名作再訪 『自我と無我』

増田満

はじめに

 目を閉じて静かに来し方を振り返りますと、あれは20年も前の1999年のことになります。私が当時物理教師として奉職していた高等学校には、夏季休業中の生徒対象英語研修プログラムがあり、参加生徒たちはイギリス、オックスフォードでホームスティしながら、日本以外の国から来た生徒たちと一緒に現地英語学校に通って、実践的に英語を学ぶことになっていました。日本からは英語教師が引率として二人帯同するのですが、たまたま親しくしていただいていたS先生が、その年のお一人になっていました。英会話能力に多大な不安を持ちながらも英国旅行したいと思っていた私は、これ幸いとS先生を頼りに陣中見舞いを兼ねてオックスフォードまで行くことにし、引率の先生方の滞在先であるカレッジの寮に何日間か宿泊させていただき、旅費を切り詰めることもできたのでした。
 その宿泊中のことでしたが、以前から哲学的なテーマについてご高説をお伺いしたりすることもあったS先生に、「神」という概念についてのご見解をお尋ねしたことを覚えています。その際私の脳裏には、量子力学創設に力あった物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグの『部分と全体』に書いてあったことなどが浮かんでいて、「神とはすべてに対して部分でもあり全体でもあるようなものではないのですか」とよく考えもせずに適当に質問した記憶があります。しばらく話した後S先生が、「あんたのように理屈好きな人は、トランスパーソナル心理学の分野で著名な、ケン・ウィルバーの本を読んでみるといいんじゃない」と、さらりとアドバイスして下さったことをはっきり覚えています。何故はっきり覚えているかというと、そのアドバイスには続きがあったからです。
 日本に帰り夏季休業も終わる頃、新学期の準備のための職員会議か何かで再会したS先生が、ウィルバーの大著『進化の構造』(訳本は1と2の分冊になっています)に関する情報をコピーした紙を渡してくださったのです。こういうことがなければ、英国旅行中にS先生がウィルバーに一言触れたことなど忘れてしまっていたでしょう。とはいうものの、トランスパーソナル心理学についてほとんど知識のなかった私は、正直に言いまして、紹介していただいた本も、どうせ当時はやっていた怪しげなスピリチュアル本(本屋で立ち読みしたぐらいのレベルでの極めて個人的な見解です)にすぎないのではないかと思ったものです。しかし著者ケン・ウィルバーの坊主頭の、いかにも理知的な顔写真を見てなんとなく気になりました(私も髪が薄くてほぼ坊主頭にしていたので親近感を持ちました)。そこで結構高価だった『進化の構造1』(6000円!)と『進化の構造2』(5600円!)の2冊を、通勤帰りの途中通る新宿で、紀伊国屋書店本店に寄って買ったと記憶しています。
 読んでみましたら、壮大な世界観、コスモロジーが繰り拡げられていて、すっかり魅せられてしまいました。ビッグバンに始まり、素粒子、原子、分子と物質を構成する基本的な粒子が次々登場してくる膨張宇宙論を大枠として、生物の発達・進化を説明するネオダーウィニズムや、ウィルバー自身がピアジェ等の発達心理学とトランスパーソナル心理学を結合して作り上げた意識のスペクトル理論など、様々な分野の学術的成果が枠内を満たしています。私はその極めて包括的なコスモロジーを把握したいと夢中になってしまいました。もちろんS先生にも「ケン・ウィルバーってすごいね」と感想を伝えたりしました。
 そんな折再びS先生が、「こんなのあるよ」と私に渡してくれたのが、「サングラハ心理学研究所」(現「サングラハ教育・心理研究所」)における講座のチラシです。1999年の暮れのことです。内容は『進化の構造』の概要説明で、講師は岡野守也となっていました。早速そこに書かれている連絡先に電話し(当時「サングラハ心理学研究所」の事務局をされていた重田正紀さんとお話しいたしました)、2000年より講座に参加することにしました。会場は神楽坂のヒューマン・ギルドでした(ヒューマン・ギルドは小さなビルの二階にあり、1階には判例タイムズが入っていました)。岡野さんの解説をお聞きすることで、一人で読んでいては気づけなかったことなども知ることができ、その後も講座に継続的に参加するようになりました(これがおよそ20年に渡りサングラハの講座に参加し続けてきたきっかけだったわけです)。
 ここで少し話はそれますが、岡野さんの著書リストを挙げさせてください。Wikipediaで「岡野守也」の項を見ますと、次のような一覧が掲載されています。

『トランスパーソナル心理学』(青土社、1990〔増補版2000〕)
『唯識の心理学』(青土社、1990〔改訂新版2005〕)
『美しき菩薩・イエス』(青土社、1991)
『能と唯識』(青土社、1994)
『わかる唯識』(水書坊、1995)
『唯識で自分を変える――仏教の心理学ガイドブック』(すずき出版、1995)
『唯識――仏教的深層心理の世界(上・下)』(NHK出版、1997)
『わかる般若心経』(水書坊、1997〔改訂版『よくわかる般若心経――二七六字の本当の意味が見えてくる』PHP研究所、2004〕)
『唯識のすすめ――仏教の深層心理学入門』(NHK出版、1998)
『大乗仏教の深層心理学――『摂大乗論』を読む』(青土社、1999〔新装重版2011〕)
『コスモロジーの創造――禅・唯識・トランスパーソナル』(法藏館、2000)
『自我と無我 ――「個と集団」の成熟した関係』(PHP研究所、2000)
『生きる自信の心理学――コスモス・セラピー入門』(PHP研究所、2002)
『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』(大法輪閣、2003)
『道元のコスモロジー――『正法眼蔵』の核心』(大法輪閣、2004)
『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』(佼成出版社、2004)
『空海の『十住心論』を読む』(大法輪閣、2005)
『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』(NHK出版、2008)
『仏教とアドラー心理学――自我から覚りへ』(佼成出版社、2010)
『「日本再生」の指針――聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」』(太陽出版、2011)
『コスモロジーの心理学――コスモス・セラピーの思想と実践』(青土社、2012)
『ストイックという思想――マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』(青土社、2013)
『『金剛般若経』全講義』(大法輪閣、2016)

