書評 21世紀の歴史――未来の人類から見た世界
(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)

増田満

 ジャック・アタリは1943年アルジェリア生まれのフランス人で、ミッテラン大統領の補佐官(1981年就任)、東欧支援のための「ヨーロッパ復興開発銀行」の初代総裁(1991年就任)などを歴任し、1998年には途上国支援活動を行う「プラネット・ファイナンス」を創設するなど、政界金融界で国際的に活躍してきた人物です。その彼が21世紀の歴史を予測したのが本書(原書は2006年出版)であり、2007年に起きたサブプライムローン問題による金融危機を予測したことでも話題になりました。
2017年2月現在、アメリカではトランプ大統領支持者と反対派の分断が深まりつつあり、中東での紛争は泥沼化したままで、世界の見通しは混沌としています。そのような時、本書の未来予測を改めて参照することが、私たちの将来に向けての指針作りに役立つように思えました。それが、本書の内容のいくらかを以下でご紹介することにした動機です。

「個人の自由」という目的を人類が追求することで歴史がつくられた

 本書巻末にある「21世紀を読み解くためのキーワード集」の「自由」という項目には次のような記述があります。

人類は「個人の自由」に最大の価値を見出してきた。服従を拒否し、不便を緩和するテクノロジーを発展させ、生活・政治・芸術・思想の自由を獲得してきた。人類の歴史とは、権利主体として個人が台頭してきた歴史であり、他者の自由を尊重するかぎり、個人は自らの命運を司る権利を持ち、何事からも自由である状態を目指してきた。(p.336)

本書では、このように、人類の歴史を形成する主要な要因を「個人の自由」の追求とみているのですが、それは次のような古代ユダヤ・ギリシャの理想に由来するとしています。

ユダヤ・ギリシャの理想とは、自由こそが究極の目的であり、また道徳規範の遵守ともなり、生存条件でさえあることを明確にした。富とは神の恵みであり、貧困は脅威であった。この時点から個人の自由と市場の秩序は不可分なものとなる。(p.47)

この古代ユダヤ・ギリシャの理想が西洋の理想になり、自由と不可分な市場の秩序において富をなした者が政治に参加していくという形で民主主義が形成され、その発展が歴史を形作っていったと本書では考えられているのです。特に西暦1200年以降では、新しさや発見に対する情熱を持つ海運業者、起業家、商人、技術者、金融業者(本書ではクリエーター階級と呼んでいます)が集まる一つの拠点が「中心都市」となって市場の秩序(市場民主主義)が組織されたと本書は考え、その転変を描写することで現在までの歴史の展開を記述しています。

中心都市の転変による歴史の展開

 「中心都市」は、その周辺までを含めた地域を管理するための十分な富を集めることができる間は市場民主主義の中心地として継続しますが、「都市内部の平和維持や都市外部の敵からの攻撃を防ぐために、莫大な資源の拠出を強いられた時には息切れを起こし」(p.63)、次の「中心都市」によって取って代わられます。この次の「中心都市」とは、「これまでとは違った文化・成長原理をもった都市であり、これまでとは違ったクリエーター階級が、新たな自由・資金・エネルギー・情報源を持ち込んで、従来のサービスを新たな大量生産の製品に置き換えた都市」(p.63)です。本書はその転変を描写することで21世紀初頭までの歴史を記述していますが、その際に現れる九つの「中心都市」を、本書の目次にあるその市場形式を特徴づける但し書きと繁栄した期間を添えて列挙すると次のようになります。

ブルージュ 資本主義が世界で産声をあげた 1200~1350年
ヴェネチア アジアと通じるものが世界を制す 1350~1500年
アントワープ 印刷技術が世界を変革する 1500~1560年
ジェノヴァ 投機という芸術が世界を席巻する 1560~1620年
アムステルダム 洗練された船が世界をつなぐ 1620~1788年
ロンドン 蒸気機関という動力が世界を動かす 1788~1890年
ボストン 内燃機関が世界を小さくした 1890~1929年
ニューヨーク そして電気が、世界に革命をもたらした 1929~1980年
ロスアンジェルス <オブジェ・ノマド>(小型超高速情報(音・画像・データ)記憶・処理・伝達装置)は、世界をどう変えるのか 1980~?

この転変は、大量消費財の登場(食品、衣服、書籍、金融、運搬手段、家庭用電気製品、コミュニケーション・娯楽手段)、商業圏の拡大を可能としたテクノロジーの進展(船の舵、キャラベル船、印刷機、会計、オランダ船、蒸気機関、内燃機関、電動器具、マイクロプロセッサ)、支配的通貨(グロ金貨、ダカット金貨、ギルダー、ジェノヴァ通貨、フローリン、リーヴル、スターリング[ポンド]、ドル)などでも考察可能だとされています。
このような歴史的文脈の延長上で、今後50年の未来は予測できるとアタリは主張しています。彼の考えでは、現在はまだロスアンジェルスが中心都市で世界はアメリカ帝国の大いなる影響のもとにありますが、第一波「超帝国」、第二波「超紛争」、そして第三波「超民主主義」という三つの波が、すでに重なりながら押し寄せており、アメリカ帝国はそれまでの「中心都市」同様に息切れを起こし、2035年より前には終焉するのです。そして最終的には「超民主主義」の波が地球を覆うことになり、それまでのようなローカルな「中心都市」の盛衰による市場の形式の転変自体が超越されてしまうというのが本書でのアタリによる希望的予測です。以下、本書で描かれている、アメリカ帝国の終焉から「超民主主義」の遍在にいたるまでの21世紀の歴史の概要をまとめていきます。

