トランスヒューマンはどのようにしてクリエーター階級から生じるのか

増田満

 「持続可能な国づくりを考える会」の第五回学習会では、「サングラハ」誌152号と153号でも紹介しましたジャック・アタリの著書『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社、2008 原書の出版は2006年)を取り上げました。同書で明かされたアタリの未来予測によると、彼がトランスヒューマンと呼ぶ、利他的で調和重視的な意識を持つ人々のリーダーシップにより、超民主主義社会(一種のグローバルな社会民主主義社会)が2035年頃に形成されることになります。
アタリは、グローバルな市場経済において成功を収めている、現在すでに台頭している競争的で利己的なエリートたちをクリエーター階級と呼んでいますが、そのような人々の中から、正反対の調和重視的で利他的な傾向を持つトランスヒューマンたちは現れるとしています。ただし、その出現の際、どのような仕組みで競争的で利己的な意識が調和重視的で利他的な意識に変容するのか、彼は心理学的な説明を全くしていません。彼にそのような説明をする知識がないのか、それとも知っていても書かなかったのかはわかりませんが、『所有の歴史』(ジャック・アタリ、山内昶訳、法政大学出版局、1994 原書の出版は1988年)という別の著書にも、歴史の展開における人々の内面の変容について心理学的な説明はありませんでしたから、おそらく心の変容のプロセスなどについてはもともと関心がなかったのでしょう。
実は第五回学習会で『21世紀の歴史』の概要説明をした後の質疑応答において、出席された方々の多くから、「トランスヒューマンと呼ばれる人々が唐突に出現する印象を受けた」という感想が表明されました。そのとき私はこう思いました。もし競争的で利己的なクリエーター階級から、調和重視的で利他的なトランスヒューマンが出現する際の、意識の変容に関する心理学的な説明が『21世紀の歴史』の中に書かれていたなら、そしてそれを概要説明に含めることができたなら、そのような唐突な印象を皆さんに持たれずにすんだのではないのかと。その際私が具体的に思い浮かべていたのは、ケン・ウィルバーの意識の発達段階論を利用した説明です。彼の理論によれば、今人々の意識の平均的発達レベルは合理性の段階にあるのですが、将来さらに高度なレベルに発達する可能性があることになっています。そして、その可能性がまさにトランスヒューマン的な意識が出現することを説明できると考えていたがゆえに、私はクリエーター階級からトランスヒューマンが出現することに対して唐突さを感じずにすんだのです。
そこでこの稿で、次のような作業をしてみようと思います。まずトランスヒューマンとはどのような心のあり方をする人々なのかを確認します。次にウィルバーの意識の発達段階論のいくばくかを説明し、その理論的枠組みの中でトランスヒューマン出現の際の意識変容のプロセスはそれなりに合理的に理解し得ることを示します。そうすることで、私がトランスヒューマンの出現予想に対して唐突性を感じなかった理由を明らかにします。

トランスヒューマンとは

 アタリは、グローバルな市場における主役は、国境を越えて活躍することができる、リーダーシップと行動力に溢れた起業家、発明家、芸術家、金融業者、政治家などであるとし、彼らのことを「クリエーター階級」あるいは「超ノマド」と呼びます。そして、彼らは利己主義的な傾向や、自分たちが世界の所有者であると考える傾向が強い人々だとします。例えば、彼らにとって市場における他者とは、「ライバル(希少な財をめぐって論争する敵、自分の自由を構築する際の敵対者、一切の知識を共有しあってはならない相手)」(『21世紀の歴史』p.291)だとアタリは述べています。ところがそのような「クリエーター階級」の中に、「自分たちの幸せは他者の幸せに依存していることを悟り、また人類は平和を通じて互いに連帯するより他に生き延びる方法がないことを悟る」(『21世紀の歴史』p.289)、調和重視的で利他主義的な傾向を持つ一部の人々が現れるとアタリは言います。この人たちこそがトランスヒューマンで、彼らについてアタリは『21世紀の歴史』の中で次のように書いています。

トランスヒューマンな人々とは、利他主義者で21世紀の歴史や同時代の人々の運命に関心をもち、人道支援や他者に対する理解に熱心であり、次世代によりよい世界を残そうとする。彼らは、<超ノマド>の利己主義や海賊の破壊欲に我慢がならない。彼らは自分たちが世界の所有者であるとは思わず、世界の用益権を保有しているにすぎないと考える。・・・・・また、彼らは自分たちのことを世界市民であると同時に、複数の共同体のメンバーであると考える。彼らの国籍は、彼らが居住している国だけではなく、彼らがしゃべる言語によって決まる。世界の調和に逆らう行為に対しては法律で、現実を直視しない身勝手さに対してはモラルで対処する。また、友愛が野心の代わりを務め、彼らは他者を喜ばせることに喜びを感じる。(p.290)

このように、トランスヒューマンはグローバル市場の主役である競争的で利己主義的なクリエーター階級(「超ノマド」)と全く異なる価値観を持っています。そして彼らトランスヒューマンが世界を主導し、「グローバル化を拒否するのではなく、規制できるのであれば、また、市場を葬り去るのではなく、市場の活動範囲を限定できるのであれば、そして、民主主義が具体性を持ちつつ地球規模に広がるのであれば、さらに、一国による世界の支配に終止符が打たれるのであれば、自由・責任・尊厳・超越・他者への尊敬などに関して新たな境地が開かれるであろう」(『21世紀の歴史』p.14)とアタリは述べ、こうした境地を「超民主主義」と呼び、それは民主的世界政府ならびに地方や地域の制度・機構の創設をうながすとしています。国連のような、統合の度合いの低い国際組織ではなく、多様な地域・諸国家を尊重しながら超越する組織によって、グローバルな混合経済を基盤に持つ、地球規模で統合された民主主義社会をトランスヒューマンは造り上げるだろうと考えられているのです。そして人類は「気候変動に対する戦い、難病・人間疎外・搾取・貧困に対する戦い」(『21世紀の歴史』p.281)といった「一刻の猶予も許されない緊急の戦い」に挑むことができ、人類の滅亡を防ぐことができるとアタリは想定しています。
この超民主主義による理想的社会では、個と同程度以上に、個が連帯した人類共同体の運命が関心事になっており、その運命を左右する人類の共通資本について『21世紀の歴史』でアタリは次のように述べています。

