意識と感覚・情動・思考の分離
増田満
『ホモ・デウス(上下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2018年)は、ハラリの前書『サピエンス全史』と同様人類史の概要とその未来予測を描いていますが、『サピエンス全史』よりも未来予測の方に重点を置いています。
彼の描いた未来に関する可能なシナリオの一つは、知能において人間を凌駕する人工知能(AI)が現れ、人類の多くが社会をやり繰りしていくのに完全に無用な存在になってしまうというものです。その予測に私はなんとも暗澹とした気持ちを抱きました。しかしハラリは、そうしたシナリオが気に入らないなら、「その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」(『ホモ・デウス(下)』p.244)と述べてもいます。そして巻末で次のような問いを発するよう読者に提起しています。
1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか
3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか? (同書p.246)
1番目の問いは、生命科学が主張し始めているように、人間も含め生物は、アルゴリズムという問題解決のためのデータ処理形式で完全に説明できてしまう、生化学システムにすぎないのだろうかという問いです。もしその問いに肯定的な答えが出るなら、人間の生化学システムに記述されているのと同じアルゴリズム(またはそれより優れたアルゴリズム)を持つ電子システムによって人間は完全に代替可能となり、先ほどのシナリオのように、人類の多くは無能者階級に貶められ、消滅の危機に陥りさえしそうです。
しかし彼は、どれほど人間そっくりに行動するロボットが現れようが、あるいは知能においてはるかに人間を凌駕するAIが登場しようが、それらには人間にあるとされる意識はないとします。そこで2番目、3番目の問いで、AIやロボットにない意識の価値についてよく考察し、もし意識に掛け替えのない価値の可能性がわずかでもあるなら、人間が無用者階級に追いやられるような社会の実現を許す前に、すぐれた知能を持つAIやロボットを利用する社会はどうあるべきかをよく考えなさいと提起しているのです。
そこでこの小文では、彼の提起に少しでも応えるために、次のように意識に関して考察したいと思います。まずは『ホモ・デウス』に書かれていることを参考にすると、意識に関してこのようにまとめられるだろうという見解を作ってみます。そしてその見解を、ディヴィッド・J・チャーマーズ、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、ケン・ウィルバーといった優れた諸思想家の、意識に関する見解と比較し、より明確にしてみます。そうした上で改めて人類の未来について展望してみます。
ところで、『ホモ・デウス』の中で私にとって最も印象深かったトピックは「意識と知能の分離」ということでした。意識を持たないAIが、意識を持つ人間にしか持ちえないと思われていた高度な知能を持てるなら、当然意識と知能とは分離的に扱えられるだろうという考えです。私はそのトピックは、同書に書かれている他のことも考慮すると、「意識と感覚・情動・思考の分離」という考えにまで拡張できると思いました(知能は思考の一部と見なしえると思います)。そこでこの小文の題も「意識と感覚・情動・思考の分離」とした次第です。
ハラリが述べていることを参考に意識に関する見解をまとめる
自分の意識の存在は確実であり、心は意識(主観的経験)の流れである
心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れだ。これらの精神的な経験は、感覚や情動や思考が連結して形作っている。感覚や情動や思考は、一瞬湧き起こったかと思えば、たちまち消える。すると他の経験が去来し、束の間起こってはすぐに去っていくことを繰り返す。このように経験が激しく入り乱れて意識の流れを構成している。(『ホモ・デウス(上)』p.134 以下断りがなければこの節での引用は『ホモ・デウス』からであり、上下の違いとページ数のみを記します)
このように、心は意識あるいは主観的経験の流れで、その内容は感覚・情動・思考などだとハラリは考えています。そして意識の流れは直接体験する具体的な現実だとし、「その存在は疑いようもない」(上p.135)としています。
他者の意識の存在に関しては確言できない
自分の意識の存在を確実視する一方で、ハラリは他者の意識の存在について次のように述べています。
他人の場合には、私たちはただ、意識があると推定しているだけで、本当に意識があると確実に知ることはできない。ひょっとしたら、全宇宙の中で何かを感じる生き物は唯一私だけで、他の人間と動物はすべて、心を持たないただのロボットなのか?(上p.150)
科学の大躍進のうち、他人にも自分と同じような心があるかどうかという、悪名高いこの「他我問題」を克服してのけたものは一つもない。(上p.151)
このようにハラリは他者の意識に関しては、存在しているとは断言できないとしています。確かに私は、自分の意識に関してはそれを疑うときにさえ、疑うことで意識を実感してしまうのですが、他者の意識に関しては、そのような実感を持つことはできません。例えばハラリがいくら自分には意識(主観的経験)があると主張しても、私は彼ではないので同じように実感を持ってそれを確信できません。逆に他者には、私の主観的経験の存在を確信できるはずはないと思います。本人であること(本人として実感すること)が主観的経験を確信するための必要条件であるかぎり、このような結論になってしまうと思います。
ところが共同主観という領域があることをハラリは確信している
次の引用文のように、多くの人は世界を主観と客観の二分法で見ているとハラリは指摘します。
たいていの人は、現実は客観的なものか主観的なものかのどちらかで、それ以外の可能性はないと思い込んでいる。だから何かが、たんに自分が主観的に感じているものではないと納得がいったときには、それは客観的なものであるに違いないという結論に飛びつく。(上p.180)
自分が生まれた時を想像すると、全く分別などなかったでしょうから、当然内面と外面の区別なども一切認識していなかったことでしょう。育つうちに、発達心理学者のジャン・ピアジェが言うように、毛布をつねってもいたくないのに、自分の体をつねると痛いなどの体験から、自分の体とそうでないものとの違いに気づき始め、やがては自分の内面の主観的な感じと外面の客観的な対象という見方(簡単に言えば私とその他との区別)が成立し、基本的にすべてをその二つに分けるようになっていったのだと思います。ところが実際には、主観、客観のどちらかに分けることのできない、共同主観的領域があるのだとハラリは主張します。
第三の現実のレベルがある。共同主観的レベルだ。共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。歴史におけるきわめて重要な因子の多くは、共同主観的なものだ。お金には客観的な価値はない。一ドル札は食べることも飲むことも身につけることもできない。それにもかかわらず、何十億もの人がその価値を信じているかぎり、それを使って食べ物や飲み物や衣服を買うことができる。(上p.180)
そして彼は、人間が広大な共同主観的領域を手に入れたことを「認知革命」と呼び、その影響の絶大さについて次のように述べています。
七万年前、認知革命が起こってサピエンスの心が一変し、そのおかげで取るにたりないアフリカの霊長類の一つが世界の支配者となった。進歩したサピエンスの心は、広大な共同主観的領域へのアクセスを突如手に入れた。そのおかげで、サピエンスは神々や企業を生み出し、都市や帝国を建設し、書字や貨幣を発明し、ついには原子を分裂させ、月に到達することができた。(下p.190)
宗教も社会のシステムも科学も、人々がコミュニケーションを重ねることによって作り上げた一種の虚構、共同主観的領域の所産であるとハラリは考えているのです。
科学的な帰結は客観的で、虚構ではないと一般に思われています。しかし、もし真に客観的な帰結であれば、それは人間の思考からは独立し所与であり、一度得られれば揺るがすことができないはずです。ところが科学の歴史においては、客観的で否定のしようもないと考えられた理論が覆されてきた事実があります。例えば、偉大な科学的帰結であったニュートン力学は、その時空概念を相対性理論によって覆され、その物質観を量子力学によって覆されました。思えばどんなに精密な測定装置も、科学者たちが互いに共有している理論に基づいて、ある考えを検証しようとして設計されたわけですから、それによって得られた実験データは当然理論的な負荷を負っています。経済学者ミュルダールは、経済学は決して客観的な科学ではあり得ず、何らかの価値観のもとに構成されていると主張しましたが、自然科学も科学者共同体で認められた何らかの理論を前提とした検証しかできないのです。そして、仮に前提としていた理論と矛盾した結果が出たとしたら、科学者共同体に共有されてきた諸概念に基づいて合理的な思考で新しい概念なり理論なりを練り上げ、共同主観的な領域を変革していくことになります。したがって、科学的探究がどれほど進もうが、得られた帰結も大幅に共同主観的であり、相対的な仮説以上には決して至らないとすべきなのでしょう。
また、極めて個人的で主観的だと思われている宗教的信念の内容は、他者との交流においてもたらされた宗教上の教えに基づいていますから、大幅に共同主観的な領域の影響を受けています。例えば一部仏教徒が持つ輪廻転生に関する信念は、元をたどれば、自分ならぬ僧や仏教書からの学びに由来し、その学びの内容は、仏教集団に保持されてきた共同主観的な世界観の一部です。
