動物の権利と統合的な人間観

増田満

 スウェーデンでは、「緑の福祉国家」というヴィジョンのもとで人権に環境権が含まれるようになったことを、「サングラハ第142号」(2015年7月発行)でご紹介しました。『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日新聞社、 2006)の著者である小澤徳太郎氏の見解を参考にしますと、どうやらその背景には「人間は動物である」という考えがあるようです。もしそうだとしますと、環境権は人間の権利であると同時に動物の権利でもあると論じることができると私は思います。
一方先進国を中心に動物福祉法が制定されたり、動物の解放や動物の権利を主張する団体や人々が増えたりしているようですが、その背景には、道徳的配慮をすべき存在として、動物と人間とに基本的な相違はないという、おおまかには「動物は人間である」と表現してもいいような考え方があるように思います。そのために動物には人間と同等な権利があると考えているように思うのです。
この試論では、これら二種類の、動物の権利に対する考え方の構造をまず整理します。次に、機能進化のあり方に基づく統合的な人間観を提示します。そうして、その統合的な人間観で二種類の考え方を統一的に捉えることを試みます。最後に、そのような人間観を参考に、将来の社会は動物に対してどのような対応をするようになるのかを展望します。

「緑の福祉国家」における環境権は動物の権利――人間は動物である

しばらく前に大変話題になった『21世紀の資本』(山形浩生・守岡桜・森本正史訳、みすず書房、2014)を読む限りでは、著者ピケティが理想とする社会は、1970~1980年代にスウェーデンで実現していた高福祉社会を、その資産所得格差においてある程度改善させたような社会です。これを古典的福祉社会と呼ぶことにします。そこでは、人は理性と良識を持つ合理的な個人で、そのような個人が互いに連帯して、誰もが人間らしい生活を保障される共同体を構築しています。また、市場経済と私有財産は社会を構成する重要な要素で、自由に発揮した能力と努力に応じて得られた富の所有も、そしてそのために生じる格差も、共同体の利益に反しない限りは認められます。そのため、均一な生き方を強いられて活気をなくしてしまうような社会ではありません。これらのことだけを見ると、古典的福祉社会は文句のつけようのない社会だと思えます。
しかしエネルギーの有限性、急激な気候変動、有害物質による環境汚染、開発による急激な自然破壊などによって、現在のような大量生産・大量消費の社会が持続するのは困難だと明らかになることで、古典的福祉社会をかなりの程度確立したスウェーデンは、持続可能な社会を実現するための新たなヴィジョンを創造しました。それが、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』で紹介されている「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」というヴィジョンです。
同書によるとスウェーデンは、「生態学的に持続可能な社会への道(緑の福祉国家)」を選択し、1996年に「25年後の2021年次の望ましい社会を想定したプロジェクト」をスタートさせ、1999年に「2021年のスウェーデン――持続可能な社会に向けて」という研究成果を公表したとあります。そして、この「将来のあるべき社会の姿」への長期ヴィジョンを実現するために行動計画が創られ、新しい法律の作成・社会制度の変革・技術開発の変革がスタートしたそうです。構想を創造した社会民主党は一時政権を失っていたので、計画は思ったほど実現されていないのかもしれませんが、かの国がすでに20年ほど前、タイムスケジュールも含んだ持続可能な社会を実現するための具体的ヴィジョンを持ち、環境問題への対処に取り組み始めていたというのは事実です。
ところで「緑の福祉国家」には、①社会的側面、②経済的側面、③環境的側面という三つの側面があります。①と②は、合理的な個人としての人間を大事にする、古典的福祉国家としての側面です。③は、新たに加わった環境を大切にするという側面であり、その背景には、「健全な環境は基本的な人権の一部」なのだという考えがあります。人という概念に、土台としての自然生態系(環境)の一部であることが明確に含まれています。人は、合理的存在ではあるけれども、より基本的なレベルでは自然生態系の一員である動物なのです。小澤徳太郎氏が次のように述べていることが的確にそのことを表現していると思えます。

人間は動物である。ある範囲の温度・湿度・気圧・重力のもとで、光を浴び、空気を吸い、水を飲み、動植物しか食べられない!
(『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』、p.74)

古典的な福祉社会のメンバーである人間は理性と良心を持つ合理的な個人でしたが、緑の福祉国家のメンバーである人間には、自然生態系の一員たる動物であることも加わります。すなわち、