超民主主義における共同体の究極目的である人類の共通資本とは、栄華や富、さらに幸福でもなく、きちんとした生活を保障する要素全体を保護することにある。すなわち、気候、大気、水、自由、民主主義、文化、言語、知識などを保護していくことである。こうした共通資本は、維持管理が必要な図書館、自然公園などと同様に、使用した後はこれをさらに豊かにして後世に伝達しなければならず、これに不可逆的な修正を施すようなことがあってはならない。ナミビア共和国による動物相の保護政策、フランスの森林資源保護政策・文化財保護政策などが、共通資本の前兆となる概念である。共通資本とは、市場原理、国家管理、多国間所有では対処できない国家を超えた資本である。(p.300)

ところで、上記引用文では人類共同体の共通資本に「気候、大気、水」など地球全体に広がる自然が含まれています。すなわち超民主主義社会を形成することになるトランスヒューマンの意識には、全人類にとどまらず、全生物、そして地球全体のつながり(さらには宇宙全体のつながり)への気づきが全面的に織り込まれていると理解すべきでしょう。また、この気づきの重要な点は、そのようなつながりを維持するための理想社会形成に関する知識に基づいて、その現実化に向け行動するほどの深みに至っていることだと思います。それについて次に説明したいと思います。

トランスヒューマンのつながりに関する気づきの深みとは

 これまでサングラハ誌では、グンター・ミュルダール、正村公宏、広井良典、トマ・ピケティ各氏の著作や「持続可能な国づくりを考える会」が作成した『理念とビジョン』という小冊子などに描かれている、将来目指すべき社会民主主義的な社会モデルについて述べてきました。それらの諸モデルを概観すると、持続可能な社会に必要な「気候変動の抑制、水やエネルギー資源の再生、肥満や貧困の解消、非暴力、すべての人の繁栄、普遍的で民主的な価値観、民間企業の公益重視といったことは可能であるという結論」(『21世紀の歴史』p.286)が合理的に導き出せ、アタリが目指す超民主主義社会へと世界が進展していくことが可能だと思えます。それに、先に挙げた各氏は著名な方々であることから、多くの人々が彼らの考えを学び、理想的な社会実現の可能性に関する知識をすでに持っていると思います。そうであるからこそ、紆余曲折はありながらも、環境保全などに関して様々な国際的取り決めがなされてきたに違いありません。
しかし、多くの人が持続可能な社会を実現するのに必要な知識を持ち、それに基づいて達成すべきだとされた目標が諸国間で締結されるに至ったはずなのですが、その後の各国の実効的努力はまことに不十分でした。例えば気候変動を抑制するための二酸化炭素排出量の削減などは、ごく一部の国々を除けばほとんど進んでいません。こういう事実は、理想を実現するための可能性(手段)を知るだけでは、今の人類は実際にその方向に歩みを進めてはいけないことを示しているのではないでしょうか。アタリはそのような考えを持っているようで、彼によれば、超民主主義的な理想社会(持続可能な社会)を実現するトランスヒューマンであるためには、単に実現可能性の知識を持つだけではだめで、その知識を実現することに対して強い義務感、倫理性を持っていて、さらに人並み外れたリーダーシップや実行力を備えていなければならないのです。
ここまでの記述である程度トランスヒューマンとは何かということについて明らかになったと思いますのでまとめてみます。彼らは合理的に物事を理解する能力をもち、リーダーシップ、実行力がある(これらはクリエーター階級と共通しています)。人間相互のつながりのみならず、地球全体の生態系におけるつながりが個々人の存在の前提になるということを深く理解し、利他的で調和重視的な倫理性を持っている。この倫理性とクリエーター階級と共通するリーダーシップ、実行力が結び付き、トランスヒューマンは持続可能な社会(超民主主義社会)形成に向けて実質的な行動ができる。
このようなトランスヒューマンの持つ意識が競争的で利己主義的なクリエーター階級から登場することを、ウィルバーの発達心理学で説明できるというのが私の考えです。では、次にウィルバーの理論の概要を述べていきたいと思います。

ウィルバーの意識の発達段階論
――「基本構造」と「自己」と「世界観」による意識の発達のモデル

 ウィルバーは、『万物の歴史』(ケン・ウィルバー、大野純一訳、春秋社、1996年)の中で、意識の発達を梯子と登り手と眺めという譬えを使いながら巧みに説明しています。梯子は意識の基本構造の譬えで、その段が基本構造のレベルの譬えです。低いレベル(段)から順に書いていきますと、

1.感覚物質的 2.夢想的・情動的 3.表象的(概念的) 4.規則・役割的(具体的操作) 5.形式的・反省的(形式的操作) 6.ヴィジョン・ロジック 7.心霊的 8.微細 9.元因

となります。
ピアジェによる認識の発達論の言葉が含まれていることから明らかなように、基本構造の発達は、認識の構造の発達とほとんど同一視されています。そしてこの基本構造自体には自分というものはなく、自己という登り手が、段と自己とを同一視することによって、自己成長の様々な段階(認識能力の段階)が生み出され、また自分のいる段からの、自己と他者との変わりゆく様々な眺め、世界観が生じることになるとウィルバーは説明しています。そのような、意識の発達段階を極めて簡略化してまとめたのが次の表1で、世界観の要素としては自己感覚、自己欲求、道徳感覚が挙げられています。この表には、基本構造と発達段階の違い、自己と自己感覚との関係など、私にははっきり理解できていないことも多々あるのですが、しかし大まかなイメージをつかむには役立つと思うのでここで掲げておき、折々に見返すことにします。

表1(『万物の歴史』、p.221の記述をもとに加筆して作成しました)