アメリカ帝国の終焉と多極化の世界

 アメリカの大企業といえば、グーグル、マイクロソフト、アップル(インターネット、ソフトウェア)、IBM、デル(コンピュータ)、ゴールドマン・サックス、シティ・グループ(金融)、ナイキ(スポーツ)、ボーイング(飛行機)、GM、フォード(自動車)、エクソン(石油・エネルギー)、コカ・コーラ(食料)等々が思い浮かびますが、いずれの企業もその販売や製造に関してグローバルな展開をすることで多大な利益を得ていますし、それによってアメリカ国民は安い製品を買うことができています。ただ、企業が得る利益がトップの人たちに偏って流れる傾向があること、また利益の一部で行われる設備投資がアメリカ国外へも向かうことなどで、アメリカ国内の一般のサラリーマンや労働者たちは、自分たちに富が行きわたっていないと思っているようです。本書はそのような現実を言い当てており、次のように述べています。

アメリカ人の賃金は、外国人労働者との競争や企業の現地生産といった理由で低下し続ける。労働者層と「スーパー・リッチ」と呼ばれる富裕層との所得の開きにより、アメリカン・ドリームの正当性が再検討されることになる。(p.181)

こうして、大企業はグローバルな合理化によって儲ける一方で、格差が拡大し多くの人々の不満が募るようになった結果、オバマ前大統領は最下層の人たちを救済するオバマケアという皆保険制度を創り社会民主主義的な政策を実行しましたし、トランプ新大統領は独裁的な手法(極端な場合企業をピンポイントで名指しするような手法)でアメリカ企業に国内への回帰を求めつつあります。本書では、「アメリカはスカンジナビア諸国タイプの社会民主主義の国となるか、または独裁国家になる。または、社会民主主義と独裁主義が交互に登場するかもしれない」(p.182)と予測されていますが、そのような傾向は本書の出版から10年以上経過した現在(2017年)すでに現れつつあるように見えます。しかし反グローバル化の姿勢をアメリカがとれば、自らの利益と一致しない企業を反抗させたり離反させたりして、さらに弱体化すると本書では考えられていることが次の諸記述から解ります。

インターネットはほとんどの場合、アメリカの植民地状態であり、そこでは英語が使われ、富の大部分は宗主国アメリカが吸い上げている。しかし、この第七番目のインターネット大陸は、いずれ自治権を獲得するであろう。インターネットは、アメリカの領土の外で利益を稼ぎながら、独立した実体として勢力を伸ばすようになる。金融・情報・娯楽・教育の分野の新たな権力は、インターネット上でアメリカの政治・文化の権力にたて突くようになる。こうした勢力は、市場民主主義に対するアメリカの経済的・思想的・倫理的統治に再考をうながし、新たな多様性を生み出す。(p.179)

実在するアメリカ企業もアメリカを離れる。外国に拠点を置く企業や研究機関によってさまざまな部門で競争が激化する。よって、アメリカの戦略的産業は、その生産・研究の拠点を外国に移す。過去の「中心都市」でもそうであったように、「中心都市」で活動する企業は、企業の利益と「中心都市」の政府の利益が合致しなくなり始めたことに気づき始める。つまり、アメリカ政府のイメージがさらに悪化することで、企業の売上が下がるのである。そこで、企業は、まず政府に対して世界の消費者が求めるような態度を要求していくが、これは落胆に終わる。こうして企業は行政と距離をおき始め、アメリカの大学や病院への投資を減らし、アメリカ国内での雇用は減っていく。こうした企業のなかには、国籍不明の外国の投資ファンドに管理される企業も現れる。こうした投資ファンドは、アメリカの株主からは利益の大半を、アメリカ政府から税収の大半を奪い、タックスヘイブン(租税回避地)に利益を蓄積していく。アメリカの金融システムは、保険会社や非常に高いリスクを引き受けるファンドの周辺に集中し、さらに高い資本効率を要求し、ついには危うい状態に陥る。(p.179)

