トマ・ピケティ『21世紀の資本』について
――格差是正のための税制とその現代的な意味

増田満

はじめに

 トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、 Thomas Piketty, Le capital au XXIe siècle, 2013の日本語訳で、本文608ページ、原注部分94ページを含む大著です(山形浩生・守岡桜・森本正史訳、みすず書房、2014年。以下引用したピケティの文とそのページ数は全てこの本のものです)。すでに各国語の訳本が出版されており、分厚い専門書でありながら、38か国で総計150万部以上のベストセラーになっています。日本でも、2014年12月に発売されてから、1年も経たずに13万部を突破したと言われています。メディアでの扱いも大きく、TV各局で特集番組がつくられ、NHKでは「パリ白熱教室」と題して彼の講義が6回にわたって放映されました。
何故これほどの関心を集めたのでしょうか?その理由は、一般生活者がその正当性の欠如を次第に強く感じ始めている貧富の格差拡大の状況が、現在の資本主義の仕組みから必然的に生じる現象であると明確に説明してくれたこと、そしてその現象の拡大を食い止め解消するには、こういう特別な対処法がありますと提案してくれたことにあると思います。
彼の主張には理論的な批判もあります。しかし、多くの人に現在の閉塞感を脱するための展望を与えたことは否定しようのない事実であり、それだけでも高く評価できると思います。そこで、さらに多くの人にその内容について知っていただきたいと考え、この稿を起こすことにしました。
ピケティは『21世紀の資本』の中で、西ヨーロッパなどの富裕国における富の格差の歴史的展開を、膨大なデータをもとに考察しています。それによりますと、第一次世界大戦直前に空前の高みにあった富の格差は、二つの戦争の間の破壊等によりある程度解消されます。しかしながら戦後の経済復興と成熟を通じて、今や戦前とは少し違う構造で、多くの人が不適切と感じるほどの高みへと格差は再び拡大し始めているのです。ピケティは、このような今まさに進行中の格差拡大を食い止め、そして解消するための税制も提案しています。このエッセイではこれら一連の議論の概要をまとめ、彼が是正の目標とする格差の程度と彼の人間観についても推察します。最後にスウェーデンの先進的な「緑の福祉国家」という考えと彼の考えの比較も行い、彼が提案する税制の現代的な意味にも触れます。

20世紀初頭における超格差社会の形成

 中学生と高校生の二人の子供と10億円の資産を持つ中年のご夫妻を想像してください。彼らの資産の内訳は、土地、建物、株、債券、投資信託、預金などをバランスよく含んだもので、平均的な資本収益率で資本所得が得られるようになっています。この家族が住んでいるのは空想上の日本で、経済成長率は年率1%、平均資本収益率は年率5%、資本所得に対する税率は0%です。そうしますとこのご夫妻は、10億円×0.05=5千万円の年間資本所得を無税で得ることになります。
ご夫妻には資本所得のほかに、1千万円の年間労働所得があります。それで家族の生活費を賄えられるので、5千万円の資本所得はまるごと再投資することにしています。そのため10億円の資産は資本収益率と同じ年率5%で増加します。経済成長率は1%ですから、ご夫妻の資産は経済の五倍の速さで成長していくわけです。また、経済成長率の1%を資産の成長率の5%から引くと、資産価値の成長率4%が得られます。ということは、同じ経済成長率、同じ資本収益率が続くなら、20年後ご夫妻が仕事をリタイアするころまでには、資産価値は2倍以上に成長していることになります(毎年、資産価値は1.04倍で拡大していきますから、これが20年続くと、1.04の20乗でおよそ2.2倍に膨張します。名目資産なら1.05の20乗でおおよそ2.65倍になります)。
このように、経済の成長は低率、資本収益率はそれなりに高率の状況が続くと、ある程度の資産を持っていれば、その資産価値は等比級数的に増加し、お金持ちはますますお金持ちになります。第一次世界大戦(1914年開戦)以前の西欧社会は、富裕層の資産のそのような持続的拡大の結果生じた社会であったとピケティは考え、『21世紀の資本』では次のように述べています。ちなみに、文中のgは経済成長率、rは資本収益率の記号です。

