未来の世界国家

増田満

はじめに

 著名な歴史学者アーノルド・ジョゼフ・トインビーは、45年前の1975年に亡くなっています。今ではマスコミでその名を見たり聞いたりすることもほとんどなくなりました。しかし、東京都町田市には、「トインビー世界史学習会」という彼の名を冠した小さな会がありまして、私もその末席に連ならせていただいています。使っているテキストは、『図説歴史の研究』(アーノルド・トインビー、桑原武夫監訳、学習研究社、1976 この翻訳版はⅠ、Ⅱ、Ⅲの三分冊からなります)です。先日(2020年6月)開催された同学習会では、「第6部 世界国家」の部分を読むことになり、レジュメ作成を私が担当しました。
 「世界国家」は、”universal state”の訳語で、あまねく世界に支配権を主張する普遍的な国家ということです。ローマ帝国や漢帝国などが代表的な例とされています。ただしトインビーによれば、世界国家を形成するにいたった少数の支配者たちのもともとの動機は、世界支配を目指すことにはなく、彼らの権力を永続させるために、興隆の頂点に達した国家をいつまでも持続させようと欲したことにあります。そして結局のところ、トインビーが世界国家の範疇に含めた諸帝国は、少数の支配者の自己中心的な目的を達成することなく、世界の一部分を一時的に支配して消滅したのです。とは言え、それら帝国内の人たちの多くはもちろんのこと、近接する地域の人たちの多くも、消滅した後でも、主観的には帝国の普遍的権威を認め続けていました。
 内外の人々にそういう思いを持たせることのできた、ローマ帝国、漢帝国をはじめとした国々を、トインビーは世界国家と呼ぶことにしたのです。そしてそれら国家が、少数の支配者のもともとの目的(権力の永続性)にも、国内そして近隣地域の人々が抱いた権威の普遍性に対する主観的思い込みにも、実体としては応えることができなかったので、世界国家は結局目的たりえなかったのだとトインビーは結論づけています。
 それでもこれら世界国家は、未来の真の世界国家(本当に世界全体を統御する政治的統一体)の先例としての役割を担っていたと言えるのではなかろうかとトインビーは問いました。そしてもし未来に真の世界国家ができるとしたら、そこには、高等宗教(仏教、キリスト教、イスラム教など)に見うけられる精神運動の種子が含まれ、芽吹いているはずだと述べています。それは、未来の世界国家を形成する人々のある程度の割合は、自然の背後にある大いなる存在のような、究極的な精神的実在との、直接的関係性を目指したり実感したりしているはずだということのようです。またトインビーは、そのような精神性が、人々が様々な宗教に関する知識を容易に得ることが出来るようになった現代世界で、高等宗教の中でも最も寛容な仏教を選ぶことで生じることを強く望んでいます。
 この、「未来の世界国家」に対するトインビーの展望と、昨年(2019年)出版された『21 Lessons』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社)で若き歴史学者が述べているグローバルな世界への展望を比較すると、大きな一致点が見られることに私は気づきました。ハラリは、現代のグローバルな問題(近年とみに注目されている気候変動による生態系破壊の問題、情報テクノロジーとバイオテクノロジーの急速な進展によるデジタル独裁国家とグローバルな無用者階級の創出という技術的破壊の問題、そしてトインビーも共有していた核兵器や資源枯渇の問題)を解決する処方箋の一つとして、多くの人々が、寛容の精神のもと、「一神教よりも多神教に優しい目を向け、仏教思想を重んじ、感覚あるすべての生き物への慈しみを忘れず、真実を見て取るカギとして苦しみを重視し、瞑想を実践する」(訳者あとがきより)ようになることを考えているようです。
 そうであるなら、トインビーが未来の世界国家で必要だと考えている精神性と、ハラリが将来のグローバルな世界の人々に求める精神性とは、両者とも仏教的な精神性を想定していることにおいて一致することになります。そして、トインビーが思い描いた未来の世界国家と、ハラリが思い描いた将来のグローバルな世界は、基本的に一致しそうです。この小文はそういうことについて彼ら新旧二人の歴史家の著作に依拠しながら確認することを目指しています。

*「トインビー世界史学習会」のメンバーのお一人が、『図説歴史の研究』を原本から新訳出版されました。新解『トインビー著 歴史の研究』(鈴木弥栄男 訳・編、丸善プラネット、2019)です。全国の大学図書館などに置いてあります。異なる訳語を使ったりしていますので、興味のある方は比較参照してください。

Ⅰ 『図説歴史の研究』においてトインビーが思い描いた未来の世界国家とは

世界国家とは実体的にではなく理念的に全世界を統御する国家

 『図説歴史の研究Ⅱ』によれば、「世界性〔普遍性〕という概念はその『外』には何もないという意味」(p.70 この章では断りがなければ引用のページ数は『図説歴史の研究Ⅱ』のものです)だそうですから、世界国家とは、全世界を統治している国家ということになりそうです。実際にそんな国家があるわけないので、世界国家は空想上の存在だと言いたくなります。ところが本書(以下『図説歴史の研究Ⅱ』をこのように書きます)でトインビーは、それなりに広大な領地を持ち、支配者と被支配者の多くがその普遍性を主観的に認めていれば、それら国家を世界国家と呼んでいます。例えば本書では、客観的な事実としては支配権の及ばぬ辺境諸国が存在するローマ帝国や漢帝国であっても、「ローマ人や中国人はそれぞれの帝国を世界中の考慮に値する全人民を包括するものと考えていた」(p.70)として、人々がそれら帝国に対して持っていた、その普遍性に関する主観的な思いを根拠にして世界国家と認めているのです。 
 トインビーが世界国家の基本的特徴としたこういった主観的思いは、国外の多くの人にも共有されていたそうです。また史実によれば、世界国家の解体が進むにつれ、その支配権に対する内外の人々の思いも当然急速に弱まるかと思えば必ずしもそうではなく、実体の悲惨な変容にも関わらず持続する傾向があったことを、トインビーは次のように書いています。

 瀕死の世界国家といえども、支配する少数者にとってはそれは彼らの最新の業績であり最後の希望の表現なのだから、彼らがなかば意識的に影にすぎぬものを実体だと見誤りつづけたのも、あるいは無理からぬことである。しかし、世界国家という制度がもつ魅力をよく物語る驚くべき事実は、この国家の成立にほとんどかかわらなかった内部と外部のプロレタリアートが、これに畏敬と愛情の念をささげていることである。(p.73)

 そうして、「世界国家の主権の本来の保持者も外来の簒奪者もともに、名目上の帝国版図にたいする実際の力を失ってのちもなお、真偽は別として、権威の歴史的正当性を強調し、そのことで正当性を賦与しうるのは自分だけであるという大きな地位をとっておこうと」(p.73L)したというのです。
 例えば、15世紀のオスマン・トルコ人の王メフメット2世は、すでに広大な領域を支配していたにもかかわらず、面積としてはささやかでしかないコンスタンティノープルを征服することで、ことさら「征服者」と呼称されたそうですが、それは王も臣下のオスマン・トルコ人も、東ローマ帝国の、「コンスタンティノープルから号令を発する皇帝が法的に全世界の君主」(p.76)であるという心情を受け容れていたからなのです。このように、世界国家に対する人々の主観的な思いは、その実体から離れても持続する傾向があるのです。
 最近の例でいえば、イスラミック・ステートの指導者が、ムハンマドの後継者の意味を持つ、イスラム帝国の指導者カリフの地位を標榜していたことも、世界国家に対する人々の主観的な思いが、その実体が消え去ってからも、イスラム世界の人々の意識に脈々と持続していたことを示しているのではないでしょうか。カリフ制は19世紀にオスマン帝国がスルタン・カリフ制として復活させますが、1924年トルコ共和国の誕生で廃止されます。ところが実体とは関係なくカリフ制への人々の主観的思いが生き続けていたからこそ、つい最近イスラミック・ステートがその制度を利用しようと企てたのだと思うのです。

*インターネットサイト「コトバンク」には、「プロレタリアート」について、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」での解説が紹介されており、そこには、「語源はラテン語の proletetarius (無産者) 。かつては無産者階級,今日では労働者階級と訳されるが,労働者階級が経済学的規定をもつ用語であるのに対して,プロレタリアートはより広義の歴史的,社会的な概念を含む用語として用いられることが多い」とあります。ここでトインビーは、マルクス主義で言われる労働者階級という狭義の意味ではなく、広義の無産者階級の意味でプロレタリアートという言葉を使っています。

世界国家形成の目的

 他国を倒していくことで拡張してきたローマは、ポンペイウスが地中海の海賊を一掃し、カエサルがガリアを征服することで絶頂期を迎えます。その後カエサルとポンペイウスの対決、カエサルの暗殺、カエサルの跡目をめぐるオクタビアヌスとアントニウスの対決と続く内乱期を経て、オクタビアヌス改めアウグストゥスが皇帝となりローマ帝国が創設されます。これらの話は、塩野七生氏の『ローマ人の物語』で面白く読んだ覚えがありますが、トインビーの考えでは、このローマ帝国という世界国家形成自体が、既にローマ解体期における出来事なのです。本書には次の記述があります。

社会が解体過程に入ると、それは三つの分派に分裂し、そのおのおのが制度をつくりだす。支配する少数者は、敵対する諸国民を統合して世界国家をつくり、このことで危うくなった権力をつなぎとめようとする(p.59)。

 この記述における三つの分派とは、少数の支配者、内部のプロレタリアート、外部のプロレタリアートのことです。その分派成立の過程についてトインビーは次のように書いています。