新大統領トランプは、グローバルに展開しているいくつかの大企業を名指しで批判してアメリカ国内への投資を促しています。それら大企業は今のところトランプの意図にそった動きを見せていますが、本書での予測によれば、いずれは離反することになるのです。その結果、「2020年ごろ、または超帝国が国家を転覆させる以前に、多くの企業は定住の拠点をもたなくなり始め」、「企業の形態は、一時的な個人の集合体、あるいはグループの連合体となる」(p.216)と本書では予測しています。
こうしてアメリカは弱体化していくのですが、そのため不安定化した世界では紛争が各地で勃発し、人口の大移動が始まると本書では予測しています(中東に関してはすでに現実になっています)。そのような状況に以前でしたら世界の警察官を自任していたアメリカが全面的に乗り出すのでしょうが、2015年の時点ですでに、シリア内戦に関するテレビ演説でオバマ前大統領は「アメリカは世界の警察官ではない」と発言して中途半端な介入しかしませんでした。そして2017年現在、トランプ新大統領はアメリカファーストを掲げて同盟国に対し軍事費負担の不平等解消を訴えています。本書では、アメリカは「まもなく世界を統治することをやめることになる」と2006年当時に予測し、紛争への軍事的対応については次のような状況になると述べられていますが、この予想も実現しそうに思えます。

 膨張する軍事予算を分担するために、各国は在来型の軍事編成部隊と警察力をまぜ合わせながら自国軍隊の一部を国際社会の連合軍に編入する。こうして国際連合軍はまずは不定期に活動し始めるが、次第に制度化され、海賊や市場の秩序の敵を叩く国際同盟となる。(p.265)

引用文にある「海賊」とは、マフィア、ギャング、テロ組織など、民主主義なき市場で暴れまわる超暴力集団のことです。国家の機能が低下した結果生じる多極化、そして後に述べる「超帝国」の時代では、こうした暴力組織が政治・経済の主体になりうるとし、アルカイーダなどの国際武装テロ集団をその先駆けとして本書は挙げています。実際タリバンやISなどは、本書の予測通りに政治・経済の主体と言えそうなところまで勢力を拡大しました。ところで各国による軍事同盟は、いずれは巨大企業にまで拡大され、やがて「国家の軍隊と民間会社から派遣された傭兵たちで」(p.265)構成されると本書では予測されていますが、しかし紛争が活発化する場合には、この同盟も弱体化し、多極化の様相がより鮮明になると次のように述べられています。

2035年または2040年ごろ、この同盟は、市場の秩序に対し、支配力を維持できないことを感じ始める。同盟国はこうした紛争により、金融面でも人道面でも疲弊し、我々の時代の初期ごろから始まったローマ帝国と同じジレンマに直面する。世界は多極化し、各国は次のように戦略を変更する。同盟国は世界の他の地域に関心を失い、エネルギー・金融依存度を減らし、自国経済の保護主義を選択する。また防衛に関しては、自国の周囲に防衛線を張るだけで、狭義の国益保護に専念する。(p.266)

このようにアメリカ帝国から多極化世界への移行を本書は予測しているのですが、その移行期については上記引用とは別のところで次のような記述があり、やはりそれを2035年ごろとしています。

2035年ごろ、すなわち長期にわたる戦いが終結に向かい生態系に甚大な危機がもたらされる時期に、依然として支配力をもつアメリカ帝国は、市場のグローバル化によって打ち負かされる。特に、金融の分野で、保険会社などの巨大企業がアメリカを打ち破る。これまでの帝国と同様に、アメリカは金融面・政治面で疲弊し、世界統治を断念せざるを得ないであろう。世界におけるアメリカの勢力は巨大であり続けるであろうが、アメリカに代わる帝国、または支配的な国家が登場することはない。そこで世界は一時的に<多極化>し、10か所近く存在する地域の勢力によって機能していくことになる。(p.21)

こうした多極化の時代に、すでに始まりつつあったグローバルな市場の支配が高まり、超帝国とアタリが呼ぶ波がその姿をより鮮明にさせ始めるのです。

超帝国という波

 アメリカ帝国の終焉の以前から、市場はグローバル化を進展させ続けており、市場のルールが世界共通のルールになってきつつあるのですが、そうした市場のルールによる支配が強大になり、極限まで効率化を目指す状況を本書は「超帝国」と表現し、次のように述べています。

元来、国境をもたない市場は、民主主義に打ち勝ち、民主主義は制度的に地域に封じ込められる。国家が弱体化するのである。また、新たなナノテクノロジーがエネルギー消費を削減し、医療・教育・安全・自治など、これまで行政が担っていた最後のサービスを変革していく。そこで、新たな大型消費財が登場することになるが、これを本書では<監視体制>と呼ぶ。この監視体制は、各人が最適な医療・教育・管理の規範に合致しているかどうか、測定・管理する。こうして経済は、エネルギーや水資源をさらに節約していく。また情報開示は義務化される。例えば、所属する組織、風俗習慣、健康状態、学歴を明らかにしたがらない者は、原則的に疑われてしまうことになる。平均寿命が延びることで、借金をすることを決め込んだ年寄りが権力を握る。また、国家は企業や都市を前にして消え去ることになる。そこで<超ノマド>が土地もない、「中心都市」も存在しない、開かれた帝国を管理していく。本書ではこの帝国を<超帝国>と呼ぶ。超帝国では、各人は自分自身に誠実であることはなく、企業の国籍も跡形もなくなる。また貧乏人たちは、貧乏人同士の市場を作る。法は契約に、裁判は調停に、警察は傭兵に取って代わられる。そして新たな多様性が社会に根づく。演劇やスポーツは、<定住民>の気晴らしのためのものとなる一方で、貧困に苛まれ放浪を余儀なくされる<下層ノマド>は、生き残りを賭けて国境を越えてさまよう。世界で規制を課すのは保険会社となり、保険会社は、国家、企業、個人が従うべき規範を世界中で制定していく。(p.22)

