中立国スイスとスウェーデンを参考に将来の民主主義国の在り方を考える

増田満

 日本国憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と前文で述べ、従って国際平和を追求するのに「国権の発動たる戦争」を放棄し、「陸海空その他の戦力」を保持しないと9条で決めています。このような憲法の考えに本気で従うなら、平和国家日本は非武装で、またどの国とも争いの種をつくらないように非同盟中立であればよさそうに思えてきます。
うろ覚えですが、私が中学生であった頃(小学生だったかもしれませんし高校生だったかもしれませんが、いずれにしろ今から45年前後昔で公立小中高等学校の多くの先生方が日教組に加入されていた頃)、スイスやスウェーデンは永世中立国だと聞いたり、「日本は東洋のスイスのようになればいい」と聞いたりして、漠然と世界には日本が目指すべき非武装中立の平和国家が存在し、日本もいずれそうなれないはずはないと考えていた気がします。「今は自衛隊を持ち、アメリカと安全保障条約を結び、非武装にも中立にもなっていないけど、そのうちなれるのではないか」と考えていた気がします。しかししばらく後にはスイスもスウェーデンも武装していることを知り、そのため憲法9条に書かれていることの実現性に対する疑いを強めたことも覚えています。
ところで、サングラハ152号、153号に書評を書かせていただいたジャック・アタリの『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社、2006年)には、独裁国家があったり紛争が絶え間なかったりする今の世界をグローバルな社会民主主義社会(彼は超民主主義と表現しています)へ変容させるには、民主主義国が同盟し、脅威に対して必要とあれば断固とした軍事的制裁を行わなければならないという指摘がありました。平和を目指す民主主義国であることと、強力な軍事同盟を結んでいることは矛盾しないどころか必然的な結びつきさえあると感じさせるアタリの指摘でした。必要とあれば強力な軍事力で問題のある国を制圧して超民主主義社会を実現してこそ、生き延びるための持続可能な世界を築くという新しい戦いに人類は集中できると彼は主張しているのです。
生き延びるための新しい発展段階に人類が進む手前では暴力も避けられないという、アタリのこのようなシリアスな考えを知ると、先ほど述べました前文と第9条の考えを含む日本国憲法にはある種のカタストロフィーがもたらされなければならない気がしてきます。憲法が示唆する非武装中立など、まったくのファンタジーにすぎないのではないでしょうか。そこで第9条を中心に憲法の改定が話題になっている今、長い間中立国であり続け、平和国家として高い評価を受けているスイスとスウェーデンが、世界大戦を乗り越えた様子と現在の状況を知り、民主主義国が目指すところを考えてみたいと思います。

スイスが永世中立国になった経緯と第一次世界大戦との関わり

スイス永世中立国になる
スイスが永世中立国になった経緯に関して、ホームページ「世界史の窓」には次のような記述があります。

ナポレオン没落後の国際会議であるウィーン会議では、スイスの安定はヨーロッパ各国の安全にとっても重要な意味があると認識されたので、その領土と国家形態について話し合いがもたれ、その合意として、1815年のウィーン議定書で、22州(カントンといわれる自治体)からなる連邦国家であること、しかも永世中立国となることが承認された。

すなわち、ドイツ、イタリア、フランス、オーストリアに囲まれた小国スイス(図1を参照してください)が中立を保つことは、それらの国々にとって都合がよいと考えられたのでスイスは永世中立国になったのです。

図1 ウィーン会議時(1815年)のヨーロッパ

  (コトバンク ウィーン会議の項目 日本大百科全書の解説 より)

このスイスの中立国としての基本方針については、Wikipediaの「スイス」という項に次のように書かれています。

スイスにおける国防の基本戦略は、拒否的抑止力である。敵国にとって、スイスを侵略することによって得られる利益よりも、スイス軍の抵抗や国際社会からの制裁によって生じる損失の方が大きくなる状況をつくり出すことによって、国際紛争を未然に防ぐ戦略である。

『中立国の戦い――スイス、スウェーデン、スペインの苦難の道標』(飯山幸伸、光人社NF文庫、2014年 スイス、スウェーデンを中心に、ヨーロッパにおける中立国の歩みについて書かれた本)の47ページによれば、スイスは、国際的に自国の中立性を認知させるため、しばしば戦争の仲裁役を務めたそうですし、アンリ・デュナンを中心として、戦場においての敵味方の別なく救援する団体(国際赤十字)が1864年「ジュネーブ協定」で設置される活動を行ったりもしたそうです。

第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)とスイス
第一次世界大戦開始直後の1914年8月4日に中立宣言し、戦争の長期化でも「食料や生活物質の輸入は南仏の輸入路が乱されなかったため最悪の困窮は免れた」(『中立国の戦い』p.59 以下、引用に関しては、断りがなければ同書からで、ページ数のみを示します)スイスですが、臨時の国防組織の編成を維持し続けなければならず、連邦の税制は圧迫されます。また、工業生産に必要な原材料不足により、ドイツへの工業産品の輸出は危機に陥り、「国内インフレの長期化は戦時利得層(農業従事者)とそれ以外の一般市民との経済格差を拡大させ」(p.59)、労働運動も引き起こしたそうです。
同じように中立宣言しながらもドイツ軍に踏み込まれたベルギーのように戦争に巻き込まれることはなかったスイスですが、「大きな戦争がいかに通常の(非戦時、平時の)生産活動、経済活動に悪影響を及ぼし、国民生活を乱す」(p.60)か、身をもって経験することにはなりました。

スウェーデンが武装中立国になった経緯と第一世界大戦との関わり

スウェーデンが武装中立国になった経緯
スウェーデンはスイスと同様永世中立国なのだと私は思っていましたが、勤労者通信大学のホームページによりますと、永世中立国とは、「永世中立宣言を出し、それが国際的にも承認されている国のこと」なので、宣言もなく憲法で中立政策をうたってもいず、ただ実際上中立政策をとっているだけのスウェーデンは、永世中立国ではないそうです。それはともかくとして、スウェーデンが武装中立国になった経緯とその後の歴史に関してWikipediaの「スウェーデン軍」の項には次のように書かれています。

近世までのスウェーデンは軍事国家であり、欧州に覇を競う列強の一員として、17世紀から18世紀初頭にかけては軍事技術をリードする立場であった。特に、ドイツにおける三十年戦争で武名を馳せ、自らも戦場に散ったスウェーデン国王グスタフ・アドルフは、軍事革命の立役者の一人である。
18世紀の大北方戦争では緒戦こそ優勢であったが最終的にはロシア帝国などに敗北し、それ以降のスウェーデンは海外進出をあきらめて自国の国土防衛に専念するようになる。ナポレオン戦争では反フランス陣営に与してフィンランドを失陥するが、ナポレオン戦争終結後に現在のベルナドッテ王朝が成立し、それ以後はヨーロッパの大戦争に関与することなく武装中立(中立主義)を掲げて今日に至る。

