ケン・ウィルバーの四象限理論における左上象限の検討
――チャーマーズ、ヴィトゲンシュタイン、ウィルバーの考え
増田満
人が行動する際には、その行動を引き起こすことになった、その人の内面での何らかの状態があったのだと思えます。例えば、ある人のバナナを食べるという行動では、その人の空腹感、急いでいるので手軽に食事をすますことが望ましいとしたその人の思考、バナナは栄養があるというその人が持っているイメージなどが原因になっていることは十分ありそうです。その際、空腹感、思考、イメージなどは、それらが引き起こした行動とは異なり、他者が目にすることができないその人の内面での状態だと思えるのです。これは一例にすぎませんが、一般に人が行動する際には、その行動と因果関係で結ばれているその人の内面での状態があるという考えに、多くの人は同意するのではないでしょうか。このエッセイでは、そのような人の内面を考察し、デイヴィッド・チャーマーズ、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、ケン・ウィルバーの考えを検討したいと思います。特にウィルバーの四象限理論をその左上象限を中心に検討したいと思います。
心的状態に関する二つの特性
人の内面を心と呼び、感覚、欲求、感情、イメージ、思考などとして生じている内面の状態を心的状態と呼ぶことにします。この心的状態には、先ほど述べましたように、その人の外面的行動と因果的関係を持つ能力があるようです。この因果的な能力を、哲学者チャーマーズにならいまして、心理学特性psychological property (『意識する心』、デイヴィッド・J・チャーマーズ 、林一訳、白揚社、2001 p.38 TheConscious Mind, David J. Chalmers, Oxford University Press, 1996 p.16)と呼ぶことにします。
ところで心的状態は、何らかの体験において現れるもので、そこには、体験の主体にのみ知られる何らかの感じがあると思えます。例えば、怒りの感情を持つときの感じ、空腹であるときの感じ、物理の入試問題を解くときの感じなどなど、体験の主体によって識別できる独特の感じがあると思えます。そういった感じについてチャーマーズは次のように述べています。
……われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある。処理過程には、認知主体であるように感じられるところがある。この内的な側面が意識体験である。意識体験の範囲は、生き生きした色彩感覚から、背景に漂うごくかすかな香気にまで及ぶ。鋭い痛みから、出かかっていながら出てこない考えといった捉えどころのない体験に及ぶ。日常的な音響や匂いから、全身を包み込む崇高な音楽体験にまでいたる。しつこい痒みという些細なものから、深い実存的な苦悩の重みにまでまたがる。ペパーミントの味のように特殊なものから、自我の体験という一般的なものまで含む。体験されたこれらの質には全て大きな開きがある。しかしそのすべてが、心が内的に営む生の突出した部分をなしている。
トマス・ネーゲルが有名にした言葉を借りれば、あるものが意識的であるというのは、そのものにとって、そのものであるのはこういうことだといった何ものかがある場合である。同じように、心的状態が意識的であるのは、そういう心的状態であるとはこういうことだといった何ものかがある場合である。言い方をかえると、心的状態が意識的であるのは、それが質的な感じ――体験に結びついた質――をもつ場合である。そうした質的な感じは現象的な質(フェノメナル・クォリティ)、略してクオリア(質感)とも呼ばれている。この現象的な質を説明するという問題が、まさしく意識を説明するという問題であり、実にここが、心身問題の難しい部分である。(『意識する心』pp.24~25)
チャーマーズは、外面的な行動の動因となり、そして情報処理に関係する心的状態の側面を心理学特性と名付けたことを私はすでに述べました。そして、この引用文で述べられている体験の主体としての感じを伴って持つ心的状態の内的な質を、彼は現象的質 phenomenal qualityと名付けました。そして結局のところチャーマーズは、心が心理学特性と現象特性を持つという考えから、心に関して二種類の概念があると主張し次のように述べています。
二つのはっきり区別できる心的概念がある。第一は、現象的な心的概念。これは意識体験としての心に関する概念であり、意識的に体験された心的状態としての心の状態に関する概念である。これは心のもっともややこしい側面であり、私が的を絞るつもりでいる側面だが、それで心に関することが述べつくされているわけではない。第二は、心理学的な心的概念。これは、行動に因果関係をつける、あるいは行動を説明づける基盤としての心的概念である。ある状態が行動を生み出すのに申し分ない因果的役割を果たしてれば、それはこの意味での心的状態ということになる。心理学的概念に従えば、心のある状態が意識という質をもつか否かは、ほとんど問題にならない。問題になるのは、それが認知体系に果たす役割である。(『意識する心』p.33)
少しまとめておきたいと思います。どの人にも、他の人からは隠されている心と呼ばれる内面があるとし、その心の状態を心的状態と呼ぶことにします。そうしますと、心的状態には二つの側面があるように思えます。一つは、行動(他者から見て取れる外面での出来事)を生じる過程で因果的な役割を担う側面です。それを心理学的側面、あるいは心理学特性と呼びます。もう一つは、体験の内面的な質的感じの側面です。この質的な感じは常に認知主体としての感じを伴っています。この側面を現象的側面、あるいは現象特性と呼びます。
すなわち心は二つの側面を持っています。一つは心理学的概念で指示され、行為の生成過程の因果連鎖において役割を果たすということで公共性と客観性を持つ心理学的側面です。もう一つは真に他者からは隠されており、そして常に認知主体あるいは体験の主体である感じを伴う現象的側面あるいは意識的側面です。
他者の現象特性は存在するのかしないのか?