 1990年から2016年までの26年間に全部で23テーマ。大変な業績だと思います。ちなみに私はそのうちの20テーマ20冊を所蔵しています。ところで、岡野さんが春秋社で全面的にかかわられたウィルバーの翻訳本、『進化の構造』が出版されたのが1998年、そのダイジェスト版である『万物の歴史』が出版されたのが少し前の1996年です。私がサングラハ心理学研究所の講座を受講し始めたのが2000年の初めでしたから、そのころには『進化の構造』と『万物の歴史』で語られていたウィルバー・コスモロジーの内容は当然岡野さんの自家薬籠中のものになっていたわけです。先ほどのリストを見ていただきますと、2000年に出版された岡野さんの著書は『コスモロジーの創造』と『自我と無我』と『トランスパーソナル心理学(増補版)』の三冊ですが、どれもウィルバー・コスモロジーに触れています。特に前二冊はご自身の思想を膨らませるものとしてウィルバー・コスモロジーを扱っています。
 そして、私が参加した2000年の講座の中には、当時の新著である『コスモロジーの創造』と『自我と無我』をテキストとして、新宿の東京サイコセラピーアカデミーでゼミ形式で行われたものがありました。中でも『自我と無我』を扱った講座では、日本の精神文化の伝統を絡めながら、ウィルバー・コスモロジーについて詳しく学ぶという大変貴重な体験ができました。
 その後2002年4月ごろでしょうか、在職していた高等学校で親しくしていただいていた社会科のK先生のご紹介で、私はとある環境問題研究会に参加することになりました。その会での探求は、『環境問題と心理プロセス』(編著 小池俊雄+井上雅也、編集 環境問題研究会、山海堂、2005)という本にまとめられたのですが、基本的な発想は、「環境問題を解決するためには人々の心がそれにふさわしいものに変容しなければならない」ということにありました。私もその発想にそって、『自我と無我』に書かれていた唯識やウィルバー・コスモロジーなどに関連するアイデアを取り入れることを提案し、メンバーの皆様に受け入れてもらえたのでした。岡野さんご自身にも「菩薩的パーソナリティ」という演題で研究会に来ていただき講演していただいたりしました。
 以上のような経緯がありまして、私にとって『自我と無我』は内容的のみならず、実践的にも大変に影響を受けた名作なのです。そこで同書を再訪し、その内容を章ごとに簡単にまとめて、自分に影響を与えた部分を確認することで、読者の皆様にその素晴らしさをわずかでもお伝えしたいと思ったのがこの小文を書き始めた動機です。

序章 自我か、無我か——日本の精神史百年の葛藤

 日本では仏教に発する概念「無我」が、「滅私」と同じことを意味するとみなされる傾向が強かったそうです。自らが所属する集団(家族、村、民族・国家など)こそが個人を超えて尊ばれるべきで、自分よりその集団を優先して行動することこそが倫理的だと考えられていて、特に第二次世界大戦中は、私を滅して日本民族(日本国)に奉仕することが人間として最も大事なことだとされていたのです。
 ところが敗戦後、滅私の考えこそ悲惨な国の状況をもたらした主要な原因だとされ、倫理の基準が180°向きを変えることになります。近代的な自我を確立すること、自分を最も大事に考えることが当然になったのです。そして個人としての自分が一番大事ということが、全ての人に当てはまることだと理解すれば、人々は互いを尊重せざるを得なくなるだろうというような、個人主義的ヒューマニズムが倫理の基準にされたのです。
 しかしそのようなヒューマニズムの考えが適切に発展したようには思えない状況が今の日本には見られると本書で岡野さんは主張します。どちらかというと自分だけ、あるいは自分と利益を共有する者だけを大事にする、行き過ぎた個人主義(ミーイズム)が蔓延しているように見えるというのです。その最たることとして挙げられているのが、「警察官、医者、教師たちの不祥事」(p.31)がしきりに報道されていることです。そのため、「公務のために身を挺する滅私奉公の精神は、やはり必要なのではないか」(p.31)という論調まで現れるほどなのです。そうしたことの根本には、やはり、「個人が大事なのか、社会・集団が大事なのか」という意味での「自我か、無我か」という問題があると岡野さんは指摘します。
 そこでいまこそ「自我と無我」というテーマについて、実は歴史的に醸成された混乱があることを明確にして、そこにある普遍妥当的なアイデアを見出し、やがてそれが国民一般に共有されれば、「個人が大事なのか、社会・集団が大事なのか」という対立的な考えを超えて「倫理の水準の向上につながる」のではないのかと岡野さんは思索を進めます。その思索についてまとめたのがこの本なのです。

第一章 手がかりとしての唯識とウィルバー思想

 自由主義はもちろんですが、集団を優先するはずの共産主義においても、人間の本音がエゴイズムであるかぎり「人類や共同体の利益よりも自分の権力・利益のほうが大事だ」(p.42)ということになってしまい、極端な場合スターリニズムのような個人崇拝が生じてしまうようです。
 また岡野さんによれば、覚りを開き、無我ということに目覚めたといわれていた仏教界の重鎮にしろ、お付き合いをしてみると、一般的に言って自我を持っていないとは、あるいはエゴイスティックな面をもっていないとは決して見えなかったそうです。実際第二次世界大戦中では、仏教界の多くの人たちが、仏教の教えに反して人を殺すことにつながる戦争遂行に、積極的に協力していた事実もありました。
 それらのことをうまく説明する手掛かりとして、大乗仏教の唯識とケン・ウィルバーの発達心理学を挙げることができると岡野さんは主張します。そしてそれらについて続く各章で概説していくことになります。

第二章 大乗仏教における〈無我〉の意味

 一般的に日本では、無我とは「欲や執着や自己主張のない人格」(p.59)を意味するように思われてしまっていますが、大乗仏教、唯識では、実は「人もモノも、すべては実体ではない」という、より包括的な概念を意味しているそうです。「我」という語は、通常はself、自己、自我を意味するとして使う場合が多いでしょうが、大乗仏教では基本的に実体を意味する言葉なのです。
 ここで言う実体とは、英語ではサブスタンス( substance )、サンスクリット語ではアートマンと呼ばれているものであり、「それ自体でいつまでも変わることのない本性を持って存在し続けることのできるもの」(p.66)です。明確にするために実体の意味を三つの要素に分けてみると次のようになります。

