「ポスト資本主義」としての「持続可能な福祉社会」

増田満

 「サングラハ146号」(2016年3月発行)に、『持続可能な福祉社会』(広井良典著、ちくま新書、2006)で提案されている社会モデルについてその概要を報告しました(MMエッセイズ2にも掲載済み)が、同書は出版されてから10年が経過していますから当然著者の考えは進展しているはずです。そのことを確かめたくて2015年に出版された広井氏の近著『ポスト資本主義』(岩波新書)を読んでみましたが、そこでは、今私たちが生きている時代を人口や経済規模の拡大・成長から定常化へと移行する分水嶺とみなし、それゆえに資本主義社会から「持続可能な福祉社会」というポスト資本主義の社会へと変容していくべきなのだと論じられています。私はそこに著者の「持続可能な福祉社会」というモデルのとらえ方に関する進展があると思いました。この稿ではその進展の概要をまとめ、最後に私が抱いたいくつかの疑問についての補論を付け加えました。

現在は拡大・成長期から定常化へと移行する分水嶺である

『ポスト資本主義』によると、人類の歴史を俯瞰すれば、図1にあるように、約20万年前に始まる狩猟採集段階、約1万年前に始まる農耕段階、約400年前に始まる今まさに継続中の市場化産業化の段階という、人口や経済規模の「拡大・成長」から「定常化」へと移行する3回のサイクルを見て取ることができるそうです。そして現在は3回目のサイクルにおいて拡大・成長期から定常化へ移行する分水嶺であると論じられています。

図1 (『ポスト資本主義』p.10 図序・4 人類史の中の定常型社会 を参考に作成)

資本主義とは「市場経済プラス拡大・成長」を志向するシステム

 同書によれば、資本主義とは「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステムで、単なる市場経済あるいは商品・貨幣の交換ではなく、「市場取引を通じて自らの保有する貨幣(そのまとまった形態としての資本)が量的に増大することを追求するシステム」(P.29)です。すると「富の総量」が有限な一定の範囲にとどまるとすれば、ある個人の利益ないし取り分が拡大することは、さしあたり他の人の取り分の減少を意味するので資本主義が社会に浸透することはないはずです。資本主義システムが社会に浸透していくためには社会全体の富の総量自体が「拡大・成長」する状況が伴うことが不可欠なのです。18世紀後半以降の産業革命を通じた新たな技術パラダイムによる地下資源・エネルギーの活用と、地球上の他の地域(植民地)への進出とそこでの大規模な資源開発が、そのような「拡大・成長」という条件を存分に満たしたので資本主義は大きく発達していくことができたと同書は論じています。図2を見ますと、さらには情報化・金融化を通じて資本主義はよりグローバルに進展していったことも提示されています。

図2 (『ポスト資本主義』p.55 図2・2 資本主義の進化と展望 を参考に作成)
資本主義の進展とセーフティネットの発達

 ところで資本主義社会が展開していくと同時に、失業や格差の拡大などによる様々な社会的ひずみが生じ、その対応策が講じられていきます。イギリスで毛織物など農村工業が勃興して市場経済が急速に発展し、都市に貧困層が発生・拡大した際には、その事後的な救済策として1601年に救貧法が制定されました。18世紀後半に産業革命がおこると、大量の都市労働者が現れ救貧法のような事後的な救済策では間に合わなくなり、労働者が病気や失業に陥る前に事前にお金を積み立て共同でプールし、あらかじめ貧困に備えるという国家による強制加入保険としての「社会保険」制度が登場しました。そして資本主義がある種の「生産過剰」に陥り大量の失業者が発生した世界恐慌という事態を受けて、「経済成長を最終的に規定するのは(生産ではなく)人々の需要であり、しかも人間の需要は、政府の様々な政策(公共事業など公共財の提供、社会保障などの所得再分配)によって誘発ないし創出することができ、これにより不断の経済成長が可能である」(pp.47~48)という「ケインズ主義的福祉国家」の理念と政策が登場しました。このセーフティネット発達の過程は『ポスト資本主義』で次のようにまとめられています。

救貧法のような事後的救済から始まり(第1ステップ)、続いて社会保険という〝事前的〟な介入となり(第2ステップ)、さらに20世紀半ば以降はケインズ政策的な市場介入による雇用そのものの創出(第3ステップ)へとセーフティネットが進化していったことを巨視的に見るならば、それぞれの段階において分配の不均衡や成長の推進力の枯渇といった〝危機〟に瀕した資本主義が、その対応あるいは「修正」を、〝事後的〟ないし末端的なものから、順次〝事前的〟ないしシステムのもっとも「根幹」(ないし中枢)にさかのぼったものへと拡張してきた。 (pp.155~156)

