『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来(上下)』
(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2018年)を読んで

増田満

 2016年に出版されてベストセラーになった『サピエンス全史(上下)』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)の続編が本書『ホモ・デウス』です。『サピエンス全史』の原書は SAPIENS : A Brief History of Humankind で2011年に出版されており、一方本書『ホモ・デウス』の原書は HOMO DEUS : A Brief History of Tomorrow で2015年に出版されています。
 ところで、A Brief History of … という出だしの書名を持つ本としては、ハラリの著作以外に二冊私は記憶しています。一冊は 1988年に出版されたA Brief History of Time (『ホーキング、宇宙を語る』、スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、早川書房、1989年)であり、著名な物理学者ホーキングが、宇宙の歴史をその始まりから行く末までについて語ったものです。もう一冊は1996年に出版された A Brief History of Everything (『万物の歴史』、ケン・ウィルバー著、大野純一訳、春秋社、1996年)で、思想家ウィルバーが自身の創造したコスモロジーについて語っています。
 ウィルバーもハラリも、ホーキングの著作を意識して、自作にA Brief History of … という出だしの書名をつけたのではないかと私は推測しています。まずウィルバーの場合ですが、彼によれば、宇宙には科学的に探究される客観的な側面だけでなく、そこに含まれる個的存在の主観的側面やそれらの共同主観的(間主観的)側面もあることになります。したがってそれら全側面の進化発達について語らなくては本当の宇宙(全て、everything )の歴史について語ったことにはならないのです。おそらくホーキングのように物理的な側面だけを語るのでは宇宙を語ったというにはおよそ不十分であるという皮肉を込めて、ウィルバーはホーキングの著作と同じくA Brief History of … で始まる題名を自作につけたのだと思います。
 一方ハラリの一連の作品の場合、それらは人類の歴史を扱うのですが、『サピエンス全史』の書き出しにある年表は135億年前のビッグ・バン(宇宙の始まり)からスタートしていて、人類は宇宙の現象であるということがはっきりと意識されています。そのような意を反映して、宇宙の歴史を扱ったホーキングの著作に由来する題名を彼はつけたのではないかと私は思います。
 真偽はともかく、このような推測をしたくなるほど、ウィルバーとハラリ両者の著書が、ホーキングに負けない壮大な意図のもとに書かれたのは確かでしょう。
 ところで、『サピエンス全史』によりますと、およそ二十万年前に私たち現生人類に直接つながるホモ・サピエンスが東アフリカに誕生し、「約七万年前に歴史を始動させた認知革命、約一万二〇〇〇年前に歴史の流れを加速させた農業革命、そしてわずか五〇〇年前に始まった科学革命」(『サピエンス全史 上』p.14)でその文化の発展の道筋(歴史)は決まったとあります。『サピエンス全史』では、その歴史を未来予測まで含めて描いているのですが、今回取り上げる続編の『ホモ・デウス』では、『サピエンス全史』で描かれた歴史を、未来予測のほうに重点をおいて、神の如き新しい人類であるホモ・デウスに至るまでを描きなおしています。正直言いまして、彼の未来予測は、現在の人類の一員である私を暗鬱にさせるものでしたが、しかしそれは回避可能な選択肢であるとも述べられているところに、希望を感じることもできました。
 この小文では、認知革命、農業革命、科学革命、未来予測と大きく区分けして、本書『ホモ・デウス』でハラリが語る人類の歴史の概要と私の短い感想を述べます。
 実は、本書の中で取り上げられている事柄の中で、「知能と意識の分離」ということに私は最も関心を持ちました。しかしそれに関して詳しくは、ケン・ウィルバー、デイヴィッド・J・チャーマーズ、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインといった著名な思想家たちが述べていることと比較検討したいと思いますので、別に書く機会を持ちたいと考えています。

認知革命

 狩猟採集時代のホモ・サピエンスが、動物および他の諸人類らのライバルを出し抜いて地球を支配するにいたったその発端には、想像上の虚構(物語)を共有し、そこにある秩序を信じ協力するという、約七万年前に起きた認知能力の革命があったのだとハラリは主張します。そんな革命を起こしたサピエンスとの競争に負けたネアンデルタール人はおよそ三万年前に、ホモ・フローレンスはおよそ一万三千年前に滅び、それ以降サピエンスが唯一の人類になってしまったということです。
 コミュニケーションをとって協力して狩猟採集するということは、他の人類や多くの動物も行ったことでした。例えばオオカミなども見事なチームワークでシカを狩ったりします。しかし彼らは異なる群れのメンバーと協力することはありません。それに対しサピエンスの場合、想像上の虚構の共有を見知らぬ者にまで拡大し、柔軟に協力できるところに根本的な相違があったのです。ハラリはそれについて次のように述べています。

