『自己決定権という罠—ナチスから相模原障害者殺傷事件まで』における非実体的人間観

増田満

はじめに

 2016年7月、障害者施設「津久井やまゆり園」の入所者19人を殺害し、職員ら26人を負傷させた相模原障害者殺傷事件の植松(さとし)被告に、横浜地裁青沼潔裁判長が死刑判決を言い渡しました。2020年3月16日のことです。翌日の新聞に掲載された判決理由には、「殺人については他の事例と比較できないほど甚だしく重大であって、犯行の態様や動機を踏まえても、犯情は限りなく重く、被害者遺族らが峻烈な処罰感情を示すのも当然である」(1)とありました。同紙には、2カ月あまりに及んだ裁判を振り返っての、裁判員や有識者の一言も紹介されていましたので、いくつか引用してみます。

「刑事責任能力という意味では答えを出せたが、彼が心の底で何を思っていたかは分からなかった」(裁判員の一人)
「背景に迫ることを期待したが、非常に浅い印象。世の中にあふれる差別という問題に、社会が向き合うべきだ」(藤井克徳・日本障害者協議会代表)
「公判は生い立ちまでを含めた経緯を明らかにする場だが、今回は障害者やその家族の願いとはほど遠い」(最首悟・和光大学名誉教授)(2)

 事件当時大麻を乱用していた被告の刑事責任能力の有無に関しては明確に有の結論を出した法廷ですが、凶行に至ったことの背景・原因の解明を期待していた人たちには物足りなく感じられたようです。ではそれらの人たちはより具体的にどのようなことの解明を求めていたのでしょうか。
 公判開始のおよそ一カ月前に神奈川新聞に掲載された記事(3)によると、「障害者は不幸をばらまく存在」だとする被告の主張に同調する投稿が、事件後からずっとネットにあふれ続けているとあります。同記事には、被告との接見や文通を通じたり、大学の講義を通じたりして、そういう風潮を社会に問い続けている人たちへのインタビューも掲載されていました。今度はそれらからいくつか引用してみます。

「日本社会には『働かざる者、食うべからず』という、生産能力の低い者を排除する風潮がある。植松被告のような考えを心に持つ人は社会の圧倒的な多数派だ」(最首悟和光大学名誉教授)
「(植松被告は)今の日本の風潮を体現した『時代の子』。いわゆる、ネット民の象徴であり、ネットに自己責任を書き込む人の象徴。要するに(植松が言うところの)『社会のお荷物』のせいで、自分たちがこれだけしんどいんだという風潮に洗脳された若者の一人」(ノンフィクションライター 渡辺一史氏)
「ナチスに『いきるに値しない命を終わらせる行為』を実行に移させた思想は、今も残っていないだろうか」「強者が生き残り、弱者が駆逐される『適者生存』『自然淘汰』の考えは深く根付き、事あるごとに日本社会の表層に顔をのぞかせてきた」(田坂さつき立正大学教授)

 以上わずかな引用ですが、これらを読むと、植松被告のあの歴史的な凶行の原因には、実は日本人の多くが共有している基本的な考え方があると識者の方々は考えているようです。私たちの多くが共有していて普段無自覚に従っている考えにこそ、植松被告が犯行にいたった根本原因があり、それを明確にすることこそが、この事件の背景・原因の解明を求める人たちが期待していたことだと思えました。法廷はそういう期待に応えられなかったのでしょうが、半年ほど前に読んだ『「自己決定権」という罠——ナチスから相模原障害者殺傷事件まで』(4)における論考には、思い返すとそういった期待に応えているところが多々あった気がします。
 著者の小松美彦東京大学大学院教授のことは、昨年(2019年)9月、終末期医療に関するご講演(5)をお聞きするまで知りませんでしたが、その際語られたことは私にとってショッキングでした。安楽死・尊厳死、脳死・臓器移植の法制化に関する議論の活発化は、人権を重視しながら行われているように見えて、実はその背後に福祉国家や生資本主義者の打算があるというのです。しかもそこには、多数の障害者の安楽死とユダヤ人のジェノサイドをひき起こしたナチスの思想や、凶行を行った植松被告の思想との共通性があり、そのさらに大元には、私たちの多くが無意識に信じ込んでいる個人主義的人間観があるというのです。小松氏はその人間観を否定し、人々の関係性を強調するより現実に適合する実存的な人間観を提示していました。講演でお聞きしたこれらのことは本書に詳しく書かれていて、日本のこれからを考えるうえで非常に参考になると私には思えました。そこで、植松被告の犯行に対する判決が出たこの機に、本書の内容を私なりに少しご紹介したいと考えました。それがこの小文を書いた理由です。
 本書は安楽死、臓器移植の問題を中心に書かれていますが、その際に個人主義、自己決定権、尊厳といった概念が重要な役割を果たします。そこでこの小文では、まずそれらを簡単に確認し、それから本書が主題にしている安楽死や臓器移植などの話題に入っていくことにします。最後に、小松氏の主張する関係性重視の人間観に触れることにします。
 なお、Wikipediaの「相模原障害者施設殺傷事件」の項によれば、植松被告の弁護人は、2020年3月27日付で判決を不服として東京高等裁判所に控訴しましたが、被告人自身が控訴期限となる2020年3月30日付で東京高裁への控訴を取り下げる手続きを行い、横浜地検も控訴しなかったため、控訴期限を過ぎる2020年3月31日0時(日本標準時)をもって死刑が確定したそうです。

(1)「相模原殺傷事件 判決の要旨」 読売新聞 2020年3月17日
(2)「なぜ差別 迫れず‥‥相模原45人殺傷 死刑判決 遺族「悲しみ消えない」」 読売新聞 2020年3月17日
(3)「障害者はいらないのか?19人殺害の「なぜ」に向き合う」 神奈川新聞 2019年12月13日
(4)小松美彦 『「自己決定権」という罠——ナチスから相模原障害者殺傷事件まで』、言視社、2018
(5)まちだ市民大学HATS 人間科学講座—テクノロジー・いのち・人権— 第2回「人生の最終段階における医療とは何か——ナチス安楽死思想と現在」 2019年9月25日

個人主義的人間観

 本書には、「個人主義を重視する今の世の中」(p.15)という記述があり、現代日本人の基本的な考えに個人主義があるとしています。まずこの個人主義について少しだけ明確にしておきます。Wikipediaの「個人主義」の項には次のように書かれています。

個人主義(こじんしゅぎ、英: individualism、仏: individualisme)とは、国家や社会の権威を否定して個人の権利と自由を尊重する立場。あるいは共同体や国家、民族、家の重要性の根拠を個人の尊厳に求め、その権利と義務の発生原理を説く思想。

 デジタル大辞泉や明快国語辞典にも大体同じことが書いてありました。個人が自分自身の意向、権利、自由を重要視するのは当然である、ただ、複数の個人が互いにかかわり合いながら生活を送っている現実では、各自の意向、権利、自由が衝突する場合もあるだろうから、それらを調整するルールを持つ共同体が必要となり、そこに共同体の重要性の根拠を求めることができる、というようなことなのでしょう。荒っぽく言うと、個々人は本来ばらばらに切り離されることができる存在であり、それらが二次的に関係性を持って社会生活を送っているのだと個人主義は見なしているのです。本書で小松氏は個人主義を否定するのですが、その際次のような一文がありますから、だいたいこのようなイメージで個人主義を捉えているとして間違いないでしょう。

私は個人主義の立場をとりません。「私は私、あなたはあなた」と区別して考えることが、「私」と「あなた」だけを前景化し、二人をつないでいる「間」を、見えなくすると思うからです。(p.197)

 共同体は人々の間にある多様な関係から成るのですが、そこでの最も重要な基本単位は、関係性ではなく、ばらばらに切り離すことができる個々人であると見るのが、現代の多くの日本人が無意識にイメージしている個人主義だと本書は捉えているのです。

自己決定権

 本書では、自己決定権とは、「他人に迷惑をかけなければ、自分のことは自分で決めてよいとする考え方」(p.15)だとしています。他人の権利・自由を甚だしく侵害するようではまずいけれど、そうでないかぎり自分に関係することは自分の思うように決める権利があるという、個人主義的な考え方のことです。特に若い世代には、「所有権は処分権を伴うという自己決定権にもとづいた感覚」(p.60)が強く支持されているとして、本書には次のように書かれています。

彼/彼女らはよく「周りに迷惑をかけなければ何をしてもいいじゃない、だから、ごちゃごちゃ言わないで」と主張するわけですけれども、その延長線上に、「自分の身体は自分のものだ。だから自分の判断で何をしてもいい」という自己決定権的な感覚が、度し難くあるのだと思うのです。(p.60)

 自分の人生、自分の身体、それらは自分の所有物であるとすれば、人生の進路を決定するのも、身体に入れ墨を入れたり顔を整形したりするのも、自分の判断で決めていいだろうということです。女子高生がブルセラで自分のパンツを売るのも、援助交際で自分の身体を売るのも、自分の判断で決めていいのです。人生の最後の部分である死も、人に迷惑かけないのであれば、自己決定する権利が当然あるのです。特に自己決定権が蔓延した90年代以降の日本では、新自由主義という、「個人の自由を前面に強く押し出す一方で、これを自己責任とセットにしてことに当たろうとする考え方」(p.30)が浸透していたと本書では見ています。自己決定したかぎりは、事業に失敗してホームレスになろうが、それは自分の責任なので、周りの援助は原則期待できないですよ、ということなのでしょう。復活への再挑戦のためにセーフティネットをちゃんと用意してくれている甘い社会を期待すべきじゃないのです。

人間の尊厳

 個人主義、自己決定権の次に、本書を読むうえでその意味を確認しておくべきと思ったもう一つの概念が人間の尊厳です。第二次世界大戦の反省のもとに、1948年第3回国際連合総会で採択された世界人権宣言(1)の第一条に「人間の尊厳」は高らかに謳われています。本書はその条文を引用しています。

  すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。(p.255)

 この部分を起草したのは、ジャック・マリタンというカソリック系の神学者・哲学者だそうですが、本書は彼の人間把握について次のように述べています。

 ①人間を動物より上位に見立て、②その根拠を理性・知性・意志・精神などの有無に求め、③しかも、精神・理性を身体より崇高なものとしている(p.256)

 そうして本書は、特に②にある理性・知性・意志・精神が、マリタン考えるところの、すなわち世界人権宣言でいわれているところの人間の尊厳にほかならないとしています。
 ところで、世界人権宣言が採択された時より28年も前の1920年、ワイマール共和国時代のドイツで、カール・ビンディングという法学者とアルフレート・ホッヘという精神医学者が、安楽死させるべき人間を限定するために考えた「人間の尊厳」について、本書は次のように述べています。

彼らによりますと、「人間の尊厳」は、まず「自己意識」にあります。つまり、自分が自分であることをきちんと認識しているのが人間である。もう一つは、「自分で生きようとする意志」があることです。自己意識と生きようとする意志、この二つを併せもっていることが「人間の尊厳」に他ならない。これは他の動植物には絶対にないものだ。それが人間の人間たる所以でした。(p.251~252) 

 この考えが説かれたビンディングとホッヘの著書は、ナチスが知的障害者と精神障害者を、尊厳のない者として安楽死させる際の教則本として使われていたそうです。
 これまで述べてきたことから、国際連合(世界人権宣言)、ナチス、そして国際連合に所属する日本国も、「人間の尊厳」について似たり寄ったりの認識をもっていると言えそうです。動物が持たない、理性と良心、あるいは理性・知性・意志・精神、あるいは自己意識と生きようとする意志、が「人間の尊厳」なのです。そして人間の尊厳を持つものにこそ、生存権をはじめとする人権は明確にあるといえるのです。もし人間と呼ばれている集団の中に、人間であるからこその尊厳(人権)を持つものと、そうでないものがいるとしたら、矛盾した事象を尊厳は創り出してしまうことになります。その矛盾をなくそうとするなら、尊厳の有無を人間であることの必要条件にしない人間観を創るとか、あるいは逆に尊厳のない者は人間から完全に除去するとかの方法が考えられるでしょう。

