『持続可能な福祉社会――「もうひとつの日本」の構想』(広井良典、ちくま新書) 書評

増田満

 本書によれば、都市化が進展する高度成長期の日本では、終身雇用を原則とするカイシャと核家族が伝統的ムラ社会に代わる共同体となり、見えない社会保障を行なっていました。そのため、自立した個人を対象に普遍性の高い社会保障を行うヨーロッパ諸国に比べ、社会保障費に占める家族関係そして雇用・失業関係の割合が日本では低くなっていたのです。ところが需要が飽和し成長期が終わると、カイシャと核家族というムラ社会的共同体は崩れ始め、遅ればせながら日本でも自立した個人を単位とする社会保障システムを構築する必要が生じてきました。また環境問題が顕在化することで、環境制約とも調和しながら長期にわたって存続できる社会が求められるようにもなりました。そこで本書は「持続可能な福祉社会」という構想を提示していくのです。
ところで本書によれば福祉国家とは「市場経済プラス〝事後的な〟所得再分配」という社会システムです。「『個人の自由な競争』としての市場経済の仕組みを前提とし、そこで生じる経済格差ないし富の分配の不平等といった問題を、社会保障などによっていわば補足的に是正する」(p.121)ものです。そういった福祉社会には次のような基本的課題がつきまといます。

平等を重視し社会保障の規模を大きくすると、個人や企業に多大な所得税を課すことになり経済活動のインセンティブを損なわせ、市場経済システム自体を揺るがしてしまう。逆に社会保障の規模を小さくすると、経済格差が次第に拡大し機会の平等が揺らぎ個人の自由な競争という民主主義の前提の一つを崩してしまう。

こういった課題を解消するために本書では事後的な所得の再分配から事前的な資産の再分配へと軸足を移す提案がなされます。年金などをベーシック・インカム(基礎所得保障)などに一元化・簡素化し、所得税を抑えて経済活動のインセンティブを保ちます。また相続税などの資産税を高くし、事前的な再分配によって教育を含めた「人生前半での社会保障」を強化し、「個人のチャンスの平等」ということを実現します。そうして従来型の福祉国家とも純粋な資本主義とも異なる新しい社会モデルの姿を描き出していきます。
また本書で構想される持続可能な福祉社会は自立した個人を基本単位にするものですが、バラバラな個人が単純に公共的原理に従うようなものであってはならないとします。普遍性と開放性を持ちながらも、同時に伝統的な共同体に見られる一体感をも持つコミュニティを形成できるかどうか、それが持続可能な福祉社会を実現するための決定的な条件になるとしています。
読後、10年以上前の2006年にこのような先見的な構想が立てられていたことに驚き、今こそ多くの方に読んでいただきたいと思いました。そこで、以下にやや詳しく概要を書いてみました。

高度成長期の日本の社会保障システム

 かつての日本では、農村における地縁、血縁による伝統的な共同体が社会保障を担っていたわけですが、戦後の成長期における都市化の進展に伴い、雇用の確保、失業保険、老後の年金、医療・健康保険、子育て・教育支援等々を提供する新しい社会保障システムを築くことが求められました。ところが実際に構築されたのは、スウェーデンを筆頭とするヨーロッパの先進的な福祉国家とは対照的に、「家族」関係(保育サービス、児童手当、住宅手当等)と「雇用・失業」関係の社会保障給付、すなわち「人生前半の社会保障」に関する公的支出の比率が小さいものでした。教育に関する公的支出の割合もやはりそれらの国々に比べ小さくなっていました。
何故でしょうか。本書によれば、需要増加→生産拡大→経済成長という状況において、終身雇用を原則とするカイシャとその社員の(核)家族とが、伝統的共同体(ムラ社会)同様に見えない社会保障として機能し、公的な社会保障を補完したからです。「人々の『需要』が不断に拡大し、それに供給ないし生産の増加が無限のサイクルのように並行して進行していく構造」(p.27)の下では、経済成長と一体のものとして「完全雇用」が実現していき、「生産」に関わっている年代では終身雇用を原則とするカイシャによって生活の保障が図られ、人生における様々な「リスク」が退職期=高齢期にほぼ集中することになっていたのです。
また本書は、公共事業が道路建設等の様々な雇用つまり〝職〟を提供し、その分野に従事する人々の「生活保障(ないし所得補償)」を行ってきたと述べています。その際、特に1990年代では、「一人当たり県民所得の低い都道府県において公共事業投資が大きい」(p.55)ことが地方での雇用を創出し、農業における補助金や中小企業に対する補助政策とともに地域間格差を是正する所得再分配の役割もはたしたと指摘しています。