ある土地に住んでいるサピエンス全員が同じ物語を信じているかぎり、彼らは同じ規則に従うので、見知らぬ人の行動を予測して、大規模な協力のネットワークを組織するのが簡単になる。……チンパンジーは人間に近い動物であるけれど、そのような物語を創作して広めることができない。(『ホモ・デウス上』p.179 以下断りがなければ引用は『ホモ・デウス』からであり、上下の違いとページ数のみを記します)

 ただしこの時期のサピエンスが創作する物語は、基本的に対等な種と考えられていた諸動物と人間が、各自の役割を演じているアニミズムの「オペラ」のようなものでした。ところが農業革命によって、虚構そしてそこに含まれる宗教の様子は大分ちがったものになっていきます。

農業革命

 およそ一万二千年前、農業革命が起こり、多くの人が定住するようになり、その際人々は動物の一部を家畜として飼うようになりました。そのため、人間は自らを動物に優越する存在だと考えるようになります。共有される虚構にも、以前の「個性豊かな役者たちが数限りなく登場する壮大な京劇」(上p.114)のように世界を描くアニミズム的宗教に代わり、人間と神の対話劇という形式の宗教が現れ、神と特別な関係を持つ人間は森羅万象の頂点にあるとされます。例えばキリスト教では、「人間が他の被造物の支配権を持っているのは、その権限を造物主に与えられたからだ」(上p.117)とされているのです。日本には、一神教を基盤としてこのようにくっきりと人間を優越化する伝統はなかったわけですが、それでも日本人も家畜として牛馬を農作業に使役してきたわけですし、また近代化以降ある程度西洋の歴史を自己化してもきたので、それなりに人間の動物に対する優越性の感性を持っているのは間違いないでしょう。
 ところで農業革命初期では、虚構における取り決めはそれほど複雑にはなり得ませんでした。人間の脳のデータ処理能力に限界があるからです。しかしおよそ五千年前、書字と貨幣が発明され状況は大変化します。書字は記録することにより、人間の脳によるデータ処理能力の限界を打ち破り、「極端に長く、入り組んだ」(上p.198)虚構の構築を可能にし、余剰生産のおかげで養うことができるようになった、「込み合った都市の何千という人や、訓練された軍隊の何千という兵士」(上p.194)にも秩序をもたらすことができるようになります。また貨幣という普遍的交換性を持つ経済的道具のおかげもあり、サピエンスのコミュニケーションネットワークはますます広がり、大きな帝国を維持したりできるようにさえなったのです。15世紀に始まる大航海時代以降では、ついにグローバルな発展が試みられるまでになります。そして呼応するように科学革命を迎えます。

科学革命

ある人間の文化が、知る価値のあることはもう何もかも知っていると信じていたら、わざわざ新しい知識を探し求めたりはしないだろう。これが近代以前、大半の人間の文化が採用していた立場だ。ところが、人類は科学革命によって、この素朴な思い込みから解放された。最も偉大な科学的発見は、無知の発見だった。(下p.22)