 支配する少数者は、(*世界国家を)創造する少数者から指導的役割を受けついだものの、じつはそれの堕落形態であって、その権威は功績によって得られたものではなく、したがって彼らは、暴力によって権威を強制するために、弾圧政策へと乗り出すのである。社会の多数者である内部のプロレタリアートは、かつては創造的指導能力をもつ少数者に喜んで忠誠をささげたが、今はその腐敗した主人たちの強圧的専制政治によって自分の社会からますます疎外されてゆく、そして一文明の境界の外にいる蛮族諸国家で構成された外部のプロレタリアートは、その文明の勢力圏内へ引き入れられてきたけれども、今や同様に疎外されるにいたる。さらにこれらのグループのおのおのは、その地位の制度的な表現を見つけ出す。支配する少数者が世界国家という高圧的装置を打ち建てるのに対して、内部のプロレタリアートは、外来的発想から発してついには世界教会の創造に至る一つの精神的エートス(*集団を支配する倫理的心理的態度)を採用することによって、この社会から離脱したことを記録する。そして外部のプロレタリアートは、これまで支配されてきた文明への依存関係を振り捨てて、攻撃的な蛮族軍団群として、その自律性を主張するのである。(p.21 *は増田による補注)

 興隆期では、それぞれの役割を果たして一体となって他国を打ち負かしてきた人々が、解体期では、政治的階級である少数の支配者と、政治からは疎外されていく国内の多数を占める内部のプロレタリアートと、世界国家の領域外にありながらその勢力圏に引き付けられ共闘関係にあったのにやはり疎外されていく外部のプロレタリアートの三つの分派に明確に分裂するのです。そこで少数の支配者は、この解体期に入った社会をどうにか統合し、自らの権力を保持し続けることを目的として世界国家を形成するというのです。

世界国家形成の目的は達せられないし、世界国家自体も最終目標たりえない

 少数の支配者がその権力の永続性を求めて世界国家を形成するわけですが、自然の摂理に従う限り、世界国家が永続することはあり得ないので、少数の支配者による自己中心的な世界国家形成の目的は決して達せられないのだとトインビーは述べています。実際、ローマ帝国にしろ、漢帝国にしろ、チンギス・ハーンによるモンゴル帝国にしろ、結局は地方的で一時的でした。そして、普遍性という「空中楼閣を追い求める定めにある世界国家という制度が、どうして人間の努力の最終目標たりうるのであろうか」(p.83)と彼は論じ、世界国家それ自体が目標であるという考えも退けるのです。

手段としての世界国家

 それでも世界国家は、たとえ少数の支配者の永続的自己保存という形成時の目的を決して達成できないし、それ自体の普遍性も最終目標であり得ないとしても、「志に反して何かに役立つ一手段としての意味」(p.83)を持っているのではないかとトインビーは論じます。

世界国家をうちたてるというのは、それを創りあげた支配する少数者が、彼らの運命と一蓮托生になっている社会の、その衰えゆくエネルギーを温存させることで自己保存をはかるという自己中心的な目的に役立つ一手段にしようというはっきりした意図に基づいている。こうした意図はけっして実現されることはなかった。とはいえ、そのためのあがきは結局第三者の利益に帰する。だから世界国家というのは少なくとも間接的には生々しい創造行為にあずかることになるのだ。受益者とは、世界国家の創設にかかわった三つのグループ、すなわち病める社会の内部のプロレタリアート、また外部のプロレタリアート、あるいは同時代の異質文明のどれかでなければならない。(p.83)。

 創設者である少数の支配者ではない第三者の利益に帰することで世界国家は創造行為に役立つはずだと、すなわち手段になるはずだとトインビーは考えているのです。では、第三者たる内部のプロレタリアート、外部のプロレタリアートが得る利益について彼の考えを見ていくことにします。

内部のプロレタリアートが世界国家から得る利益

 トインビーによれば、帝国の建設者たちは、新思想にたいして異常な受容性をもっていたそうです。なぜなら、動乱期に競争相手と戦う際の「有力な武器が新思想に対する受容性であった」(p.86)からです。自分たちの思想に対してより寛容な勢力に、人々がよりシンパシーを感じやすいのは当然でしょう。この寛容性というのが、複数の文明の領域、人々を含む世界国家形成の一つの重要な条件であることについて、トインビーは次のように述べています。

 一つの文明を政治的に統一した世界国家は、ほとんどの場合、また他の一つないし二つ以上の文明の領域の一部、さらには自分の社会の奥地にある蛮族地域の一部をも含んでいるものである。時の経過とともに、そういう世界国家のもともとは異質の人々が、同じ一つの人間家族の子どもとして相互の連帯感を身に着けるに至るものである。そしてこの人間家族の統一が、政治的には彼らの住んでいる世界国家というもので象徴されてきたのである。迫害される少数者と文化的に不当に圧迫された隷属民とは、この連帯感を持ちえない。これが世界国家の建設者たちをして領域内での文化的多様性を容認するに至らせた実際的な配慮である。(p.132)

 つまり、「合意に達した協和と言う帝国の体制の下では」、「仲間うちの同胞相食む戦いをやめるために支配者は宥和政策をとらざるをえない」(p.90)ので、この「世界国家という比較的おだやかな統治制度下においては、かつての残酷な時代における難民、亡命者、流刑者、売られた奴隷、その他の『根なし草』にかわって、商人、職業軍人、学問的・宗教的伝道者、巡礼たちが登場」(p.89)し、こうした寛容的状況は、政治的に無力な内部のプロレタリアートに、下から上へと高等宗教をひろめ、ときには「世界教会を設立するという創造的エネルギーを発揮する機会を与えることになる」(p.90)のです。
 最も顕著な例が、もちろんローマ帝国におけるキリスト教会です。そうして、内部のプロレタリアートに、世界教会を設立するという創造的エネルギーを発揮する機会を与えるという形で、世界国家は第三者を通じて創造行為に間接的に関与したとトインビーは主張するのです。

外部のプロレタリアートと外来文化が世界国家から得る利益

 「世界国家の強制された平和は、内部のプロレタリアートに精神的創造の機会を与えはするが、それは政治権力の行使という特権からは締めだされ、軍事的義務の遂行からは解放されるという条件において」(p.95)でした。また、帝国建設者自身の方でも、「軍事的大活躍によって平和を押しつけるという崇高な努力に疲れはて、さきの動乱期に先祖たちを勝利にみちびいた熱意をややもすると失いがち」(p.95)になり、「兵役の義務も今は、ありがたくない重荷として忌避され」、「帝国政府当局は補充兵として未訓練の外部のプロレタリアートの軍隊に頼らざるをえなくなる」(p.95)とトインビーは述べています。たとえばローマ繁栄の頂点に生きたカエサルは、インペラトール(最高司令官)として、ローマ市民から成る軍団兵を率いてガリアを制覇したのですが、その後継者アウグストゥスが創設した帝国では、その初期に、すでに非ローマ市民の補助兵が多数加わっていて、外部から帝国につけ入る隙が生じていたのです。
 こうして、「世界国家の庇護の下での平和の心理は、支配者自身を、その政治的遺産の保持という任務にふさわしくないものに」(p.95)変えてしまい、この心理的武装解除の成りゆきから利益をうける者は、支配者でも被支配者でもなく、「帝国の国境外からの侵入者」、すなわち「解体する社会の外部のプロレタリアートの代表者であり、あるいは異質文明の代表者」(p.95)になってしまうのです。

世界国家から最大の利益を受けるのは内部のプロレタリアートである

 例えば末期のローマ帝国を蹂躙したゲルマン軍団は略奪の限りを尽くしたわけで、外部のプロレタリアートあるいは蛮族が得た利益は一時的にはたいへんなものがあったのでしょう。しかし歴史家トインビーの観点からすれば、一時的でしかないその出来事は、内部のプロレタリアートが達成した精神的出来事に比べれば些細なものでしかないのです。彼は次のように述べています。

世界国家の心理的風潮に乗じて蛮族ないし外来侵入者たちが手に入れた利益は目ざましく、また目先のことでいえば、利益は巨大だということがわかる。しかしわたしたちがすでに見たとおり、砕け去る世界国家の遺棄された領土に侵入してくる蛮族たちは未来亡き英雄である。……外来文明の戦闘的伝道者たちの業績についていえば、これらもまた、蛮族の勝利ほど短命な場合は少ないが、それでも内部のプロレタリアートの歴史的達成にくらべれば、空虚でみじめなものにすぎない。(p.96)

 そうして、「世界国家のおかげをこうむる唯一の長期にわたる受益者は内部のプロレタリアートである、という仮説(suggestion )」(p.96)をトインビーは確認するのです。人々の主観的、内面的な変容を達成した内部のプロレタリアートは、戦闘による一時的な勝利で得られる外面的なものより、はるかに大きなものを長期にわたり得たことになるとトインビーは考えているのです。

未来の世界国家

 世界国家が内部のプロレタリアートと外部のプロレタリアート、あるいは高等宗教や蛮族を利すると述べてきたトインビーは、さらに、世界国家とは「それを超える何ものかのための手段」(p.59)だと言えるのではないかと問います。「世界国家は実際は地方的であり一時的なものだったが、しかし、人類の全体が政治的統一体のうちに生きるという将来体制の、これは先駆ではなかったか」(p.59)というのです。
 この本が書かれた1970年前後における世界の状況について、トインビーは次のように述べています(アポロ計画で人類が初めて月に降り立ったのが1969年だったことを少し思い出してください)。

宇宙空間探検の第一段階——それは見渡せる限りの物理的宇宙全体の規模に比べればまことにお粗末なものであるが——ですでにわたしたちが学んだことは、わたしたちの住むこの惑星にある資源だけが、およそ見通せるかぎりの未来を通じわたしたちの自由になるすべてなのだ、ということであった。ところが人類は、無機的「自然」の力を利用することによって、その限られた物質的世襲財産を使いつくす力を持つに至った。これまでは自然に人口増加がきびしく抑制されていたのに、医学の進歩による死亡率の低下のためその歯どめがきかなくなった。機械技術による距離の空無化は地球全体を皆殺しにするために核兵器を使う力を人類に与えた。これら三つの事実を組み合わせると、平和を命じ、資源を守り、人々に産児制限を求める義務をもつ有効な世界大の政府を樹立することが要求されている。(p.132)