(1)国際連合広報センター(United Nations Information Centre)のHPに世界人権宣言のテキスト全文が載っています。

自己決定権と安楽死・尊厳死

 個人主義、自己決定権、尊厳などについて簡単に意味を確認してきました。そこで本題です。安楽死と臓器移植が本書の大きなテーマなのですが、まずは安楽死について、特に自己決定権とのかかわりについて、一般的なことを見ていきたいと思います。安楽死(euthanasia)とは人または動物に苦痛を与えずに死に至らせること(1)ですが、この小文では断りがなければ人の場合を指すことにします。
 インターネットサイトの「世界深層 in-depth」に安楽死先進国オランダに関する記事がありまして、次のように書かれています。

 オランダの安楽死法では、(1)患者が自発的に要望している(2)耐えられない苦痛があり回復の見込みもない(3)他の医師も安楽死が妥当と判断している(4)医師が患者に執行を知らせる——などの6条件を満たせば、医師は患者を安楽死させることができる。事前に作成した意思表示の書面も効力が認められている。(2)

 オランダで安楽死が認められるための条件について、朝日新聞も報道しています。比較のため引用してみます。

安楽死が認められるために必須となる条件は(1)患者本人による完全に自発的な要求であること(2)患者が、改善の見通しがない耐えがたい苦しみに襲われており、安楽死以外の解決策が存在しないこと(3)安楽死の担当医以外の医師が本人を診察し、安楽死の是非について意見(セカンドオピニオン)すること、などだ。安楽死のやり方は、患者自らが薬を飲む場合と、医師が静脈に薬を注入する場合の2種類がある。(3)

 どちらの記事でも、(1)の条件が自己決定権に関する項目です。その他の条件も満たされているなら、本人の要望通り自己決定権を行使させ、安楽死させるのに問題はないと私には思えます。末期がんで日夜非常な痛みにさいなまれていて、本人が死を望んでいるのに、「死なれちゃ迷惑だ」などと言えるほどの理由はあるでしょうか?朝日新聞の記事によれば、「オランダでは2016年、6091人が安楽死した。その7割近くが末期がん患者で、加齢によるさまざまな苦しみを原因とする安楽死は244人、認知症患者の安楽死は141人」(3)とあります。すなわち、多くの場合、耐えがたい痛みに苦しめられており、死への意思もはっきりしていたのでしょう。ところが、認知症患者の安楽死では、次のような、医師が刑事責任を問われた事例があったそうです。

問題となった安楽死は16年4月、ハーグの高齢者施設で、アルツハイマー病の女性(当時74歳)に対して施された。医師はコーヒーに鎮静剤を混ぜて眠らせ、致死薬を注射しようとした。しかし、女性が起き上がり、家族に押さえつけてもらったうえで注射をし、死に導いた。

 女性は事前に書面で病状が悪化した場合に安楽死を望むと意思表示していたが、施設入所後は周囲に「死にたくない」とも話していた。その後、病気が進行し、女性は「安楽死」という言葉すら理解できなくなった。医師は書面を確認した上で女性の家族や他の医師の意見を聞いたが、女性本人には告げず、安楽死に踏み切った。(2)

 この件は小松氏も私が聞いた講演で触れていました。裁判では、裁判所が「書面や家族への意思確認の有効性を認め」(2)、医師が十分な意思確認を行ったとして3年後の19年無罪になったそうです。安楽死の第一の条件は自己決定していることなのですが、認知症が進んでいたので、前もっての書面での意思確認はできても、その後での、安楽死実施直前までの意思の揺らぎについての確認ができなかったことが問題だったのでしょう。「口頭確認により、間違いなく患者のためになることとして安楽死を施していると確信したい医師も多い」(2)という終末期医療研究者の話や、6人の患者を安楽死させたあるオランダの医師が「安楽死に一般論はない。状況は患者ごとに違い、しっかり向き合うことが重要だ」(2)と語っていたことも同記事には載っていました。安楽死の事例の中には、法で定められた条件に明確に当てはまるかどうか疑問を持たれる場合もあるのです。
 今参照した例は、「医師が患者に直接、致死薬を投与して死なせる」(2)「積極的安楽死」と呼ばれるものの一つで、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダとオーストラリアの一部の州で認められているそうです。「患者が医師から提供された致死薬を飲んで死を選択する」(2)場合は、「自殺ほう助」であり、オランダ、スイス、アメリカの一部の州で認められているそうです。先ほどの、オランダでの安楽死の条件に関する朝日新聞の記事に、「安楽死のやり方は、患者自らが薬を飲む場合と、医師が静脈に薬を注入する場合の2種類がある」と書かれていましたから、オランダではこのタイプの「自殺ほう助」は安楽死に含まれているのでしょう。
 安楽死には、「患者の意思に基づいて終末期の患者に延命治療を行わなかったり、中止したりすることで自然と死に導く」(2)消極的安楽死と呼ばれるものもあるそうです(日本では尊厳死と呼ばれています)。これは、英国、ドイツ、フランスなどさらに多くの国が容認しているそうです。ただ、積極的安楽死にせよ、消極的安楽死にせよ、自殺ほう助にせよ、本人の意思確認を必須条件にしていることに変わりなく、自己決定を前提としています。認知症などで直前に意思を確認できない場合は、前もっての意思表明が必要です。先ほどの裁判例は、認知症のためきちんとした直前の意思確認ができなかったが、前もっての意思表明があったがために無罪になった事例です。
 小松氏はしかし、自己決定権自体を問題視していて、例えば「私たちはまわりの人たちの影響のなかで生きていかざるをえないのに、そこに権利という言葉をあてがって互いを遮断してしまうとしたら、互いのわがままを、権利で保証し合う結果になってしまう。」(p.44)と本書で書いています。こういう言葉に、この小文の最後に話題にしたい個人主義的ではない小松氏の人間観が現れています。

(1)Wikipedia 「安楽死」の項より
(2)「オランダ 認知症増 揺れる安楽死…意思確認難しく」 [世界深層 in‐depth] 2020/02/20 05:00
(3)「消極的安楽死?尊厳死? 日本とオランダ、どう違う」 朝日新聞デジタル 2018年3月5日 18時34分

自己決定権と臓器移植

 安楽死の次には、臓器移植について、特に自己決定権とのかかわりにおいて、一般的なことを見ていきたいと思います。
 Wikipediaによれば、臓器移植は「病気や事故により臓器が機能しなくなった人に対して他の人の健康な臓器を移植して機能の回復を図る医療」(1)です。臓器を提供する人はドナーと呼ばれ、提供される人はレシピエントと呼ばれます。病気や事故により臓器を移植しなければ延命できない人たちが多数いるなら、その人たちを助けるために臓器移植を盛んにさせたくなるのは当然でしょうから、医療技術の発展に伴って実施例が増加し続けているのは納得できます。
 臓器移植は、ドナーの状態によって大きく二つに分類されます。生きているドナーから臓器が提供される生体移植と、死亡したドナーから提供される死体移植です。移植する臓器は健康なものでなければならないので、一般的に言えば生体移植が望ましいことになるでしょう。また自己決定権の考えからすれば、移植には当然臓器の所有者であるドナーの意思の確認を必要とするでしょう。日本移植学会のホームページで「臓器移植Q&A」のところを見ますと、肝臓、膵臓、腎臓、肺などで生体移植は行われているようです。(2)当然ながら、元気な人から心臓の生体移植はできません。
 死体移植には、「ドナーが脳死と判断された後に臓器等を取り出す」(1)脳死移植と、「ドナーの心停止後に臓器等を取り出す」(1)心臓死移植(心停止移植)があります。後者の場合、「心停止後は臓器の機能が急速に衰えることから移植の対象は膵臓・腎臓・眼球など一部の臓器に限られる」(1)そうです。従って、心停止にはなっていない脳死での移植の方が一般的には望ましいことになるのでしょう。
ところで、脳死移植にせよ、心停止移植にせよ、生体移植の場合のように移植の直前にドナーの意思を確かめることはできません。そのため、あらかじめの意思の確認が必要になります。日本臓器移植ネットワークのホームページによりますと、日本では、健康保険証、運転免許証、マイナンバーカード、インターネットによる意思登録、意思表示カードで臓器提供の意思表示ができるそうです。(3)
 また、日本の臓器移植件数は、アメリカやヨーロッパに比べて少ないのですが、その理由について、日本臓器移植ネットワークのホームページには次のように書かれています。

その理由として日本では、法改正後も脳死後に臓器を提供する場合に限定して脳死は人の死とされますが、世界のほとんどの国では、臓器提供とは無関係に、脳死は人の死として認められていることや臓器移植に関するガイドラインの厳しさが大きく影響しているものと考えられています。

 それに対し、アメリカ、ドイツ、イギリスなどでは、本人の生前の意思表示または、家族の同意のどちらかがあれば、脳死後の臓器提供が行われます。また、オーストリアやフランス、スペインなどでは、本人が生前、臓器提供しない意思を示しておかない限り、臓器提供するものとみなされます。(4)
 どうやら、脳死に関しては、呼び名に「死」という語が入っていても、日本では法律上死とされていないのです。そこで、脳死について次の項で簡単に調べておきたいと思います。

(1)Wikipedia 「移植」の項より
(2)「一般社団法人日本移植学会」のホームページ 臓器移植Q&A 移植について Q3 「臓器移植にはどのような種類がありますか」 より
(3)「公益社団法人日本臓器移植ネットワーク」のホームページ 「臓器提供に関する意思表示欄の記入方法」 参照
(4)「公益社団法人日本臓器移植ネットワーク」のホームページ 「海外と日本で行われる移植医療に違いはありますか」 参照

脳死とは

 「岡山県臓器バンク」のホームページによりますと、人の脳は「大脳、小脳、脳幹(中脳、橋、延髄)」(下図参照)から成っているそうです。そして次のようにそれら各部の働きを述べています。

■大脳 知覚、記憶、判断、運動の命令などの高度な心の働き
■小脳 運動や姿勢の調整
■脳幹 呼吸・循環機能の調整や意識の伝達など生きていくために必要な働き(1)

 大脳は、人間の尊厳を生じさせる部位であるようです。ところで、同ホームページは、脳死には全脳死と脳幹死の二種類あるとしています。その詳しいところを、今度はWikipediaの「脳死」の項からの引用文で確認したいと思います。

脳死(のうし、英: brain death)とは、ヒトの脳幹を含めた脳すべての機能が不可逆的に回復不可能な段階まで低下して回復不能と認められた状態のことである。ただし国によって定義は異なり、大半の国々は大脳と脳幹の機能低下に注目した「全脳死」を脳死としているが、イギリスでは脳幹のみの機能低下を条件とする「脳幹死」を採用している。日本では、脳死を「個体死」とする旨を法律に明記していない。
 古来、医学が発達していなかった頃、心停止が人間の死と見做されていた。医学が発達した現代では一般に、脳,心臓,肺すべての機能が停止した場合(三徴候説)と定義されており、医師が死亡確認の際に呼吸、脈拍、対光反射の消失を確認することはこれに由来している。
 生命反応を確認する順序としては

1. 肺機能の停止
2. 心臓機能の停止
3. 脳機能の停止

という過程を辿ることになる。
 しかし医療技術の発達により、脳の心肺機能を制御する能力が喪失していても(そのため自発呼吸も消失していても)、人工呼吸器により呼吸と循環が保たれた状態が出現することとなった。すなわち、

1. 脳幹機能の停止で本来ならば心肺機能が停止するはずだが、人工呼吸器により呼吸が継続される
2. 心臓機能も維持される

 これらが一定の手順によって確認された状態が脳死である。脳死は、心肺機能に致命的な損傷はないが、頭部にのみ(例えば何らかの事故を原因として)強い衝撃を受けた場合やくも膜下出血等の脳の病気が原因で発生することが多い。逆に、心肺停止となった時点で数分以上経過すると、脳は低酸素状態に極めて弱いため、脳死となる可能性が高くなる。(2)