・それ自体で存在できる。
・それ自身の変わることのない本質がある。
・永遠に存在することができる。

 大乗仏教によれば、全ての存在はそれら三つの条件のどれも満たさないのです。例えば私という存在を考えてみます。私は両親がいて初めて生まれ存在するようになったのであり、また育ててくれる人々がいなければ存在し続けることもありませんでした。それに、食べ物や空気や大地や太陽がなければやはり存在できないのも厳然たる事実です。従ってそれ自体で存在できないことはあきらかです。また私は、生まれた時は歩くことも話すこともできないほとんど何もできないような存在でした。それが何年か経過すると歩くことも話すことも計算することもできるようになり、そして高齢者となった今や肉体的にも知的にも衰え始めてきており、もう少しすればこんどは歩くことも話すことも計算することもできなくなるのです。従って一生を通じて変わらない性質、本質というようなものは私にはありません。また私はやがて死んでしまうので永遠に存在し続けることもありません。すなわち私は先ほどの三つの条件をどれも満たしていないし実体ではありません。
 仏教は、全てのものは、周囲の他のものとのかかわりによって存在していることが見て取れるとし、そのような世のありかたを縁起の理法に従っているとか、空であるとか言います。そしてそのために、今私について考察したように、全てについて実体ではないことが(現象であることが)見て取れるとします。すなわち次の三つが成り立っているのです。

・全ての存在はそれ自体で存在することはない。
・全ての存在にはそれ自体の変わることのない本質はない。
・全ての存在は永遠に存在することはない。

 ところで、全ては実体ではなく、互いにかかわりあい、つながりあいながら空として存在するのであるなら、そのつながりをたどることで、全ては結局一体であることになります。それは一如と表現されます。岡野さんによれば、無我と空は結局一如と同じことになるのです。本書では例えば次のように書かれています。

(仏教は)瞑想体験と思索をとおして、すべてのものは縁起的存在であり、つながっていると洞察した。そして、すべてがつながり、つながり、果てしなくつながっていて、結局は一つである、一つがありのままの姿である、つまり〈一〉とか〈一如〉であると見た。(p.72)

 そうして岡野さんは、多くの「戦前の仏教指導者たちは完全に『パーソナリティ状態としての自我を滅ぼして、国のために尽くすことが無我だ』という混同に陥っていた」(p.77)と結論するのです。そうして、次の章で仏教における心の理論である唯識を説明し、心の状態としての無我(全ては無我であるということを覚った心の状態)を明らかにしていきます。

第三章 〈無我〉ではなく〈四智の主体〉——凡夫からブッダへの道

ヒューマニストもコミュニストもエコロジストも十分気づいておらず、唯識だけがはっきり気づいていることは、人間の心は意識の層だけでできているのではなく、その奥底の、とことん自分に執着するマナ識、いのちに執着するアーラヤ識から成っており、むしろそのほうが広く、深く、強いということである(p.85)。

 ヒューマニスト、コミュニスト、エコロジストはそれぞれ、他者、社会、生態系を尊重しますから、当然自分勝手なエゴイズムは抑制すべきだとするでしょう。例えば日本国憲法は全ての国民に、ヒューマニズムに基づいて、生存権をはじめとする人権を、世界中の人に対して尊重しなければならないと教えています。人々もそれを学校で必ず学びますから、成人であればエゴイスティックな態度は十分抑制されていると思うのですが、実際には私はじめ意外に多くの人が陰に陽にエゴイスティックな態度を取りがちであり、そのため貧しい子供がたくさんいたり、貧富の差が広がり続けたりしています。それを大乗仏教唯識は、私たちの通常の意識は心の表層にすぎず、その下に隠れている深層に自分に執着するマナ識が、そのさらに深層に命に執着するアーラヤ識があるとして説明しています。
 唯識では人間の心は、視覚(眼識)、聴覚(耳識)、臭覚(鼻識)、味覚(舌識)、触覚(身識)の五感(五識)とそれらを統合する自覚的な意識からなる表層と、自覚されていない深層のマナ識とアーラヤ識との合計八識、三層構造になっているとしています。そのため、いくら表層の意識で他者、社会、生態系を尊重し、自分勝手なエゴイズムは抑制すべきだと教えられ理解しても、深層が自分と命に強く執着するマナ識とアーラヤ識を抱えたままであれば、エゴイスティックになることを抑えきれないというのです。
 では深層を変えることができないのでしょうか?仏教の教説である唯識では時間はかかるものの修行によって変容させることはできるとします。そうして無我=空=一如、すなわちすべてはつながって一体であるということが心の底から実感的にわかって、エゴイズムが完全になくなった心のありかたを四智と呼んでいます。たとえそのような「覚った状態」にまで表層から深層まで変容しなくても、ある程度近づくことで、自己、自我はきわめて理性的に、バランスを取って自分も他者も生態系も尊重できるパーソナリティを備えるようになると本書ではされています。
 注意すべきは、このようなパーソナリティを備えた人格は、無私ということ、自我がないということとは全く違うことです。自我がなければそして適度な欲求がなければ人は、覚ることを希求することも覚ることもできません。覚るということは、生きるために様々なことをコントロールする自我をなくすことではなく、心の深層から自分が全てとつながって一体だということを理解することなのです。岡野さんによれば、仏教が覚りという心の状態に当てはめて言う場合の無我ということは、無私、自我がないということではなく、実体がないということを心底、すなわち深層まで了解した状態になっていることなのです。大乗仏教で言う無我は、自我であろうが何であろうが、全ては他とつながって一体であることを言う場合もありますし、そしてそういうことが深層までわかった心の状態(覚っている状態)を言う場合もあるのです。
 唯識の考えを使えば、社会の建前がヒューマニズムに基づこうがコミュニズムに基づこうがエコロジカルな思想に基づこうが、リーダーの心の深層にあるマナ識とアーラヤ識が浄化されていないかぎり、エゴイズムに基づいた歪みが現れ、極端な場合スターリニズムのようなことが起こり得ると説明できるのです。共産主義を心の表層では誰にも負けないほど知的に理解できていても、その深層にあるマナ識の浄化ができていなければ、その人が社会のリーダーになった時、スターリニズム的な政治をしかねないわけです。
 以上仏教唯識における心の構造について無我ということと絡めて述べてきましたが、西洋の心理学では、無我とともにこの本のもう一つの主題となっている自我の発達が研究されてきました。そのおおまかな内容が、ウィルバーのまとめにそって次の章で述べられることになります。