引用文に「超ノマド」、「下層ノマド」という見慣れない言葉がありますので少し説明しておきます。「ノマド」とは本来遊牧民を意味する言葉です。「超ノマド」とは、エリートビジネスマン・学者・芸術家・芸能人・スポーツマンなど、国に縛られずに活躍できる人々のことであり、「下層ノマド」とは、難民など生き延びるために移動を強いられる人々のことです。また、この記述には「国家は企業や都市を前にして消え去る」というような極端な表現がとられていますが、それは言葉の綾ととらえるべきで、実際引用の最後にあるように、企業、個人に並んで国家も保険会社が制定する規範のもとで存在し続けるのです。市場の支配下でも、社会の多極化多様化は進むのです。ところで、「超帝国」に関しては次のような記述さえあります。

  世界の唯一の法と化した市場は、本書で筆者が命名するところの<超帝国>を形成する。この捉えがたい地球規模の超帝国とは、商業的富の創造主であり、新たな狂気を生み出し、極度の富と貧困の元凶となる。すなわち、超帝国では自然環境は食い物にされ、軍隊・警察・裁判所も含め、すべてが民営化される。また、人類は人工器具を身に取り付けられ、自らが加工品となると同時に、自らの身を、同じ加工品である消費者に向けて大量販売するようになるであろう。(p.14)

1980年代に始まった新自由主義的な市場経済至上主義で格差は拡大し始めたのですが、そのグローバル化である「超帝国」においては、環境保全も市場での取引の対象となり(二酸化炭素排出量取引などが先駆けです)、人類自身も市場で取引されるモノになる(例えばクローン技術で自分の体のスペアが作られる)とまで予測されているのです。ところで、市場の支配下にある「超帝国」の時代でも、世界が多極化していることに変わりはなく、紛争は各地で起こり続けると本書では考えられています。それらの紛争には、(1)希少資源をめぐる紛争、(2)国境をめぐる紛争、(3)影響をめぐる紛争、(4)海賊と<定住民>の紛争、という四つのタイプがあると271ページには書かれています。そして、「多極化した世界の支配者、次に超帝国の支配者は、軍事防衛同盟を世界警察組織へと変革しながら、こうした活動を封じ込めようと試み」、「軍事防衛同盟に雇われた傭兵たちは、海賊の拠点を破壊し、マフィアの一味に占拠されている地区で市街戦を繰り広げ」、「将来の西側諸国全体の状況が、今日のアフリカの状況と似通ったものになる可能性」(p.279)は高いという恐るべき予測が本書ではなされています。このような予想が実現する場合、激しい紛争は世界各地に蔓延し、本書が「超紛争」と呼ぶ状態になっていくのです。

超紛争という波

 多極化の世界、そしてそれと重なって展開していく超帝国の世界では、国家やその同盟の力は弱くなります。その結果貧困が助長されると本書は考え、次のように予測しています。

弱体化した国家は、貧困撲滅支援活動に対し、きちんとした資金援助ができなくなる。貧困層を削減するために、市場メカニズムだけに頼る試みは失敗に帰す。つまり、経済成長だけでは十分な雇用を創出できず、貧困層が特定の財の生産に特化するだけでは、生活必需品さえも手に入れることができない(p.228)

こうして追い詰められた人々は、暴動に参画するようにもなるでしょうし、海賊的行為に加担しやすくもなるでしょう。そして、「仮に超紛争が勃発する場合には、その主要な当事者となり、最初の犠牲者となる」(p.228)と本書は述べています。超紛争は、特に「水、石油、宗教、人口、南北格差、国境紛争などに基づくさまざまな紛争が複雑に絡み合う地域、例えば台湾、メキシコ、中東といった地域で勃発」し、「国、傭兵軍団、テロ集団、海賊、民主主義、独裁者、民族、ノマドなマフィア、宗教団体などが、マネー、信仰、領土、自由など、それぞれの大義をめぐってお互いに激しく衝突する」(p.280)ことになるとされています。
すでに中東では超紛争の一環と言ってよい状態に至っていると私には見えます。独裁者であるシリアのアサド大統領、傭兵軍団・テロ集団・宗教団体であるISやタリバンやアルカイーダやヌスラ戦線、トルコからイラクにかけて住んでいるクルド人という民族、トルコ・シリア・イラク・イラン・アフガニスタン・ロシア・アメリカという諸国家。それらアタリが挙げたすべての種類の役者がそろって複雑な紛争を起こしているからです。そしてこのような大混乱においては、「いかなる国際機関といえども、超紛争の調停に乗り出すことは不可能である」(p.280)と本書が述べている通りになっていると思えます。
これまで述べてきたように「超帝国」そして「超紛争」が世界を席巻するようになるなら、人類は滅びるしかないと思うのですが、それと矛盾するようにアタリは人類が滅びずに理想的な民主主義社会を築くという希望的シナリオを描いています。

