近代、アメリカ、日本 三つの未完のプロジェクト

増田満

以前MMエッセイズにその書評を掲載したリチャード・ローティの『アメリカ 未完のプロジェクト』の原題は、Achieving Our Country (私たちの国を完成する)です。それが邦題のようになってしまったのは、ローティ自身からユルゲン・ハーバーマスの『近代 未完のプロジェクト』(三島憲一訳、岩波現代文庫、2000年 原書は Die Moderne-ein unvollendetes Projekt , 1981)を想起するような題にするようにとの助言があったからだと訳者あとがきに書かれていました。ローティはどうやら、ハーバーマスが近代を未完のプロジェクトととらえたのと同様に、アメリカを未完のプロジェクトととらえ得ると考えたようです。また、ローティがアメリカ再生に関して抱いている考えと似たような枠組みを、サングラハ教育・心理研究所の岡野守也主幹が日本再生に関して抱いている考えが持っていると私は『アメリカ 未完のプロジェクト』の書評中で述べましたが、今では主幹の考えは「日本 未完のプロジェクト」と呼んでもいいのではなかろうかとさえ思っています。
そういうわけで、ハーバーマス、ローティ、岡野主幹の各氏によって、近代、アメリカ、日本のそれぞれが、未完のプロジェクトと呼ぶにふさわしい面を持つと主張されていると私は考えているのです。そこで、それらの主張の要点を一度まとめておきたいと思いこの稿を起こすことにしました。

近代 未完のプロジェクト

 合理的な見方とは、様々な可能性を心に描いて比較検討できることだと思います。例えば自然現象に関する可能な諸説明を比較検討しそれらの中から最も説明能力の高いものを見出すとか、従来に比べ道徳的により公正と思える社会生活のルールを案出するとか、これまでになかった美の可能性を発見し芸術作品を創造するとか、より効率的な取引の可能性を持つ経済システムを構築するとか、等々、いろいろと合理的な活動が考えられます。
ところでドイツの著名な哲学者ユルゲン・ハーバーマス(1929~)は、同じくドイツの政治学者・社会学者・経済学者マックス・ウェーバー(1864~1924)にならい、近代西洋の合理化では価値領域が科学(真理)、道徳・法、芸術に三分化されたとします。そしてそれぞれの領域で他の領域の価値に邪魔されることなく合理的な探求がなされ(例えば科学は宗教色の強い伝統的な道徳観や人々の主観的な美的嗜好にいちいち干渉されずに探究され)、「これら三つの価値領域に対応した文化的行為システムが出来上がり、それぞれのシステムの内部で、学問的論述、道徳論上および法理論上の審理、芸術生産および芸術批評が、それぞれの専門家の仕事として制度化されるようになった」(『近代 未完のプロジェクト』p.22 以下断りがなければこの項での引用文は同書からであり、ページ数のみを記します)とします。
一方で彼の考えでは、「日常の生活実践というのは、認識面、道徳的・実践的な面、そして美的・感情表現的な面が無理なく自然に絡みあうことによって成り立っている」(p.33)のであり、生活世界の文化的伝統は各領域に明確に分化されることなく対話により一体となって構成されて来たのです。そのため、西洋の近代化によって、絡み合うことなく各領域で自律的に高度化した文化システムは生活実践からの乖離を起こし、その際生活世界で培われてきた文化的伝統との断絶を伴うことになったとします。
このような乖離・分離の状況を解消することを目指して18世紀の啓蒙主義哲学者たちは「モデルネのプロジェクト」を提唱したのだとハーバーマスは述べています。それは「客観性を志向する科学を、また道徳および法の普遍主義的基盤を、そして自律的芸術を、それぞれ他に囚われることなくその強固な自律志向において展開させる」と同時に、「こうして集積された知的潜在力を特殊な人間にしかわからない高踏的なあり方から解き放ち、実践のために、つまり、理性的な生活を形成するために役立てること」(p.22)で、人間の幸福を目指すということです。
その背後には、「芸術と学問の発展によって自然の諸力に対する支配が進むだけではなく、世界と自我の解釈が、さらには、道徳的進歩が、公正な社会制度が、そしてついには人間の幸福が促進されるであろうという期待」(p.22)が満ち溢れていたのです。私はこの啓蒙哲学者の唱えた「モデルネのプロジェクト」が、ほぼハーバーマスの考える「近代というプロジェクト」だと理解しました。すなわち、分化された領域のそれぞれで高度な進展がみられると同時に、それらが人々の生活実践のコミュニケーションのなかで理性的な対話を通じて統合され、合理的な生活が形成され幸福が促進されること、それが「近代というプロジェクト」だと読み取ったのです。そしてこの分化した各領域での高度な文化システムおよび集積された知識を対話によって統合する仕方を対話的合理性と呼ぶのだと理解しました。
ところが現実世界では、対話による統合はいまだほとんど行われていない(対話的合理性はほとんど使われていない)とハーバーマスは主張します。例えば、格差の問題、都市環境・自然環境の破壊の問題等々を表面化させ社会を貧困化させてしまったのは、自然科学の価値領域や道徳の価値領域との対話を十分に重ねることなく、高度化された資本主義経済のシステムに従って人々が活動したためのように見えるからです。こうしたことからハーバーマスは、近代という未完のプロジェクトが達成されることに対し非常に悲観的で、次のように述べています。