とハラリは述べています。伝統的宗教では、倫理的なことと事実に関することの両者について語られていて、人々はそれを信じていたのですが、特に事実に関して語られていることには、現実のありさまと比較して信じがたいことがないわけではありません。そのため人々の中には、改めて確実に思える自身の経験(観察や実験)を通して客観的世界の仕組みを探求したり、そうして得られた知をテクノロジーに適用したりする者が現れ、科学革命が起こります。それがおよそ500年前頃だと本書はしています。
 そうしますと、有神論における神の存在自体も事実の主張で、実証されていないこととして疑う者が次第に増えてきます。それが神の名の下に主張されていた倫理への疑いにつながり、また一方で科学は倫理の探求にほとんど関与しないので、「何が社会の崩壊を防いでいるのか」(下p.34)と問わざるを得ないことになります。そこで、「人間は内なる経験から、自分の人生の意味だけではなく森羅万象の意味を引き出さなくてはならない」(下p.34)という人間至上主義、すなわち疑いようもないこの個人の内面意識、神のくびきを解かれた個人の自由意志、そして経験こそが最高の権威だとする新たな宗教が、18世紀後半(1789年のフランス革命などが起きた時期)に登場します。
 ここで一つ注意しておきますが、ハラリは、「人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ」(上p.223)としますので、個人の意志の自由性を論証なく断定する人間至上主義も宗教としています。
 もとにもどりまして、人間至上主義では、各個人が意味の究極の源泉で、その自由意志こそが最高の権威なので、「私たちは何かしら外的なものが、何がどうだと教えてくれるのを待つ代わりに、自分自身の欲求や感情に頼る」(下p.36)ことができてしまいます。
 こうして正当化された自らの意志、欲望に従って、富の増加を求めて世界中に植民地支配を拡大していった西洋諸国では、経済成長を前提とする資本主義が発達します。科学革命の帰結の一つである産業革命がエネルギーの無尽蔵の獲得を可能に思わせ、資本主義を後押ししたのは言うまでもありません。
 このように個人主義と資本主義が結びついた人間至上主義を、ハラリは正統派人間至上主義、あるいは自由を重視するため単に自由主義と呼び、そこから二つの分派が派生したとします。一つは社会主義的人間至上主義です。人間至上主義は個人の自由意志を最重要視するわけですが、「世界には多くの個人がおり、しばしば違うことを感じ、相反する欲求を抱く」(下p.65)わけで、それら異なる経験をぶつかりあうままにしておいては、よりよい社会制度改革などできません。そこで社会主義者は、「社会主義政党や職種別組合といった強固な集団的組織の設立を提唱」(下p.70)し、それらが一番正しいことにして制度改革を行う、社会主義的人間至上主義を構想したのです。
 もう一つの進化論的人間至上主義は、自然選択に従い、「人間の経験どうしが衝突したときには、最も環境に適した人間が他の誰をも圧倒するべきだ」(下p.71)とします。そして適性を増した人類から超人が生じることさえ想定します。
 自由主義は、社会主義からは中産階級と上流階級の資産と特権だけを保護する「冷酷で搾取的で人種差別的な制度の隠れ蓑だと」(下p.82)攻撃され、進化論的人間至上主義からは「自然選択を台無しにして人類の退化を引き起こした」(下p.82)と攻撃されたのですが、結局生き残ることになります。それについてハラリは次のように述べています。

 自由主義は、競争相手の社会主義やファシズムからさまざまな考え方や制度を採用した。とくに、一般大衆に教育と医療と福祉サービスを提供する責務を受け容れた。とはいえ、自由主義のパッケージの核心は、驚くほどわずかしか変わっていない。自由主義は依然として個人の自由を何よりも神聖視するし、相変わらず有権者と消費者を固く信用している。二一世紀初頭の今、生き残ったのは自由主義だけなのだ。(下p.88)

 引用文中にある自由主義のパッケージとは、「個人主義と人権と民主主義と自由市場」(下p.88)だとハラリは言っています。自由市場を基盤とした社会民主主義的な混合経済によって、子供の生活・教育を社会が保証し、親の世代の階級が子に大幅に影響しないようにすることも自由主義と矛盾しないと言い得るのであれば、一般的に先進国と呼ばれるような、うまくいっていると見える国々のほとんどが自由主義だといっていいのでしょう。しかし、きちんとした普通選挙を実施していない大国があったりする状況では、生き残ったのは自由主義だけと豪語するのは苦しい気がします。
 ところで、科学の発展は目覚ましいものがあり、近年では特にコンピューターテクノロジーとバイオテクノロジーの分野で顕著です。これは、二一世紀の行く末に関してハラリにどのような展望をもたらしたのでしょうか。

未来予測

無用者階級

 二一世紀の代表的テクノロジーとしてハラリはコンピューターアルゴリズムとバイオテクノロジーを挙げています。
 アルゴリズムとは、「計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序だったステップ」(上p.107)です。例えば簡単な問題「二つの数の平均を求める」を解決するなら、「ステップ1——二つの数を足し合わせる。ステップ2——その和を2で割る」(p.107)がアルゴリズムになります。料理のレシピであれ何であれ、問題を解決するための手順がアルゴリズムです。
 ところで急速に発達しているコンピューターアルゴリズムは、意識ある人間にしか持てないと考えられていた知能、さらに人間にまさる知能まで実現しようとしているとハラリは述べています。