このように、個人的主観的な様々な信念も、また様々な対象に関する知識も、ほとんどは生まれてから以来の多様な交流を通じて形成してきたものばかりです。こうしてみますと、主観的であるとか、客観的であるとかと分類されている事象のほとんど全ては、共同主観的な領域にあるものを通して差異化して知っているにすぎないことになります。ハラリは、共同主観的な領域を「第三の現実のレベル」と述べていますが、私には、この領域こそが認識の背景をなす中心的な存在だと思えます。人々が共有している主客の枠組み自体からして、人類が人類同士または人類意外と交流する中で練り上げてきた共同主観的な世界像にすぎないと言うべきなのでしょう。
しかしこのように、共同主観的領域の存在を認めると、それを共有し、それを練り上げてきた人々各自の意識(主観的経験)の存在を疑うことなどできなくならないでしょうか。そもそも他者にも、感覚や情動や思考などの主観的経験があるからこそ、互いにそれらについて語り合い、コミュニケーションをとることができるようになるはずで、他者の主観的体験を認める必然性を感じます。
心には二つの側面が存在するのか
他我問題に触れ、他者の意識(主観的経験)の存在を疑いながらも、他方でハラリは共同主観的領域の存在を重視しています。そして共同主観的領域の存在を認めるなら、当然他者にも意識があると認めざるを得ないことになりそうです。そうすると彼は意識について矛盾した考えを持っていることになります。一方で他者の意識(主観的経験)の存在を疑いつつ、他方で他者の意識(主観的経験)は当然存在するはずだとしていると。しかし話はそう単純ではないようです。『ホモ・デウス』の中で、彼は心というものを単純に意識の流れだと考え続けたわけではなく、次の引用文にあるように、従来意識内容とされてきた感覚や情動は、意識はなくとも存在するかもしれないと考えを進めているのです。
生命科学は、すべての哺乳類と鳥類、そして少なくとも一部の爬虫類と魚類には感覚と情動があると主張している。ところが、最新の理論は、感覚と情動は生化学的なデータ処理アルゴリズムであるとも主張している。ロボットやコンピューターは主観的経験をせずにデータを処理することが知られているが、動物も同じようにしているのだろうか?じつは人間の場合でさえ、感覚と情動の脳回路の多くは、完全に無意識にデータを処理し、行動を起こすことができる。だから、空腹感や恐れ、愛情、忠誠心といった、動物が持っていると私たちが見なす感覚と情動のいっさいの陰には、主観的経験ではなく無意識のアルゴリズムだけが潜んでいるのかもしれない。(上pp.135-136)
すなわち、生命科学やコンピューターテクノロジーの成果から、意識と感覚・情動との間にあると想定されていた必然的なつながりは否定され、分離できることになりそうなのです。さらに、以下の引用文のように、高度な知能まで意識から分離されつつあるとハラリは述べています。
今日までは、高度な知能はつねに、発達した意識と密接に結びついていた。チェスをしたり、自動車を運転したり、病気の診断をしたり、テロリストを割り出したりといった、高い知能を必要とする仕事は、意識のある私たち人間にしかできなかった。ところが今では、そのような仕事を人間よりもはるかにうまくこなす、意識を持たない新しい種類の知能が開発されている。なぜなら、そうした仕事はみなパターン認識に基づいており、意識を持たないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識をほどなく凌ぐかもしれないからだ。(下pp.137-138)
過去には人間にしかできないことがたくさんあった。だが今ではロボットとコンピューターが追いついてきており、間もなくほとんどの仕事で人間を凌ぐかもしれない。……二〇一六年のコンピューターは一九五〇年代のプロトタイプと同じで、まったく意識を持っていない。とはいえ、私たちは重大な変革の瀬戸際に立っている。人間は経済的な価値を失う危機に直面している。なぜなら、知能が意識と分離しつつあるからだ。(下p.137)
引用文では、意識を持たないロボットとコンピューターが人間を凌ぐ知能を持ち得ることから、意識と知能の分離が起こると述べられています。心の働きとして感覚、情動、思考をハラリは挙げていましたが、知能が意識と分離するということは、理知的な思考が意識と分離しつつあるということでしょう。作曲を始め芸術の分野でも今やAIが人間を凌ぐ成果を収めつつあると言われていますから、理知的な思考のみならず、創造的な活動にかかわる思考も含め、思考活動全般が意識と分離しつつあるのだと思えてきます。
このように、意識ある心の働きとされていた感覚、情動、そして思考までが実はデータ処理アルゴリズムの一形式であり、意識を持たないロボットやコンピューターの電子システムにそのアルゴリズムを写し取らせることもできるなら、心には、分離可能な二つの側面、すなわち、意識(主観的経験)の側面と、それと分離できる感覚、情動、思考などの働きの側面があるとする方向性が見えてきます。そうしますと、他者の心に関して、その意識の側面が欠けている可能性を認めながらも、意識から分離できる感覚・情動・思考といった活動内容に関しては、その存在を確信しても矛盾ではなくなるのではないでしょうか。こうして、私は自身の心に意識の側面と感覚・情動・思考などの働きの側面の両者があると確信する一方で、他者の心に関しては、広大な共同主観的領域を通じて交流できることから感覚・情動・思考などの働きの側面があることを確信しながらも、意識は欠けているかもしれないと矛盾なく疑えることになります。
この心の二面性とならんで、もう一つ私にとって極めて重要だと思われる、「ホモ・デウス」の中で述べられている考えが、意識の発達・進化ということです。
意識は感性との循環により発達・進化する
発達心理学のご託宣を待たなくても、誰でも自らの人生を振り返れば、心が変容してきたこと、そしてその変容の中には、心の成長・発達と言えるような面があることに思い当たるでしょう。その心の変化・発達は、主観的経験と感性の循環によって実現されるとハラリは考えているようです。
経験と感性は果てしないサイクルをたどりながら互いに高め合う。感性がなければ何も経験できないし、さまざまな経験をしなければ感性を伸ばすことはできない。(下p.53)
必要な感性なしでは、物事を経験することはできない。そして、経験を積んでいかないかぎり、感性を育むことはできない。(下pp.53~54)
おそらく、感性とは、共同主観の領域からの多大な影響のもとで、個人が過去の主観的経験から培ってきた知識のプールのようなものだと私は思います。例えば、様々な芸術作品に触れることで、それまでには味わえなかった審美的な感覚をもたらす感性を身につけられたりするでしょうし、あるいは数学の様々な問題を解く体験を積むことで、新しい問題を解く際の感覚は鋭くなっていくでしょうし、やがては明らかにレベルの異なる問題が解け始めるときが来たりもするでしょう。感性と主観的経験の相互循環による心の変化には、より繊細な美的体験や味覚体験などができるようになるだけでなく、例えば前操作期から具体的操作期へ、そして形式的操作期へというような、ピアジェの発達心理学にあるような知的レベルの向上ということもあるのでしょう。
ところで、個人個人には、このような感性との循環による主観的経験の発達ということがあるのでしょうが、ハラリは「何百万年にもわたって、生物の進化は意識の道筋に沿ってのろのろと進んできた」(下p.138)と述べてもいますから、より大規模に、生物における系統的な意識の進化ということにまで視野を広げているように見えます。そして、このような発達・進化によって生じた、「存在しうる精神状態のスペクトルは無限かもしれない」(下p.192)とさえ述べています。電磁波には、電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線というように、連続的に次第に短くなる波長の無数に並ぶ列が見られ、それをスペクトルと呼んでいますが、意識にも、進化・発達による無数のレベル(スペクトル)が存在し得ると彼は考えているのです。そしてそのスペクトルの高次な部分には、通常の意識レベルを超えていると想定された、特別な、霊的と称されるレベルもあるとして、彼は次のように述べています。
霊的な旅はたいてい人々を神秘的な道に連れ出し、道の行先に向かわせる。この探求は普通、私は何者か、人生の意味とは何か、善とは何かといった大きな疑問から始まる。(上p.227)
そして、このような特殊な意識状態への探求を特に近代西洋がないがしろにしてきたとし、次のようにも述べています。
人間至上主義の革命が起こると、近代の西洋文化は卓越した精神状態に対する信心や関心を失い、平均的な人間の平凡な経験を神聖視するようになった。したがって、近代以降の西洋文化は、尋常ではない精神状態を経験することを求める特別な階級の人々を欠いているという点で、類がない。(下p.195)
このような西洋文化の在り方に対し、AIに追い越されつつある知能自体を超えた、神秘主義的な尋常ならぬ意識状態へ人間が進む道筋もあると彼は考えているのです。生物の進化・発達には、意識の進化・発達の側面があり、人間において、スピリチュアルな域にまで達し得ると考えているのです。
どうやら彼は、意識のレベルに関して、通常のレベルより高次なレベルにスピリチュアルなレベルを置き、通常のレベルより低次なレベルに動物と重なるレベルや、フロイト・ユング・仏教唯識などの心理学における深層心理のレベルを置いているのではないかと思われます。そして多分、意識とその内容との分離という厄介な問題が、通常より高次だったり低次だったりする様々な心理的レベルを通じても生じてくるのでしょう。