 米ソ冷戦時代では、厖大な数の核兵器とそれらを世界中に撃ち込むことができる軍事的技術力が両陣営に存在していました。そのため、過去の諸文明の歴史における、「一つの地方国家がその仲間の諸国家を『ノックアウト』し、これを政治的に制することで統一」(p.105)をもたらすという方法は二度と用いることはできないとトインビーは考えたのです。「支払わねばならぬ代償は、惨害が起こるといった程度のものではすまなくなり、文明が全滅し人類の生命が絶えてしまうことになりかねない」(p.105)からです。それでも、上記引用文にあるこの地球の資源の有限性、医学の進歩による地球人口の急増、機械技術による距離の空無化を伴う膨大な核兵器の存在、などによるグローバルな問題(近年であれば、気候変動や有害物質による地球生態系の危機の問題などが付け加わるところです)を解決するために、「もし(*グローバルな)政治的統一が不可欠であるか、もしくはまさに不可避であるとするならば」、どうすればよいのでしょうか。
 彼は、「その統一は、自由意志による協力という、これまでのものに代わる新しい方法によって達成されるという可能性はある」(p.105)と、未来の世界国家について思索を巡らせます。その思索のポイントになる部分を以下に引用してみます。

世界国家の一つの特徴は、その表向きの目標と実際の結果との乖離である。これについては、すでに何か所かで触れておいた。大まかに言って、帝国建設者たちがたとえ純粋に世俗的な目的を念頭においていたとしても、結果が示したことは、帝国建設者の労苦から生ずる利益を手中に収めてきたのは、本質において短命で移ろいやすい世俗世界ではなく、人類多年の精神的目標の追求のほうであった、ということである。わたしたちはすでに、世界大のコミュニケーション体系の創造が宗教的諸目標の追求に役立つであろうことを考察した。そこで、未来の世界国家が、はじめはたぶんわたしたちがさきに規定したような地上的性格の挑戦にたいする応答として樹立されるとしても、いったん生まれれば精神的な目的に仕えることになるとしても驚くにあたらない。それは当然予想されることである。なぜなら、人間は集団としては実際的な考慮以外のものにうごかされることはめったにないが、世界的な規模で政治的統一体を創造することは、この行為そのものが、一つの全体として把握しなければ生命を生きることはできない、という道徳的真理を確証しているからである。この点で、未来の世界国家は歴史上の先例とは根本的に違ったものになると思われる。それは、過去におけるように、解体に瀕した一つの文明の、死刑を宣告された世俗的記念物とははるかに隔たったものである。それは、最初から自分のなかに、すでに高等宗教において明らかにされている精神運動の種子を含んでいるだろうし、その種子の発芽と成長を思慮深く自覚的に助成するものであるだろう。(p.133)

 世界国家の先例からすれば、その世俗的な目的は、国の解体を止め自らの権力を永続させるという少数の支配者の欲望だったのですが、その結果は、精神的目標への奉仕に帰したのでした。例えばローマ帝国であれば、その帝国建設者の労苦から生ずる利益を最も手中に収めたのは、高等宗教たるキリスト教の、人類多年の精神的目標の追求のほうであったというわけです。トインビーは、未来の世界国家も、はじめは、核戦争の危機・人口増加・資源の枯渇などの地上的な挑戦への応答が発端で形成されるのだろうとします。しかし、このグローバルにしか解決できない挑戦に対して世界的な規模で政治的統一体を創造しようとする行為自体が、すでに「一つの全体として把握しなければ生命を生きることはできない、という道徳的真理を確証して」いて、それは高等宗教における普遍的な精神性と一致し、その精神運動の種子を含んでいなければならないとトインビーは考えるのです。
 すなわち未来の世界国家では、世俗的な目的が、高等宗教の持つ精神的な目標とその世界性(普遍性)において一致するというのです。そうならなければ、これまでの、理念においてのみしか世界を覆うことができずに、実際との乖離から滅びることを運命づけられていた世界国家の轍を踏むことになり、「人類の全体が政治的統一体のうちに生きるという」体制を持った、真の世界国家(外のない普遍国家)が現れることなく、グローバルな破滅が訪れることになるとトインビーは考えているのです。しかも、破滅をさけるために残された時間はほとんど残されていないと彼は考えています。

今日わたしたちには、先行者たちの経験をもう一度やりなおすことでこうした教訓を学び取るという贅沢をしている余裕はない。なぜなら、もしわたしたちが手をこまねいていれば、わたしたちがなしうる選択は、世界的専制政治か生命自体の終わりかのいずれかになってしまうだろうからである。わたしたち自身のものとは違う社会の過去の歴史に関する知識によって、わたしたちは未来をわたしたちの手で引き受けることによって、災厄を未然に防ぐ決心をしなければならない。もし拱手傍観していれば、わたしたちはもはや統御できない事件につぎつぎに襲われることになるだろう。(p.133)

 過去の世界国家に関する知識を教訓(手段)として、速やかに未来の世界国家を出現させることに携わらなければ私たち人類の破滅を防ぐことはできないとトインビーは考えているのです。そこで鍵になっているのが、高等宗教の精神性が、「一つの全体として把握しなければ生命を生きることはできない」という道徳的真理につながっていることです。そんなこと当たり前じゃないかと、キリスト教、イスラム教、仏教についてよくお知りの方々はおっしゃるのでしょうが、トインビーが述べていることで確認したいと思います。

高等宗教とその精神性

 トインビーは、人間の特異性を、「社会的動物であるとともに一人格でもある点」(p.152)にあるとしています。確かに、各自が自らを振り返れば、社会に所属しなければ生まれも育ちもしなかったことから社会的動物であると確認するでしょうし、その一方で、誰とも異なる個人として自意識を持って存在していることから一人格であるとも確認するでしょう。ですがトインビーは、人類史的に見れば、「長らく社会性のほうが人間生命のもっとも重要な特性」であり、「人間は当然のこととして、生まれ育った社会の枠組内で生き、感じ、考え、行動した」のであり、「宗教もまたこの法則の例外ではなかった」(p.152)とします。
 ところが、高等宗教が登場すると、人間はたんに社会的動物ではなく、究極の精神的実在との直接的関係を求める人格性でもあるとして、改めて人間性における社会性と人格性の二元性を主張したとトインビーは述べています。そうして、「高等宗教をそれ以前の宗教から区別するその真の使命は、人間が宇宙の中と背後と彼方にある超人間的存在と直接的・人格的関係にはいることを可能ならしめることであって、このことは、究極の精神的実在へ、ただ間接的に、個人の社会的環境である文明あるいは前文明社会の媒介によって導かれることとは別のことである」(p.151)とします。
 高等宗教は、社会を媒介することなくあくまで個人に直接よびかけるのですから、「人間をその先祖の文明への隷属から解放し、したがって一つ以上の文明の成員から信奉者を獲得」(p.153)できるようにもなります。そのため歴史の研究は、高等宗教も考慮に入れる段階では、文明という集団の枠組みだけで進めることはできなくなるとトインビーは主張しています。
 彼は宗教の本質についてこうも述べています。

宗教の本質は、超越的な精神的実在を個人的に経験することと、この経験された実在との調和を個人的に探究することである。時間と場所の偶然的条件が、この宗教の本質をあらゆる種類の外面性で覆い隠して、しばしば宗教の核心をその衣装から区別しがたいまでにするかもしれない。しかし、超越——究極の精神的実在——への個人的信仰は、社会的批判の武器庫から運びだされた武器をもってしては攻撃できないものである。(p.168)

 トインビーは、「現在なお生命を保っている主要な高等宗教は、ヒンドゥー教、ユダヤ教、ゾロアスター教、仏教、キリスト教、イスラム教」(p.153)だとしていますから、彼からすれば、これら諸宗教の核心には、上記に述べられている超越的な精神的実在への個人的信仰が、すなわち個人を超越した大いなるものとのつながりの、個人による確信が見られるはずなのです。高等宗教は、「宗教を社会生活の領域から切り離して個人的な事柄にしようとする企て」であり、「そこでは、人間はたまたま成員となった人間社会の媒介によって究極的実在と関係せねばならないのではなく、究極的な精神的実在と直接の交わりを結ぶことができる」(p.157)のです。
 とはいうものの、高等宗教ごとに「それぞれの先祖の文化母体からの独立に、どれだけ成功しているかという点では違っている」(p.157)とも彼は述べています。トインビーにとって、彼が未だに生き延びているとした諸高等宗教はどれも「普遍的に有効な真理と普遍的に通用する教訓」を発見しているのですが、文化母体からの独立性の違いから、まず二つのグループに分けられるとします。
 ふるい高等宗教と呼ばれる第一のグループは、ヒンドゥー教・ユダヤ教・ゾロアスター教が含まれます。これらは、発見した真理と教訓を、「人類の特権的な部分だけのためにすなわちインド文明とイラン文明のそれぞれの相続者、および二つのシリア共同体——イスラエルとユダ——のためだけに取っておいた」(p.154)とトインビーは見なしています。すなわち、その核となる普遍性はかなり覆い隠されているのです。それに対して、新しい高等宗教と呼ばれる第二のグループには、仏教、キリスト教、イスラム教が含まれ、これらは、真理と教訓を全人類に伝えようとしたためにふるい高等宗教からは別れたとします。トインビーは次のように述べています。

 仏教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ心から普遍主義的であった。——あるいは、そうなった。これら三つの宗教はいずれも、全人類を信者にする一歩を踏み出した。そして、三つの宗教が今も依然として共存していることは、そのどれもが共通の大目的を成就するのに成功していない証拠であるけれども、おのおのが多くの文明に分かれた地方的領域を包む大陸の全体を改宗させることに成功した。(p.155)