人間=理性と良識を持った合理的存在+動物

なのです。
そうしますと、人間の権利といっても、そこには合理的存在として持っている従来の基本的人権と、動物として持っている権利の両者が含まれることになりそうです。先程の小澤徳太郎氏の引用文によれば、動物が存続するためには温度・湿度・気圧・重力・光・空気・水・動植物由来の食べ物、これらに関して一定の条件を満たす環境が健全に実現していることが必要です。その必要性から新たに人間の権利に付け加えられたのが、環境権なのです。それは動物として持つ権利なのですから、人間以外の動物にも当然共有される権利になると思います。

道徳的配慮をすべき存在としての動物の権利――動物は人間である

 人間に動物であるが故の環境権が提唱される一方で、動物の解放という観点から動物の権利を唱える人々や団体が主張を強めています。その考えの基盤には、人間と動物に共通性があり、種差別は行うべきではないという考察があります。ただしその共通性のとらえ方は、環境権の背景にある「人間は動物である」という考えにおける人間と動物との共通性のとらえ方とは大変異なっています。その違いを明らかにするために、まずは動物の解放や動物の権利についての草分け的な理論家であるピーター・シンガーとトム・レーガンの思想について、『動物からの倫理学入門』(伊勢田哲治著、名古屋大学出版会、2008)の記述を参考に簡単にまとめてみたいと思います。

ピーター・シンガーの見解

幸福の量が少しでも多くなるような選択肢が道徳的には望ましいというのが、「最大多数の最大幸福」という命題で有名なジェレミ・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルなどの功利主義による主張です。シンガーは動物についてこの功利主義の立場で論じていて、道徳的配慮の対象であるかないかの基準は、幸福になったり不幸になったりする能力を持つか持たないかだと主張します。そして、全ての脊椎動物や多くの無脊椎動物は痛みや苦しみを感じる能力を持った有感生物( sentient beings )だから、それらは功利主義の立場からすればその幸福を考慮すべきであり、人間ではないからという理由で考慮しないとしたら、それは種差別になると論じます。シンガーは権利という言葉を使っていませんが、彼の考えに共鳴する人の一部が、有感生物にはその幸福が配慮される権利があるのだと考えを発展させたのは私には自然な流れだと思えます。
ただし彼は、動物を殺していいかどうかについては、別の基準を定めています。彼の考えでは、「死」が理解できていない存在であれば、痛みや恐怖を感じさせずに殺すことは決して不正ではありません。家畜を食べるために屠畜すること、必要上実験動物を殺すこと、これらは、それまで幸福に育てられてきたうえで、苦痛なく行われるなら、道徳的に不正ではないのです。
ところが大型類人猿に関しては、死を理解する知的能力を持つという研究もあります。そのため、たとえ苦痛なく行われるにせよ、殺すことは人間同様道徳的に禁じられるべきだとシンガーは考えます。ただし人間にせよ大型類人猿にせよ、死と言う概念が理解できない状況に至ってしまった場合には、幸福の最大化のために殺してもよいとシンガーは論じているそうです。例えば、重度障害新生児や、認知症の患者などに関しては、場合によっては安楽死が認められるというのです。

トム・レーガンの見解

シンガーが功利主義の立場で論じるのに対して、レーガンは義務論の立場で論じますから、彼の考えを説明するには、極々簡単にでもカントの考えに触れておく必要があります。カントは、道徳行為ができる存在を人格(理性的存在者)とします。そして、人格である存在者(すなわち道徳行為ができる存在者あるいは理性的存在者)は、絶対的価値があるものとして尊重され、道徳的配慮の適応対象だとします。すなわち道徳的行為ができる者( moral agent )も道徳行為を受ける(道徳的配慮をされる)者( moral patient )も人格なのです。例えば、「他人に危害を加えてはならない」という危害原理と呼ばれる道徳的配慮があるなら、その適応対象は人格であり、通常人間のみです。
それに対してレーガンは、一般的に道徳的配慮(危害原理)の対象には、道徳行為ができない赤ん坊も認知症の老人も含まれていることを指摘します。そうであるなら、道徳的配慮の対象(絶対的価値を持つ者)はカントの言う人格(道徳的行為ができるもの)とは限らないわけです。そこで彼は、道徳的配慮の対象を、内在的価値をもつ者と表現し直すことにします。つまりレーガンは、カントの道徳的配慮の対象(尊重されるべき者)を、「人格」から「内在的価値を持つ者」に置き換えたのです。
では「内在的価値を持つ者」とはどのような者なのでしょうか。レーガンは動物も含まれるのだと論じます。彼は、危害ということには痛い思いをさせたり、恐怖を味わわせたりすることも含まれるとします。そうしますと、動物にも痛い思いをしたり、恐怖を味わったりするものはいるのだから、危害を加えられることがありうることになり、動物だからということで危害原理に関して無視するなら、それは種差別になるだろうと彼は論じるのです。そうして、赤ん坊や認知症の老人と同様に、動物も道徳的配慮の対象である内在的価値を持つ者に含めるべきだと結論づけます。
さらにレーガンは、赤ん坊やお年寄りや動物もあてはまる内在的価値を持つ者は、「生の主体」( subject of a life )と呼ぶべきものであるとし、一連の心的能力のリストを作り、そのリストの条件を全て満たすなら少なくとも生の主体とみなすには十分だろうとします。リストには、「信念を持てること、欲求や感情を持つこと、知覚や記憶と言った能力があること、未来の感覚があること、『同じひと』としての同一性を保つこと、他人にとっての効用や利害と論理的に独立な自分自身にとっての福利というものがあること」(『動物からの倫理学入門』、p.46)などが含まれているそうです。ただし、これらの条件は大まかで通常よりは広い範囲を許容するらしく、例えば信念なども、言語で表現される必要などないとされているそうです。そういうあいまいさについては、レーガンは次のように書いています。

