書評 『日本をどう変えるのか―ナショナル・ゴールの転換』
増田満
これまでサングラハ誌では、ミュルダール、広井、ピケティ各氏の社会改革案をご紹介してきました。彼らは格差の解消あるいは平等を実現するための政策を提唱し、生存権が重視された福祉社会を希求しています。そのため、ほぼすべてを市場にまかせる自由民主主義的放任型市場経済ではなく、福祉社会に必要な制度やルールで市場を規制する社会民主主義的混合経済が望ましいとしています。
今回ご紹介する『日本をどう変えるのか』(NHKブックス、1999年)で正村公宏氏は、経済成長という目的を果たした日本が成熟社会(国民生活の安定と安全とバランスを重視する安心感のある社会)を築いていくために、社会民主主義的混合経済がよりよく機能する改革を呼びかけており、基本的には上記三氏と同様に考えています。ただし、税制の軸足をフローからストックに移すことや相続税の強化には消極的で、消費税の強化を重視しています。この点では特に広井氏の考えと対照的です。
また正村氏の考えは文明史的な広がりを視野にいれており、日本が成熟社会という新たなナショナル・ゴールの達成に成功することは、ヨーロッパに発する自由、人権、民主主義を軸とする近現代文明が、地球規模に広がる大きな動きの起因になると考えています。
前提とすべきは「人権、自由、民主主義」という価値と環境保全と混合経済
価値前提は人権、自由、民主主義
本書(『日本をどう変えるのか』)によれば、「人権」の思想とは、身分・資産・所得・人種・性・職業などによる差別の撤廃を要求するものであり、「自由」の思想とは、自由に意見を述べる権利と各種の団体を結成する権利の保障を要求するものです。そして「民主主義」とは、国家の統治を国民の代表と認めることができる人にゆだねる原理です。現在地球全体の人権の保障状況は不十分であり、それをあらゆるところで強化する努力が必要だともされています。
また本書では、21世紀は民主主義から派生した「社会主義」や「共産主義」などの「イデオロギーとしての民主主義」(デモクラティズム)につきまとっていた幻想を打破し、「制度としての民主主義」(民主制、デモクラシー)を「地球規模の経済問題・社会問題・政治問題の解決のために機能させることに人類が成功するかどうかが問われる世紀」(p.8 以下断りがなければ引用は『日本をどう変えるのか』からです)であるとしています。民主主義の手続きに即して地球規模で自由・人権の思想を具現化したり、あるいは地球温暖化問題を解決したりすることが21世紀の人間に求められているというのです。正村氏にとって「人権・自由・民主主義」という価値は、将来の日本のあるべき姿を考える上でのゆるぎない前提なのです。
資源・環境の制約に対応した持続可能な社会をつくるというグローバルな課題
本書は、近現代を人権・自由・民主主義を求める動きが地球規模に広がった時代であるとする一方で、近現代文明の重要な特徴には生産力の急速な発展があったとしています。その結果としての大量生産大量消費に至る過程で、排出された有害物質による公害、再生不可能な資源の急速な減少、本来再生可能であった自然林や海洋生物などの再生不能化、生態系のバランスの崩壊による生物遺伝子的多様性の破壊等々、さまざまな環境破壊が起き、そのため「資源浪費的・環境破壊的な20世紀型文明を克服し、資源節約的・環境保全的な21世紀型の文明を創造することが、切迫した課題になりつつある」(p.6)とします。
前節で述べたことからすれば、民主主義の手続きに従ってこのような課題を解決していくことが求められるのでしょうが、そのためには、「地球上の広い範囲から大量の鉱産物や農林水産物を輸入し、大量消費によって環境の破壊と汚染を促進している」(p.90)先進国の政府と国民は、地球規模の資源問題と環境問題に対し相応の責任を負わなければならないので、完全な国際的同意形成が困難であっても、「責任」と「イニシアティブ」の原則にもとづいて先進的対策を講じ、段階的に世界に普及させる手法をとることが必要だと本書は主張しています。すなわち、「地球と人類に対する責任が問われ、『地球市民』の倫理が問われる」(p.87)というのです。
先進国の一員として日本も日本人も、このような自国の利益よりも地球全体の利益を優先させる責任と倫理が問われていると正村氏は考えています。環境保全も日本のあるべき姿を考える際の前提の一つなのです。
混合経済は自由、人権、民主主義の価値と環境保全の両前提に適合する