ところで、次の引用文においてチャーマーズが述べていますように、心の現象特性と心理学特性は事実上常に一緒に生じるように思えます。
現象特性が実例となって現れるときは、必ず心理学特性も実例となって現れる。これは、人間の心というものについての一個の事実である。意識体験は何もないところでは起こらない。必ず認知プロセスと結びついており、ある意味では、そうした認知プロセスから起こるのであるらしい。例えば何かの感覚があるときは必ず、何らかの情報処理が進行している。お望みなら、これを対応する知覚といってもいい。同じように、幸せを意識として体験するときはいつでも、何らかの内的状態が幸せに対応する機能的な役割を演じているのが通例である。因果関係をもたない体験をするというのは、論理的にはありうることだが、体験的事実としてはそれらは並行しているように思える。(『意識する心』p.45)
人が何かを見るときのことを考えてみます。眼に光が差し込み、何らかの刺激が網膜で生じ、そして弱い電流が神経系にそって進み、信号が脳のシナプスのシステムに到達し、脳の反応は新たに信号を作りそれを目に送り返し、彼の眼を閉じさせたり開かせたりするようなことが彼の身体に起こるのでしょう。この過程において、脳あるいは脳のシナプスのシステムは、行為の生成において因果的役割を果たしています。ところでチャーマーズは、脳が今述べたように活性化されているとき、同時に心はまた行為の生成に対して因果的役割を果たしていると考えるのです。そして心的状態はその時ある心理学特性とある主観的な現象特性を持っているとします。もしそのような、脳のシナプスのシステムの活性化と心理学特性と現象特性の同時発生を認めますと、それらの間には何らかのリンクがあるだろうと思われます。チャーマーズはとりあえずそのようなリンクに関係して次のように結論しています。
……心身問題で一番難しいのは、一個の物理的システムがどうやって意識体験を生み出せるのか、という問題である。われわれは物理的な体験と意識体験を結ぶものを、二つの部分に分解してもよさそうだ。物理的な体験と心理学的な体験を結ぶもの、そして心理学的な体験と現象的な体験を結ぶものの二つである。すでに見た通り、一個の物理的システムがどのようにして心理学特性をもちうるかについては、われわれにはもうかなりはっきりした考えができている。心理学的な心身問題は解決されているのだ。残るは、こういった心理学特性になぜ、どのようにして現象特性が伴うのか、という問いである。たとえば、痛みにつながるああいった刺激や反応のすべてに、なぜ痛みの体験が伴うのかという問題である。(『意識する心』p.49)
心理学特性の主要な特徴は行為の生成における因果的役割です。しかし脳のシナプスの活性化がそのような役割を果たしていることが科学的に見出されました。したがって、心理学的な心身問題は解決されたと言いえますし、また心理学特性は外面的な物理的システムの状態に還元し得ると思えます。それで、残るは心理学特性(行為の生成における因果的役割)と現象特性の間のリンクの説明になります。そして今や、心の内面性の存否は、現象特性の存否に依存しているように思われます。
体験者以外の誰も現象的質を直接に知りえないとしても、誰もが自身の内面的現象特性の存在を、同時発生している心理学特性に言及することによって間接的に他者に伝えることができるように思えます。すなわち、現象的特質は間接的言及によってのみ他者によって知られるのだと思います。しかしながら、現象的特質の必要条件の一つは体験者自身による直接的な感じだと思えます。それで、結局のところ、自ら体験することのできない他者の現象特性の存在については確たることを言うべきではないのではないでしょうか。例えばチャーマーズは人が緑色の物体を見るときの状況について次のように分析してみせます。
……<緑色の感覚>といった言葉でさえ、それが示す内容は外から持ってきた言葉で確定されている。<緑色の感覚>という言葉を学習するとき、われわれは実際には実物で具体的に示すことによって学習している――草や樹木その他が引き起こす類の体験に、この言葉を適用することを学んでいるのである。一般に、とにかく伝達可能な現象的カテゴリーがわれわれにある場合、それらはわれわれの外にあって典型的にそれと結びつくものか、あるいはそれと結びつくような心理学的な状態との関連で定義づけられる。たとえば、幸福というものの現象的な質について語るとき、<幸福>という語が指し示すものは、暗黙のうちに何らかの因果的役割を介して定着されている。何もかもうまくいっている状態、喜びに躍り上がるような状態等々である。おそらくこれが、ヴィトゲンシュタインの「われわれの内なるプロセスは外へ向かう判断基準を必要としている」という有名な言葉に対する、一つの解釈になるのであろう。
現象的な概念がこのように因果的基準に依拠していることから、われわれの心的概念が意味するものにはそれと結びつく因果的基準以外、何もないのだと示唆する人(ヴィトゲンシュタインやライルにもどこかそうした気味がある)も出てきた。(『意識する心』 p.46)
確かに、現象特性が、結局は外面的な因果関係を介してしか言及できないのであれば、それがあるとすることは無意味とも思えます。なぜなら、すでに述べてように、現象的特質の特異性はその直接性だからです。そうして、心的状態に関して語るべきは心理学的側面だけで、内面的側面の存否について語るべきでないように思えます。チャーマーズは『意識する心』の中で、現象特性を欠くだけでその他はまったく変わりのない人間の複製、ゾンビという概念を登場させます。そして他者に関しては現象特性を知ることはできないので、他者はゾンビにすぎないという論理的可能性があると彼は考えているようです。
しかし、だからと言って、チャーマーズは、他者に現象特性が存在しないことの論理的可能性の現実性を主張しません。逆にその存在を確信して、次のように述べています。
意識体験を締め出してしまおうというのは、われわれ自身がそれをよく知っているという理由一つを採ってみても、筋の通らないやり方である。このようにじかに知っているということさえなければ、意識は生気論の「生気」と同じ道をたどることができた。別な言い方をすれば、われわれの意識に関する知識には認識の非対称があって、それは他の現象に関するわれわれの知識には現れない。意識体験が存在するというわれわれの知識は、まず何よりもわれわれ自身の例から導き出され、外的な証拠はせいぜい二次的な役割を演じるにすぎない。(『意識する心』p.138)
意識体験について、「われわれ自身がそれをよく知っている」と、「私」ではなく「われわれ」を主語にして述べていることに、チャーマーズが、自分は自分の内面、すなわち現象的特質を直接に知っているので、他者にも内面あるいは意識を持っているのは当然だと考えている様子がうかがわれます。ということは、他者はゾンビであるという論理的可能性を彼は認めながらも、現実には他者にも自分と同様に、当人にのみ知られる内面、意識、現象特性があることに疑問を持っていないのです。しかし、自身に関して現象特性があることに疑問を持たないのは当然だとしても、他者に対してまで現象特性があるということに疑問を持たないのはどうしてでしょうか。私はもちろん自分に現象的特質があることを知っていますが、私は他者になり得ないし、他者は私になれないので、私は他者の内面を自分の内面のように知ることができるはずはないし、他者に私の内面の存在を確信することを期待できないと思います。現象的質は体験者自身によってのみ直接に知られ得るのであり、この直接性は現象的特質の必須の要素だと思えます。したがって現象的質の知識はいかなる客観的なものの知識とも全く異なると思えます。そうしますと、チャーマーズに反して、他者に現象特性があることに疑問を持つのは当然なことだと思えてきます。
ただ、科学で確信されているようなことと比較すると、チャーマーズが他者の現象特性の存在に疑問を持たないのにはそれなりの理由があるとも思えます。例えば、全ての物理的なものは、眼には見えなくても、原子からできているということを私たちは認めています。それは、現実の因果関係をうまく説明できるということを優先する科学的な観点を私たちが受け入れているからでしょう。現象特性の場合は、私は自分に現に現象特性があること、そしてそれを伴う心的状態が因果的役割を果たしていることを事実として確認できます。そうしますと、他者の場合でも、外面的、客観的世界におけるその行動を見て、そこに私の行動におけるのと同様な因果的連鎖を見て取れますから、その因果的連鎖の一環としての心理学特性に、眼には見えなくても、私自身と同じように現象特性が伴っているのを想定することはそれほど不自然ではないように思えます。事実として自分の場合に成立していることをもとに、たとえ目に見えなくても、他者にも内面があり、私と同じことが起きていると想定することは、原子や素粒子に関する科学的な説明より不自然なことではないように思えるのです。
