『インテグラル心理学』を手にして

増田満

Integral Psychology が翻訳出版されました

 20年ほど前に出版されていながら、長らく未訳であったケン・ウィルバーの著書——Ken Wilber, Integral Psychology, Shambhala, 2000——が2月翻訳出版されました。『インテグラル心理学』(ケン・ウィルバー著、門林奨訳、日本能率協会マネジメントセンター、2021)です。本書を手にしてIntegral Psychology が著述された経緯とか、出版されたころの私自身とウィルバーの著作物とのかかわりなどを思い出しました。
 ウィルバーはアメリカで1977年に出版されたThe Spectrum of Consciousness (『意識のスペクトル1・2』、吉福伸逸・菅靖彦訳、春秋社、1985)でトランスパーソナル心理学の研究者として広く認知され、その後1年に1冊ぐらいのペースで意識研究の成果を発表し続けるようになります。
 そんな彼は1983年にTerry “Treya” Killam (トレヤ)と運命的に出会い再婚しますが、そのすぐあと彼女が乳がんにかかっていることがわかります。そのためウィルバーは著作活動のほとんどを犠牲にして看護するようになり、ドイツに連れていき高名な医師に診てもらうなど様々な治療法を試しますが、1989年に彼女は亡くなってしまいます。そのころの辛い生活のことはGrace and Grit: Spirituality and Healing in the Life of Treya Killam Wilber, 1991(『グレース&グリット上・下』、伊東宏太郎訳、春秋社、1999)に書かれています(数年前映画も作られたようです)。
 Grace and Grit を著すことでトレヤとの死別に一定の区切りをつけたらしいウィルバーは、80年代に構想が始まり、System, Self and Structure (『システム、自己、構造』)とタイトルが予定されていた統合的な心理学のテキストブックを書こうとします。その時のことをウィルバーは『万物の理論』(岡野守也訳、トランスビュー、2002)で次のように書いています。

1991年に『グレース・アンド・グリット』を書き、それからようやく何年ものあいだ計画してきた統合的心理学の教科書の執筆にとりかかった。私はその教科書を『システム、自己、構造(System, Self, and Structure)』と呼んでいたが、しかしなぜか書けそうになかった。それを完成させる決心をし、座り込んで全二巻の著作を執筆しはじめたが、そこで私がまさに最初の行で使った四つの言葉(発達、階層、超越的、普遍的)は、アカデミックな論述ではもはや認められていないことに、衝撃とともに気づいた。言うまでもなく、その本を書く試みは当分中断され、そして可哀想な『システム、自己、構造』はまたしても無期延期となった(最近、『統合心理学(Integral Psychology)』というタイトルで縮約版を出版した)。(p.78~79)

 そのころ(1991年ごろ)主流となっていた思潮は、二つのタイプのフラットランド的なホーリズムだとウィルバーは捉えたようです。一つは、人を、内面を含まない「生命の織物」と呼ばれる物理的全体(外面)における網目の一つとみなすもの(科学物質主義的フラットランドホーリズム)、もう一つは、内面を重視しても伝統的なスピリチュアルな世界観におけるその深度は全く打ち捨ててしまうもの(ポストモダンによる価値相対主義のフラットランドホーリズム)です。そういった状況を目の当たりにしたウィルバーは、統合的な心理学のテキストブックは脇に置いて、フラットランドホーリズムを打破する、彼自身が妥当だと考える統合的な哲学を詳しく書くことにしたのです。
 そのため彼は、週に7日、1日10時間を著作のためにあてるという、禁欲的な生活に戻っていきます。そして、通常であれば一年ほどで一冊の本を執筆するウィルバーでしたが、その時は例外的に、1991年(42歳)から1994年(45歳)までの3年間を費やすことになります。理由は、あらゆる学問分野の成果をひとつにまとめることを試みたからです。それは、「私は本当に世捨て人になったのです。実際、食料品の買い出しなどからも遠ざかり、三年間はきっかり四人の人間にしか会いませんでした」(『ワン・テイスト 上』、ケン・ウィルバー、青木聡訳、コスモスライブラリー、2002、p.201)と述べられることになるような沈黙の修行となりました。そうして完成させた大著が1995年に出版されたSex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution (簡略名SES、和訳は『進化の構造1・2』、松永太郎訳、春秋社、1998)です。
 この著作はこれまでのトランスパーソナル心理学の天才研究者というウィルバーに対する評価の枠組みを完全に打ち破る画期的なものでした。SESの和訳本である『進化の構造』の出版を企画した、当時春秋社参与であった岡野守也主幹は、そこに描かれている、宇宙全体の歴史を背景とした統合的な世界像(コスモロジー)について次のように評価しています。