第四章 自我中心性の克服としての発達

 この章では、ウィルバーが『進化の構造』で述べている心の発達論が扱われます。それは、ピアジェの理論を参照しながらまとめた個人の心の発達論に、トランスパーソナルな(個を超えた)レベルでの心の発達論を組み合わせて、人の誕生から覚りまでの内面の発達を理論化したものです。
 ピアジェを参照した部分は、感覚—運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期という項目にわけて順に説明され、自我が確立するにつれて自己中心性から解放されていく様子が述べられます。

感覚—運動期——自分と他者の区別がつく(2歳ぐらいまで)
 自分と周囲の環境とが全く未分化の状態で人は誕生します。しかし赤ちゃんは、自分の指を噛んでみると痛いのに、毛布を噛んでみても痛くないというような運動と感覚による経験を積み重ねることで、自分の身体とそれ以外のものの違いを知るようになっていきます。
 赤ちゃんは特にお母さんと一体化しています。例えば自分がおっぱいを欲しがって泣くこととお母さんが来ておっぱいにありつくことは一体なのです。ところが、いくら自分が泣いてもお母さんがすぐに来なくておっぱいにありつけないような体験が繰り返されると、次第に自分とお母さんとは別の存在だということがわかってきます。そうして、「二歳の終わりころになると、言葉を覚えるのと並行して、自分と他者や物理的な世界との区別がわかって」(p.118)きて、「心の中にお母さんとも物理的環境ともちがう『自分』が感覚—運動的に確立されてくるのが、発達の第一段階」(p.118)なのです。

前操作期——ものごとをコントロールする思考が身につく(6歳ぐらいまで)
 言葉を覚えていくのと同時進行的にいろいろなものの違いを認識することで、それらをコントロールし操作できるようになってきます。しかし、自分と外界の事物との区別はまだまだ未発達で、心にうかぶイメージやシンボルや感情と外界の事物とを融合させがちです。そのため世界は自分の感情や欲望に応じるようにできていると思ったりして、極めて自己中心的に世界を見ます。例えば、呪文を唱えれば願いが叶うように思ったりします。この段階は人類の集団的発達段階としては呪術段階に当たるそうです。源氏物語では、六条の御息所が生霊となって葵の上に憑りついたりしますが、そのようなことが生々しく語られていた平安時代は、呪術段階的な色彩が極めて強かったのでしょう。
 しかし、自分の思いどおりに世界を変えられないということが繰り返されると、次には自分の両親であれば変えることができる、それが無理でも神さまならできると考えるようになるそうです。この段階は人類の発達段階としては神話段階に相当するそうで、「自分の内面の世界と世界の構造がつながっていて、そこに神話的な意味づけ」(p.120)がされるようになるのです。

具体的操作期——他者の視点を推測できる

 三色の粘土の山と人形を与えて遊ばせ、「君には何色のお山が見える?お人形には何色の山が見えているかな?」と聞くと、この段階に達していない子どもだと、例えば人形は緑の山だけに向いていても、自分と同じように「赤いお山を見てる」と答える。ところが、この段階に達すると、「ぼくにはみんな見えるけど、お人形には緑の山しか見えない」というふうに、自分と人とは見える世界がちがうということを理解し、他者の視点に立つとどう見えるかを推測できるようになるのである。(p.122)

 このように、前操作期と異なり、具体的操作期では他者の視点・立場に立てるようになり、他者の役割を引き受けたりできるようになります。そのため、前操作期のように何にでも自分の視点を当てはめようとする自己中心性は克服され始めますが、それに代わり役割やその役割がある社会を中心にして世界を見るようになってきます。人類の発達段階としては、人々の一般的意識が民族中心的であったり、国家中心的であったりする段階に相当します。

形式的操作期——自我の確立と自己中心性の克服(12歳以降)

 それぞれ別の無色の液体が入った五つのグラスを用意して、実験者が「これのうちどれか三つを組み合わせると黄色ができる」と言って、黄色を作って子どもに見せる。それから、「君も作ってごらん」と言って、どのグラスに何が入っているかはわからないまま与えると、前操作期のこどもはでたらめに混ぜてみるが、うまくいかないとすぐいやになってやめてしまう。具体操作期の子どもだと、まさに具体的に三つのグラスを組み合わせ、たまたま正しい組み合わせになるまで続けるか、しばらくするとやめるかする。ところが、形式操作の発達段階まできている子どもだと、「五つのグラスでできる組み合わせがいくつあるか考えて、それを全部やってみなくちゃね」と言いながら、実験をするという。(p.123)

 この例のように、形式的操作期では、具体的な世界を越えて、与えられた条件に沿って、事物の可能な在り方全てを心に浮かべることができるようになります。具体的操作の段階では、他者の視点をとることができ始めたわけですが、形式的操作の段階では、他者の視点に立った場合に見える景色に関する想像力が飛躍的に発達します。そうして個人というものを、実際に担っている特定の役割からは独立した、さまざまな可能性(可能な役割)に開かれた合理的な自我の持ち主と捉えるようになり、自我の確立の段階を迎えます。
 こうして前操作期、具体的操作期、形式的操作期とたどってきますと、自我が確立していく過程において、人は他者の視点に立つ能力をレベルアップすることで自己中心的な見方を克服していくことがわかります。人類的には、人々がほかの民族や階級の人たちの考えをも想像するようになり、自己中心性、自民族中心性、自階級中心性から解放されるようになっている合理的段階に到達するのです(現実にはまだ十分実現していない段階です)。
 ところで、形式的操作の能力を十分発揮すれば、ものごとを差異化して捉えた上で、「あれはああ、これはこうなっている」と、それぞれがどういうふうにつながっているかを可能な在り方を検証しながら把握できるようになります。したがってこの能力を使って人々のつながり、動植物と非生物のつながりを見ることで、社会のシステム、生態系のシステムを合理的、科学的に把握することまでできるようになるのです。