……たとえば成長率が年約0.5―1パーセントと低い世界を考えよう。18,19世紀以前はどこでもその程度の成長率だった。資本収益率は、一般的には年間4,5パーセントほどなので、成長率よりもかなり高い。具体的には、たとえ労働所得がまったくなくても、過去に蓄積された富が経済成長よりもずっと早く資本増加をもたらすわけだ。
たとえば、g=1%でr=5%ならば、資本所得の5分の1を貯蓄すれば(残りの5分の4は消費しても)、先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ比率で成長するのに十分だ。富が大きくて、裕福な暮らしをしても消費が年間レント収入より少なければ、貯蓄分はもっと増え、その人の資産は経済よりもより早く成長し、たとえ労働からの実入りがまったくなくても、富の格差は増大しがちになるだろう。つまり厳密な数学的観点からすると、いまの条件は「相続社会」の繁栄に理想的なのだ――ここで「相続社会」と言うのは、非常に高水準の富の集中と世代から世代へと大きな財産が永続的に引き継がれる社会を意味する。(p.366)

また別のところではこのようにも述べています。

……19世紀と20世紀初頭に高齢者の富が急増したのは、不等式r>gとそれが意味する累積的乗法的論理の直接の結果なのだ。具体的には、最大の富を所有する高齢者は、たいてい自分自身の生活に必要な額を大幅に上回る資本所得を享受していた。たとえば5パーセントの収益を得て、その資本所得の5分の2を消費して、残りの5分の3を再投資したとする。そうするとかれらの富は年率3パーセントで増え、85歳になると60歳のときの2倍金持ちになっている。(p.409)

引用文にあるような、資本収益率が経済成長率より高い状況、すなわちr>gが長く続くことにより、大きな資産を持つ者はますます資産を増やし、それが相続されていくことで大いなる富の格差が生じるというのが、ピケティの主張の基本となる考えです。第一次世界大戦直前まで西欧では、資本所得にはほとんど税金はかけられていなかったようですし、相続税も最高税率で5%程度にすぎなかったために、このr>gの効果で、20世紀初頭では、トップ10%が富の90%を所有する超高格差社会が実現していたと言うのです。

両大戦を中心とする時期における格差の縮小とその後の復活

 しかしながら西欧の超格差社会は、二つの世界大戦を経験することで大きく変化することになります。ピケティは次のように述べています。

 二度の世界大戦による破壊、大恐慌が引き起こした破産、そして何よりもこの時期に成立した公共政策(家賃統制、国有化、そして国債からの不労所得生活者がインフレにより消滅したこと)がもたらしたショックだ。こうした各種の要因で、1914年から1945年にかけて資本/所得比率は激減し、資本所得が国民所得に占めるシェアも大幅に下落した。(p.285)

その結果、「白紙状態からの社会始動」(p.285)が可能になったのだと彼は述べています。しかし戦後50年以上も経過すると、民間の財産は二つの世界大戦以前のように復活してきます。ですが富の集中が同じような高水準に戻ろうとはしていないと彼は指摘し、その原因について分析しています。要因の一つとして彼は、第二次世界大戦後の30年間の例外的成長によって、歴史上初めて純粋な資本収益率が経済成長率よりも低くなる事態が生まれたことを挙げています。しかしながら、彼が「最も自然かつ重要な説明」(p.388)とするのは、「20世紀の政府が資本と所得に高い税率で課税を始めたこと」(p.388)です。ピケティによれば、欧米の主要国では、19世紀から第一次世界大戦にかけて、税収は国民所得の10パーセント以下だったそうです。それが次の引用文のように大幅に増えたと述べています。

1920年から1980年にかけて、富裕国が社会支出にあてようとする国民所得の割合は大幅に増えた。たったの半世紀で、国民所得に占める税のシェアは、少なくとも3倍か4倍にはなった(北欧諸国だと5倍以上)。だが1980年から2010年の間に、税金の比率はどこでも横ばいになった。横ばいになる水準は、国ごとに違った。米国では国民所得の30パーセント強、イギリスでは40パーセントぐらい、ヨーロッパ大陸は45―55パーセントだ(ドイツは45パーセント、フランスは50パーセント、スウェーデンでは55パーセント近く)。(p.494)

そしてその税収は、おもに「社会国家」、つまり福祉国家の構築に使われたというのです。結果として、特に税率の高かった北欧諸国は、潤沢な税収を、目標に向けてきちんと使い、1970―1980年代には史上最も福祉が発達した国々になりました。
ただし、富の格差は税金が増えさえすれば抑制されるということではありません。税金がどのような階層に対しても同じような税率で課されたのだとすると、結局はr>gの効果で富の格差は拡大さえしかねません。富の集中が、第一次世界大戦以前のような状況になるのをくいとめたのは、課税が累進課税の形で行われ、より裕福な者により高い税率が課されたからだとピケティは指摘します。いくつかの国の1970年、1980年、1990年、2000年、2010年の所得税と相続税の最高税率を彼の本にあるグラフから読み取って表1と表2にしてみました。

