン・ロジックを使用して初めて創造できたのだと考えられるからです。
そしてウィルバー・コスモロジーは、現代科学によって明らかにされた宇宙の進化における階層構造を、分かち難い四象限に拡張して纏め上げたものですから、当然ながらヴィジョン・ロジックの成果だとウィルバーは考えていたのだと思います。

トランスパーソナルレベルにおける非二元的直観とは

 二元論とは、二つに分けて捉えるということですが、ウィルバー1以来、最も基本的な二元論は、見ている主観(自分)と見られている客観的対象(およびそれらから構成される客観的世界)を分離して捉えることだとウィルバーはしています。そして通常、世界とか宇宙とか言う場合、客観的な領域だけを指していることが多いようですから、そこには観察者の主観は入ってきません。ヴィトゲンシュタインの「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」(『論理哲学論考』、ウィトゲンシュタイン全集Ⅰ、奥雅博訳、大修館書店1986年第七版、p.97、初版は1975年)という言葉がそのような状況を簡潔に語ってくれています。視界には見ている眼が登場しないように、周囲に広がる世界には観察者である主体は登場しないわけです。
パーソナルなレベルでは、世界のあらゆる事物を、主観と客観の対で始まる二元論的な境界づけで把握しようとしているように思えます。何らかの境界づけがなければ、いかなる形、いかなる概念も現れようがないはずだからです。
しかし、主観客観の境界づけであれ、その他いかなる境界づけであれ、境界づけられて現れる二面は、必ず対になって生じるわけです。そもそも主観と客観とは一方だけで成立するものではないのです。そうしますと、世界の実相とは、あらゆる二元論的境界づけで現れる各両側面を相補的に含んで超えた何かということになるのではないでしょうか。
ウィルバーは次のような例えを使って、二元論的境界づけが生じるには、そのもととなる切れ目のない一体性を持った何かがあるはずだと主張しています。白い紙の面に線を引くことで、二つの領域を作ることができますが、その二つの領域を作るためには、境界線を引くための紙面があったわけですし、その紙面は境界づけられたのちも、相変わらず切れ目のない下地として、一つの面として存続しています。また次のような例えも私は考えてみました。立体的な物体は、右側面の姿と左側面の姿を持っていますが、その二面で立体の姿を不足なく表現できるわけではありません。それらはあくまでも立体の一対になったある二面でしかないわけです。その他にも上下の二面もありますし、表裏の二面もあります。おそらく二面のとりかたは無数に考えることができます。そして立体そのものはそれらの各二面を超えています。超えているその在り方はどれほど二面を連ねようが結局は表現しようがないからです。
このような例えから類推するに、パーソナルなレベルでは、主客と言う差異化を代表とする二元論的境界づけで世界は現われてくるわけですが、そのためには境界づけられる元になった、切れ目のない基底があったはずで、そしてその基底は、二元論的境界づけで現れる二面を含んで超えていると思うのです(『アートマン・プロジェクト』の184ページ、『インテグラル・スピリチュアリティ』の184ページなどでは、存在の深層構造を表現するために基底という言葉が使われていますので参照してください)。基底は、切れ目がないことと超えているということを強調する時には、境界づけられた形(色)では表わすことができないということで「無形の基底」と表現されることになります。あるいは「空」とか「無」とかいう言葉で表現されることになります。主客の二元論の結果であるパーソナルなレベルでは、このようにして二元を超えた非二元的な在り方を一応述べることはできますが、述べられるだけで実感はできません。個を超越していない(トランスパーソナルではない)からです。しかしながら、逆に考えますと、この非二元的な無形の実相(空)は、現れるときには必ず二元的な形(色)でしか現出することはないわけです。したがって、パーソナルなレベルでは、「空」は結局「形を持った現れ」でしかありません。このような状況がとりあえず「色即是空、空即是色」、あるいは非二元的世界観ということだとしておきます。