生の主体の基準は、内在的価値をわかりやすいように、そして恣意的でないようにするために、必要条件としてではなく、十分条件として述べられている。( Tom Regan, The Case for Animal Rights, University of California Press, 2004, p.246にある一文を訳しました。)

レーガンのリストは、私にはその許容範囲などがよくわからなかったりするのですが、具体的には、人間であれば、脳死状態といった極端な状況でないかぎり、誕生から死までほぼ誰でもこの基準を満たすとされています。生まれる前の胎児もある時期以降はこの基準を満たすので、出生後の赤ん坊と同様な配慮が必要だともされています。動物については、「1歳以上の正常な哺乳動物」は少なくとも基準を満たすと彼は考えています。
このように動物も含まれる生の主体をカントが言うような意味で尊重しなければならないとするなら、動物は人間と同じ基本的な権利を持つことになります。赤ん坊に人権を認めるなら動物にも同等の権利を認めなければならないのです。そのため、肉食についても動物実験についてもレーガンは全面禁止という立場をとります。赤ん坊にしてはいけないことは動物にもしてはいけないわけで、狩猟したり、動物園で見せ物にしたり、売買したりもできないのです。

シンガーとレーガンの見解のまとめ

『動物からの倫理学入門』で伊勢田哲治氏は、シンガーとレーガン、そして多くの動物倫理学者の議論構造は、例えば功利主義と義務論というように哲学的には異なる立場に立っていても、次のような項目にまとめられる共通性があるとしています。

(1) われわれがすでに人間に対してあてはめている道徳的な規則(功利主義や危害原理)をよく検討する。
(2) それらの規則の適用対象を人間に限る理由はその規則そのものの中にはなにもないと主張する(つまりそういう限定は種差別に他ならないと主張する)。
(3) それらの規則の内容から配慮の対象(有感生物か生の主体か)や内容(幸福の配慮か危害からの自由か)を決めていく。                    (p.47)

そうして伊勢田氏は、このような議論構造を持つ動物倫理上の立場を「動物解放論」と総称することを提案し、それが動物の権利運動の倫理学における理論的根拠となり、欧米における動物の扱いを大きく変えてきたのだと述べています。
結局、シンガーの考えに大筋で同意する者であれば有感であること、レーガンの考えに大筋で同意する者であれば生の主体であることにおいて、動物は人間と同じであるとみなし、従って人間と同じように道徳的に配慮すべきであり、権利があるとするわけです。すでに述べておいた環境権の場合には、人間は動物であると再確認することで、従来の人権に動物としての権利(環境権)を付け加えたわけですが、「動物解放論」では、動物は人間と基本的に同じであるとみなすことで、すでに人間に認められている人権と基本的には同じ権利が動物にもあるとするわけです。かなり乱暴ではありますが、その方向性の違いを強調するために、一方は「人間は動物である」ということからの議論であり、もう一方は「動物は人間である」ということからの議論であると私は表現してみたわけです。
ところで、動物と人間とに基本的な共通性があり、同じように道徳的に配慮すべきだとしても、実際には動物と人間とには様々な違いもあり、また諸動物の間にもやはり違いはあるわけで、権利を認めるといっても、そこには自ずと差異が出てくるはずです。例えばシンガーの場合、人間および大型類人猿とそうでない動物との差異を設定しています。
そうしますと、動物の権利のあり方に関してより包括的に展望していくためには、次の3つを統一的に説明する枠組みが必要だと思えてきます。