しかし一方で、私が他者になれない限り、他者の現象特性を自分のものとして体験できないことも確かで、そこに着目すれば、やはり他者に現象特性がない可能性も無視するわけにはいかないと思えます。
以上、チャーマーズの著作に書かれていることを中心に、内面に関して若干考察し、現象特性については、他者に関しては確信にいたらなくても、あると言ってもよさそうだというような、何ともあいまいな考えを私は述べてしまったのですが、哲学者ヴィトゲンシュタインが内面について述べていることを考慮しますと、他者に関しては、内面があるかどうか判断しようとすること自体が無意味となる論点があると私には思えてくるのです。
ヴィトゲンシュタイによる主体という内面のあり方の説明
ヴィトゲンシュタインは体験の主体に関して次のように述べています。
五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
五・六三三 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。 ここでの事情は眼と視野との場合とまったく同じである、と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。
そして、視野における何物からも、それが眼によって見られていることは推論され得ない。
(ヴィトゲンシュタイン全集1『論理哲学論考』、奥雅博訳、大修館書店、1975、p.97)
ヴィトゲンシュタインはここで、主体と言うのを、見たり、聞いたり、触感を持ったり、シンボルで指示したり、言葉・概念で言及したりして対象を知るもの、すなわち認知するもの(認知主体)としていて、それが、認知されるもの(対象)とは全く異なるあり方をしているので、対象によって構成される世界には属さないと言っているのだと私は解釈します。対象は主体によって知られ得るが、主体自体はそうでないのです。なぜなら、主体は客観的な世界に属さないからです。ここでの世界とは、客観的な世界にほかなりません。ある個人には、対象によって構成される客観的世界に属す身体や行動の客観的側面あるいは外面がある一方で、対象によって構成される世界に属さない、見たり、聞いたり、あるいは言葉・概念で言及したりできない、主体であることによる主観的側面あるいは内面が同時にあるのです。
ところで、『哲学探究』の中では内面的側面の知についてヴィトゲンシュタインは次のように述べています。
他人の内的に語っていることがわたくしには隠されているというのは、〈内的に語る〉という概念の特性である。ただ「隠されている」はここでは間違ったことばである。というのは、たとえわたくしには隠されているとしても、かれ自身にはそれが明らかであるはずであり、かれはそれを知っていなくてはならないであろうからである。ところが、かれはそれを〈知って〉はいないのであって、ただ、わたくしにとって存在する疑いが、かれにとっては存在しないにすぎない。(ヴィトゲンシュタイン全集8『哲学探究』、藤本隆志訳、大修館書店、1976、p.440-441)
「かれはそれを知っていなくてはならないであろうからである。ところが、かれはそれを〈知って〉はいない」という部分に注目してください。ここにある「それ」は「かれの内面」のことなのは明らかです。そしてその内面をかれは「知っていなくてはならない」のに、「〈知って〉はいない」というのです。一見明らかな矛盾をこの引用文は含んでいるように思えます。しかしこの一見矛盾に思えることは、次のように解釈することで解消されると私は考えます。
他者の内面は私には隠されていますし、また私の内面は他者には隠されています。しかし、当人の内面は当人に隠されているわけではありません。しかもその隠されていないというのは、当人と離れて置かれた何かが、カーテンか何かによって隠されることが可能であるにもかかわらず隠されていないというのではなく、当人にはそのように隠されることがもともと不可能であるが故に隠されていない、ヴィトゲンシュタインはそう言っているのだと。例えば、私は私自身の内面を知るのを避けたり知っているのを疑ったりすることができません。このように、「かれはそれを知っていなくてはならない」ということを、隠されるのは不可能であるから知っているということだと解釈し、さらに、「ところが、かれはそれを〈知って〉はいない」という部分で言われていることを、隠され得るものを知るような仕方で知っているのではないということだと解釈すれば、ヴィトゲンシュタインの述べていることは矛盾したことではなくなると私は思うのです。
すなわちヴィトゲンシュタインは二つのタイプの知り方の存在を主張していると思います。一つは人が自身の内面を了解する際に実行されるもので、彼はその了解を避けることができません。もう一つは人が客観的な事物を了解するときに実行されるもので、それらは物理的に指示したり、シンボルまたは言葉を使って言及したりすることで知られ、その人から隠され得るのです。この二つのタイプの知り方の相違から、ヴィトゲンシュタインがそれについて語っている内面は対象ではなく、そして対象でないものは主体ですから、内面は主体ということになるでしょう。そしてこの結論はヴィトゲンシュタインの先の結論「主体は世界に属さない」と一致します。もちろんこの文章において、世界は客観的世界を意味します。
ヴィトゲンシュタインが述べていることについての私の解釈をまとめます。客観的世界あるいは諸対象は全ての主体によって、隠されることが可能な仕方で知られ得る。主体あるいは内面は隠されることが不可能な仕方で主体それ自身によってのみ知られる。そしてこの極めて私的な主体は認知主体の内面である。
ヴィトゲンシュタインの考えとチャーマーズの考えを融合して統合的な見解をつくる
ヴィトゲンシュタイン的な主体は現象特性の前提だと私には思えます。そのことをはっきりさせていきたいので、一度引用しているチャーマーズの文章を、特に読者に注目していただきたいところの開始部分に番号を付し、太字にして今一度書いてみます。
……①われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある。処理過程には、認知主体であるように感じられるところがある。この内的な側面が意識体験である。②意識体験の範囲は、生き生きした色彩感覚から、背景に漂うごくかすかな香気にまで及ぶ。鋭い痛みから、出かかっていながら出てこない考えといった捉えどころのない体験に及ぶ。日常的な音響や匂いから、全身を包み込む崇高な音楽体験にまでいたる。しつこい痒みという些細なものから、深い実存的な苦悩の重みにまでまたがる。ペパーミントの味のように特殊なものから、自我の体験という一般的なものまで含む。体験されたこれらの質には全て大きな開きがある。しかしそのすべてが、心が内的に営む生の突出した部分をなしている。
トマス・ネーゲルが有名にした言葉を借りれば、③あるものが意識的であるというのは、そのものにとって、そのものであるのはこういうことだといった何ものかがある場合である。同じように、心的状態が意識的であるのは、そういう心的状態であるとはこういうことだといった何ものかがある場合である。言い方をかえると、心的状態が意識的であるのは、それが質的な感じ――体験に結びついた質――をもつ場合である。そうした質的な感じは現象的な質(フェノメナル・クォリティ)、略してクオリア(質感)とも呼ばれている。この現象的な質を説明するという問題が、まさしく意識を説明するという問題であり、実にここが、心身問題の難しい部分である。(『意識する心』pp.24~25)
私が①として太字にした部分では、まず、「われわれが知覚し、思考し、行動するときには」という語句がありますが、これにはすぐに「情報処理」という言葉が重ねられます。もし情報処理が知をなす過程であるなら、先の語句は「認知活動の際には」と言い換えることができると思います。そしてその語句のすこし後に、認知活動の際には、「認知主体であるように感じられるところがある」とされています。そうであるなら、トーマス・ナーゲルの考え―③で太字にした部分にある「あるものが意識的であるというのは、そのものにとって、そのものであるのはこういうことだといった何ものかがある場合」―に従えば、認知主体は意識的です。そしてチャーマーズはその何物かについて、それは質的な感じ、すなわち現象的質または現象特性だと言っています。