本書とは別の著作『現代の経済政策』(東洋経済新報社、1997年)の17ページで、「市場経済の最大の長所は、個人の自由な選択が保障されることである」と正村氏は述べています。経済活動における自由は市場経済と不可分な関係にあり、それを基盤としてこそ言論・思想・学問・信仰・文化・政治における自由も保障されるという考えがそこに込められています。しかし放任的市場経済のもとでは、人々の間に非合理と思わざるを得ないほどの多大な格差が生じたり、人間らしい最低限度の生活を営む生存権が保障されない可能性が生じたりします。そのために17世紀の救貧法から始まり、各種の社会保障制度の確立にいたる公共的なセーフティネットの発達がみられ、市場経済にたいする介入が試みられてきました。その結果「20世紀後半の先進国の国民は、自由民主主義(政治的民主主義)に社会民主主義(経済的民主主義)を付け加えることが人権・自由・民主主義を擁護する実際的方法であることを理解する」(p.189)ようになり、経済システムの標準は放任主義的経済から混合経済へと移行し、市場経済の不均衡・不安定・不均等を是正するための制御は政府の責任であると考えられるようになったと本書は述べています。
ところで前節で市場経済に任せて大量生産・大量消費を続けるなら環境の保全が不可能になり、持続可能な社会をつくることはできないだろうことを述べました。人権の保護のためだけでなく、環境保全のためにも公の規制が行われる混合経済が必要とされるのです。結局21世紀の社会は、「人権、自由、民主主義の価値」、「環境保全」と並んで、「混合経済システム」も前提とすべきだと本書は考えているのです。以下では、そのような前提のもと、本書が挙げている日本社会の問題点とそれに対する改革案ついて、ナショナル・ゴールの転換という中核的なテーマから順に概略を見ていきます。
経済成長というナショナル・ゴールと成熟社会という新たなナショナル・ゴール
本書によれば、20世紀前半の日本政府にとっては帝国主義の克服が課題とされるべきであり、「民主主義の原則にもとづく新しい社会システムと平和主義の原則にもとづく新しい外交路線を追求することが、『必要』でもあり、『可能』でもある唯一の選択」(p.12)だったのですが、結局は国家主義的勢力が近隣諸国に対する無謀な侵略を始め、アジア・太平洋地域における大戦争を引き起こしました。
敗戦後、アメリカのもとで戦前に必要とされた改革の多くがなされ、「経済成長」が日本のナショナル・ゴールになりました。それについて本書では次のように書かれています。
大戦後の世界は、日本の経済成長を許容した。国連・国際通貨基金・世界銀行・GATTなどの国際機関が設立され、新しい国際秩序が構築されていた。東西対立が先鋭化するなかで、アメリカの対日政策は日本の経済的・政治的安定を優先する方向に変化した。日本の産業は欧米で開発された新しい技術を一挙に導入することができた。大戦前からの日本の資本・人材・組織の蓄積は経済の復興と成長を容易にした。経済成長は、「必要」であるだけでなく「可能」であると判断されたからこそ優先的な国民的目標(ナショナル・ゴール、国民が共有する目標)として選択された。(pp.12~13)
そして大戦後の日本の社会システムは経済成長に関しては大成功をおさめ、近現代史全体を通じて日本人が追求してきた「先発工業国に追い付く」という目標は、年々の「生産」とか「所得」とかいった指標に関しては達成されます。そうして国全体が豊かになった今、少子化による人口減少と資源と環境の制約に配慮しなければいけないことを考慮すれば、低成長あるいはゼロ成長への移行が確実であり、「成長経済から成熟社会への国民的目標(ナショナル・ゴール)の転換」の「必要性」と「可能性」が鮮明になっていると本書は結論します。そして新しいナショナル・ゴールが成熟社会の達成であるなら、それにふさわしい制度がつくられ、それら制度の組み合わせである新しい社会システムが構築されるのは当然です。これは社会システムの改革です。
ところで経済成長というゴールを達成する過程で旧システムは様々な課題をもたらしました。その原因は、おもに経済成長最優先に伴った中央集権の強化およびなおざりにされた地方自治の確立にあると本書では考えられています。戦前に遡れば日本の指導者は「必要性」と「可能性」を読みそこない、客観的に許容できない目標と手段を選択し、国家を破滅へと導きました。もし現在の日本の指導者が成熟社会の必要性とその可能性を見きわめ、経済成長達成の過程で生じた問題の解決に成功するような改革を進めなければ、再び国家を破滅へと導くというのが本書の主張です。