表1 富裕諸国の最高所得税率 (p.521のグラフより目分量で読み取って作成しました)

表2 富裕諸国の最高相続税率 (p.525のグラフより目分量で読み取って作成しました)

 1970年ごろのアメリカ、イギリスでは最高税率は77%―90%にも達しており、最も大きな所得あるいは相続には、没収に近い税率が課されたわけです。参考までに今年、2015年の日本の場合、所得の最高税率は4千万円越えの所得に対しての45%、相続の最高税率は6億円越えの相続に対しての55%です。所得の最高税率としては2010年のフランス、ドイツと同じ程度で、2010年の英米よりは高めです。相続の最高税率としては2010年の欧米富裕国よりは高めです。そのようなことから、現在日本は、アメリカ、イギリスはもちろんですが、フランス、ドイツに比べても、富の格差が若干低い状態にあるのではないかと推測します。
いずれにしろ累進課税の結果、今日のヨーロッパではトップ十分位(上位10%)の富のシェアは60%ほどまで高まりはしたものの、ベル・エポック期(第一次世界大戦前)のような極端なシェア90%に比べれば抑制されたものになっているのです。では、トップ十分位が失ったシェア30%はどこに行ったのでしょうか。
労働と資本の格差の構造を時間空間的に示したのが次の表3―5です(p.258の表を参考に作成しました)。この中の表4(資本所得の格差の表ですが、資産自体の格差を表していると見なすこともできます)を見て、1910年ヨーロッパ(一番右)と100年後の2010年ヨーロッパ(右から3番目)を比較してください。トップ10%のシェアは、先ほど述べましたように、1910年(ベル・エポック期)の90%から2010年(今日)の60%に30%減少しています。それに対して中間40%のシェアは、1910年の5%から2010年の35%に30%上昇しています。底辺50%のシェアはいずれの年でも5%で変化ありません。つまり、戦後の累進課税の結果、戦前の「最も富める10パーセントが失ったものの大部分」は、「『世襲中流階級』(富の階層の中間40パーセントと定義されている)が得ていて、人口の最も貧しい半数には渡っていない」(p.361)ようなのです。

表3 時間空間的に見た労働所得格差

表4 時間空間的に見た資本所得格差

表5 時間空間的に見た総所得(労働と資本)の格差

 戦後の累進課税によって最上位への富の集中度は下がり、その意味では格差は縮小しました。しかし、底辺50%に関する格差は変わっていないのです。ピケティは次のように述べています。

……大きな構造的変化は、人口のほぼ半数を占める中流階級の出現であり、それは何とか自分の資本を獲得できた個人によって構成されている――その結果、かれらは集団として国富の4分の1から3分の1を占めるにいたった。(p.361)

たとえば現在のフランスは次のような状況にあるというのです。

今日のフランスでは、たしかに19世紀に比べ巨額の財産は減った――3000万、あるいは500万、1000万ユーロの財産さえあまりお目にかかれない。しかし相続財産の総額はほぼ以前の水準まで回復し、その結果、20万、50万、100万、200万ユーロというそこそこ大きい相続や、かなり多額の相続が増えた。そのような遺産は受取人がキャリアをすべて捨てて、利子だけで暮らすには小さすぎるが、それでも相当な額で、特に人口の多くが生涯働いて得る額と比べればなおさらだ。言い換えれば私たちは、少数の非常に裕福な不労所得生活者がいる社会から、そこまで裕福ではない不労所得生活者が多数いる社会へと移行したのだ」(p.436)