 ウィルバーが「志向的(オリエンティング)一般化(・ジェネラリゼイション)」という方法で物理学、生命科学、システム科学、エコロジー、人類学、心理学、哲学、さまざまな神秘主義の伝統などを総合することによって提示した壮大な世界像=コスモロジーは、近代以前の神のいるコスモロジーと近代の神のいないコスモロジー双方の妥当な面を含んで超える——ヘーゲル風に言えば「止揚」する——ものであり、私の評価では、まさにこのコスモロジーの登場によって人類の思想史の前期と後期が区画されるほどの意味を持っているのではないかとさえ思われる。(『トランスパーソナル心理学』増補新版、岡野守也、青土社、2000)

 岡野主幹にこのように書かしめた、そのインテグラル(統合的)な世界像は、〈内面(・・)()外面(・・)()相補性(・・・)()()集合(・・)()相補性(・・・)から形成された四象限〉を〈進化によって含んで超えるようにして形成されたホロン階層〉と重ね合わせて大枠が構成されています。そして、そのインテグラルな世界像を背景として、ウィルバーは以後の思索を進めていくことになります(と言っても、私が知っているのは2010年前後までですが)。そうした中で生み出された一連の著作の中で私が読んでみたのは次の諸作品です(和訳に関してはまだいくつか読んでいません)。

A Brief History of Everything, 1st ed. 1996, 2nd ed. 2001
(『万物の歴史』、大野純一、春秋社、1996、新装版 2009)
The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad, 1997, 3rd ed. 2001
(『統合心理学への道』、松永太郎訳、春秋社、2004)
The Marriage of Sense and Soul: Integrating Science and Religion, 1998, reprint ed. 1999
(『科学と宗教の統合』、吉田豊訳、春秋社、2000)
Integral Psychology: Consciousness, Spirit, Psychology, Therapy, 2000
(『インテグラル心理学』、門林奨訳、日本能率協会マネジメントセンター、2021)
A Theory of Everything: An Integral Vision for Business, Politics, Science and Spirituality, 2000
(『万物の理論』、岡野守也訳、トランスビュー、2002)
(『インテグラル理論』、加藤洋平監訳、門林奨訳、日本能率協会マネジメントセンター2019)
The Simple Feeling of Being: Visionary, Spiritual, and Poetic Writings, 2004
(『存在することのシンプルな感覚』、松永太郎訳、春秋社、2005)
・Integral Spirituality: A Startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern World, 2006
(インテグラル・スピリチュアリティ、松永太郎訳、春秋社、2008)
Integral Life Practice: A 21st-Century Blueprint for Physical Health, Emotional Balance, Mental Clarity, and Spiritual Awakening, 2008
(『INTEGRAL LIFE PRACTICE 私たちの可能性を最大限に引き出す自己成長のメタ・モデル』、鈴木規夫訳、日本能率協会マネジメントセンター、2020)

 特にSES出版後、2000年前後に書かれた諸作品——上記リストの中では、The Eye of Spirit からA Theory of Everything までの諸作品——は、SESの内容の各論といった位置づけができると思います。今となっては夢のようですが、そのころウィルバーの著書(特に新しめのもの)は大体が新宿の紀伊国屋書店本店の洋書売り場の棚に置かれていたので、注文して取り寄せるような必要はほとんどありませんでした。仕事帰りにたまに寄って、見かけると買って帰るという感じでした。
 先ほどのリストには和訳本の出版データも付加しましたのでお判りになるでしょうが、2000年前後に出版されたほとんどの本はあまり間を置かずに日本語に訳されています。ところがIntegral Psychologyは今年(2021年)2月に和訳『インテグラル心理学』が出版されるまで20年以上かかっています。それにはIntegral Psychology の成り立ちに原因の一つを求めることができると思います。

Integral Psychology の成り立ちについて

 Integral Psychology は、SESの内容の中でも心理学に重点を置いた各論と位置づけられると同時に、System, Self and Structure (『システム、自己、構造』)とタイトルが予定されていた統合的な心理学のテキストブックの、簡略版という位置づけもできるものです。
 すでに述べましたが、System, Self and Structure はもともと80年代にウィルバーが構想し、『グレース&グリット』執筆後に完成に向けて取り掛かり始めていたのが、SES執筆のため脇におかれてしまっていた作品です。それを、改めてSESの広大なコスモロジーを背景に簡略版としてウィルバーが執筆したのがIntegral Psychologyであり、その和訳が『インテグラル心理学』なのです。
 System, Self and Structure を構想した経緯については、Integral Psychology中に詳しく書かれています。それによると、ウィルバーは、ヴントの科学的心理学の先駆者の一人としてグスタフ・フェヒナーを極めて高く評価し、「真に科学的な心理学の時代を到来させた」(『インテグラル・サイコロジー』p.32)としています。そしてスピリチュアルな伝統にもつながる彼の統合的な哲学について次のように述べています。

 身体、心、スピリットが、意識の成長に関する三つの段階である。人は、分離した自己に対して死ぬことによってのみ、普遍的なスピリットの広大さへと目覚めることができる。
 これこそ、生命、心、魂、意識に関して、フェヒナーが本当に信奉していた哲学であった。だとすれば、なぜ、どの教科書も、このことを伝えようとしないのだろう?
 こうして私は、心理学の歴史を書こうと決めたのであった。(『インテグラル心理学』p.33)