またWikipediaの「武装中立」という項には、スウェーデンが単なる中立政策から国策としての武装中立へ乗り出したのは20世紀に入ってからであり、ノルウェーとの同君連合が1905年に解消され、第一次世界大戦を前にして列強間の対立が激しくなったことで、国防の増強に乗り出したとあります。
ところでスウェーデンが中立外交に切り替えた19世紀には、オッペンハイムによって近代国際法での中立国の在り方が定義されたらしく、『中立国の戦い』52ページでは、次の三つばかりの項目が挙げられています。

「中立国は交戦国に対して公平義務を負う=他の国家間の戦争に参加しない国だが、交戦国から中立な第三国と認められることを要するので、そのような中立国は交戦国に対して公平な距離で接する権利を得、またその義務を負う」
「中立国は避止義務および防止義務を負う=交戦国が中立国の領土や資源を戦争目的で活用することを阻止しなければならない」
「不正な交戦国に対する嫌悪は中立を侵すものではない。また一方の交戦国に対する人道的な救済行為(負傷者の救護や捕虜への慰問等)は公平に反しない(黙認義務)」

すなわち、中立を宣言すれば中立を維持できるというわけではなく、「交戦国から中立な第三国と認められ、かつ交戦国の軍事活動に巻き込まれないように自らの責において阻止」(p.52)し続けなければならないのです。中立であるためには自らその潔癖さを証明し続けなければならないのです。

第一次世界大戦とスウェーデン
北欧の強国であり、国防の増強に乗り出していたスウェーデンは、第一次世界大戦では連合国側(イギリス、フランス、ロシア等)からも同盟国側(ドイツ、オーストリア、オスマントルコ等)からも、「相手側陣営に付いての参戦が危惧、警戒された」(p.57)のですが、そのような見方を払拭するため、厳正中立の外交方針を明らかにします。それでも、理不尽な要求をされたり、経済的な損害を被ったりして苦労したことが、次のように『中立国の戦い』の57ページで述べられています。

スウェーデンにしてみれば厳正中立を保つためのことだったが、フィンランド(当時ロシア領)地域の臨時軌道とスウェーデンの軌道とを連結させるというロシア側の要求をのんだ際も、スウェーデン領内を通過する連合国側の武器運搬要求を断った際も、相手側の不信感を招いた。ともに対峙する交戦対象国(前者ではロシア、後者ではドイツ)にとって有利な措置になったからである。
けれども中立政策を採ってから約百年、スウェーデンは貿易立国に変わっていたため戦争に巻き込まれることだけでなく、輸出入への悪影響や国内経済の悪化、船舶の損害が問題になった。国内物価も輸出入に起因するインフレにより、対戦突入時の約二倍に上ったという。海上での戦いによる喪失船舶も二百七十隻に達した。

また、第一次大戦終結時での共産主義革命によるロシアの混乱に乗じてロシアからの独立戦争を行ったフィンランドは、旧領主のスウェーデンに軍事支援を求めます。しかしその中立政策のためスウェーデンは不干渉を貫きます。それは以前ビスマルクのプロイセンが南ユトレヒトに侵攻したときにデンマークを支援せず不干渉を貫いたときと同様でした。それに関して『中立国の戦い』は次のように述べています。

これはスウェーデンの中立政策の意志の強さを対外的に示したが、デンマークのときと同じく隣国への冷淡さ、見殺し政策とも受け取れかねなかった。フィンランドにとっては忘れられない隣国の冷ややかさであったが、非公式の黙認されたスウェーデン義勇軍の支援も忘れてはならない援助となった。(p.65)

大戦間における国際連盟の成立とスイス・スウェーデン

 大戦後、火種は残しつつも、ソビィエト連邦の樹立、オーストリア・ハンガリー帝国の細分化(オーストリア共和国、チェコスロヴァキア共和国、ハンガリー王国、ユーゴスラヴィア王国)、オスマン帝国体制崩壊による新国家の樹立などが行われ、また大戦の反省から、アメリカのウィルソン大統領の提唱に基づき、「国際平和の維持と多方面にわたる国際協力を目的とし、紛争処理手続きや主権侵犯国に対する制裁行動などを規定した」(百科事典マイペディア「国際連盟」の項より)国際連盟が1920年に創設されました。もしこの国際連盟が規定通りにその役割を十分に果たすなら、スイスもスウェーデンもことさら「中立国」である必要もなくなるはずなので、両国とも原加盟国として参加しました。ただし、スイスの場合、国際連盟の軍事活動には加わらず、経済制裁の義務のみを負うことで集団安全保障の連帯責任をとるとする条件付き参加だったそうです。またスウェーデンも、「武力使用をせずに交渉によって国際間のトラブルの解決を目指す『ハーグ国際法廷』の設置に向けて尽力」(p.65)し、その後の戦争においても、交戦国間の調停役を買って出るようになったそうです。
しかし提唱国であったアメリカは初めから参加せず、ファシズム化したイタリア、ドイツ、そして帝国日本は1933年に脱退し、スイスがその加盟を反対し続けたスターリン独裁下の共産ソ連は1934年に加盟してしまいます。そうした状況下で国際連盟の集団安全保障による平和維持への期待をスイスは失ってしまい、1938年に脱退します。そして1939年9月1日に突如ドイツがポーランドに宣戦し第二次世界大戦が勃発し、11月30日には、「まさしく『理不尽』ということばがあてはまるフィンランド侵攻のかどでソ連は国際連盟から除名され」(p.95)、国際連盟は完全に無力化してしまいます。

図2 第二次大戦(1939年)でのヨーロッパ(map-of-europe-1939-with-cities_2.jpgより)

第二次世界大戦(1939年9月1日~1945年8月15日)でのスイス

アンリ・ギザンというリーダーの存在と総動員令
「誰よりもスイスの防衛力について知り抜いている」と言われたアンリ・ギザンは、1933年に平時におけるスイス陸軍のトップの地位(軍団長大佐)に就任します。彼は国防大臣のアンドルフ・ミンガーと良好な関係にあり、「担当大臣のミンガーが予算を獲得して防衛産業の充実や近代的装備品への転機に取り組む一方、ギザンは指揮官の育成や兵員の訓練」(p.93)にいそしむといった形で、スイスはナチスドイツの再軍備が明らかになる前から防衛力整備に取り組んでいました。
そして、「ドイツ軍がポーランド国境に集まり始めたこと」(p.97)が伝えられると、ギザンは総動員令発令によって召集されるスイス陸軍の最高司令官「将軍」に選ばれ、「国家の独立を保持し、領土の不可侵を守る」ことと「外国軍隊の脅威がない限り行動措置は中立主義の原則によって遂行されなければならない」(p.99)ことの二つを骨子とする連邦政府訓令を受け取ります。
ドイツ軍のポーランド侵攻(1939年9月1日)の翌日にスイスでは現実に総動員令が発令され、戦時現役のスイス陸軍要員は七日間で配置を完了し、「戦闘員四十三万人と補助員である非戦闘員二十万人の計六十三万人」(p.98)が動員されました。