以下、旧システムでもたらされた課題と本書が提案する新システムが採るべき対策について触れていきたいと思います。
中央集権強化による弊害とその対策
「『開国』と『維新』に始まる一世紀半の日本近現代史の全体を通じて、東京に権限と財源と人間と情報を集める中央集権は、後発工業国型の経済発展という目標に関しては相応の『成功』を保証」(p.212)しました。そのため、経済成長と産業の国際競争力が優先課題とされた第二次大戦後、中央集権はさらに強化されます。そして行政機関と個々の産業界が一体になった協調体制による、行政官の裁量に依存する既得権擁護型の産業政策が政治家達の介入を誘発します。彼らはときには個々の業界の意向を受けて中央・地方の行政官に働きかけ、政治資金と票を集めるようになり、地方のあらゆる問題を中央に持ち込んだため、「地方にたいする中央の干渉が強められ、地方の事業にたいするこまごました補助金が中央の予算に盛り込まれた」(p.34)と本書は述べています。
中央集権強化による弊害とその対策1 社会的ルールの軽視という問題
行政機関と個々の産業界が一体になった協調体制では、「透明性の高い社会的ルールにもとづく管理の必要は無視された」(p.33)と本書は述べています。環境汚染の防止や医薬品・食品の安全のためのルール、私的独占の禁止と公正取引のためのルール、労働基準に関するルール等々市民の安全を守るルールが軽視されたのです。そうして、公害病、労働災害、危険な医薬品・食品による被害、交通災害などの問題が生じたと考えられています。
また行政官の裁量に依存する既得権擁護型の産業政策の典型例には、「経営体質の弱い銀行を倒産させないように、金利(預金金利と貸出金利)だけでなく、支店の配置まで統制して、競争を制限」(p199)する「護送船団方式」や、「コメが過剰になって『減反』(作付面積の制限)が必要になると、気候や土地の差異にかかわりなく全国一律の減反を強制するという効率を無視した」(p.199)農家の保護政策があります。こういった産業政策が政治家の介入を誘発し、政治家も選挙民も「透明性の高い公正なルールを設定して厳守することが重要である」(p.200)と考えないようになってしまったと本書は主張します。
そこで本書では、「行政機関による裁量的・恣意的な助成・保護・規制を撤廃し、公正なルールにもとづく監視・監査を強化しなければならない」とし、「私的独占の禁止と公正取引、公害防除と環境保全、医薬品・食品の安全、自動車・鉄道・航空機の安全、労働基準と労働基本権の保障、金融機関の健全な経営と預金者保護、住宅の安全と快適のための地域開発などに関する規制」(p.188)の強化の必要性を訴えています。すなわち適切な社会的ルールにもとづく厳正な監視・監査のもとでこそ社会の基盤である市場は有効に機能するのであり、不要な規制を緩和する一方で規制強化を行う規制改革こそが求められていると本書は主張するのです。
中央集権強化による弊害と対策2 自治の思想の風化と国会議員の質の低下の問題
分権と自治に関する本書の基本的な考え方は次の一文に表明されています。
「自治」は民主主義の土台である。民主主義は、社会の構成員のあいだの意見や利害の対立を、暴力や脅迫によってではなく、公然たる討論と無記名の投票によって調整する集合的意思決定の制度である。この方法を有効に活用するためには、「政府」が人々から遠く離れた(補助金をとってくるための)「陳情と交渉の相手」として存在するのではなく、人々の手の中にある社会的装置として、自分が参加している組織を代表する「自己統治の機関」として、目の前に存在する必要がある。(p.213)
ところが経済成長という国民目標と中央集権強化のもと、行政機関と個々の産業界の間で既得権擁護型の結びつきが形成され、そこに政治家が介入し地方のあらゆる問題を中央にもっていくようになり、そのために人口が急増した都市と人口が急減した農山漁村の両方で、大戦後に制定された憲法における自治の思想は風化し、分権の制度は形骸化し、「民主主義の機能不全がますます深刻になった」(p.76)と本書は指摘しています。すなわち自分たちが社会を運営し変革する主体だという民主主義的国民意識が十分に実現されなかったのです。そのため分権と自治の確立はいまだに日本の基本的課題として残ったままなのです。