ウィルバー・コスモロジーは非二元的である

 ウィルバーが、もし沈黙の三年間において、このようなトランスパーソナルなレベルで初めて実感できる非二元的な世界の実相を体験したとするなら、彼のコスモロジーは非二元的に構成されているはずです。
コスモスの地図は、このような非二元的な世界観を地図としては十分に表わせていると思います。図全体が全てを含む切れ目のないコスモスになっていて、全ての境界づけの基底である無形の空を表わしています。そして書きこまれている様々な項目が、そのコスモスが立ち現れるときの形、側面を表わしています。その最も大枠となる側面が四象限なわけですが、そこには、基本的な二元論である主観と客観とが、分かち難い左象限と右象限として表現されているわけです。そしてこの主客の左右象限と、個と集合の上下象限から造られる四つの側面において、ビッグ・バン以降の進化の過程で、レベルや時空間的領域がさらに境界づけられることで全ての事物は現れてくるわけですが、それらは根本においては切れ目のない一つのコスモスの現れでしかないわけです。ただし、これはあくまでも地図ですから、それを見て合理的に理解するだけでなく非二元的な有様を実感するためには、見ている人がトランスパーソナルな意識レベルに達している必要があります。
以上で、「ウィルバー・コスモロジーの概要を述べ、それがヴィジョン・ロジックの認識能力で描かれたものであり、しかも超個段階で直観されたであろう非二元的世界の有様になっていることを示す」というところまで来たつもりです。
以下第Ⅱ部では、今一度その構造をホロンという概念を使って説明してみたいと思います。ウィルバー自身の著述では、ホロンという概念が頻繁に登場してきます。ただ彼のホロン概念の使用法は読者に混乱をもたらすようなものになっていると私には思われました。そこでここまではホロンという概念は使用せずに彼のコスモロジーを説明してきましたが、よりその構造の深みを顕わにしたり、超個の意味をクリアーにしたりするには、やはりホロンという概念が不可欠になると考えました。
ただし、ホロンの解釈に関しては、ウィルバーの考えをベースにはしていますが、私が独自に付け加えたり変えたりした部分もありますので、以下の論考は、必ずしもウィルバー自身の考えをなぞったものにはなっていないことをお断りしておきます。

 

Ⅱ ホロンで構成されるコスモス

ホロンとは

 コスモスの地図である図7-5の右上象限を再び見てください。宇宙が始まり、その後、原子、細胞、原核生物、真核生物、神経系を持つ生物、神経管を持つ生物、脳幹を持つ爬虫類、辺縁系を持つ原始的哺乳類、新皮質を持つ高等生物、複合新皮質を持つ人間というように、含んで超えるという創発によって、低レベルからより高レベルへと、様々な種類の個が現れてきたことになります。これらの個は、単純に客観的な外面を持つだけではありません。外面と分かち難い側面として、それぞれのレベルに応じた主観的な内面(意識)も持っています。この内面の創発の様子は、左上象限に表わされています。原子の把握から人間のヴィジョン・ロジックに至る系列です。
さらにこれらの個は、各レベルにおいて、同レベルの他の個と共に構成する集合のメンバーに必ずなっています。各レベルの存在は、相補的な関係にある個的側面と集合的側面を持つのです。そしてこの集合的側面にも、メンバーに共有される外面と内面があります。集合的外面は右下に表わされており、原子の集合的外面である銀河系から、情報化された全地球的社会にまで至る系列があります。集合的内面は左下に表わされていて、原子の集合的内面である物質的内面からケンタウロスまでの系列があります。
これらの、分かち難い四象限をもった存在は、全体性を持ちながらも、より高次の存在に対しては部分になり得る存在です。これがホロンです。ホロンという概念はもともとアーサー・ケストラーという人が考えたらしく、それについてウィルバーは次のように述べています。

アーサー・ケストラーは、ある文脈において全体であると同時に別の文脈で部分である単位を指すのにホロンという単語を造った。たとえば「山のあなた」という句において「あなた」は個々の文字に対しては全体であるが、句に対しては部分である。そして全体(あるいは文脈)は部分の意味と機能を決定する。「あなた」の意味は「山のあなた」と「あなたのペン」では異なっている。言い換えれば、全体とは部分の集合以上のものなのであり、多くの場合に部分の機能を決定し、影響を与えるものである(またその全体もまた同時に違う全体の一部なのである。このことについてはすぐに触れる)。(『進化の構造1』、p.33)

ホロンはもともとこのような、語の意味論において造られた概念であるようですが、ウィルバーはそれを、コスモスの進化の過程に現れる、分かちがたい四象限を持った存在を意味するように捉えなおしたのです。たとえば彼は次のように述べています。

すべてのホロンは、その存在においてこの四つの側面(ないし次元または「象限」)を持つ、というのが私の見方である。したがってホロンは、志向、行動、文化、社会という文脈の中で研究できるし、されなければならない。いかなるホロンも単純に一つの象限だけにあるのではなくて、かならず四つの象限を持つのである。(『進化の構造1』p.207)