ヴィジョン・ロジック段階——総合的合理性
 ピアジェの個人の心に関する発達論は、形式的操作段階で終わっているのですが、ウィルバーはそれにヴィジョン・ロジックと呼ばれる段階を付け加えます。
 先ほど、形式的操作段階では、個々の事物がどうつながっているかを見てその仕組みを洞察し、システムを理解するのだと述べました。ここで注意してもらいたいのは、個々の存在、各部分にまず注目していることです。そののちにそれらのつながりを見るのです。それに対してヴィジョン・ロジックの段階では、個々があることとつながった全体があることを別々ではなく一体化して見るようになります。『自我と無我』では、環境問題のようなグローバルな問題の解決には、それぞれの国家が個々にあることからそのつながりを考えるのではなく、ヴィジョン・ロジックの見方で、諸国家はつながりあった全体の下で存在すると最初から発想する必要があるということが述べられています。

 世界のリーダーたちの多数が、「我が国の利益はこうだ」という話だけではなく、「お互いの国の利益の矛盾をどうやって調整しようか」という話だけでもなく、「いったいどういうありかたが、我が国にもよく、他国にもよく、生態系全体にとってもいいのか」という発想に立てるようになったときに初めて、そうしたグローバルな問題の解決の糸口が見えてくるだろう。(p.134)

 ヴィジョン・ロジック段階では、形式的操作段階で把握されたシステム全体が常に考慮され、全体としての可能な在り方も見ようとするのです。しかし、自我が確立し、ヴィジョン・ロジック的な見方ができるようになり、さらに自己実現的な生き方ができるようになったとしても、個としての自分が有限であることに変わりはありません。そのためこのかけがえのない自分は死ぬ存在であるという実存的な不安が生じます。「その時、消えてしまわない永遠なるものを発見したいという思いが出てくる。その時にまさに、個人性・パーソナルを超えたトランスパーソナルな領域が開けてくる」(p.137)と『自我と無我』では述べられています。

スピリチュアルな発達の四段階
 『自我と無我』では、145ページに、トランスパーソナルな発達段階として順に現れてくる次の四つの霊的な(スピリチュアルな)段階が書かれています。

心霊的(サイキック)段階‥‥神なるものが表した自然と一体感を覚える段階
微妙(サトル)段階‥‥自然の奥にある何者かと一体感を覚える段階
元因(コーザル)段階‥‥自分を超えた大いなるものと一体感を覚える段階
非二元(ノンデュアル)段階‥‥自分もほかのものも、すべてが別のものではないことが自覚される段階

 私はトランスパーソナルな発達段階とは縁がないのですが(登山中に膝を痛めてから座禅の姿勢も取れません)、それでもこれがサイキックレベルでの体験なのかと思ったことはあります。尾根歩きで見た周囲を巡る山並みの雄大さや、山頂で見た大粒の星々で覆われた圧倒的な夜空に、息を呑んで大自然との神秘的な一体感を感じたことはあります。おそらく誰でも、そんな程度まではトランスパーソナルな体験をしたことはあるのでしょうが、安定した段階としてトランスパーソナルな心を持つことはどんな感じか私にはわかりません。ともかく大乗仏教的に言えば、全てはつながりあって一体である(空である)ということの自覚の深層的深まりの度合いによってトランスパーソナルな発達はこれら四つに段階づけられるということなのです。

唯識との対照
 ここまで、ウィルバーの考えに従って、生まれてから覚るまでの心の発達を極めて簡単にたどってきました。この過程を唯識の心の理論と対照させて、岡野さんは次のように述べています。

アーラヤ識だけでマナ識が形成されていないという意味で自我以前の子供の段階から、やがてマナ識もできた八識という状態の心ができる。この八識の凡夫の自我が特に非常に成熟しながら、しかしこのかけがえのない私が死ぬのだという実存状況に至った時、それを超えたいと思って覚りを求める存在になっていく。そういう覚りを求める存在を〈菩薩〉という。(p.147)

 アーラヤ識は命に執着する最深層意識であり、マナ識は自分に執着する深層意識でした。これらの深層意識がなければ人は生きてはいけません。命そして自分に全く執着がなければ、すぐ死んで成長することもないでしょう。ピアジェの発達論によれば、自我が確立するにつれて他の視点を取れる度合いが高まり、自己中心性は克服されていくのですが、それを唯識的に解釈すると、その克服は主に表層におけることなのです。深層のマナ識まで十分に浄化され、自己への執着が消えてしまったわけではないのです。そのためヴィジョン・ロジック段階で自己実現に至って、表層ではエゴイスティックな態度は十分抑制されていても、浄化され切っていないマナ識から、自己への執着が顔を出し、エゴイスティックな態度を取ったり、実存的な不安が極度に高まったりする可能性があるわけです。そのような実存的な不安を超えた覚りを求めるようになった人を岡野さんは菩薩とするのですが、その菩薩的なパーソナリティを持ったリーダーがこれからの社会には必要だと次のように結論しています。

これからどういう社会システムを創っていくにしても、そのリーダーが菩薩的パーソナリティあるいは仏的パーソナリティでなければ、ふたたび同じような権力の腐敗が起こって、先に進めそうもないということは、あまりにも明らかだと思う。つまり、リーダーがエゴイズム・エゴセントリシズムで動いているかぎり、原理的にいって、その集団も集団中心主義、国家中心主義や民族中心主義から抜けられない。もしそこから抜けたとしても、人類中心主義であるかぎり、生態系のバランスの問題はやはり解決がつかないだろう。だからそういう自己中心主義、集団中心主義、国家中心主義、人類中心主義をどうやって超えていくかを考えた場合、それを可能にする個人のパーソナリティは仏教が目指してきた菩薩的パーソナリティだという推測はできる。(p.150)