①従来の人権に新たに動物と共有する環境権が加わったこと
②従来の人権が動物解放論によって基本的に動物の権利とみなされるようになったこと
③しかもそこには人間と動物あるいは諸動物間での様々な差異があること

そのような枠組みの一つの候補として、機能進化のあり方にもとづく統合的な人間観があると私は考えます。

機能進化のあり方に基づく統合的な人間観

 理化学研究所脳科学総合研究センターのホームページ( http://www.brain.riken.jp/jp/aware/evolution.html ) に、脳の進化についての記事があります。それを引用してみます。

脳は、生物とともに進化してきた。高度な情報処理が可能なヒトの脳ができるまでには、どのような進化の道のりを歩んできたのだろうか。
長さ2mm、直径0.2mmほどのチューブである「神経管」がつくられることから、脳の形成は始まる。神経管の内側で神経細胞がつくられ、膨らんで脳がつくられていくのだ。神経管はどの脊椎動物でも共通で、その起源をさかのぼっていくと、約5億年前に出現した原索動物であるホヤの幼生に行き着く。
その後進化してきた脊椎動物の脳は、どの生物でも基本構造はとても似ている。どの生物の脳も「脳幹」「小脳」「大脳」から成り、違うのはそれぞれの大きさである。
魚類、両生類、爬虫類では、脳幹が脳の大部分を占めている。脳幹は反射や、えさを取ったり交尾するといった本能的な行動をつかさどっている。小脳は、小さな膨らみにすぎない。大脳も小さく、魚類と両生類では、生きていくために必要な本能や感情をつかさどる「大脳辺縁系」のみである。大脳辺縁系は、進化的に古いことから「古皮質」と呼ばれる。爬虫類では「新皮質」がわずかに出現する。
鳥類や哺乳類になると、小脳と大脳が大きくなる。特に大脳の新皮質が発達し、「感覚野」「運動野」といった新しい機能を持つようになる。霊長類では新皮質がさらに発達して大きくなり、「連合野」が出現し、より高度な認知や行動ができるようになった。ヒトでは、新皮質が大脳皮質の90%以上を占めている。
脳の進化は、基本構造が変化するのではなく、新しい機能が付け加わるように進化してきた。つまり、ヒトの脳には生物の進化の歴史が刻まれているのである。

この引用文の中でまず注目していただきたいのは、最初に「高度な情報処理が可能なヒトの脳ができるまでには」とあること、最後から二番目の段落に「霊長類では新皮質がさらに発達して大きくなり、『連合野』が出現し、より高度な認知や行動ができるようになった」とあることです。脳の進化に伴って、機能が進化するというのですが、ここで考えられている機能は、情報処理、認知という言葉から、心理学でいう認知能力あるいは認識能力を中心にしたものです。進化をたどる際には、物理的な構造としての神経系の進化と、機能としての認知能力の進化を並行させて考えることができるということです。たとえば、感覚、知覚、衝動、情動、イメージ、シンボル、概念、具体的操作、形式的操作といった系列で表されるような、心理学で考えられている認知の発達が機能の進化におおまかにあてはまるとするなら、それが神経系の物理的な構造としての進化と並行していることが期待できます。
そして引用文で次に注目していただきたいのは、「脳の進化は、基本構造が変化するのではなく、新しい機能が付け加わるように進化してきた。つまり、ヒトの脳には生物の進化の歴史が刻まれているのである」という最後の段落です。人間の神経系(おもに脳)および認知能力には、生物の進化の歴史が刻まれているというのです。ただしこの生物というのは、私たち人間がその最新の進化型である、様々な器官を持つようになった有機体という多細胞生物を想定しているようです。
引用文では、脳の構造の進化と機能の進化とがきちんと差異化されていないようですし、進化の過程で現れた様々な有機体とそれらに対応する現在生きている有機体との差異も無視されているようですが、しかしこのエッセイで示したい統合的人間観に関しては極めて示唆に富むことが書かれています。
以前「サングラハ」誌では、長きにわたりウィルバー思想に関する連載を私はさせていただきました。神経系の進化・発達(ほとんどは脳の進化・発達)と、認識能力の進化・発達との並行性は、ウィルバー・コスモロジーを構成する柱でもあります。そこで彼の考えにも触れておきたいと思います。