 それでは、ウィルバーが『万物の歴史』で描くところの意識の発達の様子を、私なりに一度簡単に辿ってみます。

感覚運動期
感覚運動期では、運動をしながら、感覚・知覚で対象を認知していきます。そして、自分の指を噛むと痛いのに毛布を噛んでも痛くないというように、感覚と運動を通じて自己と外界との区別を知っていきます。この段階では、外界は感覚運動的に自己との違いが感じられるだけですから、構造的な世界観と呼べるほどのものはありません。そしてその欲求も、空気、水、食べ物などに対する生理的欲求にとどまります。

前操作期
前操作期では、周囲の環境や対象物を、イメージやシンボル、そして概念で認識するようになります。感覚と運動を通じての自分の体と対象物との物理的区別はすでにできていますが、新たに使い始めたイメージ、シンボル、概念といった自分の持つ認識素材と対象物との明確な区別はできていません。そのため、極めて自己中心的な認識を行い、行動も自己感覚も直截で衝動的とされます。
自己中心的な認識は、次のような事例によく表れているとウィルバーは『万物の歴史』の260ページで述べています。この時期の子供に、半面は赤色、残りの反面は緑色に塗られたボールを見せ、それを回して確認させます。そのあと赤色の面を子供に向け、反対側にいる大人には何色が見えているのか尋ねます。すると、赤色が見えていると子供は答えます。つまり、相手の視点に立っての認識は全くできていないし、対象とそれについて自分が現に持っているイメージ(丸くて赤いイメージ)との分化も明確ではないというわけです。
このように自己のみの視点から認識するので、外界は自分の思い通りになるというように極めて自己中心的に捉えてしまい、この時期の子供は世の中の慣習などに無頓着な、前慣習的な道徳感覚を持つとされます。それは、お呪いを唱えると自分の願いがかなうことになるはずだというような世界観に基づく道徳感覚です。そのためこの時期の世界観は呪術的とか魔術的とか呼ばれたりもします。また、この自己中心的段階での主要な欲求は、自己の安全ということになります。

具体的操作期
先ほどの前操作期で述べましたボールの実験を、具体的操作期の子供に対して実施しますと、子供は大人には緑色が見えていると答えるそうです。相手の視点に立っての認識が可能になったわけです。このように他者の視点を取ったり、あるいは世の中にある規則、役割を把握したりする能力が具体的操作です。そうして、子供は、多少なりとも、様々な規則・役割がある社会を一つの固定的な体系として理解し、その体系に則った世界観を構成するようになります。
ところで、封建的な社会などでは、その社会の体系の基本になる、疑問を持つことは許されない揺るがしようのない身分制度がありますから、ちょうど具体的操作期の世界観に合致します。そして、そのような固定的な考えは、各民族が持つ神話に基づいていたりしますから、この段階の世界観を民族中心的、神話的と呼んだりすることになっています。
自己認識に関しては、前段階の、物理的、身体的な認識から、社会における役割においての認識に重心が移っていきます(役割自己)。また自己感覚は、規則・役割に従うことを当然とする、順応的(適合主義的)なものとなります。そして欲求は、従うべき規則・役割を持つ組織への所属となります。また、道徳感覚は、所属する組織社会における慣習的なものになります。

形式的操作期
ピアジェの発達心理学では、現代の成人の認識能力は、形式的操作のレベルに達しているとされています。形式的操作期では、具体的世界を超え、あらゆる可能性を心に浮かべることができるようになります。例えば、『子どもの発達心理学』(高橋道子他著、新曜社、1993、pp.132~133)には次のような記述があります。

ピアジェはこどもたちに1,2,3,4のラベルがついた無色の液体が入ったフラスコと、Gというラベルのついた、やはり無色の液体の入った容器を与え、「混ぜ合わせて黄色をつくる」という課題を与えた。この課題は、何と何を混ぜ合わせるか組み合わせを考え、計画的に混ぜ合わせていかなければ解決できない。
前操作期の子どもたちはでたらめに混ぜ、すぐにあきらめてしまった。具体的操作期のこどもたちは多少は組織的で、Gの液体を4つのフラスコに入れてはみたが、やがてこれ以上は何もできない、とあきらめてしまった。だが形式的操作期と目される子どもたちは、より組織的で、論理的であった。彼らは組み合わせの種類を考え、紙に書きとめ、順にその組み合わせを試し、課題に成功することができた。

この例ではっきりおわかりになると思いますが、数学的に言えば、形式的操作の能力とは順列組み合わせを理解できるということです。
このような形式的操作の認識能力で自己の可能性を見ることで、人は自身を様々な役割から明確に差異化された存在として認識しはじめます。例えば、自分はサラリーマンでありまた父親であるというように、表面的には役割で描写できるとしても、将来自営業者になったり親権を失って父親でなくなったりして、他の役割を持ったり今の役割を失ったりする可能性を見てとれますから、役割に対して必然的な同一性を持たない本当の自己という概念も生まれるようになります。これがいわゆる自我の確立の段階で、人は個人主義的な自己感覚をもつようになります。そしてこのような可能性を他者にも見ることによって、人種や国籍や出自にはよらない基本的人権の思想も生まれてくるのでしょう。そして、この基本的人権を持った個人として認められることがこの段階での欲求となります(自己承認の欲求)。
また形式的操作期では、社会の体系に対しても、様々な可能なありかたを対比し、よりよいのはどれか、より現実に合うのはどれか、より人々の生活を豊かにするのはどれか、というように批判的に考えていくことができるようにもなります。そのため、批判の対象になりやすいドグマティックな要素を含む、宗教や民族を中心にした世界観ではなく、より普遍的な個人の権利に基づく、世界中心的な世界観をもつようになります。これが理性にもとづく合理的な世界観です。つまり具体的操作期、形式的操作期と進むにつれて多様な他者の視点をより広範にとれるようになり、自己中心性が克服されて、社会中心的(民族中心的)、さらには世界中心的な世界観を持つようになるわけです。
実はこの形式的操作という認識能力には、「バラバラを通じてつながりを見る」という、注目すべき特徴があります。そのことを次に述べたいと思います。