 「自己決定権と臓器移植」の節で述べましたが、「心停止後は臓器の機能が急速に衰えることから移植の対象は膵臓・腎臓・眼球など一部の臓器に限られる」のですから、心肺機能が維持されている脳死を個体死として扱うことができれば、その他の臓器の移植も可能になります。従って、臓器移植の進展を期待する人々からすれば、多くの国がそうしているように脳死を個体死と認めることが望ましいわけです。なお、植物状態は、「大脳の機能の一部又は全部を失って意識がない状態ですが、脳幹や小脳は機能が残っていて自発呼吸ができることが多く、まれに回復することもあり脳死とは根本的に違う」(1)そうです。では脳死を完全には個体死と認めていない日本での臓器移植の状況はどうなっているのでしょうか。先ほどドナーカードのことなどは述べましたが、小松氏の本を中心に、もう少し詳しく見ていきたいと思います。

(1)岡山県臓器バンクのホームページ Okayama OrganBank Net より
(2)Wikipedia 「脳死」の項より

日本の臓器移植法と自己決定権の空無化

 本書p.208~209によると、1997年に制定された「旧臓器移植法」の特徴には次のようなことがあるそうです。

・臓器提供する場合に限って脳死を人の死(の基準)としたこと
・脳死状態をもって死とすることも、臓器を提供することも、患者本人の事前意思が絶対視されたこと
・本人の意思を家族が追認すること

 小松氏の評価によれば、この法は慎重派の多くの人々も受け容れた「非常に民主的な法律」(p.209)です。ところが、このように脳死者の人権を重視した、「本人の自己決定と家族の承諾という二重の縛り」(p.209)が、「脳死・臓器移植を大きく推進しようとする人々にとっては足枷となった」(p.209)ために、移植数は思うように増加しませんでした。そこで、推進者たちの熱心な運動もあり、2009年に法改定がなされ、2010年に施行されることになります。
 本書によれば改定の要点は二つあります。第一は「脳死状態になったら、本人や家族の意思に関わりなく、一律に死んだものとする」ことです。臓器移植の盛んな国々と同じです。第二は、「本人が拒絶の意思を示していないかぎり、家族の承諾だけで臓器移植が認められる」ようになったことです。つまり、「もともとは本人の「自己決定」が絶対条件だったわけですが、脳死に関しては「自己決定権」が完全に打ち払われ、臓器提供についても、本人が拒絶の意思を示していないかぎりという形で、「自己決定権」の重みが緩められたのです」(p.210)
 この改定の効果は大きく、「旧法下では約二カ月に一件の割合で脳死者の臓器提供があったのに対し、今は一週間弱に一件になった」(p.211 「今は」とあるのは、本書の出版された2018年当時だと思います)とあります。結局、条件的には、前に触れましたアメリカ、ヨーロッパなどの場合と同じようになったわけです。ただし本書によれば、その後厚労省は、「今回の改定法は脳死を一律に人の死と定めたのではない」(p223)とした文書を出したり、病院関係者やマスメディアにその旨の説明会を開いたりしたそうです。その理由は、「法律によって脳死を一律に人の死と定めてしまったら、他の法律との間に種種の軋轢が生じる」からだろうと本書では推測しています。例えば、「脳死者を誰かがナイフで突き刺し、その心臓が止まった場合、その行為は殺人ではなく死体損壊なのか」、また、「そのことと関連して遺産相続はどうなるのか」(p.224)というような問題が生じ、そのため法律を連鎖的に改定する可能性があるからだと論じています。欧米のように、脳死が一律に個体死となったのではなく、旧臓器移植法と変わらずに、臓器を提供する場合に限って脳死を人の死と認めるというままなのです。しかし、このことは大きく報じられていず、多くの人が脳死は一律に個体死になったと思っているそうです(私はそういう問題があることさえ知りませんでした)。小松氏はそれを問題視しています。
 日本での臓器移植の状況については以上のようですが、安楽死の状況はどうなっているのでしょうか。これも本書を中心に見ていきます。

安楽死と自己決定権 日本の場合は尊厳をより重視している

 消極的安楽死は英語では negative euthanasia あるいは passive euthanasia であり、尊厳死は dignified death あるいはdeath with dignity で、当然異なる意味を持っています。しかし日本では、二つの言葉を終末期患者に対する同じ特定の扱い方を指すのに使っています。例えば、2018年の朝日新聞には次のような記述があります。

耐えがたい苦しみに襲われている患者や助かる見込みのない末期患者が、医師の助けを得つつ、自らの意思で死を選ぶ安楽死は「積極的安楽死」と呼ばれるのに対し、患者の意思により積極的な延命治療を行わないのは、「消極的安楽死」と呼ばれる。
 日本では、積極的安楽死について公の場で本格的に議論されたことはないが、一般財団法人「日本尊厳死協会」は、事実上の消極的安楽死を「尊厳死」と定義し、法制化を求めている。(1)

本書でも、延命治療の停止による消極的安楽死を尊厳死と互換可能なように使っていますので(例えばp.31)、この小文でもその違いに着目する場合以外ではそうします。
 ところで本書p.226~228によりますと、日本での「安楽死・尊厳死」をめぐる進展は大体次のようであったそうです。1970年代、高度経済成長を遂げた日本の田中角栄政権は、国会で勢力を拡大しつつあった共産党に対抗するように、「福祉・医療・社会保障の拡充」という社会民主主義的政策を導入します。ところが、レーガン、サッチャーらの影響で新自由主義的考えが浸透し始めた80年代中曽根政権時に、「福祉・医療・社会保障が削減される」こととなり、そのころから「安楽死・尊厳死」を認めようとする機運が頭をもたげます。
 特に「富山県射水市の射水市民病院で、外科病棟に入院していた50代から90代の末期がん患者など七名が、2000年から2005年にかけて人工呼吸器を外されて死亡していた」事件が2006年に公表されて、外した外科部長が「患者本人の直接の同意はないが家族の同意があった。患者のためにやった。尊厳死だ」と主張(2009年不起訴)してから、責任の所在を明確にして同様の事件を防ぐために、「尊厳死法」、「安楽死法」、ガイドラインなどの制定に向けた動きが活発化します。そして2012年には、「尊厳死法制化を考える議員連盟」によって、二種類の「尊厳死法案」が公表されるまでに至ったのです。
 法案はいまだ法制化されていませんが、「実質的な「安楽死・尊厳死」がどんどん現実のものになって」いる今の状況を、本書は次のように描いています。

医学・医療関係の学会や団体が、終末期医療——特に人工呼吸器、経管栄養、胃瘻、人工透析——を行わない、あるいは、いったん行ったものを中止する、このような方針を次々と打ち出してきているのです。つまり、終末期医療・延命治療の不開始や中止によって死を迎えさせる方針文書が乱発され、個々の医療現場に浸透しつつあるのです。そして、そこで要となっているのが、患者本人の「自己決定権」に他なりません。終末期医療・延命治療の不開始や中止は、あくまでも本人(や家族)の意思に基づくというわけです。(p.228~9)

 Wikipediaの「安楽死」の項にも、日本で消極的安楽死が本人・家族の意思表示のもとで容認されていると書かれています。

日本の法律では、一般的に他人(一般的には医師)が行う場合は下記の条件のいずれかを満たす場合に容認される(違法性を阻却され刑事責任の対象にならない)。
・患者本人の明確な意思表示がある(意思表示能力を喪失する以前の自筆署名文書による事前意思表示も含む)。
・患者本人が事前意思表示なしに意思表示不可能な場合は、患者の親・子・配偶者などの最も親等が近い家族(より親等が遠い家族や親戚は親等が近い家族に代わって代理権行使できない)の明確な意思表示がある。(2)

 欧米の国々と同様に、日本でも自己決定権にもとづいて消極的安楽死(延命治療中止、不開始)は行われているのです。
 ところで、近年安楽死を論じる際に、自己決定権と並んで人間の尊厳ということに焦点が合わせられるようになったそうです(消極的安楽死を尊厳死と言うようにもなりました)。本書には次のように書かれています。

「自己決定権」と並行して近年とみに言われだしたのが、「無益な医療」と「人間の尊厳」・「患者の尊厳」です。人工呼吸器などによる終末期医療は「無益な医療」であり、それによって「生かされている」のは「人間の尊厳」・「患者の尊厳」の冒瀆に他ならない、だから自己決定権をもとに尊厳のある死を、という論理です。(p.229)

 Wikipedia「尊厳死」の項には、2012年に公表された尊厳死法案の第二条が掲載されています。下に引用しますが、確かにそこには、患者の意思の尊重(自己決定権の尊重)に並んで、個人としての尊厳の重視が基本理念として掲げられています。

(基本的理念)
第二条 終末期の医療は、延命措置を行うか否かに関する患者の意思を十分に尊重し、医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手と患者およびその家族との信頼関係に基づいて行われなければならない。
2 終末期の医療に関する患者の意思決定は、任意にされたものでなければならない。
3 終末期にあるすべての患者は、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられなければならない。

—  終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)(3)

 本書はここに、「終末期状態での延命措置は「尊厳」を損なう、だから、「尊厳死」を本人の「自己決定権」に基づいて選択すべきだ、という論理が底流して」(p.236)いると見ます。そして、その「自己決定権をもとに尊厳のある死を」という論理が救急・集中治療の場合に現実化されていることを、2007年11月公表の、日本救急医学会による「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」、2014年11月公表の、日本集中治療医学界、日本救急医学会、日本循環器学会による「救急・集中治療における終末期医療に関するガイドライン~3学会からの提言~」の内容から描き出しています。
 それらガイドラインによると救急医療は次のような段階を踏んで行われるのです。病院に救急搬送された段階で、「脳死者をはじめとする四種類の患者」が「治療しなくてよい」(p.227)として切り捨てられます。そして一命をとりとめてICUに入院した段階でも、「脳死者(「不可逆的な全脳機能不全」)を含め、「終末期」と判断される数種類の患者を治療しなくてもよい」(p.229)として切り捨てます。そして、このように次々と患者を切り捨てていくことには、次の二つの注目すべき考えがあるというのです。

1.「これ以上の延命措置は患者の尊厳を損なう可能性がある」(p.230)として、治療しないで患者を切り捨てることを正当化している。
2.「患者が意思決定能力を有している場合や、本人の事前指示がある場合、それを尊重することを原則」(p.230)とし、患者の意思がはっきりしない場合は、「医療チームは家族らに総意としての意思を確認し対応する」(p.230)。

 さらにガイドラインには、「家族が積極的な治療の続行を望んだ場合でも、「患者の尊厳をそこなうという論法で、治療停止に同意するまで家族を説得し続ける方針が示されている」し、「治療をしない場合に訴追を免れるためのマニュアルまでが添付されている」(p.231)というのです。すなわち、

「尊厳死法」が成立しなくとも、実際にそうせざるをえない医療現場の状態が現出し、一般の人々が知らないところで進行しているのです。再確認すると、そこでのポイントは、「無益な」延命治療では「人間の尊厳」が損なわれるので、「自己決定権」によって患者(や家族)が「死」を選び取る、という理屈があることです。しかし、その実態は、望まなくても「死」に追いやられることでしかありません。(p.231)

 本書は以上を次のようにまとめています。

73年に田中角栄内閣が掲げた「福祉元年」というスローガンが、80年代に入って転倒し、次第に医療・福祉・社会保障の予算を削減していく。それと逆相関の関係で、安楽死・尊厳死がせり上がってくる。すなわち端的にいうなら、〝病気や怪我や障害は自己責任ですから、どうぞ御自分で費用を負担してください。負担が無理なら、尊厳ある死という選択肢をご用意していますよ。さあ、どちらかを「自己決定」してください〟。この「国家意思」が全面登場したのが、他ならぬ今だと思います。しかも‥‥ごく最近では、死に向って自己決定することが尊厳ある生き方だという風潮すら、醸成されているように見受けられます。私たちは、法はなくても事実上の「尊厳死」(「消極的安楽死」)へと向かう人生を、余儀なくされつつあるのです。(p.239~240)