 すなわち、リーダーが深層のマナ識が浄化されることを目指しているようでないかぎり(菩薩的パーソナリティに達していないかぎり)、集団が自己中心主義あるいは自己と関わる人々の集団中心主義に陥る可能性を排除できないので、グローバルな環境問題(生態系のバランスの問題)は解決されないだろうというのです。
 こうして、唯識による個人の心の構造論とウィルバーによる心の発達論で、無我が滅私(自我がないこと)とは全く異なること、自我が確立するにしたがって自己中心性が克服されていくこと、そうしてリーダーがヴィジョン・ロジックからトランスパーソナルへと移行しつつある段階での菩薩的パーソナリティを持たないとグローバルな人類の課題は解決されないだろうことがある程度明確になったわけですが、それらのことが、ウィルバーのコスモロジーを利用することによってより明確にできることが第五章以下で述べられることになります。第五章ではウィルバーのコスモロジーが、第六章ではコスモロジーから帰結することが述べられます。

第五章 全宇宙(コスモス)の構造

全体としてのコスモス
 この章では、ウィルバーの宇宙に関する考え、コスモロジーについて述べられます。宇宙物理学によれば、宇宙はビッグバンから始まり、微視的には素粒子、原子、分子という順に物質を構成する粒子を、巨視的には銀河や星団や惑星を形成しながら膨張していきます。そうして、やがては生命が現れ、ついには心を持った人間が現れます。このような宇宙の始まりからの歴史を見ますと、以前にはなかったあらたな性質を持った存在が次々に現れてきている、すなわち途切れることなく創発が起こっているように見えます。その科学的な裏付けとしてウィルバーは、ノーベル賞学者イリヤ・プリゴジンの散逸構造の理論;「物質そのものがより高次なる組織を生み出すようにできているし、その物質はあるレベルを超えたら、それまでの物質には還元できない新しい性格を持ち始める。つまり創造的に新しいものが発生する」(p.157)や、複雑系の科学で有名なスチュアート・カウフマンの自己組織化の考え;「生命は物質に還元などできない。それどころか、宇宙そのものが複雑さをどんどん増しながら自己組織化をしている。どんどん複雑になってきている。その複雑性の増大のプロセスには、段階によって物質から生命、生命から心というジャンプがあるのだ」(p.158)などを挙げています。
 それら科学に由来する考えに付け加えてウィルバーは、前章の説明で述べたように人間にはスピリチュアルなレベルに達する潜在性も設定しているので、結局「物質を含み、生命を含み、心を含み、魂(ソウル)や霊(スピリット)を含んでいるのが、ほんとうの全宇宙・コスモスだと言うべきだ」と主張するのです。

宇宙には明確な秩序と方向性がある
 そうしてウィルバーは宇宙には、カウフマンが主張するように、複雑性を増すような進化の方向性があるとし、そこに「含んで超える」というありかたを見出すことになります。それは例えば次のような考察から結論されるのです。
 ビッグバンで始まった宇宙には、まずクォークやレプトンと呼ばれる素粒子が現れ、その素粒子が合成されることで陽子や中性子などの粒子が現れ、それらが合成されることで原子が、原子が合成されることで分子が、高分子が、細胞が、神経系を持つ有機体が、脳幹を持つ爬虫類が、辺縁系を持つ原始哺乳類が、新皮質を持つ高等哺乳類が、そして複合新皮質を持つ人間が現れたことが大まかには言えるとウィルバーは主張します。そうしてこの系列をそれまでになかったものが新たに創発する進化の系列と見做したうえで、前段階の存在を含んで超えるようにした方向性を見て取ることができるというのです。実際分子は前段階の原子を含んで原子にはなかった性質を持つことで原子を超えるように現れたと言えますし、有機体は細胞を含んで細胞にはなかった諸器官をもつことで細胞を超えるように現れたと言えます。

ホロンの階層——ホラーキー構造と全体
 『自我と無我』では、ウィルバーがホロンという概念で、この「含んで超える創発による進化」という考えを総括していることが書かれています。

  ウィルバーは、科学技術思想家アーサー・ケストラーの用語を使って、そうした低位の部分に対しては全体であり、高位の全体に対しては部分であるといった単位を〈ホロン〉と呼ぶ。そして、あらゆるレベルで、コスモスはホロンから成っているという。つまり、コスモスは、「ホロンの階層構造=ホラーキー構造を成している」のである。そして、宇宙のどのレベルもすべてホロンで、高位のホロンが低位のホロンを含んで超えるというかたちで、複雑になっている。コスモスは、ホロンの階層構造を成しながら複雑化つまり進化している、と言うのである。(p.162)

 先ほどの、素粒子、原子、分子、高分子、細胞、有機体、原始原子哺乳類、高等哺乳類、人間という、含んで超える系列が、ホロンの階層構造の具体例の一つになります。例えばその中で、高位のホロンである分子は低位のホロンである原子を含んで超えています。この関係をウィルバーは高位のホロンは低位のホロンに対し全体であり、低位のホロンは高位のホロンに対し部分であるとし、進化の系列に「部分と全体」という関係を見て取れるとします。また、ホロン階層において全体と部分との関係は、一方を全部なくした場合、他方が全部なくなってしまうかどうかを見ることで確かめることができるとします。例えば部分である原子が全てなくなれば全体である分子も全てなくなりますが、全体である分子が全てなくなっても、部分である原子が全てなくなるわけではありません。二つのレベルAとBを比較して、Aの存在を全部なくした場合、Bの存在もやはり全部なくなるが、Bの存在を全部なくしても、Aの存在は全部なくなるわけではないのなら、Aの方が部分で低位であり、Bの方が高位で全体なのです。