他方ヴィトゲンシュタインは個人の主観(主体)あるいは内面は主体自身のみによって、隠されることが不可能な仕方で知られると述べています。したがって、もしヴィトゲンシュタイン的主体がチャーマーズの言及する認知主体の意識的な側面と同じなら、チャーマーズが主張するところの「認知主体であるように感じられるところがある」とは、自身によってのみ隠されることが不可能な仕方で知られる主体があるというヴィトゲンシュタインの主張と同じとなります。なぜなら、両方の主張とも同じものを知る仕方について語っていることになるからです。すなわちチャーマーズの主張における認知主体の意識的な側面とヴィトゲンシュタインの主張における主体という同じものの。
それで、チャーマーズの考えとヴィトゲンシュタインの考えを統合することで、主体あるいは認知主体あるいは個人の内面は彼/彼女自身によってのみ知り得ることになります。例えば。私は私自身のみを主体として知り得るのです。他者に関しては、私は彼らの内面あるいは主体であることを知り得ません。なぜなら、個人的存在としての私は他者になり得ないからです。私は他者の内面的側面あるいは現象特性の存在についていかなる意見も持ちえないのです。
しかし他方、②で太字にした部分で、チャーマーズはたくさんの種類の意識経験を挙げていて、そして「体験されたこれらの質には全て大きな開きがある」と述べています。すなわちそれらは互いの差異化において知られるのです。そして彼は別のどこかで、各現象特性には心理学特性との間に対応関係があると述べていました。それで、私たちは心理学特性との対応を使って指し示すことで現象特性を知り得るのです。そしてこのようにして、私たちは他者の現象特性を知り得ると思えます。しかしそれは間違いです。①で太字にした文から、認知主体である感じがそこにはあること、すなわち主体があらゆる種類の体験に伴うことがわかります。この必須の要素のゆえに、いかなる現象特性も結局は他者によって知られ得ないのです。
すなわち、意識的体験は、人の心の内側で差異化によって現象特性の知識を得ているのですが、しかしそこには常にヴィトゲンシュタイン的主体の知が伴っています。それゆえに、各現象的特性の間には差異があり、心理学特性との間には対応があるでしょうが、現象特性はあくまでも公共的な対象の世界には属さないのです。それで、他者の現象特性についてあるとかないとかと語ることは本来意味をなさないのだと私は考えます。現象特性の存在に関して語ることは結局意味がないのです。私の現象特性は私にだけ意味を持ちます。そして私は他者の心における現象的質の存在について断言できません。おそらくヴィトゲンシュタインが述べている次のことは、極めて私秘的な主体と、それに対峙する対象世界についてあてはまるのでしょう。
「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中へ入ってくる。
哲学的自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学が関わる人間の魂でもない。それは形而上学的主体であり、世界の部分ではなくて、限界である。
(『論理哲学論考』p.98)
概念的には、客観(外面)と主観(内面)は、貨幣の表と裏のように、互いに相補的な関係にあり、どちらか一方だけがあるとするのは不可能だと思います。そうしますと、私は私であることで、主観があることを実感していて、その私の主観と相補的な客観世界があると筋の通った主張ができます。これが引用文にある「世界は私の世界である」ということなのでしょう。現に今ここで意識体験をしているこの私と、それに対峙する客観的世界があるという主張です。ただ、他者に関してそのような状況を想定することは無意味なのです。
ヴィトゲンシュタインもチャーマーズと同様に、誰にでも主体が想定できるという仮定から議論を開始し、それが決して無意味な仮定ではないという考えにかなり傾きそうになっていたと思います。しかし彼は、主体を知る仕方と対象を知る仕方との相違を追究することで、そのような誘惑にはのらなかったようで、次のように述べています。
わたくしのかれに対する態度は、魂に対する態度である。わたくしは、かれに魂があるなどという意見をもっているのではない。(『哲学探究』p.355-356)。
このように、ヴィトゲンシュタインは自身に主観があるように、他者もそうであるとする態度をとると言うのです。しかしそのような意見を持っているのではないと、その有意味性は否定しているのです。
主体であることあるいは現象特性を持っていることは極度に私的です。したがって、他者がそのような主張をしても何の有意味な意見も持ちえないのです。他者(例えばヴィトゲンシュタイン)が私に、「確かに主観がある」とか「確かに内面を持っている」と言ったりしても、それは言語行為において機能的に、すなわち心理学特性において発言されているだけで、現象特性の前提となる主体としての彼の(私にとって)隠された内面の存否についての意味ある内容はいっさい含んでいないのです。例えば共感においては、私は彼の感じていることについてある感じを持つことができるでしょうが、しかしそれは彼の感じていることではありません。なぜなら私は彼ではないからです。さらに、このようなことさえ言えるのかもしれません。ヴィトゲンシュタイン的な主体ということが意識体験にとって第一義的であるとするなら、人間と同じような心理学特性を示す人工知能があったとして、それが意識体験を持つかどうかという問題を提起することは、人間である他者に意識体験があるかどうかと問うことと同様に無意味であると。人間であろうが同じように振る舞う人工知能であろうが、そのものとなっていない限り、対象的なあり方をしない意識体験の有無について有意味なことは一切言えないからです。私が有意味に述べることができる内面は、私の内面のみ、私の現象特性のみ、今ここで体験しているこの私のみです。
ウィルバーは個の内面をどのようにとらえているのか?
チャーマーズの考え、ヴィトゲンシュタインの考えを参考に、内面的側面、主観性、体験の主体と言われることを巡って考察してきましたが、ではウィルバーは人の主観、内面について、どのような考えをもっているのか確かめたいと思います。図1にウィルバー・コスモロジーの四象限図を示しました。彼はコスモスが二対の相補的な側面を持っていると考えます。一つは主観(内面)と客観(外面)の一対の側面。もう一つは個的と習合的の一対の側面です。彼はこれらの二対を掛け合わせ、四つの側面を造りました。すなわち個的内面、個的外面、集合的内面、集合的外面です。彼はコスモスがこれらの四つの側面を持っていると考えます。そしてこれらの諸側面を直行する座標軸から作られる四つの象限にあてはめて説明します。左上象限はコスモスの個的内面を表します。右上象限はコスモスの個的外面を表します。右下象限はコスモスの集合的内面を表します。左下象限は集合的内面を表します。
図1 ウィルバー・コスモロジーの四象限図(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したもの)
コスモスにおける全ての個的存在の内面、とくに個人の主観的側面あるいは内面は左上象限に当てはまります。そして図1の左上象限に書かれている諸事項―把握、被刺激性、感覚、知覚、衝動、情動、シンボル、概念、具体的操作、形式的操作、ヴィジョン・ロジック―は個人の認識能力の発達の系列です。そしてこれらは、個人の行動と肉体―特に脳―の物理的振る舞いに関連して科学的に探究され得る心理学特性の諸概念です。しかし心理学的特性と現象特性の間には対応があります。したがって同じ言葉が心理学的特性と現象特性の両者を表すのに使われたのです。
ウィルバーの四象限理論は全ての人が左上象限を持っていると仮定しています。しかしもし現象特性の基盤がヴィトゲンシュタイン的主体なら、その仮定は疑わしくなると思います。なぜなら、ヴィトゲンシュタイン的主体は意識的体験を今ここでしているこの私に他ならないのであり、他者の主観を仮定することは意味がないからです。
左上象限に現象的側面を当てはめることで四象限の枠組みはどのように変化するのか?