同じ本の中でウィルバーは、個的ホロンとか集合的ホロンとか文化的ホロンとか社会ホロンとか、特定の象限にのみ現れる様々なタイプのホロンについて言及し、私が今述べたようなホロン概念に当てはまらないホロン概念も使っているようですし、ケストラーの述べていた意味でも使っています。しかもそれらをきっちり差異化していない様子も見受けられ、様々な混乱をもたらしているように思いますが、それに対しての吟味は別の機会で行うことにして、本稿では原則としてコスモスの進化の過程に現れる四象限を持った存在をホロンと呼ぶことにします。

左上象限の私秘性

 前節で述べましたように、ホロンは含んで超えるという進化の過程で現れる四象限を持つ存在だとしますと、人間というホロンの四象限には、上側に個人としての側面、下側に集合としての側面が現れるわけです。ここで個的側面に注目してください。これは個人です。どの個人も人間の側面ですから集合のメンバーである共通性があるわけですが、その一方で、大きかったり小さかったり、我慢強かったり短気だったり、外面においても内面においても違いがあります。そうした一人一人の違いをきちんと表現するのが個的側面であるとするのなら、このホロンの個的側面はたとえば私である場合、あるいは友人のAである場合、あるいは職場の同僚のBさんである場合とで異なることになるのではないでしょうか。仮にそうだとして、異なる個的側面を持つホロンは異なるホロンだとしますと、ホロンは個人の数だけあることになります。
しかもそのとき、ホロンを個的側面で個別化する根拠は個的内面にこそあると私は考えます。Aさんを個的側面に持つホロンと、Bさんを個的側面に持つホロンの二つのホロンを想定してください。両ホロンは人間の集合的側面を共有しています。人間としての基本的世界観(かなりの幅を持たせています)と人間の社会システムを共有しているのです。従って当然ながら両ホロンを集合的側面で区別することはできません。さらに私は、二つのホロンは個的外面でも区別できないと考えます。外面は客観的な側面ですから、一方の人の個的外面は実はそのままの形で他方の人の集合的外面の中に他者の外面として現れるはずです。客観的外面ですから、自分として現れようが、他者として現れようがそこに何の本質的な相違もありません。そうだとすると、個的外面も実は二つのホロンで共有されており、それで二つのホロンを区別することはできないと思うのです。ここでウィルバーが四つの象限を個的内面(主観的側面)、集合的内面(関主観的側面)、客観的側面の三つに簡略してビッグ・スリーと呼ぶ際に述べていることを引用してみます。

右側の道は外面であり、「それの言語」で記述できる。そのためにそれをひとつの大きな領域と考えることもできる。他の二つは「私」が主語となる左上と、「私たち」が主語となる左下の領域である。すると領域は三つとなり、議論を簡略化するためにこれを(それ、私、私たちの)ビッグ・スリーと呼ぶことにしたい。(『進化の構造1』、pp.229-230)

このように四象限をビッグ・スリーに簡略しても実質上問題が生じないと彼がしているのは、今述べましたように個的外面は集合的外面にそのまま顕わになり得ると考えたからだろうと私は推測しています。
しかし個的内面はどうでしょう。例えば私が体験することは、私そのものでなければ持ちえない純粋に私的なものだと思えます。今朝私は少し大きな地震のために恐怖を感じましたが、それはその時私でなかったなら体験できなかったことです。その体験が起きた時に、近くにいた他の人が私の表情を見てどれほど私に感情移入できようが、やはりそれはあくまでも他者による私の体験の再構成です。再構成された体験は、もとの体験ではありません。私が体験した時に私になっていなければ決して同じ体験をしたことにはなりません。そして、この私以外の誰も、その時の私と同一人物ではないのです。
以上でうまく議論できたか不安はありますが、ホロンの四つの象限の内、左上個的内面によってこそ各ホロンは区別されることになるのです。ホロンには個的内面という相互に侵しがたい個別性があるために、個の数だけホロンがあることになると私は考えます。
時にウィルバーは、文化ホロンであるとか、社会ホロンであるとか、集合的側面における存在をホロンと呼んでいますが、元来は、全てのホロンは四象限を持つとしていました。近著『インテグラル・スピリチュアリティ』の367ページでは、四つの象限を持つのは個的ホロンだけであるという叙述もあります。読者にとっては、一体彼はホロンをどう定義しているのだろうと途方に暮れてしまうような状況になっているのですが、私は思い切って、個的内面で一つ一つの個に対応関係を持つ、四象限を持った存在のみをホロンだとしてみます。そして個的内面は、人間だけでなく、コスモスの進化の過程で現れたすべての個的存在にもあてはめて考えることにします。
そうしますとコスモスは、このような、個的内面で区別することのできる無数のホロンの総体であり、それを地図化すると第Ⅰ部で登場しました図7-5のようになるわけです。