ギザンの砦の戦略と実際
総動員令が発令されたといえども、交戦諸国に比べればはるかに見劣りする兵力のもとで防御展開しなければなりません。そこでギザン将軍と陸軍司令部は「ナチスドイツが目的とするところやその戦い方を冷静に分析」(p.110)します。そして次のような結論を得ます。

デンマーク、ノルウェーへの侵攻は1940年4月から、西ヨーロッパに先んじて実施された。中央の支配もすでに進められ、東欧諸国の枢軸国の同盟への参加が予想されている。ねらいは欧州全域のファシズム支配であろう。ということは、ドーヴァー海峡の向こうの大英帝国の占領がナチスの目標となるだろう。
その場合、低地諸国からフランス北部にかけてドイツ軍は自由にできなければ英本土への上陸と占領は覚束ないであろう。ドイツ軍需物資の生産工場が集中するルール工業地帯への英仏軍の航空攻撃も阻止しなければならない。となると、マジノ線とジークフリート線が向かい合う要塞地帯の北側、低地諸国側を突破するほうがこの目的にかなっている。「ドイツ機甲師団を遠回りさせることになるスイスへの武力侵攻は、すぐには実施されないだろう」(p.111)

このような分析結果のもと、ギザン将軍は慌てることなく独仏要塞ラインに近い地域の陣地強化策を進めることができました。実際彼の分析通り、1940年5月10日にドイツはベネルクス三国(低地諸国)へ侵攻し、1940年6月22日に独仏休戦協定が結ばれフランスは降伏します。こうしていよいよスイスはドイツ、イタリアによる南北からの侵入の可能性に直面するのですが、そのためにギザンが用意していたのが「砦の戦略」です。
もともと南北にはアルプス山脈という自然障壁があります。そこでアルプスの厳しい自然を味方に主陣地を形成し、枢軸軍が航空攻撃を仕掛けようにも、安全な飛行も望めなければ攻撃の効果も得られにくいところに砦を築きます。そしてスイスの国防軍が、陣地内各地に分散して枢軸軍が最も嫌がる山岳戦を強いるようにし、いざとなれば「彼らが欲しているアルプス山脈の南北を縦断できる交通路を破壊」(p.115)し、侵略、占領する意味を無にしてしまう。これがその戦略でした。
ギザンの戦略の実施は連邦政府に受け入れられ、彼は、ナチスの危機が迫った1940年の夏に大隊長以上の幹部をリュトリ草原(13世紀当時のハプスブルク家の脅威に対抗する永久同盟の制約が発せられた地)に集め「指揮官合同」を行い、これから起こると予想される戦いへの決意を表明し、「防衛戦闘についての持論・砦の精神」(p.120)を説明しました。その演説の中には、ドイツがスイスを占領する目的の根幹にかかわる「侵攻を受けて占領が避けられなくなるときにはアルプス山脈を縦断するザンクト・ゴットハルト、シンプロンの両トンネルを自爆させるという予告」(p.120)が含まれていました。
ドイツには「タウネンバウム(楡の木)作戦」というスイス侵攻の計画があったそうですが、この指揮官合同に関する報告を受け、「スイス占領作戦の立案は本当に必要になるときまで先延ばしということにされた」(p.127)そうです。
のちに窮地に陥ったイタリアをテコ入れする際、ドイツからの軍備、兵力の主要交通路はイタリアとオーストリアの国境が接するブレンナー峠になるのですが、そのころには連合軍の空爆が激しくなり、ドイツはスイスのザンクト・ゴットハルト、シンプロンの両トンネルを自由に使いたくなります。そこで再びスイス占領計画が持ち上がります。その際、計画を思いとどまらせたのは、やはりギザンが築いた防衛体制だったそうです。当時の駐スイス・ドイツ公使キュッヘルは、ドイツ本国からのスイス侵攻に関する問い合わせに、「損害は予想外に拡大し、長期戦への突入と戦争継続能力に響く消耗は避けられない」(p.140)と答えたそうです。
ここまで述べてきたことだけからも、ギザンという先を見通す力をもった優れたリーダー、そして国民の中立貫徹に対する一致団結した覚悟、さらには地政学的な状況がそろって初めてスイスがこの大戦で中立を保持できたのだと結論してもよさそうに思えます。

中立を守るために中立と矛盾する経済協定をナチスドイツと結ぶスイス
スイスは鉱物資源に恵まれていない上、国土の半分以上がアルプス山脈になっていて農産物にも恵まれていません。それゆえ国民の生活維持のため、戦時下でも交戦中の両陣営諸国との貿易が重視されました。
特に「軍用機を作って飛ばすのに必要な燃料」、「重工業の操業に不可欠な金属材や石炭など戦略物資」(p.109)を主に購入するのもドイツなら、「スイスならではの高性能光学機器や電気機械、それに武器類(スイスには機関砲の製造権を主要国各国に売りさばいたエリコン社が存在)」(p.110)が大量に輸出されるのもドイツでした。
こうして、「ドイツの侵攻から守るために資源をドイツから輸入するなど矛盾も甚だしかった」(p.131)スイスですが、国の立ち行きを左右するほどのドイツ貿易の重要性から、バトル・オブ・ブリテンも佳境にはいろうかという1940年8月に、「スイス・ドイツ経済協定」が締結されます。その内容は、「連合国への輸出品にドイツ側の証明書を添付する条件で、まだ占領下に置いてない南仏の通過を許可し、その代わりに独伊両国はスイス鉄道での輸送が自由になる」(p.131)というものでした。
このスイス・ドイツ経済協定の内容を容認できなかった英国が、「英国から発行された証書なしの船舶輸送には、安全を保障しないという事実上の経済封鎖」(p.132)を実行します。これにより「スイスの経済面でのドイツ依存度」はさらに高まり、「それを好いことにドイツもスイスにクレジットの金額の増額を要求」(p.132)し、それがドイツの戦費になるという、スイスが絡むことによる戦争遂行のための悪循環が生じました。しかしこのような状況は戦況が枢軸国に不利に傾くにつれ変化し、「英米への輸出はイタリアが敗れた1943年頃から伸びはじめ、1944年中に輸出入額とも英米とドイツとが逆転」(p.133)することになります。
結局のところスイスの貿易収支は、1940~43年にかけては枢軸国相手がかなりの黒字に、1943年からは英米相手が大幅な黒字になります。これらのことは、スイスの軍事産業が中立国の立場を活かして戦争で稼ぎに稼いだという謗りを受けるもとになりましたし、「スイスの金融経済力もドイツの戦争実施、継続のための資金源になったと白眼視され」(p.133)ました。「ナチスがベルギーで略奪した金塊と引き換えにスイスフランを提供した『ナチス略奪金塊』問題は、ほかの中立国が応じなかった金取引をスイスだけが応じただけに国際社会から批判の目にさらされた」(p.133)ということもありました。