需要の飽和によって成長期のシステムは崩壊

 ところが、物質的な需要が飽和ないし成熟化して物余りの状況(慢性的な供給および生産の過剰)になると、「限りない経済成長=生産の拡大」ということがもはや維持できなくなります。「『経済成長と労働生産性上昇の無限のサイクル』が政府による公共事業等の景気刺激策の繰り返しとともに永遠に続いていく」(p.69)というような基本的発想が通用しなくなります。
そのため終身雇用という原則は崩れ始め、現役時代の生活保障を強固に支え〝見えない社会保障〟を担ったカイシャと核家族という共同体システムが90年代後半前後から崩壊し、全ての年代で失業という問題(リスク)が存在するようになります。そうして失業率がもっとも高いのは高齢世代ではなく十代~二十代の若者になってしまいます。

求められる持続可能な福祉社会

 こうしてカイシャと核家族という共同体を中心とする社会保障システムが崩壊し始めると、遅ればせながら日本でも独立した個人を基本単位とする社会保障システムを構築する必要が生じ、人生前半との関連性が強い「家族」関係と「雇用・失業」関係の社会保障がより大きな課題となります。また環境問題が顕在化し社会の持続可能性ということも重要視されるようになった結果、「個人の生活保障や平等(分配の公正)が実現され、それが環境制約とも調和しながら長期にわたって存続できるような社会」(pp.68~69)、すなわち「持続可能な福祉社会」の構想が求められるようになったと本書は主張します。
ところで本書によれば本来の福祉国家とは「市場経済プラス〝事後的な〟所得再分配」という社会システムにほかなりません。「『個人の自由な競争』としての市場経済の仕組みを前提とし、そこで生じる経済格差ないし富の分配の不平等といった問題を、社会保障などによっていわば補足的に是正する」(p.121)ものです。そのため福祉社会には次のような二つの基本的な課題がつきまとうとされます。

第一は、福祉国家が発展して社会保障の規模がおおきくなればなるほど、そのための財源は個人や企業所得から差し引かれることになるから、経済活動のインセンティブを損なうものになり、結果として福祉国家の〝基盤〟としての市場経済システム自体を揺るがすという問題である。
第二は、むしろ逆の方向からの批判であり、……人々の間の経済格差(資産面を含む)が次第に拡大し、個人がいわば〝チャンス(機会)の平等〟を有しているという状況が揺らぎ、その結果、福祉国家が想定している「個人の自由な競争」という前提自体が大きく崩れてきているという点である。(pp.121~122)

持続可能な福祉国家は、こういった基本的課題を解消することも求められます。そこで本書では次のような考察が述べられます。

「個人のチャンスの平等」ということを実現するためには、「資産面での再分配」や、教育を含めた「人生前半における社会保障」の強化といったことが課題となる。逆に、事後的な所得再分配については年金などをスリム化しベーシック・インカム(基礎所得保障)などに一元化・簡素化してよい。(p.124)

すなわち個人の自由な競争(経済活動のインセンティブ)を維持するために事後的な所得再分配はスリムにして所得税を抑え、個人のチャンスの平等を実現するために相続税などの資産税は高くして事前的な資産再分配を強化するのです。本書は、いわゆるベーシック・インカムなど比較的簡素な「所得(フロー)レベルの再分配」と一定の「資産(ストック)レベルの再分配」を中心とする、従来型の福祉国家とも純粋な資本主義とも異なる新しい社会モデルを提案します。この所得の再分配から資産の再分配へと軸足を移行させるアイデアは、2年ほど前(2014年)日本で話題になった格差是正に関するピケティの考えと共通していますが、本書が書かれたのが10年前の2006年だということを考慮しますとその先見性を感じます。
それではチャンスを平等にするための資産の再分配と、自由競争維持のための所得再分配のスリム化についてもう少し詳しく見ていきます。