ホロンの四象限図

今、甘木太郎と甘木次郎という二人を考え、その内面を個的内面とする二つのホロンを四象限図で示してみますと、図7-9のようになります。個的外面と集合的外面は、前節で述べましたような理由から、まとめて右側象限の外面として扱うことにします。

図7-9


仮に人間のレベルが、図7-5におけるレベル13であるとしますと、各象限は、レベル13までの全てのレベルを含んで超える形で構成されていることになります。例えば右側の外面であれば、銀河系、惑星、ガイア・システム、有機的生態系から情報化された全地球的社会までを、左下の集合的内面であれば、物質的、プレローマ的からケンタウロス的文化までを持っています。それらは、個体発生と系統発生の両者を含みますから、系統発生的な面に焦点を合わせますと、人間が進化するまでの宇宙の歴史が含まれることにもなります。時にウィルバーは、やや詩的な雰囲気で、超新星爆発が私の血管のなかで起こり云々と叙述したりしますが、自らの集合的側面での包含関係からすれば、そのように言いたくなる気持ちはわかります。
二人のホロンは、右側の外面と左下の集合的内面においては、レベル13までの全てを含んでいて、共有しています。これらの側面は全ての人間が共通に持っているわけで、これらでは人間を個として識別することはできません(図7-9にはコスモスと一致するとも書かれていますが、このことは後に説明します)。しかし、左上の個的内面は、先述しましたように、極めて私的であり、二人の人物では共有できません。この側面は、全てのホロンの、その個別性を識別できる側面であり、重なり合うことは決してないのです。
次にエレキという名の猫と、Aと呼ぶことにする原子のホロンを図7-10に示してみます。

図7-10


猫のエレキのホロンは、各象限で、図7-5のレベル8までを含んで超える形で持っています。その外面と集合的内面は、人間も共有しています。しかし、8より上、13までのレベルの外面と集合的内面は持っていませんから、そこは人間とは共有できていないわけです。個的内面は、人間でも猫でも、これは全てのホロンで単独でしか持ち得ない側面です。また、原子Aのホロンは、各象限で、図7-5のレベル1までしか持っていません。個的内面は単独でしか持ちえませんが、左外面と集合的内面は人間とも猫とも共有しています。ただしレベル2以降はないので、その部分は人間とも猫とも共有していません。このような人間、猫、原子のホロンの非対称関係をはっきりさせるために、それらを重ね合わせた甘木太郎の四象限図を図7-11に示しておきます。

図7-11

コスモスはホロン超越的(トランスホロニック transholonic )である

 仮に人間が現時点で、進化の最先端にあるとしますと、このコスモスには、レベル13までしか存在しないことになります。その場合、コスモスの四象限図はどのようになるでしょうか。先程二人の人物のホロンを取り上げ、四象限図にしておきました。各象限はレベル13まであります。コスモスも、同様に各象限はレベル13までです。そうしますと、右側の外面と左下の集合的内面においては、コスモスの四象限図と人間のホロンの四象限図とは完全に一致してしまうことになります。しかし、左上の個的内面だけは違います。人間のホロンの四象限図では、個的内面は、その人物の個的内面でしかあり得ません。従って、他の人物、あるいは他のいかなるホロンの個的内面も含んではいません。それに対して、コスモスは全てのホロンを含むわけですから、コスモスの四象限図では、左上の個的内面はあらゆるホロンの個的内面でもあるわけです(図7-12)。