灯火管制問題と連合国によるスイス領内爆撃
1940年に入ると、英空軍の都市爆撃も始まりますが、スイスは戦争に関与する気はありませんから、当初灯火管制も敷きませんでした。ところが、夜間航法技術が未発達の当時、都市の灯火が英空軍の夜間爆撃機にとり良い道標になるという独伊両国からのスイス批判が起こります。スイスは、灯火管制を敷くと英爆撃機による誤爆の可能性が高まると反論しますが、枢軸国側からは「英爆撃機と同様、スイス領空まで夜間迎撃機の足を伸ばさせ、場合によっては発電所や送電施設にも手を出すぞ」(p.128)というおどしもあり、「結局、スイスの一般市民のライフライン確保が優先されなければならず、発電所や送電線へのテロ攻撃を防がなければならなかったので、1940年11月から灯火管制が敷かれることに」(p.129)なります。こうして枢軸国側からの非難は解消されますが、英夜間爆撃機によるスイス領内への誤爆も発生するようになります。
もともと貿易相手国筆頭をドイツとして経済協定を結んだスイスを許しがたいとしていた英米両国からは、後には「『誤爆』を理由とする爆弾投下事件」(p.129)も起こされたそうです。
「結果的に大戦中に発せられた空襲警報は約7400回。対領空侵犯措置行動によって撃墜した枢軸軍機は12機、連合軍機13機(墜落、不時着機はそれぞれ53機、170機)、スイス側喪失機が200機で、空軍機がらみの軍事活動での死傷者数が300人以上」となり、「領空侵犯から始まって、領土内へのいわれなき爆弾の投下に、ドイツ軍の迎撃による損傷機の受け入れ、また誤認による被撃墜と、大戦下においてはスイスの空も決して平和とは言えなかった」(p.145)わけです。

終戦に向けて予想される混乱に対するギザンの対処
『中立国の戦い』の147ページによると、スイス連邦にとっての最後の不安要因は次の三つだったそうです。

・連合軍側がスイスの中立を尊重しない可能性
・敗戦で撤退するドイツ軍が国境線近くで交通要衝を破壊すること
・オーストリアを越えてソ連軍が迫ってくること

そこでギザンは、ドイツ軍討伐に当たっていた自由フランス軍のド・ラットル・ド・タッシーニ将軍と会見して「混乱を避ける協定」(p.147)を結び、自由フランス軍をドイツ兵のスイス流入や交通要衝の破壊を阻止しながら西オーストリアまで進出させることに成功します。そしてソ連軍の進撃を妨げてオーストリアのソ連圏衛星国化を防ぐことにも成功します。

第二次世界大戦でのスウェーデン

軍備の充実へ
第二次世界大戦勃発より10年ほど前の1929年10月末、ニューヨークでの株価暴落で世界大恐慌が起こると、国際社会は、「公共投資額の増加及び保護主義経済体制で乗り切ろうとする米・英連邦側と、対外領土拡大に走る全体主義国側(日独伊)とが対峙する図式」(p.154)になります。そのような国際情勢において、ナチスドイツは「新たな軍隊の存在」を公にして、1935年3月16日にヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄します。またソ連軍も「メイデーの観閲飛行の際、数百機もの四発重爆撃機にモスクワ上空を飛行させ」(p.154)たりし、その軍事力を見せつけます。こうして1930年代後半、ヨーロッパ諸国はドイツ、ソ連の軍事力におおいに驚愕することになります。
そのころスウェーデンでは、社会民主党のハンソンが連立政権を組織し、「福祉国家実現のための諸施策」(p.153)を打ち出していましたが、きな臭さが漂い始めた国際状勢では武装中立国として防衛力強化を進めざるを得ませんでした。必要とされる近代的な戦車、航空機、軍艦、潜水艦などの技術は、軍事活動が禁止されていた時代に働き場所をスウェーデンに求めたドイツ人技術者からもたらされていましたが、その後もドイツそしてアメリカから技術移入が行われ、「懸命の努力が数年にわたって続けられた結果、第二次世界大戦中には、かつての周辺国のように数ヵ月で軍門に下るようなことは避けられる規模」(p.199)にまでスウェーデンの軍事力は達したそうです。第二次大戦を通じてスウェーデンは、小国であれども「ハリネズミ」(p.158)のように防衛力の充実した武装国家だったのです。

第二次世界大戦勃発からソビエト・フィンランド休戦協定まで
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まります。
1939年10月中には、エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国がソ連に「相互援助条約」締結を強いられ、「実質的にソ連の支配下」(p.150)に置かれます。ところがこの条約締結をフィンランドは拒み、ために1939年11月30日にソ連はフィンランドに侵攻し「冬戦争」が始まります。この理不尽な武力侵攻が世界中の批判を浴びたソ連は、「1934年にようやく加盟が成った国際連盟から早5年で除名という処分」(p.166)を受けます。
ドイツに続くソ連の暴挙に直面し、1939年12月13日にはハンソン首相の挙国連立政権がスウェーデンに成立し、ノルウェーやデンマークと並んで「義勇軍派遣、武器供給と、可能なフィンランド支援」(p.160)を行います。それに対しタス通信は、「中立政策の表明に隠れてのフィンランド支援を強く批判」(p.164)し、1940年1月中旬には「バルト海沿岸のスウェーデン領内へのソ連空軍機による爆弾投下事件」(p.164)が起きます。
1940年2月16日にハンソン首相は「中立維持のため、これ以上のフィンランドへの武力支援は行わない」(p.164)と表明し、以後、公然の武力支援は差し控えられます。その代わりにハンソン政権は、中立国にふさわしく「ソ連・フィンランド両国の調停役」(p.165)を買って出ます。
スカンディナヴィア諸国だけでなく英仏両国も、「極北の小国相手に理不尽を繰り返す共産主義国を退治するためにスウェーデンを通過しての義勇軍派遣を企図」(p.166)しますが、1940年3月2日にスウェーデンは派遣軍の領内通過を拒否します。中立国の立場を維持しソ連を刺激しないためもありますが、「英仏両軍のもくろみがキルナ地方を占領して鉄鉱石の採掘場を確保」し、「さらにスウェーデン領内に対ドイツ爆撃の前進基地」(p.166)を持つことだと見抜いていたからとも言われています。友軍陣営への取り込みを果たせなかった英仏両国では「反スウェーデン感情」(p.167)が湧き上がったそうです。
1940年3月6日、スウェーデンの調停により、ソ連・フィンランド休戦協定が締結されます。「カレリア地峡、オラヤルビ地方がソ連側に渡って国境線が変更されたが、フィンランド主権がバルト三国のように蹂躙される」ことは防ぎ、「スウェーデンにしても、ソ連軍の脅威の接近を食い止める」(p.165)ことができたわけです。

