「意識と感覚・情動・思考の分離」 をMMエッセイズに掲載しました

以下、「意識と感覚・情動・思考の分離」の前書きより引用しました)
 『ホモ・デウス(上下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2018年)は、ハラリの前書『サピエンス全史』と同様人類史の概要とその未来予測を描いていますが、『サピエンス全史』よりも未来予測の方に重点を置いています。
 彼の描いた未来に関する可能なシナリオの一つは、知能において人間を凌駕する人工知能(AI)が現れ、人類の多くが社会をやり繰りしていくのに完全に無用な存在になってしまうというものです。その予測に私はなんとも暗澹とした気持ちを抱きました。しかしハラリは、そうしたシナリオが気に入らないなら、「その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」(『ホモ・デウス(下)』p.244)と述べてもいます。そして巻末で次のような問いを発するよう読者に提起しています。

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?

2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?

3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか? (同書p.246)

 1番目の問いは、生命科学が主張し始めているように、人間も含め生物は、アルゴリズムという問題解決のためのデータ処理形式で完全に説明できてしまう、生化学システムにすぎないのだろうかという問いです。もしその問いに肯定的な答えが出るなら、人間の生化学システムに記述されているのと同じアルゴリズム(またはそれより優れたアルゴリズム)を持つ電子システムによって人間は完全に代替可能となり、先ほどのシナリオのように、人類の多くは無能者階級に貶められ、消滅の危機に陥りさえしそうです。
 しかし彼は、どれほど人間そっくりに行動するロボットが現れようが、あるいは知能においてはるかに人間を凌駕するAIが登場しようが、それらには人間にあるとされる意識はないとします。そこで2番目、3番目の問いで、AIやロボットにない意識の価値についてよく考察し、もし意識に掛け替えのない価値の可能性がわずかでもあるなら、人間が無用者階級に追いやられるような社会の実現を許す前に、すぐれた知能を持つAIやロボットを利用する社会はどうあるべきかをよく考えなさいと提起しているのです。
 そこでこの小文では、彼の提起に少しでも応えるために、次のように意識に関して考察したいと思います。まずは『ホモ・デウス』に書かれていることを参考にすると、意識に関してこのようにまとめられるだろうという見解を作ってみます。そしてその見解を、ディヴィッド・J・チャーマーズ、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、ケン・ウィルバーといった優れた諸思想家の、意識に関する見解と比較し、より明確にしてみます。そうした上で改めて人類の未来について展望してみます。
 ところで、『ホモ・デウス』の中で私にとって最も印象深かったトピックは「意識と知能の分離」ということでした。意識を持たないAIが、意識を持つ人間にしか持ちえないと思われていた高度な知能を持てるなら、当然意識と知能とは分離的に扱えられるだろうという考えです。私はそのトピックは、同書に書かれている他のことも考慮すると、「意識と感覚・情動・思考の分離」という考えにまで拡張できると思いました(知能は思考の一部と見なしえると思います)。そこでこの小文の題も「意識と感覚・情動・思考の分離」とした次第です。

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