こうしてセーフティネットが進展し福祉国家へと至っても、基本は資本主義ですから市場経済の拡大が前提です。ところが人間社会での需要の飽和と自然環境的制約(資源・エネルギーの有限性による制約や生態学的な持続可能性に関する制約)との両者によって経済成長を見込めない定常状態に陥ろうとしている現状では、所得(フロー)の再分配よりも資産(ストック)の再分配に軸足を移し、そして人間存在の土台をなす自然や魂との一体性(スピリチュアリティ)をも視野にいれたコミュニティを実現することこそが、平等・公正で人々が安心して生活できる社会を形成するには必要だとするのが、すでにご紹介した『持続可能な福祉社会』における広井氏の主張でした。そしてこの社会モデルは、資本主義と福祉国家が前提とする市場経済の拡大をもはや前提としないシステムですから、資本主義でも福祉国家でもありません。すなわち「ポスト資本主義」と呼ぶべきものだというのが『ポスト資本主義』で広井氏が追加的に主張していることなのです。

緑の福祉国家とポスト資本主義

 『ポスト資本主義』では、「緑の福祉国家/持続可能な福祉社会」という表現があります。それは大まかには環境や福祉の問題を統合的に扱い持続可能性を目指す社会を意味するようですが、その基本的特徴に関する概括的な国際比較が210ページの表に示されており、次のような分類がなされています。

1) 緑の福祉国家A:ドイツ、デンマーク(オランダ)……分権的または脱生産主義的
2) 緑の福祉国家B:スウェーデン(フィンランド)……「環境近代化(ecological modernization)」的
3) 通常の福祉国家:フランス
4) 非環境志向・非福祉国家:アメリカ(日本)

ただし、「緑の福祉国家B」のところに書かれている「環境近代化」とは、「環境保全を進めつつ経済成長を極力図りその両者を両立させていこうとする考え方」のことです。
「サングラハ146号」では、スウェーデンの「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」というビジョンを参考にして「持続可能な国づくりを考える会」が作り上げたモデル(「理念とビジョン」と呼ぶことにします)と広井氏の「持続可能な福祉社会」というモデルを比較しました。「理念とビジョン」では、知識付加型産業や環境問題対応型技術という方向性での発展・成長を目指すことが可能だとし、経済と福祉と環境はトレードオフではないどころか相互促進関係にさえできると考えています。そして「環境・国土保全と食料の安全保障のための農林水産業に関わる新しい持続的な公共事業(グリーン・ニューディール)が必要」であるとさえ主張しています。
すなわち「理念とビジョン」では、まだ成長が見込まれ、それなりに激しい国際競争もあるという状況で新しい福祉社会を構想しているわけで、環境近代化を目指すスウェーデン型の福祉国家を目指しています。それに対し広井氏の「持続可能な福祉社会」というモデルは、環境近代化の段階の先にあるグローバルな定常状態を視野にいれたもので、先ほどの分類でいえばドイツ、デンマーク型を目指しています。
このように考えてきますと、「理念とビジョン」というモデルは経済成長のもとでの福祉国家ですから、環境に関しては持続可能性を目指していても、広井氏の定義による資本主義の範疇に入れることができます。それに対し広井氏のモデルの方は、経済成長のない定常状態で機能することを目指したもので、完全にポスト資本主義といえるモデルです。すなわち福祉国家ではなく、その先にあるべきものです。このような両モデルの相違を考慮にいれて日本の進むべき姿を展望しますと、まずアメリカ型非環境・非福祉型社会からは決別して福祉国家としての姿を回復し、その後しばらくは「理念とビジョン」のような環境近代化的(スウェーデン型)福祉国家として経済成長も視野に入れながら進み、21世紀半ばまでには定常化に対応した広井氏のモデルのような社会に変容できるようにし、いずれ到来するであろう「持続可能な福祉社会」のグローバル化に融合していくのがいいと私には思われます。

第三の定常期に新しい文化が創発する

 再び図1を見てください。そこでは、人類史において人口や経済規模の「拡大・成長」から「定常化」へと移行する三回のサイクル(ただし三回目の定常化は今緒に就いたばかり)が考えられているのですが、特に一番下に並んでいる自然信仰、普遍宗教、地球倫理という諸項目に注目してください。それらは各サイクルにおいて定常期への移行の時代に生成する「それまでとは異質の新たな観念や倫理、価値といったもの」を表しています。すなわち文化的創造が行われることを表しています。自然信仰及び普遍宗教という過去二回のそのような創発について『ポスト資本主義』では次のように書かれています。

