書評『アメリカ 未完のプロジェクト―20世紀アメリカにおける左翼思想』
増田満
「トランプ政権誕生を予測していたことで最近評判になっている本がある」
国際情勢に関する講演会で慶応大学の渡辺靖教授がそう話されていた本が、今回書評を書くことにした『アメリカ 未完のプロジェクト』(リチャード・ローティ、小澤照彦訳、晃洋書房、2000年、新装版は2017年、原書は1998年出版)です。
著者ローティ(1931~2007)はポストモダンの著名な哲学者で、私は彼の本を二冊読んだことがありました。『哲学と自然の鏡』(野家啓一訳、産業図書、1993年、原書は1979年出版)、『プラグマティズムの帰結』(室井尚他訳、筑摩書房、2014年、原書は1982年出版)です。それらはポストモダンの立場で実在論を批判的に論じる一方で、ポストモダン自体に対しての吟味も怠ることなく、公正な論じ方をしていると記憶していました。そういう読書体験もあって、彼がトランプ政権の成立をどのように予測したのか知りたくなり、早速本書を購入し読んでみました。
そこには、確かにトランプ政権登場を予測していたといえる部分がありました。それなりに裕福な生活ができていたアメリカの労働者が経済のグローバル化により他国の安い賃金の労働者たちとの競合に陥り、以前のレベルの生活ができなくなり、エリート層との格差が拡大してきていること、それなのに既成政党とその政治家はそのような人々の苦境に対応しなかったこと、そのため彼らの不満を代弁してくれる立候補者が現れれば、その人に当然支持が集まるだろうこと、などが書かれていたのです。
しかし私にとってさらに印象深かったのは、本書の大枠をなす主張です。「アメリカは本来民主主義の理想を実現することを目指す国であり、実際理想に向かって進んできた輝かしい歴史がある。現在、本来目指していた理想も輝かしい歴史も見失われているが、それらを再認することで、再びアメリカ国民は誇りをもって自国を理想に向かって前進させることができる」、これが本書の大枠としてローティが主張していることです。
サングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹によれば、日本の国の理想を描いた最初のものとして十七条の憲法があり、そこには、「人間と人間との平和、人間と自然との調和、そういう二つの意味での『和』こそが、国が追求すべき最優先の理想なのだ」(『「日本再生」の指針』、岡野守也、太陽出版、2011 pp.21,22)という趣旨を読み取ることが可能です。そして主幹は、日本の国民がそれを自国の原点として確認し誇りを持つことで、日本を持続可能な「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な福祉国家)」形成へと前進させることができると主張しています。
ローティの主張と岡野主幹の主張とは、その目標とするレベルに関して相違はありますが、いずれにせよ、国民が自国の原点に高邁な理想があったことを確認することで、誇りをもって自国を発展させ得るだろうと主張している点では一致しています。私が本書の概要を書評としてまとめたのは、そういうことに気づいたことが大きかったのです。
アメリカが目指すところをホイットマンとデューイの思想にそって設定する
ウォルター・ホイットマン(1819~1892 アメリカの詩の伝統の大きな潮流をつくりあげた詩人)とジョン・デューイ(1859~1952 哲学者、心理学者、教育学者であり、プラグマティズムの大成者)の両者は、「徹底的に宗教から分離した新しい種類の個人を生み出すことのできるようにする目的のためにのみ政府と社会制度が存在すること」と「可能なかぎり生み出されてくる多様な国民の間での自発的な合意しか権威を認めないこと」とを自負するような、「模範的な民主主義国家」としてアメリカをみなそうとしたのだとローティは本書32ページで解釈しています。多様な移民によって作られた民主主義国で、このような考えが生じるのはもっともだと私には思えます。
そしてアメリカがもしそのような国であるのなら、「カーストや階級などあるはずがない」(p.18 以下断りがなければ引用は『アメリカ 未完のプロジェクト』からでありページ数のみを記します)とローティは主張します。なぜなら、「民主的討議に自由に参加するために必要とされている自尊心は、そのような社会的区分と相容れないから」(p.18)です。確かに、人間としての同等性に目覚めた人々による社会でなければ、誰もが自由な発言をすることなど不可能でしょう。そうしてローティは次のようにホイットマンとデューイの希望について結論づけます。