こうして、2010年ヨーロッパは、表3、表4、表5と見渡しますと、労働所得においては中格差、資産においては中高格差、総合所得においては中格差と言えるような状況に至っているのです。
ところで、再び最高税率の表1、表2を見てください。英米では1980年頃まで所得と相続に対する最高税率はほとんど没収と言ってもいいほど高かったのですが、それ以降急激に低下します。1980年頃と言えば、アメリカではレーガン、イギリスではサッチャーが登場し、その後新保守主義が隆盛となり、新自由主義的な考えが支配的になっていく過渡期です。特に所得の最高税率は、大陸ヨーロッパのフランスやドイツより低い状態になっていきます。この所得課税累進性の急激な低下が、特にアメリカで、極めて労働所得の高いスーパー経営者が存在する「超能力主義社会」が登場したことの相当部分を説明するのだと。そうピケティは主張します。確かに、最高税率が没収的であり続けたならば、給与をある限度を超えてまで高める努力をするのはほとんど無意味に思われたでしょう。ところが没収的な最高税率が消えたアメリカでは、そのような努力が報われるようになったのです。そして大企業のCEO(最高経営責任者)やCOO(最高執行責任者)が十億円以上の労働所得を得たりするのを聞くようになりました。労働所得の格差を表す表3を見てください。2010年ヨーロッパ(中格差)に比べ、2010年アメリカ(高格差)では労働所得の格差が明らかに大きくなっています。さらに同じような状況が続くと、同表にある2030年アメリカのような労働所得における超高格差が生じるとピケティは予測しています。そこではトップ1%の人々が、全労働所得の17%も占めるのです。
資本所得に関しても格差を助長するような状況が生じているとピケティは述べています。それは「近年の自由な資本フロー世界における税制競争の台頭により、多くの政府は資本所得を累進所得税から除外した」(p.517)からだと彼は考察しています。金融資産を自由に移動させられることから、より多くの資産を受け入れようとする国同士が競争し、「法人税率が引き下げられたり、利子、配当などの金融収入が、労働所得のような課税対象から外されたり」(p.517)したのです。特に域内に多数の国を擁するヨーロッパで顕著だと指摘されています。その結果、多くの国で税率が、所得階層のトップでは逆進的になってしまったそうです。例えば2010年フランスの状況についてピケティは次のように述べています。

所得分布の底辺50パーセントは所得の40―45パーセントを税金で持っていかれる。次の40パーセントは45―50パーセントだ。でもトップ5パーセントと、それ以上にトップ1パーセントは低い税率になり、トップ0.1パーセントはたった35パーセントしか払っていない。貧乏人の高い税率は、消費税や社会拠出金の重さを示す(これはあわせてフランス税収の4分の3を占める)。中間の階層で見られたわずかな累進性は、所得税の重要性が増すことで生じたものだ。逆に、トップ百分位で見られる明らかな逆進性は、この水準では資本所得が重要になってくることを反映している。資本所得は累進課税からほとんど除外されているのだ。この免税の影響は、資本ストックに対する(極めて累進的な)課税による効果よりも大きい。(p.517―518)

「きわめて格差の大きい総所得の分配(トップ十分位が約50パーセント、トップ百分位が20パーセント)を社会が実現するには、二つの方法がある」(p.274)とピケティは言います。
一つ目は第一次世界大戦以前に実現した「超世襲社会」に至るまでのような、「資本収益率r>経済成長率g」が長期にわたり成立するという方法です。19世紀に比べれば若干rとgの差は小さくなったものの、基本的にr>gという条件は今も成立し続けています。もちろん19世紀のように資本所得に対する税率がほぼ0ということは現在ありません。しかし先ほど述べましたように、資本所得に対する課税が累進性から除外されていたりもしますから、この方法によって「超世襲社会」は再び実現しつつあると言えそうなのです。
2つ目は、最高税率を低く抑えた所得税を実施して、極めて高額な労働所得を得るスーパー経営者の存在を有意味にさせる、アメリカで顕著になっている方法です。そのようなスーパー経営者がいる「超能力主義社会」では、「所得階層の頂点は相続遺産による所得ではなく、とても高い労働所得によって占められている」(p.274)のです。
ピケティはr>gによって現れつつある「超世襲社会」の格差と、スーパー経営者の存在による「超能力主義社会」による格差との共存可能性についても述べています。

私が示した二種類の超不平等社会――不労所得生活者の社会とスーパー経営者の社会――の明確な対比が、単純で誇張されたものだということはお忘れなく。この二種類の格差は共存可能だ。一人の人間が、スーパー経営者と不労所得生活者を兼ねていけないという理由などない――そして、現在のところ富の集中はヨーロッパでよりも米国でずっと高いという事実は、米国がまさにそういう状態なのではと示唆するものだ。……もし両者が組み合わされば、将来的に空前の極端な格差世界が登場しかねないのだ。(p.274)