意識に関するハラリの見解のまとめ――共同主観的領域中心の考えへの転換
ハラリは自分には意識があり、主観的経験をもつことを確信しています。しかし、他者にも同じように意識があり、主観的経験が生じていると断言はできないとしています。そういう考え方に私は同意できます。主観的経験を知ることの必要条件に経験者本人であることがあるとすれば、私は他者が主観的経験をしていると知ることなどできるはずもなく、それゆえ他者に意識があることも、主観的経験が起きたりしていることも断言できないと思うからです。
しかしその一方で、人類には互いのコミュニケーションと結びついた広大な共同主観的領域があると彼は考えていますから、当然他者も意識を持ち主観的経験をしていると考えていることになります。他者も主観的経験をしていなければ、その内容を共有することなどそもそもできないはずだからです。このことにも私は同意できます。しかしそうしますと、他者の意識の存在を断言できないということとの間にあきらかな矛盾が生じてくるように思えます。ところが、この矛盾が矛盾でなくなるような考えが彼の本には書かれています。意識と意識内容と見なされてきた感覚・情動・思考との分離につながる考えです。
生命科学、コンピューターテクノロジーの発達から、感覚・情動・思考は、データ処理アルゴリズムとして把握できつつあり、そのアルゴリズムを実行できるAIを装着した意識を欠くロボットが登場しつつあります。そうしますと、意識は感覚・情動・思考といった、これまで意識と結びつけて心の内容とされていたほとんどのものと分離できることになりそうです。私の心には他者にはその存在を確信できない意識の部分と、それと分離できる、他者と共有することも可能な感覚・情動・思考の部分とがあることになりそうなのです。そうであれば、一方で自分自身の意識と、主観的経験の内容の両者の存在を確信しながら、他方で他者に関してはその意識の存在についての疑念を保有したまま、その内容とされてきた感覚・情動・思考については、共同主観の領域とともにその存在を確信できることになります。主観的体験に、意識体験と感覚・情動・思考の体験の二つの側面があるという言い方をしてもいいかもしれません。
また、意識の部分と感覚・情動・思考の部分の両者は、進化・発達するものとハラリは考えています。特筆すべきは、感覚・情動・思考などを超え、神秘主義的な、スピリチュアルな、あるいはトランスパーソナルなレベルまで意識は進化・発達できると彼が考えていることです。意識とその内容の分離というような話題が、そのような高度なレベルにおいても成立するのかどうかなどについては、『ホモ・デウス』の中に私は手掛かりを見つけることができませんでしたが、しかしハラリは瞑想のトレーニングを長期にわたり継続していたということですから、何らかの見解を持っているのだろうと推察します。また彼は、生物の進化は意識の道筋にそって起こったと述べていますから、感覚・情動・思考の連なりの中に、普通意識と結びつけてはいない生命発生初期から存在し続けている原初的感覚とでもいうようなものまでを想定していそうです。
以上が、『ホモ・デウス』に書かれていることを私なりに寄せ集めつなぎ合わせて造った、私なりの解釈による、意識に関するハラリの見解です。このあとこの見解を、ディヴィッド・J・チャーマーズ、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、ケン・ウィルバーといった優れた諸思想家が、おのおの人生のある時期に持っていたと考えられる、内面・心・意識に関する見解と比較して、より詳細に浮かび上がらせ、有用と思われる部分があれば習合していきたいと思います。
チャーマーズの考え――心には二つの側面がある
心には、自身に関してしかその存在を確信できない意識の部分と、共同主観の領域を通じて他者と伝達しあえる、感覚・情動・思考といった主観的経験の内容の部分があるという考えを、ハラリの意識に関するありうる見解として述べましたが、心に二つの異なる面があるという考えは、哲学者ディヴィッド・J・チャーマーズにもあります。そこで、彼の考えをまず紹介し、それと私が解釈したハラリの見解を比較してみたいと思います。
心的状態に関する二つの特性
人が行動する際には、その行動を引き起こすことになった、その人の内面での何らかの状態があったのだと思えます。例えば、ある人のバナナを食べるという行動では、その人の空腹感、急いでいるので手軽に食事をすますことが望ましいとしたその人の思考、バナナは栄養があるというその人が持っているイメージなどが原因になっていることは十分ありそうです。その際、空腹感、思考、イメージなどは、それらが引き起こした行動とは異なり、他者が目にすることができないその人の内面での状態だと思えます。これは一例にすぎませんが、一般に人が行動する際には、その行動と因果関係で結ばれているその人の内面での状態があるという考えに、多くの人は同意するのではないでしょうか。
そこで人の内面を心と呼び、感覚、欲求、感情、イメージ、思考などとして生じている内面の状態を心的状態と呼ぶことにしますと、この心的状態には、先ほど述べましたように、その人の外面的行動と因果的関係を持つ能力があるようです。この因果的な能力を、哲学者チャーマーズにならいまして、心理学特性psychological property (『意識する心』、ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社、2001 p.38)と呼ぶことにします。
ところで心的状態は、何らかの体験において現れるもので、そこには、体験の主体にのみ知られる何らかの感じがあると思えます。例えば、怒りの感情を持つときの感じ、空腹であるときの感じ、物理の入試問題を解くときの感じなどなど、体験の主体によって識別できる独特の感じがあると思えます。そういった感じについてチャーマーズは次のように述べています。
……われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある。処理過程には、認知主体であるように感じられるところがある。この内的な側面が意識体験である。意識体験の範囲は、生き生きした色彩感覚から、背景に漂うごくかすかな香気にまで及ぶ。鋭い痛みから、出かかっていながら出てこない考えといった捉えどころのない体験に及ぶ。日常的な音響や匂いから、全身を包み込む崇高な音楽体験にまでいたる。しつこい痒みという些細なものから、深い実存的な苦悩の重みにまでまたがる。ペパーミントの味のように特殊なものから、自我の体験という一般的なものまで含む。体験されたこれらの質には全て大きな開きがある。しかしそのすべてが、心が内的に営む生の突出した部分をなしている。
トマス・ネーゲルが有名にした言葉を借りれば、あるものが意識的であるというのは、そのものにとって、そのものであるのはこういうことだといった何ものかがある場合である。同じように、心的状態が意識的であるのは、そういう心的状態であるとはこういうことだといった何ものかがある場合である。言い方をかえると、心的状態が意識的であるのは、それが質的な感じ――体験に結びついた質――をもつ場合である。そうした質的な感じは現象的な質(フェノメナル・クォリティ)、略してクオリア(質感)とも呼ばれている。この現象的な質を説明するという問題が、まさしく意識を説明するという問題であり、実にここが、心身問題の難しい部分である。(『意識する心』pp.24~25)
情報処理に関係し、外面的な行動の動因となる心的状態の側面を、チャーマーズが心理学特性と名付けたことを私はすでに述べました。その一方で、この引用文で述べられている体験の主体としての感じを伴って持つ心的状態の内的な質の方を、彼は現象的質 phenomenal qualityあるいは現象特性 phenomenal property と名付けるのです。そして結局のところチャーマーズは、心が心理学特性と現象特性を持つという考えから、心に関して二種類の概念があるとして次のように述べています。
二つのはっきり区別できる心的概念がある。第一は、現象的な心的概念。これは意識体験としての心に関する概念であり、意識的に体験された心的状態としての心の状態に関する概念である。これは心のもっともややこしい側面であり、私が的を絞るつもりでいる側面だが、それで心に関することが述べつくされているわけではない。第二は、心理学的な心的概念。これは、行動に因果関係をつける、あるいは行動を説明づける基盤としての心的概念である。ある状態が行動を生み出すのに申し分ない因果的役割を果たしてれば、それはこの意味での心的状態ということになる。心理学的概念に従えば、心のある状態が意識という質をもつか否かは、ほとんど問題にならない。問題になるのは、それが認知体系に果たす役割である。(『意識する心』p.33)
少しまとめておきたいと思います。どの人にも、他の人からは隠されている心と呼ばれる内面があるとし、その心の状態を心的状態と呼ぶことにします。そうしますと、心的状態には二つの側面があるというのです。一つは、行動(他者から見て取れる外面での出来事)が生じる過程で因果的な役割を担う側面です。それを心理学的側面、あるいは心理学特性と呼びます。もう一つは、体験の内面的な質的感じの側面です。この質的な感じは常に認知主体としての感じを伴っています。この側面を現象的側面、あるいは現象特性と呼びます。
すなわち心は二つの側面を持っているというのです。一つは心理学的概念で指示され、行為の生成過程の因果連鎖において役割を果たすことで公共性と客観性につながる心理学的側面です。もう一つは真に個人的で他者からは完全に隠されており、常に認知主体あるいは体験の主体である感じを伴う現象的側面あるいは意識的側面です。
他者の現象特性は存在するのかしないのか?