彼らは神の意志の認識が伝統的に占めていた場所にカーストも階級制度もないアメリカの誕生を期待したかったのである。彼らはそのようなユートピア的アメリカを欲求の無制約な対象である神と置き換えることを願っていたのである。彼らは社会正義を求める闘争がアメリカの活性化の行動規範となり、国民の魂となることを望んでいたのである。(p.18)
そしてローティは、彼が解釈したホイットマンとデューイの考えを、アメリカの本来的な目標として設定します。階級もカーストもない民主主義国家というユートピア、それがアメリカの本来目指すところなのです。そして実際にアメリカは、左翼が原動力となってその目指す方向に前進してきた歴史を持っていると彼は語ります。
アメリカは左翼が原動力となってユートピア形成に向けて前進してきた
伝統的左翼(改良主義左翼)による労働運動・公民権運動
ローティは、「1900年から1964年の間、弱者を強者から守るために立憲民主主義の枠組みの中で奮闘していたすべてのアメリカ人」(p.46)を「改良主義左翼(reformist left)」と呼び、20世紀前半の標準的な左翼人の状況について、自身の両親に触れながら次のように書いています。
労働者を対象にしたものであれ、わたしの両親のような中産階級の知識人を対象にしたものであれ、左翼の定期刊行物に記事を書いていた人々のほとんどは、アメリカが偉大で、高貴で、進歩的な国であり、アメリカでは正義が最後に勝利を収めるだろうということに何の疑いも抱いていなかった。「正義」ということによって、彼らはみなほとんど同じこと――人並みの賃金と労働条件、人種的偏見の終息――を考えていた。(p.64)
彼は、「アメリカの愛国心、所得再配分主義経済、反共主義、デューイのプラグマティズムが何の矛盾もなく自然に調和していた」(p.66)のが今世紀前半の「改良主義的<アメリカ左翼>」の典型だと考えているのです。こうした左翼に率いられた労働運動、公民権運動により、労働条件は改善され、1964年には人種差別を終わらせる公民権法制定にまで至ったのです。それはローティが設定したアメリカの目標に向けての輝かしい業績でした。
新左翼の公民権運動とベトナム戦争反対運動
ところが、1964年8月に起こった二つの出来事を契機に1960年代初頭まで団結していた改良主義左翼(非マルクス主義的左翼)の分裂、衰退が始まると本書59ページでローティは述べています。一つは「ミシシッピ自由民主党」がアトランティックシティでの民主党大会に参加することを拒まれたこと、今一つは議会が「トンキン湾攻撃決議案」を可決したことです。
ウィキペディアの「ミシシッピ州の歴史」の項によれば、公民権運動の組織家達は州内政党から出された白人ばかりの候補者名簿に挑戦するためにミシシッピ州自由民主党を立ち上げ、1964年8月にニュージャージー州アトランティックシティで開催された民主党大会に参加しようとしたところ、公民権法を成立させたジョンソン大統領の功績を祝う行事を計画していた当時の民主党の組織家達によってその参加を拒まれたそうです。また、ホームページ「コトバンク」に載っているブリタニカ国際大百科事典、小項目事典の「トンキン湾事件」解説によれば、8月2日トンキン湾でアメリカの駆逐艦『マドックス』が,そして同月4日に『マドックス』と僚艦『C.ターナー・ジョイ』が北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けた事件(後に捏造と判明)に反応したアメリカ議会が、大統領に無制限ともいうべき戦争遂行権限を付与したトンキン湾決議が可決し,その結果アメリカ軍機による北ベトナム報復爆撃が行われ、次の年にアメリカはベトナム戦争に本格介入したとあります。
これらの二つの出来事を境に、立憲民主主義を標榜している組織の中で社会正義のために働くことはもはや不可能であると決断した人々(ほとんどが学生)による「新左翼(New Left)」が現れたとローティは述べています。彼らの考え方について、彼は次のように書いています。