図7-12
 そうしますと、コスモスはホロンではありません。ホロンの個的内面は、私が提案したように定義すると、元来その私的性質から、他のホロンの個的内面が重なることはないわけですが、コスモスはそのあり得ない状況を個的内面にもっているのです。これはホロンと同じく四象限を持ちながら、しかしホロンを超えてしまっている、ホロン超越的(トランスホロニック transholonic―― ここで造語しました。本来日本語では超ホロンと言うべきでしょうが、語感がしっくりこないのでホロン超越的としました。holon-transcendentではありません)な在り方をコスモスはしているわけです。このように言っていいかもしれません。ホロンはどの象限も一頁にまとまります。ところがコスモスは、右側外面と左下集合的内面は一頁ですが、左上個的内面だけは、その他の一頁しかない象限と分かちがたくつながっていながらも、コスモスにある無数のホロンと同じだけの数の頁を持っているのだと。あるいは、コスモスの個的内面は、私たちを初めとする無数のホロンの個的内面をその側面としてもつ、それらを超えた何かだと。
このようなことは、この章の初めの方で述べた、人間や猫、原子などの一般概念が現実化したものの四象限についても言えます。例えば人間という現象を考えたとき、それは個人としても集合(社会)としても存在しており、両者は相補的な関係にあるとしました。そうであるなら、上側象限は、全ての個人がそれぞれとして表れている有様を示しており、下側象限はその集まった社会としての有様を示しているのでしょうから、上側個的象限とは特定の一人だけの内面ではなく、その他のすべての人の内面も同時に表しているはずです。ですから、今私が定義した一人ひとり別々に考える左上象限とは異なるわけです。同じことが猫や原子の四象限についても言えます。それらはすべてホロンではなく、ホロン超越的な在り方をしているわけです。
ただ、人間のホロンの場合、左上象限だけはコスモスとは一致できませんが、先程述べましたように、もし人間が進化の最先端にあるのならば、右側象限および左下の集合的内面においてはコスモスと完全に一致しています。猫や原子のホロンでは、人間に比べれば下位のレベルまでしか持たないので、全ての側面でコスモスに一致することはできません。図7-9から図7-11まででは、コスモスと一致できない側面は、背景を灰色にしておきました。人間のホロンは、その他のホロンと違い、左上象限以外は完全にコスモスと一致しますから、もしコスモスを神と呼ぶなら、最も神に近いホロンではあります(ホロンではなく人間の四象限はコスモスと全ての象限で一致します)。

超個とはホロン超越である

 四象限図でホロンを捉えますと、私はホロンですから、全ての象限が分かちがたい自分の側面であることが見てとれます。私には個的内面(心)と対応した個的外面(身体)があります。これは日々実感していることでもあります。また、個的外面である身体は周囲の外面とつながっています。周りを見渡すことでこれも基本的には実感できます。そして集合的内面の一員であることも、家族、同僚、同国人、諸外国人とコミュニケーションをとり、様々なレベルで共感することで実感できます。これらのつながりはただホロンであることで、そのありのままに気づくことで確認できます。
しかし、ホロンである限り、実感的にそのつながりを確認できないことがあります。それが他のホロンの個的内面です。あるホロンの個的内面にはそれに対応する個的外面があります。そしてその個的外面は他のホロンと共有している外面世界の中に登場します。そこには他のホロンの個的外面もともに登場しています。そしてそれら他のホロンの個的外面各々にはそれに対応する個的内面があります。このようにして、あるホロンの個的内面と別のホロンの個的内面の間には共有する外面を通じて間接的なつながりがあります。あるいは、文化と言う互いに共有する内面を通じてやはり間接的なつながりがあります。こうしてホロンは、右側外面と左下集合的内面(文化)に関しては、共有することで他のホロンとの直接のつながりを確認できるのに対し、個的内面だけはその私秘性ゆえに他のホロンとの直接的つながりを確認することができません。
ところで、個人がその意識において、トランスパーソナルなレベルに発達するということは、個を超えて、異なるホロンの個的内面を持つことができるということ、あるいは他のホロンの個的内面を体験することだとします。そうだとしますと、トランスパーソナル心理学でいわれているように、意識の発達段階にトランスパーソナルな段階があり、そのなかにさらに細かい段階があるということは、他のホロンの個的内面を体験できる程度の違いが当然そこには伴っているのではないかと推察されます。例えば自然神秘主義では、物質的なレベルでの他のホロンの個的内面を体験できることが伴い、神性神秘主義では、神話レベルでの他のホロンの個的内面を体験できることが伴うというようなことが考えられるわけです。いずれにしろ、そのような状況はホロンを超えていますから、トランスパーソナルはホロン超越(トランスホロニック)です。
このホロン超越が完全になり、コスモスに完全に重なるときには、人は全てのホロンの個的内面を取れるようになっています。そのときには、一切衆生が自分自身でもあるのですから、もしそのような状況をある程度体験したことがあれば、通常のホロンに戻っても、その体験の残り香により、多くのホロンに対し慈悲を感じるのは当然のことだと思えます。
結局ウィルバーのコスモスの地図は、通常超個(トランスパーソナル)と言われるトランスホロニックなレベルでの直観を、ホロンレベルの四象限に写し取ったものだと私には思えます。コスモスの地図を見るだけでも、全てのホロンの個的内面は、同時にコスモスそのものの個的内面の一環であると理屈でわかりますから、確かに私が猫の頭を撫でているとき、コスモスがコスモスを撫でているのだと理解できます。ただ、心からそう思うには、トランスホロニックな体験が必要になるのです。
次章ではウィルバー・コスモロジーの応用例を扱いたいと思います。