 今日までは、高度な知能はつねに、発達した意識と密接に結びついていた。チェスをしたり、自動車を運転したり、病気の診断をしたり、テロリストを割り出したりといった、高い知能を必要とする仕事は、意識のある私たち人間にしかできなかった。ところが今では、そのような仕事を人間よりもはるかにうまくこなす、意識を持たない新しい種類の知能が開発されている。なぜなら、そうした仕事はみなパターン認識に基づいており、意識を持たないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識をほどなく凌ぐかもしれないからだ。(下p.137)

 こうして、高度な人工知能(AI)が、これまで人間でなければできないとされていた職種(医師や運転手、教師、はては芸術家まで)に進出してくると、失業しているだけでなく、「経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない」(下p.156)雇用不能な巨大な「無用者階級」が新たに生まれるかもしれないのです。
 一方で最新の理論が「感覚と情動は生化学的なデータ処理アルゴリズムである」(上p.135)とさえ主張し始めている生命科学が、いずれ自由主義・個人主義に対して、次のように異議を唱える可能性をハラリは述べています。

1.生き物はアルゴリズムである。人間は分割不能の個人ではなく、分割可能な存在である。つまり人間は多くの異なるアルゴリズムの集合で、単一の内なる声や単一の自己などというものはない。

2.人間を構成しているアルゴリズムはみな、自由ではない。それらは遺伝子と環境圧によって形作られ、決定論的に、あるいはランダムに決定を下すが、自由に決定を下すことはない。

3.したがって、外部のアルゴリズムは理論上、私が知りうるよりもはるかに私を知りうる。アルゴリズムは、私の体と脳を構成するシステムの一つひとつをモニターしていれば、私が何者なのかや、どう感じているかや、何を望んでいるかを正確に知りうる。そのようなアルゴリズムは、いったん開発されれば、有権者や顧客や見る人に取って代わることができる。そうすれば、そのアルゴリズムがいちばんよく知っており、そのアルゴリズムがつねに正しく、美はそのアルゴリズムの計算の中にあることになる。(下p.161)

 そうして、彼は次のように未来のありうるシナリオの一つを語るのです。

  外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移る。人々は、自らの願望に即して生活を営む自律的な存在として自分を見ることがもうなくなり、自分のことを、電子的なアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターされ、導かれている生化学的メカニズムの集まりと考えるのが当たり前になるだろう。(下p.162)

 手術のため入院し、病院にほとんどすべてお任せになってしまったときの私は、自然とこのような考え方をしていた気がします。いずれ人間は、自分たちの血圧や心拍数や血糖値などの時々刻々の値、そして詳細な履歴や遺伝子情報などを記録している、「強大なグローバルネットワークの不可分の構成要素」(p172)となり、自分のことを自分以上に知っているそのネットワークに多くのことで指図を仰ぐことになってしまうのかもしれません。就職や結婚も、ネットワークの助言に従うのが当然になってしまうかもしれません。
 しばらくは、多くの人々は学び続けて自らを高め、コンピューターアルゴリズムよりうまくこなせる仕事を見つけ出すことができるでしょう。そういう人たちは今述べたようなネットワークのガイドに合理性を感じ満足するかもしれません。しかし、AIの容赦ない発達により人類のほとんどが先ほど述べた無用者になり、しかもテクノロジーが途方もない豊かさをもたらすと、「無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるように」(下p.158)なり、そうして彼らは、バーチャルリアリティの世界に入り浸り、「夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者」(下p.159)になったりしかねません。そんな自分たちに人間は意味の源泉や至高の権威を感じることは難しくなるでしょうから、人間至上主義は消滅してしまうことでしょう。
 こういうシナリオに対して、ハラリはテクノ人間至上主義という新たな人間至上主義が登場するシナリオについて述べています。