誰でも自分が(これまで教えられてきたように、邪悪な帝国と戦う民主国家ではなく)邪悪な帝国に住んでいることが分かったなら、自分の国に責任など持たなくなる……。人類に対してだけ責任を持てばよいのである。自分たちの政府と教師たちの言っていることがすべてオーウェル風の独自の台詞であるなら――ハーバード大学の学部と軍産複合体との相違が取るに足らないものなら、あるいはリンドン・ジョンソン大統領とバリー・ゴールドウォーターとの相違が取るに足らないものなら――私たちは革命を起こす責任がある。(p.72 ウィキペディアによれば、バリー・ゴールドウォーターは、共和党の1964年大統領候補で、公民権法に反対したとあります)
日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、アメリカのニュー・レフト(新左翼)は、『学生非暴力統合委員会』『民主社会をめざす学生組織』『北部学生運動』『南部学生組織委員会』などの学生を主力とした組織として現れ、その主たる活動は平和運動と市民権運動(ベトナム戦争の停止と黒人の市民権を目ざす)であったそうです。
ローティは、立憲民主主義の組織内での活動を見限り革命を標榜するこの新左翼が、「街頭デモに繰り出していくことがなかったならば、そして市民の反抗運動が組織内活動の重要性を強調する運動に取って代わることがなかったならば、アメリカは立憲民主制を維持できなかったかもしれない」(p.74)と述べ、さらに「革命を要求することによって、改良――ジョンソンが1964年に大統領に選ばれた後、強引に議会に法律を制定させ、結局アメリカ軍はベトナムから撤退することになったこと――がもたらされたのである」(p.76)としています。彼は、「アメリカはこれからもずっと、1964年と1972年の間に国中で沸き起こった怒りの声に多大な恩義を負っている」(p.74)と述べてベトナム戦争への本格的介入からその終結までの時期における新左翼の役割を評価しています。逆説的ですが、革命を目指した運動が立憲民主制での改良をもたらしたのであり、これもアメリカの本来的目標に向かっての大きな業績とみなせるとローティは考えているのです。
文化左翼による女性差別・性的マイノリティ差別反対運動
ところでローティによれば、「<60年代>以前の<左翼>は、経済的不平等と経済的不安定が減少するにつれて、偏見も次第に消えていくだろうと思い込んでいた」(p.81)そうです。ところが、アメリカ黒人や他のグループのように、合理的な根拠のない偏見のもとに創り出された下位階級の個々のメンバーを辱めることから得られる甘美な快楽は、「フロイトが見なしたように、たとえすべての人が金持ちであろうとも味わうことができる快楽」(p.81)であるためなかなか消えません。それで「<60年代の新左翼>の後継者たちは大学内で文化<左翼>を創り出し」(p.82)、このサディズムを主要な攻撃目標にしたとローティは述べています。
従来の左翼が経済的利己心の犠牲者を救済するために、社会の外面の改革を重視して、一連の経済協定、法律、制度をつくったのに対し、新しく現れた大学の文化左翼は、利己心とサディズムの両方の根本にある考え方、社会の内面(文化)の変革を重視したのです。そうして文化左翼は、女性、黒人、ゲイなどの「社会的に容認されているサディズムの犠牲者」(p.86)を援助する活動に励み、「アメリカの高等教育機関は、サディズムを克服するためにこの30年間で、利己心を克服するために今世紀の最初の70年間に行なったのと同じくらいのことを行ってきた」(p.87)とローティは評価しています。「<60年代>以降、アメリカ合衆国の奨学金制度で取られてきた新しい方向」(p.85)などがその一例であると彼は考えているようです。こうしたことも、アメリカの本来の目標に向かっての輝かしい業績だと彼は考えているのです。
経済面の格差が拡大しつつあるアメリカ
文化左翼の成功により、社会的に容認されていたサディズムが減少した一方で、経済的不平等と経済的不安の方は着実に増加していったとローティは指摘し、全体としてのアメリカの左翼を次のように評価しています。
<アメリカ左翼>は、同時に一つ以上のことについてイニシアティブを取ることができないかのようである――<アメリカ左翼>は、金銭の問題に集中するために侮辱の問題を無視しなければならないか、あるいはその逆であるかのようである。(p.89)