すでに見たように、チャーマーズの考えに基づくと、心の心理学的側面は脳の機能に還元できます。それゆえ人の内面としては、私たちは心の現象的側面、あるいは現象特性を当てはめるべきです。もしそうなら、どんなことがいえるでしょうか?チャーマーズの考えとヴィトゲンシュタインの考えを融合することで作った理論に従えば、現象的側面または現象特性の基盤はヴィトゲンシュタイン的主体です。そしてこの主体は、現に意識体験している私には隠しようもなく自明なのですが、他者には決して知られることはないし、また私は他者の主体について有意味に語るべきことを何ももたないのです。ですから、私にとって左上象限は、最も私的な、現に意識体験しているこの私という主体の象限とするしかありません。確かに現象特性と心理学特性との間には対応があります。その仕組みのために、現象特性はまた心理学特性の名称で指示されることになります。そしてすべての個人は心理学特性を持っています。しかし、現象特性の基盤にヴィトゲンシュタイン的主体がある限り、左上象限は今意識的に体験しているこの私の内面以外の何物でもないのです。
右上は個人の行動と物質的身体の象限です。『意識する心』の24ページでチャーマーズが述べていることからすれば、どのように物理的なシステムが心理学特性を持ち得るかに関してよくわかっており、心理学的な心身問題は解消されてしまっています。したがって、もし私たちが望むなら、心理学特性は客観的領域に還元され含まれ得るのです。
右下は、行動と身体両者の所有者である個の集合の象限です。ところで、全ての個の行動と身体は、その集合の象限に登場してもいるはずですから、右上の、個の行動と身体の象限は、右下の、行動と身体の集合の象限と一緒にしてもさほど問題はないと思います。ウィルバーが四象限のうち、右上象限と右下象限を一つと見なし、四象限をビッグ・スリーという三つの側面としても見なし得るとしたのにはそのような考えがあったからだと思います。そして彼のコスモロジーにおいては、人間だけでなく、原子、分子、細胞などのすべての種類の個も基本的に個人と同様に扱われます。それゆえに、右側の象限は客観的な全世界を表しています。
左下象限は、集合的内面あるいは間主観的な象限です。しかし、ヴィトゲンシュタイン的な主体がベースになっている左上の主観はあくまで私の主観でしかなく、他者の主観に対しては、その有る無しについて有意味に語れないのですから、そのような他者の主観と関わるとされた間主観的象限に関しても、有意味に語れることはないはずです。
以上述べましたことを考慮しまして、左上象限の基盤はヴィトゲンシュタイン的主体とするなら、四象限について次のように言えると思います。左上は、この私の象限です。極めて私的で、他者の内面には一切かかわりはありません。右上と右下をひとまとめとした右側は、外面あるいは対象の領域です。左下は間主観的象限ですが、私でない他者の内面に関して語ることは無意味ですから、空白とするべきです。そうしますと、四象限モデルは、次のように左下象限を欠くように変更すべきだと私には思えます。
図2. 改訂された四象限モデル
それゆえに、図2は図3のような二象限モデルに書き直してもよいと思います。左側象限は、今ここで意識体験している私の象限であり、右側象限はこの私に対峙する客観的世界です。
図3. 2象限モデル
このモデルの考えは、もちろん「世界は私の世界である」(『論理哲学論考』p.98)というヴィトゲンシュタインの考えに一致します。
そしてもし私自身のも含め現象特性が全くなかったら、モデルは図4のように一つの領域に還元されるでしょう。その場合、何の主体(主観)も対象(客観)もありません。なぜなら、主観と客観は相補的だからです。それゆえに、何の現象特性(主体)もなければ、また何の対象もないのです。単に世界があるだけです。
図4. 1領域モデル
しかしこの1領域モデルにおいて、もし私たちが心理学特性の部分を新たに個の内面として定義すると決断するなら、新しい四象限理論を私たちは再構築することができます。そこでは、左上象限あるいは心は、各人の心理学的側面のみをもつことになります。
ウィルバーの主体に関する考え
チャーマーズの見解によれば、認知主体は心と呼ばれる内的な部分を持ち、そして心は心理学的側面と現象的側面の両者を持ちます。ウィルバーはチャーマーズが言うのと同様に、各人の心は二つの側面を持つと考えていると私は思います。それゆえに、ウィルバーにとって全ての個に左上象限を設定するのに何の問題もなかったのでしょう。しかし私はチャーマーズの考えとヴィトゲンシュタインの考えを融合し、現象的側面の基盤にはヴィトゲンシュタイン的主体があると結論しました。そしてヴィトゲンシュタイン的主体は極めて私的です。それゆえ、他者の内面について語ることは無意味です。ところでウィルバーは主体に関して様々なことを述べています。そこで、主体に関するウィルバーの考えの一つと、主体に関するヴィトゲンシュタインの考えを少し詳しく比較したいと思います。
ヴィトゲンシュタインは認知主体について、見ている眼が視界に属さないように、「主体は世界には属さない」と述べたのですが、ウィルバーも基本的には同じように主体を捉えていると私は思います。例えば『進化の構造1』(松永太郎訳、春秋社、1998年)で彼は次のように述べています。
哲学においては、経験的な自我(エゴ)と純粋自我(エゴ)または超越的な自我(エゴ)との間には、大きな区別がつけられている。経験的な自我(エゴ)は知覚または内省の対象となりうるかぎりの自己である。カント、フィヒテ、フッサールによる純粋自我(エゴ)または超越的な自我(エゴ)とは、純粋な主体性(または観察する自己)であって、どのような対象にもなりえないものである。この観点からすれば、純粋な自我、純粋な自己は、ヒンドゥー教徒の言うアートマン(あるいはそれ自体、けっして目撃されることのない――けっして対象となることのない、だがすべての対象を含む純粋な目撃者)とほとんど同一である。
さらにフィヒテのような哲学者によれば、この純粋な自己は絶対精神(スピリット、霊)と同一であって、まさしくそれはヒンドゥーのアートマン=ブラフマン(梵我一如)の公式そのものなのである。(p.357)
この引用文で述べられている純粋自我というのは、ウィルバーが一足飛びに、すべての対象を含むとしたり、絶対精神とかアートマン=ブラフマンとかと同一視を試みてしまっていることを除けば、ヴィトゲンシュタインによって「世界に属さない主体」と表現された、対象とは全く異なるあり方をした主体に一致するはずのものだと私には思えます。そしてウィルバーは、いかなる対象にもなり得ないが故に無限定であり、それについて語ることもできないはずの主観について無理に語るために、対象を列挙し、そしてそれらは主観ではないと否定していく手法を使います。
否定による主観の示唆
様々な認識能力に対応して対象も変わっていきます。例えば視覚的な対象は視覚能力に対応しています。よって、認識能力の分類と対象の分類には対応関係があります。ウィルバーはこの対応を否定の方法で主体を示唆するために使用します。多くの場合、肉の眼、心の眼、スピリットの眼(観想の眼)という、きわめて大まかな認識能力の分類を彼は使います。ここで私はその大まかな分類を使って考察したいと思います(図1の左上に書かれている認識能力に関連して言いますと、大まかには、肉の眼とは把握から情動、心の眼とはシンボルからヴィジョン・ロジック、スピリットの眼とは、図にはありませんが、ヴィジョン・ロジックより高次とされるトランスパーソナルなレベルとなります)。ウィルバーは次のように述べています。
『眼から眼へ』の前提は、もちろん人間の意識は大いなるスペクトルを描いている、ということなのである。すなわち人間には、異なった知の様態(モード)のスペクトルがあり、それが異なったタイプの世界空間(ないし異なった主体、異なった客体、異なったモードの時間と空間など)を開示する、ということである。