 それでウィルバーは、古今東西にわたるおよそ200名の理論家たちの主張を保持しつつ、それらのどれよりも統合的な見方を創り出し、全二巻に及ぶ真に包括的な心理学の教科書を生み出すことにしたのです。しかも「そこでは、およそ100種類の理論体系が一連の図表(チャート)へまとめられている」(『インテグラル心理学』p.39)というのです。ところが彼は様々な理由から「その内容をまず、非常に簡約化した形で出版しようと決め」(『インテグラル心理学』p.39)、Integral Psychologyを執筆出版することにしたのです。「ただし図表については、その大部分を掲載することにした」(『インテグラル心理学』p.39)そうです。確かに、Integral Psychology の巻末には、21頁(和訳『インテグラル心理学』では44頁)にわたり、古今東西の心理発達理論とウィルバー自身の理論を比較対照した図表が掲載されています。

Integral Psychology の和訳が出版されるまで時間がかかったことについて

 そういうわけで、簡約化されたと言っても、Integral Psychology にはたくさんの心理学者の心理発達理論が含まれ、またウィルバー自身の心理発達理論との詳細な対照表が巻末に付加されていて、自信をもって訳すには訳者自身が多大な学びを重ねておくことが必要となるわけです。それに関しては、次のようなやりとりを岡野主幹としたことを憶えています。
 岡野主幹がA Theory of Everything を『万物の理論』として翻訳された少し後のことでした。私は下訳の段階で少しお手伝いした縁もあったので、SESで描かれている心理発達理論の総まとめのようなIntegral Psychologyが未訳なのでそちらも翻訳されてはどうですかと尋ねたのです。そのとき岡野主幹は次の趣旨のことをおっしゃられました。あれだけ多岐にわたり取り上げられている様々な心理学理論すべてを、ある程度納得できるまで消化する時間が今はないので、自信をもって翻訳できそうもないと。そういうことが、Integral Psychology の翻訳に挑戦する人が登場して、今年2月和訳が出版されるまでに20年以上かかった理由の一つだと思います。
 もう一つ翻訳が遅れた理由として言えるのは、松永太郎氏が2010年に亡くなられたことでしょう。松永氏は、大著SESを翻訳され、その後もThe Eye of Spirit の第3版を『統合心理学への道』として2004年に、The Simple Feeling of Being: Visionary, Spiritual, and Poetic Writings を『存在することのシンプルな感覚』として2005年に、Integral Spiritualityを『インテグラル・スピリチュアリティ』として2008年に翻訳されています。
 多分『インテグラル・スピリチュアリティ』が出版されたころだったと思うのですが、岡野主幹かSさん(サングラハの講座でお会いしたお医者さんで、会報に掲載されたウィルバー関連の私の作品を読んで感想のお手紙を時々下さった方です)、あるいはお二人ともから、Integral Psychologyの版権が法藏館から春秋社に移って、松永氏が翻訳することになっていると教えていただいた記憶があります。ところが松永氏の体調のこともあったのでしょう、結局Integral Psychology の松永訳は世に現れずに終わりました。このことも和訳出版までに間が開いてしまった大きな理由の一つだと思います。
 おそらく以上のような理由(とその他私の知らないたくさんの諸事情)があって、なかなかIntegral Psychology の和訳は世に現れなかったのでしょうが、2021年2月に、ついに和訳本『インテグラル心理学』が日本能率協会マネジメントセンターから出版されたのです。訳者の門林奨氏は、岡野主幹が『万物の理論』として翻訳された A Theory of Everything を、2019年に『インテグラル理論』(加藤洋平監訳、門林奨訳、日本能率協会マネジメントセンター)として新訳された方です。A Theory of Everything が新たに翻訳されることは、日本能率協会マネジメントセンターで企画を担当されていた柏原里美さんが、大学時代の恩師である岡野主幹にそのことについて報告に来られた場に私も居合わせたので知っていました。ただ、岡野訳で読んでいたこともあり、新訳を読むこともなく過ごしていたので、今回 Integral Psychology初訳が出版された機会に、少しわくわくしながら門林氏の訳文に初めて接することになりました。