 とはいうものの、普遍性の程度におけるグループわけはこれでは終わりません。新しい三つの高等宗教の中でも、仏教とそれ以外とをトインビーは分けて扱います。なぜなら、キリスト教とイスラム教は、仏教の寛容の伝統をもたないからです。「この両宗教は、ともにその信者たちに排他的な忠誠を要求してきた。また両者とも、それ自身の先祖というべき諸宗教を除けば、いかなる宗教とも、あえて共存しようとはしなかった」(p.106)と彼は述べています。それに対し、「仏教は通常他の信仰と仲良く共存してきた」(p.159)として、仏教を三つのうちの最も成功した伝道宗教だと彼は評価しています。
 高等宗教は、その核心に、個人が自ら体験することを置いているので、既成の文化的枠組みを突破して全人類に対する普遍性を持ち得るのですが、そうでない部分の多少により、全体としての普遍性に差ができるということなのでしょう。トインビーは特に仏教を取りあげて、「仏教は、つねに、それが拡がっていった諸国の既存宗教との友好的共存を黙認してきた。そして、この仏教的伝統が勝利をかちとることをわたしたちは望みたい」(p.105)とまで書いています。どの宗教の内容に関しても、人々が自由にアクセスできる現代において、仏教が選択されることになるのを彼は望んでいるのです。彼にとって最も普遍性の高い高等宗教が仏教であり、そして未来の世界国家に高等宗教の精神性が必要であるなら、仏教にこそその精神性が見いだされやすいと考えているのです。

未来の世界国家に必要な精神性とトランスパーソナル心理学との関連性

 トインビー言うところの、高等宗教における超越的な精神的実在の経験について、トランスパーソナル心理学、特にケン・ウィルバーの視点から少し検討してみたいと思います。岡野守也氏の著書『自我と無我』にはウィルバーの考えについて次のように述べられています。

 ウィルバーは、一方で禅やチベット密教の瞑想を実践して、実際にトランスパーソナルな体験をしつつ、もう一方で、厖大な文献に当たりながら、世界のさまざまなスピリチュアルな伝統を見るという作業を行っている。
 そこで明らかになってきたことは、表面に現れたかたちはきわめて多様に見えるが、深層構造を見ていくと、非常に類似性があるということである。
 例えばキリスト教神秘主義とナーガールジュナの言っていることは、表面上はまったく別のボキャブラリーを使って別のことを言っているように見える。しかし、深層の構造を見ていくと、ほとんど同じことを言っていると理解できる。ちがう言葉を使って同じ体験領域のことを表現していると読めるのである。
 ウィルバーは、さまざまなスピリチュアルな伝統の厖大な文献に当たって、スピリチュアルな体験にもある種の発達段階が四段階あるという見通しを立てその段階を心霊(サイキック)、微妙(サトル)、元因(コーザル)、非二元(ノンデュアル)と呼んでいる。(『自我と無我』p.143~144)

 ウィルバーは、仏教、キリスト教、イスラム教などの諸宗教の神秘主義的部分や、西洋の深層心理学を参照することで、人間の意識には、霊性(スピリチュアリティ)と呼ばれている自己超越的(トランスパーソナル)なレベルがあるとしています。『自我と無我』では、145ページに、上記引用文で触れられていた四つの霊的な(スピリチュアルな)発達段階について次のような簡単な説明も述べられています。

・心霊的(サイキック)段階‥‥神なるものが表した自然と一体感を覚える段階
・微妙(サトル)段階‥‥自然の奥にある何者かと一体感を覚える段階
・元因(コーザル)段階‥‥自分を超えた大いなるものと一体感を覚える段階
・非二元(ノンデュアル)段階‥‥自分もほかのものも、すべてが別のものではないことが自覚される段階

 最初のサイキック段階は、自然神秘主義と呼ばれたりもします。尾根歩きをして周囲の雄大な山並みを眺めた時、あるいは山や海でキャンプして大粒の星々で覆われた圧倒的な夜空を見上げた時に、息を呑んで大自然との神秘的な一体感を感じたことが多くの人にはあるでしょう。そういう体験がすでに初歩的なトランスパーソナル体験(心霊的段階)であるようです。そのくらいなら私にもわかりますが、安定した段階としてトランスパーソナルな心を持つことはどんな感じかウィルバーのように修行をしたことのない私にはわかりません。ですが彼の著作を読む限りでは、全てはつながりあって一体であるということの体験的自覚の深層的深まりの度合いによってトランスパーソナルな発達はこれら四つに段階づけられることのようです。
 そうしてこれらの段階は、諸宗教を参照して、その文化的な枠組みなどは捨象して統合したものですから、おそらくトインビーが述べているところの、「究極的な精神的実在との直接の交わり」という、諸高等宗教に共通する核となる精神性に一致するものではないかと私は考えます。そしてそこには、個人を超えた大いなるものとの一体感、そしてすべてとの一体感が謳われていて、もちろん人類、自然との一体感も含まれることになるのでしょう。今日的な言い方では、「個々人は本来一体である世界の現われである」という見方を実感するようになるのでしょう。トインビーの考えは、こうした世界の一体性に結びつくスピリチュアルな精神性が諸文化の垣根を超えて個々人に芽生えることで、真に普遍的な未来の世界国家が創造し得るという考えに帰着すると私には思えます。
 ただし、トランスパーソナル心理学では、諸高等宗教の文化的背景も特定性も切り離せるようにして霊性のあり方を見出しているので、未来の世界国家創造に関しては、トインビーのように仏教という特定宗教にこだわることなく、トランスパーソナル心理学で追究されまとめ上げられた霊性という精神性を人々が身に着けることを必要性として謳ってもいいのではないかと私は思いました。

Ⅱ ハラリの考える未来のグローバル社会

 トインビーは『図説歴史の研究』で三つのグローバルな問題を挙げて、それらを解決するにはグローバルな対応が必要だとして、未来の世界国家というグローバルな政治的統一体を構想しました。それについてはⅠで概略を述べました。一方ハラリも『21Lessons』で三つのグローバルな問題を挙げて、それらを解決するには政治がグローバル化される必要があるとしています。Ⅱではハラリが構想する政治のグローバル化について概略を述べてみたいと思います。

三つのグローバルな問題(実存的脅威)がある

ハラリが挙げている三つのグローバルな問題(実存的脅威)とは、核戦争の危機、生態系崩壊の危機、情報テクノロジーとバイオテクノロジーの発展融合による技術的破壊の危機です。まずはそれらがグローバルな問題であることとそれらに対する対策がうまくいっていない状況について確認したいと思います。

核戦争の危機
 核戦争の危機は、ハラリがトインビー(1975年没)と共有するグローバルな問題です。第二次世界大戦末期にアメリカは原子爆弾を二度も日本に落としましたが、その際の核爆発は周囲を一瞬のうちに破壊し多数の一般市民を死傷させました。またその際放出された放射能は広い範囲で長期にわたって人体および自然に悪影響を及ぼし続けました。この事実を前にして、もし複数の国家が互いに核弾頭を打ち込み合うようなことになれば、人類滅亡の可能性だって十分あることを世界中の人が知ることになったのです。従って複数の核武装国家が存在することによる潜在的核戦争の危機はまさしくグローバルな問題です。そのためこの人類全体の実存的脅威を抑え込もうと、「さまざまな国家の上に、グローバルなコミュニティが徐々に発展してきた」(『21 Lessons』、ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2019、p.152 この章では断りがなければ引用のページ数は同書のものです)とハラリは述べています。
 例えば2013年3月オーストリア政府主催で開催された「第3回核兵器の人道的影響に関する会議」には、「158か国,国連,赤十字国際委員会,NGO及び学術界等」が参加しました (1)。このように、核兵器そして核戦争によるグローバルな脅威は、多様な参加者による国際会議を開催させ、核の危険に関する人類共通の理解を発展させてきたのです。そして2017年7月には核兵器禁止条約が国連で122の国と地域が賛成して採択され、2020年10月には50番目となる批准書をホンジュラスが提出し、来年(2021年)1月22日には発効するに至りました。それについてNHKは2020年10月25日に次のように報道しています(2)

核兵器を違法だとする条約はこれが初めてで、条約を推進してきたオーストリアなどの核を持たない国々や国際NGOのICAN=核兵器廃絶国際キャンペーンは、新たな核軍縮の基盤として核兵器の廃絶に向けた圧力としたい考えです。
 しかし、条約には世界の核兵器の9割を保有するアメリカとロシア、さらに中国などの核保有国や、アメリカの核抑止力に依存する日本などの同盟国は参加しておらず、これらの国々には条約を順守する義務はありません。
 条約の推進国や国際NGOとしては、さらに批准国を増やして核兵器廃絶に向けた国際的な世論を高めたいねらいですが、核保有国が反発するなかで今後、実効性をどう確保していくかが課題となります。

 「世界の核弾頭一覧(2020年6月)」 (3)によれば、ロシア、アメリカ、中国、インド、パキスタン、イギリス、アメリカ、イスラエル、北朝鮮の9か国が総計13410発もの核弾頭を現在保有しているそうです。また核弾頭を保有していなくても、日本をはじめとして、安全保障上核保有国の戦争抑止力を頼りにしている国がいくつもあります。そのような状況を変えて核兵器を廃絶して核戦争の危機をなくすには、指導力のあるグローバルな政治組織が必要でしょう。現時点ではおそらく国連がその唯一の候補でしょうが、拒否権を持つ常任理事国の全てが核保有の特権を手放そうとしない状況では、この件に関してグローバルな政治力を発揮できそうにありません。

生態系崩壊の危機
 「私たちは環境からますます多くの資源を取り出す一方、逆に厖大な量の廃棄物と毒物を環境に送り込み、土壌や水や大気の組成を変えて」(p.158)しまいつつあります。特に人類が大量の化石燃料を消費することは、二酸化炭素の大気中濃度を増加させ、地球温暖化を進行させています。
 こうした人為的に起こされた環境の変化は、自然生態系の対処能力をはるかに超える速度、規模で起きており、その崩壊という危機をもたらしています。大気や水の循環に国境などありませんから、生態系の危機はグローバルな実存的危機です。従ってグローバルなレベルで統一的に環境対策を実施していく必要があります。
 そのような試みとして、生態系崩壊の最大の要因の一つである地球温暖化に関しては、1988年に気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)が国連環境計画(UNEP)と世界気象機関(WMO)により設立され、国連中心に国際的取り決めがつくられてきました。最新のものは2015年12月,フランスで開催された第21回国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)で採択されたパリ協定ですが、温暖化ガス排出大国の一つアメリカ合衆国が離脱したりして、実効的に履行されるかどうか疑問が持たれています。ここでもやはり、国連には協定を実効あらしめるための政治力に欠けているように見えます。