図1 コスモスの四象限図 (『進化の構造1』、ケン・ウィルバー著、松永太郎訳、春秋社、1998、p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)

図1はウィルバー・コスモロジーを簡潔に表現するための図です。直交する横軸と縦軸によって、四つの象限ができていますが、原点は宇宙の始まりを表現しています。仮にビッグ・バンという現象で宇宙が始まったとするなら、原点はそのビッグ・バンを表します。ところで、ビッグ・バンの後、クォークやレプトンなどの素粒子が最初に個として登場しました。次に素粒子から、陽子や中性子と呼ばれるより複雑な粒子が合成されて個として現れ、陽子、中性子、電子から合成された原子が個として現れ、さらに分子が、高分子が、細胞が、前段階の個を含んで超えるようにして現れ、最終的に人間の個人にまで至ったのだとウィルバーは考えます。そのような、宇宙に登場する個の進化の過程を非常に簡略して表しているのが図1の右上象限です。レベル5からたどれば、直接人間につながる有機体の進化を見ることができます。神経系をもつ有機体、神経管を持つ有機体、脳幹を持つ有機体(爬虫類)、辺縁系をもつ有機体(原始的哺乳類)、新皮質を持つ有機体(高等哺乳類)、複合新皮質を持つ有機体(人間)と、おおまかな有機体の進化がたどれるようになっています。
左上象限では、そのような外面的進化に対応して、内面的(心理学的)な認識能力(認知機能)がどのように進化したかが、やはりごく大まかに書かれています。これもレベル5から始めますと、感覚、知覚、衝動、情動、シンボル、概念、具体的操作、形式的操作とたどることができます。そしてポイントとなるのは、右上象限にある神経系の物理的構造であれ、左上象限にある心理学的な認知機能であれ、後から登場するものは、新しい構造なり機能なりが前段階に付け加わって、含んで超えるように登場するということ、つまり進化の歴史が刻まれているということです。
ところで、以前「サングラハ」誌で「ウィルバー・コスモロジーの批判的考察」を連載し、アンドルー・スミスによる批判を扱った際に、多細胞生物の登場から人間までの進化についてもう少し詳しく書いてみました( http://book.geocities.jp/fourquadrant2/ 、あるいはhttps://masudam.com に改訂版が掲載してあります)。それをほぼなぞってみたいと思います。
真核細胞が細胞の分化を伴い多細胞化するのは、藻類での栄養生成部分と生殖部分との分離が最初だそうです(10~12億年前)。ただ、私達人間に至る系統だけを扱うのなら、動物の多細胞化の方だけを辿ればよいことになります。ウィキペディア(「多細胞生物」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%B4%B0%E8%83%9E%E7%94%9F%E7%89%A9 )によれば、動物の多細胞化と分化の進展に関しては次のように書かれています。

移動することにより、進行方向の細胞が、より餌をとる可能性が高いだろうから、早い段階で、栄養が各細胞に行き渡る仕組みが発達したと思われる。同様に、運動の仕組み、感覚、及びそれらの情報を伝える仕組みが発達し、複雑な組織系、器官系を進化させた。その代償として個々の細胞は互いに依存しあい、個々の部分が独立して生き延びる能力は低くなっていった。

そうして分化と多細胞化の結果登場した最も原始的な動物である海綿は、15種類程度に分化した細胞をもっており、その祖先は10億年前にはすでに存在していたと言われています。外部環境に直接接触する細胞群、外部から内部へ栄養を運ぶ器官、内部で消化を行い栄養を循環させる器官などへの分化が起こったのです。このように組織、そして組織から構成される器官を含む生物をorganism有機体といいます。
最も原始的な有機体である海綿は神経系を含みませんが、クラゲなどが属する腔腸動物になりますと、神経系を含むことになるそうです。その後、やがては脳へと進化する中枢神経を持つより高等な動物が登場してくるわけですが、人間へとつながる進化の過程では、背面に脊索(神経管)はあるが脊椎骨はともなっていないという動物(原索生物 [例:ナメクジウオ、ホヤ])、そして魚類(脊椎動物)、両生類、爬虫類(脳幹)、哺乳類(辺縁系)、高等哺乳類(新皮質)、人間(複合新皮質)と続きます。
こうしてみますと、細胞以降の進化の系列は、おおよそ次のようにまとまると思えます。

細胞(原核細胞、真核細胞)→単純な多細胞生物→組織の形成→器官の形成→細胞が分化した多細胞生物(有機体)→神経系を含む有機体→原索動物(神経管)→魚類(脊髄)→爬虫類(脳幹)→哺乳類(辺縁系)→高等哺乳類(新皮質)→人間(複合新皮質)