個人のチャンスの平等――人生前半における社会保障の強化と資産の再分配

 経済格差が個人のチャンスの平等を侵害しているというのは、各人が人生の初めにおいて〝共通のスタートライン〟に立てなくなっていることを主に意味しています。「現代日本において、個人の人生における所得水準や、失業・貧困に陥るリスク、あるいは〝社会的ステイタス〟等にもっとも大きい影響をもつのはその人の受けた教育ないし学歴」(p.24)なのに、日本では教育への公的支出が少ないため家庭の経済格差が子供が受けられる教育の格差に直結し、個人が共通のスタートラインに立てなくしがちなのです。
本書では、「子ども」と呼べる時代が大幅に長くなっているとし、概ね思春期したがって十五歳前後までの期間を「前期子ども」、高校、大学等をへて三十歳前後までにいたる期間を「後期子ども」と区分しています。そして各人が共通のスタートラインに立てるようにするため、この「後期子ども」の時期への財政支出を現在よりも大幅に拡大することを提案しています。なぜなら、「様々な格差の最大の要因の一つが教育年限ないし学歴であることも踏まえれば、本人が希望する限り、現在よりも長い期間の教育やトレーニング、試行の機会をできるだけ平等かつ公的に保障すること」(p.95)こそが、個人に共通のスタートラインに立つことを保障することになると考えるからです。
より具体的には、すべての若者に一定の「年金」を給付する若者基礎年金が本書では提案されています。その財源としては二つ考えられています。一つは所得の再分配をなるべく抑え、経済活動のインセンティブを損なわないようにする方策として考えられた年金の削減分の、その一部をあてることです。さしあたりは高所得高齢者向けの年金の削減分の一部を、中長期的には現行の公的年金の報酬比例部分を民営化することで生じる削減分の一部をあてるのです。第二は相続税の強化です。相続税の税収は若者基礎年金に限らずたとえば児童手当など「人生前半の社会保障」関連の給付に広く活用し、この事前の資産再分配を通じて「個人が経済状況や教育等においてできる限り共通のスタートライン」に立てるようにするのです。相続税に関して本書には次のような一文があります。

そもそも相続税という制度をどう考えるかは、およそ社会というものをどうとらえるかの根幹にかかわるものであり、筆者の理解では、「社会というものの〝基本単位〟を『個人』とみるか、それとも『家族(あるいは家系)』とみるか」という点がその核心にある。(p.100)

本書では、既に述べましたように個人を社会の基本単位と見なす方向で構想を進めています。ところで個人は基本的に生で始まり死で完結するのですから、生まれるときには出自に関わらず共通のスタートラインに立ち、死ぬときにはそれまでの私的つながりから離れその財産を社会全体に残すのが自然でしょう。おそらくこのような観点から、本書は「相続税を現在よりも強化し、それを『人生前半の社会保障』(教育、雇用などを含む)に充てることにより、真の意味での個人の『機会(チャンス)の平等』が実現する」と述べているのでしょう。このような人間を合理的な個人とする考えは、ヨーロッパにおける一般的な人間観の一つだと思います。

所得再分配のスリム化

 事後的な所得の再分配はなるべく抑え、経済活動のインセンティブを損なわないようにする方策として、すでに言及しましたように、現在よりも厚めの基礎年金を税によって一律に保障し、高い所得の者ほど高い年金を受けられる報酬比例部分は民営化の方向を進めていくという提案がなされていますが、本書はそのように年金を改革のターゲットにする理由を四つ挙げています。

①国全体を大きな家族に見立てるという、「共助」型の年金制度(賦課方式の社会保険)の根底にある基本的発想が維持しがたい
②「個人」をあくまで単位としてその生活保障を考えるという姿が今後は重要
③賦課方式の社会保険年金は、その社会の人口構造が時代を通じて安定していることを前提としており、人口構造の変動期には大きな世代間の不公平ないし不均衡を招く
④今後は社会保障制度を「国民国家」を越えたレベルで考えていくべき時代になっていくのであり、国家をひとつの共同体と見立ててそこでの〝仕送りの社会化〟を行うという年金制度(賦課方式の社会保険年金)はそうした時代の要請に合致せず、むしろ「(厚めの)基礎年金」という姿がユニバーサルな性格をもちうる (p.116)