形式的操作の能力はバラバラを通じてつながりを見る
形式的操作の前段階である具体的操作期では、事物に関するあらゆる可能性を並列して眺めることはできませんから、それらの可能な在り方を対比して批判的に考えていくこともできません。そのため、例えば「すべては土と火と水と空気からできている」という神話的ドグマが与えられると、見えないところまで神話的な信念で固定的にとらえてすませたりします。ところが、理性を持つ(形式的操作の能力で事物を見る)人々は、神話的信念における見えない部分の無批判なドグマティックなつながりは一旦廃し、様々な事物が見た通りにばらばらにあるということから再度認識を開始し、それらにあらゆる可能性を見て取り論理的な仮説をつくり、検証することによって相互のつながりを考えていきます。ただその時、検証して知られた事物相互間のつながりは、手順としては調べた結果現れる二次的なものですから、基本的には「バラバラを通じてつながりを見る」ことになります。
図1を見てください。左の図は、事物のありのままのばらばらな様子を表しています。形式的操作でこれらの関係性に様々な可能性を想定しながら実際の因果関係などを観察し検証することで、真ん中の図のようにつながりが見えてきます。これが「バラバラを通じてつながりを見る」を簡単に図式化したものです。図1の真ん中の図と右側の図の関係に関しては、後でヴィジョン・ロジックという認識能力を説明する際に参照するつもりですのでとりあえず無視しておいてください。

図1

このような、「バラバラを通じてつながりを見る」見方では、例えば自然観は次のようになると思います。見た通りに私達がいて、そのまわりに自然環境があります。そして、様々なことを考え合わせていくと、私達の祖先は自然の中に自分たちの領域をつくりだし広げてきたのであり、また、いまだに私達は自然のものを食べたり使ったりして自然とつながり依存しながら暮らしているわけです。ですから、「私達は周囲に広がる(この大いなる)自然の一部なのだ」と。ここで注目していただきたいのは、結論のつながりを得るために、まずは私達と自然環境を分けて見ていることです。つながりは振り返って見たときに現れる二次的なものであって、自然は根本においては私達の外側にあるわけです。
スケールを大きくして自然を宇宙と置き換えると、「バラバラを通じてつながりを見る」見方では、私達は広大な宇宙の一部であると理解はしつつも、しかし根本において宇宙は私たちの外側に広がっていると見てしまうのです。実際私が宇宙との関係について問われたとすると、反射的に心に浮かんでくるのは、まずここにいる私、そして周りに広がっている地球環境、そしてはるかに広がる暗黒の宇宙空間というようなイメージです。そこには「私は自然や宇宙の一部としての現れである」というような発想はほとんどありません。しばらくたってからそういえば私自身この宇宙の一部なんだと考えたりするわけです。例えば、ビッグバンから始まる宇宙の進化の文脈の中で自分も現れたのだという知識を再認したりして、知的に私自身が宇宙の一部であることに納得するのです。

形式的操作を超えたヴィジョン・ロジック
ピアジェの認識の発達段階論をさらに発展させて考えているウィルバーによれば、形式的操作期の後にヴィジョン・ロジックという段階があることになります。彼は次のように述べています。

合理性とは、あらゆる可能な視点を並列させて考えることができる力だが、ヴィジョン・ロジックはそこに統一性を付け加える。(『進化の構造1』、ケン・ウィルバー、松永太郎訳、1998、p.293 原書は1995年出版)