素晴らしい翻訳

 『インテグラル心理学』は、丁寧で大変読みやすい和訳だと思いました。訳文は(つか)えることなくすらすらと読み進むことができました。原文は長めの段落が多いのですが、訳文では1行空けることで原文での段落の終わりを示し、各段落内においては数行ごとに細かく改行してくれています。そのため大変リズミカルに読むことができました。
 ウィルバーの本は一般的に大変注が多く、しかもちょっとした論文のように長い場合もしばしばです。そのため、彼自身が、一回目は注を飛ばして読み進むようにと読者にアドバイスしています(例えば『インテグラル心理学』p.40参照)。しかし私などは、どうしても注があるとその都度本の後ろを開いて見ずにおられない気性で、この点ウィルバーの本を読むのは煩わしいというイメージがありました。和訳の『インテグラル心理学』でもこのことは同じです。
 ただし、ウィルバー自身が注を付した部分以外にも、一般読者にわかりにくい言い回しや術語、馴染みのない人物名はたくさん出てきます。それらの多くに、門林氏は適切な訳注をつけてくれています。しかもありがたいことに、各ページの下に用意されている余白に、すぐ見られるように内容を提示してくれています。この余白、ちょっとしたメモをするのにも使うことが出来て、個人的には本当にコンビ―ニエントでした。
 門林氏の経歴を拝見しますと、大学は理学部に在籍されていたということで、科学的な知識も広範にお持ちなのでしょう。私も理学部卒業ですが、科学用語に関して気になることは特にありませんでした。
 適切な表現かどうかわかりませんが、読み始めてすぐに信頼という大船に乗った気持ちで読み進むことができました。多分、ウィルバーの初期の本に関して吉福伸逸氏の訳文がそうであったように、今後門林さんの訳文がウィルバー本の新しいスタンダードになるのではないかと思ったりしました。できればThe Collected Works of Ken Wilber (ケン・ウィルバー全集)の全巻をいつか門林氏に翻訳していただき、そこで使われている用語法に従って、10年以上前にサングラハ誌に連載させていただいた私のウィルバー関連のエッセイを、再考しつつ書き直してみたいと思いました。

内容に関して

 『インテグラル心理学』の大まかな内容に関しては、訳者の包括的な解説が同書に含まれているので、それを読んでもらうのが一番いいのですが、興味を持ち実際に手にとっていただける方を増やすため、少しばかり説明してみたいと思います。

ウィルバーの思索の発展と『インテグラル心理学』の位置づけ
 実はウィルバー自身が、自らの思想あるいは理論の変容過程を5つの段階に分けています。私はウィルバー1、2、3、4、5と呼んでいます(1)。参考までにその五つの段階を特徴づける言葉を私なりに選んで列記していきますと次のようになります。

ウィルバー1 レトロ・ロマン主義
ウィルバー2 前超の誤謬の認識
ウィルバー3 多くのラインあるいは流れがある
ウィルバー4 コスモロジー——全象限・全レベル
ウィルバー5 全象限・全レベルの統合的な哲学(存在論と認識論にあたるもの)

 ウィルバー1からウィルバー5に関してこのように特徴づけたのは、The Collected Works of Ken Wilber, Volume four, 1999, p.22 (『ケン・ウィルバー全集4』未訳)に次のように書かれていたからです(そこではウィルバー1~ウィルバー3はフェイズ1~フェイズ3とされ、ウィルバー4と5がまとめてフェイズ4となっています)。

 フェイズ1はロマン主義である(「再獲得された善」というモデル)。それは、潜在意識から自己意識、超意識へ(あるいは、イドからエゴから神性へ)と広がる意識のスペクトルを、そのもともとの、しかし失われた潜在性への帰還、そして再獲得と捉えるものである。フェイズ2は、より発達的あるいは発展的なものであり、意識のスペクトルが発展的な段階またはレベルとして展開していくとする。フェイズ3はそれら発展的なレベルに、異なる数多の(認識、意欲、情動、道徳、心理、スピリチュアル、等々のような)発展的ラインの考えを加える。それらは相対的に独立した仕方で、意識のスペクトル全体の基本的なレベルを通じて発達する。フェイズ4は、それらのレベルとラインの各々に、四象限——主観的(意図的)、客観的(行為的)、間主観的(文化的)、そして間客観的(社会的)の諸側面——の考えを追加する。その結果は、包括的あるいはインテグラルな哲学である——あるいは、少なくともそうあろうとする。『アートマンプロジェクト』はフェイズ2であり、『意識の変容』はフェイズ3であり、『インテグラル心理学』はフェイズ4である。(The Collected Works of Ken Wilber, Volume four, 1999, p.22を訳しました)