最も簡単に言えば、少なくとも三つの眼がある。それは肉体の眼、心の眼、そして観想の眼であって、それぞれの眼に専一的に依存すると、それぞれ経験論、合理主義、そして神秘主義を生み出すのである。『目から目へ』は、それぞれの知のモードは、特定の、しかもそれぞれ妥当な参照枠を持っていると主張する。すなわち感覚野(センシリア)、知性野(インテリジビリア)、超越野(トランセンデリア)である。(『統合心理学への道』、松永太郎訳、春秋社、2004、p.124)
肉の眼の対象となる感覚野は、時空間と物質の領域です。心の眼の対象となる知性野は、理念、イメージ、概念、論理、数学、哲学、そして心そのものの領域です。観想の眼の対象となる超越野は、仏性、アートマン、スピリットなどのトランスパーソナルなものの領域です(『進化の構造1』 p.428で述べられていることを参考にしました)。そして彼は「感覚領域、精神領域、そしてスピリチュアルな領域があり、全てはリアルであり、そして経験的な対象の領域である」( Eye to Eye, ThirdEdition, Shambhala, 2001, p.63にある文章を私が訳しました )と述べています。つまり、通常客観的とされる物質的な世界のみならず、人の心(内面)に現れるとされるものも、そしてトランスパーソナルなレベルで現れるとされるものもウィルバーは対象とし、純粋な主観、純粋な認識者は、それら対象のいずれでもないとするのです。主観性のその意味においては、心の心理学的な側面、あるいは心理学的特性は精神的対象であり、もちろん客観的です。『進化の構造1』から、その否定の過程に関連して述べられた部分をいくつか連ねて引用してみます。
……純粋な「目撃者」(エックハルトはそれを「主体の本質」と呼ぶ)は、見ることはできない。単純な理由で、それ自体が見る者だからである。そしてこの見者は純粋な空性、純粋な明け開けであり、その中ですべての対象、経験、もの、出来事が起こるのだが、見者はただそこで持続しているだけである。見られるものは、対象、有限なもの、被造物、イメージ、概念、ヴィジョンである。そして私たちはまさしくこれらのどれでもないのである。(p.479)
……「自己」とは身体でも、心でも、思考でもない。感情、感覚、知覚でもない。それは徹底的にすべての対象、すべての主体、すべての二元性から自由である。それは見られるものでもなく、知られることもなく、思考の対象になることもない。(p.482)
……「自己」はあれでもないし、これでもない。まさしく、あれやこれの目撃者だからであり、それゆえにすべてのあれや、すべてのこれを超えているのである。「自己」は一つである、と言うことすらできない。なぜなら一つということもまたある属性であり、知覚されたり、目撃されたりできるものだからである。「自己」はスピリットでもない。むしろ「自己」とは、今、ここでこの概念を目撃しているものである。「自己」は目撃者でもない。それもまた一つの言葉や概念であり、「自己」とは、今、ここでその概念を目撃しているものである。「自己」とは「空」ではない。「自己」とは純粋な「自己」ではない。(p.482)
このように、否定を連ねていかなる対象でもないとすることで、ウィルバーは純粋な主観、「自己」をあぶりだそうとするのですが、その行きつく先は、「今、ここで」意識体験している主体となるというのです。それは、ウィルバーがトランスパーソナリティを主張していることを除けば、ほとんどヴィトゲンシュタイン的な主体と同じだと思います。ヴィトゲンシュタイン的な主体は継続的に私的あるいは個人的であり、それ自身によってのみ隠されるのが不可能な仕方で知られるのです。このエッセイではヴィトゲンシュタイン的な主体についてはすでに多くを述べてきましたが、現実の意識体験におけるこの私としてしか想定できないと結論しました。どの人にもあるとして有意味に想定できるものではないのです。ウィルバーもトランスパーソナルにジャンプする前にそのような考えに至るべきだったと思います。しかし実際にはそうなりませんでした。
何故ウィルバーはヴィトゲンシュタイン的な主体の論理をつかめなかったのか
何故ウィルバーはヴィトゲンシュタイン的主体を見落としてしまったのでしょうか?その経緯について推察してみたいのですが、まずは、推察の起点として、ウィルバー自身が述べていることを、少々長いですが引用してみます。後の説明の都合上、私は空き行を二カ所に挿入して三つの部分に分けました。もともとは空き行の挿入などはなかったことをあらかじめお断りしておきます。
わたしとは誰か、わたしとは誰か、わたしとは誰か、深く問い続けよ。
わたしは、自分の感覚に気が付いている。ならば、わたしはわたしの感覚ではない。ではわたしとは誰か。雲が空に漂っている。思考が心のなかに漂っている。感情が体のなかを漂っている。わたしは、それらのいずれでもない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃するものだからだ。
わたしは、雲が存在するのか、感情が存在するのか、思考が存在するのかなどと疑うことはできる。しかし、今、この瞬間、それらを目撃している意識は疑うことはできない。なぜなら、疑いという行為を目撃しているのが目撃者の意識だからである。
わたしは、自然の中の対象ではない。身体のなかの感覚ではない。心のなかの思考ではない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃することができるからだ。無限に広がり、空であり、明晰であり、純粋であり、透明なこの「開け」は、公平に、あますところなく、起こることすべてに気づいている。自在にすべてを映し出す鏡として。
すでに、この「偉大な解放」を少し、感じられたのではないだろうか。今、この瞬間の気づきに安らぐ。すでに単なる客体、単なる感情、単なる思考の窒息するような拘束から自由になった感じを味わっているのではないだろうか。すべての対象は、来たりては、去る。しかしあなたは、この広々とした、自由で、開け放たれた「目撃者」であり、対象の苦しみ、拷問から離れているのだ。
この純粋な「開け」、神聖な「自己」、無形の「目撃者」、原因としての「無」、広大な「空」のなかに「すべて」が起こり、しばらくのあいだとどまり、やがて去ってゆくということ、そしてあなたはこの「開け」そのものである、ということ、これこそ、深遠な発見である。あなたは身体ではない。思考ではない。これでもない、あれでもない。あなたは「空」であり「自由」であり、「開け」であり「解放」である。
この発見……あなたはすでに半分の道を行っている。あなたは、すべての有限な対象から自分を切り離した(自己同一化を脱した)。あなたは無限の意識として安らいでいる。あなたは自由であり、オープンであり、透明であり、光を放つものであり、空間に先立ち、時間に先立ち、涙と恐怖に先立ち、苦しみ、苦痛、死に先立つ存在としての至福の空に浸されている。あなたは偉大な「不生」、「深遠」、属性をもたない基盤(グラウンド)を見つけたのである。それはかつてあり、今もあり、これからもあり続けるグラウンドである。
しかし、なぜ、それが半分の道なのか。なぜなら、あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべての自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由と充満性(フルネス)への「突破(ブレイクスルー)」が起こるからである。「目撃者」それ自体が消えてしまう。空(そら)を目撃するかわり、あなたは空(そら)である。大地に触れるかわり、あなたは大地である。雷を聞くかわり、あなたは雷である。あなたとコスモスは一つである。太平洋を一息で飲み込むことができる。エヴェレストを手の上に載せることができる。超新星があなたのハートで渦巻き、太陽系があなたの頭のかわりとなる。
あなたは、「一者の味わい(ワンテイスト)」である。おこること一つひとつ、そのすべてである、空なる鏡であり、まったく透明であり、無限で、永遠で、解放すら超えている、それが……あなたである。