形式的操作という認識能力では、ものごとに関する様々な可能性を並列して眺めることができた(合理的に考えることができた)わけですが、ヴィジョン・ロジックという認識能力では、一歩進んで、それらの可能性を統合的にとらえるようになります。あるいは合理的な探求の成果を、単に眺め渡すだけでなく、統合的な全体性の中に当てはまる要素として扱うことになります。そのため、この段階を統合的な理性のレベルと呼んだりします。
サングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹は、ヴィジョン・ロジック的な見方の例として、各国の政治的リーダーの思考形式を挙げています。合理性の段階にあるリーダーたちであれば、「自国の利益はこうだ」という意見を提出しあい、様々な立場の可能性を理解し、その間の矛盾を調整し、妥協点を見出そうとするのでしょうが、統合的な理性の段階のリーダーであれば、単純に矛盾を調整するというよりは、「いったいどういうあり方が、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」(岡野守也、『自我と無我』、PHP新書、2000、p.134)と最初から発想するようになっていると。これは、次のように言うこともできるかもしれません。理性では、「バラバラを通してつながりを見る」のですが、統合的な理性では「統合的な全体において、つながりや階層を見る」ことになるのだと。図1の真ん中では、バラバラな事物が前面にでて二次的につながりが見えているという形式的操作での認識の仕方を表しているのですが、その右側ではつながった諸事物がそこにおいて現れている全体が個々の事物と同等以上に前面にでて見えているというヴィジョン・ロジックでの認識の仕方を表しています。事物もそのつながりも、ヴィジョン・ロジックでは、統合的な全体における現れ(現象)と見るのです。
図1の真ん中と右側では、事物とそのつながりに関しては一見同じものが見えていると思われるかもしれませんが、ヴィジョン・ロジックでは形式的操作において背後に隠れて見えなかった統一体全体が、前面に浮かび上がり、質的変容が認識内容に生じるのです。この変容は、ステレオ録音されていたある曲をずっとモノラル再生で聞いていたのに、突然本来のステレオ再生で聞き始めて音の奥行きを感じた時の、聴覚感覚の変容に類似性を見ることができるのではないかと私は思ったりします。以上形式的操作の「バラバラを通じてつながりを見る」認識の仕方と、ヴィジョン・ロジックの「統合的な全体において、つながりや階層を見る」認識の仕方をかなり簡単に述べてきましたが、それらによる世界観の具体的あり方に関する精緻な議論に関しては、岡野主幹の『コスモロジーの心理学』(岡野守也、青土社、2011)の第二章の3「近代科学の<ばらばらコスモロジー>」と第三章の5「すべては一つである」を是非ご参照ください。
自己認識ということで言えば、合理性という前段階では、現実の役割とは必然的な同一性を持たない、様々な可能性を持った自己という見方が成立したわけですが、ヴィジョン・ロジックでは、そのような自己に至るまでの形成の歴史まで見通そうとします(つながりにおいて現れた自分を見ようとします)。そのため、順に獲得されそして差異化された身体的自己と心的な自己とはこの段階において階層的に統合されます。そこでウィルバーはこの段階の自己を半人半獣のキャラクターの名をとってケンタウロスと呼んでいます。
ウィルバーの考えを敷衍すると、世界観に関しては次のようなことも言えるようです。形式的操作の能力では、多様な文化を人類の可能な諸文化として眺め渡すことができ、ポストモダンの多文化主義に達します。ただそこでは、先史時代とそれほど変わらない文化も、高度な合理的な文化も、発達のレベルの違いはあまり考慮せずに「すべての姿勢が平等である」(『万物の歴史』、p.285)ように扱う傾向があります。それに対してヴィジョン・ロジックによる統合的理性の段階では、それら様々な文化を、単に並列的に眺めるのではなく、そのレベルの高い低いも見通して、階層も含んだ統合的構造において扱うようになるはずだと。このような統合的理性の段階での世界観に何か名前を付けるなら、統合的多文化主義とでも言えばよいのだと私は思います。
また合理性段階での自然観について述べた際に、自然とのつながりは二次的であるとしましたが、ヴィジョン・ロジックの統合的理性では、自然との統合的な全体性(生態学的つながり)の方こそが一次的で、個々人はその全体性における現れであると把握されることになります(図1参照)。そうしますと、人間に配慮することは、本来一体である自然そしてあらゆる動植物も配慮することになり、この世界観に基づく道徳観は、人間の普遍的な権利(基本的人権)だけではなく、動植物を含むあらゆる存在にもそのレベルにふさわしい権利を認める地球中心的なものとなるでしょう。
また、ヴィジョン・ロジック段階では、自己は、理性段階で把握されるような様々な可能性を持った自由な個人でありつつも、より本来的には他者を含む世界と不可分な存在なのですから、この段階の人々は、自らの役割に関する様々な可能性の中から、自他共に対して利をもたらすような、自分の使命と思えるような役割を見出し従事したいという、自己実現の欲求をもつことになります。このようにヴィジョン・ロジックの段階では、統合的な全体との不可分性を本質だと了解する個的意識の段階に達するのですが、発達がさらに続くと、個を超えた自己超越と呼ばれる意識の段階に入り込むとウィルバーは考えています。しかし自己超越の領域は、この稿の目的であるトランスヒューマンの意識の説明に直接的に関係するとは思えなかったので省くことにします。ただし、アタリはトランスヒューマンを超えた「生命そのもの」という存在について『21世紀の歴史』の302ページで触れています。それは、全生物をその部分とする、人間の意識を超えた統一的意識を持つ地球規模の統一体のようです。それについて探求しようとする場合には、おそらく自己超越の段階に踏み込むことも必要になるとは思います。
以上ウィルバーの著作『万物の歴史』に述べられている意識の発達論の概略を、自己超越段階を除いて述べてきましたが、そこではあたかも認識能力、自己、そして自己感覚・自己欲求・道徳感覚などの世界観が同時並行的に発達するような印象を皆さんに与えてしまったと思います。しかしそれは、『万物の歴史』でウィルバーが意識の発達を梯子と登り手と眺めというわかりやすい譬えを使って説明しようとしたために生じたことにすぎません。現実には、認識能力のレベルとは異なるレベルの世界観、倫理観を示す人が多々見受けられたりします。例えば、形式的操作やヴィジョン・ロジックの認識能力を使って自然科学的な成果を得ている人たちの中にも、神話的な世界観に基づく原理主義的倫理観を示す人が見受けられたりします。そうした発達のずれが生じるということを、ウィルバーはラインという概念を導入して明確にしています。

ウィルバーの意識の発達段階論――ラインということ

 人の意識、内面の発達に関しては、すでに言及しました認識、自己、欲求、道徳などのほかにも、スピリチュアリティ、感情、美学などの様々な側面があるとウィルバーは述べています。図2は、ある個人について、いくつかの側面がどのように発達しているのかを想定してみた棒グラフです。縦軸は発達の度合いを表しています。

図2.統合的な意識のグラフ(Integral Psychology, p.30 Figure2を参考に作成)

 一般的に、意識の各側面の間には、この例にみられるように、発達のレベルにずれがあるとウィルバーは考えています。このずれを生じたりする意識の各側面を、彼は意識のレベルを通じて独立に発達するライン(Line)あるいは流れ(Stream)と、Integral Psychology, Ken Wilber, Shambhala, 2000 などの著作では呼んでいます。
その様々なラインの一例を、『インテグラル・スピリチュアリティ』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、2008、P.93) から引用しまとめたのが表2です。各ラインの発達段階(レベル)は、そのラインに特有な人生の問いに対する答えから知られますので、それらの問いと、代表的な研究者(あるいは学説)の名前も付記しておきました。

表2

この、新しく導入されたラインについて説明していきたいと思います。

認識というラインは含んで超えるという発達の在り方をし恒久的構造を持つ一方、その他のラインは移行構造を持つ
まず認識の発達の仕方に注目し、その特徴を確認したいと思います。すでに述べましたように、認識のラインは意識の基本構造とほぼ重なるようですから、Integral Psychologyの巻末にありますチャートの基本構造の欄を参考にその発達段階を書いてみます。