 ウィルバー1では、意識は個が確立する以前の前個から個の確立へ進み、そして再び幼児の汚れない前個へ帰還すると考えています。それがウィルバー2では、個が確立した後、前個に戻るのではなく、超個(個を超えるトランスパーソナルな意識)に達し得るとします。ウィルバー1は超個を前個と取り違える誤謬を犯しているとします。ウィルバー3では、意識は何種類もの相対的に独立したラインにそって発達するのであり、各個人における各ラインの発達段階は同じレベルにあるとは限らないとします(例えば、倫理観に欠ける天才科学者については、認知のラインでは高度なレベルにあるのに、道徳のラインではとても低いレベルにあると説明できます)。
 ウィルバー3の段階を経た後、トレヤとの結婚・死別を経て、ウィルバーの思想は大きな変革を遂げます。彼は宇宙を四つの基本的な側面(四象限)——主観的(意図的)、客観的(行為的)、間主観的(文化的)、そして間客観的(社会的)の側面——で捉えられることと、宇宙が含んで超える仕方の進化によってホロン階層を成し続けていることに注目します。彼は『進化の構造』でこれら二つを組み合わせて、壮大なコスモロジーを創造するのです。このコスモロジーの創造がウィルバー4にあたります。
 これ以降、彼はこのコスモロジーを背景として全て(万物)を扱うことになります。心理発達理論ももちろんそうです。個人の内面(主観)を真に包括的に探求しようとするなら、その人の身体的な側面(客観)、その人が属する社会の側面(間客観)、その人が属する文化の側面(間主観)、そして各側面での歴史的文脈、それらすべてを参照する必要があるのです。
 ウィルバー5に関しては、 “Kosmic Karma and Creativity” (『コスモスのカルマと創造性』)という仮題のもと、A,B,C,D,Gという五つの抜粋としてネットに掲載されているもの(2)の序章(3)に書かれていることから「全象限・全レベルの統合的な哲学(存在論と認識論にあたるもの)」としました。このネット掲載の文章を読むと、ウィルバー4はコスモロジーの全象限全レベルの構造を指し、ウィルバー5はそのコスモロジーの背景にある哲学を指すと解釈すればよいだろうと私は考えました。そして『インテグラル心理学』は、全象限全レベルの世界観(ウィルバー4)を背景とした統合的な心理学の書とみなせると思います。
 では当時ウィルバーがたどり着いたコスモロジー(ウィルバー4)とその背景にある哲学(ウィルバー5)とはどのようなものかをここで簡単に振り返ってみます。

ウィルバー・コスモロジーとその哲学に関する簡単な振り返り
 『進化の構造』以降のほとんどの本で、ウィルバーはヒューストン・スミスの『忘れられた真理』(菅原浩訳、アルテ、2003)から引用したものを、プレモダンの世界観の典型として提示しています。例えば『インテグラル・スピリチュアリティ』のp390~391を参照しますと、プレモダンでは、実在(リアリティ)にもそれを認識する自己性にもレベルがあります。地上(Terrestrial)、中間(Intermediate)、天上(Celestial)、無限(Infinite)が実在のレベルであり、体(Body)、心(Mind)、魂(Soul)、スピリット(Spirit)がそれらを認識する自己性のレベルです。

 地上的なものである物質は、身体で認識でき、物質ではない、理念などの抽象的な存在や、神と表現される無限的な存在は、心以上の自己性で認識できる。このように、世界は階層構造をなす諸存在とそれを映しだす認識する自己性で構成されています。諸存在のレベルは時間を超越して与えられており、また諸存在は認識者による認識から独立して存在しています(すなわち所与です)。もし認識者がいれば、その自己性に、存在そのままのあり様が、たとえ一部にすぎなくとも映し出されることになります。人間は、少なくとも体と心を持っていますから、地上的な物質と、中間的な理念などを認識することができます。また、この人間の例でわかりますように、心を持つということは、それより下のレベルの身体も持っていることになります。プレモダンの階層では、自己性においては、上位のものは下位のものを含んで超えていて、入れ子構造になっているわけです。以上のプレモダンの哲学をまとめますと、次のようになります。

プレモダンの存在論
 レベルごとに様々な実在がある。実在のレベルに対応した、自己性を持った認識者がいる。レベルは超時間的、すなわち所与である。また、自己性において、上位レベルは下位レベルを含んで超えている。

プレモダンの認識論
 認識者の自己性に、様々な実在のそのままの姿が反映されることで認識は行われる。ただし、自己性のレベルによって、反映できる実在のレベルの上限がきまる。

 このような素朴な哲学(存在論と認識論)は、後のモダンの考え(デカルト、カント、近代科学等々)、そしてポストモダンの考え(コンテクスチュアリズ、構造主義、現代科学等々)から批判を受けることになりますが、ウィルバーはそれらの批判を検討しつつ、生き延びることのできる要素は保持して、含んで超えるようにすべてを統合することで、新たなコスモロジーと哲学を創造することになります。特に「いかなるシステムも、モダンのカント哲学と、ポストモダンのハイデガー思想を取り扱えなければ、知的な体面を保って生き延びられる望みはない」(ネット掲載の“Kosmic Karma and Creativity”の抜粋A冒頭のイントロダクションの章より)と彼が主張しているのは印象的でした。その結果現れた全象限・全レベルのコスモロジーがウィルバー4であり、その哲学(存在論と認識論に相当するもの)がウィルバー5であると私は解釈しました。
 彼は自身が創造した全象限・全レベルのコスモロジーの有様を、次のような四象限図でしばしば提示します。

四象限図
(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、『進化の構造1』春秋社、1998、p.305にある図の右上象限を、原著の二版である Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部変えたもの。和訳では原著でmoleculeとあるところが細胞と訳され、neuronal organismsとあるところが組織と訳されていたので、それらを「分子」、そして「神経系を持つ有機体」と変えた)