テクノ人間至上主義とホモ・デウス

 ハラリによれば、「二〇世紀の人類の壮大なプロジェクトは、誰にも例外なく豊かさと健康と平和を与えるという、普遍的な規範を守ること」(下p.187)を目指していたのであり、それはある程度実現されたのです。すると次にどのようなことを人類は目指すことになるのでしょう。神を否定しあの世というようなことを信じていない現代人は、この世に居続けるための不死とこの世での幸福とを追い求めるはずです。そのため、「自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる」(上p.59)ことを目指すのではないでしょうか。ハラリはそれを「不死と至福と神性を獲得するという二一世紀の新しいプロジェクト」(下p.187)と表現しています。そしてこのプロジェクトが実現に近づく場合の人間を、神(デウス)のごとき人ということでホモ・デウスと呼んでいます。
 知能でAIに劣り、無能者になったホモ・サピエンスは、主役としてのその歴史的役割を終えることになりそうですが、新たに登場するテクノ人間至上主義が、「はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、テクノロジーを使うべきだと結論する」(下p.190)だろうとハラリは述べています。急速に発達してくるAIに後れを取りたくない人間は、自分たちの「ゲノムにさらにいくつか変更を加え、脳の配線をもう一度変える」(下p.190)ことで、第二の認知革命を引き起こして、「意識を持たない最も高性能のアルゴリズムに対してさえ引けを取らずに済むような、アップグレードされた心身の能力を享受する」(下p.190)ホモ・デウスを誕生させ、人間に意味の源泉や至高の権威を感じ続けられようにするというのです。その際とりうるテクノロジーは、「生物工学、サイボーグ工学、非有機的な生き物を生み出す工学」(上p.59)のいずれかだろうとハラリは述べています。
 第一の認知革命によってホモ・サピエンスが地球の支配者になったように、ホモ・デウスは「銀河系の主」になるかもしれないとさえハラリは想像を巡らせます。これは、進化論的人間至上主義の焼き直しです。ただし、最新のバイオテクノロジーを使うには大変な費用がかかりそうですから、全てのサピエンスがアップグレードできることにはならないでしょう。そうしますと、テクノ人間至上主義は、「新しい超人のカーストを生み出し、そのカーストは自由主義に根差す過去を捨て、典型的な人間を、一九世紀のヨーロッパ人がアフリカ人を扱ったのと同じように扱う可能性」(下p.187)があります。
 もしテクノ人間至上主義が、その想定しているようにホモ・デウスという超人を創り出せたなら、ホモ・サピエンスの後継たる新しい人類にとっては輝かしい未来がもたらされることになるでしょう。しかしハラリはテクノ人間至上主義が失敗する危険性についても述べています。一つは精神状態(意識状態)についての探求不足のために、アップグレードどころかダウングレードに終わってしまう可能性です。もう一つは、意志・欲望をコントロールする技術を開発することによって、テクノ人間至上主義が、自らが基づく人間至上主義との矛盾に追い込まれてしまう可能性です。テクノロジーの発展で、さまざまに意志や欲望をデザインできるようになってしまうと、人間至上主義において意味の源泉とされたり、あるいは絶対の権威とされたりしている意志や欲望自体が、自由にデザイン可能な製品になってしまい、その神聖性を失ってしまうからです。

精神状態の探求不足によりダウングレードしてしまう可能性

 人間至上主義というのは、人間の内面、意識に意味の源泉を置く考えです。そしてテクノ人間至上主義は、高い知能を持つ人工的アルゴリズムに負けない高度な精神状態を持つホモ・デウスをバイオテクノロジーで生み出そうというものです。ところが、そのような肝心の高度な精神状態に関する研究が、標準的な人間の意識状態を神聖視する人間至上主義そのもののために進んでいないとハラリは語ります。

人間至上主義の革命が起こると、近代の西洋文化は卓越した精神状態に対する信心や関心を失い、平均的な人間の平凡な経験を神聖視するようになった。したがって、近代以降の西洋文化は、尋常ではない精神状態を経験することを求める特別な階級の人々を欠いているという点で、類がない。この文化では、そのような経験を得ようと試みる人は薬物の常用者か、精神疾患の患者か、ペテン師だとみなされる。そのため、ハーヴァードで心理学を学ぶ学生の精神世界を記した詳細な地図はあるものの、アメリカ先住民のシャーマンや仏教の僧侶やイスラム教神秘主義者の精神世界については、わかっていることがずっと少ない。(下p.195)