「個と集合の関係」と「部分と全体の関係」の差異化
 ところで、素粒子、原子、‥‥人間という、含んで超える系列は、客観的な個(的な存在)の系列と見ることができます。ここで思い出してください。全ては実体ではないことを説明する際に、例として人間の個(個人)は実体ではなく、一人だけで存在することはできないことを述べました。誕生し成長していくには両親が、そして社会が必要です。人間が個人として存在するには、同時に集合として存在している必要もあるとウィルバーは考えます。人間という概念自体、複数の個人が集合として存在し、それらメンバーの間に人間としての共通の性質があることが前提とされていると思われます。ウィルバーは同じようなことが、人間に至るまでに現れたどのレベルのホロンにも言えるとし、個と集合は各レベルのホロンの相補的な側面であるとします。この個と集合の関係は異なるレベルのホロン間に成立する部分と全体の関係とは異なり、一方がなくなると他方もなくなる(個がなくなれば集合もなくなるし、集合がなくなれば個もなくなる)という関係にあります。このように個と集合とは一つのものの二つの側面と考えられるので、進化の系列は、実は個の系列であると同時に集合の系列でもあるのです。
 このように、集団と個は、全体と部分のように異なるレベルの関係ではなく同じレベルでのホロンの側面である(例えば原子と分子は異なるレベルで部分と全体の関係にありますが、個々の原子と原子の集合は同じレベルにあり個と集合の関係にあります)ので、コスモスの構造からして、全体主義国家のように、「『個人という部分は、集団という全体のために犠牲になるべきである』という論理は成り立たない」(p.182)のだとウィルバー、そして岡野さんは主張します。

ホロンの外面と内面
 ホロン階層の頂点にある人間についてウィルバーが注目することには、人間が内面と外面、主観的側面と客観的側面を持っていることもあります。私が痛みを感じたり、怒ったり、数学の問題を解いたりすることは、おそらく脳の神経シナプスのシステムの働きとして科学的客観的に探究することはできるのでしょうが、それはあくまで客観的世界で対応して起こっていることを探求しているのであり、主観的な感じそのものを探求しているのではありません。個人にはどちらかに還元することができない客観的側面と主観的側面が確かにあると思えます。ところで人間には個人であることの個的側面と、それと相補的な集合的側面もあることを先ほど指摘したばかりですが、ウィルバーによれば、個的側面である個人だけでなく、その集合的側面にも外面と内面があります。外面は客観的に見て取れる社会のシステムです。しかしそれには対応する内面もあるというのです。集合の内面の例としてウィルバーがネイティブ・アメリカンの雨乞いの踊りを挙げていることを『自我と無我』は述べています。

  ウィルバーが典型的なものとしてあげているのは、ネイティブ・アメリカンの雨乞いの踊りである。外面である社会システムという視点から観察すると、それは部族の結束を強めるという社会機能を持っている(集団の外面)。しかし、踊りに参加している時に彼らが何を感じ、どういうふうに自然と自分の関係を感じているか(集団の内面)は、いっしょになってレイン・ダンスをやりながら、「ああ、こういう気持ちなのだな」と共感しないかぎりわからない。(p.185~186)

 このような集団的な共感、あるいは集団が共有する世界観をウィルバーは集団の内面としているのです。

四つの象限とホロン階層を持つコスモス(ウィルバー・コスモロジー)
こうして人間には個的側面にも集合的側面にも内面と外面(主観的側面と客観的側面)があることをウィルバーは主張しているのです。そして二組の相補的な側面を重ね合わせることで、個的内面(主観的)、個的外面(客観的)、集合的内面(間主観的)、集合的外面(間関客観的)という四つの側面があるとします。図1では、大きな正方形が人間を表し、内部を通る縦横の線分によって区切られた四つの正方形が各側面を表しています。これら二つの線分を直交座標と見なすことで、ウィルバーは四つの側面を四つの象限とも呼んでいます。そしてそのような四つの側面(象限)が、人間だけでなく、進化の階層を構成する全てのホロンに——動物にも原子にも——あるのだとします。

図1

 ウィルバーは、ビッグバン以来宇宙がホロンの階層構造を創発的に構成しながら人間というホロンにまで進化してきたとし、その先への進化(トランスパーソナルなレベルへの進化)まで想定していますが、今述べましたようにホロンには四つの側面があるとしますから、当然宇宙(ウィルバーの言い方だとコスモス)にも四つの側面があることになります。そしてウィルバーはホロンがコスモスの四つの側面にわたって進化してきた様子を次のような一枚の図(図2)にまとめ上げたのです。

図2 四つの側面を持つコスモスのホロン階層

(『進化の構造1』(ケン・ウィルバー、松永太郎訳、春秋社、1998)p.305にある図を、原書 Sex, Ecology, Spirituality, second edition, Shambhala, 2000, p.198のFigure 5.1と比較して一部直したものです。SFとあるのは、structure function 構造-機能 の略語です)

 このようなコスモロジーから、岡野さんは人間であることには「宇宙150億年の進化の歴史が込められており、さらなる進化の可能性が秘められている」のであり、そこに、「コスモス的な意味、絶対的な意味がある」(p.171)とするのです。そうして、「ウィルバーは、『ホロンの階層構造を成し、四つの象限にわたって進化し続けるコスモス』という統合的で壮大な全宇宙像を確立し、そこから『自我と無我』、『個と集団・共同体』というテーマに関して、みごとな解明を与えている」(p.186)と主張するのです。唯識の心の構造論、ピアジェ—ウィルバーの自我の発達段階論で、それなりに「自我と無我」という問題については解明が与えられているのですが、ウィルバー・コスモロジーによって改めて明確な解明が与えられると岡野さんは考え、第六章でその考えをこの本の最終結論として述べるのです。
 なお、ウィルバー・コスモロジーの概要については、「ウィルバー・コスモロジーの批判的考察 第一章 ウィルバー・コスモロジーの概要」にも私流の整理の仕方で述べておきましたので、よろしかったら参照してください。