本書で述べられているように、寿命が延びて「老人」の期間が「前期高齢」(六十五歳頃から七十五~八十歳頃まで)から「後期高齢」(七十五~八十歳頃から以降)へと大きく伸長し、年金受給期間は長期化しています。またかつてのような終身雇用が崩れ一生のうちに転職や失業や多様な働き方を体験する傾向が強くなっています。さらに世代ごとの人口に多大な差異が生じています。このような時代では、年金の賦課方式を改めそして報酬比例部分は民営化し、公的な部分は普遍性の高い個人に対する厚めの基礎年金だけにするのは当然なことだと私には思えます。
ここで本書に度々登場するベーシック・インカムについて若干述べておきます。ベーシック・インカムとは「すべての個人に、最低限の生活に必要な所得を政府が無条件に給付する」(pp.105~106)制度です。「その基本的な趣旨は、第一に、『労働と所得』を切り離し、〝生産や生活のための労働〟から人々を解放すること、第二に、(並行して税制上の各種控除を廃止することにより)『社会保障制度と税制』の統合を図り、制度全体をシンプルなものにする」(p.106)というものです。実現することはあり得なさそうに思う方は多いかもしれませんが、つい先日次のような報道がありました(この原稿のもとになっているものを書いた2016年初めを現在としています)。

今年の夏、スイスでは『ベーシック・インカム制度』の実現に向け国民投票が行われる予定だ。これが可決されれば、成人に対して毎月2,500スイスフラン(約30万円)、子供は625フラン(約7.5万円)が無条件で国から支給されることとなる。( http://blogos.com/article/158030/ )

私はこの種の議論は重要だと思います。需要が飽和状態になり生産効率が上昇し、しかもロボットなどが人間の代わりに働く場面が増加すれば、失業率が極めて高くなったり、あるいはワークシェアリングで労働時間が極めて短くなったりするでしょう。するといちいち失業手当などを支給するよりも、前もって国民全員に基本所得を支払ったほうが合理的になるかもしれないと思うからです。
ところで、需要が飽和状態になり生産効率が上昇し、仕事に割く時間が減るということから、「時間の再分配」ということが本書では話題になっています。

時間の再分配

 「私利の追求」を有効なインセンティブとして拡大・発展した市場経済の領域が、今むしろ飽和しつつある。これに代わって、先ほど「時間の消費」と呼んだ、コミュニティや自然、スピリチュアリティといった領域に関する人間の欲求が大きく展開しようとしており、いわば「市場経済を超える領域」が生成している。他方、組織の面では、NPOや協同組合といった形態が大きく浮上している。つまり「市場経済を超える領域」の展開において、営利と非営利、貨幣経済と非貨幣経済が交差するのだ。(p.141)

と本書では述べられています。「時間の消費」とは、物や情報を消費するのではなく、それ自体が自己充足的であるような、引用で述べられているコミュニティや自然、スピリチュアリティ、あるいは公共性といった領域に携わるということです。
需要が飽和し労働生産性が上昇した現代において、「今必要なのは『労働生産性の上昇は(賃)労働時間の削減にまわし、むしろ余暇を含め賃労働以外の時間への〝時間の再分配〟を行う』という発想転換と政策支援」(p.151)だと本書では述べられています。ワークシェアリングによる人々の労働時間減少は失業対策にもなるし、ゆとりある時間で「市場経済を超える領域」に携わり、それを発展させることこそが望ましいと考えているのです。先程述べましたベーシック・インカム制度などはこうした方向性を促すものだとも述べられています。

環境条件との整合性

 本書では、持続可能な福祉社会が実現していくために重要となってくるのは、「福祉政策(社会保障政策)と環境政策の統合」(p.162)という発想だとしています。
介護、保育、年金、少子・高齢化等々といった問題群を対象とするのが「福祉(社会保障)政策」であり、それは「平等」や「公平」といった価値理念を軸とした富の(再)分配のあり方に関わるものです。一方地球温暖化、資源・エネルギー、自然保護などの問題群を扱うのが「環境政策」であり、それは様々な産業活動に伴う温室効果ガス排出やエネルギー消費、廃棄物といった問題にどう対応するかという、人間の経済活動ないし富の「総量」あるいは「規模」のあり方に関わるものです。
仮に福祉政策がうまくいき、「平等」や「公平」が実現したとしても、人間の経済活動の総量が環境問題を起こすほどのものであればそれは持続できません。また、仮に環境政策がうまくいき、人間社会を含む生態系が「定常状態」に達し、資源消費や環境汚染等の面において持続可能なものになったとしても、人々の間に大きな貧富の格差があったり、生活の質が保障されていなかったりすれば、それは望ましい姿とは言えません。つまり、どちらの課題も同時に解決されるべきものなのです。従って「持続可能な福祉社会」では、福祉政策と環境政策は統合されることが望ましいのです。本書ではそのような統合例としてドイツの政策を挙げています。
ドイツは1999年にエコロジカル税制改革を行い、環境に好ましくない行動の抑制を目的とする「環境税を導入するとともに、その税収を年金財政にあて、そのぶん年金の保険料を引き下げる」(p.174)政策を実施しました。それは、「環境負荷を抑制しつつ福祉の水準を維持し、かつ企業にとっての社会保険料負担を軽減し、失業率上昇を抑えるとともに、国際競争力の強化に資する」 (p.174)という、福祉と環境の両者を考慮した政策になっています。「社会民主主義の理念は、元来〝持続的な経済成長、賃金上昇〟を前提とし、『環境保護』といったことには一次的な価値を与えていなかった」(p.75)のですが、この政策は「社会民主主義と環境主義」が融合した、持続する福祉社会のための新たな政策モデルの例なのです。