狩猟採集段階における定常化の時代には「心のビッグバン(または意識のビッグバン/文化のビッグバン)」と呼ばれる現象が生じ(約五万年前)、また、農耕文明の定常化の時代には、紀元前五世紀頃に、ヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊藤俊太郎が「精神革命」と呼んだ出来事が生じ、仏教(インド)、儒教や老荘思想(中国)、キリスト教の源流でもある旧約思想(中東)、ギリシャ哲学といった、現在につながる普遍的な思想ないし普遍宗教が〝同時多発的〟にうまれたのである。(p.235)

広井氏は今まさに訪れつつある第三の定常期に求められる社会システムは「持続可能な福祉社会」だとしていますが、同時にそこにおいて文化的にはそれまでと異質の新しい倫理、価値が求められる、あるいは生じるとも考えているのです。広井氏はそれを「地球倫理」と呼び、その内容について第二の定常化の際に生じた普遍的な思想のあり方の分析をもとに論じていきます。

第二の定常化の際に生じた普遍的思想は地域的である

 『ポスト資本主義』では、第二の定常化の時代に生じた諸思想の価値原理(内容)について、237ページで次のようにまとめています。

・旧約思想(~キリスト教)の場合 ――〝超越者原理〟
・儒教やギリシャ哲学の場合 ――〝人間的原理〟
・仏教の場合 ――〝宇宙的原理〟

 そしてこれらは、特定の民族や共同体を超えた、人類全体にとっての普遍的な価値原理を提起し、「特定の民族や共同体の利害や観念を超え出るものとして、そうした複数の民族・文化間の対立を乗り越え融和していく思想としての役割を持った」のですが、その一方で、「自らの「普遍性」を〝自認〟するぶん、互いに共存することは困難な性格を持っていた」(p.237)としています。しかしその互いの排他性による問題は近代にいたるまで深刻になることはなかったのだとされ、次のように述べられています。

しかし現実には、そうした問題が深刻な形で生じることは、かなり後の時代になるまでは比較的少なかった。なぜなら近代に至るまで、地球上の各地域間の交易は(それが様々な形で存在していたとはいえ)ある程度限定された範囲にとどまっており、したがって枢軸時代の諸思想は、それが生まれた地域をベースとして地球上で一定の範囲に浸透していきながらも、互いにある種の〝リージョナルな棲み分け〟を行うことができたからである。枢軸時代以降の時代を大きく「農耕文明の後半期」としてとらえるならば、この時期にいわば普遍宗教の地理的棲み分けとしての〝世界宗教地図〟(仏教圏、キリスト教圏、儒教圏等々)が形成されたとも言える。(pp.238~239)

しかし近代以降のグローバル化の結果、このような普遍宗教なり普遍思想なりの既存の地域性による共存は困難になったわけで、それが新しい倫理あるいは価値、すなわち「地球倫理」が必要とされ登場する第一のポイントになるのだと主張されています。
『ポスト資本主義』では、「地球倫理」が必要とされるもう一つのポイントとして、普遍宗教なり普遍思想なりがその根源となる自然信仰を否定していることをあげています。

第二の定常化の際に生じた普遍的思想は原初的な自然信仰(アニミズム)を否定している

 『ポスト資本主義』では、地球上の各地での最も原初的な、「アニミズム」とも称される自然信仰は、「自然の具体的な事象の中に、単なる物質的なものを超えた何かを見出すような自然観あるいは世界観」であるとされ、「自然のスピリチュアリティ」とも呼んでいます。そしてこの「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」を宗教や信仰の根源にあるものとし、「普遍宗教を含む様々な宗教における異なる『神(神々)』や信仰の姿は、そうした根源にあるものを異なる形で表現したもの」(p.241)だと評価します。ところが第二の定常化の時代に登場した普遍的諸思想は、その根源にある原初的な信仰を不合理として否定してしまったので、それによる根源との断絶が「地球倫理」が必要とされるもう一つのポイントだとされているのです。