 このように、日本では消極的安楽死を進める際に、自己決定権に基づく本人の意思表示以上に、人間の尊厳を保つということが注視され初めているようなのです。

(1)「消極的安楽死?尊厳死? 日本とオランダ、どう違う」 朝日新聞デジタル 2018年3月5日 18時34分
(2)Wikipedia「安楽死」の項より
(3)Wikipedia「尊厳死」の項より

「脳死・臓器移植」と「安楽死・尊厳死」が推進される理由——医療経済とそれを支える思想

「脳死・臓器移植」と「安楽死・尊厳死」を熱心に進めようとする人たちがいる一方で、それらには様々な問題があるとして異議を唱えたり反対したりする人たちも多くいることが、以下に引用する記述からもうかがわれます。

本来、脳死に陥った患者は随意運動ができず、何も感じず、近いうちに(あるいは人工呼吸器を外せば)確実に心停止するとされる状態のはずであるが、ラザロ徴候(1)など脳死者の中には、自発的に身体を動かすことがあるなど、それを否定するような現象の報告例も見られることや、呼吸があり心臓が動いている、体温が維持されることなどから、一般人にとって脳死を人の死とすることに根強い抵抗が存在する。日本においては臓器提供時を除き、脳死を個体死とすることは法律上いまだ認められていない。国や宗教によって賛否はさまざまである。(Wikipedia「脳死」の項より)

脳死をヒトの死とすることに疑問を投げかける人々からは(臓器移植法案に)強い批判があり、また「脳全体の機能の不可逆的停止」を脳死としている厚生労働省基準(2)に関して強い疑念を持つ医学者も少なくなく、臓器移植自体を医療として認めない人々もおり、臓器移植法そのものや法改正に対しての反対運動が存在する。(Wikipedia「移植」の項より)

 2012年には、超党派の「尊厳死法制化を考える議員連盟」が具体的な法案を公表したが、障害者団体の代表などの呼びかけで設立された「尊厳死の法制化を認めない市民の会」は、「患者本人に対して、治療を停止する圧力になりかねない」と反対している。(「消極的安楽死?尊厳死? 日本とオランダ、どう違う」 朝日新聞デジタル 2018年3月5日 18時34分)

 では、このように「問題がありながら、なぜ「脳死・臓器移植」と「安楽死・尊厳死」は推進される」(p.240)のでしょうか。本書はその理由を二つ挙げています。一つはもちろん医療経済の問題、もう一つはそれを支える権力形態の問題です。

医療経済の問題

 日本は国民皆保険の福祉国家ですから、医療サービスを充実させるためには国民自身が払う保険料に加えて、多大な税金も投入しなければなりません。しかし国家予算には限りがありますから、当然可能な限り医療費をカットしたいのです。本書によりますと、一人の「脳死者にかかる医療費は一日で十数万円」(p.241)になるそうです。終末期医療・延命治療における人工呼吸器、経管栄養、胃瘻などの設置稼働にも当然大金がかかることでしょう。国費で賄う金額も大変な額になるはずです。従って、もし脳死を個体死と見なすことができ、また終末期医療・延命治療の不開始や中止が一般的になれば、福祉国家日本は財政的に非常に助かることになります。
 すでに述べましたが、日本では脳死は法的に個体死と認められているわけではありません。ところが本書によりますと、次のような状況になっているそうです。

脳死が一律に死と法規定されていないにもかかわらず、規定されたと、国民は思いこまされました。また、それ以前から、脳死者に対するネガティブ・キャンペーンが張られてきました。こうした戦略によって、医療現場では、脳死者の人工呼吸器を外して心停止をむかえさせることが、つまり脳死者の尊厳死(消極的安楽死)が、水面下ではかなりの数なされていると思われます。かくて日本国家は、脳死者の医療費の総抑制にもかなりの程度成功していると思われます。(p.241)

 すでに述べましたが、「尊厳死法案」や各医療学会の作成したガイドラインを通じて、「安楽死・尊厳死」の対象となる方々の治療をやめて、「切りつめられる命は切りつめ、医療支出を切りつめようと」(p.242)している状況なのです。
 安楽死や脳死を推進する理由となる医療経済の問題には、このような福祉国家の医療費切りつめのほかに、「人々の身体を利用して経済を活性化させる」という「生資本主義(バイオ・キャピタリズム)」もあります。もし「脳死者を法的にも医学的にも死者と規定できれば、さまざまな利用の仕方が」(p.242)あり得ます。臓器移植はもちろんですが、その他にも「手術の練習台や、開発中の新薬の効果を試す実験台」、「輸血用の血液、貴重な抗体やホルモンなどの製造工場・貯蓄庫」(p.242~243)などが考えられます。脳死者の身体だけではありません、「安楽死、尊厳死させた人々の身体もまた、さまざま活用が可能」(p.243)でしょう。小松氏は、「脳死・臓器移植」と「安楽死・尊厳死」の推進理由に、この生資本主義も見ているのです。

権力形態の問題

 医療経済の問題と並んで、「脳死・臓器移植」と「安楽死・尊厳死」を推進させる理由には、権力形態の問題があると小松氏は主張しています。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは「死権力」、「生権力」と言う概念で権力形態を説明し、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンは「ホモ・サケル」という概念を使ってその考えを発展させたそうですが、そこに「脳死・臓器移植」と「安楽死・尊厳死」を推進させる本質的理由を見ることができるというのです。
 「死権力」とは人々を殺すことができる権力、あるいは人々に殺される恐怖を突きつけて従わせる権力であり、「生権力」とは人々を生かして支配する権力です。アガンベンによれば、「古代ローマでは、男子は誕生の瞬間から、父に従わなければ殺されることを前提条件に、初めて父の庇護に与ることができた」(p.246)そうです。そして、「このような生殺与奪権を介した父と息子の関係を拡張したのが、ローマ市民社会での為政者と男性市民との関係」(p.246~247)で、「男性市民は死権力に隷属することで、男性市民として生きることを初めて保証された」(p.247)というのです。つまりローマは男性市民を従わせる生殺与奪件を持っていて、一方で彼らにローマ市民として特権を持って生きることを保証したということなのでしょう。本書によると、アガンベンはこの「死権力」と「生権力」による権力構造の本質・正体に、「ある特定の人たちについては殺してもまったく罪に問われない。そういう例外的な人々をつくりだすこと」(p.247)があるとします。
 その例外的な人々をホモ・サケルと彼は名づけたそうですが、小松氏は具体例として、古代社会(例えば古代ローマ)の奴隷、中世ヨーロッパのキリスト教絶対社会における宗教上の異端者、近世での魔女と呼ばれた精神障害者や政治犯、20世紀ナチスでの障害者とユダヤ人を挙げています。皆、一般市民の特権を際立たせる存在です。アガンベン自身は現代のホモ・サケルの例として脳死者を挙げ、その存在に関してナチスも踏み込まなかった蛮行だと主張しているそうで(3)、本書には次のように書かれています。

ナチスは20万人とされる知的障害者や精神障害者を安楽死させ、また、600万人近いユダヤ人などを殺戮しましたが、いずれも生きている人間として実行した。それに対して現代は、世界各国の臓器移植法の大半がそうであるように、実際には生きている脳死患者をあらかじめ法律で殺している。生者を合法的に死者にするところにまで、現代の生権力・死権力は達しているというのです。(p.247~248)

 確かに、欧米の多くの国が、脳死を個体死と見なしています。小松氏はこのように現代の脳死者の扱いに対するアガンベンの考えを述べた後、次のように一つの疑問を提示します。

 アガンベンは、ホモ・サケルすなわち「生きるに値しない人間」と、「生きるに値する人間」との区分けについて、鋭利かつ徹底的に論じました。しかしながら、私にはやはり疑問があります。いったい、いかなる論理によって、この区分けがなされてきたのか。つまり、ナチスの時代では、健常なドイツ民族は生きるに値する人間であるのに対して、なぜユダヤ人や知的・精神障害者は生きるに値しない人間だとされたのか。また現代では、健常者は生きるに値するのに、なぜ脳死者や安楽死・尊厳死の対象者たちは生きるに値しないのか。(p.248)

 「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」の区分けの論理を、アガンベンははっきりさせていないと言うのです。小松氏自身はそれに対する答えを「人間の尊厳」の有り無しに求めます。そしてつぎのように述べます。

「人間の尊厳」という美しく絶対的だと思われてきた概念が、生権力の核心であり、「生きるに値する/生きるに値しない」という線引きの根底に横たわっているのです。先ほどの「安楽死・尊厳死」の話に戻せば、「尊厳が失われたこの人に尊厳のある死を」というときの尊厳概念です。つまり、「脳死・臓器移植」や「安楽死・尊厳死」を推進するもう一つの要因が、つまりは「生資本主義」を支える力が、「人間の尊厳」に他ならない、と私は考えるのです。(p.249)

 理性と良心、あるいは理性・知性・意志・精神、あるいは自己意識と生きようとする意志、が人間であることの本質、尊厳であるなら、それらが失われているらしい脳死者はもはや人間として生きるに値しないと論じることができそうではないですか。そして人間として生きるに値しないのなら、人間の役に立つことに(例えば家畜のように)利用するのも構わないではないかと。

(1)Wikipedia 「脳死」 論点 「ラザロ徴候(Lazarus sign)」に以下の記述があります。

1984年に米国の脳神経学者A・H・ロッパーによって5例が報告された。脳死患者が医師の目の前で、突如両手を持ち上げ、胸の前に合わせて祈るような動作をする。動作後は自分で手を元の位置に戻す。同様の現象はその後各国で多数確認され、日本でも医学誌に症例報告がある。動作のビデオも収録されている。ロッパーは「脊髄自動反射」と理解するが、疑問視する声もある。脳死患者を家族に見せないようにすべきとロッパーは書いている。

(2)厚生労働省ホームページで、「脳死判定基準」をサイト内検索すると、「平成 11 年度厚生科学研究費「脳死判定手順に関する研究班」より抜粋」というPDF資料が手に入る。
(3)ジョルジョ・アガンベン、高桑和巳訳、『ホモ・サケル』、以文社、2003、p.226に、近代民主主義においては「ナチの生政治家たちもあえて口にしなかったことが公に口にできるようになっている」とあります。

安楽死と尊厳 ナチスの場合

 安楽死を推進する際に、権力形態の本質にある人間の尊厳という概念を利用した論理が使えるということでした。では、20万人とされる知的障害者や精神障害者を安楽死させ、また、600万人近いユダヤ人などを殺戮したナチスの場合、より具体的にどのように利用したのでしょうか。本書はp.253で三つの要で説明しています。

第一の要 知的障害者や精神障害者については、精神・理性が失われているのでもはや尊厳がないとします。ユダヤ人に関しては、ダニだ、ノミだ、などと〝下等〟動物呼ばわりすることで知性(精神)と尊厳がないことを強調し、それらが外見上のものにすぎないとします。

第二の要 ドイツ民族全体を一個の巨大な生きものに見立てて、唯一尊厳のある民族と考えます。それをさらに尊厳に満ちた状態に磨き上げることを目指します。

第三の要 以上二つの要を結びつけると、至上のドイツ民族有機体に、一方では尊厳なき知的障害者と精神障害者が内側から巣くい、他方では尊厳なきダニとしてのユダヤ人が外側から寄生し、民族有機体の尊厳を脅かしていることになります。そこで、それらを駆除することにします。

 このように、ナチスは、障害者とユダヤ人は尊厳を持たないと言いがかりをつけて、尊厳を持たない人間は人間として生きる価値はないという考えのもと、彼らの自己決定権など認めず死を強いたのです。