1.感覚 2.知覚 3.衝動・情動 4.イメージ 5.シンボル 6.概念 7.具体的操作 8.形式的操作 9.ヴィジョン・ロジック 10.自己超越的

これらについて、例えば次のようなことが言えます。個物を表象する5のシンボルの能力が既にあるからこそ、それに付け加わって、ある種の個物の全集合を表象する6の概念の能力が機能し得るわけですし、またその概念の能力があるからこそ、それに付け加わって、概念を操作し規則を形成したり把握したりする7の具体的操作の能力は機能し得るわけです。このように、認識のラインは、含んで超える発達をするわけで、あるレベルに達したということは、それ以下のレベル全てが恒久的に機能し続けることを意味します。
この含んで超えるという発達をする認識能力と一体化して自己が発達し、また世界を見ることで世界観の要素である自己感覚、欲求、道徳などのラインが発達していくわけですが、それらは、認識のラインのように、下位のレベルを含んで超えるのではなく、否定して排除するように現れてくるとウィルバーは考えています。例えば、表1にある自己の発達を取り上げますと、成熟した自我は、役割からは自由な自分というものですから、その前段階の役割としての自分とは相容れないわけで、成熟した自我であるときには、役割としての自己は本質としては否定されていて、同時に存在しているわけではないのです。倫理においても、社会中心的であるということは、その前段階の自己中心的であることを否定・排除して現れます。そこで、自己や世界観などの発達は移行的であると言われることになるのです。結局、表2における認識のラインでは、あるレベルに達したということは、それ以下のレベル全てが恒常的に機能し続けて恒久的な構造をなしていることを意味しますが、その他のラインでは、新しい段階は前段階を否定・排除して現れ移行構造をなしていると考えられているのです。
ただし、ウィルバーは明確に述べてはいませんが、移行的であっても、下位のレベルは消えるわけではなく、上位のレベルが現れているときには表面化しなくなるということにすぎないのだと思います。実際、普段非常に合理的な価値観を示す人も、地元のサッカーチームの試合を観戦しているときなど、地域中心的な価値観が表面に浮かびあがっていて、口汚く相手チームを罵ったりする場合があります。このようなことから、下位のレベルにおける価値観がなくなったのではなく、上位の価値観が表面に現れているときには深層に隠されて見えなくなっていると考えるべきだと思うのです。ウィルバーも『万物の歴史』の220ページで、道徳(倫理)の発達に関してのコールバーグの研究では、その人が達しているとされるレベルが示される割合は実は50パーセント程度に過ぎず、それぞれ25パーセント程度の割合でその上下のレベルが示されることになっていると述べています。

ライン間における「必要であるが十分ではない」という論理的な関係
ところで、高度な機能に対応できる極めて複雑な電子回路を持つコンピューターが用意されていても、実際にそのコンピューターで作業するためには、ソフトがインストールされ、作業目的に合うように電子回路のスイッチが入ったり切れたりする必要があります。人の場合も類似的なことが言えると思います。赤ん坊は複合新皮質までの構造を持っていて、その構造が将来形式的操作などの認識能力を持つ可能性を用意していると思いますが、その可能性が実現するためには、様々な経験を重ねて認識能力が含んで超えていくように発達する必要があるわけです。認識のラインが意識において発達するには、身体において複合新皮質の構造機能的な発達が先行している必要があるのでしょうが、それだけでは十分ではなく、様々な経験を重ねることも必要なのです。論理的な言い方をしますと、身体の構造機能的な発達は認識のラインの発達に対して「必要であるが十分ではない」という関係にあるわけです。『統合心理学への道』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、2004)には、そのような関係性が、ライン間でも成り立つ場合があることが書かれています。

身体機能的な発達は、認知的発達にとって必要であるが、十分ではない。同じく認知的な発達は間人格的な発達に対して、間人格的な発達はモラルの発達に対して、そしてモラルの発達は善の観念の生成に対して、それぞれ必要であるが十分ではないという関係に立っている。(p. 570)

内面、意識には、すでに述べましたように、様々な側面、ラインがあります。それらが発達するには、身体機能の発達が前提となるのですが、それに続いてまず発達していくのは認識のラインであり、その他のラインは認識のラインの発達を前提として発達していくとウィルバーは考えているのです。その理由はウィルバーによれば引用文にもあるようにライン間に「必要であるが十分ではない」という関係があるからなのです。
様々なラインを表記した表2を再び見てください。認識のラインでのレベルは「何に気づいているのか」という問いに対する答えから特定されるのですが、その他のラインでの問いは、その気づいているものに関して、さらに問う形になっています。例えば、価値のラインであれば、「気づいているものの中で、何が重要なのか」と問うことになりますし、欲求のラインであれば、「気づいているものの中で、何を欲しているのか」と問うことになります。このように認識(気づけるものの範囲)のラインの発達が、その他のラインの発達に対する前提となるわけです。まず、認識能力のラインがあるレベルに発達し、その後に別に必要な条件が満たされて初めて、その他のラインが同じレベルに発達することになるわけです。すなわち、論理的には、認識の発達は、その他のラインの発達に対して「必要であるが十分ではない」わけです。これが、諸ラインの発達の様子を表す心理グラフ(図2がその一例)において、常に認識の発達のレベルが最も高く位置していることの説明となります。
この「必要であるが十分ではない」という関係が、認識以外の他のライン相互の間にも成立する場合には次のような例があります。自己は、「私とは誰か」という問いに対する答えからその発達のレベルが知られるラインですが、価値、倫理、人間関係、欲求などのラインでは、問いは全て「私」に関してたてられています。つまり、「私とは誰か」という問いの答えが前提となって、それではその私は、例えば、何を欲しているのかという問いがたてられ、欲求の発達段階が知られるということになります。従って、自己の発達は、価値、倫理、人間関係、欲求などの発達に対して、必要であるが十分ではないのであり、それらのラインの発達段階は、自己の発達段階より上にまで発達していることはあり得ません。
また、倫理のラインでの問いは「何をすべきなのか」ですが、これは、属している社会のなかで、人としてどのようにふるまうべきなのかということですから、人間関係のラインでの「どのように人と交流すべきなのか」という問いの答えが前提の一つになるでしょう。例えば、「身分にふさわしい態度で交流すべき」という人間関係が慣習的なレベルに倫理が発達するための必要条件の一つになるでしょう。ですから、倫理のラインのレベルは、人間関係のラインでのレベルより高くなるということはあり得ません。また、倫理は、先ほど述べましたように自己の発達を前提としていますから、自己のラインでのレベルより高くなることもないわけです。
様々な関係がライン間にはあるとは思います。しかし、発達のレベルの違いを考える上での基本的な関係性が、この「必要であるが十分ではない」というライン間の論理的な関係だとウィルバーは考えているのです。この意識の発達の要素間における論理的関係は、『万物の歴史』でもある程度述べられてはいました。しかし、ライン間の独立性を相対的なものにする、明確な関係性として扱われるのは Integral Psychology 以降のことです。