地球倫理は普遍宗教の多様性を包含し自然のスピリチュアリティとのつながりを回復する

 そうしますと、新たに発生する「地球倫理」は、以上の二つのポイントに対応し、一方では諸普遍宗教・普遍思想をより高い立場から包含し、他方では原初的自然信仰を根源としてしっかりとつなぎ直すようなものであるはずなのです。
第一のポイントへの対応に関しては、「普遍宗教/普遍思想を含め、地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)を持つようになるのだとされます。そしてそれは「個々の普遍宗教をメタレベルから俯瞰しつつ架橋するという意味で『地球的公共性』と呼びうる側面を持っている」(p.239)とも述べられています。
第二のポイントへの対応に関しては、原初の自然信仰はあらゆる宗教や信仰の根源にあるものとの考えから、その「価値を再発見し、それに対して積極的な評価を与える」(p.241)ものでなければならないとされています。
すなわち「地球倫理は一方で個々の普遍宗教と関係するとともに、もっとも根底にある『自然信仰/自然のスピリチュアリティ』と直接につながることになる」(p.242)のです。

以上『ポスト資本主義』の内容の一端についてご紹介してきました。同書では、技術突破(人工光合成・宇宙開発ないし地球脱出・人間に人工知能を融合させたポスト・ヒューマン)による経済拡大の継続可能性についての論考、資本主義と近代科学は共通する世界観のもとで生じていて同型的であるのだという論考、非生命・生命・人間を含む世界をどう理解するかという世界観の分類に関する論考など、大変幅広い領域に及んで啓発的な考察がなされています。それらについてこの稿では触れませんでした。なるべく広範な文脈において近未来の社会の在り方を考察したいという方には『ポスト資本主義』を実際に手に取られ熟読されることを強くお勧めします。最後に広井氏の次のような総括の言葉を引用しておきます。

宇宙の歴史から始めて地球の歴史、生命の歴史そして人間の歴史を一貫したパースペクティブの中でとらえ返し考察しようとする「ビッグ・ヒストリー」という分離横断的な試みが台頭しているように……個別分野の縦割りを超えた超長期の時間軸で物事をとらえ考えなければ、現に起こっている事態の意味や今後の展望が見えてこないような、大きな時代の分岐点に私たちは立っているのではないのか。(p.243)

補論1 地球倫理に関する論考における仏教の扱いについての疑問

 仏教がその他の普遍宗教のように排他性を持つものだとするのには疑問を持ちます。サングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹によれば、仏教のエッセンスである縁起の理法では、実体は存在せず全ては根本的なつながりのもとに存在していることになります。たとえば、白板に円を描けばその円の内側と外側の領域が差異化されて現れますが、そのためには内側と外側を含んだ白板の地が前提として存在し、その地においては円の内部も外側も一体だと言えます。このように、ばらばらからつながりを見るのではなく、全ての一体性からつながったそれぞれの現れを見るのが仏教の伝統に基づく発想の一つだということです。これは大乗仏教の見解の一つである唯識で言えば、分別性(ふんべつしょう)から依他性(えたしょう)をみるのではなく、真実性(しんじつしょう)から依他性を見るということです(詳しくは『唯識と論理療法』、校正出版社、2004年、などの岡野守也氏の著作を参照してください)。こうした見解からすれば、仏教は、誰でもが見て取れる事実を論拠にしてもともと一体(一如)である世界に個々人をはじめすべての事物は現れているという縁起の理法を唱えており、どのような思想に対しても通用するような開放性を持っているといえるのではないでしょか。従って仏教の考え方の中核にあるものは、他の普遍宗教と異なり、言わば本来的な普遍性を備えているのではないかと思うのです。歴史学者アーナルド・トインビーも、『図説歴史の研究Ⅱ』(桑原武夫他訳、学研、1972年)で、仏教、キリスト教、イスラム教の三宗教を比較して仏教の開放性について次のように述べています。

今日のコミュニケーション手段は、三宗教のおのおのに、そしてまた他の宗教にも、全地球上に信者を獲得する可能性を与えている。そして、すべての宗教にとって、このため、共存か競争かという問題が提出されている。
仏教は、つねに、それが拡がっていった諸国の既存宗教との友好的共存を黙認してきた。そして、この仏教的伝統が勝利をかちとることをわたしたちは望みたい。わたしたちの共通の人間性は、相異なった精神的諸類型に分化している。これらの異なった諸類型は、宗教の互いに異なった提示に精神的満足を見いだしている。そして、最近における「距離の空無化」は、今や初めて、個々人が青年に達したときに、もっとも自分の気心にあった宗教を自分で選択する――自分の個人的気質とは無関係に自分の出生の時と所という偶然によってある宗教を自動的に相続するのではなく――ことを可能にしているのである。
この選択の自由は、もし仏教が競技場裡の唯一の伝道宗教であるならば、物理的に統一されたこの世界に生きる個々人にとって確保されえたろう。不幸なことだが、キリスト教とイスラム教徒は、仏教の寛容の伝統をもたない。これまで、この両宗教は、ともにその信者たちに排他的な忠誠を要求してきた。また両者とも、それ自身の先祖ともいうべき諸宗教を除けば、いかなる宗教とも、あえて共存しようとはしなかった。
(pp.105~106)