超民主主義の実現という希望的予測

 その希望的シナリオを実現するためには、民主主義国家は過去の歴史における弱腰な姿勢を排し、脅威に対して断固とした軍事的制圧を行わなければならないと次のようにアタリは指摘しています。

イラン、パキスタン、北朝鮮のロケットミサイルが民主主義の国々を継続的に標的とする。しかし、民主主義の国々は報復される懸念から、こうした行為を容認してしまう。これは1936年と1938年にフランスとイギリスが犯した過ちと同様、民主主義国の欺瞞である。こうした兵器が15カ国の異なる独裁政権によって15カ所の異なる標的に使用される可能性は、現在においても大いにあり得る。こうした危険を排除するためには、同盟国はまず抑止行動で独裁政権を揺さぶり、同盟国の軍事力を思い知らせ、怖気づかせる必要がある。こうした対策によっても脅威が解消できない場合には、叩き潰すしかない。(p.269)

引用にあるように超紛争が不可逆的な域にまで進行する前に強力な軍事力で紛争の芽を摘み取り、そのうえで超帝国による市場の支配に対抗して地球規模の社会民主主義的な混合経済を実現することができれば、人類は「気候変動に対する戦い、難病・人間疎外・搾取・貧困に対する戦い」(p.281)といった「一刻の猶予も許されない緊急の戦い」に挑むことができ、滅亡を防ぐことができるとアタリは考えているのです。そして、「グローバル化を拒否するのではなく、規制できるのであれば、また、市場を葬り去るのではなく、市場の活動範囲を限定できるのであれば、そして、民主主義が具体性を持ちつつ地球規模に広がるのであれば、さらに、一国による世界の支配に終止符が打たれるのであれば、自由・責任・尊厳・超越・他者への尊敬などに関して新たな境地が開かれるであろう」(p.14)と本書は述べ、こうした境地を「超民主主義」と呼び、それは民主的世界政府ならびに地方や地域の制度・機構の創設をうながすとしています。この理想的社会では、「想像を絶する次世代テクノロジーにより再創造された仕事に就く人々は、無料で豊かな社会に暮らし、市場の想像力のなかから善行だけを公正に選び出し、過剰な要求を悪とみなし、貪欲さから自由を保護し、次世代にきちんと保護された地球環境を残すことができる」(p.14)とも述べられています。
しかし、超民主主義実現のためには、国家は、紛争につながる「脅威や暴力に対処するために命を捧げることも厭わない兵士や警察官を増員しなければならない」(p.244)はずですが、その一方で、「志願兵はさらに確保困難になり、<市場民主主義>の世論は自国軍隊から死者を出すことを容認」(p.244)しないので、「傭兵派遣会社が、退役軍人を雇いながら興隆し、軍隊や国家警察の下請け企業として活躍」(p.245)するような状況をアタリは予想しています。そうしますと、傭兵には超民主主義実現のために命を捧げるほどの気概は期待できそうもありませんから、超民主主義が実現する可能性は限りなく低いのではないでしょうか。中東での現実の泥沼状況からしても、アタリの超民主主義実現に対する展望は、根拠に欠けた希望的観測にすぎないと私には思えたりします。しかし希望を記述することで、その方向に歴史が動くこともあるとアタリは考えているのです。彼は306ページで、「これまで本書の中で未来の地獄絵のような歴史を描いてきたが、本書がこうした恐怖を実現不可能にする一助となることを期待したい」と書いています。そういうことであれば、彼が一見希望的観測にすぎないであろうシナリオを丹念に描いたことに納得できます。彼によれば、目覚めた人類によって、2060年ごろに超民主主義が勝利するのです!

超民主主義世界の人類(トランスヒューマン)と企業(調和重視企業)