そこで、デカルト的な二元論――こことあそこ、主体と客体、空なる目撃者と目撃されているすべてのもの、という二元論――は最終的に解体され、非二元の一味となる。目撃者と完全に接触すると、その時、ただその時のみ、それは根源的な非二元性へと超越される。そして半分ではなく、ついに故郷に到着したのである。今、ここである、常に現前する「あるということ、そのもの」へ。
どのように、最終的に、そして完全にデカルト的な二元論を克服した、と言えるのだろうか。簡単である。完全にデカルト的な二元論を克服した時、あなたは、あなたの顔のこちら側で世界を見ているのではない。世界は一つであり、あなたはそれである。あなたは一瞬一瞬、起こっていること、すべてと一つである。あなたは顔のこちら側で世界をのぞいているのではない。こちら側と向こう側は、震撼させるような明瞭性と確実性をともなって、一つとなる。それはあまりにも深い発見なので、まるで五トンの岩が頭に落とされたようである。それは、逃しようのない感覚である。
その時(実はそれが、あなたに常に現前している状態なのであるが)、特定の肉体への同一化はなくなる。頭のなかの意識への同一化はなくなる。あなたとは、頭のなかから世界をのぞいているものなのだという拘束がなくなる。個人的な心身への縛り付けられるような関心はなくなる。そのかわり、意識は常に起きているあらゆることと一つである。意識は、コスモス全体を抱擁する。広大で、開けており、透明で、光を放ち、無限に自由で、無限に充満しているこの開けであり、したがって、すべての客体とすべての主体は、この「一者の偉大な抱擁」のなかで、官能的に結ばれる。眼のこちら側の存在としてのあなたは消え去る。あなたは「すべて」となる。あなたとは、一瞬一瞬におこること、それそのものすべてである、と直接、実際に感じる(ちょうど、以前、あなたは自分とは、あなたが肉体と呼ぶ、有限で、分離した、部分的な、死すべき魂である、と感じていたように)。
内側と外側は一つになる。それは、こうして起こりえるのである。
(『存在することのシンプルな感覚』、松永太郎訳、春秋社、2005年 pp.14~17)
三つの部分に分けた引用文の最初の部分に注目してください。そこでは、「わたし」という、任意の個ではなく、文章を読みながら現に意識体験をしている主体が、どのような客体でもないとする否定の手法を使って「わたし」を追求する部分です。このような方法論で突き詰めることで、いかなる対象でもない、疑いようもない、現に今ここにおいて意識体験しているこの私、純粋な主観にウィルバーは行き着きます。そしてそれは、この私としてしかありえない、極めて私秘的なヴィトゲンシュタイン的な主体と一致するはずだと思われます。
ところが、二番目の部分では、「すでに、この『偉大な解放』を少し、感じられたのではないだろうか。今、この瞬間の気づきに安らぐ。すでに単なる客体、単なる感情、単なる思考の窒息するような拘束から自由になった感じを味わっているのではないだろうか。すべての対象は、来たりては、去る。しかしあなたは、この広々とした、自由で、開け放たれた『目撃者』であり、対象の苦しみ、拷問から離れているのだ」とあります。そこでは、「今、この瞬間の気づき」における主体が、他者である「あなた」において実現しているとされています。その直前まで、現に意識体験をしているこの「わたし」について問い続けていたのに、突然任意の「あなた」、すなわち「わたし」にとっては対象でしかない「あなた」を「わたし」に置き換えていて、妥当な議論とは言えない断絶を見ることができます。
なぜでしょうか。それは、ウィルバーが、断絶しているところに挿入すべきだった、主体の知に関する議論をきちんとしなかったことによるのだと思います。ヴィトゲンシュタインは、主体は、対象と異なり、主体当人であることで、隠されようもなく知られるとしました。この議論があれば、他者の主体について、それがあるかないかについて言うのは意味をなさないことがわかりますから、いきなり「わたし」の探求から「あなた」も含めた私たちの探求へと切り替えることはなかったはずです。ところがウィルバーは主体の知の特殊性の議論を省いたため、強引な論の進め方、あるいは誤謬とも言えることをしてしまい、最終的にヴィトゲンシュタイン的な主体の論理をとらえそこなったのだと私は考えます。
二番目の部分の最後の段落に注目してください。そこでは、「すべての有限な対象から自分を切り離した」としても、探求は道半ばだとされています。ウィルバーは先ほど述べましたように、「わたし」の探求から、任意の個における自己探求へと、誤謬とも言える議論の飛躍をしてしまっているのですが、論を、断絶の無い、順を追った丁寧な流れの方へ遅まきながら戻すなら、ここで言われる「すべての有限な対象から自分を切り離した」その結果の自己とは、本来はヴィトゲンシュタイン的な主体であるこの「わたし」でとどめておくべきです。従って探求が道半ばだというのは、ヴィトゲンシュタイン的な主体、純粋な主観にまでいたっても道半ばだと直すべきなのでしょう。ではなぜ道半ばなのでしょうか。三番目の部分の最初の段落にその理由は書かれています。その部分を、ウィルバーが不注意に「あなた」としているところを、現にその文章を読んでいる、意識体験をしている「わたし」に置き換えて書き直してみます。書き直したところは太字にすることにします。
しかし、なぜ、それが半分の道なのか。なぜなら、わたしがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべての自然に起こることに気が付いている時、やがて最後の自由と充満性(フルネス)への「突破(ブレイクスルー)」が起こるからである。「目撃者」それ自体が消えてしまう。空(そら)を目撃するかわり、わたしは空(そら)である。大地に触れるかわり、わたしは大地である。雷を聞くかわり、わたしは雷である。わたしとコスモスは一つである。太平洋を一息で飲み込むことができる。エヴェレストを手の上に載せることができる。超新星がわたしのハートで渦巻き、太陽系がわたしの頭のかわりとなる。
すなわち、さらなる半分の道においては、現実の意識体験におけるこの「わたし」と、対峙する対象との原初の二元論における垣根が超えられることになるので道半ばなのです。そしてさらに先で語られるように、最終的には非二元の一味になるというのです。それは、他者を含むすべてがこの私であると言わざるを得ないようなトランスパーソナルな体験をしたという、パーソナルなレベルでは無意味としか言いようのない主張なのです。現に意識体験しているこの私が、実はどの人の私でもあると確信してしまうような事態なのです。こうしたトランスパーソナルな体験を座禅の実践などを通じてすることによって初めて、他者の内面について論じ始めることができるのです(パーソナルな立場では相変わらず無意味ですが)。ウィルバーは不注意にもこのような順を追った論の進め方をせずに、先回りしてトランスパーソナルな立場から他者にも内面があると断定し、現象特性を全ての人に対して左上象限に当てはめてしまったのだと私は思うのです。
ウィルバーはトランスパーソナルな視点から語っているという可能性がある
個的な視点からは無意味なことについて、ウィルバーはトランスパーソナルな視点から有意味に語っている可能性があると思います。彼は禅を含む多くのトランスパーソナルな修行実践をしてきています。それで、意識のトランスパーソナルなレベルに達することによって、彼は他者の内面を体験することができ、そして全ての個人が内面、主観性、現象特性を持っていると確信したのかもしれません。もしそうなら、彼が躊躇なく他者の左上象限と関主観的な左下象限を、それらの象限が理性的な哲学者のようなパーソナルなレベルの人たちからは無意味であろうにもかかわらず設定したのは、理解できます。
結論