ところで、次の引用文においてチャーマーズが述べていますように、心の現象特性と心理学特性は事実上常に一緒に生じるように思えます。
現象特性が実例となって現れるときは、必ず心理学特性も実例となって現れる。これは、人間の心というものについての一個の事実である。意識体験は何もないところでは起こらない。必ず認知プロセスと結びついており、ある意味では、そうした認知プロセスから起こるのであるらしい。例えば何かの感覚があるときは必ず、何らかの情報処理が進行している。お望みなら、これを対応する知覚といってもいい。同じように、幸せを意識として体験するときはいつでも、何らかの内的状態が幸せに対応する機能的な役割を演じているのが通例である。因果関係をもたない体験をするというのは、論理的にはありうることだが、体験的事実としてはそれらは並行しているように思える。(『意識する心』p.45)
人が何かを見るときのことを、かなり不正確ではあるでしょうが、生物学的に考えてみます。眼に光が差し込み、何らかの刺激を網膜にもたらし、そして弱い電流が神経系にそって進み、信号が脳のシナプスのシステムに到達してある拡がりを持った現象を起こし、その脳の反応は新たに信号を作りそれを目に送り返し、彼の眼を閉じさせたり開かせたりするようなことが彼の身体に起こる。この過程において、脳(脳のシナプスのシステム)の活動は、行為の生成において因果的役割を果たしています。ところでチャーマーズは、脳が今述べたように活性化され情報処理を行っているとき、同時に、眩しいと感じたり、あるいは細かくてよく見えないと感じたりする際の心理学特性が、目を閉じたり開かせたりする行為の生成に対して因果的役割を果たしていると考えるのです。そして心的状態はその時心理学特性と並行して生じる主観的な感じ、現象特性を持っているとします。もしそのような、脳のシナプスのシステムの活性化と心理学特性と現象特性の同時発生を認めますと、それらの間には何らかのリンクがあるだろうと思われてきます。チャーマーズはとりあえずそのようなリンクについて次のように結論しています。
……心身問題で一番難しいのは、一個の物理的システムがどうやって意識体験を生み出せるのか、という問題である。われわれは物理的な体験と意識体験を結ぶものを、二つの部分に分解してもよさそうだ。物理的な体験と心理学的な体験を結ぶもの、そして心理学的な体験と現象的な体験を結ぶものの二つである。すでに見た通り、一個の物理的システムがどのようにして心理学特性をもちうるかについては、われわれにはもうかなりはっきりした考えができている。心理学的な心身問題は解決されているのだ。残るは、こういった心理学特性になぜ、どのようにして現象特性が伴うのか、という問いである。たとえば、痛みにつながるああいった刺激や反応のすべてに、なぜ痛みの体験が伴うのかという問題である。(『意識する心』p.49)
心理学特性の主要な特徴は行為の生成における因果的役割です。しかし脳内の、シナプスでできたシステムの活性化がそのような役割を果たしていることが科学的に見出されています。それでチャーマーズは、心理学的な心身問題は解決されたとみなし、心理学特性は外面的な物理的システムの状態に、ある意味還元し得るとするのです。それで、残るは心理学特性(行為の生成における因果的役割)と現象特性の間のリンクの説明になります。そして今や、心の内面性の存否は、現象特性の存否に依存しているように思われます。また、彼はこの引用文で、ある重要な考えを述べています。体験に三種類あるとしているのです。心理学的な体験と現象的な体験と物理的な体験です。主観的経験は通常意識体験とされてきましたが、チャーマーズは心理状態を心理学的側面と現象的側面に分け、主観的経験自体も心理学的体験と現象的体験に差異化するのです。
ところで、体験者当人以外の誰もその現象的質を直接に知りえないとしても、誰もが自身の現象的質の存在を、同時発生している心理学特性に言及することによって間接的に他者に伝えることができるように思えます。しかしながら、現象的質の必要条件の一つは体験者自身による直接的な感じだとするなら、結局のところ、自らが体験することのできない他者の現象特性の存在については、やはり確たることを言うべきではないでしょう。例えばチャーマーズは人が緑色の物体を見るときの状況について次のように分析してみせます。
……<緑色の感覚>といった言葉でさえ、それが示す内容は外から持ってきた言葉で確定されている。<緑色の感覚>という言葉を学習するとき、われわれは実際には実物で具体的に示すことによって学習している――草や樹木その他が引き起こす類の体験に、この言葉を適用することを学んでいるのである。一般に、とにかく伝達可能な現象的カテゴリーがわれわれにある場合、それらはわれわれの外にあって典型的にそれと結びつくものか、あるいはそれと結びつくような心理学的な状態との関連で定義づけられる。たとえば、幸福というものの現象的な質について語るとき、<幸福>という語が指し示すものは、暗黙のうちに何らかの因果的役割を介して定着されている。何もかもうまくいっている状態、喜びに躍り上がるような状態等々である。おそらくこれが、ヴィトゲンシュタインの「われわれの内なるプロセスは外へ向かう判断基準を必要としている」という有名な言葉に対する、一つの解釈になるのであろう。
現象的な概念がこのように因果的基準に依拠していることから、われわれの心的概念が意味するものにはそれと結びつく因果的基準以外、何もないのだと示唆する人(ヴィトゲンシュタインやライルにもどこかそうした気味がある)も出てきた。(『意識する心』 p.46)
確かに、現象特性が、結局は外面的な因果関係を介してしか言及できないのであれば、それがあるとすることは無意味とも思えます。なぜなら、すでに述べたように、現象的質の特異性はその直接性だからです。そうして、心的状態に関して語るべきは心理学的側面だけで、現象的側面の存否について語るべきでないように思えます。チャーマーズは『意識する心』の中で、現象特性を欠くだけでその他はまったく変わりのない人間の複製、ゾンビという概念を登場させます。そして他者に関しては現象特性を知ることはできないので、他者は実はゾンビにすぎないという論理的可能性があると彼は考えているようです。しかし、だからと言って、チャーマーズは、他者に現象特性が存在しないことの論理的可能性の現実性を主張しません。逆にその存在を確信して、次のように述べています。
意識体験を締め出してしまおうというのは、われわれ自身がそれをよく知っているという理由一つを採ってみても、筋の通らないやり方である。このようにじかに知っているということさえなければ、意識は生気論の「生気」と同じ道をたどることができた。別な言い方をすれば、われわれの意識に関する知識には認識の非対称があって、それは他の現象に関するわれわれの知識には現れない。意識体験が存在するというわれわれの知識は、まず何よりもわれわれ自身の例から導き出され、外的な証拠はせいぜい二次的な役割を演じるにすぎない。(『意識する心』p.138)
意識体験は現象的質を伴うわけですが、私には、チャーマーズがなぜこのように他者の内面、現象的質についてその存在をここまで断定的に認められるのかについては疑問が残ります。私には、上記引用文において、チャーマーズが「私」と書くべきところを、「われわれ」と書いているところに、そのような断定的態度を取らせる原因を見ることができる気がします。彼は意識体験を「われわれ自身がそれをよく知っている」と述べるのですが、よく知っているのは、「われわれ自身」ではなく、述べている当人である「私」のはずです。なぜなら、当人でなければ実感として意識体験を知ることができないだろうからです。一般的に、このような実感者のすり替えによって(あるいは、当人しか実感できない現象特性と人々が互いにその存在を指摘しあえる心理学特性のすり替えによって)、他者に現象特性が存在しないことの論理的可能性の安易な無視が生じている気がします。もしハラリのように、共同主観の領域があることを視野にいれているのなら、矛盾しながらも他者に意識が存在すると断定してしまうことに私は納得できなくもないのですが、『意識する心』を読んだ限りではそのような視点をチャーマーズには感じられませんでした。
チャーマーズの考えとハラリの考えとの比較
チャーマーズの場合、真に内面的とも言うべき現象特性と、行動において因果的役割を果たす心理学特性の両者で心の在り方を説明します。さらに心理学特性には脳の物理的なシステムの働き(活性化)が常に対応しているとします。一方ハラリの場合、意識(主観的経験)、そして共同主観の領域にかかわりを持つその内容(感覚・情動・思考)という道具立てで心の在り方を説明します。感覚・情動・思考は行動において因果的役割を果たすと同時に、それは生物科学的に脳の生化学的システムのデータ処理アルゴリズムとしても還元的に説明されることになります。
こうして比較してみると、チャーマーズにおける現象特性と心理学特性は、それぞれハラリにおける意識と主観的経験の内容である感覚・情動・思考に対応しているように見えます。私はこれ以降、チャーマーズの現象特性とハラリの意識を、そしてチャーマーズの心理学特性とハラリの感覚・情動・思考といった主観的経験の内容を、原則同じことを表現しているとみなします。また、主観的経験ということにも二面あるとし、現象的経験と心理学的経験と呼ぶことにします。現象的経験は意識経験であり他者に関してはその存在を断定できない極めて私的なものであり、心理学的経験は共同主観的な領域の概念で表現できる経験です。私は私自身に関しては現象的経験も心理学的経験も確かにあることを知っているのですが、他者に確実にあると知っているのは心理学的経験の方のみです。
心に二面性があることはハラリとチャーマーズで一致していますが、すでに明らかになっているように、両者の考えには重要な相違点があります。チャーマーズはハラリが言うところの、主観と客観の二分法に囚われがちな考えをしている人々の一人と言えそうで、共同主観的領域に関する視点が欠けています。そのため彼は、極めて主観的な現象特性と客観的な脳のシステムとの間に挟まる心理学特性の扱いに苦しんでいるように見えます。主観でなければ客観と見なす二分法からすれば、どちらともリンクを持つ心理学特性は、本来どちらかに還元されてしまうべきでしょう。彼は行動において因果的役割を果たす心理学特性は、同様な役割を果たしている客観的な、生化学的な脳のシステムの活性化に還元できると見なそうとしますが、一方で現象特性と並び立つ心の側面であるとして意識との結びつきも否定できません。それに対しハラリの道具立てでは、広大な共同主観的領域を主観と客観の中央に据えて、コミュニケーション可能な心理学特性について異なった説明ができます。