個人をつなぐコミュニティの形成

 都市化によって、見知らぬ個人同士が様々にコミュニケーションを取り合うような「都市型の関係性」の構築、あるいは自立した個人をつなぐコミュニティづくりという課題に直面するはずだったのに、日本においては繰り返し述べてきましたように、カイシャと核家族という〝都市の中のムラ社会〟(p.215)を形成することでそれを回避してきました。ところが成長期が終わりカイシャと核家族が解体され始めると、個人が孤立してバラバラになる傾向が強くなり、いよいよ自立した個人をつなぐ「都市型の関係性」、あるいはコミュニティづくりに直面せざるを得なくなりました。本書は、「つまるところ経済成長の時代が終わり、市場経済そのものは成熟化そして『定常化』していく今、新しいコミュニティ、あるいは新しい人と人との『関係性』のあり方を築いていくことが日本社会の最大の課題」(p.241)であるとさえ述べています。
ところで本書では、つながり、関係性にはそもそも次のような二つのパターンがあると考えられています(p.223~p.226に書かれていることを断片化し連ねてみました)。

(A) 〝自分を中心とする同心円〟を広げていって、その〝大きな円〟を共有することでつながるという形。まさに「共同体」。そのプラス面は〝情緒的な一体性〟の感覚などがあること。その反面として、こうしたつながりの場合必然的に「ウチ」と「ソト」、あるいは「身内」と「他人」という〝境界〟ができ閉鎖性をもちやすい。ローカルな共同体の固有な生活様式や世界観に関わることで文化的である。
(B) あくまで独立した異なる個人ということを維持しながら、そうした個人が何らかの「超越的な原理」を媒介にしてつながっていく形。個人をベースとする公共意識の原理を持ち規範的である。キリスト教の理念はこちらに近いと言える。ある限られた空間を共有する共同体(家族、ムラ等)という範囲を超えて、より普遍的な広がりや積極性をもつというプラス面がある一方、ある種の独善性を帯びる場合があるというマイナス面がある。一種の人間主義で完結するときは、自然や他の生物を排除しがちになる。複数の共同体が出会う都市に生成し、ある普遍的な原理や規範の体系を持つことで文明的である。

 求められるつながりは自立した個人をつなぐものですから、基本的に(B)のタイプになると思うのですが、本書では(A)と(B)両者の統合こそが求められるとし次のように述べています。

 「新しいコミュニティ」づくりという方向は、……「つながりの二つの形」、あるいは「ケアの二つのベクトル」における原理――(A)共同体的な一体意識(同心円を広げてつながる)と(B)個人をべースとする公共意識(独立した個人としてつながる)――の両方が融合したところに展開する(p.245)

ここでケアという言葉が現れていますが、それについて本書では次のように述べられています。

ケアという営みは、現代の社会において、ともすれば孤立してバラバラになっていきがちな「個人」を、その土台にある「コミュニティ」へと、さらには「自然」そして「スピリチュアリティ」へと、いわば「つないで」いくという点にその本質がある(p.237)

少しわかりにくいのですが、人間には本来自然との一体性、さらにそのまた奥にある魂との一体性(スピリチュアリティ)があり、コミュニティにはそういう一体性が求められているというのです。従って、都市化された人間社会におけるコミュニティは、独立した自発的個人をその公共性でつなぐことで他の集団に対しても開放的であるべきですが、同時に伝統的なコミュニティが持っていた自然との一体性やスピリチュアリティも兼ね備えることが求められると本書では考えているのです。そして、次の引用からは、そのようなコミュニティがスウェーデンである程度実現していると考えられていることも伺われます。