組織や器官の形成は、単純な多細胞生物から細胞の分化が進んだ有機体が形成されるのと同時進行的に起こっているようですが、構造的に見ますと、組織は細胞が一様に結合してできたものであり、器官は様々な組織を言わば部品にしてできています。ですから、進化の過程での異なるレベルとしてここでは扱いました。そして器官を部分とする有機体が現れ、神経系の進化とともに認知機能も進化します。そこで神経系の進化と認知機能の進化の並行性も考慮にいれて、ウィルバーのコスモロジーを参考に有機体の進化の様子を表にしますと、非常におおまかには図2のようになると思います。

図2 有機体の進化と機能進化

 

図2では下の方にいくほど進化のレベルが高くなるのですが、それは前のレベルの構造なり機能なりを含んだまま、新たな構造なり機能なりを付け加えて超えるように進行するわけです。例えば一番下、最も進化した有機体である人間なら、進化の過程で登場した神経組織から複合新皮質までの全ての神経系の構造を、そして感覚から形式的操作(理性)までの全ての認知機能を持っているのです。こういった、積み重なって生じる進化のレベルで人間を見る見方を、統合的な人間観と呼ぶことにします。

統合的な人間観と動物の権利――機能のレベルで配慮の基準を設定する

 「緑の福祉国家」では、人権に人間が動物であることから生じる環境権をあらたに付け加えました。統合的な人間観からこれを見るとどのように説明できるでしょうか。統合的な人間観からすれば、人間は人間特有の理性的機能(形式的操作)のレベルから、他の動物たちと共有する情動、衝動、知覚などの機能レベルまで、全てのレベルを含んでいます。ですから、人権というのは、理性レベルだけでなく、これら全てのレベルでの権利を含むものだと考え得ることになります。ところが従来の人権は、民主主義的理念に基づく理性レベルの権利を中心に構想されていたため、最も原始的な有機体と共有するレベルで成立する環境権などはほとんど考慮に入れられていなかったのでしょう。それが、環境問題が生じたことなどから注目されることになり、環境権が従来の人権に付け加えられることになったと統合的人間観からは見ることができます。そして環境権が発生する基準が最も原始的な有機体のレベルであるとすれば、統合的人間観からすれば、全ての動物はそのレベルを含んでいますから、全ての動物が環境権を持つことが説明できます。図2で一番上の最も原始的なレベルの右側に環境権と書いたのは、そのレベルが環境権の基準だということを表すためです。「緑の福祉国家」で、環境権が人権に含まれることになったというのは、人間には合理的なレベルも動物の全てのレベルも含まれているという統合的人間観が自覚的あるいは暗黙の了解のもとに使われていたからだと私には思えます。
ところでシンガーでもレーガンでも、道徳的配慮をする基準を設けていました。シンガーであればその基準は快・苦を感じるということ(有感生物、とりあえず神経系をもつ有機体としました)であり、レーガンであれば生の主体であること(痛い思いをしたり、恐怖を味わったりするもの。具体的には哺乳類)でした。どちらの基準も認知能力のレベルで決まりますので、それらが発生する進化の最低レベルがわかるように、図2の一番右側に書き入れました。
そうしますと、(基本的)人権が道徳的配慮に基づいているとするなら、動物解放論では、この最低レベル以上の動物には人権が適用されることになります。しかし統合的人間観からすれば、それはやや乱暴な考えです。先程も述べましたが、統合的人間からすれば、人間には合理的なレベルも動物と共有するレベルも含まれていますので、人権には合理的なレベルで初めて成立する権利も、動物と共有するレベルで成立する権利も含まれていると考えられます。そうしますと、基本的人権の中で、動物と共有しない理性レベルで成立する部分は当然動物に賦与する必要はないでしょうし、その他の動物と共有すると考えられる部分に関しても、よりレベルの高い動物にしか認められないものもあれば、動物全部に認められるものもあることになるでしょう。つまり、動物間でも基本的人権のなかのどの部分を人間と共有できるかに相違が生じるはずです。
このように、統合的人間観では、権利内容が発生する機能進化の最低レベルを権利の基準とすることで、その基準のレベル以上に進化した動物の全てはその基準で発生する権利を所有していることになりますし、またその基準のレベルまで進化していない動物はその基準の権利を所有していないことになります。こうして環境権、そしてシンガーやレーガンの動物の権利の考えは、統合的人間観からすれば、それら権利が発生する最も原始的な進化のレベルを示すことで、統一的に示すことができるのです。
まとめてみます。環境権が生じるレベル(環境権の基準)は、有機体の進化の最も低いレベルなので、全ての動物(有機体)が環境権を持つことになります。そして従来の人権にはこれは含まれていなかったのです。またもしシンガーのように、道徳的配慮の基準は神経組織を持つ有機体(クラゲ)のレベルだとしますと、それ以上のレベルの動物全てが配慮の権利を持つ一方で、海綿動物のような最も原始的な動物は権利を持たないことになります。レーガンのように、道徳的配慮の基準は生の主体で、それは哺乳類のレベルだとしますと、人間も含む全ての哺乳類は配慮の権利を持ちますが、爬虫類以下の進化のレベルの動物は権利を持ちません。またシンガーは、殺すことが不正になる基準を「死の概念」を持つ大型類人猿のレベルとしましたので(図2にも書き入れました)、統合的人間観からすれば、殺すことを禁じるような配慮を受けるのは大型類人猿と人間だけであり、それ以下のレベルの動物に関しては、殺すことは必ずしも不正とは見なされず、適切な道徳的配慮が満たされる条件のもとでなら、屠畜して食肉にすることも認められます。