安楽死と尊厳 福祉国家日本の場合

 尊厳概念は、ナチスでも、国連の世界人権宣言でも基本的に同じだということにすでに触れました。動物が持っていない、身体より崇高な、理性と良心(世界人権宣言)、あるいは理性・知性・意志・精神(世界人権宣言第一条の起草者ジャック・マリタン)、あるいは自己意識と生きようとする意志(ナチスの指針となったビンディングとホッヘの考え)、が「人間の尊厳」なのです。「このような「人間の尊厳」概念は、やがてアメリカの医療倫理に、さらに生命倫理の中にも入っていき」、「それらを通じて、日本にも入って」(p.257)きたそうです。日本での受け入れ状況を示す二つの記述について小松氏は言及しています。一つは、「日本移植学会」の理事相川厚氏の著書『日本の臓器移植——現役移植医のジハード』(河出書房新社、2009年)の中の記述です。それに関して本書は次のようにまとめています。

相川氏にとって「人間の尊厳」とは、①「意識があり」、②「自分で心臓を動かすことも呼吸することもできる」ことだといってよいでしょう。つまり相川氏の①は、伝統的な「人間の尊厳」概念の第一要素そのものであり、また②からは、かのホッヘが挙げた「生きようとする意志」と同様の発想が垣間見えるのではないでしょうか。意志とは無関係に拍動するはずの心臓について、「自分で心臓を動かす」と主体的な使役表現を用いているからです。(p.258)

 もう一つの記事は、「日本病院会倫理委員会」が公表した「「尊厳死」——人のやすらかな自然な死についての考察」(1)の中の記述です。それに関して小松氏は次のようにまとめています。

「胃瘻造設者」や「誤嚥性肺炎の患者」や「脳血管障害」は尊厳死の具体的な対象者であり、そこに添えられている「意思疎通のとれない」や「意識のない」や「意識の回復が望めない」などが、これらの人々の尊厳死を正当化する論拠になっていることです。つまりは、尊厳死を謳ったこの文書では、意識・理性・知性・精神の有無が「人間の尊厳の」の有無であることが大前提とされている、といって差しつかえないでしょう。(p.258~259)

日本にも、諸外国と同じ尊厳概念が、医療界を通じても一般化してきているのです。

(1)日本病院会HPよりPDF版(2015年)が入手可能です。

尊厳を掲げることで第2次大戦の人権蹂躙を繰り返さないようにできるのか?

 安楽死や臓器移植に関して、重要なファクターとなっていることが明らかになった尊厳について、世界人権宣言に掲げられた経緯から考察してみるとどうなるでしょうか。「人間の尊厳」が蹂躙された第2次世界大戦の反省から、国連は世界人権宣言に「人間の尊厳」を掲げました。しかし、ナチスだって、国連および現在の諸国家が掲げている尊厳概念と基本的に同じ尊厳概念を認めていたのです。そうしますと、反省して行うべきことは、「人間の尊厳」を掲げることより別にもあるのではないでしょうか。それをはっきりさせないと、あらたに人間の尊厳を掲げたと言っても、似たような悲劇が繰り返されかねないでしょう。例えば、今諸国家が、脳死者や終末期患者の安楽死を、尊厳がないことを理由に進めていることに、実はナチスが行った蛮行と同じような過ちをすでに繰り返している可能性があるのではないでしょうか。
 ナチスが蛮行に至った原因として、まず思いつくのは、全体主義です。ナチスドイツにはドイツ民族全体を一個の巨大な生きものに見立てた全体主義がありました。本書では次のように書かれています。

ナチスの場合には民族有機体という全体主義があって、それを守り育てるために、尊厳なき者を強制的に死の中に葬り去っていました。対して、現代では、全体というものが後方に退いて、まずは、個々人が自らの意思で死を選び取る方向に向かっています。したがって両者には、全体主義か個人主義かの違いがひとまずあります。そのときの個人主義の中心理念が「自己決定権」であることは言うまでもありません。(p.259~260)

 しかしです、現在の安楽死・尊厳死では自己決定を重視していると言っても、「経済政策のもとに、医療・福祉・社会保障の削減と安楽死・尊厳死の推進が並行してなされてきた」(p.260)のであり、それは結局「全体を守るために、個人主義をもち上げ、「自己決定権」を利用しているにすぎない」(p.260)のだと本書は指摘するのです。一方でナチスは、「安楽死の思想をドイツ国民に浸透させるために、《私は訴える》というプロパガンダ映画を製作し、「自己決定権」を強調」(p.261)さえしていた、つまり現在と同じように「自己決定権」を利用していたそうです。そうすると、全体主義と個人主義の相違は、ナチスの蛮行の構造と、現代の諸国家が脳死者や終末期患者に尊厳がないことを理由に安楽死などの処置をしようとしている構造との間に、基本的な違いをもたらしていないことになりそうです。本書は結局のところ、安楽死・尊厳死に関して、ナチスと変わらない構造が現在にもあるとして次のように述べています。

ナチスにおいても現在においても、全体主義が基調になっており、「自己決定権」とは人々をそれへと誘う巧妙な概念装置に他なりません。そして忘れてはならないのは、いずれにあっても、「人間の尊厳」がそれ以上に説得的な概念装置になっていることです。

  現在の〝正気〟はナチスの〝狂気〟の延長線上にある。私は心底そう思うのです。(p.261~262)

 小松氏のこのような記述を読むと、ナチスの蛮行の最も根底にある原因は、尊厳を掲げなかったことでもなく、全体主義であることでもなく、結局は障害者とユダヤ人は尊厳を持たないと確実な根拠が全くないのに鉄面皮に言いがかりしたところにあると私には思えました。すると、現代日本で、脳死者や終末期患者は人間の尊厳がないとして安楽死などの処置を進めようとしていることは、もし脳死者や終末期患者は尊厳を持たないということがとんだ思い違いだった(あるいは一部分の人々によるプロパガンダだった)とするなら、ナチスの蛮行と同じ蛮行を進めようとしていることにならないでしょうか。そして、実際そういう思い違いの可能性があるので反対運動などが起きているのではないでしょうか。
 ナチスの蛮行と、現代の日本が脳死者や終末期患者に安楽死などの処置をしようとしていることとの間に、基本的に同じ言いがかりの構造があるなら、深く考えることなくナチスに従っていた多くのドイツ一般市民と、やはり深く考えることなく安楽死の処置をすることに賛同している多くの日本人は、同じ無責任な立場にあることになります。小松氏はそのように考えていると思います。

安楽死と尊厳 植松被告の場合

 ここで、「現在の〝正気〟はナチスの〝狂気〟の延長線上にある」とした小松氏の言葉が顕在化したと思える植松被告の凶行について本書の記述に沿ってみていきたいと思います。ナチスの場合、人権(生きる価値)があるのは「自己意識と生きようとする意志」(=尊厳)を持つ者だけです。尊厳を持たないとした知的障害者と精神障害者20万人は安楽死させ、同じく尊厳を持たないとしたユダヤ人600万人は殺戮しました。では、2016年7月、障害者支援施設「津久井やまゆり園」に侵入し、障害者19人を殺害した同園元職員植松被告の場合、その考え方は、ナチスの場合とどう違っているのでしょうか。
 小松氏は、本書の最終章(増補第2章 鏡としての「相模原障害者殺傷事件」)で、「月刊誌『創』に何回にもわたって掲載されてきた植松聖被告の手紙、手記、接見インタビューなどをもとに」(p.276)彼の思想を描き出し、本書p.284~288で、以下のように植松被告の安楽死思想における五つの特徴を挙げています。

1.大構想の中の一環であること
 植松被告には、「新日本秩序」と呼ぶ、世界平和の実現、世界経済の活性化、人類の幸福などを目指す大構想があり、その最も重要な一環として安楽死を捉えています。
2.安楽死の対象は心失者であり、それに関しては首尾一貫していること
 安楽死の対象は尊厳のない者(=心のない者、心失者)です。それゆえ障害者一般が対象なのではありません。植松被告の言葉の中には「私は心ある障害者の方々を冒瀆しているのではありません」(p.285 本書での雑誌『創』からの引用文)という部分があります。また、ナチスによるユダヤ人殺害については批判的で、尊厳のあるなしに人種差別を持ち込むような首尾一貫性のなさは見られません。
3.人間の尊厳と安楽死を結びつける際のしっかりした論理構成があること
 「自己認識ができる」、「複合感情が理解できる」、「他人と共有する[互いに認め合う]ことができる」を「心あること」とし、またそれらを「人間の尊厳」と規定し、「心失者(心ない者)」は「人間の尊厳」がないので生きる価値がなく、安楽死させるべきだという論理をきちんと構成しています。さらに、心失者の安楽死には「保護者の同意」という条件も付け加えていて、家族という尊厳ある人たちへの配慮を忘れていません。
4.「安楽死」と「尊厳死」との区別がなされていること
 小松氏が引用している植松被告の言葉の中に「意思疎通のとれない人間を安楽死させます。また自力での移動、食事、排泄が困難になり、他者に負担がかかると見込まれた場合は尊厳死することを認めます」(p.286 本書による雑誌『創』からの引用文)とあります。小松氏はここから、「安楽死」は(保護者の同意を得たうえでの)強制であり、「尊厳死」は本人の自己決定権を前提にしたものであると、植松被告が両者を区別していると推論しています。尊厳を失ったものは生きるに値しないのに対し、尊厳を持っている者には、身体状況が尊厳を持つ者にふさわしくなくなったら、自分の死(尊厳死)を自己決定する権利を認めるのです。

5.全体を通しての首尾一貫性があること
 植松被告は事件に関して謝ったそうです。ただし、「彼が謝意を寄せたのは、殺傷した「心失者」に対してではなく、遺族に対して」(p.286)だそうです。すなわち、尊厳のない心失者には謝意を寄せる価値はないのであり、しかし尊厳を持っているその遺族に対してはその心を傷つけたがゆえに謝意を寄せたのです。また、「創」編集長篠田博之氏との接見において、「安楽死という形にならなかったことは反省しています」(p.287 本書での雑誌『創』からの引用文)と彼は応えているそうですから、本来は凶行に及ぶべきではなかったという自覚を持っているのです。

 以上のような特徴を指摘した後、小松氏は、「植松被告の思想はそれなりに体系的であり、ことに安楽死に関する考え方は彼なりの論理に貫かれて」いて、「確信犯としてのその思想・精神は〝正常〟である」(p.288)と評価します。では、そのような正常であるはずの植松被告は、なぜ安楽死を追求せずに凶行に走ってしまったのでしょうか。
 植松被告が心失者の安楽死を考えるようになったのには大きなきっかけがあったのではなく、「津久井やまゆり園」で働き「彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになった」(p.289 本書での雑誌『創』からの引用文)からだそうです。そういう考えを同僚に話したりした際に、「ヒトラーがユダヤ人だけではなく障害者も殺害したこと」(p.289)を初めて知ることになります。そうして、自分で思いついた心失者を安楽死させるという考えに「イナズマが落ちたような衝撃」(p.290 本書での雑誌『創』からの引用文)を受け、その考えを述べた手紙を自民党本部などに持っていき、最終的に大島(ただ)(もり)衆議院議長宛てのものを職員に渡します。その文面の一部が以下です。何か事件を起こそうというよりは、障害者の安楽死を合法的に行い得る世界を強く希求していることが窺われます。

衆議院議長大島理森様

 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
 重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
 今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
 世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
 私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
 衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。(1)

 この衆院議長宛ての手紙を職員に渡した出来事(2016年2月15日)の後、本書によれば次のような経緯をたどって植松被告は凶行に至ります。

警察が「やまゆり園」を訪れ、何回か交渉した結果、二月十九日に植松被告は「やまゆり園」を自主退職し、警察による事情聴取の後、北里大学東病院の精神科に即日措置入院。入院後の検査で大麻の陽性反応を検出。翌月の三月二日、措置入院が解けて退院。三月四日から「やまゆり園」に警察の指導が入り、防犯カメラの増設などを指示。しかし、それから四カ月半後の七月二十六日、大凶行に及ぶ。(p.278)