意識あるいは現象特性の当人に対する直接性は極めて私的個人的で、共同主観的にコミュニケーションの題材にはできないでしょうが、心理学特性あるいは感覚・情動・思考は、コミュニケーションの重要な題材で、共同主観的領域に全面的にかかわります。従って、心理学特性は、中途半端な存在どころか、私たちがお互いに心を認め合う上での中心的位置を占めることになります。もともと主観や客観という概念からして、共同主観的な領域で練り上げられてきたものであり、その過程で私の意識を主観とみなし、それと相補的な客観が設定されたとする方が自然に思われるぐらいです。言い方を少し変えれば、共同主観的領域において培われてきた、主客の枠組みを持つ観点で私たちは世界を構想していると思うのです。その構想が培われた共同主観の領域をはっきり認めて主観客観の二分法を考察できることにおいて、ハラリの設定は単純な主客の二分法的世界観に比べて優れた世界観であるように思えます。社会の一員となって、他者とコミュニケーションをとり、共同主観の領域を共有することが人生においていかに大きなウエイトを占めていたかを振り返ると、それを自覚する思想は極めて健全だと思えます。
また、チャーマーズの場合、心理学特性と現象特性は差異化されてはいてもいつも一体だとされ、分離という考えには至っていません。これはハラリが意識を持たないAIが感覚・情動・思考などの心理学特性を持ち得るとし、心理学特性と現象特性は分離可能だという考えに至りつつあるのとは異なります。心理学特性と現象特性が分離可能だとすれば、それらの間の関係は何らかの偶然的なものにすぎないという可能性もあり、必然性にこだわる必要はなくなり、自分以外の誰にでも現象特性があると無理に考えなくてもよくなりそうです。
以上、チャーマーズの見解とハラリの見解との比較をしてきました。心理学特性と現象特性という用語と、主観的経験を心理学的体験と現象的体験とにわけて考えることは、チャーマーズの見解からハラリの見解に取り入れて利用することにします。次に哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが内面について述べていることをご紹介します。個人主義的見解のもとでは、他者に関しては、内面があるかどうか判断しようとすること自体無意味となる論点があることをヴィトゲンシュタインは指摘しています。
ヴィトゲンシュタインの考え――他者の内面の存在を確言できないことを説明する論理
『哲学探究』(ヴィトゲンシュタイン全集8、藤本隆志訳、大修館書店、1976)の中で、ヴィトゲンシュタインは内面の知について次のように述べています。
他人の内的に語っていることがわたくしには隠されているというのは、〈内的に語る〉という概念の特性である。ただ「隠されている」はここでは間違ったことばである。というのは、たとえわたくしには隠されているとしても、かれ自身にはそれが明らかであるはずであり、かれはそれを知っていなくてはならないであろうからである。ところが、かれはそれを〈知って〉はいないのであって、ただ、わたくしにとって存在する疑いが、かれにとっては存在しないにすぎない。(p.440-441)
引用文における、「かれはそれを知っていなくてはならないであろうからである。ところが、かれはそれを〈知って〉はいない」という部分に注目してください。ここにある「それ」は「かれの内面」のことなのは明らかです。そしてその内面をかれは「知っていなくてはならない」のに、「〈知って〉はいない」というのです。一見明らかな矛盾をこの引用文は含んでいるように思えます。しかしこの一見矛盾に思えることは、次のように解釈することで解消されると私は考えます。
他者の内面は私には隠されていますし、また私の内面は他者には隠されています。しかし、当人の内面は当人に隠されているわけではありません。しかもその隠されていないというのは、当人と離れて置かれた何かが、カーテンか何かによって隠されることが可能であるにもかかわらず隠されていないというのではなく、当人にはそのように隠されることがもともと不可能であるが故に隠されていない、ヴィトゲンシュタインはそう言っているのだと。例えば、私は私自身の内面を知るのを避けたり知っているのを疑ったりすることができません。このように、「かれはそれを知っていなくてはならない」ということを、隠されるのは不可能であるから知っているということだと解釈し、さらに、「ところが、かれはそれを〈知って〉はいない」という部分で言われていることを、隠され得るものを知るような仕方で知っているのではないということだと解釈すれば、ヴィトゲンシュタインの述べていることは矛盾したことではなくなると私は思うのです。
すなわちヴィトゲンシュタインは二つの異なる知り方の存在を主張していると思います。一つは人が自身の内面を了解する際に実行されるもので、彼はその了解を避けることができません。もう一つは人が対象を了解するときに実行されるもので、それらは物理的に指示したり、シンボルまたは言葉(概念)を使って言及したりすることで知られ、その人から隠され得るのです。この二つのタイプの知り方の相違から、ヴィトゲンシュタインがそれについて語っている内面は対象ではなく、主観的なものということになります。
ヴィトゲンシュタインの考えとハラリの見解との比較
ヴィトゲンシュタインが、当人によって隠されるのが不可能な仕方で知られるとした内面は、ハラリの見解においては、感覚・情動・思考といった主観的体験の内容(チャーマーズの考えにおいては心の心理学的側面)から分離された心の意識の側面(チャーマーズでは心の現象的側面)に相当すると思います。
感覚・情動・思考など心理学的側面は、共同主観的な領域に基づいて人々が互いに語り合うことができる側面です。ただし、共同主観的領域は広大ですから、共有する一人一人が把握している部分はわずかでしかありません。ほとんどは隠されているというのが妥当であり、把握している部分も、もともとは隠されていたものを、障害をどけることによって把握したというのが実情でしょう。今私が持ち合わせている科学的知識も、政治的な信条も、知的体験を重ねて感性を高めることで、共同主観的領域における知的な障害が取り払われたので得られたと考えるのが自然だと思うのです。お互いに語り合ったりできる感覚・情動・思考のさまざまな在り方にしろ、障害を乗り越えて獲得した共同主観的な一部領域に基づいて初めて知るようになったというのが実情だと思います。従って、心理学的側面は、当人によって隠されるのが不可能な仕方で知られるのではなく、障害を取り払って初めて知られるようになったのであり、ヴィトゲンシュタインが言うところの内面には相当せず、主客二分法的考えでは対象の方に分類されると思います。
ヴィトゲンシュタインのここでの内面の論理は、他者の意識の存在を確信しえないことを説明する一つの見事な方法だと思います。私は、彼の論理を、私が解釈したハラリの見解に付け加えたいと思います。ヴィトゲンシュタインは、チャーマーズのように、他者の意識の存在を確信しえないという論理を安易に無視し始めたりはしません。意識を個人に結び付ける限り、意識は当人でない者が知ることは不可能であり、当人でない者がその存在について語るのは意味がないのです。仮に他者の意識(現象的質)の存在を知ったと強く感じたりしたら、ヴィトゲンシュタインの語った論理を振り返り、個人性を超えている(トランスパーソナルな状況に立ち至っている)と言えるかどうかをよく吟味し、その信憑性を判断すべきだと思うのです。
ウィルバーの考え――ウィルバー・コスモロジーの概要
次に90年代でのケン・ウィルバーの考え(すなわちウィルバー・コスモロジー)とハラリの考えを比較したいと思うのですが、まずはウィルバー・コスモロジーの概要を、私流の説明方法で次の項目順に確認していくことにします。
1.人間の個的側面と集合的側面
2.人間の内面と外面
3.人間の四つの側面
4.人間に至るまでの個的外面における進化の過程
5.四象限に進化の過程を重ねた系統発生的なコスモスの地図
6.個体発生は系統発生を繰り返すという考えの導入
1.人間の個的側面と集合的側面
デジタル大辞泉には、「一般概念」あるいは「普遍概念」について次のように書かれています。
個々の事物のいずれにも同一の意味で適用される概念。魚・木・人間などの類。
例えば「人間」という一般概念では、個々人の間には、大きかったり小さかったり、あるいは髪の毛が多かったり少なかったりの違いがあっても、そこには人間としての何らかの共通性があるとみなしているわけです。その際、単数では共通性は意味をなさないのですから、複数の個人がいることが前提とされています。「人間」という一般概念が事実として成立するためには、人間が個と集合の両者として存在していることが必要です。
ウィルバーは、おそらくこのような考えから個と集合ということは人間という現実の基本的な対となる側面だとしたのでしょう。彼は次のように述べています。
個体と社会(集団)は、一方が他方より高い価値を持つ別のコインではなくて、すべての、そして一枚一枚のコインの裏表なのである。同じものの二つの側面であって、根本的に違ったもの(あるいはレベル)ではないのである。(『進化の構造1』、ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998 p.138)
表と裏とか、右と左とか、上と下とかが一つのものにあるとされるとき、必ず二つ対になって現れます。そのような二つの側面間の関係を相補的関係と呼ぶことにします。ウィルバーは、人間の個々として現れる個的側面とそれらが集まって現れる集合的側面が相補的関係にあるとするのです。図1は、四角形で人間を表し真ん中に境界線を一本引いて、上側を人間の個的側面、下側を集合的側面として表したものです。
図1