表5を見てください。2010年アメリカ(高格差)では、すでに総所得の分配の格差がきわめて大きい社会 (トップ十分位が約50パーセント、トップ百分位が20パーセント)が実現されているのです。そしてこれが二種類の超不平等社会が重なった社会への道程の一コマであるとするなら、2030年のアメリカでは、表5の一番右の欄にあるような総所得における超高格差社会(トップ十分位が約60パーセント、トップ百分位が25パーセント)が実現するだろうというのです。

格差の拡大を止めるには

 富裕国(特にアメリカ)にすでに存在する高格差社会がより激化するのを防ぎ、現在より低格差の社会にするには、英米で一時行われたような没収的な最高税率の累進課税を実施すべきだとピケティは考えています。理由はそのような累進課税が、スーパー経営者の得る不必要に高い報酬を止める作用と、社会国家(ピケティの本では福祉国家を意味します)を維持するための資金を集める作用との二つの役割を果たすからです。彼は次のように述べています。

理論モデルにおいては(また累進課税の歴史でも同様)、累進税はまったくちがう二つの役割を果たしてきたことに注目。まず収奪的な税率(分配のトップ0.5あるいは1%に対する80―90%の税率)は不適切で無意味な報酬を止めさせる役割を果たし、高いが没収的ではない税率(トップ5あるいは10%の層に対する50―60%の税率)は所得分布の下位90%からくる歳入を超えて社会国家のための資金を集める役割を果たす。(第14章の原注51)

そして彼は、先進国で最適な最高税率は80%以上であろうと提案します。しかし、このように所得税率を過去の英米で行われた高みに戻すだけでは、グローバル化している金融資本主義をコントロールして、さらなる資本集中を防いだり、リーマンショックのような金融危機を避けたりするには不足だと彼は考え、新しい手段が必要だとします。例えば、スイスの秘密主義的な銀行や、あるいはかつてのキプロスのようなタックスヘイブン的な小国に守られた、世界資本の10%を占めるとも噂される隠れ資産をも含めてコントロールしなければならないからです。そしてそのための「理想的なツールは資本に対する世界的な累進課税で、それをきわめて高水準の国際金融の透明性と組み合わせねばならない」(p.539)と述べています。
もしそのような国際金融の透明性が実現し、「誰が世界中でどんな資産を持っているかが明確に」(p.542)なれば、彼の唱える資本に対するグローバルな累進課税によって、富の格差の拡大を止めるだけでなく、「危機の発生を避けるために金融と銀行のシステムに対して有効な規制をかける」(p.542)ことも可能になりそうです。
もちろん、資本所得の方に一律に重税をかけ、民間資本収益を経済成長率より強引に下げる(すなわち実質的にr<gとする)ことで、資本の集中を避けるということも考えられます。たとえば日本では、現在株の配当などは20%の税率で課税されていますが、それを一律80%にしてしまうような手法です。しかしこれにはピケティは反対して次のように述べています。

……資本所得に重税をかけて、民間資本収益を成長率より下げることはできる。でもこれを無差別かつ強硬に実施したら、蓄積の原動力を殺しかねず、成長率をさらに引き下げかねない。すると事業者たちは不労所得生活者になる暇がなくなる。もう事業者もいなくなってしまうからだ。
正しい解決策は資本に対する年次累進課税だ。これにより、果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。たとえば、私は本書で100万ユーロ以下の財産には0.1か0.5パーセント、100-500万ユーロの財産には1パーセント、500-1000万ユーロに対しては2パーセント、数億や数十億ユーロの財産には5か10パーセントという資本税率表を支持した。これは世界的な富の格差の無制限な拡大を抑える。
むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。(p.602)

能力と努力に応じて、ある程度資産の格差が生じることは正当で、市場経済を活性化させるとピケティは考えています。また、底辺50%が所有するわずかな資産を増やしていくことは、民主主義の平等の理念にかなうことでもあるでしょう。ですから、資本からの利益に一律に没収的税率をかけることで、下流の資本所有が拡大するのまで妨げるのではなく、資本自体に累進的な課税をして、平等と格差のバランスを取ろうというのが彼の考えなのです。また資本所得に対しては、必ず労働所得と合わせて総合所得として課税するようにすれば、きちんと累進的な課税をすることができます。
ピケティは本の中では触れていません(私が見落としたのかもしれません)が、相続の累進課税も最高税率を没収的なものに当然するべきだと考えているはずです。中流以下では相応の割合で資産を残せられるようにする一方で、上位1%の相続に没収的な最高税率をあてはめるということは、格差と平等のバランスをとるのに当然必要なことだと思えるのです。もう一つピケティが触れていなかったことで私が付け加えたいのは、逆進性の要素が強い消費税は抑制気味にすべきだということです。こうしてあらゆる格差是正の手を打つべきだと思うのです。
ところで資本税については、その実現性に大問題があり、彼自身が次のように述べています。