 『創』の編集長篠田博之氏も、精神科医の斎藤環氏も指摘しているそうですが、この経緯の中の、精神科への即日措置入院というところに、植松被告が凶行を実行してしまった鍵があると小松氏は考えていて、次のように彼が受けただろう屈辱について本書で述べています。

そもそも植松被告は、心失者は安楽死させるべきだと確信していました。ところが、その彼自身が、精神科に強制入院されることになった。彼からすると、この措置は屈辱極まりないものだったはずです。なぜなら、全否定して安楽死させるべきだとしてきた人々に、自分自身がされてしまった可能性があるからです。(p.291)

 そこで心失者に自分自身がされてしまったかもしれない屈辱をどう晴らすかを精神病院の中で「悩んで考えた末の結論が、「心失者の排除」を実践すること」(p.292)だったと小松氏は推測します。「彼にとってはもともと絶対的に正しいと確信していたこと」を「実行することこそが、自分が〝正常〟であることの証明」であると考え決心したのだと小松氏は推測するのです。もし植松被告が安楽死を実行する立場に立ち得る医師であったり、あるいは医療関係の団体の有力者であったりしたら、世の中を彼の考えに合うように変えていこうと努力したのでしょうが、実際の彼はそのようなエリートの立場にないどころか、今や世間から彼自身が安楽死の対象と見なしていたものと同じように見られていると感じたことが、彼を凶行に駆り立てたとしたのです。
 すでに述べたことを繰り返すことになりますが、植松被告の安楽死思想は、知的障害者と精神障害者に関してはナチスと同じです。しかし、それに人種差別思想を挿入してないことにおいてナチスより首尾一貫していると思います。
 ナチスによる安楽死政策、現代の福祉国家による安楽死および脳死に関する政策、植松被告の安楽死に関する考え、それらすべてには、その基本的背景として、尊厳のあるなしで人間を区別し、生きる価値のあるなしを決めようとする考えがあるようです。尊厳を持つものは人権(含自己決定権)を持ち、彼らの安楽死に関しては本人の意思表明が最重要視されます。それに対して、尊厳のないものの自己決定権は当然無視され、彼らの安楽死に関しては、尊厳を持っていた時の本人の意思表明と、家族という尊厳を持っている者の意思表明が重視されます。
 極めて大雑把に述べさせてもらいますと、ナチスの場合ですと、障害者とユダヤ人は尊厳のない者です。現代福祉国家の場合脳死者と病状の進んだ終末期患者は尊厳のない者です。植松被告の場合障害者と病状の進んだ終末期患者は尊厳のない者です。彼ら尊厳のない者は基本的に生きる価値がありませんし、自己決定権も無視されます。ただ問題は、本当に尊厳がないと言えるかどうかです。ユダヤ人であることで尊厳がないとするのは全く間違っていますし、障害者に尊厳がないということを多くの人は少なくとも表向きには認めていません。脳死者と終末期患者の場合だって、尊厳がないということに疑問を持つ人たちがいるからこそ、脳死判定や終末期患者の尊厳死に反対する人たちがいるのではないでしょうか。ただ多くの人は、こういうことについて深く考えていないのです。

(1)「相模原殺傷:衆院議長宛て手紙 全文」 毎日新聞 2016年7月26日 18時07分より一部引用

私たちの社会にある構造的な問題

 小松氏は、植松被告の凶行について一通り述べた後、この事件を「私たちの社会にある構造的な問題として捉えなおす必要がある」(p.300)とし、次のように述べています。

そこで顧みるべきは、十五世紀末のピコ(1)以来続いてきた「人間の尊厳」概念には、理性や精神がなければ形は人間でも人間ではないという思想が、人間礼賛の裏返しとして宿っていることです。そして、現在の日本も、この思想の延長線上にあってそれを基盤としつつ、医療・福祉・社会保障が縮減されていく趨勢にあります。表向きは経済的な観点が強調されていますが、そこには「人間の尊厳」概念と「自己決定権」の巧みな策動によって、国民が「生きるに値する者」と「生きるに値しない者」とに区分けされていくという忌むべき実態が、すなわち事実上の優生思想・優生政策があるのです。(p.300~301)

 より具体的には、「人工呼吸器、経管栄養、胃瘻、人工透析などの不開始や中止によって、終末期(=「人生の最終段階」)とされる患者を人為的に死に誘うことを合法化しようとする流れ」(p.302)が、そして植松被告言うところの「心失者」を尊厳死の対象としようとする動きが激しさを増しているのです。例えば、すでに一度引用しました、「日本尊厳死協会」の岩尾総一郎理事長が参画して作成された「日本病院会倫理委員会」の「「尊厳死」——人のやすらかな自然な死についての考察」(2015年)では、「寝たきりの認知症、意思疎通のとれない胃瘻造設者、高齢で意識のない誤嚥性肺炎の患者、脳血管障害で意識の回復の望めない者、これらの人々に対する尊厳死が提起されて」いて、さらには「神経難病と重症心身障害者の処遇が今後の検討課題として挙げられて」(p.296)いる状況なのです。こうした激しさを増す日本の動向と植松被告の関係について小松氏は次のように述べています。

構造的問題として見るなら、植松被告は、日本におけるこのような全体的動向を知らずとも、自身の経験と直感と思想をもとにそれを実践した一民間兵と言えるでしょう。しかも、このままではやがて到来する、脳死者や〝終末期患者〟にとどまらぬ「心失者」の駆除を、時代に先駆けて一人実践した尖兵に思われます。少なくとも彼は、「日本病院会倫理委員会」が先送りした重症心身障害者と神経難病者の尊厳死の議論に、風穴を開けたと言えるでしょう。(p.302~p.303)

 そうして、安楽死・尊厳死という「音のしない殺人が、静かに進行しており、そして制度化・合法化されつつある現在の日本社会こそを、批判的に熟考しなければならない」(p.304)と小松氏は主張します。このような主張を知ると、私たちはナチス統治下の多くのドイツ人と同じような間違いを犯そうとしてはいないだろうかと反省すべきだと思えてきます。ナチス時代のドイツの人たちが障害者やユダヤ人の安楽死を受け入れた(というかユダヤ人に行われていることを知ろうとしなかった)のと同じにならないように、私たちは疑いを持って、日本の動向をけん引している人たちが終末期患者や障害者を尊厳なき者と見なそうとしていることを、深く考えたほうがいいのではないかと。
 小松氏は深く考えるためのヒントを示してくれてもいます。一つは「心の有無の判断」についてです。言葉が分からないはずの、生まれてまだ数カ月のこどもが、祖父と散歩で通る自宅周辺の位置関係を理解していると思えるような行動をしたエピソードや、乳幼児に父親がドライブで通った建物の名前を教えておいたら、喋れるようになってからその建物を見て名前を口にしたというエピソード、そして、寝たきりで脳も委縮し全く喋れなくなった老女が、昔の歌を聞いて涙を浮かべ大声を出し何かを訴えかけようとしているように見えたというエピソード、それらから小松氏は次のように思ったというのです。

人間が生まれてからの言葉との関係を考えてみると、喋れないが相手の言葉はわかるという段階がまずある。やがて喋れるようになり、その状態が長年続く。そして、超高齢期を迎え、たとえまた喋れなくなっても、相手の言うことはわかる段階が訪れる。つまり、通常言語による発話(や身振り・手振り)で伝えることはできなくとも、さまざまを把握している状態が人生の両端にはあるのだと、私は思います。(p.315)

 そして小松氏は、脳死状態から蘇生し社会復帰した人で、脳死状態時に周囲のことを明確に認識できていたと証言した人が欧米には何人もいることに触れて、「植物状態の者はもとより、脳死者も」(p.315)先ほどの人生の両端にある人々と同様の人々だと思うと述べ、心や意識がないなどということは「外見からではそう簡単に断定できない」、「一般常識や現今の科学が届かぬ深淵な領域の問題」(p.315)なのだと結論します。たしかに現段階ではそのように言わざるを得ないのかもしれません。よって、脳死者、終末期患者に明確に尊厳はないとする人々に気軽に賛同するわけにはいかないと私も思います。

 また、小松氏は、植松被告の事件から、日本の死刑制度に関する疑問も述べています。植松被告は、「心失者か否かで他者の線引きを行い」(p.312)、そうして障害者を生きる価値がない心失者であるとして殺傷しました。ところで、もし「私たちはそんな線引きがあってはならないと、少なくても表面では考えて」(p.312)いるとするなら、植松被告を死刑に処すなら、そこに「生きるに値する人間」と「生きるに値しない人間」とを区分けする新たな線引きを私たち自身が行うことになるのではないか、と小松氏は問います。そして死刑制度について次のように述べています。

死刑制度には、個人は人を殺してはいけないが、国家は殺してもよいという大前提が隠れています。そして、そこには、私にとってはまったくもって納得のゆかない論理が横たわっています。すなわち、人を殺すことは絶対悪であり、それを犯した者は死刑によって殺されてもいたしかたない、という捻れた論理です。これは、一度否定した絶対悪に、同じ絶対悪をもって対するという捻れにほかなりません。(p.312)

 そうして小松氏は、植松被告の死刑にも、国家の死刑制度にも、人が人を殺す世の中をなくす可能性を狭めるとして断固反対しています。死刑制度にも、尊厳を持つものを人間としながら、その人間に尊厳のある者とない者の区別を導入するという矛盾した論理が見られると考えるからです。
 このように、植松被告の事件から、日本の現状について深く考えることを、小松氏は多くの日本人に求めているのです。笑いごとでなく、私は「ぼーっと生きてんじゃねえよ」と言われた気がしました。

(1)ピコとは、ジョバンニ・ピコ・デッラ・ミランドラという十五世紀後半のイタリアの思想家だそうで、現在の尊厳の考えは、彼から始まっているそうです。詳しくは本書のp.249~p.251をお読みください

小松氏の非実体的人間観

日本における安楽死・尊厳死、脳死・臓器移植の法制化に関する議論は、人権を重視しながら行われているように見えて、実はその背後に福祉国家や生資本主義者の大いなる打算があり、しかもさらにその背後には、ナチス(障害者の安楽死とユダヤ人のジェノサイドをひき起こした)や植松被告(多数の障害者を殺害するという凶行を行った)と共通する思想があるということが本書では述べられているわけですが、その思想を私流に大雑把にまとめるとこんな感じになります。
 人間には尊厳(世界人権宣言の場合なら理性と良心)があり、それゆえ人権(生存権、自己決定権等々)があり、そして人間は崇高な存在である。一方で尊厳のない人間もいて、彼らには生きている価値はない。すなわち人間は尊厳のある(生きる価値のある)者と尊厳のない(生きる価値のない)者に区別できる。
 人間には尊厳があるとしながら、その人間に尊厳があるものと尊厳がない者の二種類があるとする矛盾した考えが、ナチス、日本の一部安楽死推進派、植松被告に共通する思想です。そして本書を読む限り、そのような思想が多くの日本人にも共有されつつあると小松氏は見ていると思います。
 小松氏が次のように述べているのは、こういった捻れた考えが、結局ナチスの凶行の下地になっており、この下地がある限り同じような災厄が再発しかねないと考えていたからです。

「世界人権宣言」などの「人間の尊厳」の掲揚とそこにおける人間把握が、ナチスと同じ論理を成しかねない可能性を、私は警告しました(p.297)。

 そうして、警告どおりに、植松被告の凶行が起こったのです。ところで、この思想に現れている尊厳、そして自己決定権は、個人主義的人間観に基づいていると小松氏は考えています。この小文の初めの方で一度述べましたが、その個人主義的人間観とは、「個々人は本来ばらばらに切り離されることができる存在であり、それらが二次的に関係性を持って社会生活を送っている」というようなことだと私は考えます。以下にもう一度引用する、小松氏が個人主義を否定する際に述べた一文がそう考える理由です。