以上、ラインによって発達のレベルにずれがあることについて、いくつか付加的な説明をしてきました。意識の発達に関しては、ウィルバーはもっと様々なことを述べています。すでに説明を省略するとしました自己超越の段階がありますし、意識の状態というもう一つの一種の意識の発達段階の概念もあります。この意識の状態の発達段階とこれまで説明してきた通常の意識の発達段階を組み合わせて、ウィルバーはさらに様々な意識の現れ方のパターンを提示しています。ただ、それらはトランスヒューマンの説明には直接的に関係すると思えないのでやはり省略することにしました。ウィルバーの意識の発達段階論に関してその全体像に興味がある方は、本ホームページ所載の「ウィルバー思想の探求」の第5章、第6章、あるいは「サングラハ第117号」掲載の「ケン・ウィルバー―コスモスの地図の製作者7」を参照してください。

現代人の状況
ウィルバーの意識の発達段階論の重要なポイントは、認識能力がまず発達し、そうして様々な事象を扱い体験することで、そのほかのラインも、獲得した認識能力のレベル以下のいずれかのレベルまで発達できるということです。その際、各人ごとに関心の持ち方や周囲の環境(交流する人々のレベル、暮らしている社会のレベル)は様々なのですから、認識能力の発達の度合いも、ライン間の発達の度合いのずれ方も、当然様々になるでしょう。
ただし、ある程度一般化できることもあるでしょう。普段接する両親が形式的操作レベルの認識能力を頻繁に使う家庭で育つ子供の認識能力は、形式的操作の認識能力までは順調に発達し、しかもその能力に卓越するようにもなりやすいと思います。ところが、両親が形式的操作レベルの認識能力よりも具体的操作レベルの認識能力を頻繁に使っている家庭で育つ子供は、具体的操作には卓越できても、形式的操作はうまく使えないで終わりやすいと思います。ただ現代社会では学校制度が整っていますから、義務教育年齢以降は家族以上に学校の教育内容が認識能力の発達に大きな影響を与えると思えます。そうしますと、学校のカリキュラムは、特に数学などでは、ピアジェ等の認識の発達理論なども考慮して組み立てられているようですから、仮に大学までの教育を受けた人であれば、認識のラインに関しては、おそらく形式的操作には卓越し、ヴィジョン・ロジックもそれなりに使えるようになっていると思います。ウィルバーによれば、周囲の環境が十分適切であれば、人間は7歳~12歳ぐらいで具体的操作、12歳~21歳ぐらいで形式的操作、21歳~28歳ぐらいでヴィジョン・ロジックの認識能力を獲得するようです(Integral Psychology, p.201のチャートを参考にしました)。
世界観の発達に関しては、社会の在り方がどうなっているかが大きな影響を与えると思います。合理的なシステムを持つ社会(例えば基本的人権の尊重を重視する社会民主主義的社会)において人が認識能力を形式的操作まで順調に発達させたなら、当然合理的な世界観を持つようになっている可能性が非常に高くなるでしょう。ですが、認識能力が形式的操作まで発達していても、生活している社会が封建的な社会であれば、合理的な世界観を持つことは難しく、民族主義的な世界観を持つに終わる可能性が高いでしょう。あるいは、形式的操作を超えてヴィジョン・ロジックまで使えるようになっていても、現実の社会がヴィジョン・ロジック段階のグローバルに統合された超民主主義的な社会にはなっていなければ、その人は意図的に超民主主義的な世界観を持つ人々によるサークルなどに所属しない限り、世界観をヴィジョン・ロジック段階に発達させるのは困難だと思えます。
以上の想定をもとに実際のところを考えてみたいと思います。先進国の場合、大学の進学率は50%程度にはなっていますので、その卓越度はともかく、大部分の人々がヴィジョン・ロジックの認識能力まで獲得しているのだと思います。また、先進国の人々は基本的人権が重視された民主主義的な合理的社会で育っていることから、世界観も合理的なものに発達させ得る条件はそろっていて、現実に多くの成人は合理的世界観を持っていると思います。とはいうものの、先進国においても、民族主義的あるいは神話的な世界観を持っているらしい人は多く存在しますし、また逆に、超民主主義的な世界観を持つらしき人も多く存在します。ですから、先進国では、50パーセントぐらいの人は形式的操作のレベルの認識能力をおもに使用して周囲を見渡し合理的で脱慣習的な世界観を持ち、25パーセントぐらいの人は、具体的操作のレベルの認識能力をおもに使用して神話的あるいは慣習的な世界観を持ち、やはり25パーセントぐらいの人は、ヴィジョン・ロジックレベルの認識能力をおもに使用して統合的あるいは地球中心的な世界観を持っているぐらいに考えるのが適当のように思います。どのレベルの世界観を持つようになっているのかについてはこのように多様性があるように思えるのです。この多様性が際立つと社会が分断状況をなす一因になりかねないと思います。
2017年6月2日にトランプ大統領が、気候変動に関するパリ協定からの、アメリカの離脱を表明しましたが、その直後から気候変動に関するパリ協定に賛成する地球中心的な世界観を持つ人々と、トランプを支持するアメリカ中心主義的な世界観を持つ人々との分断状況がアメリカにおいては深刻化し始めている様子が見受けられます。これなど、世界観のレベルの違いが際立って現れた現象の一例だと解釈することもできると思えます。