この弊害を克服するには、中央政府が担当してきた仕事の主要部分を地方政府(または州政府)にゆだね、都道府県が担当してきた仕事の主要部分を自治政府(市区町村)にゆだねることが必要だと本書は主張します。特にサービス供給については、農山漁村と大都市圏では状況が違うので、大胆な分権性を追求すべきだとします。要は上位の公共団体の仕事は下位の公共団体の仕事の補完に徹するという「サブシディアリティの原則」を厳守すべきだというのです。税源についても、「自立」(独立)と「自律」(自己規律、住民自治)の原則を確立するには地方への移譲が必要だとします。
このように、民主主義確立の観点からは、「『ネーション・ステート』(国民国家)に組み込まれている諸地方の文化多様性の基盤となる分権と自治の確立が不可欠」(p.216)なわけですが、同時に地球規模に拡大した市場経済の問題や環境問題を扱うためには当然ネーション・ステートを超えるグローバルな連携と協力が不可欠でもあります。そのため本書では、「地球史における21世紀は、『ネーション・ステート』の相対化の時代である」(p.216、太字は引用者による)としています。国家はそれ自体で成立するようなものではなく、より包括的なグローバルなつながりにおける一構成要素であるべきであり、そしてまた自立した地方政府という内部の構成要素からできているべきなのです。このような多層的な構造が21世紀では人々に深く理解されるべきだと正村氏は考えているのでしょう。
また、政治家が集票と集金に駆け回ることで、「国会議員の多数は、国家全体の針路にかかわる政策決定の意義をわすれて」(p.35)しまい、「世界の情勢の冷静な分析と判断にもとづいて国家の長期戦略を決定しなければならないという意識をもつ政治家」(p.213)が育たなくなり、中央政府が中央政府として機能しなくなったという弊害も述べられていますが、これもサブシディアリティの原則が尊重されれば解消されると思われます。
中央集権強化による弊害と対策3 教育問題
中央集権の強化は教育にも影響を及ぼしました。全国的に形式主義的・画一的なカリキュラムのもとで教育が行われるため、「個人の能力と適性に対応する教育の機会と職業選択の機会の保障を不可能にしているし、同時に社会が必要とする多様な人材の確保を不可能にしている」(p.127)と本書は論じています。また、大多数が給与生活者であるという生活様式の画一化は、職業にともなう階層秩序と地位構造を人々に強く意識させることになり、それがより高い地位につながるよりよい学歴を得るための受験競争を激化させたとも述べられています。
こうした画一的なカリキュラムと受験競争の激化によって、「複雑な現実を観察して問題を感知し、時間と労力をかけてねばりづよく解いていく取り組みは、奨励されないどころか、かえって非効率的であるとして排除され」(p.116)、「日本の学校は、人間の潜在能力を発見して伸ばす『教育』の機関ではなく、巨大な『人材選別機械』でしかなくなっている」(p.102)と本書では考えられています。すなわち様々な問題が山積みになっている現在、それらを乗り越えていくために必要な人材を育てる教育を創造することが、日本の大きな課題になっているわけです。それには、個人の能力と適性に対応するカリキュラムを用意し、そこに、「複雑な現実を観察して問題を感知し、時間と労力をかけてねばりづよく解いていく取り組み」を奨励する問題解決的なプログラムを付加したり、教育者の創造性を生かしたりする余地を持たせる必要があるのでしょう。一方で正村氏は、社会の秩序と安定を主体的に求める存在の育成も必要だとします。次の引用文を見てください。
人権と自由と民主主義の思想にもとづく秩序の継承者を育てなければならない。固有の文化と伝統の継承者を育てなければならない。秩序を無批判に受け入れさせ、文化と伝統を墨守させるということではない。秩序の価値、文化の価値、伝統の価値を理解させるということである。(p.132)
別のところでは、「受け入れた学生を、職業人として、国家および地域社会の主権者として、『地球市民』(人類共同体のメンバー)として、信頼できる主体に育てる」(p.125)必要性を指摘しています。よりよい社会を築くために必要な改革について自分の言葉で考え、ほかの人間と議論することができると同時に、その改革が人間と人間の間の連帯を謳う民主主義の手続きに従わなければならないと自覚している子ども、そして地球市民としての倫理を自覚している学生を育成することが教育の目的なのです。カリキュラムにはこのような目的も組み込まれる必要があるのでしょう。