そうして、第二次世界大戦中に始まってベトナム戦争の間も継続していたアメリカの白人プロレタリアートの中産階級化は停止し、逆に中産階級のアメリカ人をプロレタリアート化しているとローティは述べ、このまま進行すると、「下からの人民主義的暴動が起こりそうである」(p.89)とし、本書が書かれた1990年代終わりごろの労働者の苦境に関して次のような具体的な描写もしています。
夫と妻が管理職でない生産労働者の現行の平均賃金(時間当たり7.50ドル)でそれぞれ年間2000時間働くならば、その夫婦は年間三万ドル稼ぐだろう。しかし、年間三万ドルの収入では家を持つことはできないし、また人並みのデイケアも受けられないだろう。この収入では、公共交通機関の価値も国民健康保険の価値も認めていない国では、四人家族がただ屈辱的でその日暮らしの生活しかできない。この収入でなんとかやっていこうとしている家族は、賃金引き下げや人員削減の恐怖、短期間の病気でも陥る悲惨な状態の恐怖に絶えず悩まされ続けるだろう。(p.90)
このような事態は、労働市場のグローバル化によってもたらされたとローティは指摘し、今後それは「限りなく加速していくことが十分予想できる」(p.90)と述べています。なぜなら、大きな利益を得ることになるアメリカの工場主や株主、国際的な富豪が経済の国際化、グローバル化を進めようとするからです。そしてアメリカの工場と雇用が海外に流出して彼らはさらに豊かになり、発展途上国の労働者との競争にさらされたアメリカの労働者はさらに貧しくなり、アメリカに社会的カーストが形成されるだろうとローティは予想しています(予想は当たっていたことが2018年の今、よくわかります)。
そして国際的な大富豪たちは、自分たちにとって有利な経済グローバル化の仕組みを維持発展させるため、政治家そして知識人といった、国民国家の統治階級を装うことのできる人々を利用し、貧しくなり続けるプロレタリアをおとなしくさせ続けようとするだろうと、ローティは次のように述べています。
経済に関する決定は国際的な超大富豪の特権なので、彼らは<左翼>の政治家にも<右翼>の政治家にも文化問題を専門的に扱うよう奨励するだろう。その目的は、プロレタリアの心を経済以外の問題に向けておくこと――アメリカ人の底辺の75%の人々と世界人口の底辺の95%の人々を民族紛争や宗教紛争に、また性的道徳に関する議論に忙殺させておくこと――だろう。プロレタリアが、時々短期間行われる残虐な戦争を含めて、メディアの演出する疑似イベントによって自分たちの置かれている絶望状態の気晴らしができるならば、国際的な超大富豪は恐れるものなどはほとんど何もないだろう。(p.94)
労働者階級の怒りとそれが引き起こすこと(トランプ政権誕生を予測?)
いくら国際的な富豪が事の真相から目をそらさせようとしても、労働組合のメンバーと労働組合に加入していない未熟練労働者は、「自国の政府が賃金の下落をくいとめようともせず、勤め口の海外流出をくいとめようともしていないこと」(p.96)、そして良い暮らしをしている郊外に住むホワイトカラーが、「他の人々の社会保障手当てを支給するために課税されたくないと思っていること」(p.96)を遅かれ早かれ知るだろうとローティは考え、その結果起こることについて次のように予想しています。
その時点で何かが壊れるだろう。郊外に住むことのできない有権者は、その制度が破綻したと判断し、投票すべき有力者――自分が選出されたら、独善的で狭量な官僚、狡猾な弁護士、高給取りの債権販売員、ポストモダニズムの教授などが支配することはもはやなくなると、郊外に住むことのできない有権者に進んで確信させようとする者――を探し始めるだろう。(p.96)
そして、そのような有力者が政権を取った場合に起こりそうなことについてローティは次のように述べています。
起こりそうなこと、それはこの40年間に黒人アメリカ人、褐色アメリカ人、同性愛者が得た利益など帳消しになるだろうということである。女性に対する冗談めかした軽蔑の発言が再び流行するだろう。「ニガー」とか「カイク」(筆者増田の注 「ニガー」は黒人を、「カイク」はユダヤ人を指す言葉で、蔑称として用いられる場合がある)という言葉が職場で再び聞かれるようになるだろう。大学<左翼>が学生に対して容認できないものにしようとしてきたあらゆるサディズムが再び氾濫することになるだろう。教育を受けていないアメリカ人が自分の取るべき態度を大学の卒業生に指図されることに対して感じるあらゆる憤りは、はけ口を見出すことになるだろう。