 図には縦横の座標軸で区切られた四つの象限があります。これらが、一体であるコスモス(宇宙)の四つの側面——左上個的内面、右上個的外面、左下集合的内面、右下集合的外面——を表しています。また中心点が宇宙の始まり(物理的にはビッグ・バンと呼ばれるような現象)を表していて、そこから各象限の対角線方向に放射線状に延びていく矢印が、宇宙の進化の方向性を示すことになります。
 この表を中央(すなわち宇宙の始まり)から順にみていきたいと思います。宇宙が始まってしばらくして、何もなかったところに、右上象限において個的外面である原子が創発します(大雑把なものなので素粒子の創発過程などは省いてあります)。同時にこの原子のレベルで左上象限において個的内面である把握が創発します。それは極めて原始的な感覚のようなもので、他の原子を識別したりする機能をもつのでしょう。また右下象限では、原子のレベルの集合的外面も創発し、それは銀河系です。同じく左下象限には物質的と記述される集合的内面が創発します。
 時間が進みますと、各象限(各側面)では、原子レベルを含んで超えるように新たな分子レベルでの各象限(側面)が創発します。その後高分子レベル、細胞レベルと進みます。細胞レベルでは、それまでに現れた原子、分子レベルの四象限を含んで超えて、プレローマ的な集合的内面、惑星的な集合的外面が創発的に現れます。
 以後、外面も内面も持った宇宙をコスモスと言うことにしますと、コスモスとは、今述べました四つの側面に現れる存在の総体です。ウィルバーは、コスモスの四つの側面(主観的・個的、主観的・集合的、客観的・個的、客観的・集合的)を、四つの象限に当てはめ、コスモスの地図というものを作り上げたのです。それがウィルバー4です。
 さらなる詳細は、『進化の構造』以降のウィルバーの諸作品を読んでいただきたいと思いますが、現代世界においては、少なくとも先進国と呼ばれる国の社会の主導権を握る成人は、左上象限において理性(形式的操作)のレベル、段階12に通常達しているとしますと、左下象限の段階12をみますと、合理的な文化が実現し、右下象限の段階12を見ますと、産業的な社会の国民国家が存在することになります。西洋的な歴史観に基づいての話ではありますが、大雑把に言えばこの段階12が、私たち日本の成人の状況を示していることになると思います。私達は、段階12までの全てのレベルを含んで超えてきた存在です。ですから、理性的な人間としては、国民国家のメンバーであり、動物としては、生態系のメンバーであり、原子としては、銀河系のメンバーで、全てのレベルで、集合のメンバーとなっているわけです。
 このようにウィルバーの世界観とは、宇宙(コスモス)が四象限で表される四つの側面を持ちながら、ビッグ・バン以来、前段階を含んで超えるという進化を重ね、その個的側面においては、外面的には複合新皮質、内面的には自己意識をもった人間にまで到達していて、まだ先へ続いていくとするものです。この四象限と進化の組み合わさった世界観で物事を見ていく姿勢が全象限全レベルです。この説によって、宇宙の進化の精華としての人間のありかたがはっきりします。
 ウィルバーのコスモロジーは、極めて簡潔に表すには、先ほどの四象限図を使うのですが、簡潔ではあってもそこには様々な境界づけがあります。境界づけるというのは、基本的にはそうであるものとそうでないものとを二分するということです。四象限図では、最も基本的な二分は、内面(主観)と外面(客観)との左右の二分であったり、個と集合との上下の二分であったりするわけです。
 このような境界づけをウィルバーは二元論というわけですが、境界づけで何ものかが現れるには、そのもとになる何かが必要だと彼は考えています。例えば、ホワイト・ボードに一本の線を引っ張って右と左に境界づけるとき、右と左の領域が現れるには、それらをもともと含んだ境界づけのないホワイト・ボードの面が存在している必要があるという考えです。このような考えに従いますと、コスモスに様々な境界づけで様々なものが現れるからには、コスモスとは、本来それら境界づけを可能にする境界づけ以前の何かであるはずだろうことになります。ウィルバーはそれをスピリット、基底、空、非二元などという言葉で表現し、コスモスの本質とします。全てはこの本質を境界づけて現れた現象なのです。そうして、個的存在の進化の究極的目標は、個が個であることを超え(トランスパーソナル)、境界づけによる限定性を超越してコスモスと一体化することだとし、そのような自己超越的指向性を、本質たるスピリット自体の性質であるとして、彼はエロスと呼んでいます。こういう考えは、合理性からするとなんともあやふやに思えるでしょうが、自己超越的な体験を持つ人からすれば、このように表現せざるを得ないと納得できることかもしれません。

 こうしてコスモロジーの哲学(存在論と認識論)は、次のようにまとめることができると思います。

存在論
 全ての事物は、四つの象限と進化・発達のレベルで差異化された結果現れる、コスモスという本質(基底)の現象である。レベルは創発してきたのであるから、所与ではないし、各象限は分離することはできず相補的である。