補論2 定常化の時代における倫理の根拠に関する別の提案

 「サングラハ146号」でも指摘しましたが、「持続可能な国づくりを考える会」(旧名「持続可能な国づくりの会」)が2010年に発表した『持続可能な国づくりの会―理念とビジョン―』(以下『理念とビジョン』と略す)では、他者や自然との本来的なつながりに関する気づきを重視しており、つながりによる一体性の方から区別された個々人や諸事物を見るように意識を変容させようとする発想があり、次のように語られています。

改めて言うまでもないようですが、大地(地球)、空・空気、水、時に食べ物になり、また酸素を供給してくれる植物、あるものは食べ物になってくれ、そうでないものも同じ一つの地球生態系の中にある他の動物……といった人間以外の自然と、いい・肯定的なつながりが続いてはじめて、人間生活も続くことができるのです。(自然とのつながり)
また私という人間は、親、その親、その先祖といういのちのつながりのおかげで、私として生まれ生きることができています。私は、社会を形成する他の無数の人々とのつながりによって生活すなわち社会生活を営むことができています。(コミュニティにおけるつながり)
自然とのいいつながり、他の人とのいいつながりが、私という人間が人間としてよく生きることを可能にしてくれているということは、誰にでも当てはまる普遍的な事実であって特定の思想でもイデオロギーでも宗教でもない、と思います。
そうした普遍的な事実への深い気づきが、今大きく歪んでしまっている自然と人間のつながりのシステム、人間同士のつながりのシステムを、本来のいいつながりに変えたいという意欲・気力を生み出すのではないでしょうか。単なる語呂合わせではなく、本来のいいつながりを再創造したいという気持ちを「本気」というのだと思います。
標語風に言えば、「つながってこそいのち」なのです。そこに全人類、どころか全生命、生命と非生命が織り成す全生態系に当てはまる普遍的な倫理の根拠がある、と私たちは考えます。(『理念とビジョン』p.37)

このように本来的なつながりによる一体性に深く気づくように意識を変容させることの必要性が『理念とビジョン』では語られています。敷衍していえば、現代科学ではビッグバンから始まる宇宙の進化の過程で初めて人間が誕生したというストーリーを見て取ることができるので、宇宙との本来的なつながりがあるということをよりはっきりさせることができます。またすでに述べましたが、仏教でも実体は存在せず全ては縁起の原理のもとで現れるとしているので、自立した個も他者や自然との根本的なつながりのもとに生きていると言い切ることができます。
このように、『理念とビジョン』では本来的なつながりへの気づきということが謳われており、そのような主体における内面の変容が、自然と調和しかつ人間を尊重する国づくりに向けての意欲につながるとしています。そしてこのつながりへの気づきが結局は全人類どころか生命と非生命が織りなす全生態系にあてはまる倫理の根拠になるとしています。さらに敷衍すれば、岡野運営委員長のもともとの構想では、ビジョンを実現するためにはそのように意識が変容したリーダーが必要だと論じられています (『持続可能な社会の条件』、岡野守也、「サングラハ90号」、2006年)。
広井氏の『ポスト資本主義』では「地球倫理」が要請されるとしていて、それは、「普遍宗教/普遍思想を含め、地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)だとされています。そして、「地球倫理においては、原初にある自然信仰――それは本来的に『ローカル』な性格のものでもある――の価値を再発見し、それに対して積極的な評価を与える。なぜなら地球倫理の視点からは、『自然信仰/自然のスピリチュアリティ』はむしろあらゆる宗教や信仰の根源にあるものであり……普遍宗教を含む様々な宗教における異なる『神(神々)』や信仰の姿は、そうした根源にあるものを異なる形で表現したものである」(p.241)とされています。非常に複雑に考えられています。しかし先ほどの『理念とビジョン』のように、日常的な事実から誰でもが納得できるように考えていった方が合理的ではないでしょうか。また広井氏の論には、この地球倫理の根拠になる内面を持つように主体(個人)を変容させる必要性や、その変容した心を持つ人々がリーダーになって権力を掌握してこそビジョンが実現されるというような展望を付け加えていく必要もあるのではないかと思いました。

(この稿は、「サングラハ第148号」(2016年7月発行)所載の 「ポスト資本主義」としての「持続可能な福祉社会」 を少し書き変えて掲載しました。『ポスト資本主義』という広井氏の著書の書評です。)