私は個人主義の立場をとりません。「私は私、あなたはあなた」と区別して考えることが、「私」と「あなた」だけを前景化し、二人をつないでいる「間」を、見えなくすると思うからです。あるいは、本当の個人は、個人主義を批判するなかでこそ立ち上がると思っているからです。(p.197)

 共同体は人々の間にある多様な関係の網目から成るのですが、そこでの最も重要な基本単位は、関係性ではなく、ばらばらに切り離すことが可能な個々人であると見るのが、現代の多くの日本人がイメージしている個人主義だと本書は捉えているのです。この個人主義から、自己決定権と言う「他人に迷惑をかけなければ、自分のことは自分で決めてよいとする考え方」(p.15)は生じ、また人々を尊厳がある者とない者にすっぱりと切り分けられるという考え方も生じるのです。小松氏はそのような個人主義的人間観を批判し、人々の関係性を強調するより現実に適合する実存的な人間観を提示します。それについてみていきます。
 小松氏の述べるところの、人々の関係性とは具体的にどのようなものでしょうか。例えば、人が安楽死を望み自己決定する際の場面に関して本書には次のような記述があります。

安楽死はたしかに本人が決定するのでしょう。しかし、誰かが安楽死したときには、当然ながら、周囲の人たちにもその影響が及ぶはずです。安楽死を遂げることに反対だった人には、絶望や悲しみや後悔の念が訪れるでしょうし、賛成だった人には、あるいは死んでよかったという安堵や虚脱感が訪れるのかもしれない。しかしいずれにしても、安楽死が本人だけの問題だとは誰もいえないだろうし、本人だけの問題ではない以上、本人だけで決めるのはおかしいと思うのです。(p.41) 

 個々人に周囲と切り離して自己決定する権利があるという考えを否定するこの記述は、人は周囲と切り離し得るという個人主義的人間観は間違っていることを示す一例です。別の例として、人の死についての記述も引用してみます。

死というのは一個人に閉じ込められたものではありません。人が死にゆくときには、看病する家族、治療する医師、看護する看護師というように、実に多くの人がかかわるわけで、一人の人間が死んだ後にも、死なれた別の人間が残って、故人にふつふつとした思いを馳せるときがあるわけです。つまり、死は、周囲の人々すべてにまたがる、人間関係の中でおきる事柄だといってよい。(p.48~p.49)

 そうして小松氏は、「死は関係の中で成立し、関係のなかでしか成立しないことがらなのだから、人は死を権利として所有も処分もできない」(p.49)とします。個人主義的人間観に基づいて死を周囲と切り離し得る個人の出来事とみなすことがここでは否定されています。二つほど個人主義的人間観を否定する例を挙げましたが、各自が自身の人生を少し振り返れば、人は他者との関係性において存在するということは、誰でも当然じゃないかと納得できるはずです。誰だって、自分で自分を生んだわけではないし、親をはじめとした多くの人々と関係を持つことで(様々に世話してもらうことで)初めて成長し、それなりに偉そうな態度をとれるようになれたのですから。関係性ということにおいて個人を見ることは極めて当然なことだと思います。ただその際に小松氏は、個々人が持っている主観的な思いと、他者の主観的思いとの関係性を特に強調しているように見えます。
 こうして小松氏は関係性において個人を見るのですが、かといって、共同体主義の立場もとらないと次のように述べています。

 同時に私は、共同体主義の立場をとりません。壁を作ってその枠の中に入ってしまうと、支え合わねばならないと考えること自体が目に見えない偽善に陥り、これに偽善を偽善と思わない錯誤が加われば、「われ」や「われわれ」を簡単に裏切ってしまう歴史の悲惨があったことを、自ら学んで知っているからです。(p.198)

 そうして、「人間が、「われ」でも、「あなた」でも、ただの「われわれ」でもなく、実は、「われわれのわれ」でしかありえない」(p.198)とするのです。私には「われわれのわれ」ということがよくわかりませんでしたが、一応次のように解釈しました。他者から切り離し得る存在でもなく、関係性で結びつけられた共同体(全体)のくくりの中の単なる一部分なのでもなく、周囲との同様な存在との関係性において独自に主体的に(一般化できない形で主観的に)実存している存在だと。
 こうした、他者との関係性における個々人それぞれの現実の生(実存)で人を捉える小松氏の人間観からすれば、他者との関係性を無視した、個人の(純粋な)自己決定権や純粋な尊厳などは甚だしく現実を無視した概念なのです。従って権利も尊厳も、人々の間の関係性を考慮して、これまでの個人主義的人間観のもとでとは異なる仕方で捉えなおす必要があるのです。
 そのような従来と異なる権利の捉え方の一例として、最首悟和光大学名誉教授(この小文ですでにその発言について触れたことのある方です)の試みを小松氏は取り上げています。

従来私たちは、権利は誰にでも備わった天与のものだと教えられてきました。また、一方で、権利は義務とペアで語られることが多く、義務を全うしないところに権利はないとか、権利だけ主張するのはよくないという言い方が、ずっとされていました。そこで、最首氏は、まずこの考え方にポンと疑問を投げかけます。最首さんには、星子(せいこ)さんというダウン症の娘さんがいるのですが、星子さんとの生活で得た実感を根拠に、従来の方式を次のように疑うことになるわけです。
 すなわち、世の中には義務を全うしようとしてもできない人間がいる。もし義務を全うしないところに権利がないというならば、星子には何の権利もないということになるが、それはおかしいではないか。そう考えるのです。
 そこで、最首氏は権利概念を反転させます。つまり、権利とは個人にもともと備わったものでも、個人が勝手に主張するものでもない。そうではなく、周囲の人がその人の苦しみや満たされぬ欲望を眼差し、その人がこの苦しみから解放されなければならないと感じたときに、はじめて発生するものに他ならない。権利とは予め個々人に備わっているのではなく、人と人との関係の中で、生まれてくるものだと考えるわけです。(p.174)

 関係性を考慮に入れた、権利に関する一つの考え方として小松氏はこの最首氏の主張を取り上げています。一方尊厳については、中村有里ちゃんと言う、脳死判定を受けてから一年九か月後に心停止を迎えてなくなった女の子をめぐる話を取り上げています。彼女は脳死の期間でも、背は伸び、体重も増えたそうですが、彼女のお母さんの暁美さんは、ドキュメンタリー番組《この子は生きている——長期脳死児と生きる家族》(テレビ愛知、2008年8月15日放映)の中で、彼女について、「脳死になって身動きができなくなろうとも、眠りつづけているように見えようとも、他ならぬ自分の子どもとしてちゃんとそこにいる。それは、生きる姿を変えただけだ」(p.263)と語っていたそうです。また、暁美さんの著書(1)によれば、彼女がなくなったとき、霊安室には、病棟の先生方、看護師さん、保育士さん、そしてお休みの看護師さんまでが交代でお別れに訪れ、手を合わせて「ありがとう」と言ったそうです。このことについて、小松氏は本書で次のように述べています。

まず、そこには、一人の幼子が脳死状態になっても敢然と死に立ち向かい、最後の最後まで闘いつづけたことに対する感動があるでしょう。また、意識はないはずなのに、一年九カ月間のまさしく「生きようとする意志」によって、医師も看護師も保育士も逆に励まされ、癒され、そして戒められてきたことに対する、感謝の念があるでしょう。それらが、「ありがとう」という最も単純な言葉として発露したのだと思います。それは考えて出た言葉ではなく、心の源泉から自然に湧きあがった言葉なのだと思います。だからこそ、誰しもが「ありがとう」と、ただその一言だけになったのに違いありません。(p.263~264)

 そうして、小松氏は告別式に参列した際に、号泣していた小学三・四年生ぐらいの子どもが、「走りゆく霊柩車がみえなくなるまで、「さようなら~、さようなら~」と声を振り絞りつづけて」いたことも報告し、次のように「人間の尊厳」ならぬ《人間の尊厳》について述べています。

《人間の尊厳》とは、「ありがとう」と言った人々と「ありがとう」と言われた有里ちゃんとの間に、「さようなら~」と叫びつづけた子と叫ばれつづけた有里ちゃんとの間に、浮かびあがった共鳴関係のことだと考えます。もともと有里ちゃんに尊厳があるのではありません。彼女と周囲の人々との間に、初めて尊厳なるものが立ち現れるのです。(p.264)

 すなわち、関係性にこそ尊厳は見出すことができるとするのです。もし、「なんらかの状態にあることが人間の尊厳であるならば、その状態が揺らいだなら、つまり精神や理性などが薄らいだら、さらにそれらが消失したとされたら、人間の尊厳も薄らぎ、消失したことになってしまう」(p.264)のでしょうが、「それに対して有里ちゃんの例は、有里ちゃんが「いる・いた」という「存在の事実」に関係して」いて、「《人間の尊厳》に関して考えるべきは、この「存在の事実」に他ならない」(p.265)と小松氏は考えるのです。これは、「われわれのわれ」という人間観に基づく、新しい尊厳概念の提案とみることができるでしょう。そうして、個人主義的人間観において脳死を個体死とみなし、尊厳なき者とすることに対して、この新しい人間観から、次のように小松氏は批判するのです。

《人間の尊厳》が、眼差す者と眼差される者との間に、叫ぶ者と叫ばれる者との間に、立ち現れる共鳴関係のことであるなら、そして、これら両者の一体化の別名であるなら、脳死者たちの存在そのものを否定する人々は、《人間の尊厳》が成立する要素を欠いていることになります。(p.269)

 このように、関係性における個人として捉える人間観を小松氏は提示するのですが、ここでサングラハ誌の読者にはおなじみの実体の定義を思い出してください。次の三つの項目でした。

・それ自体で存在できる。
・それ自身の変わることのない本質がある。
・永遠に存在することができる。

 関係性における個人は、1番目の条件を満たしていないので、実体ではありません。関係性なしでは存在できないのですから。特に小松氏の場合には、関係性は人の思いに媒介されていますから、主観的なものです。そのため、中居英夫氏の「人は死んだら、残された者の心の中に行く」(p.204)という考え方に賛同するのでしょう。そうして、「心の中にやってきた他者を前提としてできている「私」が、他者を実体化などできるはずがない」(p.204)とするのです。したがって、「他者を実体化できない私たちは、他者を客体化することができません。客体化できないのですから、所有もできません。所有ができないのですから、処分もできない」(p.204)とし、それを脳死・臓器移植に反対する理由とするのです。こうしたことから、次のような生命観を述べることになったのでしょう。

私の命は、私だけのものではありません。私の死も、私だけのものではありません。生も死も、人と人の間を流れる時間と空間のなかを、まるで百代の過客のように行き交ってやまない、真摯なヴァガボンド(2)なのではないかと思うのです。(p.163)

 このような人間観から、現在の個人主義的人間観による尊厳概念や自己決定権概念を捉えなおすことで、ナチスや植松被告の凶行が生じる可能性の呪縛から私たちは解放されると小松氏は本書で訴えようとしているのだと私は思いました。

(1)中村暁美、『長期脳死——娘、有里と生きた一年九か月』、岩波書店、2009年、p.111を参照してください
(2)vagabond、漂泊者、リーダーズ英和辞典

松氏の非実体的人間観をウィルバーの四象限説と発達心理学で評価してみる

 小松氏の非実体的人間観について述べてきましたが、最後にウィルバーの四象限説と発達心理学でそれを評価してみたいと思います。まず簡単に四象限説を説明します。詳しくは、サングラハ171号の「名作再訪 『自我と無我』」を初め繰り返しサングラハ誌に書かせていただいていますので、そちらを参照していただくことにして、本当に概要だけを説明します。