「共同性」、「公共性」の崩壊を解消する改革によって少子化対策を行うこと(後で述べます)に加え、今述べました教育の改革により子どもの質を高めることで、人間の「量」だけでなく「質」の再生産も行おうというのが正村氏の構想の一つなのです。
産業構造と職業構造の変化と大都市圏への人口集中により生じた弊害と対策
経済成長は、産業構造と職業構造の変化を伴いました。1950年と1995年の全就業者に対する比率を比較しますと、「第一次産業」(農林水産業)では48.3%から6.1%に、「第二次産業」(鉱工業、建設業等)では21.9%から31.4%に、「第三次産業」では29.7%から61.9%になったそうです。また、「従業上の地位別の就業人口」では、「自営業主」と「家族従業者」の合計は60.5%から18.5%に、「被雇用者」(給与生活者)は39.5%から81.5%になったそうです。すなわち日本の社会は「サラリーマン型」の社会になったのです。
このような大戦後の構造変化のため、大都市への人口移動が加速され、「1995年には、総人口(1億2557万人)のおよそ半分が三大都市圏(東京圏・大阪圏・名古屋圏)に住み、さらにその半分(総人口の四分の一)が東京圏に住む」(p.75)ようになりました。こうして、農山漁村から大都市へと大量の人口が移動し、そのため過疎・過密に伴う問題が表面化していきます。以下、構造変化に伴う問題と対策について述べていきます。
都市的共同体の未創出と疑似共同体の衰退という問題と対策
人口が増大した都市部では、農村の「共同性」に代わるべき都市の「共同性」が創出されるべきでしたが、それはほとんど実現されず、その代り、都市に移動した給与生活者の大多数は企業という組織のなかの疑似的な「共同性」のなかに当面のよりどころをみいだし、「ひたすら、経済成長、技術革新、所得の増加、物的消費と利便性の増大を求める運動に飲み込まれることによって、『安心』を獲得しようと」(p.81)しました。このような疑似共同体への過剰依存のためもあって、自立した個人を対象とした先進国にふさわしい都市型のコミュニティ(共同体)は形成されず、その結果地域住民は互いからも自然からも切り離され、共同性・公共性の消滅に至ったということです。
ところで高度経済成長期が終わり企業の不安定度が増すと、以前のように疑似共同体に安心して頼り切れなくなります。それどころか今や終身雇用制は崩壊しつつあり、正規雇用以外の働き方の多様化が、そして個人が一生のうちに携わる職種の多様化が一般的になりつつあります。そうしますと、「複数の集団への『多次元的』な参加を促進し、職業選択の自由を拡張するためにも、生活の安全・安定を保障する社会的共同事業を拡充し、『共同性』と『公共性』を発展させるマクロの取り組みが不可欠」(p.206)となります。こうした要請を満たすために、「多様な人間によって構成されるさまざまな目的をもつ複数の共同体への同時並行的な参加を保証するマチ型(都市型)の『多次元的共同社会』」(p.98)を創造しなければなりませんし、また労働時間・通勤時間・非公式の拘束時間を削減して多次元的な参加を実現するための時間的余裕を人々に持たせる必要もあると本書は主張します。
こうして幅広い交流の機会、職業選択の自由の拡張が実現すれば、高齢者・障碍者・育児中の女性の就業は容易になるし、男女交際の機会も増加し、少子化対策の一助になると本書は主張します。そして「生活のさまざまな次元にかかわる複数の団体あるいは組織との人間のかかわりを強め」、「生活の『多次元化』と意識の『多次元化』を可能に」することで、「勤務先の人間の集団が複数のさまざまな種類の人間の集団のなかのひとつにすぎないことがはっきりと意識されるような社会構造」(p.204)が創造され、高度成長期には見られなかった企業という組織の相対化につながると本書では考えられています。
ところで、都市的共同体が構築されなかった一方で、農山漁村に残されていた「共同性」も過疎化と中央集権的な補助金行政によって破壊されたと本書では考えています。例えば農村については、「農業協同組合は、中央政府の補助金と政策金融に支えられた『民有国営農業』の下請け機関」となり、「『公共性』と『共同性』の意義は見失われ、ばらばらの私的利害関心だけが人々の行動原理になった」(p.80)と述べられています。