世界的な資本税というのは空想的な発想だ。世界各国がこんなものに同意するなど、当分の間はなかなか想像もできない。この目的を果たすためには、世界中のあらゆる富についての税率表を作り、それからその歳入をどう山分けするか決めねばならない。でもこの発想が空想にすぎなくても、いくつかの理由で役に立つものではある。まず、この理想に近いものすら当分の間は実施できないにしても、有益な参照点として使える。これを基準にして他の提案を評価するわけだ。もちろん世界的な資本税には、たしかにきわめて高い、そしてまちがいなく非現実的な水準の国際協調を必要とする。でもこの方向に動こうとする国々は、段階的にそちらに向かうことも十分できる。まずは地方レベル(たとえばヨーロッパなど)から始めるといい。(p.539)

真にグローバルな資本税を実施するには、すでに引用した文の中にあったように、「誰が世界中でどんな資産を持っているかが明確になる必要がある」わけで、そのためには「高度な国際協力と地域的な政治統合」を実現しなければならないという困難があるわけです。しかし「世界的な資本税は、経済の開放性を維持しつつ、世界経済を有効な形で規制し、その便益を各国同士や各国の中で公正に分配できるという長所がある」(p.540)のです。このような税制をあきらめるのはあまりにももったいなくはないでしょうか。そこで彼が「まずは大陸か地域レベルで導入し、その後地域間の協力を密接にするように取り組めばいい」(p.540)と言っているように、EUと北米などでモデル化と実験を行い、その成果をもとに他の地域へ広めることにするのが現実的なアプローチなのでしょう。
このエッセイの冒頭で、資本所得に対する税率がゼロである想像上の日本における、資産10億円、労働所得1千万円のご夫妻について考え、20年も経過すると、その資産価値が2倍にもなるというシミュレーションを行いました。このご夫妻が、経済成長率1%、資本収益率5%というのは同じでも、税制が格差解消を実現するためのグローバルなものに変わった、別の想像上の日本に住むことになったとします。ここでは、所得税は資本所得と労働所得の両者を合わせた総所得に最高税率80%の累進課税となっています。また資本税は、ピケティの案を参考にして、1億円未満では0.1%、1億~5億円では1%、5億~10億円では2%、10億~100億円では5%、100億円越えでは10%の累進課税だとします。
ご夫妻の資本所得は5千万円になりますから、労働所得の1千万円を加えますと、総所得は6千万円になります。この程度の所得ですと、高収入ではあっても、没収的な税率が課されるスーパー経営者的な所得ではありません。そこで、この所得に対する税率は60%だとします。そうしますと資本収益5%の内の6割、5×0.6=3%は税金で持っていかれてしまいますから、仮に税引き後の収益を全て再投資しても、5-3=2%の成長率にしかなりません。また、10億円の資産は、資本税の税率がぎりぎり2%に収まりますが、これは今計算しました成長率2%をちょうど帳消しにしてしまいます。ですから資産はまったく成長しません。さらに、経済成長率1%を差し引いた資産の成長率(資産価値の成長率)は-1%ということになります。このように、今仮定したような税制を持つ社会では、10億円の資産は、その資本収益を全て再投資したとしても、価値を維持していくことはできません。さらに言えば、労働所得1000万円の方にも総所得に対する60%の税率がかかりますし、子供の一人は高校進学、もう一人は大学進学を控えていますから、教育費を含めた生活費として、資本所得の一部を回す必要も出てくるでしょう。そうしますと、さらに資産価値の成長率のマイナス分は大きくなることでしょう。また、遺産相続での税率も最高税率80%の累進課税になっているとしますと、このご夫妻の子供の代で受け取る相続資産は大幅に減ることになります。同じような低経済成長率、高資本収益率であっても、第一次世界大戦前のような極端な資本集中、あるいは資産格差に至ることはなくなり、それどころか現時点の格差を解消する方向へ向かわせます。これがピケティの考える税制の狙いなのです。