認識論
 認識とは、認識者が自らの四つの象限を通じて、コスモスの四つの象限に現れる存在(現象)を知ることである。認識者には、認識の基本的能力に関して到達できているレベルがあり、そのレベルによって認識可能な世界空間が決まる。上位のレベルの世界空間は下位のレベルでの認識能力では十分に理解できない。例えば、動物には、海や川といった、言語能力で開かれる世界空間にある存在を知ることはできない。あるいは、形式的操作のレベルの世界空間にある基本的人権という概念は、具体的操作の認識能力では十分に理解できない。
 また、知を確定する方法は次の三つの手続きから成る。指示「もしこれを知りたければこれをせよ」、直接的経験「直接体験ないしデータの感受」、共同体による確認「指示と直接的経験を満たした十分なレベルにある人々との結果——データ、証拠——の照合」(詳しくは『科学と宗教の統合』第11章を参照してください)。例えば、外が雨かどうかを知りたければ、戸を開けて外に出て(指示)、雨が降っていることを感受して(直接体験)、同じことをした人たちと結果を確認し合う(共同体による確認)という手続きになる。スピリチュアルな内面的事象について知りたければ、適切な瞑想を行い(指示)、実際に起こる内面的できごとを直接体験し、それについて同じ瞑想をしてきた人々と確認し合う、という手続きになる。これは、科学のみならず、数学、内観、瞑想、観想等にも通用する手続きである。付言するなら、三つ目の共同体による確認という要素は、認識者の主観に関して、間主観的な文脈と認識能力の発達論的レベルを前提とするポストモダン的要請に基づいている。

 最後に、ウィルバー5から導かれるいくつかの帰結について簡単に述べてみます。そこでは、存在論と認識論は視点のもとで統合されてしまいます。
 ウィルバー・コスモロジーでは、相補的な四つの象限において、レベルが時間とともに創発してきたことになります。それは、レベルで指定される、認識者の認識能力と存在が現れる世界空間が、創発的に進化してきたということです。プレモダンにおける所与ということは全くなくなってしまっています。
 結局、前近代、近代、ポストモダンを含んで超えてきたウィルバー5の存在論や認識論では、存在、認識の前提として、四つの象限と創発的な進化のレベルということがあるわけで、認識者がある存在(コスモスの現象)を知るとき、次のようなことが起こっているのです。その存在はレベルで指定される世界空間の四つの象限のいずれかに現れ、認識者はその存在を、自らのレベルで指定される認識能力で、自らの四つの象限のいずれかを通じて見ると。
 従って、ウィルバーが創造したコスモロジー(世界観)では、存在と認識について語る際には、象限とレベルを存在者と認識者の両者に指定する必要があります。この指定を、ウィルバーはコスモスのアドレスと呼んでいます(指定は細かければ細かいほどより正確になります。例えば、象限とレベルの他に、ライン、タイプ、ステート(状態)などが付け加えられた例が『インテグラル・スピリチュアリティ』441頁に挙げられています)。ここでは、『インテグラル・スピリチュアリティ』にある簡単な例を、さらに簡略化してあげてみます。

「ジョンは、地球生態系を調査している。」

 この言明ではジョンが主体です。彼のレベルを認識能力で表すと、形式的操作のレベルにあるとします。そして、彼は科学的に一人で調査しようとしているのなら、客観的個的象限を通して見ているとことになります。また、地球生態系はヴィジョン・ロジックと呼ばれる、形式的操作より上のレベルの世界空間に存在する、集合的システムで、客観的集合的象限に存在しています。そうしますと、最も簡略化したコスモスのアドレスをつけて先ほどの言明を書き直しますと、

「ジョン(レベルは形式的操作、見る象限は客観的個的)は、地球生態系(レベルはヴィジョン・ロジック、存在する象限は客観的集合的)を調査している」

となります。この場合、認識者のジョンのレベル(形式的操作)は、認識される存在のレベル(ヴィジョン・ロジック)より下ですから、結局は地球生態系をふさわしいレベルでは理解できないことになります。
 このように、ウィルバー5では、存在や認識は、象限とレベルとの両者に相対的なものでしかないことになります。デカルトは、「我思うゆえに我あり」と、思考する「私」を哲学の根源に置いたわけですが、ウィルバー5では、在るとか知るとかの前提になる、象限とレベルを哲学の根源に置くわけです。ここで、存在や認識の様態を決める象限とレベルをまとめて改めて視点と言うことにすれば、ウィルバー5では、存在や認識の全ての前提に視点があるわけです。視点のもとで存在や認識を考えることが初めてできるのです(実を言いますと、この視点中心的な見方自体も、創発したものであり、けっして覆され得ないわけではないというのがウィルバーの真意だと思います)。
 ウィルバー5について長く書きすぎてしまったようです。話しをウィルバーの思索発展過程における『インテグラル心理学』の位置づけに戻しますが、『統合心理学への道』、『科学と宗教の統合』、『インテグラル心理学』は、ウィルバー4での記念碑的著作である『進化の構造』の各論ととらえられると私は考えています。『統合心理学への道』は、『進化の構造』以前の諸思索から『進化の構造』のコスモロジーへの発展経過が解るように書かれていますし、『インテグラル心理学』は『進化の構造』における発達心理学の部分に特別重点を置いて書かれています。この両作品には共通部分が多く(例えば『統合心理学への道』には、今回新たに初訳された『インテグラル心理学』における発達心理学の要約も含まれています)、『インテグラル心理学』を読まれるのでしたら、『統合心理学への道』も合わせて読まれる(すでに読まれておいででしたら再読される)と理解が進むと思います。『科学と宗教の統合』は『進化の構造』における認識論に重点をおいて書かれています。
 岡野主幹が翻訳された『万物の理論』はウィルバー4からウィルバー5への移行期間に当たる著作で、『進化の構造』で創造されたコスモロジーを、ポストモダンも含み込んだ新たな哲学で捉える試みが含まれていますが、それが十分に説明されているのが『インテグラル・スピリチュアリティ』だと感じた覚えがあります。『INTEGRAL LIFE PRACTICE』には、ウィルバー・コスモロジーの全象限全レベルにわたって成長するための実践の手引き(計画づくりのための手引きといったほうがいいかもしれません)が提示されています。