北欧のスウェーデンの地方を車や列車で旅行すると、「コミューン」と呼ばれる、地方自治の単位となっている地域の中心部に、必ず教会が位置している(p.233)

自立した個を普遍的につなぐと同時に、キリスト教の伝統の下、教会を中心に一体性を醸し出すコミュニティがスウェーデンにはできているということなのでしょう。確かにスウェーデンには、各個人が神に直接に対峙するというルター派プロテスタントの伝統があるそうですから、独立した個を共通の原理で結びつける社会ができる下地があったのでしょう。そうして教会を中心にそういう伝統を互いに共有し、(A)と(B)の二種類のつながり方を融合するようなコミュニティが形成されたのでしょう。でも日本には、そのようなうまい具合の進展はなされなかったので、本書ではあらためて伝統的スピリチュアリティが所在した寺社を利用することを唱えています。

かつての日本では、農村共同体の中心に神社やお寺があり、世代を超えて自然やコミュニティが一体となったつながりの空間が存在していた。ターミナルケアなどはこうしたコミュニティのあり方と不可分のものであり、より広い文脈でとらえなおされる必要がある。「ケア」という営みは、現代の社会で孤立しがちな個人をコミュニティ、自然、スピリチュアリティへとつないでいく試みとして再定義されていくことになるだろう。(p.202)

これは昔の日本の伝統的コミュニティをそのまま再生せよというのではありません。本書では次のようにも書かれているのです。

この場合の「つなぐ」というのは、個人が「コミュニティ―自然―スピリチュアリティ」の次元へと単に〝一体化〟していく、といった性格のものではなく――それだとかつての地縁・血縁的な共同体への回帰と変わらない――、独立した個人から発し、かつ他の集団に対しても「開かれた」ものであるという点で、「公共性」への志向をもつものと言える。(pp.240~241)

すなわちバラバラな個からつながった一体性を見ていこうとするのであり、本来的な一体性に個を埋没させるのではないのです。こういったコミュニティについての議論も、隣近所の人たちをきちんと識別できていない場合もある現代の日本人には啓発的なものであるでしょう。
以上で本書のレビューは終わりますが、今一度振り返り内容の中心的な流れを私なりに簡単にまとめますと、

[成長期におけるカイシャ―核家族という伝統的コミュニティを含んだ福祉国家の形成]

[成長期終結によるカイシャ―核家族の崩壊と社会持続のための環境条件の顕在化]

[独立した個をつなぐ持続する福祉国家とそれを支えるコミュニティの構想の必要性]

 ということになります。本稿の冒頭でも述べましたが、2006年に本書におけるような構想がなされていたことに驚きを感じ、多くの方に一読をお勧めしたいと思いました。なお、本稿では触れませんでしたが、低成長期にあっては、リスクの予測が困難でかつその個人差が大きい医療を社会保障においてより重視すべきことが本書では論じられていました。

いくつかのコメント

 本書が出版されてから10年が経過していますので(2016年現在の話です)、著者の考えは進展していると思います。いずれその後に書かれた本も読んでその変化を吟味したいと思います。ところで、サングラハ教育・心理研究所と関係の深い「持続可能な国づくりを考える会」(旧名「持続可能な国づくりの会」)が、2010年に『持続可能な国づくりの会――理念とビジョン』(以下『理念とビジョン』と呼びます)を発表しています。スウェーデンの「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」というビジョンを参考に作り上げられたもので、本書で構想されている「持続可能な福祉国家」と似ている面が多いのですが、異なる部分もあります。その相違に関連していくつかコメントしておきたいと思います。