チャーマーズは、認知主体という内面の知が、対象の知とは全く異なることを追究しないままに議論を進めました。そのため、どの個人も認知活動において認知主体である感じを持つことができると考え続け、ついに内面の私秘性にいたることはありませんでした。このエッセイではチャーマーズの著書からの多くの引用文が登場しますが、中でも詳しく検討したものの中に、「われわれが知覚し、思考し、行動するときには、つねに因果関係と情報処理が渦を巻いて駆けめぐっているが、そうしたプロセスは通常、その主体に知られずに進行するわけではない。そこには内的な側面もある」という部分があります。もしチャーマーズがヴィトゲンシュタイン同様に主体の知の特殊性に注目できたなら、この部分の主語である「われわれ」は、実は今ここで体験している「私」でしか在り得ないというようなことが著書のどこかで指摘されることになっただろうと私は思うのですが、そうはなりませんでした。チャーマーズは、ヴィトゲンシュタイン的な主体に関する論理を把握するには至らなかったと私は見ます。
私が引用したヴィトゲンシュタインのテキストには「他人の内的に語っていることがわたくしには隠されているというのは、〈内的に語る〉という概念の特性である」という文があります。この文から誰かの内面についての議論が始まります。したがって彼もまた他者に主体であることによる内面を一応仮定していたわけです。ところが、内面、主体の知は当人であることによって隠しようもない仕方で得られるのだとヴィトゲンシュタインは理解します。主体の知は、隠され得る対象の知とは全く異なるのです。そのため、意味を持つ内面は、今ここでの意識体験におけるこの私と言う主体でしかありえず、他者の内面の存在について語ることは無意味だという、内面の私秘性の結論を得ます。
ウィルバーは、例えば私が『存在することのシンプルな感覚』から引用した文章などでは、私と言う、今ここで現に意識体験している主体が、いかなる対象でもないと論じていくことで、純粋な主観を探求します。従いまして、チャーマーズよりもヴィトゲンシュタインよりもストレートに私秘的な主体に到達してよかったと思うのですが、議論の途上で、トランスパーソナルな体験を重ねてしまったがために、純粋な主体、すなわちヴィトゲンシュタイン的な主体の知の特殊性に関する議論をしないまま、内面の非二元化へと進んでしまいます。そのため、純粋な主観の私秘性は省かれてしまいました。
私の批判の核心は、ウィルバーは、ヴィトゲンシュタイン的な主体の知に関する議論をきちんとすべきであったということです。パーソナルなレベルの限界であるヴィトゲンシュタインン的な主体に関する議論を丁寧にすることが、そのパーソナルなレベルにある人が、自らのレベルの限界を納得し、わだかまりなくより高次なレベルに進むための準備になると思われますし、ウィルバーはそのような進展を促すことを自らの目的の一つにしていたと思うのです。そういうことから、彼がヴィトゲンシュタイン的な主体に関する妥当な議論をし尽くさなかったことは、極めて残念なことだと思います。
ノート
アンドルー・スミスは、ヴィトゲンシュタイン的な主体の極度な私秘性を正しく認識していなかったように思えますが、チャーマーズの心理学特性と現象特性に関する議論は認識していました。そして現象特性の理論化に関する困難さを考慮し、個的内面について触れることを避けています。心に関しては、その心理学的特性、すなわち行動の因果的連鎖における役割だけを扱うと彼は決断しています。ですから、彼が扱うのは、ウィルバーの四象限で言えば右側だけです。そして右側は、ウィルバーがビッグ・スリーという考えにおいてしているように、一まとめの領域として扱えるのですから、スミスが自らのモデルをワン・スケール・モデルと呼ぶのは、そういう意味からもふさわしいと思います。彼の思想については、integralworld.com に掲載されている以下のエッセイを参照してください。
・A one-scale model of holarchy and it’s implications for four strand theories of knowledge acquisition(Response to Edwards) , September 2000
・The spectrum of holons (Response to Kofman) , January 2001
・All four one and one for all : A (Somewhat Biased) Comparison of the Four Quadrant and One-Scale Models of Holarchy , February 2001
・Why it Matters : Further Monologues with Ken Wilber (December 2001)
一方ゲリー・ゴッダードは、左上象限における私秘性を認めていて、次のように述べています。
……客観化して間接的に知る以外に、他者の精神的経験を直接に感知することについて語ることは、不可能なだけでなく非理知的なことである (少なくとも、トランスパーソナルな意識が高次で統一的なレベルからその区別を包含するまでは)。……こうして、論理的に必然的な経験の私秘性(プライバシー)が帰結する。 (インターネット・サイトIntegral World に掲載されているGerry Goddardの論文、Holonic logic and thedialectics of concsiousness : Unpacking Ken Wilber’s Four Quadrant Model ,December 2000にある文を訳しました)
この引用文からすれば、彼は個的内面の私秘性を認めてはいるのですが、しかしウィルバー同様にヴィトゲンシュタイン的な主体の知についてのきちんとした議論はしないまま、どの個の内面についても語れるとしていますので、すでにトランスパーソナルな視点を個の内面に導入しています。そこに言わば手落ちがあると思います。ただ、ある個人の客観は、別の個人の主観であるというような仕組みが主客の相補性について提案されていて、私には、その独自なトランスパーソナルな考えは、パーソナルな立場とトランスパーソナルな立場を接続する可能性をはらんでいるのではないかとも思えました。
文献
『意識する心』、ディヴィッド・J・チャーマーズ、林一訳、白揚社、2001
(David J. Chalmers, The Conscious Mind, Oxford University Press, 1996)
『進化の構造1』、ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998
(Ken Wilber, Sex, Ecology, Spirituality, Second Edition, Shambhala, 2000)
『統合心理学への道』、ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、2004
(Ken Wilber, The Eye of Spirit, Third Edition, Shambhala, 2001)
『存在することのシンプルな感覚』、ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、2005年
(Ken Wilber, The Simple Feeling of Being, Shambhala, 2004)
ヴィトゲンシュタイン全集1『論理哲学論考』、奥雅博訳、大修館書店、1975
(Ludwig Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus, Dunda Books Classic)
ヴィトゲンシュタイン全集8『哲学探究』、藤本隆志訳、大修館書店、1976
(Ludwig Wittgenstein, Philosophical Investigations second edition, translated by G. E. M. Anscombe, Blackwell publishers, 1997)