やりたい放題のドイツ
1940年4月9日に、ドイツは中立宣言していたデンマーク、ノルウェーに対する侵攻作戦を実施します。その少し前に、スウェーデンにはドイツ公使から「スウェーデンから挑発するようなことをしなければドイツ軍は武力侵攻しない」(p.169)と伝えられていました。なぜでしょう。スウェーデンの防衛力が他国に比べ充実していたことが当然あると私は思いますが、『中立国の戦い』には、ドイツとスウェーデンが「伝統的に様々な面で結びつきが色濃く、また要人たちの血縁者の居住地でもあった」ことが指摘されています。同書によれば、ドイツの一部要人の親族がスウェーデンに居留していたほか、第一次大戦後、ドイツの多くの航空工業および軍事産業関係者が生活の場をスウェーデンに移した事実があるそうですし、ナチスドイツの空軍最高司令官そして国家元帥となるヘルマン・ゲーリングは、一時スウェーデン、デンマークで巡業飛行士として過ごし、その時代にスウェーデン貴族の出のカリン・フォン・ツォーを娶ったともあります。
結局デンマークはわずか2時間半で陥落し、ノルウェーのオスロは4月9日の午前中までに制圧されます。その後ホーコン・ノルウェー国王とその一行はスウェーデンに避難を打診しますが、スウェーデンはナチスドイツの対応悪化を懸念し拒否します。結局休息のための避難だけが認められた国王はロンドンに向かいます。
ところで「ドイツ空軍機は侵攻しないことの確約を通行手形にしたつもりだったのか、スウェーデン各地の領空を横切ってノルウェーに向かっていた」ため、「やはり武力侵攻されるのか」(p.170)と不安を抱いたスウェーデンは、1940年4月12日にハンソン首相が中立を維持するためなら戦いも辞さないという旨のラジオ演説を行い、国防軍は総動員に取り掛かります。
その後ドイツからスウェーデンに、「スウェーデン領内の武器、弾薬、物資の陸送通過承認の可否」(p.170)について打診があり、それに対してスウェーデンからは、「ノルウェー人の殺傷、被害につながるようなドイツ軍の武器類の通過は道義上、認められない」こと、「トレレボルイ―リクスグレンセン間の赤十字車輌の連絡、ナルヴィクへの民需物資の輸送、商船の乗員や傷病者の運送のみスウェーデン領内を通過できる」こと、そしてスウェーデンは中立厳守することの表明がなされ、「スウェーデンに対する武力行使の厳禁」(p.171)が求められました。
ドイツ側からはスウェーデンの中立尊重の確約がありましたが、「数ヵ月前の冬戦争の際にスウェーデンが行ったフィンランド支援の武器類提供」(p.171)を引き合いに出して、ゲーリングらは今回の領内武器類運搬の拒否を批判します。
それを受けて1940年5月下旬に新たな領内鉄道運輸の枠組みがスウェーデンから発表されますが、その内容は相変わらず船員・傷病兵の運搬・通過許諾と武器類の運搬禁止を求めるものであり、ヒトラーを激怒させます。そしてドイツではスウェーデンへの侵攻作戦の実施可能性も検討されますが、すでにヨーロッパ大陸西部での戦いが厳しくなっていたこともあり、「スウェーデン問題は先送りされることになった」(p.172)そうです。
ところで、「低地諸国、ノルウェー、フランスと相次いでドイツ軍の軍門に下り、大ブリテン島と北部アイルランドだけがヨーロッパにおける連合国側の最後の砦となった」(p.172)状況では、チャーチル首相、英軍にとって、スウェーデンからドイツへの鉄鉱石輸出は「憂慮の要素どころか阻止すべき重大事」(p.172)となっていました。スウェーデンにとってドイツとの戦争は避けられても、英軍からは「ドイツへのスウェーデンの戦争協力を妨害するための阻止作戦をいつ実施するか」(p.172)とまで問題視されるに至っていたのです。
ノルウェーでの戦いは6月10日に終わり(Wikipedia「ノルウェーの戦い」の項より)、ノルウェーはドイツ支配下に入ります。そうすると、「ドイツ軍のスウェーデン領内の武器通過もノルウェー人を傷つけるためのものではなくなる」(p.173)わけですから、ドイツ側からはスウェーデンに「軍需物資を含めた無条件のスウェーデン領内通過」が要求されます。その際には「交戦状態」と引き換えという圧力(最後通牒)まで加えられたそうです。
1940年7月8日、スウェーデン政府はドイツからの要求を受け入れます。「国土が戦禍に見舞われることを回避するために『中立』から『非交戦』の状態にまで退いての、ギリギリの譲歩」(p.173)でした。なおこの輸送協定は、名目上では「ドイツ兵の休暇で帰国する際の領内通過を認めること」(p.173)とされたので、「休暇協定」と呼ばれています。この協定に関しては『中立国の戦い』に次のように書かれています。

輸送協定(休暇協定)では、協定が結ばれた最初の半年こそは1万4千人のドイツ兵が交代したと言われている。ところが次第に、ノルウェー方面に向かうドイツ兵の数が圧倒的に上回るようになった。スウェーデンの鉄道は、連合軍の攻撃を受けずにドイツ兵を安全に半島の西岸に運搬するための輸送手段とされ、休暇のために帰還する兵士などやがてほとんどいなくなった。(p.178)

結局スウェーデンの鉄道によってノルウェーに渡ったドイツ軍将兵は約二百万とみられているそうで、もちろん英国や亡命ノルウェー政府から強く批判されました。
1940年の秋には、フィンランドとスウェーデンの共同防衛同盟構想が検討されようとしますが、その際ソ連からは「これは見過ごすことのできない疑惑」だと横やりが入ります。また、「マンネルヘイム率いるフィンランド軍と、急速に防衛力を充実させつつあるスウェーデン軍とが結びついてひとつの勢力になろうものなら」(p.186 フィンランド軍の改革を行ったマンネルヘイムは当時最高司令官)輸送協定も危うくなりかねないとしたドイツ側からも否定的な態度が示され、話は進みませんでした。そのためフィンランドはドイツの軍事支援を受けるようになり、連合国側はフィンランドを枢軸国側とみなすようになります。
1941年5月24日、「ハンソン首相らはヒトラーの特使から不愉快極まりない」(p.190)打診を受けます。ソビエト連邦奇襲攻撃作戦(バルバロッサ作戦)への参加です。当然スウェーデン側は拒否しました。
ドイツは「休暇協定」と呼ばれるいびつな輸送協定に代わり、「完全武装のドイツ軍一個師団をスウェーデンの鉄道によってノルウェーからフィンランドへ輸送」(p.190)することを要求してきます。これは今後実施される対ソ作戦を有利に行うための戦争協力にあたり中立違反です。しかもドイツは、「この要求の拒否は枢軸国軍の対スウェーデン武力侵攻につながる」(p.191)と念押しし、また枢軸国には盟友だったフィンランドが参加していることも告げました。
1941年6月、スウェーデンは、「非交戦状態維持と独立確保という利益だけを念頭に置いた一回限りの最大譲歩」(p.191)として、完全武装の兵力1万2千人規模から成る第163師団を二週間で輸送する「夏至の危機」と称される最大の中立違反を行います。Wikipediaの「バルバロッサ作戦」の項によりますと、1941年6月22日、ドイツはバルバロッサ作戦をついに開始し、ソ連へと侵入します。
しかしドイツの要求は終わりません。1941年7月末日、「一個師団をノルウェーからフィンランドへスウェーデンの鉄道で輸送」(p.192)するよう再度要求してきます。スウェーデンは一応拒否しますが、その代替策として「スウェーデン海軍の護衛で、ノルウェーのドイツ軍をバルト海=スウェーデンの領海=を輸送船で航行して、フィンランドまで輸送」(p.192)することになります。
さらに、「東部戦線北部でドイツまで帰り着けなくなったドイツ空軍機に、スウェーデン空軍の基地に離着陸できる権利」(p.192)まで与えてしまいます。これは、ソ連がバルト三国(およびフィンランド)に突きつけた「そちらの領内にわが軍の基地を作らせなさい」(p.192)という相互援助条約と大差ないと『中立国の戦い』では述べられています。