情報テクノロジーとバイオテクノロジーの発展融合による技術的破壊の危機(4)
 ハラリは『21Lessons』の前作『ホモ・デウス』(5)において、コンピューター科学と生命科学が発展融合することでいまや人間の持つ感覚・情動・知能の働き全ては生体アルゴリズム(生化学的なアルゴリズム)と捉えられつつあるとして、未来がどうなるか予測しています。
 アルゴリズムとは「計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序だったステップ」(上p.107 以下で引用頁数の前の上下はそれぞれ『ホモ・デウス上』と『ホモ・デウス下』からの引用であることを示し、何も書いてなければこれまで通り『21Lessons』からの引用であることを示します)ですから、人間を生体アルゴリズムとみなすということは、人間を情報処理システムの一種とみなすということです。そうしますと、「まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまる」(下p.209)はずですから、動物と機械を隔てる壁は取り払われ、「ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをする」(下p.209)ことにもなるでしょう。そして人間の行う情報処理は全てロボットがより正確に代替できるようになったりするでしょう。ハラリは『ホモ・デウス』の中で次のように書いています。

 今日までは、高度な知能はつねに、発達した意識と密接に結びついていた。チェスをしたり、自動車を運転したり、病気の診断をしたり、テロリストを割り出したりといった、高い知能を必要とする仕事は、意識のある私たち人間にしかできなかった。ところが今では、そのような仕事を人間よりもはるかにうまくこなす、意識を持たない新しい種類の知能が開発されている。なぜなら、そうした仕事はみなパターン認識に基づいており、意識を持たないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識をほどなく凌ぐかもしれないからだ。(下p.137)

 こうして、高度な人工知能(AI)が、これまで人間でなければできないとされていた職種(医師や運転手、教師、はては芸術家)にまで進出してくると、失業しているだけでなく「経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない」(下p.156)雇用不能な巨大な「無用者階級」が新たに生まれることになると彼は予想しています。
 また彼は次のようにも未来のありうるシナリオを語っています。

 外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移る。人々は、自らの願望に即して生活を営む自律的な存在として自分を見ることがもうなくなり、自分のことを、電子的なアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターされ、導かれている生化学的メカニズムの集まりと考えるのが当たり前になるだろう。(下p.162)

 いずれ人間は、自分たちの血圧や心拍数や血糖値などの時々刻々の値、そして詳細な履歴や遺伝子情報や性格・学力・体力等のデータまでを記録している、「強大なグローバルネットワークの不可分の構成要素」(下p172)となり、自分のことを自分以上に知っているそのネットワークに多くのことで指図を仰ぐことになってしまい、就職や結婚もネットワークの助言に従うのが当然になってしまうかもしれないというのです。その人の最良の人生コースがビッグデータから割り出され、人間は自分でエイヤッと判断することなくすべて人工知能にお任せして生活することになるのです。
 ハラリはまた、経済も人類の歴史もデータ処理の観点から説明できかねないとし、「森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まる」(下p.209)とするデータ至上主義(Dataism)の登場を予測しています。
 データ至上主義からすれば、人間は「ニワトリよりも多くのデータを取り込み、より良いアルゴリズムを利用して処理する」(下p.226)のでニワトリより優れているのです。そうすると、当然「人間よりさらに多くのデータを取り入れ、さらに効率的に処理できるデータ処理システムを創り出せたなら、そのシステムのほうが人間よりも優れている」(下p.226)ことになります。また、データ処理に寄与することがあらゆる現象やものの価値を決めるとする立場からは、データの流れを断ち切ることは最大の罪になります。したがって、データ至上主義では、「人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先」(下p.227)すべきことになります。「情報の自由」が最重要であり、良いことはすべてそれにかかっているのです。
 このような観点からすれば、人間至上主義(humanism)のように経験がそのままで価値あることにはまったくなりません。経験はネットに投稿するなどして自由に流れるデータになってこそ価値をもつので、「人々はひたすらデータフローの一部に」(下p.230)なりたがり、「個人は、誰にもよくわからない巨大なシステムの中で、小さなチップに」(下p.231)なって、毎日「電子メールや電話や論説を通じて無数のデータを取り込み、そのデータを処理して、さらに多くのメールや電話や論説を通じて新しいデータを送り返している」(下p.231)ようになるのです。今や多くの人が、自分を振り返ってすでにそのような生活に終始していると気づいたりするのではないでしょうか。
 現在人間は健康と幸福と力を求めて「すべてのモノのインターネット」を構築し始めているのですが(IOTです)、それがうまく機能し始め、しかも人間と同じ機能をもっとうまく果たすアルゴリズムが開発されるなら、「人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない」(下p.243)とハラリは述べます。そして次のようなおぞましい未来のシナリオまで述べます。

私たち人間が自らの機能の重要性をネットワークに譲り渡したときには、私たちはけっきょく森羅万象の頂点ではないことを思い知らされるだろう。そして、私たち自身が神聖視してきた規準によって、マンモスやヨウスコウイルカと同じ運命をたどる羽目になる。振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波にすぎなかったということになるだろう。(下p243)

 すなわち「情報テクノロジー(IT)とバイオテクノロジーの融合は、デジタル独裁国家からグローバルな無用者階級創出まで、多種多様な破滅の筋書きへの扉を」(p.164)開き、ついには人類絶滅にまで至るというシナリオをハラリは語っているのです。
 この予想の一方で、彼は一部の人間がホモ・デウス(神のごとき人)という新種の人間になる可能性についても述べています。知能でAIに劣り、無能者になったホモ・サピエンスは、主役としてのその歴史的役割を終えることになりそうですが、新たに登場するテクノ人間至上主義が、「はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、テクノロジーを使うべきだと結論する」(下p.190)可能性をハラリは述べています。急速に発達してくるAIに後れを取りたくない一部の裕福な人間が、自分たちの「ゲノムにさらにいくつか変更を加え、脳の配線をもう一度変える」(下p.190)ことで、第二の認知革命を引き起こして、「意識を持たない最も高性能のアルゴリズムに対してさえ引けを取らずに済むような、アップグレードされた心身の能力を享受する」(下p.190)ホモ・デウスを誕生させ、人間に意味の源泉や至高の権威を感じ続けられようにするというのです。その際とりうるテクノロジーは、「生物工学、サイボーグ工学、非有機的な生き物を生み出す工学」(上p.59)のいずれかだろうとハラリは述べています。
 しかし、ハラリが「意識はこの世で最も大きな謎であり、暑さや痒さなどのありきたりの感覚も、有頂天の感覚や宇宙との一体感に少しも劣らぬほど不可思議なのだ」(p.406)と述べているように、機械に生じ得るかどうか定かではない意識(ハラリは生じないと考えているようです)という人間の主観の謎が解明されていないままでは、ビッグデータと人工知能に多くの権限を明け渡してデータ至上主義の足下にひれ伏すのは危険でしょう。また倫理的な議論の見通しもつけぬまま、遺伝子操作や脳システム網改造によって新種の人間を生み出すことも危険でしょう。そして情報やバイオの最先端の「研究開発はどこか一国の独占事業ではないので、アメリカのような超大国でさえ、単独では研究開発を制限することはできない」(p.164)のですから、それら危険は必然的にグローバル化します。こうして「情報テクノロジーとバイオテクノロジーの発展融合による技術的破壊の危機」が形成されるのです。
 データ至上主義の危険に対しては、GAFAをはじめとするIT企業のビッグデータビジネスに制限を加えようという極めて初期的な取り組みが現在始まりつつありますが、統一的な規制に発展していくかどうかまだわかりません。アメリカ、中国(そしてEU)の間でおそらく主導権をめぐる争いが起こるのでしょう。また、遺伝子操作については、学術的競争心から一部の学者が倫理的な判断を待たずに実験をおこなってしまった事例があります。これらのことから、「情報テクノロジーとバイオテクノロジーの発展融合による技術的破壊の危機」を回避するには、早急にそのための取り決めがグローバルに構築され、しかもそれが守られるようにグローバルな政治力が形成される必要があるのでしょう。しかし国連はほとんど関与できていないように見えます。
 以上三つのグローバルな問題について簡単にまとめ、それらに対応し解決するためには、国際的な条約や取り決めに世界中の国々を従わせるグローバルな政治力が必要であること、そして国連にはそのような力がなさそうなことを見てきました。

(1) 下記アドレスの外務省のホームページより https://www.mofa.go.jp/mofaj/dns/ac_d/page24_000380.html
(2) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201025/k10012679801000.html
(3) https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/nuclear1/nuclear_list_202006 長崎大学 核兵器廃絶研究センターホームページ記載
(4) この節は、サングラハ第163、164号掲載の、『ホモ・デウス』に関する筆者の小文を大幅に参照しています。
(5) ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2018年 上下の二分冊になっています。

グローバルな問題を解決するための取り決めが実効に至らないのはなぜか

 ここまで述べたように、ハラリが挙げているグローバルな問題の一部に対しては、解決するための国際的な取り決めが国連の関与のもとつくられたりしてきたのです。しかし、有力な国々が非協力的であったりして、思ったようにことは運んでいません。例えば地球温暖化ガスである二酸化炭素の排出量は減少どころか増加し続けています。ハラリは、それら取り決めが実効的にならない理由は、人々が人類全体とか生態系全体とかいったグローバルなものに自らのアイデンティティを強く感じていないことにあると考え、次のように述べています。

 私たちは新しいグローバルなアイデンティティを必要としている。なぜなら国の機関は、前例のない一連のグローバルな苦境に対応することができないからだ。今やグローバルな生態環境やグローバルな経済やグローバルな科学の時代なのにもかかわらず、私たちは依然として国政だけのレベルで立ち往生している。この食い違いのせいで、政治制度は私たちの主要な問題に効果的に対応できない。効果的な政治を行うためには、生態系と経済と科学の進歩を非グローバル化するか、さもなければ、政治をグローバル化するかしなければならない。生態系と科学の進歩を非グローバル化するのは不可能だし、経済を非グローバル化する代償はおそらく法外なものになるだろうから、唯一の現実的な解決策は、政治をグローバル化することだ。(p.170)