 ハラリは、意識には数えきれないほど様々なレベルの意識状態が存在するという「意識のスペクトル」という考えを、電磁波に様々な波長のスペクトルがあることになぞらえて提示しています(トランスパーソナル心理学について業績のあるケン・ウィルバーには、『意識のスペクトル』という著作があり、ハラリと同様な考えを、より詳細に1970年代にすでに提示していましたが、彼の業績についての言及は本書にはありませんでした)。そして次のように述べています。

  私たちは、新しい意識の状態を作り出す作業に着手する技術的能力を獲得しつつあるが、そのような潜在的な新領域の地図はない。なじみがあるのは、主にWEIRDの人々の標準的な精神状態や標準未満の精神状態のスペクトルなので、どんな目的地を目指せばいいのかすらわからない。(p.199)

 ここで、WEIRDとはWestern, educated, industrialized, rich and democraticの略語で、裕福で教養のある、産業化された民主主義的西洋人ということです。先進国の標準的な人たちと言い換えて大体いいのではないかと思いますが、要はそのような人たち以上の超標準的精神状態の領域に関してはまだほとんどわかっていないということです。
 標準状態を超えたホモ・デウスを目指すとしても、「私たちはまったく地図を持たずに突き進み、現在の経済や政治の制度が必要とする心的能力をアップグレードすることに的を絞り、他の能力は無視したり、ダウングレードしたりさえするかもしれない」(p.200)可能性をハラリは指摘します。すなわち、テクノ人間主義者が思いつくような第二の認知革命は、「これまでよりはるかに効果的にデータをやり取りして処理できるものの、注意を払ったり夢を見たり疑ったりすることがほとんどできない人間を生み出す恐れがある」というのです。バイオテクノロジーでホモ・デウスを軽はずみに誕生させようとすると、高度な意識状態どころか、非常に偏った志向性を持つ意識状態の人間を誕生させかねないのです。人間性豊かにアップグレードされるどころか、人間性を欠く新人類を誕生させるに終わる可能性があるのです。
 では次に、意志をコントロールする技術を開発することによって、テクノ人間至上主義が、自らが基づく人間至上主義との矛盾に追い込まれて失敗してしまうという可能性について述べてみます。

意志をコントロールする技術で人間至上主義と矛盾を起こす可能性

 ハラリは現代の精神医学の状況について次のように述べています。

自分自身に耳を傾けるようにと言う人間至上主義の勧めは、多くの人の人生を破綻させてきたのに対して、適切な化学物質の適量の服用は、何百万もの人の幸福を増進し、人間関係を改善してきた。自分自身に本当に耳を傾けるためには、内なる悲鳴や酷評のボリュームをまず下げなければならない人もいる。現代の精神医学によれば、多くの「内なる声」や「本物の願望」は生化学的な不均衡と神経疾患の産物にほかならないという。臨床的うつ病の人は、将来有望なキャリアや健全な人間関係を繰り返し捨ててしまう。何らかの生化学的な不調のせいで、物事を暗い色の眼鏡を通して眺めてしまうからだ。そのような有害な内なる声に耳を傾ける代わりに、それらを黙らせてしまうのは、良い考えなのかもしれない。(下p.205)

 人間至上主義に従って自分の内面に耳を傾けても、そこには競合する多くの内なる声があり、どれが本当の自分自身の声であるかについて明白な基準がもともとあるようには見えません。そうであるなら、それらさまざまな声のボリュームの上げ下げを自由にできる現代精神医学があれば、一般的に考えて人生でより幸福になりそうだと思われる声を意図的に大きくしかねないでしょう。そうすると、テクノ人間至上主義は人間至上主義に対して矛盾を抱えることになるとハラリは考えるのです。
 人間至上主義の一派であるテクノ人間至上主義は、もちろん人間の意志がこの世界で最も重要なものだと考えます。そうすると、当然「この世で最も重要なものを思いのままにできるというのは、とても魅力的」(下p.208)ですから、「その意志を制御したりデザインし直したりできるテクノロジーを開発させようとする」(p.208)でしょう。様々な内なる声のボリュームの自由な上げ下げを追求するのです。ところがもしそれに成功すると、「神聖な人間もまた、ただのデザイナー製品になって」(p.208)しまいかねません。そうして人間の神聖性を覆してしまい人間至上主義の否定となりかねないのです。
 そうした場合、「あらゆる意味と権威の源泉として、欲望の経験に何が取って代わりうるのか?」(p208)とハラリは問います。個人の内面(意識)にもはや意味の源泉をもとめないのであれば、そのかわりになるものとして考えうるのはいったい何なのか。彼はその候補として情報を挙げ、新しくデータ至上主義という宗教が登場する可能性を取りあげます。