第六章 〈個と集団〉の成熟した関係——バランスの取れた進化へ

 個人を周囲から切り離すことができると見て、死んだらこの自分の内面は完全になくなり、モノが残るだけだというニヒリズムは、ウィルバー・コスモロジーでは成り立たなくなります。何故なら個人は本来コスモスの個的側面であり、特定の個人が死のうがそれとつながりを持ったコスモス自体には個的にも集合的にも内面も外面もありつづけるからです。ウィルバー・コスモロジーからすれば、「この体とこの心の死ぬことも宇宙のプロセスなのだ」(p.192)と見なすことができるわけであり、コスモスとして内面があり続けるので、人生の意味や倫理について語り得ることになるからです。
 では具体的にどのように倫理の基準を決め、人生の意味付けができるというのでしょうか。岡野さんは、コスモスに含んで超えて創発するという進化の方向性があることに着目します。そうして、次のように人生の意味を設定することを提案します。

「人生の意味はコスモスの進化の一過程を担うものとして生き死にするということにある。つまり天命を果たすことが私の人生の意味だ」というかたちで、倫理と意味の原点は明快に示されるのではないだろうか。(p.207)

この人生の意味付けから、次のように倫理の基準も設定するのです。

 何がいいか悪いか、倫理の基準は、「コスモスの進化の方向性に沿うことが善、はずれることが悪」というふうに、原則論としては明快に出てくる。モノがアトランダムに運動しているだけの宇宙なら、「いいも悪いもありはしない」ということになるが、はっきりと方向性を持って進化しているのがコスモスなのだから、善も悪もはっきりとある。(p.206)

 こうして近代において個人主義と科学的物質主義が支配的になったために生じたニヒリズムの問題は解消されるのです。
 ここで本書のテーマである「自我と無我」という問題を今一度振り返ってみましょう。
 日本では「無我」が、「滅私」と同じことを意味するとみなされ、無我となって所属する集団のために行動することこそが倫理的だと考えられる傾向がありました。特に第二次世界大戦中は、私を滅して日本民族(日本国)に奉仕することが人間として最も大事なことだとされたのです。ところが敗戦後、滅私の考えこそ悲惨な国の状況をもたらした主要な原因だとされ、倫理の基準が180°向きを変えることになります。そうして近代的な自我を確立し、自分を最も大事とすることが当然になったのです。個人としての自分が一番大事ということを、全ての人に当てはまることだと理解すれば、人々は互いを尊重せざるを得なくなるだろうというような、個人主義的ヒューマニズムが倫理の基準にされたのです。
 しかしそのようなヒューマニズムの考えが適切に発展したようには思えない状況が今の日本には見られます。どちらかというと自分だけ、あるいは自分と利益を共有する者だけを大事にする、行き過ぎた個人主義(ミーイズム)が蔓延しているように見えるのです。その最たることとして、「警察官、医者、教師たちの不祥事もしきりに報道されて」(p.31)います。そのため、敗戦以前のように「公務のために身を挺する滅私奉公の精神は、やはり必要なのではないか」(p.31)という論調まで現れるほどです。そうしたことの根本には、やはり、「個人が大事なのか、社会・集団が大事なのか」という意味での「自我か、無我か」という問題があると岡野さんは考えたのです。
 この問題は、ウィルバー・コスモロジーにおけるコスモスの構造を参照して、コスモス的視点に立つと、問題の立て方自体が不毛であるとわかります。コスモスの構造を表す図2を見てください。上側の側面がコスモスの個的側面です。コスモスの個的側面が人間(個人)まで進化・発達してきたことを表しています。下側の側面が個の集まり(集団)の側面です。コスモスの集合的側面が人間の社会・文化まで進化・発達してきたことを表しています。これらは同じホロンの切り離すことのできない両側面としてコスモスが進化・発達してきた結果なのです。従って、「個人が大事なのか、社会・集団が大事なのか」ということではなく、両者が揃って発達進化していくことが大事なのです。
 ところで、人の内面に注目すると、どのような発達段階に達すると、このようなコスモロジーを理解し、心の深層から世界と自らのつながりを実感できるようになるのでしょうか。「第四章 自我中心性の克服としての発達」を振り返ってみますと、次第に自己中心性が克服されていき、ヴィジョン・ロジックの段階に達することで、個々があることとつながった全体があることを別々ではなく一体として見るようになります。この段階がウィルバー・コスモロジーのような世界観を持つのに必要だと思われます。しかし唯識を参照しますと、そのような段階でも心の深層ではマナ識の浄化はできていないのですから、自己中心性がいつ表層に飛び出てくるかはわかりません。そう考えますと、マナ識の浄化を意識的に目指す菩薩のような心の在り方を持つレベルに内面が発達している必要があるのでしょう。少なくとも社会のリーダーが菩薩的パーソナリティを持つようになっていることが必要だと思えます。コスモス的な視点が一般的になるには、個人としても集団としてもヴィジョン・ロジックを通過してそしてトランスパーソナル的な認識能力を目指す菩薩的パーソナリティのレベルに発達することが必要なのです。

おわりに

 岡野さんの著作の素晴らしいのは、極めて難しいことが極めて読みやすく書かれていることです。そのため読者はすいすいと読み進むことができて、その内容がかなりの程度までわかってしまったような気持ちになってしまいます。実際よくわかってしまわれる方もおられるのでしょうが、私の場合大体において錯覚でしかありませんでした。
 一方で専門家の方たちは、きわめて難しいことを極めて読みにくく書かれてしまう場合が多いようです。それでも通常何の問題もないのは、読む人たちの多くが、難しい表現を理解するための訓練をつんでしまっている専門家仲間や専門家に近い知識を備えた方々だからなのでしょう。
 岡野さんは専門的で難しい内容のことを専門家仲間ではない一般人に身近な言葉に直して書かれていて、トレーニングを積んでいなければとっつけないような表現は使われません。しかし、わかりにくく書こうがわかりやすく書こうが、もともと難しいことを書いていることに違いはありません。核心になることはいずれにしろ難しいのです。無駄な労力を省いてくれるという意味では、岡野さんの著作は素晴らしいのですが、結局書かれていることは複雑で難しいのですから、内発的に理解しようとすると、繰り返し内容を振り返り、それなりに時間を費やす必要があるのだ——そういうことを、『自我と無我』を再読して改めて思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です