まとめ

 デカルトは動物機械論を唱え、理性的に思考する存在である人間と動物とは全く異なるとしていました。カントも人間は人格である存在者、すなわち理性的な存在者で、やはり動物とは全く異なるとしていました。このエッセイの冒頭で触れましたピケティも、人間は理性と良識をもった存在であるとし、基本的にはデカルト、カントと同じ人間観を持っています。彼らの人間観では、古典的福祉社会は視野に入っても、緑の福祉国家や人権を動物にまで拡張することは視野に入ってきません。
それに対して統合的人間観では、人間は理性レベルと動物の全てのレベルを持った存在です。従って人権には、人間特有の理性レベルでだけ成立する部分も、動物のレベルで成立する部分も当然含まれるべきです。そのため従来の人権に、これまで無視されていたレベルで成立する権利が新たに付け加わえる必要性が生じる場合もあるでしょう。例えば環境権の場合、これまで見過ごしていた、有機体の最低レベルで成立する権利であったため、緑の福祉国家のヴィジョンにおいて新たに人権に付け加わることになったのです。また、動物解放論における動物の権利の主張を取り入れて、従来の人権のなかに動物と共有すべき部分があると考えるようにもなるでしょう。

統合的人間観から将来社会の動物への対応を展望する

 今の社会は持続可能ではないという世界的な合意がなされつつあるので、持続可能な社会へと舵を切ろうとして環境権が世界中で認められるようになりつつあります。統合的人間観からすれば、環境権は人間と全ての動物に共有される権利です。そうしますと、統合的人間観を持つ人々は、自らの環境権を侵害してきたのみならず、他の動物の環境権を途方もない規模で侵害してきたことを認め、自然環境の保護・再復、そして急激な気候変動の阻止に動くはずです。その際、幸運にもある程度自然環境が再復できたなら、自然生態系の内で生息している野生動物は、あとは自然の掟のもとで自由に生きることで、権利が十分に認められたことになると思います。
ところが、ペット、家畜、実験動物などの場合、人間社会の法のもとで生きなければならないのですから、野生動物と異なり自然の掟に任せて放っておくわけにはいきません。人間社会には法的に認められた基本的人権があります。統合的人間観からすれば、基本的人権には動物と共有するレベルで発生する権利も当然含まれているでしょう。であれば、人間社会に生きる動物もそれらの権利の所有者と見なされ、配慮されるべきだと思います。そうだとしますと、基本的人権のどのような部分が動物にあてはまるのでしょうか。

基本的人権における動物と共有する権利

「政治経済塾」というホームページ( http://www.geocities.jp/ttovy42195km/sub2.html )に、日本国憲法における「基本的人権」の分類表があります(図3)。便利に思えましたので、それを使って考察したいと思います。