実際人間一人一人は一応独立した全体性を持ちますが、実体として単独で存在することはできません。まずもって両親がいなければどの人も生まれなかったでしょうし、両親が生むだけでなく育てなかったら大人には成長できなかったでしょう(両親が面倒を見てくれなくてもその人は成長したかもしれませんが、その場合には、親戚の方とかあるいは保護施設にいる職員の方とかが面倒をみる必要があったでしょう)。また、その両親自身、彼らの両親と彼らが所属する社会がなかったら、生まれたり成長したりすることはなかったでしょう。そうしますと、人間においては、個人(個)とその集合である社会とは本来切り離して考えることはできませんから、個的(Individual)な側面と集合的(Collective)な側面を持つとするのは自然な人間観の一つだと思います。
2.人間の内面と外面
人間の個的側面の具体例である私は今、「内面と外面」についてどう説明すればいいのかなと考えたり、それにしてももぐもぐ食べているこのコンソメ味のポテトチップスはちょっと味がしつこいなと思ったりしています。ところでこういった考えや思いは、私の身体のように誰かが見たり触ったりできる客観的なものではなく、私だけが主観的に体験できる何かで、通常私の心とか意識とか呼ぶものに生じるようです。そして、それこそが私という存在の根源になっている気がします。「我想うゆえに我あり」とデカルトは述べたそうですが、確かにそのような気がするのです。
しかし一方で、そもそも身体がなければ考えたり感じたりできないようにも思えます。痛みを感じたり、何かを味わったり見たり聞いたりするとき、皮膚や舌や目や耳などを通じて体験していますし、かぜを引いて体調が悪いとしっかり考えることができなかったりします。科学者は、脳の複雑な構造があるからこそ、人は様々なことを思考できるのだと主張しています。そうすると、感じたり考えたりすることよりも、この身体の方こそが私という存在の根源であるように思えます。
私という存在の根源になっているものとして、心と身体と二つの候補を挙げましたが、ここではとりあえず次のようにしてみます。たしかに私には心もあるし身体もある。そして、私が何かを(例えば痛みを)感じるときには、私の身体には何らかの物理的刺激(例えば注射針の皮下への挿入)に対する物理的反応(神経システムの活性化)が生じているようだし、私が何かを考えるときには、私の脳の言語中枢などは活発に活動しているようなので、私には、他の人が見たり触れたりすることのできない心とか意識とか言われる側面と、他の人が見たり触れたりできる物質的な身体という側面があり、両者は密接な関係にあると。ウィルバーは前者を内面(Interior)と呼び、後者を外面(Exterior)と呼んでいます。主観と客観とも呼んでいます。
念のために述べておきますが、内面は身体の内側のどこにもないと想定されています。私の身体の内側には内臓があったり脳があったりするわけですが、それらは解剖することによって他の人が見ることも触ることも可能です。しかし、いくら身体の内側を暴いても、私の思考が他の人が見たり触れたりできるように露わになるとは思えません。心とか意識とか言われる内面は、露わにできる空間的位置などない、物質的な形態はとらないものと想定されているのです。
私自身の主観的な側面(内面)と客観的な側面(外面)とについて述べてきましたが、私が普段接している家族や職場の同僚にも私同様に内面と外面があると言えるのでしょうか。彼らに見たり触ったりできる身体(外面)があるのは確かです。しかし覗いてみることは不可能な内面はどうなのでしょう。どんなに親しい人であれ、その心を覗いてみることなどできませんが、私は他者と思考の道具である言葉を共有していて、それを使ってコミュニケーションをとることができます。従って当然彼らに思考したりする内面があると考えてよいのでしょう。ウィルバーが個々人(人間の個的側面)には誰しもこのような内面と外面があるとし、相補的な二つの側面であるとしたのはもっともなことだと私は思います。
ところで前節で私は、両親が所属し私も所属することになる社会(集合)がなければ自分は生まれもしなければ育ちもしなかったと述べましたが、そのとき、両親の精子と卵子が結合しなければ私は生命体として発生することはなかったし、発生した後は、栄養や住処や情報を得させてくれる社会のメンバーになっていなければ大人には育ち得なかっただろうと考えたりしました。精子や卵子、そして社会の様々な有様は工夫すれば誰もが目にすることができる外面で、人間の集合的側面に外面があるのははっきりしています。では内面はどうでしょうか。
いろいろな感覚、衝動、感情などが私の内面、心に生じますが、中でも人として私は、内面において様々な概念を使って思考することができます。私の思考は私個人のもので、そこに人間の集合的な側面とのつながりは一見ないように思えますが、それは大間違いです。今私は、ウィルバーの思想を題材に叙述しているのですが、この叙述の中に現れる様々な概念は私が創り上げたものではありません。私が成長していく過程で、私が属している共同体の中で、親や学校の先生や様々なマスメディア等々から学んできたものばかりです。つまり人としての私の内面にあるほとんどのものは、人々の集合に由来しているようです。
また私は、梅干を見ると、あの独特のすっぱい味覚がよみがえってきますし、その味覚には、梅干入りのおにぎりを食べたときの食感などが、すぐに連想できるといった形で密接に結びついています。この味覚やそれと関連した触覚への思いは、他の文化圏の人にいくら説明しても同じようには了解してもらえない、多くの日本人が共通に持つ感性だと思います。感性は心に生じる内面的なものですから、これは日本の食文化の中で育った私が、同じ文化圏で育った人達と共有している集合的内面の例と言えるでしょう。もう少し大がかりな例としては次のような価値観に関することも挙げられるでしょう。合理的な文化圏で育てば、人々は基本的人権を尊重する価値観を自然に持つことになるでしょうが、伝統に根付いた父権主義的な文化圏に育てば、合理的文化圏からすれば男女差別的と判断されてしまうような価値観を、差別的な意識など全くなしに自然に持つことになるでしょう。このように価値観は、その文化圏に属して初めてその自然さを実感できるもので、やはり集合的内面の一例といえるでしょう。
味覚への思いとか価値観を例に出しましたが、それらは大まかに言えば集団に共有された世界のとらえ方、世界観ということができます。このように人間には、集合においても内面があると言えそうです。こうしてみると、ウィルバーが人間には個的側面にも集合的側面にも内面と外面が必ずあり、それらも人間の相補的な関係だとしたのは自然に思えます。図2は、四角形で人間を表し、真ん中に境界線を一本引いて、左側を人間の内面、右側を外面として表したものです。
図2
3.人間の四つの側面
図1のように人間には相補的な個的側面と集合的側面があり、また図2のように相補的な内面と外面があるとしますと、両図を重ね合わせれば、結局は図3のように、個的内面、個的外面、集合的内面、集合的外面があることになります。それらの呼び方は、主観的個的、客観的個的、主観的集合的(間主観的、文化的)、客観的集合的(間客観的、社会的)というように、いろいろ考え得ると思います。ウィルバーは図3内部の直交する境界線を二つの座標軸とみなし、これら四つの側面を四つの象限(quadrants)とも呼びます。
図3
4.人間に至るまでの個的外面における進化の過程
ダーウィンは生物の進化ということを理論化しましたし、現代宇宙論は、ビッグ・バンから始まる宇宙の進化の過程について述べています。それらをあわせると、物質的宇宙における、人間の身体にいたるまでの、次のような進化の過程を知ることができるとウィルバーは主張します。
ビッグ・バンで宇宙が膨張し始めてからしばらくして、まずクォークやレプトンなどの素粒子が登場し、次にそれら素粒子から合成されたより複雑な陽子や中性子と呼ばれる粒子が現れ、陽子、中性子、電子から合成された原子が現れ、さらに分子が、高分子が、細胞が、神経系を持つ生物が、神経管を持つ生物が、脳幹を持つ爬虫類が、辺縁系を持つ哺乳類が、新皮質を持つ高等哺乳類が、そしてついには複合新皮質を持つ人間が、前段階の個体を含んで超えるようにして現れたと。
これは人間の個的外面である身体に至る進化の過程ですので、先ほどの人間の四象限図の右上に書き入れることにしますと、その結果は図4のようになります。この図で使われている用語は、『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)の305頁にある図の右上象限にあるものを、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したものです。和訳では、原書でmoleculeとあるところが細胞となっていたり、neuronal organismsとあるところが組織となっていたりしましたので、それらを「分子」、そして「神経系を持つ有機体」と直しました。また、SFとあるのは、structure function (構造-機能)の略語です。
図4
ところで、この系列に現れる原子、分子、細胞などを、全体性をもった個としてとらえることで、この右上象限にあらわされているのは、人間の身体に至る進化の過程で宇宙に登場した客観的な個的存在の系列となります。
5.四象限に進化の過程を重ねた系統発生的なコスモスの地図
人間は相補的な四つの象限を持つわけですから、先ほどの右上個的外面の進化の過程に対応して、その他の象限においても含んで超えるという進化の過程があったとウィルバーは考えます。そして、意識の発達(左上象限における個的内面の発達)、文化の発達(左下象限における集合的内面の発達)、社会制度の発達(右下象限における集合的外面の発達)などに関する、自然科学、社会科学、心理学などで得られた知見を組み合わせて、四象限にわたる人間に至るまでの進化の過程を図5のように示すことになります。
図5 (『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)
6.個体発生は系統発生を繰り返すという考えの導入