 ただし彼は国民としてのアイデンティティを、そしてナショナリズムを否定しているわけではなく、それどころか自由・平等・連帯を旨とする民主主義はナショナリズムなしではきちんと機能しないとさえしています。そうしてスウェーデン、ドイツ、スイスなどを例に挙げ、「平和で繁栄している自由主義の国はみな、ナショナリズムの強固な感覚を享受している」(p.151)と述べています。逆に国民の強い絆を欠き、民主主義が機能不全になっている国の例として、アフガニスタン、ソマリア、コンゴなどを挙げています(2018年時点におけるハラリの意見です)。
 ハラリは、民主主義国家の市民であるというアイデンティティをしっかりと確立してしまっておくことこそが、グローバルな市民(グローバリスト)としてのアイデンティティを確立する上で望ましいと、そして多くの人々がグローバリストになることが政治のグローバル化に必要だと考えているようです。あるいは、人々が国民としてのアイデンティティを含んで超えるようにして、グローバリストとしてのアイデンティティを確立することこそが政治のグローバル化への望ましい道筋なのだと考えているようです。
 このような考えは私に心理学者マズローの欲求の発達段階論を思い起こさせました。人は、生理的欲求、安全の欲求、所属の欲求、承認の欲求、そして自己実現の欲求と、より基本的な欲求が確立して初めてより高度な欲求の段階へと健全に進んでいけるという考えです。例えば、衣食住が安定して与えられ、生理的欲求と安全の欲求が満たされて初めて、家族・社会の一員としての所属の欲求の段階に進み、それが満たされると自立した個人として自他に認められたいという承認の欲求の段階に進むというのです。
 アイデンティティに関してハラリは似たことを考えているのだと思います。ナショナリストとしてのアイデンティティが確立してこそ、グローバリストとしてのアイデンティティを確立する段階に健全に進むことが出来るのであり、ナショナリストであることとグローバリストであることは矛盾しないのだと。彼は次のように述べています。

愛国心は同国人の面倒を見ることを意味する。そして二十一世紀には、同国人の安全と繁栄を守るためには、外国人と協力しなければならない。だから、良きナショナリストは今や、グローバリストであるべきなのだ。(p.170)

 現代では、ナショナリストの愛国心を持ったままで、人類愛(そして地球愛)を持つグローバリストになるべきだというのです。よい国民であるなら、グローバルな問題には目先の国益よりグローバルな解決策を正しく優先できるはずなのです。彼は次のようにも書いています。

 これは「グローバル政府」設立の呼びかけではない。グローバル政府の設立は、不確かで非現実的なビジョンだ。政治のグローバル化というのはむしろ、それぞれの国の中の政治的ダイナミクスが、さらには都市の中の政治的ダイナミクスが、グローバルな問題や利益をもっとずっと重視するべきことを意味する。(p.170)

 例えば国連は、世界人権宣言をはじめとして、それらが履行されたり実働したりすれば理想的な世界が実現するだろうというような宣言や取り決めや組織を、国際社会をリードして創ってきました。問題は、メンバーである国々の市民の多くが、本音のところで、グローバルな政策を顧慮優先できるようなグローバリストとしてのアイデンティティを持っていないことなのです。グローバルな問題を解決するには政治のグローバル化が必要だといっても、それは例えば国連を世界帝国の政府のようにすることではなく、人々のアイデンティティがグローバル化されることで各国の政府がグローバルな利益を顧慮優先して国連のリードに協力できるようになっていることだとハラリは考えているのでしょう。
 では、アイデンティティのグローバル化を実現する道筋を彼はどのように考えているのでしょうか。

アイティティをグローバル化するための世俗的倫理規定という拠り所

 ハラリは伝統的な宗教が人々の「アイデンティティの問題にはおおいに関係がある」(p.173)とし、「何百年も前、キリスト教やイスラム教のような宗教はすでに、局地的ではなくグローバルな観点で物事を考えていたし、特定の国の政治闘争だけではなく生命にまつわる大きな問題にも、つねに強い関心を抱いていた」(p.171)と、世界宗教の超国家性を認めています。しかし現代人のアイデンティティのグローバル化に伝統的宗教が役立つとは考えていません。特に一神教に関しては、その非寛容性ゆえに、「倫理的視点に立てば、一神教ほどよくない考えはおそらく人類史上あまり例がない」(p.250)とまで述べています。
 アイデンティティとは対照的に、文明のグローバル化(単一化)はすでに実現していると彼は考えています。例えば人々は世界中で自分の銀行口座から預金を引き出せられるし、病気になったら自国でと同じような治療を受けられるし、我が子が5~6歳になれば初等教育を受けさせ始められます。しかしナショナリズムと宗教の排他的な側面(自国中心主義とか一神教の他宗教排外主義)が文明に分離をもたらし、問題の要因になっているとハラリは考え、EUの試みにも触れながら次のように述べています。

今や人類は単一の文明を形成しており、核戦争や生態系の崩壊や技術的破壊といった問題は、グローバルなレベルでしか解決できない。その一方で、ナショナリズムと宗教が依然として、人間の文明を異なる、そして敵対することの多い陣営に分割している。グローバルな問題と、局地的なアイデンティティとのこの衝突は、EUという多文化による世界最大の実験に今つきまとう危機の中に現れている。普遍的な自由主義の価値観を実現するという約束の上に築かれたEUは、統合と移民という難問のせいで、崩壊の瀬戸際にある。(p.186)

 彼は国家や宗教や文化が、「私の国、私の宗教、私の文化は世界で最も重要だ、だから私の権益は他の誰の権益よりも、人類全体の権益よりも優先されるべきである」(p.237)という誇大な考えを人々に持たせやすいことを指摘し、アイデンティティをグローバル化するためには、国家、宗教、文化とは別に、それらに優先するような、人類にとって普遍的に納得できる拠り所を見出し、それを人々が「私にとって最も重要なことだ」として理解することが必要だと考えているようです。そして、彼がそのような拠り所の候補として取り上げているのが、「全人類が自然に受け継いできた道徳と叡智」が持つ価値観を尊重する世俗的な倫理規定です。彼は次のように述べています。

この倫理規定は、真実や思いやり、平等、自由、勇気、責任といった価値観を尊重しているものの、じつは無神論者だけではなく無数のイスラム教徒やキリスト教徒やヒンドゥー教徒にも受け容れられている。それは、現代の科学機関や民主的機関の基盤となっている。(p.266)

 真実・思いやり・平等・自由・勇気・責任こそが、世俗的倫理規定が尊重する、全人類が受け入れ可能な諸価値なのです。『21Lessons』でハラリがそれら一つひとつに関連して述べていることの中に世俗的倫理規定(尊重している価値に基づく義務、責務、道徳など)が現れていますので、いくらか引用箇条書きしてみたいと思います。

真実 「最も重要な世俗主義的責務は、真実に対するもので、真実とは、たんなる信心ではなく、観察と証拠に基づいている。世俗主義者は真実を信念と混同しないように努力する。」(p.267)
「世俗主義者は、いかなる集団も、人も、書物も、唯一それだけが真実を占有しているかのように神聖視することはない。その代わりに世俗主義者は真実を神聖視する。」(p.267)
思いやり 「道徳とは、『神の命令に従うこと』ではない。『苦しみを減らすこと』だ。したがって、道徳的に行動するためには、どんな神話も物語も信じる必要はない。苦しみに対する理解を深めさえすればいい。ある行動が自分あるいは他者に無用の苦しみをひき起こすことが理解できれば、その行動を自然と慎むようになる。それでも人は殺し、性的暴行や盗みを働く。それが引き起こす悲惨さのうわべしか理解できていないからだ。」(p.262)
「世俗主義者のもう一つの主要な責務は、思いやりに対するものだ。世俗主義の倫理の基盤は、何かしらの神の命令に従うことではなく、苦しみを深く理解することだ。たとえば、世俗主義者が殺人を控えるのは、何かしらの古い文書がそれを禁じているからではなく、命を奪えば、感覚ある生き物に途方もない苦しみを与えるからだ。」(p.268)
平等 「世俗主義者もたしかに、自分の属する国民や国家や文化の独自性を誇りに思っているが、『独自性』と『優越性』を混同することはない。したがって、世俗主義者は自国民や自国に対して特別の義務があることを認めはするものの、その義務が唯一のものだとは考えず、人類全体に対しても義務があることを同時に認める。」(p.270)
自由 「考えたり、研究したり、実験したりする自由がなければ、真実や、苦しみから脱する方法を探し求めることはできない。従って、世俗主義者は自由を大切にし、どんな文書や機関や指導者にも、思考の権限を与えて、何が真実で何が正しいかの究極の判定者とすることを控える。」(p.270)
勇気 「偏見や暴虐な政権と戦うには勇気がたっぷり必要だが、無知を認めて未知の世界へ踏み込んでいくには、なおさら大きな勇気がいる。世俗主義の教育では、知らないことがあれば、無知を認めて新しい証拠を探すのを恐れるべきではない、と教える。……無知を認め、難しい疑問を提起するのを厭わない勇敢な人々から成る社会の方が、誰もが単一の答えをまったく疑わずに受け容れなくてはならない社会よりも、たいてい繁栄するばかりか、平和でもある。」(p.270)
責任 「世俗主義者は責任を大切にする。彼らは、崇高なる力が存在してこの世界を管理し、邪悪な人を罰し、正義の人に報い、飢餓や疫病や戦争から私たちを守ってくれているとは信じていない。したがって、生身の人間である私たちが、何であれ自分のすること、しないことのいっさいに責任を負わなければならない。もしこの世界が悲惨さに満ちているのなら、解決策を見つけるのが私たちの義務だ。……大量虐殺から生態系の衰退まで、近代以降の社会が犯してきた罪と失敗の責任も、そっくり引き受ける必要がある。」(p.271)