図3 日本国憲法における基本的人権の分類表

 まず明らかに理性レベルでのみ成立する部分を捜してみます。自由権における精神の自由に関する項目はどうでしょう。思想・良心の自由、信教の自由などは、動物には関わりはないと思います。参政権も、選挙権、被選挙権など、やはり動物に関わるとは思えません。それら以外に関しては、何らかの形で動物に関わるのではないかと思います。
たとえば平等権であれば、人間と動物とが共有するレベルで発生する権利に関しては、法律上人間も動物も平等であり、種差別は認められないという形になると思います。身体の自由に関する権利では、奴隷的拘束・苦役の禁止などはそのまま動物の権利とすべきではないでしょうか。財産権や、請求権なども、人間の代理人を通すことで、動物にかかわる場合を想定できそうです。勤労の権利は、労働三権を除けば働く動物に関して成立するでしょう。教育の権利も、その動物が生活するために必要なことを学ぶ権利と解釈できるでしょう。そして動物の権利としてなによりも重要なものは、社会権の中の生存権だと思います。
日本国憲法では25条に規定されていて、次のように書かれています。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

これが動物にも共有される権利であるとするなら、人間社会で暮らす動物には、その動物の元来の生活形態における健康な生活に相当する生活を営む権利があり、人間社会が動物の福祉を制度的に保障しなければならなくなります。そういった考えがあるからこそ、動物福祉法が先進諸国で制定されているのでしょう。そこで、動物の福祉に関して展望してみたいと思います。

動物の福祉について

小澤徳太郎氏のブログにあるスウェーデンでの動物保護法(後に動物福祉法となる)に関する記事を引用掲示してみます(図4)。

図4

ペットや家畜等に関して、元来の自然環境での生活を基準に、健康で安心して生きていくことを保障する生存権の条件を整えることが法律で定められているのです。法は制定されるだけでなく、よりよいものになるよう改正され、また守られていることが確認され続ける必要があります。そのような要請を果たすための動物福祉庁がスウェーデンで初めてつくられたという記事がやはり小澤氏のブログに掲載されています。これも引用掲示しておきます(図5)。

図5

 これらの記事を見る限り、スウェーデンでは、殺すことが前提とされている食肉や被服のための家畜、あるいは実験動物が存在すること自体は不正としていません。認めたうえで、動物福祉法でそれらの動物の扱いを規定しています。ですから、シンガーとレーガンのどちらの考えに近い規定かと言えば、功利主義の立場に立つシンガーに近いものだと思います。シンガーの立場では、「死の概念」を持つ大型類人猿のレベルに達していなければ、動物を殺すことは原則不正ではないのです。おそらく肉食や動物実験が盛んな世界の現状からすれば、功利主義的な立場で動物の権利に関してレベルによる差異を設け、屠畜や死に至る実験を認め続けるのが現実的な選択なのでしょう。しかし、レーガンのような、赤ん坊や認知症の老人に対して行う道徳的配慮と同様な配慮を動物にもすべきだとする考えに賛同する人が大勢を占めるようになるなら、健康な状況で殺して食べることを前提とする家畜や、人為的に不健康にしたり死に至らしめたりすることを前提とする実験動物の存在は禁じられることになるでしょう。これは、機能進化から得られる統合的人間観から動物の権利を考えて、レベルごとの相違を考慮するだけで判断できることではなく、人々がどのような哲学的な観点を採用するのかに依存する問題です。
現実に肉を食べているし、おそらく動物実験によって開発された薬を使っている者として、私は肉食のための家畜や実験動物を禁止すべきかどうかについて判断しかねます。ただ、人間は乳製品や卵から必要な動物性の栄養素は摂取できるし、実験動物を使って調べることの多くが今やコンピューターシミュレーションで行い得るのだとすれば、有感生物に相当する動物は、食肉のための家畜や健康を損ねることが明らかな実験動物にすべきではないという思いは強くなっています。日本では一般的に四足の動物を食すことを避けていたという過去もあるので、制度化しやすいのではないかと思ったりもしています。
また、動物福祉法に対応した制度・施設の充実が必要になってくると思います。老人ホームに相当する老犬ホームや老猫ホームやその他の動物向けの施設。また、そういった施設を運用するための資金を社会保障税の一部として徴収する仕組みも充実させる必要が生じそうです。そうして人間社会に住む動物の全てに福祉がいきわたるように、動物に関するマイナンバー制度や、位置情報を発信するチップを体に埋め込むことによる管理制度も実施されるようになるのかもしれません。
認知機能のレベルの高さということから、鳥類も哺乳類と同様に動物解放運動の対象に入っているようですから、哺乳類と異なる進化の系列にも統合的人間観の考えを拡張する必要があると思いますし、人間が生み出すロボットが人間同様の認知機能を持つ際には、人間と動物との種差別という考えを、人間とロボットの間に対しても応用する必要性が生じるかもしれません。

© M.Masuda

(この稿は、2015年11月25日発行「サングラハ第144号」掲載のものをもとに作成しました。)