ピケティが目標とする格差と彼の理想

 ピケティの税制案を採用し、グローバルな資本課税が行えたとして、富の格差はどの程度まで下がればいいと彼は考えているのでしょうか。労働と資本の格差の構造を時間空間的に示した表3―5を再び眺めてください。彼が目標とするのは、低格差と書かれている欄に示されているもののようです(表4で低格差の欄に理想社会と書かれていることからもそれは推察できます)。労働所得と総所得に関して言えばそれは1970―1980年代の北欧程度の格差であり、資本所得あるいは資本そのものに関して言えば、1970―1980年代の北欧でのトップ10%のシェアを50%から30%まで20%減らし、減らした分の5%を中間40%に、15%を底辺50%に移動させ、底辺層でもそれなりに富を保有できるようにしたときの格差です。乱暴に言えば、1970―1980年代北欧で実現されていた福祉社会で、底辺階層の富のシェアをある程度厚くしたもの(このような社会を古典的福祉社会と呼ぶことにします)を、グローバルな規模で完成させるというのが彼の目指すところです。
ピケティは現代民主主義社会における能力主義による富の格差の正当性を認めていますから、格差を全くなくすことは考えていません。ただ、その能力主義的正当性には条件がつくのだと、フランス革命の際の人権宣言にからめて次のように述べています。

フランス人権宣言(1789年)第1条もまた「人は自由に生まれ、自由のまま権利において平等な存在であり続ける」と宣言する。でもこの一節の直後には次の宣言がある。「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」 (p.498)

すなわち、能力と努力という正当性があるとしても、格差は共同体の利益に基づかなければならないのですから、社会不安を生じさせたり、能力の正当な評価に基づいているかどうか疑われたり、金融危機の誘因になったり、あるいは福祉社会の維持に反するようなものになってはいけないのです。そのような条件をクリアーしていれば、全体としては先程述べた程度の低めの格差に収まればいいと彼は考えているのでしょう。
ただ彼には、できれば相続による富の継承は完全になくすべきだという本音があるように私には思えます。「理論上は、すべての人々がすべての富を終身年金に切り替えて、死ぬときにはすべてを使い果たしている世界も十分に想像できる」(p.414)とか、「エミール・デュルケムは、現代民主主義社会はいつまでも相続財産の存在を許すはずはなく、最終的には死とともに財産所有権が消えるようにするはずだと予言している」(p.438)というようなことを肯定的に述べていることから私はそのように推察します。
さらに推察を続けると、彼が考える現代民主主義社会のメンバーたる個人とは、誰もが基本的人権に基づく生活保障を十分に受けられるという意味で平等に生まれるものであり、能力と努力の対価となる富を得ることは正当だと認められ、ある程度の格差を享受することも許されるが、死とともに全ての所有権を失い再び平等な状態に戻って完結するものなのです。能力や努力によらず、血縁などに基づいた相続で得る富は、本来的には個人の人生に全く関与すべきではないのです。個人は、出自などに影響されることなく、等しく理性と良識を持った合理的存在として、同じ合理的な存在と連帯で結び付いた社会で平等に生まれ、平等に死ぬことで完結する存在。フランス革命の人権宣言、そして民主主義の自由、平等、連帯の理念に沿う人間は、本質的にはそのようなものだと彼は考えているように私には見えます。