① 本書では、強化した相続税を人生前半の社会保障に回すことで個人のスタートラインでの平等を保障することが、「持続可能な福祉国家」を実現するための重要なポイントになっていた。それは『理念とビジョン』ではほとんど触れられていない論点である。この所得税から資産税へと税制の軸足を移す考えは、格差是正を目指すピケティの構想とも共通である。ただし、ピケティの場合は相続税よりも資産に対する不断の累進課税を大きく扱っていた。
② 本書では物質的需要が飽和状態になるということと、成長が終わることをほぼ同一視していた。しかし『理念とビジョン』にあるように、知識付加型産業や環境問題対応型技術という方向性での発展・成長を目指すことも可能ではないのか。『理念とビジョン』では、経済と福祉と環境はトレードオフではないどころか相互促進関係にさえできると考えている。さらに、「環境・国土保全と食料の安全保障のための農林水産業に関わる新しい持続的な公共事業(グリーン・ニューディール)が必要」とさえ主張している。すなわち『理念とビジョン』では、まだ成長が見込まれ国際競争もあるという状況で新しい福祉社会を構想している。それに対し本書では定常状態で福祉社会を構想している。環境技術でリードする先進国に関しては、しばらくは『理念とビジョン』の考えの方が当てはまるように思うが、いずれグローバルな定常状態が到来すると、本書の構想がより適応したモデルになっていくのかもしれない。
③ 環境問題についての意識にずれがある。『理念とビジョン』は、物質的な大量生産大量消費システム自体が再考される必要があり、物質的あるいはエネルギー消費は定常化というより縮小されるべきだと考えている。それはIPCCなどの見解に沿っている。本書では縮小という方向性にはあまり触れられていない。
④ 本書では独立した個をつなぐ社会を形成することが非常に重視されていて、スウェーデンのようにキリスト教の伝統からスムースに独立した個をつなぐコミュニティが形成されることが望ましいとされている。ただそこでは、大まかに言えばバラバラをもとにつながった一体を見るような思考形式が基本になっているように思われる。それに対して『理念とビジョン』では、他者や自然との本来的なつながりそして一体性に関する気づきを重視しており、一体性の方から区別された個々人のつながりを見るように意識を変容させようとする発想を持つ。たとえば次のように述べられている。

改めて言うまでもないようですが、大地(地球)、空・空気、水、時に食べ物になり、また酸素を供給してくれる植物、あるものは食べ物になってくれ、そうでないものも同じ一つの地球生態系の中にある他の動物……といった人間以外の自然と、いい・肯定的なつながりが続いてはじめて、人間生活も続くことができるのです。
また私という人間は、親、その親、その先祖といういのちのつながりのおかげで、私として生まれ生きることができています。私は、社会を形成する他の無数の人々とのつながりによって生活すなわち社会生活を営むことができています。
自然とのいいつながり、他の人とのいいつながりが、私という人間が人間としてよく生きることを可能にしてくれているということは、誰にでも当てはまる普遍的な事実であって特定の思想でもイデオロギーでも宗教でもない、と思います。
そうした普遍的な事実への深い気づきが、今大きく歪んでしまっている自然と人間のつながりのシステム、人間同士のつながりのシステムを、本来のいいつながりに変えたいという意欲・気力を生み出すのではないでしょうか。単なる語呂合わせではなく、本来のいいつながりを再創造したいという気持ちを「本気」というのだと思います。
標語風に言えば、「つながってこそいのち」なのです。そこに全人類、どころか全生命、生命と非生命が織り成す全生態系に当てはまる普遍的な倫理の根拠がある、と私たちは考えます。(p.37)

バラバラからつながりと一体性を見ると言うよりは、このように本来的な一体性に気づき、一体性の方から個々のつながりを見るように意識を変容させることの必要性が『理念とビジョン』では語られている。
また本書では日本の場合、寺社の利用とか鎮守の森の再生のようなことが自然との一体性やスピリチュアリティにつながると語られていたが、上の引用文にあるような日常の現象の常識的な理解や、あるいは現代科学の成果や、仏教の縁起の精神を利用することが考えられるのではないか。
例えば現代科学ではビッグバンから始まる宇宙の進化の過程で初めて人間が誕生したというストーリーを見て取ることができるので、宇宙との本来的なつながりがあるということをはっきりさせることができる。
また仏教では、実体は存在せず、本来的に縁起の原理のもとで全ては現れるとしている。何かが現れるには、それとそうでないものを差異化する境界が必要だが、境界づけるには、それとそうでないものが共有する場が必要だ。たとえば、白板に円を描けばその円の内側の領域が現れるが、そのためには内側と外側を含んだ白板の地が前提として存在し、その地においては円の内部も外側も一体だと言える。このように、ばらばらからつながりを見るのではなく、全ての一体性からつながったそれぞれの現れを見るような発想が仏教の伝統にはある。大乗仏教の見解の一つである唯識で言えば、分別性(ふんべつしょう)から依他起性(えたきしょう)をみるのではなく、真実性(しんじつしょう)から依他起性を見るということであり、自立した個も根本的なつながりのもとに生きているということをこのような仏教の伝統から言い切ることができる。

(この稿は、「サングラハ第146号」(2016年3月発行)に掲載されたものをもとに少々書き直したものです。)