人間の個的側面と集合的側面

 デジタル大辞泉には、「一般概念」あるいは「普遍概念」について次のように書かれています。

個々の事物のいずれにも同一の意味で適用される概念。魚・木・人間などの類。

 例えば「人間」という一般概念では、個々人の間には、大きかったり小さかったり、あるいは髪の毛が多かったり少なかったりの違いがあっても、そこには人間としての何らかの共通性があるとみなしているわけです。その際、単数では共通性は意味をなさないのですから、複数の個人がいることが前提とされています。「人間」という一般概念が事実として成立するためには、人間が個と集合の両者として存在していることが必要です。
 ウィルバーは、おそらくこのような考えから個と集合ということは人間という現実の基本的な対となる側面だとしたのでしょう。ウィルバーによればこの二つの側面の関係は、コインの表と裏のような関係で、必ず二つ対になって現れます。そのような二つの側面間の関係を相補的関係と呼ぶことにします。一つのものの上と下、右と左などは相補的関係の例です。図1は、四角形で人間を表し真ん中に境界線を一本引いて、上側を人間の個的側面、下側を集合的側面として表したものです。

 実際、人間一人一人は一応独立した全体性を持ちますが、実体として単独で存在することはできないことをすでに述べました。そうしますと、個人(個)とその集合である社会とは本来切り離して考えることはできませんから、個的(Individual)な側面と集合的(Collective)な側面を持つとするのは自然な人間観だと思います。例えば、私という個人も、あなたという個人も、人間の個的側面の実例なのです。

人間の主観的側面と客観的側面

 人間の個的側面(すなわち個人)の具体例である私は今、「主観的側面と客観的側面」についてどう説明すればいいのかなと考えたり、ちょっとコーヒーでも飲んでやろうと思ったりしています。ところでこういった考えや思いは、私の身体のように誰かが見たり触ったりできる客観的なものではなく、私だけが主観的に体験できる何かで、通常私の心とか意識とか呼ぶものに生じるものです。
 しかし一方で、考えたり思ったりするとき、必ず身体があると思えます。科学者は、脳の複雑な構造があるからこそ、人は様々なことを思考できるのだと主張しています。そうすると、私には、他の人が見たり触れたりすることのできない心とか意識とか言われる主観的側面と、他の人が見たり触れたりできる身体という客観的側面があり、両者は密接な関係にあるようです。ウィルバーはどの個人にもこの主観的と客観的の二つの側面があるとします。
 ウィルバーによれば、人間の個的側面(すなわち個々人)だけでなく、その集合的側面にも主観的側面と客観的側面があるのです。客観的側面は客観的に見て取れる社会のシステムです。しかしそれには対応する主観的側面もあるというのです。集合の主観的側面の例としてウィルバーがネイティブ・アメリカンの雨乞いの踊りを挙げていることについて、岡野守也氏は『自我と無我』で次のように書いています。

 ウィルバーが典型的なものとしてあげているのは、ネイティブ・アメリカンの雨乞いの踊りである。外面である社会システムという視点から観察すると、それは部族の結束を強めるという社会機能を持っている(集団の外面)。しかし、踊りに参加している時に彼らが何を感じ、どういうふうに自然と自分の関係を感じているか(集団の内面)は、いっしょになってレイン・ダンスをやりながら、「ああ、こういう気持ちなのだな」と共感しないかぎりわからない。(1)

 このような集団的な共感、あるいは集団が共有する世界観をウィルバーは集団の主観的側面としているのです。日本人が共有している里山への思い、ある家族が共有している母親の作った味噌汁への思いな ど、色々な集団レベルで、主観的側面が考えられます。こうして人間には個的側面にも集合的側面にも主観的側面と客観的側面があることをウィルバーは主張していて、やはり相補的な関係にあるとしています。図2は、四角形で人間を表し真ん中に境界線を一本引いて、左側を人間の主観的側面、右側を客観的側面として表したものです。

人間の四つの側面

 こうして人間には個的側面にも集合的側面にも主観的側面と客観的側面があることをウィルバーは主張し、さらにこれら二組の相補的な側面を重ね合わせることで、個的主観的側面、個的客観的側面、間主観的側面(集合的主観的側面)、関客観的側面(集合的客観的側面)という四つの側面があるとします。図3では、大きな正方形が人間を表し、内部を通る縦横の線分によって区切られた四つの正方形が各側面を表しています。これら二つの線分を直交座標と見なすことで、ウィルバーは四つの側面を四つの象限とも呼んでいます。

 このようなウィルバーの四象限説で小松氏の非実体的人間観を評価するとどうなるでしょうか。小松氏の言い方だと、人は「われわれのわれ」として存在しているということでした。その際の「われ」とは、個人という独自性を持った実存的な存在であり、主観的なものです。そうして、その「われ」が同じように実存的に存在している他の人たちとの関係性において存在していて、「われわれ」という関係性の網ができていることになります。これを四象限説で捉えると、「われ」と言うのは、個的主観的側面(左上象限)で、また「われわれ」というのは、そのような「われ」たちの関係性の網でできた間主観的側面(左下象限)ということになるでしょう。
 これら二つの象限は、相補的であり、どちらかだけで存在することはできません。小松氏の非実体的人間観は、大体この二つの側面で捉えることができると思います。ただし、小松氏の場合、間主観的側面に関しては、家族をはじめとした身近な人たちとの関係性にのみ囚われがちで、文化的な広がりのようなことにまで視野を広げるようなことはあまりありませんし、個人主義を否定し関係性を際立たせるために、ウィルバーのように、「われ」が「われわれ」に対して同等な相補的関係にあるというように考えているかどうかも定かではありません。また、右側の客観的な側面にもあまり触れられてはいません。個人の客観的な側面(右上象限:身体、財産、年齢、仕事、地位などなど客観的に知ることのできる面)やそれらの関係性の網の目からできている社会システム(右下象限:家族の構成、所属する国家の政治体制、などなど)は、小松氏の議論では特に触れられていませんでした。それは、論題とあまり関係がなかったからなのでしょうし、専門家に任せればいいということでもあるのでしょう。また、人間は人間とのみ関係を持つのではなく、動物たちともかかわりを持っています。ペットとは家族としてかかわっている場合だってあります。動物福祉法を制定し改善していくためにも、動物の《尊厳》についても当然考えなければならないなと思いました。
 ところで、ウィルバーの理論には、発達ということもあります。特に個的主観的側面での発達は、発達心理学で扱われます。では、小松氏のように、「われわれのわれ」というようなことを考えることができる心のレベルとは、ウィルバーの理論ではどうなるのでしょうか。ウィルバーは発達の高度なレベルで初めて心は理性をもてるとし、形式的操作とヴィジョン・ロジックという段階がそれにあてはまるとしています。それらについて簡単にみていき、そのあと「われわれのわれ」というようなことを考えることができる心のレベルについて考察します。

心の発達:形式的操作とヴィジョン・ロジック

 12歳ごろに人の心は形式的操作期に到達するのですが、そこでは、具体的な世界を越えて、与えられた条件に沿って、事物の可能な在り方全てを心に浮かべることができるようになります。例えば、『子どもの発達心理学』には次のような記述があります。

 ピアジェはこどもたちに1,2,3,4のラベルがついた無色の液体が入ったフラスコと、Gというラベルのついた、やはり無色の液体の入った容器を与え、「混ぜ合わせて黄色をつくる」という課題を与えた。この課題は、何と何を混ぜ合わせるか組み合わせを考え、計画的に混ぜ合わせていかなければ解決できない。
 前操作期の子どもたちはでたらめに混ぜ、すぐにあきらめてしまった。具体的操作期のこどもたちは多少は組織的で、Gの液体を4つのフラスコに入れてはみたが、やがてこれ以上は何もできない、とあきらめてしまった。だが形式的操作期と目される子どもたちは、より組織的で、論理的であった。彼らは組み合わせの種類を考え、紙に書きとめ、順にその組み合わせを試し、課題に成功することができた。(2)

 この例のように、形式的操作期では、具体的な世界を越えて、与えられた条件に沿って、事物の可能な在り方全てを心に浮かべることができるようになります。前段階の具体的操作期では、他者の視点をとることができ始めたわけですが、形式的操作の段階では、他者の視点に立った場合に見える景色に関する想像力が飛躍的に発達します。そうして個人というものを、実際に担っている特定の役割からは独立した、さまざまな可能性(可能な役割)に開かれた合理的な自我の持ち主と捉えるようになり、自我の確立の段階を迎えます。
 ところで、形式的操作の能力を十分発揮すれば、ものごとを差異化して捉えた上で、「あれはああ、これはこうなっている」と、それぞれがどういうふうにつながっているかを可能な在り方を検証しながら把握できるようになります。したがってこの能力を使って人々のつながり、動植物と非生物のつながりを見ることで、社会のシステム、生態系のシステムを合理的、科学的に把握することまでできるようになるのです。
 ピアジェの発達心理学は、形式的操作段階に達するところで終わっているのですが、ウィルバーはそれにヴィジョン・ロジックと呼ばれる段階を付け加えます。
 先ほど、形式的操作段階では、個々の事物がどうつながっているかを見てその仕組みを洞察し、システムを理解するのだと述べました。ここで注意してもらいたいのは、個々の存在、各部分にまず注目していることです。そののちにそれらのつながりを見るのです。それに対してヴィジョン・ロジックの段階では、個々があることとつながった全体があることを別々ではなく一体化して見るようになります。『自我と無我』では、環境問題のようなグローバルな問題の解決には、それぞれの国家が個々にあることからそのつながりを考えるのではなく、ヴィジョン・ロジックの見方で、諸国家はつながりあった全体の下で存在すると最初から発想する必要があるということが述べられています。

 世界のリーダーたちの多数が、「我が国の利益はこうだ」という話だけではなく、「お互いの国の利益の矛盾をどうやって調整しようか」という話だけでもなく、「いったいどういうありかたが、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」という発想に立てるようになったときに初めて、そうしたグローバルな問題の解決の糸口が見えてくるだろう。(3)

 ヴィジョン・ロジック段階では、形式的操作段階で把握された関係性で結ばれた全体を見るだけでなく、全体としての可能な在り方も同時に見ようとするのです。個々から全体を見るだけでなく、全体から個々を見ることも同時に行うのです。小松氏が述べる「われわれのわれ」という非実体的なあり方を十分了解できるのは、このヴィジョン・ロジックの段階に差し掛かっていることが必要ではないでしょうか。だとしますと、多くの人が小松氏の考えに共鳴できる日はもう少し待たないと来ないように思えます。

(1)岡野守也、『自我と無我 ――「個と集団」の成熟した関係』、PHP研究所、2000、p.185~186
(2)高橋道子他、『子どもの発達心理学』、新曜社、1993、pp.132~133
(3)『自我と無我』、p.134

おわりに

 インターネットサイト「習慣読書人ウエブ」に天田城介中央大学教授による本書の書評が掲載されていました。そこに次の記述があります。

小松が指摘するように、私たちの生は共鳴関係のもとにあり、私たちは「われわれのわれ」を生きている事実があることを認めよう。しかし、その事実がなにゆえそれ以上基礎づけることの困難な事実であると言えるのか。それをどのように語るのか。
 とはいえ、おそらくそれは本書が回答を用意すべきものではない。むしろ、本書を通じて私たちが応答すべき問いである。誰にとっても読みやすい本でありながら、誰もがすんなりと考えることができない大きな思考的課題を提示する良書である。(1)

 この評価に私は賛同します。厳密な議論で体系づけようとしているわけではないので、各自が振り返る際に自分でまとめ直さなければいけない論じ方を小松氏はされています。そういう手間をかけさせることにこそ著者の狙いがあるのではないかと思いました。

(1)『「自己決定権」という罠』 書評 「われわれのわれ」と「存在の事実」から思考することを提示する」、インターネットサイト「習慣読書人ウエブ」、更新日:2019年2月16日 / 新聞掲載日:2019年2月15日(第3277号)より

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