 超民主主義社会を創造していく人々のことをアタリは「トランスヒューマン」と呼び、その人々が携わる企業を「調和重視企業」と呼んでいます。それら、超民主主義社会創造の主体について触れたいと思います。
これまでサングラハ誌では、ミュルダール、正村、広井、ピケティ各氏の著作や「持続可能な国づくりを考える会」が作成した「理念とビジョン」という小冊子などに描かれている、将来目指すべき社会民主主義的な社会モデルについて述べてきました。それらの諸モデルを概観すると、本書で言われている、「気候変動の抑制、水やエネルギー資源の再生、肥満や貧困の解消、非暴力、すべての人の繁栄、普遍的で民主的な価値観、民間企業の公益重視といったことは可能であるという結論」(p.286)が合理的に導き出せるように思われますし、アタリが目指す超民主主義へと世界が進展していくことも可能だと思えます。それに、先に挙げた各氏は著名な方々であることから、おそらく理想的な社会実現の可能性に関する知識を多くの人たちが持っていると思います。そうであるからこそ、環境保全などに関して様々な国際的取り決めがなされてきたのでしょう。
しかし、確かに取り決めはなされたのですが、目標に向けた各国の実効的努力はほとんどなされていないように見えます。例えば気候変動を抑制するための二酸化炭素排出量の削減などはごく一部の国々を除けば、ほとんど進んでいません。こういう事実は、理想を現実にするための可能性を知るだけでは、人類は実際にその方向に歩みを進めていけないことを示しているのではないでしょうか。アタリはそのような考えを持っているようで、彼によれば、超民主主義的な理想社会を実現するには、単に実現可能性の知識を持つだけではだめなのです。利他主義的な心を持ち、かつリーダーシップをとることができる、彼がトランスヒューマンと呼ぶ種類の人々が多く現れる必要があるのです。
すでに見ましたが、本書によれば、超帝国のグローバルな市場における主役は、国境を越えて活躍することができる、リーダーシップに溢れた起業家、発明家、芸術家、金融業者、政治家などの「クリエーター階級」です。彼らは「超ノマド」とも呼ばれ、利己主義的な傾向や、自分たちが世界の所有者であると考える傾向が強い人々です。彼らにとって市場における他者とは、「ライバル(希少な財をめぐって論争する敵、自分の自由を構築する際の敵対者、一切の知識を共有しあってはならない相手)」(p.291)です。ところがそのような「クリエーター階級」の中に、「自分たちの幸せは他者の幸せに依存していることを悟り、また人類は平和を通じて互いに連帯するより他に生き延びる方法がないことを悟る」(p.289)一部の人々が現れるとアタリは言います。この人たちこそがトランスヒューマンです。彼らについて本書では次のように書かれています。

トランスヒューマンな人々とは、利他主義者で21世紀の歴史や同時代の人々の運命に関心をもち、人道支援や他者に対する理解に熱心であり、次世代によりよい世界を残そうとする。彼らは、<超ノマド>の利己主義や海賊の破壊欲に我慢がならない。彼らは自分たちが世界の所有者であるとは思わず、世界の用益権を保有しているにすぎないと考える。・・・・・また、彼らは自分たちのことを世界市民であると同時に、複数の共同体のメンバーであると考える。彼らの国籍は、彼らが居住している国だけではなく、彼らがしゃべる言語によって決まる。世界の調和に逆らう行為に対しては法律で、現実を直視しない身勝手さに対してはモラルで対処する。また、友愛が野心の代わりを務め、彼らは他者を喜ばせることに喜びを感じる。(p.290)

このように、超民主主義を創造していく「トランスヒューマン」は「超帝国」の主役になるとみなされる「超ノマド」と全く異なる価値観を持っています。したがって当然のことながらトランスヒューマンは、「超ノマド」達が活躍する企業や市場とは異なる形式の企業や市場を形成していくことになるでしょう。それに関して本書では次のように述べられています。

  トランスヒューマンは、全員が競争しあう市場経済と並行して利他主義経済を作り出す。利他主義経済とは、無料奉仕、お互いの寄付行為、公共サービス、公益からなる経済である。筆者はこれらを調和重視と呼ぶが、調和重視が希少性の法則に縛られることはない。つまり、知識を与えることは、知識を失うことではないのと同様である。調和重視により、娯楽・医療・教育・人間関係などの分野で、本当の意味での無料サービスが誕生し、こうしたサービスを交換し合うことが可能となる。各自はこうしたサービスを他者に供給することを快く思い、敬意、感謝の念、共に楽しむことなどが金銭的報酬に取って代わる。こうしてサービスの希少性は失われる。というのは、人は多く与えることで、多く受け取ることになり、多く与えることで与える欲求と財力も増すからである。調和重視においては、労働さえも拘束のない喜びとなる。(p.291)

市場の秩序は、人類の究極の目標である自由と結びついていますから、これをなくす考えはアタリにはありません。しかし一方で、アダム・スミスのように、「経済行為は利己心を動機とするが、利己心は同感(利他心)という社会的原理を通しておのずから自然の秩序、公共の福祉をもたらす」(百科事典マイペディアの「スミス」の項より)と楽観的に考えたりもしません。従来の市場経済にすべてを任せていては、格差拡大の問題、機会均等が失われる問題、環境破壊の問題などが深刻化し、人々の平等や生存条件を甚だしく損ねて社会に不調和をもたらすことはすでに明らかだからです。そこで、トランスヒューマンたちは、市場では解決のつかない問題を扱い、利益を究極目的とせず社会の調和を目的とする企業(調和重視企業)を創り出していくとアタリは考えるのです。彼は、実は調和重視企業と言えるものはすでにあるとし、また今後の展開はこうなるということを本書で次のように書いています。