連合国優勢に
1942年に入ると、英空軍爆撃軍団は対独夜間爆撃を活発化させ、夏場にはスウェーデン領空への侵犯が相次ぐことになります。ソ連軍も「スウェーデン最北端のハバランダ市への爆弾投下事件」(p.197)を引き起こします。また「バルト海を航行するスウェーデン船も、いずれかの交戦国の潜水艦によって四隻が沈められた」(p.197)そうです。
1942年から1943年にかけてドイツ軍が明らかに劣勢になると、「スウェーデンほか中立国でも、ドイツ軍による脅威の意識は急速に縮小」し、「ドイツとの関係の縮小、制限へと米英の圧力」(p.198)が強まってきます。
1943年1月にはスウェーデンの港に置かれていたノルウェー船の英国に向けての出向が認められ、1943年8月には「休暇協定」そして武器輸送の了承が停止されます。しかし、石油、石炭などのエネルギーがドイツから提供されていたこと、そして産出される鉄鉱石の多くがドイツに輸出されていたことから、ドイツとの関係が弱まり貿易が縮小することはスウェーデンにとって深刻です。そのため、「米英もドイツと離れるための要求、圧力を強めるだけでなく、問題となったエネルギー供給の代替案として、スウェーデンへの石油輸出量を倍増させることを決めた」(p.205)そうです。こうして1944年中にはスウェーデンの鉄鉱石他戦略物資対独販売量は大幅に減少します。
1944年8月には、スウェーデンはバルト海沿岸のドイツの港に行く自国船への戦時保険適用を停止します。秋にはドイツからフィンランドに向けての領内通過協定は解消され、年末までには「ドイツとの通商関係はすべて停止」(p.207)されます。
戦争回避を何よりも優先するスウェーデンの1942年頃以降は、「ドイツ寄り、連合国寄りと、揺れに揺れた」(p.211)のでした。

批判とハンソン首相の死
『中立国の戦い』の212ページによれば、中立を逸脱するほどの譲歩を強いられながらも戦争を回避し、「国際法違反の中立政策」と評される状況を続けたスウェーデンへの批判は次のようなものでした。

「英国のように自由圏維持のために参戦すべきだった」
「中立の道義を守れないくらいなら参戦したほうが筋が通る」
「一方の陣営に有利になるような外交の継続は中立には当たらない」

1944年3月10日に、スウェーデン政府がノルウェー、デンマークほかヨーロッパ諸国の戦後復興を支援する機関(State Reconstruction Committee)を立ち上げ、戦後復興のための財政支援したことすら「お金で済ませる」ととられかねなかったそうです。それに対して、ハンソン首相らスウェーデンの為政者たちは、「戦争の局外にい続けることが最善の道で、これまで続けた(譲歩的な)政策は次なる可能性を残すための政策なのだ」ということを、あくまで非戦を貫いた論拠としたそうです。それを『中立国の戦い』では、「狐の智恵と獅子の勇気プラス貝の忍耐」という表現があてはまる考えだとしています。そしてハンソン首相の死について同書は次のように述べています。

二十世紀最大の困難を「非戦」というポリシーで乗り切れたのは、ハンソン首相のリーダーシップがあったからであったが、難渋の末に選択した政策を実施、継続するのにも大変な勇気と決意を要した。それだけでなく、心身にも相当のストレスが強いられていた。結局、第二次世界大戦終戦の翌年の1946年10月、ペール・アルヴィン・ハンソンは首相在任中ではあったが、突然の心臓発作によって死去した。(p.212)

スイスとスウェーデンが第二次大戦を中立国として切り抜けられたことについて

 『中立国の戦い』は、スイス、スウェーデン、スペインが中立を貫くことができたことを概括して次のように述べています。

戦争の局外にいると誤解されながら、実際には苦渋の連続にならざるを得ない中立外交のよいところは、やはり国土の荒廃を免れられること。それゆえ、強大な軍事力を持たない多くの国々は平和の継続にわずかながらの希望を賭けて「中立」を宣言するが、 交戦国の勝利のための戦略というエゴにより戦禍に巻き込まれた。
結果的に中立状態を維持できたのは、国土の大半が攻め込む方が大変なアルプス山系に位置していたスイスと、戦争の偶然の成り行きおよび忍耐と巧みな外交努力によって交戦国のエゴをかわすことができたスウェーデン、スペインくらいだった。そういった意味においては、中立政策は維持することも至難だが、運にも国土の地勢にも恵まれていなければ守れないということになるのだろう。(p.289)

スイスでは、アンリ・ギザンという強烈なリーダーシップを持った優秀な戦略家がいて、アルプス山脈という防戦に有利な自然環境に恵まれていて、そして総動員令に応じた国民が中立を維持することに強い覚悟を持っていました。その上に、戦況のめぐりあわせもあって、からくも中立を貫くことができたのでした。
スウェーデンはスイスに比べますと、防戦向けの自然環境に恵まれていたわけではありません。そしてドイツだけでなくソ連という脅威も抱えていました。そのためスイス以上にドイツと妥協しなければならなかったし、より複雑な外交努力が必要とされました。しかしそのような必要性に耐えうるハンソンというリーダーがいたのですし、そして国民も総動員令に応じ政府の方針のもと一致団結する覚悟をもっていました。さらにスイス同様戦況のめぐりあわせもあって中立を貫くことができたのでした。
国民の覚悟、優秀なリーダーによる戦略と外交努力、戦況のめぐりあわせ、そしてもちろん防衛力充実への不断の努力があってこそ初めて中立を貫くことができるのであり、非武装はもちろん、生半可な武装でも到底中立などは保てないだろうことがわかります。
では今現在の日本の進むべき方向はどのように考えればいいのでしょうか。第二次大戦をどうにか潜り抜けたスイスとスウェーデンの今も見てから展望したいと思います。