より先進的な福祉社会と人間観

 グローバルと言うには程遠い規模ですが、北欧では1970―1980年代に、ピケティが許容できる低格差高福祉社会に近いものを達成していたわけです。その中でもスウェーデン(あるいは政権党であった社会民主党)は90年代から、古典的福祉国家を超えて、「緑の福祉国家」というより高度な社会の構想を提示しました。
古典的な福祉国家、あるいは福祉社会では、人は理性と良識を持つ合理的な個人で、そのような個人が互いに連帯して、生活が保障されるような共同体を構築することになります。また、市場経済と私有財産は社会を構成する重要な要素で、能力を自由に発揮して、努力することで得られた富の所有とそのために生じる格差も、それが共同体の利益に反しない限りは認められるので、決して活気のない社会ではありません。これらのことだけを見ると、文句のつけようはないと思えます。
しかしエネルギーの有限性、急激な気候変動、有害物質による環境汚染、開発による急激な自然破壊などによって、現在のような大量生産・大量消費社会が持続するのは困難だということは大分前から明らかになっています。そのため構造改革を実行し、持続できる社会を造る必要にせまられているのです。そのような変革案として登場したのが、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎著、朝日新聞社、 2006)で紹介されているスウェーデンの「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」という考えです。
同書によるとスウェーデンは、「生態学的に持続可能な社会への道(緑の福祉国家)」を選択し、1996年に「25年後の2021年次の望ましい社会を想定したプロジェクト」をスタートさせ、1999年に「2021年のスウェーデン――持続可能な社会に向けて」という研究成果を公表したとあります。そして、この「将来のあるべき社会の姿」への長期ヴィジョンを実現するために行動計画が作られ、新しい法律の作成・社会制度の変革・技術開発の変革が実行されつつあるそうです。タイムスケジュールも含んだ、持続可能な社会を実現するための具体的ヴィジョンを持っていて、環境問題への対処を後回しにしていないのです。そして「緑の福祉国家」には、①社会的側面、②経済的側面、③環境的側面という三つの側面があります。①と②は、合理的な個人としての人間を大事にする、古典的福祉国家としての側面です。③は、新たに加わった環境を大切にするという側面であり、その背景には、「健全な環境は基本的な人権の一部」だという考えがあります。つまり、人という概念の中に、その土台としての自然生態系(環境)の一部であることが含まれています。人は、合理的存在ではあるけれども、より基本的なレベルでは動物でもあり、さらには人類が登場するまでの進化の過程で現れた自然の全てのレベルを含んだ存在だという考えがそこにはあるようです。小澤徳太郎氏が次のように述べていることが的確にそのことを表現していると思えます。

人間は動物である。ある範囲の温度・湿度・気圧・重力のもとで、光を浴び、空気を吸い、水を飲み、動植物しか食べられない!(『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』p.74)

また、同じく『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』によれば、スウェーデンの動物保護法(1998年動物福祉法と改称。小澤氏のブログより)では、「動物は本来持っている自然行動を考慮した環境で飼育されなければならない」ので、例えば繁殖用の母豚の飼育であれば、寝床、餌場、排泄場所を別々にしなければならないとされています。このようなことは、人間の動物としての部分と同様に、自然生態系の一員としてのその他の生物にも、そのレベルに相応しい権利を認め、尊重すべきだと考えていることを示しているのでしょう。
古典的な福祉社会のメンバーである人間は合理的な個人でしたが、緑の福祉国家のメンバーである人間は、内に自然を含む統合的なものなのです。民主主義の理念における連帯ということも、合理的個人をメンバーとする共同体での連帯(世界中心的)から、自然生態系を母体とする共同体での連帯(地球中心的)へと変容しているように見えます。
ピケティも『21世紀の資本』の最終章で持続可能性について語っています。

……公的債務は私たちの主要な心配事ではない(これは総民間財産よりずっと小さいし、なくすのはそんなにむずかしくないかもしれない)。もっと緊急の必要性は教育資本を増やし、自然資本の劣化を防ぐことだ。これははるかに深刻で困難な課題だ。気候変動は一筆書いただけで(あるいは同じことだが資本税で)消えるものではないからだ。(p.599)

……先端研究が急速に進歩して再生可能エネルギー源を開発してくれるよう期待するのか、それともすぐさま自分たちの炭化水素消費に厳しい制限を課すべきなのだろうか?たぶん既存のツールすべてを活用する、バランスのとれた戦略を選ぶのが賢明なはずだ。(p.599)

これらの引用文から、彼も生態系の変容を差し迫った危機と捉えている様子がうかがわれます。人間は単に理性的な自我を持った個人であるだけではなく、その基本として自然界のレベルも内に持っている。従って人間はグローバルな福祉社会という共同体の一員であると同時に、より基本的には健全な全地球的生態系の一員であるべきなのだ。そういう発想も彼は持っているのかもしれません。そうであれば、民主主義社会としてはあまりに不公正な富の高格差を是正すること以上に、人間の大量生産・大量消費活動によりバランスを崩された、言わば生態系での不公正な高格差の是正こそが実はより緊急な課題なのです。従ってピケティの主張するような税制改革をグローバルに行う際には、その税を一時的には持続可能な社会の建設へ優先的に投資し、一気にグローバルな緑の福祉社会に進む戦略が必ず伴わなければ私たちの共同体に未来はないのでしょう。しかしそれは20年ほど前にはスウェーデンが国の規模で構想し、またそれに倣って5年前にサングラハ教育・心理研究所が母体となって設立した「持続可能な国づくりを考える会」が日本を対象に構想した戦略を、地球規模で行うことにほかならないのだと思います。

(2015年5月発行「サングラハ141号」、2015年7月発行「サングラハ142号」に掲載されたものをもとにしています)