 政党ならびに労働者組合が、とりあえず最初の調和重視企業である。続いて赤十字、国境なき医師団、国際ケア機構(海外援助救護協会)、グリーンピース、WWF(世界自然保護基金)、さらには途上国で誕生したさまざまなNGO(非政府組織)などが調和重視企業と言えよう。……今後、調和重視企業になるであろう組織を列挙すると、市民・医療・環境・社会についての使命を満たす領土を超えたすべての国際機関、外交問題の仲裁機関、アマチュアのスポーツ団体、無料の出会いをアレンジする場所やサイトなどである。こうした活動の大部分は、なんの見返りも期待しない人々によって途上国においてスタートする。そこで、<マイクロファイナンス>は調和重視企業のもっとも重要なカテゴリーの一つとなり、市場・民主主義・調和重視におけるマイクロファイナンスの存在感は急速に増している。(p.293 マイクロファイナンスとは、途上国の地域に住む人々の企業活動を支援する無担保少額融資のことで、バングラディシュのグラミン銀行が有名です)

本書では別のところで、新たな調和重視企業は、特に「都市部の管理、教育、医療、貧困撲滅、環境保全、女性保護、フェアトレード、バランスのとれた食品産業、無償行為の評価機関、社会生活への復帰支援団体、覚醒剤撲滅、監視団体に対する監視」(p.293)などの分野に登場するとも書かれています。また、いずれは調和重視企業による経済活動は、18世紀初頭マイナーであった資本主義が台頭していったのと同様、未来の主要な活動になると考えられているのです。

地球規模の制度・機構

 グローバルな超民主主義のもとでは、多国間的な国連を超える超国家的な地球規模の制度・機関が創設されなければならないと本書では考えられており、次のように述べられています。

  地球規模の制度・機構が、すでに存在する制度・機関の延長線上に創設される。否、創設しなければならない。まず、国連がその土台となる。現在の国連憲章を拡大しながら、地球憲法がこれを引き継ぐ。このため、地球憲法には、これまでの多国間方式だけでなく、超国家的な側面をもたせる必要がある。その前兆としては、自然・他者・生活に対する各人のすべての権利ならびに義務をまとめ上げていくことである。これは特に親の義務を前提とした幼年期に対する新たな権利を想定しており、この権利は重要で根源的なものである。その他にも、生活支援、自然保護、種の多様性の維持を対象とした権利や義務が制度・機構に付与され、また市場が対象としてはならない不可侵な領域を定めていく。(p.296)

このような超国家的な理念に基づいて制度を制定・運用していくために、地球議会および地球政府という超国家的な立法府、行政府が形成されるとアタリは考えています。そうして「地球議会は、各国のGDP、軍事予算、温室効果ガス排出量の割合に応じて地球税を徴収」(p.296)し、地球政府は社会規範を課し、地球規模ですべての「民間企業にこれを遵守させる権限が付与される」(p.296)ことになります。そうして、きちんと規制された地球規模の市場は、民主主義の聖域に踏み込もうとはしなくなり、「それどころか市場は、都市部のインフラを整備し、公害防止・肥満抑制・貧困者のための製品を生み出すなど、民主主義を支援することに商機を見出す」(p.298)ようになり、企業は「活動が公益に資しているか、また調和重視活動を推進しているか」(p.299)を判断材料とする株主によって裁かれるようになるのです。
ところで、超民主主義では、その存在を暴力的に脅かすものに対する軍事的な備えも必要なことをアタリは忘れていません。彼は軍事力に関する公正な視点を持っており、本書で次のように書いています。

マフィア、覚醒剤の密売、売春、奴隷、天候不順、不法投棄、ナノロボットによる攻撃(偶発的なものや、テロまたは軍事的なもの)や生物体(バイオマス)を破壊する可能性のある自己増殖する病原体に対処するため、地球政府には軍事力が付与される。(p.297)

人類という共同体の共通資本

 超民主主義では、個と同程度以上に、個が連帯した人類共同体の運命が関心事になっています。その運命を左右する人類の共通資本については、次のように述べられています。

超民主主義における共同体の究極目的である人類の共通資本とは、栄華や富、さらに幸福でもなく、きちんとした生活を保障する要素全体を保護することにある。すなわち、気候、大気、水、自由、民主主義、文化、言語、知識などを保護していくことである。こうした共通資本は、維持管理が必要な図書館、自然公園などと同様に、使用した後はこれをさらに豊かにして後世に伝達しなければならず、これに不可逆的な修正を施すようなことがあってはならない。ナミビア共和国による動物相の保護政策、フランスの森林資源保護政策・文化財保護政策などが、共通資本の前兆となる概念である。共通資本とは、市場原理、国家管理、多国間所有では対処できない国家を超えた資本である。(p.300)

ところで、上記引用文における「気候、大気、水」などの共通資本は、人類のみならず生物全体の共通資本でもあり、最も基本的なものでありますが、「人類全員にとってゆとりある暮らしのために必要となる共通資本」(p.288)において重要な要素になるのは、インテリジェンス、すなわち「知性・情報」だと本書では主張されています。そして、「オーケストラは各団員の音色を足し合わせたものではない」のと同様に、この「共通資本であるインテリジェンスは、人類のインテリジェンスを個々に足し合わせたものとは異なり、人類特有の<世界規模のインテリジェンス>によって成り立つことから、その重要性は計り知れなくなる」と述べられています。そしてこの<世界規模のインテリジェンス>のあり方から、アタリは、人類という枠を超えた次元の生命そのものという存在の可能性に言及することになります。