しかし、サディズムのそのような復活によって利己心のもたらす結果は変わりはしないだろう。それというのも、わたしの想像している有力者は、政権をとった後、ヒットラーがドイツの産業資本家と手を結んだように、ただちに国際的な超大富豪と手を結ぶと思われるからである。その有力者は、短期間の繁栄を生み出す冒険的な軍事行動を引き起こすために、湾岸戦争の輝かしい記憶に訴えるだろう。その有力者は、アメリカと世界にとって災厄となるだろう。どうしてその有力者が独裁者になるのを防ぐ抵抗がなかったのか、人々は不思議に思うだろう。アメリカ<左翼>はどこにいたのか、労働者にグローバル化のもたらす結果について話したのが、どうしてブキャナンのような右翼だけだったのか、どうして<左翼>は、新たに怒りを募らせていく、職を奪われた人々を指導することができなかったのか、人々は問うだろう。(p.97 ウィキペディアには、パット・ブキャナンは1992年と1996年のアメリカ合衆国大統領選で共和党から立候補、2000年アメリカ合衆国大統領選挙では Reform Partyからの票を獲得、とあります)
トランプが政権を取った今を生きている私は、引用文にある有力者が現れ政権を取るというローティの予想が当たってしまったことを認めざるを得ません。残りの部分、冒険的な軍事行動が起こることと左翼が抵抗できずに終わるということは必ず外れてほしいと思います。そのために左翼はどうすればいいのか、その疑問についてローティは答えていきます。
文化左翼は経済面にも注目し、改良主義左翼の過去の輝かしい業績を再確認し、ユートピア形成という未完のプロジェクトを再開すべき
ローティがアメリカの目標として据えるべきだとしたのは、社会的正義が実現した、カーストも階級もないユートピアでした。少し具体的には、全ての労働者に対する人並みの賃金と労働条件の実現、人種的偏見の終息ということです。ところが今大学で強い力を持つ文化左翼は、経済的な面における正義の実現よりも、人種偏見と同根にある、マイノリティに対するサディズムの克服という文化的な面における正義の追求を重視しすぎており、そのため過去にあったのと同じ経済面での不正義が、経済のグローバル化が進む国際状況の中で復活、増長しつつあることに無関心になっているのです。そのような状況を変え、国家をグローバル化のもたらす結果に対処させるためには、「現在の文化<左翼>は、古い改良主義<左翼>の生き残り、特に労働組合との関係を切り開くことによって、自ら変貌していかなければならない」し、「侮辱のことを話題にしなくなるという犠牲を払っても、金銭問題をもっと話題にしなければならないだろう」(p.98)とローティは述べています。
そして文化左翼が多くの人々の支持を受け政治左翼となり、改革を推し進めたり政権を取ったりすることを望むなら、「アメリカ人を鼓舞するようなイメージを考え出していかなければならない」(p.106)とローティは主張します。なぜなら、「ただそうすることによってのみ、文化<左翼>は大学の外にいる人々と――特に労働組合と――連合を組むようになることができる」(p.106)からです。より具体的には、実際の政治公開討論会での同意、そして「人民憲章」など、絶えず増刷されて討論され、教授も生産労働者もよく知っており、知的職業人もその知的職業人のトイレを掃除する人々も鮮明に記憶しているリストの存在が、「左翼政治をよみがえらせるかもしれない」(p.106)とローティは述べています。
そして今一度、ホイットマンやデューイが提唱したように、個人の自由の代わりに社会正義をアメリカの第一目標にすることによって、「アメリカ国民であるという伝統的な誇り」(p.109)を活用できるようにすることをローティは提案するのです。そして、「私たちは、私たちが知っている現在のアメリカによってだけではなく、なってほしいと熱烈に願っている未来のアメリカによって、アメリカを説明しなければ」(p.109)、理想が現実になる見込みはないとし、次のように論じるのです。