ところで、ヘッケルというドイツの生物学者によれば、個人の発達(個体発生)は、人という種が現れるまでの進化の段階(系統発生)を繰り返すことになります。例えば私は、母親の胎内で、魚類的、爬虫類的、原始哺乳類的な形態を、含んで超えるようにして次々に経ていくことで、系統的な進化の段階を辿って生まれてきたとするわけです。ウィルバーはこのヘッケルの考えを拡張的に取り入れ、人は宇宙の系統的な進化の段階をたどって生まれてきたとし、図5を、個体発生も表しているとみなします。
そうしますと、図5の右上象限に記入されている発達の系列は、宇宙における個的存在の外面的進化の段階(系統発生)を表してもいるし、最も高度な種である人類の一個体の発達の段階(個体発生)を表してもいるわけです。そしてもちろん、現時点でのすべての個的存在がいずれかにあてはまる発達のレベルを表してもいます。例えば段階8の辺縁系は、宇宙に最初に登場した原始的哺乳類(昔の私たちの先祖であるネズミのような動物)とそのレベルにとどまったままで水平的進化をしてきた現時点で存在している最も原始的な哺乳類(今もいるネズミ)を表していますし(系統発生)、人やそのほかの哺乳類の個体が発生途上に通過する辺縁系が形成される段階を表してもいます(個体発生)。そしてこの図のほかの象限には、対応した各象限での発達の様子が記入されているということです。ところで、一般に宇宙(universe, cosmos )といいますと、物質的すなわち外面的なものの全体をさします。図5の右側は、宇宙の進化において現れた個的存在の外面と、その集合を表していますから、宇宙全体の成り立ちを示していると言えます。それに対し、左側も含めた図5全体は、外面のみならず内面をも含めた全体の成り立ちを示すことになります。それでウィルバーは、内面も含む全体を外面のみの全体である宇宙と区別して、コスモス(Kosmos)と呼ぶことにしています。そして図5で示されるような彼の世界観は、通常ウィルバー・コスモロジーと呼ばれています。
もう少し図5を詳しく見ておきます。原点は、系統発生としては、4つの象限全てを包含するコスモスの始まり(物理的にはビッグ・バンと呼ばれる現象)を、コスモスのメンバーである各個の個体発生としては、その誕生を示しています。系統発生の方で辿っていきますと、この宇宙の始まりからしばらくして、外面的個的存在として原子が現れます(右上)。四象限説では、全ての個的存在には内面があるとしますから、当然原子にも、どんなに素朴であろうが、対応する内面があり、図5では左上象限に把握(prehension)と表記してあります。個的存在の誕生とともに、それらの集合も誕生します。原子のレベルでの集合の外面的なあり方は右下象限にある銀河系です。もちろん初期銀河系は現在のありかたとはかなり異なってはいたでしょうが、基本的な特質はこの時期に現れたわけです。集合にも、外面と相補的な内面がありますから、図5では、左下象限にとりあえず物質的と書かれています。
こうした、4つの象限にわたる原子のレベルを含んで超える形で、やはり4つの象限にわたる分子のレベルが現れるという仕方で、次々と新しいレベルがコスモスに登場するわけです。その際、前段階のレベルでの個体は、必ず次のレベルでの個体数より多く存在します。例えば、全ての分子は原子を部分として持っているのですから、原子は分子よりも数量的には必ず多くあります。全ての哺乳類は、爬虫類の本質的部分である脳幹を含んでいますから、爬虫類は哺乳類よりも数量的には必ず多くいます(分子の部分である原子が原子としてカウントされるように、哺乳類の部分である爬虫類的脳幹は、ウィルバー・コスモロジーでは爬虫類としてもカウントされます。例えば人間である私は、哺乳類としても、爬虫類としてもカウントされます)。
次に、人でなければ現れない段階10のレベルを見てみましょう。外面的・個的側面を表す右上象限で段階10を見ますと複合新皮質となっています。これは人間が登場して初めて現れた脳の部位です。内面的・個的側面を表す左上象限で同じ段階10を見ますと概念と書かれています。ピアジェ等の研究によりますと、現代人は平均的に6歳ぐらいでその意識のレベルは概念を持てる段階に到達します。段階10におけるこの右側象限と左側象限との対応関係は、複合新皮質を機能させ始めるのが、概念を持ち始める6歳ぐらいだということを表すわけです。内面的・集合的側面を表す左下象限で同じく段階10をみますと、魔術的と書かれていますが、これは、概念を認識の主要な道具として使い始めた人々が主導権を握っている集団の文化が魔術的だということを表しています。それは、呪文や呪いがリアルに息づく文化に人々は所属しているということです。そのような文化が初めて現れたのは一万年以上も前のことでしょうが、現在でも同じレベルの文化をもった集団(ブードゥー教を信仰する人々の集団など)はありますし、高度な文化の中にそのレベルの文化的要素が含んで超えられるという形で組み込まれてもいるわけです(様々な非科学的と思われる占いなどの行為が、合理性に達した社会にも、含んで超えられたレベルのものとして組み込まれています)。外面的・集合的側面を表す右下象限で段階10をみますと、鍬農業及び部族的/村落となっていますが、これは、左下象限で魔術的段階にある人々が中心となって形成している社会の経済・政治制度が鍬農業・部族/村落にあたることを表しています。
現代世界においては、少なくとも先進国と呼ばれる国の社会の主導権を握る成人は、左上象限において理性(形式的操作を認識の主要な道具として使用する)レベル、段階12に通常達しているとしますと、左下象限の段階12をみますと合理的な文化が実現し、右下象限の段階12を見ますと産業的な社会の国民国家が存在することになります。そうして、この段階12にある人は、段階12までの全てのレベルを含んで超えてきた存在ですから、理性的な人間としては国民国家のメンバーでありますが、動物としては生態系のメンバーであり、細胞としてはガイアのメンバーであり、原子としては銀河系のメンバーであり、全てのレベルで集合のメンバーとなっているわけです。内面で言いますと、上の方のレベルでは合理的な文化を人々と共有しており、下の方のレベルでは物質的な間主観的内面を原子と共有しているわけです。そして、もし人間に至る系統進化の系列がコスモスの進化であるなら、図5はコスモス全体の地図を表しており、万物の理論とも言えることになります。
ウィルバー・コスモロジーとハラリの見解の比較
四象限説との比較
ウィルバー・コスモロジーでは、個人の内面、心は図5の左上象限で表されています。そこに書かれている感覚、知覚、衝動、情動、前操作、具体的操作、形式的操作という系列は、個人の認識能力の発達を表しており、ハラリの見解で言えば、感覚・情動・思考という心理学特性に相当します。ウィルバーは内面・心ということで、心理学特性と現象特性を一体のものとしていて差異化していません。ウィルバー・コスモロジーでは主観的体験(現象的体験と心理学的体験)はだれにでもあるとし、現象特性も含めて内面が他者に存在することを疑いなどしていません。
右上象限は、左上象限の心理状態に対応する脳の神経系を中心とした個人の身体を表しています。現象特性の扱いを除けば、ハラリあるいはチャーマーズの見解における心理学特性と脳の神経システムとの関係はウィルバーの左上象限と右上象限との関係に当てはまります。
左下象限は、間主観的な側面で、人々が共有する内面です。大雑把に言えば、人々が共有する世界観です。例えば現代の多くの日本人は近代合理主義的な見方が中心で、神仏儒習合的な見方は薄らいでいるというようなことが、左下象限にあてはまる事柄です。ハラリの見解からすれば、これは共同主観的な領域に相当します。
右下象限は、世界観に基づいて築かれた、観察可能な社会の様子が当てはまります。現代の日本の社会であれば、合理主義的な政治・経済の具体的な仕組みや、それらに対応して作られた都市、町、村の構造などが当てはまります。
以上簡単にハラリの見解とも比較しながらウィルバーの四象限をたどりましたが、私が特に注目するのは、ウィルバーが間主観的とか文化とか表現している左下象限と、それに対応するハラリの見解における共同主観的な領域との相違です。共同主観的な領域には、人間がコミュニケーションを重ねて作り上げてきた世界像のすべてが含まれます。宗教も社会システムも科学も含まれます。すなわち、およそ知られうる全ては、共同主観的な領域を通じて見られ表現されているのです。左上象限にある心理学特性も、右上象限にある身体機能も、右下象限にある社会システムも、そして左下象限にある様々な世界観自体も、全て共同主観的な領域を通じて見られ表現された結果なのです。ですから、もしウィルバーの四象限図に似せてハラリの見解を図示するなら、私は図6のように変えます。左上象限はそのまま個的主観的側面とし、右上象限には個的も集合的もひとまとめにした客観的象限を並べ、それらを支えるように、広大な共同主観の領域を下においてみます。主観的とされる心の内容も、個的も集合的も含む客観的世界の内容も、共同主観的領域を通じて知られることを示したいからです。
図6
図6に残る問題は現象特性をどのように扱うかですが、はっきりとその存在を確信できるこの私の意識も、確信はできないけどあるだろうと思う他者の意識も、存在してもしなくても世の中が滞りなく過ぎ去っていくというのであれば、思い切って無視するのも一つのやり方かもしれません。そのように割り切ってしまいますと、人間を凌ぐような心理学特性を持ったロボットが人間に代わって主人公となる世の中が訪れることに特に問題はないような気がしてきます。しかしウィルバーのトランスパーソナルなレベルへの意識の進化に関する見解や、ハラリの霊的なレベルへの意識の進化に関する見解を知ると、そのように安易に割り切りたくはなくなります。
意識の進化に関する比較