 ハラリによるこれら価値に関連した説明を振り返ると、現代の世俗主義者とは、「非科学的な信条はすべて退け、真実と思いやりと自由を心底重視する」(p.273)人々と言えるでしょう。そしてグローバルな文明に生きる世俗主義者の教育は、「子供たちに、真実と信念を区別したり、苦しんでいるいっさいの生き物に対する思いやりを育んだり、地球に暮らすあらゆる人の叡智と経験の真価を理解したり、未知を恐れずに自由に考えたり、自分の行動と世界全体に対する責任を引き受けたりすることを教える」(p.272)ことになると彼は主張するのです。
 彼の考えからすれば、伝統的諸宗教は、世俗主義者と倫理規定の多くを共有しながらも、それらと矛盾する要素も含んでいるために、グローバルな同一文明内に亀裂をもたらす要因になっているのです。そのため彼は、グローバルなアイデンティティを人々が持つには、彼ら自身が属している特定宗教・特定文化のあり方と世俗主義の規定とがぶつかる場合には、後者を優先できるようになるべきだとします。たとえば、「正統派ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒を対等な人間として扱うことが求められるし、キリスト教徒は異端者を火あぶりにするのを避けるべきだし、イスラム教徒は表現の自由を尊重しなければならないし、ヒンドゥー教徒はカーストに基づく差別をやめる必要がある」(p.271)といった具合です。

世俗的倫理規定を深く理解することでアイデンティティのグローバル化を達成する

 世俗的価値の説明の中に「道徳とは苦しみを減らすことだ」、そして「道徳的に行動するためには苦しみに対する理解を深めさえ(*思いやりを深めさえ)すればいい」(p.261 *は増田追加)と書かれていました。ハラリが考える世俗的倫理規定の中核がここにあると思います。
 ところで、全てがつながったグローバルな世界では、苦しみに対する理解を深めるには、その因果的つながりの全体像を知ることと、心の中で生じる苦しみ自体を見つめてその心理的メカニズムを知ることの二つの方向性があります。順にみていくことにします。

苦しみに至る因果的つながりを知る義務
 ハラリは、多くの人々に苦しみをもたらした近代の犯罪について次のように述べています。

 すべてが互いにつながっている世界では、至上の道徳的義務は、知る義務となる。近代以降の歴史上で最大級の犯罪は、憎しみや強欲が招いただけでなく、無知と無関心に負うところがなおさら大きかった。うっとりするほど魅力的なイギリスの淑女たちは、アフリカとカリブ海諸島のどちらにも一度として足を踏み入れたこともないまま、ロンドンの証券取引所で株や債券を買うことで、大西洋の奴隷貿易に出資した。そして、四時のお茶には、地獄のようなプランテーションで生産された、雪のように白い角砂糖を入れて甘みを加えた——プランテーションのことは何一つ知らずに。(p.292)

 知らぬ間に自分の行為が、巡り巡って他の生命に苦しみをもたらしている、あるいはもたらす片棒を担いでいるというのですが、続いて彼は次のような例も挙げています。

 1930年代後期のドイツでは、地元の郵便局の局長は、職員の福祉に気を配り、小包が行方不明になって途方に暮れている人々には自ら手を貸してその小包を探すような、高潔な市民だったかもしれない。彼は真っ先に出勤し、誰よりも遅くまで働き、吹雪の日にさえ郵便物が時間通りに配達されるようにした。ところが嘆かわしいことに、利用者に手厚い対応を見せる彼の効率的な郵便局は、ナチスドイツの神経系におけるきわめて重要な細胞だった。この郵便局は、人種差別的なプロパガンダや、ドイツ国防軍の徴兵命令、地元のナチス親衛隊支部への厳格な命令を迅速に配達していた。知ろうという真摯な努力をしない人の意図には、どこか不適切な所がある。(p.292)

 このようにその不適切さを指摘しながら、一方で当時ナチスに関する知を道徳的に確信して持つことは難しかっただろうとも彼は述べています。

1930年代のナチスドイツを、道徳の見地から絶対的な確信を持って振り返るのは易しい。なぜなら、因果の鎖がどこにつながっていったかがわかっているからだ。だが、後知恵の助けがなければ、道徳に関して確信を持つことは望めないかもしれない。狩猟採集民の脳にとって世界はあまりに複雑になり過ぎた、というのがつらい現実なのだ。(p.293)

 もし普通のドイツ市民がナチスドイツの行っていることの因果的つながりの全体像をおおまかにでも知ることが出来たなら、当然道徳的義憤を感じるでしょう。でも、実際にそのような知識を得るのは難しかったという話なのです(おそらく不可能)。しかし現在はネットで様々な情報を得られる世界です。求める知識の多くを解説付きで得ることが出来るのではないでしょうか。ところが現在は、多様な解釈とフェイクニュースの時代でもあります。そのためハラリは、疑いを持ち続け慎重に判断すること、高いお金を払っても良質と思われる情報を得るようにすることを勧めています。「真実だけを語る政治家はいないが、それでも、他の政治家よりもはるかに勝る政治家はいる」(p.314)し、「偏見や誤りと無縁の新聞はないが、真実を見出そうと誠実に努力する新聞もあれば、洗脳マシーンのような新聞もある」(p.314)からです。追跡調査が可能な証拠や証言に基づいていると思える、しかも公正な態度を示しているように見える情報源があるなら、費用がかかってもそれらを得ようとすべきでしょう。そのような情報源自体が許されない独裁国家をわずかでも信頼することはもちろん問題外です。
 ハラリは、人間だけが、「虚構の物語を創作して広め、厖大な数の他者を信じ込ませることができ」るので、「私たちは全員が同じ法や規則に従い、それによって効果的に協力できる」(p.302)とします。この能力が人間を繁栄させたのですが、反面、洗脳によってあらぬ方向へと集団で進む可能性もあるわけですから、正しい方向に向かっているかどうか疑いの目を常に光らせていなければならないのです。そのため、世俗的倫理規定では、互いにつながりあっている世界で、そのつながりの可能な様々な姿を知ろうとする姿勢がきわめて重要視されるわけです。しかし苦しみの理解を深めるには、つながりの全体像を知ることだけではなく、苦しみ自体を自らの心において観察することも必要だとハラリは考えを進めます。

内面を観察して理解を深めること
 ハラリは、普遍的な思いやり(苦しみの理解)の基盤は次のように単純なことわりにあると言っています。

 他者を害したら、いつもはるかに直接的で短期的な形で自分も害することになる。この世のあらゆる暴力行為は、誰かの心の中の暴力的な欲望から始まり、その欲望は他者の平静と幸福を損なう前に、本人の平静と幸福を損なう。だから人はまず、心の中で強欲と嫉妬が大きく膨らまないかぎり、めったに盗みを働いたりしない。人はまず、怒りと憎しみを生み出さないかぎり、たいてい殺人は犯さない。強欲や嫉妬、怒り、憎しみといった情動は、とても不快だ。怒りや嫉妬で腸が煮えくり返っている時には、喜びや落ち着きは経験できない。というわけで、人は誰かを殺害するよりもずっと前に、怒りによって自分の心の平穏をすでに台無しにしてしまっているのだ。(p.263)

 そして、「人はどこかの神に命令されたからではなく、自分自身のために、怒りをどうにかする気になるのが自然なのだ」(p.263)とハラリは述べています。ところで、苦しみの原因となる怒りや憎しみといった情動は心の中にあるのですからそれらのあり方を明らかにするには、自分自身の心の中で直接観察すればよいことになるでしょう。そして、そのための方法は原理的に瞑想であるとハラリは指摘しています。彼自身は仏教から派生したヴィパッサナー瞑想を実践し続けているそうで、そのテクニックについて次のように述べています。

ヴィパッサナーのテクニックは、心の流れは体の感覚と密接に結びついているという見識に基づいている。私と世界の間にはつねに体の感覚がある。私は外の世界の出来事にはけっして反応しない。いつも自分の身体の感覚に反応しているのだ。その感覚が不快なときは、嫌悪感を持って反応する。感覚が快ければ、もっと欲しいという渇望を持って反応する。他の人がやったことや、トランプ大統領の最新のツイートや、遠い昔の子ども時代の記憶に反応していると思っているときにさえ、じつは必ず、目下の身体感覚に反応している。自分の祖国や神を誰かが侮辱したので憤慨したなら、その侮辱が我慢できないのは、腸が煮えくり返るような感覚や、胸を締め付けられるような痛みのせいだ。祖国は何も感じないが、私たちの身体は本当に痛みを感じる(p.401~402)

 このようにして情動を直接観察することにより、ハラリは、例えば怒ったときにその怒りの対象にばかり自分が注目していて、怒りそのものが自分自身にどのように感じられているのか気づいていなかったことを初めて知ったと言います。上記引用文にあるように、憤激は直接には身体感覚に反応しているのです。怒りは、心の中でこそ生じるので、映画マトリックスのように、客観的世界と思われたものが虚構であり得ても、心が真実であれば(そうでないはずはないでしょう)、怒りなどの情動も真実なのです。

私が気づいたうちで最も重要なのは、自分の苦しみの最も深い源泉は自分自身の心のパターンにあるということだった。何かを望み、それが実現しなかったとき、私の心は苦しみを生み出すことで反応する。苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは、私自身の心によって生み出された精神的な反応だ。(p.402)

 そうして彼は、心の中に情動の源泉を見出したことを助けにして、「人間の心や自分自身の心、自分の内なる恐れや偏見やコンプレックスとの対処法を理解すれば、効果的に行動したり協力したりすることが易しくなる」(p.403)と述べています。こうして心の観察によって思いやりを深めれば、互いにつながりあったこの世界での、苦しみを減らすための道徳的な行為もたやすくできるようになるということなのでしょう。ただしハラリの述べるところでは、ヴィパッサナーでは、座禅における瞑想のように、主観(意識)における、全てとの一体であることを了解するような霊性的な(スピリチュアルな)ことは目標とされてはいないようです。心における身体感覚への情動の反応を観察(対象化)して明快にするところに目標があるようです。