競争的で利己主義的な倫理観を持つクリエーター階級から調和的で利他主義的な倫理観を持つトランスヒューマンはどのように生まれるのか

 利他的で調和重視的な倫理性を持っているトランスヒューマンが競争的で利己主義的なクリエーター階級から登場することを、ウィルバーの発達心理学で説明できるというのが私の考えで、その準備として、まずトランスヒューマンとは何かについて確認し、次にウィルバーの意識の発達段階論について述べたわけです。いよいよ目標としていた説明をするために、このあと次の順序で述べていきます。クリエーター階級をウィルバーの理論で説明するとどのようなことが言えるのか。トランスヒューマンをウィルバーの理論で説明するとどのようなことが言えるのか。それらの検討からどのようにしてクリエーター階級からトランスヒューマンが生まれると説明できるのか。

クリエーター階級をウィルバーの意識の発達段階論で理解する
クリエーター階級とは、国境を越えて活躍することができる、リーダーシップと実行力に溢れた起業家、発明家、芸術家、金融業者、政治家などであり、利己主義的な傾向や、自分たちが世界の所有者であると考える傾向が強い人々であり、彼らにとって市場における他者とは、「ライバル(希少な財をめぐって論争する敵、自分の自由を構築する際の敵対者、一切の知識を共有しあってはならない相手)」(『21世紀の歴史』p.291)なのだと先に述べました。
クリエーター階級のビジネスエリートは、グローバルな市場経済において成功を収めていることから、強い関心を持つ領域(ビジネス)に関しては、単に様々な可能性を並べてより有利な方向性を見出すだけでなく、それら可能性を組み合わせて、統合的な戦略を見出す能力まであるように思います。すなわち、彼らは、最も関心のあるビジネスに関しては、形式的操作を駆使して様々な可能性を見出すにとどまらず、ヴィジョン・ロジックをある程度使いこなしているのではないかと想像します。
ただし、一般的な世界観に関しては、形式的操作能力を働かすことによって獲得できる合理的なレベルにとどまっていると思います。彼らは、個々人が能力を存分に発揮して生きる、自由主義的、そして個人主義的な道徳観を持っていることから、形式的操作の「バラバラを通じてつながりを見る」見方に合致する世界観をもっていると想定できるからです。もちろん個人重視ということは、すべての人に基本的人権を認め福祉の重要性を認めるということでもありますが、他面においては、能力にふさわしい報酬も認め、大きな格差も許容することになるでしょう。そして、世界観の一部である自然観も、根本においては自分と分離したものと見ているでしょうから、生態系のつながりの知識などを与えられても、環境保全の緊急性を実感しにくい人々なのではないかと思われます。

トランスヒューマンをウィルバーの意識の発達段階論で理解する
先にまとめましたように、トランスヒューマンは、合理的に物事を理解する能力をもち、リーダーシップ、実行力があります(これらはクリエーター階級と共通しています)。そして人間相互のつながりのみならず、地球全体の生態系におけるつながりが個々人の存在の前提になるということを深く理解し、利他的で調和重視的な倫理性を持っています。この倫理性とクリエーター階級と共通するリーダーシップ、実行力が結び付き、彼らは持続可能な社会(超民主主義社会)形成に向けて実質的な行動ができる人々なのです。
トランスヒューマンはクリエーター階級から生じるということなので、認識能力はヴィジョン・ロジックまで発達しているのでしょう。しかし個人主義的ではなく、他者や自然とのつながりを重視する世界観、道徳観、価値観を持っていることにおいてクリエーター階級とは異なっており、これは、特に関心のある領域のみならず、世界一般をヴィジョン・ロジックの能力で見ているためだと思われます。そのためトランスヒューマンは、個人を他者や自然とつながった統合的な全体があってこそ存在し得るものと見なし、自分と同等以上に統合された全体を尊重し、調和重視的で利他主義的な倫理観を持つようになったのだと思います。

どのようにしてクリエーター階級からトランスヒューマンは生まれるのか
ある分野に関心を持ち多大な努力をしてきた人も、その目標を達成してしまうと、別の分野に関心が向くことはかなり一般的な人間の傾向ではないでしょうか。ビジネスに強い関心を持っていたクリエーター階級も、個人差はあるものの、一定程度富や地位をなしてしまえば、関心が多少とも他の領域に向かうのは当然だと思います。
この満ち足りて寛容になり、新たなやりがいのある分野を探しているクリエーター階級の前に、当然その富や地位を利用しようと近づいてくる様々な人々が現れるでしょう。その中には、リーダーシップや行動力はさほどなくても、ヴィジョン・ロジックで形成された生態学、宇宙論などの現代科学の知識を持ち、環境問題の深刻さを知り、その解決を促進する機会をうかがっている知的な人々がいるはずです。そうした人々が満ち足りたクリエーター階級に近づき、ヴィジョン・ロジックを使って知的経験を積み重ねさせると、世界観の質的変化がおこり、利他的で調和的な倫理観を持つようになることは十分考え得ると思います。そして彼らが持ち前のリーダーシップや実行力と富や地位を使い、社会システムを超民主主義的に造り変える運動を始めることになるのは自然な流れではないでしょうか。こういう筋書きを私は考えたので、クリエーター階級からトランスヒューマンが現れるというアタリの考えに唐突さを感じなかったのです。
ちなみにアタリが挙げているトランスヒューマンの具体例はメリンダ・ゲイツ、マザー・テレサなどです。マザー・テレサはクリエーター階級出身とは言えないのでしょうが、メリンダ・ゲイツはクリエーター階級出身のトランスヒューマンに十分当てはまると思います。環境問題に対する人々の意識啓発に熱心なゴア元副大統領なども具体例として挙げることができるかもしれません。

(この稿は、2017年7月25日発行の「サングラハ第154号」に掲載したものをもとにしました)