ウィルバー・コスモロジーの図5における左上象限は、チャーマーズ言うところの現象特性も心理学特性も一体にしてその発達を表現しているのですが、一応心理学特性に含まれる認識能力を表す言葉でその発達段階を示していて、段階13のヴィジョン・ロジックという項目で終わっています。ウィルバーはヴィジョン・ロジックを理性的な認識能力である形式的操作を超えた、弁証法的理性における統合的な認識能力だとし、それより発達すると個人性を超えたトランスパーソナルな段階に達するとしています。進化・発達は含んで超えるようにして起きるとされているので、個人性の差異化は保持したままで、しかも個人を超えた意識状態を持つ高次な段階があるというのです。思えば、そのようなレベルに到達したことで、個人性の限界内では不可能な他者の意識の存在に関する確信を得ていたので、ウィルバーは現象特性と心理学特性を平気で一体として誰にもあるとしたのかもしれません。また彼は、通常の自覚的な意識だけでなく、それとつながりがあるとみなされる意識下の深層心理まで意識の進化・発達段階の一部として考えているようです。そこには動物と重なる意識のレベルや、フロイトやユングが探求した深層心理のレベルや、仏教唯識における末那識や阿頼耶識と呼ばれる深層心理のレベルなどが現れてくると思われます。左上象限は、通常の意識よりも高いレベルも低いレベルも含む内面として彼はとらえており、ひとまとめに意識と表現しているのです。そうして、分子や原子まで個的存在と捉え、意識があるとしているのです。
ハラリも意識の発達に関しては述べていて、通常の意識レベルを超えていると想定された、特別な、霊的と称されるレベルもあるとしています。すでに一度引用していますが彼は『ホモ・デウス上』で次のように述べています。
霊的な旅はたいてい人々を神秘的な道に連れ出し、道の行先に向かわせる。この探求は普通、私は何者か、人生の意味とは何か、善とは何かといった大きな疑問から始まる。(p.227)
そして、このような特殊な意識状態への探求を特に近代西洋がないがしろにしてきたとします。つまりウィルバーと同様で、知能を超えた、神秘主義的な尋常ならぬ意識状態へ人間が進む道筋も考えているのです。そのような超越的な意識状態について探求するトランスパーソナル心理学をわかりやすく紹介してある『トランスパーソナル心理学』(岡野守也、青土社、2000)を読みますと、スピリチュアルな意識状態へ発達できることはかなり信憑性のあることではないかと思われます。
ただウィルバーの考えで非常に気になることは、彼が内面の進化・発達において明確に述べているのが、認識能力を中心とする心理学特性だということです。心理学特性(感覚、情動、思考等)であれば、共同主観的領域を通じて知られるのであり、個人を超えて人々が互いに語り合えることはそもそも当たり前です。しかしもしハラリが言うように、この心理学特性と分離できるとして、極めて個人的・私的なものとして意識(現象特性)を捉えるなら、進化・発達するのは心理学特性だけであり、意識は進化・発達とはまったく関係ないのかもしれません。他者には意識がない可能性があるのみならず、意識は単に心理学体験を現象的に実感するだけにすぎないという可能性も考えられます。あるいは、共同主観的側面と大幅に関係する心理学特性とは別に、意識(現象特性)には、独自に個人を超えたトランスパーソナルなレベルへの発達・進化が認められるのかもしれません。
結論
ハラリの述べることを私が組み合わせて独自に構成した、人間の内面もしくは心に関する見解は次のようになります。
心には、チャーマーズの用語を利用させてもらえば、現象特性の側面と心理学特性の側面があり得ます。私は今この文章を書きながら思考を実感していますが、この疑いようのない実感が現象特性です。この側面は、もしあるとするならば、当人が必然的に知ることになる側面であり、他者からは決して知られ得ない側面です。私は自身の現象特性の存在を断言できますが、他者になれないことから、他者の心の現象特性は知り得ないし、その存在を断言することもできません。通常この現象特性のことを意識と言ったりします。
心理学特性は、感覚・情動・思考など、一般的に心の機能とされている側面で、人々がその内容に関して共同主観的領域を通じて知り、互いに交流・探求できる側面です。すなわち、互いにその存在を認め合うことができる心の側面で、あくまで個人的・私的な現象特性と異なり、個人性を超えて他者との共有性が大幅にみられる側面です。
ハラリの述べることの中で、私が特に注目したのが、現象特性と心理学特性の分離ということです。生命科学、コンピューター科学の発達から、人間の感覚や情動や知能はデータ処理アルゴリズムとして捉えられる可能性が大となっています。その可能性を少し拡張してみれば、人間の通常の心の働きである感覚、情動、思考はアルゴリズムとして捉えることができ、そのアルゴリズムが記述されたAIを搭載したロボットであれば、全く人間と同じように振る舞うことになるのです。これは、心の心理学特性は、ロボットも持つことができるということです。もしロボットが、結局は機械であり、人間のように現象的側面(意識)を持つ可能性はないはずだとするなら、私が現象的側面と心理学的側面の両者を持っていることは偶然にすぎず、その両者の間には必然的な関係はないことになります。そうであれば、他者に現象的側面がない可能性も受け容れやすくなります。
心の現象特性と心理学特性の分離という考えは、様々な可能性を思い描かせます。ハラリは心の進化・発達ということを考えていて、ウィルバー同様に、認識能力をはじめとした心理機能の発達の系列を発達心理学の一般的な成果から取り入れていると思われます。しかしもし現象特性と心理学特性の分離を導入するなら、心理学の成果は心理学特性に当てはまるのは明らかですが、現象特性もそれと並行して発達するかどうかに関してはよく考えてみるべきでしょう。今私が実感している現象特性は、発達とは何のかかわりもなく、ただ心理学特性を実感するというだけのことでありつづけてきたのかもしれません。これは恐ろしくニヒルな可能性をもたらします。私が何にもましてリアルに実感する現象特性(意識)は、私が生を受けた後のある時からたまたま存在するようになり、あるかどうか知ることのできない他者の現象特性(意識)とは無縁で、また進化・発達とも無縁で、どうやら私の死によってただ消えるのみだと。そんな意識に関するニヒルな可能性を誇大的に捉え、また心理学特性(特に知能や道徳性)においては人間に優るアンドロイドが登場する可能性を極めて大きいとみなすなら、人間中心の歴史はアンドロイド中心の歴史に引き継がれ、無用となった人間が滅びることなど些細なエピソードになってしまいそうな気がしてきます。
しかし、心理学特性が個人性を超えて共同主観的な領域と大幅な関係を持つように、意識は意識で独自に、トランスパーソナルなレベルへと発達できるのかもしれません。そしてもし他者にも現象特性があるなら、人々は互いの現象特性を実感できるようになり(すなわち人々は他者でもあるようになり)、意識に心理学特性にない掛け替えのない価値を認めることができるようになるのかもしれません。
意識は私だけにしかないのか、あるいは一部の人にしかないのか、あるいは全ての人にあるのか、あるいは動物や植物にさえあるのか、あるいは人間と同等以上の能力を持つロボットも意識を持つことがあるのか、はたまた、感覚・情動・思考などを超えるレベルに意識は達することができるのか、などなど様々な疑問があります。もし個人のレベルを超えるといわれるスピリチュアルな意識レベル、あるいはトランスパーソナルな意識レベルに達することができるなら、他者の意識や人間以外の動物の意識について個人レベルでは知り得ないことを知り得るはずですから、それらの疑問に答えられる可能性は大でしょう。
近代西欧文化の大成功は、そのような意識の発達の道筋を覆い隠し、通常の意識レベルで良いとする風潮を生んできたきらいがあります。しかしスピリチュアルなレベルに達しているといわれている人が現実におり、また釈迦を始め多くの先人の記録もあるのですから、そのようなレベルを一般的にすることを試してみてはどうでしょうか。知能のレベルがロボットに完全に劣ってしまったからと言って人間を無用だと考える前に、是非そういう試みをすべきだと私は思います。
心理学特性に関して人間より優れた機能を持つロボットが現れつつある今、果たして意識が誰にも存在し、トランスパーソナルなレベルに達することができ、未来を模索する上で高い価値を持つと評価できるものなのかどうかを、より多くの人が、実践により確かめるときが来ているのだと思うのです。仕事の効率を上げるとか、ストレスをやわらげるためとかだけではなく、意識のレベルを上げることを目標に瞑想を行ったり六波羅蜜の修行を行ったりすることが一般的になるべき時が迫っているのかもしれません。
古代ギリシャ時代のソクラテスや、ルネサンス時代のガリレオは、神話的な時代に合理的な主張をしたため罪に問われました。神話的な時代には、合理性の主張は疑われ、嫌われるのです。近代に入り合理性の主張の方が優勢になり、神話的だったり呪術的だったりする主張は合理性に欠けているとしてまともに信じられることはなくなりましたが、進歩的とされる人々の間で瞑想などが広く行われ始めています。支配的である合理性からは全面的に認められているわけではありませんが、もしかすると現代は、超合理的な、個人を超えた意識への探求が一般的になる時代への過渡期になっているのかもしれません。
参考にした文献
『意識する心』、ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社、2001
(David J. Chalmers, The Conscious Mind, Oxford University Press, 1996)
『進化の構造1』、ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998
(Ken Wilber, Sex, Ecology, Spirituality, Second Edition, Shambhala, 2000)
ヴィトゲンシュタイン全集8『哲学探究』、藤本隆志訳、大修館書店、1976
(Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations second edition, translated by G. E. M. Anscombe, Blackwell publishers, 1997)
『ホモ・デウス(上下)』、ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2018
(Yuval Noah Harari, Homo Deus, A Brief History of Tomorrow, Vintage, 2017)