目次を通しての内容紹介
 最後に『インテグラル・サイコロジー』の目次を見ながら、その内容について概観したいと思います。

第1部 基本となる要素
 第1章 段階とは何か——大いなる入れ子、構造と状態、認知の発達
 第2章 ラインとは何か——統合的サイコグラフ、ヒエラルキーとヘテラルキー
 第3章 自己とは何か——近接自己と遠隔自己、支点と重心、自己の機能
 第4章 自己に関る諸領域の発達——自己の発達、道徳と視点の発達、タイプ論
第2部 統合的アプローチへの道
 第5章 近代とは何か——価値領域の差異化と分離
 第6章 近代と前-近代を結びつける——フラットランドから「全象限、全レベル」へ
 第7章 統合的アプローチへの道——近現代の先駆者たち
第3部 インテグラル心理学の概要
 第8章 自己の発達——各段階での典型的な病理とセラピー、サブパーソナリティ、統合的実践
 第9章 各ラインの発達——道徳、動機づけ、世界観、感情、ジェンダー、美、複数の認知、複数の自己
 第10章 スピリチュアリティは段階的に発達していくか——5つの定義と5つの答え
 第11章 子ども期のスピリチュアリティは存在するか——たなびく栄光の雲
 第12章 社会と文化の発達——進化に関する5つの原則
 第13章 後-近代とは何か——解釈と構築、文脈とホロン、非視点性
 第14章 心身問題を解きほぐす——意識研究への一人称的、二人称的、三人称的アプローチ
 第15章 統合的な抱擁へ向けて

 第1部は、ウィルバー3までに研究された心理学の基本的な要素が網羅されています。第2部では、前近代、近代、ポストモダンを含んで超えるようなウィルバー独自のコスモロジーとその哲学(ウィルバー4とウィルバー5)について概説されています。第3部では、ウィルバー4、ウィルバー5を意識してそれ以前の彼の心理学を再解釈しています。中でも第13章は興味深い章で、ウィルバーによるポストモダン解釈が提示されています。彼の創造した全象限・全レベルの哲学は、このポストモダン解釈を超えるようになっていると彼は考えているようです。ただ、気をつけるべきは、超えているのはあくまでも彼が解釈したポストモダンだということです。多士済々なポストモダニストたちの神髄を深いところまで彼がつかめているかどうかには様々な意見があり得ると思いました。
 いずれにしろ、ウィルバーの統合的な心理学の全体像をつかむには、『インテグラル心理学』がこれ以上ない本の一つであることは確かです。ウィルバーの思想に興味をお持ちの方、是非お読みください。

(1)2010年3月発行の「サングラハ第110号」から、2015年3月発行の「サングラハ第140号」まで、5年間にわたり、断続的に30回近くウィルバー思想に関する連載をさせていただきました。その第1回の中でそのように呼ぶことにしました。一連のエッセイは、少し書き直したものを私が開設したホームページ「ウィルバー思想の考察」(https://masudam.com)に、「第一部ウィルバー思想の探究」(https://masudam.com/?page_id=35 全12章)、「第二部ウィルバー・コスモロジーの批判的考察」(https://masudam.com/?page_id=49 全10章)として掲載してあります。
(2)『進化の構造』(ウィルバー4)はもともとコスモス三部作としてウィルバーが構想していたものの第一部です。第二部はいまだ出版されていませんが、その草稿の一部が、“Kosmic Karma and Creativity” (『コスモスのカルマと創造性』)という仮題のもと、A,B,C,D,Gという五つの抜粋としてネットに掲載されています。
(3)“Kosmic Karma and Creativity”の序章、 Introduction to Excerpts from Volume 2 of the Kosmos Trilogy ( http://wilber.shambhala.com/html/books/kosmos/index.cfm/ )をご覧ください。

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