私たちアメリカ国民の性格はまだ形成途上にある。1897年には、<進歩主義運動>、週40時間労働、<女性の参政権>、ニューディール政策、<公民権運動>、第二波フェミニズム運動の成功、<ゲイの市民権運動>などを予言するものはほとんどいなかっただろう。1997年に生きているアメリカ人ならだれでも、来世紀のうちに、アメリカが道徳的にはるかに進歩することを知っている。
ホイットマンとデューイは希望を知識の代わりにしようとした。二人は、アメリカ人に共有されるユートピアの夢――この上もなく慎み深く洗練された社会の夢――を、<神の意志>、<道徳法則>、<歴史の法則>、<科学的事実>といったものの知識の代わりにしようと思った。ホイットマンとデューイの政党、つまり希望の政党は、20世紀のアメリカをただの経済的軍事的巨人以上のものにしてきた。<アメリカ左翼>が存在しなかったならば、それでもなお、私たちアメリカ人は力強く勇敢であったかもしれないが、私たちアメリカ人が善良であるとは誰も言わなかっただろう。アメリカにその役割を果たす政治<左翼>があるかぎり、私たちアメリカ人は、なおアメリカの完成をめざし、アメリカをホイットマンとデューイの見た夢の国にするチャンスを持っているのである。(p.114)
左翼を通じてアメリカ国民が、再びその目指すところと過去の実績を自覚し、誇りをもって「アメリカ未完のプロジェクト」の作業を再開することをローティは願っているのです。
ローティが考える理想は古典的福祉国家であり緑の福祉国家ではない
カーストも階級もないユートピアがローティが考えるアメリカの目標なのですが、より具体的には、北欧である程度実現している古典的福祉国家がアメリカに実現することをローティは望んでいるのです。実際本書で彼は、「ヨーロッパの人々が今では当然のことと思っているような成熟した福祉国家にアメリカ合衆国がまだなっていないのは、がっかりするほど真実なのである」(2000年に書かれた日本語版への序文 p.ⅵ)と述べています。すなわち、ローティによればアメリカはヨーロッパの先進的福祉国家に対し言わば周回遅れの国家なのです。
今ヨーロッパの国々、特に北欧などの先進的な福祉国家では、自然との調和(環境問題の解決)も含んだ福祉国家、「緑の福祉国家」の実現に向けて前進しつつあります。それに対しアメリカが、ローティが言うように、いまだ人間間の調和のみを主眼とする古典的福祉国家を目指している段階だとするならば、自然との調和を目指す気候変動に関する条約から離脱するなど驚くべきことではないのかもしれません。
日本はどうなのでしょう。健康保険が国民皆保険となっていることなどからすると、福祉国家としてはアメリカよりヨーロッパに近づいているといえるのかもしれません。しかし、気候変動に関する条約などに対する熱心度はヨーロッパよりはるかに低く、アメリカに近いレベルにあるようです。おそらく、アメリカと同じように北欧などの先進的福祉国家からは周回遅れの状況なのでしょう。
そのように日本の状況をとらえると、サングラハ教育・心理研究所岡野主幹の訴えている「日本再生の指針」がなかなか多くの日本人の話題に上ってこないことは残念ですが納得できます。冒頭でも述べましたが、岡野主幹によれば、日本の国の理想を描いた最初のものとして十七条の憲法があり、そこには、「人間と人間との平和、人間と自然との調和、そういう二つの意味での『和』こそが、国が追求すべき最優先の理想なのだ」という趣旨を読み取ることが可能です。そして主幹は、日本の国民がそれを自国の原点として確認し誇りを持つことで、日本を生態学的に持続可能な「緑の福祉国家」形成へと前進させることができると主張しています。さらに言えば、十七条の憲法の精神に仏教的な背景を見て取り、日本を慈悲の精神に満ちた仏国土にすることまで主幹は構想しているようです。このような高いレベルの目標は、古典的福祉国家をほぼ達成した北欧諸国の国民であれば現実感を持てるのかもしれませんが、アメリカに近いレベルの日本では、まだ手が届きそうにない、あこがれの目標とみなされてしまわざるを得ないのかもしれません。しかしどうにか近日中に日本の多くの人が北欧の福祉国家の国民のように高いレベルの目標に現実感を持てるようにしなければ、日本は持続不可能な社会になってしまいそうだと思うのです。
( このエッセイは、「サングラハ156号」(2017年11月25日発行)、「サングラハ157号」(2018年1月25日発行)に分載された書評を少し書き直したものです )