人々のアイデンティティのグローバル化と政治のグローバル化

 以上述べてきましたように、全てが互いにつながったグローバルな世界において、瞑想による心の観察の助けも借りて、世俗的倫理規定を深く理解することで、人々はアイデンティティのグローバル化を成し遂げ、グローバリストとしての行動も速やかにできるようになるというのがハラリの考えなのでしょう。そういう人々が市民の多くを占める国や地方自治体の行政府は、政策を立てる際にも、(世俗的倫理に悖ることなくつくられた)グローバルな取り決めを優先的に配慮するようになるでしょうから、国連は世界支配的な統一政府と化すことがなくても、各国・各自治体行政府、国際的なNGO、等々の自発的協力によって、政治のグローバル化を達成できるとハラリは考えたのではないでしょうか。すなわち人々がグローバリスト化することで、政治のグローバル化は実現し得ると。

Ⅲ トインビーの考えとハラリの考えの比較

三つのグローバルな問題

 近づく資源の枯渇、医学の進歩による人口の急増、至る所に打ち込むことができる膨大な数の核兵器の存在、これら三つのグローバルな問題が人類に早急な解決を迫っているというのが、トインビーが未来の世界国家というグローバルな政治的統合体を構想した動機の一つでした。ハラリの場合は、核戦争の危機、生態系崩壊の危機、情報テクノロジーとバイオテクノロジーの発展融合による技術的破壊の危機、という三つのグローバルな問題が、早急な解決を迫っているというのが、政治のグローバル化を構想した動機になっていました。
 1970年前後でのトインビーと2018年でのハラリですから、もちろん挙げている問題は同じではありません。しかし、両者とも自身の時代でのグローバルな問題にはグローバルな政治によって早急な対応をしなければ人類滅亡の可能性があると思っている点は同じです。また歴史をたどることによって、政治のグローバル化という将来の人類のあるべき道筋がはっきり見えていたという共通性が二人にはあると思います。

協力による政治のグローバル化

 未来の世界国家は、「自由意志による協力という、これまでのものに代わる新しい方法によって達成される」(『図説歴史の研究Ⅱ』、p.105)可能性をトインビーは提示しています。ただしそのためには、多くの人々が、高等宗教の高い精神性を獲得している必要があると考えています。トインビーによれば、仏教、キリスト教、イスラム教という高等宗教の核心は、個々人が「宇宙の中と背後と彼方にある超人間的存在と直接的・人格的関係にはいることを可能ならしめること」(同、p.151)であって、そこには文化的な違い(宗教の違い)を超えた普遍性があるのです。そして、究極的な精神的実在と直接交わることで獲得するこの精神性は、「一つの全体として把握しなければ生命を生きることはできない、という道徳的真理」(同、p.133)の内発化に人を導くとします。多くの人々がこのような精神性を持ち、グローバルな問題を解決するため、自発的にグローバルな政治的統一の実現に向け協力することで、武力によらず真の世界国家を構築できるのだろうとトインビーは考えたようです。その政治的統一はSF小説や映画にあるような、世界帝国風なものではありません。世界中の国家・地域が参加する、例えば国連のような組織で取り決められたことに、当然のこととしてメンバー国や地域が躊躇なく協力するようになっていればいいのです。一般市民の精神性が高まってそのようなことが実現している状態をトインビーは未来の世界国家と名づけたのだと私は考えます。
 一方ハラリの場合は、政治のグローバル化とは、「それぞれの国の中の政治的ダイナミクスが、さらには都市の中の政治的ダイナミクスが、グローバルな問題や利益をもっとずっと重視する」(『21Lessons』p.170)ようになっていることだと想定しています。トインビーの未来の世界国家と同じで、世界帝国風の統一政府があるわけではなく、思いやりをグローバルに深めている意識の高い人々がメンバーを占めている国家・自治体・NGOなどが協力して、例えば国連が中心になって作ったきわめて真っ当な政策を、率先協力して実行するようになっていればよいという考えです。
 人々の内面を変容させ、各国・各団体の協力体制で政治のグローバル化を成し遂げる、そこにトインビー、ハラリ両者の望ましい未来のグローバル社会に関する考えの一致点があると思います。

霊性か理性か

 両者で大きく異なるのは、人々に要求する心のあり方を一方は霊性に置き、他方は理性に置いていることだと思います。
 トインビーは、究極的な精神的実在との直接のコンタクトによって獲得する精神性を、多くの人々が持つことを望んでいます。ケン・ウィルバーと岡野主幹によるトランスパーソナル心理学の説明を参考にしますと、高等宗教(特に仏教)の神秘主義的部分における霊性をその精神性としてトインビーは想定しているのではないかと思います。霊性では、その達成度に段階はありますが、人々は一切衆生との一体性を主体的に了解するようになります。
 ハラリの場合はどうでしょうか。一神教と異なるその寛容性ゆえに、彼が仏教的考えを重視しているところはトインビーと共通しています。「ブッダの教えによると、宇宙の三つの基本的な現実は、万物は絶えず変化していること、永続する本質を持つものは何一つないこと、完全に満足できるものはないことだ」(『21Lessons』p.390)と、仏教の解く世界の非実体性について理論的に解説もしています。しかし彼は、仏教から派生したヴィパッサナー瞑想を、情動の源泉を観察し心の持ち方を整理して思いやりを深めるために使うにとどめているように見えます。彼が人々に要求しようとしている精神性は理性的な範囲にとどまっているように見えます。トインビーのように霊性、あるいは高等宗教の神秘主義に至ることまでは考えていないように見えます。
 トインビーは意識の神秘にたどり着くことを目指そうとしているが、ハラリは意識の謎に言及はしてもその神秘にたどり着くことを特に重視していないように私は思います。以前サングラハ誌では、ヴィトゲンシュタインが展開した、「主観(意識)の知」に関する論理について書かせていただきました(1)。主観たる意識は、その人自身であるのだから、当人が知らないでいるのは不可能であるとヴィトゲンシュタインは主張していると私は解釈しました。しかしそうすると、その知り方というのは、観察によって知るという知り方とは全く異なることになります。観察できるものは、自分自身でないから(自分から時空間的であろうが心理的であろうが離れているから)観察できるのであり、当然知らないでいる可能性もあるわけです。そうすると、自分自身であるがゆえに当人が知らないでいることが不可能であるゆえに知っているという「主観(意識)を知る」その仕方は、観察によるものではないはずです。ハラリは瞑想を使って心の中を観察すると言います。そうして内面の理解を深めます。しかし内面であろうが外面であろうが、いくら深く知ることになろうが、観察で知られるのは結局は主観(それ自身、意識)ではないはずです(ヴィトゲンシュタインの論理に従えば)。従ってハラリがヴィパッサナー瞑想で観察しているのは意識(その人自身)ではあり得ないと思うし、自分が一切衆生と一体であるというような霊性での認識に至るはずはないと思うのです。一方でトインビーは、「究極的な精神的実在と直接交わる」というような言辞によって、意識の神秘(霊性)に達することに言及しているように私には思えるのです。
 トインビーが唱える未来の世界国家は、多くの人々が霊性のレベルで、自身が人類あるいは一切衆生そのものでもあるという自覚を少しでも持つことによって実現するとされているのに対して、ハラリが唱える政治のグローバル化は、あくまでも観察と証拠に基づく理性のレベルで世俗的倫理規定を深く理解することで実現するとされていて、そこに両者の展望における決定的な違いがあると私には思えたのです。

おわりに(結論)

 トインビーとハラリの両者の考えに共通するもっとも重要なことは、「グローバルな問題を解決するためには、人々の内面を変革させなければならない」ということだと私は結論します。国際社会でどのような優れた取り決めを各国、各地域、各団体が取り交わそうが、一般の多くの人々の内面が通常理性の個人主義に同一化していては、グローバルな問題を解決するような行動を取り切れないということです。トインビーの場合であれば、大いなる何かとのコンタクトによって生きとし生けるものとの一体性を少しでも実感する精神性を獲得すること、ハラリの場合であれば、グローバルなスケールで思いやりを深く理解するように世俗的倫理規定をしっかりと心に沁み込ませることが必要なのです。私見では、トインビーの要求はハラリの要求より高度なものであり、そこまで必要かどうか疑問にも思います。ケン・ウィルバーと岡野主幹による心の発達論で言い直すなら、ハラリはヴィジョン・ロジックという最高レベルの理性を人々に要求していて、トインビーは理性より高度なレベルである霊性を人々に要求しているということになろうかと思います。いずれにしても、グローバルな問題を解決しようと一生懸命活動されている人たちのコミュニティが明らかに増加していることは、心の変革が進んでいることを示していると私は思いますがどうでしょうか。
 ところで、2020年1月には、新型コロナウィルス感染症によるパンデミックという新たなグローバルな問題が起こりました。時事通信12/27(日)配信の記事によりますと、1年たって世界の感染者は8000万人を超えたそうです(2)。2020年8月の時点でハラリは、直面している最大の危機はウィルスではなく憎悪と強欲と無知という人類が内に抱える魔物だとしたうえで次のように述べています。

 だが、憎悪や強欲や無知を生み出すような反応を見せる必要はない。思いやりや気前の良さや叡智を生み出すような対応もとりうる。陰謀論ではなく科学を信じるという選択をすることもできる。他者にこの感染症の責任を負わせて非難する代わりに、みなで協力する道を選ぶこともできる。自分たちがより多くを手に入れることばかり考えずに、持てるものを他者と分かち合うという選択も可能だ。もしこうした建設的な形で反応すれば目の前の危機に取り組むことがはるかに易しくなるだろうし、ポストコロナの世界は、格段に繁栄し、円満なものとなることだろう。(『緊急提言 パンデミック』、ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2020年10月、p.10)

 新型コロナパンデミックに世界が襲われている今こそ、多くの人がグローバルに協力したいと欲するように自己変革するよい機会になっていると思えます。

(1) 「サングラハ第166号」 p.40~42
(2)  https://news.yahoo.co.jp/articles/26a1b1bb63ebc5c6aab0b16225aa297a40f9c41e

この小文は、「サングラハ教育・心理研究所」の会報「サングラハ」に、第173号(2020年9月25日)から連載中です。縦書きでお読みしたい方は是非会報をご購入下さい。

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