スイスの現状

 現在のスイスの軍事力について、Wikipediaの「スイス」という項には次のように書かれています。

現代におけるスイスは、国軍として約4,000名の職業軍人と約210,000名の予備役から構成されるスイス軍を有し、有事の際は焦土作戦も辞さない毅然とした国家意思を表明しながら、永世中立を堅持してきた平和・重武装中立国家として知られる。スイスは国際連合平和維持活動(PKO)への参加に積極的で、国外に武装したスイス軍部隊を派兵しているが、決して武力行使をせず、PKOでは武器を用いない人道支援に徹している。
多数の成人男子が、予備役もしくは民間防衛隊(民兵)として有事に備えている。平和国家であるスイスではあるが、スイス傭兵の精強さは、ヨーロッパの歴史上、殊(こと)に有名である。現在でも、軍事基地が岩山をくり抜いた地下に建設されるなど、高度に要塞化されており、国境地帯の橋やトンネルといったインフラストラクチャには、有事の際に速やかに国境を封鎖する必要が生じた場合に焦土作戦を行うため、解体処分用の爆薬を差し込む準備が整っている。

また国民皆兵が国是で徴兵制度を採用しており、「スイス男性の大多数は予備役軍人であるため、各家庭に自動小銃(予備役の将校は自動拳銃も含む)が貸与され、予備役の立場を離れるまで各自で保管している」し、「対戦車兵器や迫撃砲など、より大型の武器は、地区単位で設置されている武器庫に収められ、厳重に管理されている」そうですから、中立貫徹に関してスイスは軍事的に準備怠りないようです。なお2013年に徴兵制の当否に関する3度目の国民投票が行われたそうですが、時事通信社の9月23日の報道によれば、徴兵制維持に7割超が賛成したそうです。
日本の外務省作成によるスイスの基礎データによりますと、人口はおよそ824万人(2014)、軍事費47.1億スイスフラン(2015)、GDP6359億フラン(2013)です。そうしますと軍事費の対GDP比は0.74%となり、日本の1%より少し低いことになります。また、職業軍人4000人、予備役21万人ですから、もし同じ対人口比率で人口1.27億人の日本にそれぞれが存在すると仮定しますと、職業軍人はおよそ6万2千人、予備役はおよそ323万人となります。日本の自衛隊隊員数23万人(2016 防衛省自衛隊ホームページより)、予備自衛官数3万2千人(2013 Wikipediaの予備自衛官の項より)と比較しますと、通常兵力の対人口比率は日本の方が大きいのですが、予備役の比率は圧倒的にスイスの方が大きいことになります。
国民皆兵という考えがあり、兵役義務が課されていることから、スイスの予備役比率が日本に比べて圧倒的に大きいのは当然でしょう。また、EUに加盟していないとしても、社会民主主義的な価値観を共有するEU諸国に完全に囲まれている内陸国のスイスが、世界6番目の広さの領海と価値観の異なる近隣諸国を持つ日本に比べ、現役軍人の対人口比率が小さいのも当然でしょう。公海から領海への侵入を阻止するのは極めて難しいわけで、実際日本は「中国の公船、艦船、戦闘機、無人機などに領海、領空を頻繁に侵されており、『武装中立国』は、成り立たない」(ホームページ「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」より)と言われてもいるのです。核保有国であるアメリカの海軍が闊歩していてもこの状況なのですから、日本が他国と同盟を組むことなく、そして核兵器を持つことなく(kawanya.exblog.jpには、スイスが1988年、スウェーデンが1968年核兵器開発計画を中止したとありました)、スイスタイプの武装中立国になるには、仮に国民が中立維持に関しての余程の覚悟を持った上で、世界屈指の強力な海洋軍事力を構築しても難しいのではないでしょうか。では、スウェーデンの状況はどうでしょうか。

スウェーデンの現状

 Wikipediaの「スウェーデン軍」の項には冷戦時のスウェーデンについて次のように書かれています。

第一次世界大戦や第二次世界大戦はもとより、戦後の冷戦においても中立を維持し、北欧におけるノルディックバランスを構築してきたとされる。ただ、冷戦に関しては、冷戦が「熱戦」になった場合にはNATOに合流して対ソ戦に対し参戦する、と決めていたことが冷戦後になって明らかになっている。
軍事訓練などにおいて、仮想上の敵はソビエトなどワルシャワ条約機構の加盟国だったが、国際関係上スウェーデンにとって特別な敵国は存在しなかった。しかしスウェーデンは、その中立的指向・単独主義ゆえに重武装を常としており、周辺国への警戒を怠ってはいない。なお、冷戦終結後のスウェーデンは中立主義を事実上放棄しており、国産の第4世代ジェット戦闘機であるサーブ 39 グリペンの開発にあたっては積極的にアメリカ合衆国およびアメリカ企業の技術支援を導入した。また、欧州・大西洋パートナーシップ理事会に参画するなど、かつての西側陣営を中心とした他国との協調関係を構築している。

Wikipediaの「武装中立」という項には、冷戦後の方針転換について、「軍需産業を維持しつつも、軍の規模を縮小し、また、他国との軍事的協調関係を構築するようになった」と書かれています。第二次大戦でその政策がドイツ寄りと連合国寄りとの間で時の戦況により大きく揺らいだことも考え合わせると、スウェーデンの中立政策とは、非戦のためのプラグマティックな道具にすぎず、可塑的なものなのでしょう。
ところで冷戦後軍の規模を縮小する方向に動いたスウェーデンですが、室橋祐貴氏( Platnews編集長、日本若者協議会代表理事)の「ロシアとスウェーデン、高まる戦争の危機」という2016年2月のネットにおける投稿記事には、近年スウェーデンには武力衝突への備えを強化しなければならない状況が生じていることが書かれています。

ロシア空軍がスウェーデンへの核攻撃を想定して軍事演習を行っている。北大西洋条約機構(NATO)が先月末に発表した年次報告書で明らかになった。
この報告書では、2013年3月にロシアがスウェーデンのストックホルム群島の東端で実施した軍事演習は、実際にスウェーデンへの核攻撃を想定したもので、北欧地域でのロシアの攻撃的な姿勢を指し示す、懸念される動きだと見ている。事実、この演習では、スウェーデン領空の境界付近までロシア空軍の爆撃機と戦闘機が急速に接近した。これに対し、スウェーデン政府は、NATO非加盟国であるにも関わらず、NATOに戦闘機の派遣を要請、NATO加盟のデンマーク空軍の戦闘機2機が、ロシアの演習に対応して現場空域に急行した。

一方で、この報告書はNATOの必要性をアピールしてスウェーデンを取り込もうとするための宣伝キャンペーンだという批判がロシア側からあり、スウェーデン自身も非同盟中立国の立場は変わらないとしたそうです。しかしスウェーデンがロシアを大変警戒していることは事実らしく、室橋祐貴氏によれば、スウェーデンは2015年2月にフィンランドと、同年3月にNATO加盟国のデンマークと軍事協定を結び、NATOとの関係性を強めたとあります。また軍事費も年々増加させており、2015年8月にはウクライナでのロシアの行動を批判し、スウェーデン滞在のロシア外交官を1人国外退去させたそうですし、次の朝日新聞digitalの2017年3月3日付けの記事には、スウェーデンが2018年に徴兵制を復活させることとロシアへの警戒が述べられています。