すなわち、日本の「共同性」と「公共性」(国家全体あるいは社会全体の規模における共同性)は都市でも地方でもほとんど消滅し、それは当然人々に将来に対する不安をもたらし、少子・高齢化を促進する要因の一つとなったのですが、地方に対しては補助金行政の是正と分権の回復が、都市に関しては都市型共同体の創造が、その対策となると本書では考えられているのです。
社会保障制度の持続可能性の問題と対策
ところで、成長期の企業中心の在り方が、医療費保険制度や年金制度にも影響を及ぼしたことを本書は述べています。日本の医療費保険制度や年金制度は、職域による制度(厚生年金や共済年金など)と、そのような職域の制度に入らない人々用の国民年金と地域ごとの国民健康保険があります。そのため「医療費保険制度も、年金制度も、ともに、職域と地域に分断され、そのうえ多数の保険者(保険会計を管理する団体)が分立する制度」(p.150)になり、このような分断状態では、「日本の社会構造の大きな変動に対応することは不可能」(p.152)だと考えられるようになりました。
少子・高齢化が進んだことによるいびつな人口構造からも、また終身雇用制が崩壊しつつあることからも、年金制度や健康保険制度を保険料で運営するという保険原理の貫徹は不可能になっており、社会保障制度は公的に統合され簡素化されるなどの改革が明らかに必要になったのです。ところが企業経営者は、「資本の蓄積と個々の企業への人的資源の『囲い込み』が優先課題であった」(p.151)ために、給与生活者全体の生活の安全保障を目指す社会的に統合された制度の確立のために必要な協力を拒否したと本書は述べています。そうして、社会保障制度の改革は中途半端なものになってしまいました。
また、先進的な福祉国家と比較して、「ハンディキャップをかかえている人間にたいする社会的支援を用意する社会福祉事業を拡充する取り組みが立ち遅れている」(p.160)のも明らかです。従って目標とする成熟社会を達成するためには、「社会保障制度の強化と社会福祉事業の拡充につとめ、生活の安全保障を確実にし、国民の安心感を強めること」(p.17)が求められます。
そこで本書では年金制度と医療費保険制度について次のように提案しています。
公的年金制度と医療費保障制度に関しては、何よりも「社会保険」の原理にもとづいて対応する制度とそれ以外の原理にもとづいて対応する制度の区別を明確にする必要がある。そうした改革は、透明性を高めるために不可欠である。多くの専門家が提起しているように、公的年金制度のうち、「基礎年金」は「賦課方式」の原則を徹底する方向に改革し、「報酬比例年金」は「積立方式」の原則を徹底する方向に改革することが当面の唯一の可能な方策であろう。(p.173)
ここで「賦課方式」の年金制度とは、退職している人間に対する給付を現役世代の人間が負担する保険料で賄うものであり、「積立方式」の年金制度とは、加入者から徴収された保険料を積み立てた基金と運用益を財源として使うものです。医療保険制度に関しても、保険の原理を貫徹できる部分とできない部分を明確にして透明性を高める必要があるとし、現役世代に関しては単年度均衡の「保険の原理」を維持するのが望ましく、難病、高齢者医療、介護サービスなどは付加価値税のような一般財源を拡充し、一般会計による支出が不可欠だと本書はしています。
政府の「民間」と「地方」に対する不必要な規制、介入、補助金のバラマキは撤廃すべきですが、社会保障・社会福祉の分野では、国民生活の安定と安心のために、「相応の負担を国民に求め、制度を改善し、事業を拡充することが求められなければならない」(p.177)と本書は主張します。本書の出版の15年後、2014年4月1日に、高齢化で増え続ける年金や医療などの社会保障費を賄う狙いのもと消費税率が5%から8%に引き上げられました。しかしその後予定されていた10%への引き上げが先延ばしされ続けています。正村氏からすれば政府は必要で可能なことをやっていないということになるのでしょう。
ところで正村氏は社会保障に関する財源の補てんのために消費税の強化を重視しており、税制の軸足をフローからストックに移すことや相続税の強化に関しては消極的です。この点で広井氏の考えとは対照的です。そうなってしまった背景には、二人が構想した時代における格差拡大の進展度の相違と、社会の単位を個人とすることに対する思い入れの強さの相違があったのではないかと私は思います。