人類という枠を超えた次元の生命そのもの

 アタリによれば、「世界規模のインテリジェンス」は人類という共同体のインテリジェンスであり、「個々のメンバーの思考を超えた独自のインテリジェンス」(p.300)です。それは、脳全体の機能が、そのメンバーである個々のニューロンの機能を足し合わせたのとは異なる独自なものであるのと対比することができます。この対比から、人類共同体は、個々のメンバーの思考を超えた思考を持ち、もし思考が意識において生じるのなら、個々の人間の意識を超えた独自の意識を持つことにさえなるでしょう。そのような状況についてアタリは次のように述べています。

最後に、究極の進化の段階として(人類という枠を超えた次元の生命そのものの)生命の超インテリジェンスが誕生する。否、誕生しているかもしれない。「生命の超インテリジェンス」においては、人類など取るに足らない構成要素でしかないことから、これは人類の利益に応じてだけ思考するのではない。(p.302)

これは、人類が、すべての生物も人間も超えた、地球大の独自な意識を持った存在への進化の途上にあることを述べているのだと私は解釈しました。以前私は「ウィルバー・コスモロジーの批判的考察」という連載をサングラハ誌でさせていただいていました(本H.P.に掲載済みです。H.P.『ウィルバー・コスモロジーの批判的考察』http://book.geocities.jp/fourquadrant2/ でも見ていただけます)。その際アンドルー・スミスという人の考えに触発されて、「超有機体」という惑星大の存在について述べたことがありますが、アタリはそれと似たような考えを持っていると思います。

読後の所感

 本書の理念は「社会的公正と経済的自由を同時に達成」(p.342)することであり、アタリはその理念が超民主主義で実現されると考えています。別の言い方では、グローバルな社会民主主義社会あるいは混合経済を実現するということがアタリの目標なのだと思います。社会民主主義社会の実現という目標に関しては、これまでサングラハ誌で扱ってきた、グンター・ミュルダール、正村公宏、広井良典、トマ・ピケティ各氏や「持続可能な国づくりを考える会」の考えと一致していますが、それらが一国ごとの社会民主主義制度の達成が世界に広がることを思い描いていたのに対し、アタリの場合、グローバルな達成は当然個々の達成とは異なるとしていることに大きな相違があると思います。彼がその達成に至る過程に、「超帝国」、「超紛争」、「超民主主義」と「超」という語を冠した名称を与えていることにそれはよく現れていると思います。確かにグローバルな達成においては、諸国を有機的に統合する必要があるのでしょうから、国ごとに分析するのとは違ったより巨視的な視点が必要になるはずです。そのため、彼の描写の中には、これまでに学んできた人たちのモデルにあるような国ごとでの税制や福祉制度などに関してのきっちりとした政策案は欠けています。したがって、彼のモデルとこれまで学んできた諸モデルとの間には相補的な関係があるように思えます。
また、初めからグローバルな視点で物事を見ているため、これまで学んできた諸モデルとは異なり、本書では軍事力にも焦点を合わせています。超帝国や超紛争が蔓延しない前に民主主義をグローバル化させて超民主主義を実現するためには、同盟国の強大な軍事力が必要だとしています。様々な国を統合するためには、軍事的なことに目をつぶるわけにはいかないのは当然です。この点は日本人にとって注目すべき点ではないでしょうか。
日本国憲法前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。それを受けて第九条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあります。ところで前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という部分ですが、率直に言うならこのような信頼に足らない側面が見られる世界の状況では、この前提が現実していると考えるべきではないと思えます。そうだとすれば、こういった前提のもとで語られる第九条での戦争および武力の行使の放棄は今のところ現実的ではないと考えるべきではないでしょうか。アタリの描く未来の歴史は、そういうことにも気づかせてくれると思います。
ところで本書では、新しいタイプの人類である「トランスヒューマン」と呼ばれる人々が登場します。利他主義的で、次世代によりよい世界を残そうとする人々です。以前ご紹介しました正村氏と広井氏の著作では、地球市民の倫理とか地球倫理とかを持つ人々が登場していました。彼らは、地球に存する人類全体を共同体として意識し、さらに自然とのつながりも人類にとって本質的なものとして意識しているような人々です。おそらくアタリが「トランスヒューマン」と呼ぶ人々は、まさにそのような人々なのだろうと思いました。ただし、トランスヒューマンな人間の心のあり方を達成するための発達心理学的な考察はありませんでした。それは他の諸モデルでも欠けている点であり、岡野守也サングラハ教育心理学研究所主幹、ケン・ウィルバー両氏のような内面的考察を参照して補う必要があると思いました。
最後になりますが、「人類という枠を超えた次元の生命そのもの」の存在に対する言及は、未来の歴史を描く書にふさわしいと思いました。

「サングラハ第152号(2017.3.25)、第153号(2017.5.25)」に掲載されたエッセイをもとに作成しました。

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