データ至上主義

 ハラリは『ホモ・デウス』下巻の209ページで、生命科学とコンピューター科学のこれまでについて次のように述べています。

チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版して以来の一五〇年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの八〇年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。

 アルゴリズムとはデータ処理の方法ですから、いまや生命科学は「キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎない」(下p.210)とみなしつつあるのです。そうしますと、「まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまる」(下p.209)ことになり、動物と機械を隔てる壁は取り払われ、「ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをする」(下p.209)ことにもなるでしょう。ハラリはまた、経済も人類の歴史もデータ処理の観点から説明できることを本書の中で示し、結局データ至上主義とは「森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まる」(下p.209)と主張するものなのだとします。そうしてデータ至上主義の宗教化について次のように述べています。

資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。この新宗教が信奉する至高の価値は「情報の流れ」だ。もし生命が情報の動きで、私たちが生命は善いものだと考えるなら、私たちはこの世界における情報の流れを深め、拡げるべきであるということになる。(下p.225)

 データ至上主義からすれば、人間は「ニワトリよりも多くのデータを取り込み、より良いアルゴリズムを利用して処理する」(下p.226)のでニワトリより優れていることになります。そうすると、当然「人間よりさらに多くのデータを取り入れ、さらに効率的に処理できるデータ処理システムを創り出せたなら、そのシステムのほうが人間よりも優れている」(下p.226)ことになります。また、データ処理に寄与することがあらゆる現象やものの価値を決めるとする立場からすれば、データの流れを断ち切ることは最大の罪になります。したがって、宗教化したデータ至上主義では、「人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先」(下p.227)すべきことになります。「情報の自由」ということが最重要であり、良いことはすべてそれにかかっているとするのです。
 このような観点からすれば、人間至上主義のように経験がそのままで価値があることにはまったくなりません。経験はネットに投稿するなどして自由に流れるデータになってこそ価値をもつので、「人々はひたすらデータフローの一部に」(下p.230)なりたがり、「個人は、誰にもよくわからない巨大なシステムの中で、小さなチップに」(下p.231)なって、毎日「電子メールや電話や論説を通じて無数のデータを取り込み、そのデータを処理して、さらに多くのメールや電話や論説を通じて新しいデータを送り返」(下p.231)すようになるのです。
 現在人間は健康と幸福と力を求めて「すべてのモノのインターネット」を構築し始めているのですが(IOTです)、それがうまく機能し始め、しかも人間と同じ機能をもっとうまく果たすアルゴリズムが開発されるなら、「人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない」(下p.243)とハラリは述べます。そして次のようなおぞましい未来のシナリオまで述べます。

私たち人間が自らの機能の重要性をネットワークに譲り渡したときには、私たちはけっきょく森羅万象の頂点ではないことを思い知らされるだろう。そして、私たち自身が神聖視してきた規準によって、マンモスやヨウスコウイルカと同じ運命をたどる羽目になる。振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波にすぎなかったということになるだろう。(p243)

 人間であること、意識を持った存在であることに、特別な価値は全くないという未来のシナリオをハラリは語るのです。このシナリオは私を暗澹たる気持ちにさせました。しかし彼は次のように人間中心的な希望の言辞を付け加えてくれています。

AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させえるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい。(下p.244)

 そうして、下巻の246ページで次のような問いを発するよう読者に提起します。

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?

2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?

3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

 彼の未来予測は、有神論の伝統の脈絡の中で語られていたのですが、仏教に代表されるような、高度な意識状態を探求する神秘主義的な文脈において未来を予測するとどうなるかについてはほとんど触れられていません。仏教その他の宗教における神秘主義的探究や、トランスパーソナル心理学における自己超越的な意識の探求結果を取り入れて、再考してみる必要があるでしょう。ハラリは本書の謝辞で、ゴエンカについて過去15年にわたってヴィパッサナー瞑想を実践してきたと述べています。彼の博識であることからすれば、おそらく超標準的な意識についても造詣が深いのではないかと推測されます。いずれそのような造詣を組み込んだ未来予測の著作がなされるのではないかと私は期待しているところです。

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