正村氏の『日本をどう変えるのか』や『現代の経済政策』が出版された90年代後半は、「一億総中流」という言葉がまだ何かしらの意味を持つ頃だったのに対し、広井氏の『持続可能な福祉社会』(2006年)や『ポスト資本主義』(2015年)が出版された時期は、すでに日本における格差が先進国の中でも大きい方になってしまっていたのです。また、広井氏は家族が受け継ぐ資産の多少が個人の人生のスタート時での機会均等の実現を妨げていると著作の中で強調するのですが、それは正村氏の著書にはみられないことです。これらの相違が両者の税制改革に対する考えの相違に影響しているように私には思えました。
環境保全に関する政策
環境保全は、日本のあるべき姿を考える際の前提とされていると初めに述べました。「すでに相当の豊かさと便利さを実現している先進国の人間は、むしろ、資源と環境の制約に目を向け、つぎの時代の社会の構成員である子どもたちの生育条件を適切に維持する必要に目を向けなければならない」(p.36)のです。
資源消費の削減や温暖化ガス排出の削減につながる政策として環境税の導入があります。それは、エネルギー価格を上昇させ企業と家計の省エネ努力を強め、環境保全型の技術と製品の開発を目指す企業の活動を刺激し、研究開発投資による総需要の増加と新技術の応用による効率の向上をもたらすのだと本書は論じています。「環境税の導入は、新しいタイプの文明を創出する努力を刺激して経済を活性化させる」(p.85)というのです。このような考え方は、スウェーデンの「緑の福祉国家」の考え方と同じです。
また、人間同士のつながりに加えて自然とのつながりも失われたと言われる都市で、自然とのつながりを回復しその価値を再認識させるためには、「緑の日常化」と「水辺の日常化」が不可欠です。そこで、「市民が日常的に到達できる場所に、緑のゆたかな森林や川岸・湖岸・海岸などの水辺を確保」(p.79)し、日常的に自然とのつながりを意識させる都市づくりの必要性が本書では主張されています。これも環境保全のための政策であるでしょう。
これら税制や都市の在り方の改革は、目に見える外面的なもので、それには地球と人類に対する責任と『地球市民』の倫理という内面の意識改革が伴うべきでしょうが、それに焦点をあてた対策については、残念ながら本書では詳しく触れられていませんでした。
ここまで、日本のナショナル・ゴールを「経済成長」から「成熟社会」に変えていくための正村氏の構想についてみてきましたが、この改革に成功することの地球史的意義についても本書では述べられていますので、最後にそれについて触れておきます。
日本の成功の地球史的意義
現在の東アジアと東南アジアの経済発展は、「西ヨーロッパを起源とする近現代文明がアメリカ(合衆国)と日本を経由してアジアに波及する過程の新しい段階を意味している」(p.229)と本書はみています。そしてもし21世紀に日本が新しいナショナル・ゴールである「成熟社会」の達成に成功するなら、当然それはアジア諸国に大きな影響を与えることになるでしょう。しかしその地球史的な意義は、文明の中心を「ヨーロッパと大西洋」から「アジアと太平洋」へと移行させることにあるのでもなく、文明の内容を「ヨーロッパ的なもの」から「アジア的なもの」へと転換させることにあるわけでもなく、「近現代史の全体を通じて多くの人間が追求してきた一連の諸原則を地球全体に波及させることができるかどうか、秩序が維持され、人権と自由が保障され、社会が直面する課題を民主的な手順にしたがってひとつひとつ解決していくことができる『ほんものの文明』を地球規模に広げていく可能性を証明する大きな動きをつくりだすことができるかどうか」(p.230)ということにあるのだと本書は主張しています。
正村氏は、日本が経済成長から成熟社会へとナショナル・ゴールを転換し、それを達成することが、自由・人権・民主主義という価値観にもとづく文明を地球文明とする過程の大きなステップになると考えているのです。
サングラハ教育・心理研究所の岡野主幹は本書について「17年程も前の本ですが、内容の大筋は少しも古くなっていない」と述べていますが、確かにそのように思われます。実際アベノミクスが経済成長を相変わらず金科玉条のように唱えていることは、日本のナショナル・ゴールの明確な転換がいまだなされていないことを示していると思います。
(この書評は、2016年9月発行の「サングラハ第149号」に掲載されたものとほぼ同じです)