国防相の報道官によると、従来から18歳以上の国民に提出が義務づけられてきたウェブ調査票の回答に基づき、1999年以降に生まれた18歳の男女の国民約10万人からまず1万3千人を選び、適性検査を経て当面は年4千人に9~11カ月間の兵役を課す。女性の徴兵は初めてとなる。志願制度時代と異なり、徴兵を拒むと罰則がある。4千人の中には18歳以上の志願兵も含まれるという。
同国の徴兵制は1901年から100年以上続いたが、2010年7月に廃止された。しかし、好景気を背景に賃金の低い兵士に志願する若者が減り、年4千人の要員のうち約2500人しか集められていなかった。
フルトクビスト氏はAFP通信とのインタビューで、14年のロシアのクリミア併合を挙げ、「彼らは我々のすぐ近くで、より多くの演習を行っている」と危機感をあらわにした。(ロンドン=渡辺志帆)

スイスの永世中立主義と異なり、スウェーデンの中立とは国際状況に合わせた政策にすぎず、緊急時には即座に必要な同盟関係を結ぶ予防策をとっているようです。特に最近では、非中立化が表面化しつつあるようです。要は、近隣に体制が異なる戦闘的な大国がある場合、単独で武装中立を保つには大変な重武装が必要であり、それが無理だと判断されれば、非中立化し、価値観が同質的である国々と同盟を組まざるを得なくなってしまったということなのでしょう。
日本の外務省作成によるスウェーデンの基礎データによりますと、人口1000万人(2017)、防衛費461億クローナ(2017)、3軍の兵力2万2千人です。またホームページ「世界経済ネタ帳」によりますと、スウェーデンのGDPは4兆5800億クローナ(2016)ほどです。そうしますと軍事費の対GDP比はおよそ1%で、日本とほぼ同じです。また、スウェーデンと同じ対人口比率で人口1.27億人の日本に兵員が存在するなら、およそ28万人となります。日本の自衛隊員数が23万人であることを考えますと、兵員の対人口比率はスウェーデンの方が多少大きいようです。スイスのように同質の社会民主主義的な国々に周囲を完全に囲まれているのではなく、海を隔ててロシアという同質とは言い難い攻撃的な大国が近傍にあるため、基本的にスウェーデンはスイス以上の重武装を備えており、似たような地政学的状況にある日本には大変参考になると思えます。

展望

 日本国憲法の前文にある「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」がもし実現しているなら、同じく日本国憲法の前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」してもいいのだろうと私は思いますし、憲法9条にあるように戦争と戦力を放棄しても問題ないと思います。
ところで、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」として私が少しは具体的に想像できるのは、自由・平等・連帯というイデオロギーに基づく社会民主主義がグローバル化した社会です。そんなグローバル社会が実現したら、国ごとの戦力は放棄できるように思いますし、日本は日本国憲法に従うことができると思います。しかし現在そんな社会は実現していません。そしてどちらかというと、民主主義国家は過去の歴史における弱腰な姿勢を排し、脅威に対して断固とした軍事的対応を行わなければならないと指摘する、次のアタリの考えが正しいような気がしてしまいます。

イラン、パキスタン、北朝鮮のロケットミサイルが民主主義の国々を継続的に標的とする。しかし、民主主義の国々は報復される懸念から、こうした行為を容認してしまう。これは1936年と1938年にフランスとイギリスが犯した過ちと同様、民主主義国の欺瞞である。こうした兵器が15カ国の異なる独裁政権によって15カ所の異なる標的に使用される可能性は、現在においても大いにあり得る。こうした危険を排除するためには、同盟国はまず抑止行動で独裁政権を揺さぶり、同盟国の軍事力を思い知らせ、怖気づかせる必要がある。こうした対策によっても脅威が解消できない場合には、叩き潰すしかない。(『21世紀の歴史』p.269)

すなわち紛争が破滅的な域にまで進行する前に強力な軍事力で紛争の芽を摘み取り、そのうえで地球規模の社会民主主義的な混合経済を実現し、「自由・責任・尊厳・超越・他者への尊敬」(同書p.14)などに関して超民主主義と呼ばれる新たな境地が開かれれば、人類は「気候変動に対する戦い、難病・人間疎外・搾取・貧困に対する戦い」(同書p.281)といった一刻の猶予も許されない緊急の戦いに挑むことができ、人類滅亡を防ぐことができるとアタリは考えているのです。そうして実現された理想的社会では、「想像を絶する次世代テクノロジーにより再創造された仕事に就く人々は、無料で豊かな社会に暮らし、市場の想像力のなかから善行だけを公正に選び出し、過剰な要求を悪とみなし、貪欲さから自由を保護し、次世代にきちんと保護された地球環境を残すことができる」(同書p.14)とされています。
しかし、軍事力を使って超民主主義を実現するためには、国家は、紛争につながる「脅威や暴力に対処するために命を捧げることも厭わない兵士や警察官を増員しなければならない」(同書p.244)はずですが、その一方で、「志願兵はさらに確保困難になり、<市場民主主義>の世論は自国軍隊から死者を出すことを容認」(同書p.244)しないので、「傭兵派遣会社が、退役軍人を雇いながら興隆し、軍隊や国家警察の下請け企業として活躍」(同書p.245)するような状況をアタリは予想しています。そうしますと、傭兵には超民主主義実現のために命を捧げるほどの気概は期待できそうもありませんから、超民主主義が実現する可能性は限りなく低くなります。それを防ぐためには、超民主主義を望む諸国家では、徴兵制度などが実施されざるを得なくなるのでしょう。
EUに加盟(1995年)し、徴兵制度を復活させ、NATOとの結びつきを強めつつあるスウェーデンの今の在り方は、そのようなアタリの予測を先取りしているようにも思われます。それに対しスイスは、自国は先進的な社会民主主義国でありながら、同質な国々といまだ同盟を組もうとしない単独主義において、スウェーデンより世界に対して不誠実であるように私には思えました。
アタリの本を読んだ後、スイスとスウェーデンの武装状況を簡単に見渡した結果、将来の民主主義国のあり方として、「社会民主主義のグローバル化(超民主主義)を目標とし、その実現のため同様に社会民主主義のグローバル化を目指す国々と同盟を結び、必要な軍事力を効率的に準備できるよう貢献する」などのことが考えられるのではないかと私には思えました。そしてその同盟をこそ、やがては国連に代わる存在に成長するようにすべきであろうとも思いました。もし日本がそのような方向を目指すのであるなら、憲法もそれと矛盾しないように変えることが必要になるでしょう。

(この稿は、「持続可能な国づくりを考える会」の第6回学習会(2017年8月25日)での参考資料に使ったものをもとに作成しました。)
© Mitsuru Masuda