モデルネの文化と日常の生活実践とを――つまり、生き生きとした伝統を必要とするが、単なる伝統主義によっては貧困化せざるを得ない日常の生活実践とを――各側面において精密に再接続することがうまくいくためには、社会の近代化をもこれまでとは異なった、非本質主義的な方向へ導くことが必要であり、また、生活世界がそれ自身の中から経済的および行政的行為システムの自己運動を制限しうる諸制度を生み出し得ねばならない。

……………

ところが、こうしたことが可能になる見込みは、私の間違いでなければ、あまり良好とはいえないようである。(p.39)

しかし私はハーバーマスほど悲観的ではありません。例えば、先日著名な弁護士である神山啓史さんの講演で聞いた、「裁判員制度が導入されてから、裁判官があまり偉そうでなくなった」というお話などは、道徳・法の領域で専門家と日常生活での実践との乖離が少し解消された例ではないかと思いました。
裁判員制度が導入されてから、裁判官は一般市民の裁判員と組んで裁判のプロセスを行わなければならなくなり、以前なら専門家に解ればいいというような上から目線で、書面を読む形で行われていた証拠内容の説明などが、一般人にもわかるように口頭で行われるようになったそうです。そのため傍聴席にいる普通の人にも裁判の過程が格段に理解しやすくなっているというのです。そして、裁判員(普通の人達)による観点を取り入れた、一般常識にかなった判決がなされるようにもなり、えん罪の可能性が少なくなったという話でした。このようなことは、専門家がその高度な知識を人々に少しでもわかりやすく説明するよううながされ、乖離が多少解消された実例になると思います。
芸術の分野でも、NHK教育放送の「日曜美術館」などを視聴すると、ある画家の作品がなぜ専門家に驚くほど高く評価されているのかが素人の視点からもある程度理解できるような説明がなされ、生活世界と専門知識との断絶が解消されることに貢献しているように見えます。
自然科学の分野では次のような例も挙げられるのではないでしょうか。日常生活で、元気な人、たくさん仕事ができる人などについて、エネルギーがあるとかパワーがあるとか形容したりします。その際、パワーという概念とエネルギーという概念とをはっきり区別することなく、感覚的に使っているように見受けられます。それに対して物理学では、パワーについては仕事をする効率の大きさ(単位時間にできる仕事の量)という定義が、エネルギーについては仕事をする能力の大きさ(どのくらいの時間でできるかということと関係なく、できる仕事の総量)という定義があります(もちろん、仕事ということ自体、物理学では物理的な定義があります)。少し物理学をかじったことがある人(言わば初歩的な専門家)なら、パワーとエネルギーにこのような区別があることは当たり前のこととして理解していますが、しかし中学や高校であまり物理の分野に関心のなかった多くの人からすれば、そんな区別があることはほとんど思い浮かべもしないのではないでしょうか。
そこにすでに専門家と一般の人々の間の多少の乖離があると思いますが、この程度のことなら少し説明されれば誰でも「なんだそんなことか」と乖離をすぐ埋めることができます。もちろん、さらに仕事の定義、エネルギー保存則や運動の法則を含む物理学の全体的なシステムとなると、一般人と専門家との間の乖離を埋めることは難しくなるでしょう。それでも、パワーやエネルギーの理解に関する些細な乖離が簡単に解消できることを一般の人々が実感し、専門家の方でも結局はこのような些細な乖離を埋め続けることで高度な専門知識も形成され得ることを認め、彼らの知識を少しでもわかりやすく説明する努力をするならば、対話的合理性で高度な専門性を日常の生活実践で生かしていくことに確実に通じていくと私は思います。
これらはそれほどよい例ではなかったかもしれませんが、言いたいのは、各領域での専門的なことも、概要であれば、意図的に対話的理性を活用することによって十分に人々の日常生活における共有事項になりえるだろうことです。振り返れば、ニュートンがプリンキピアを書いた17世紀後半では、その内容(ニュートン力学)を理解する人は全ヨーロッパでも5人程度しかいなかったと言う話を聞いたことがあります。しかし現在では、その説明の仕方も改善に改善が重ねられたため、概要であればある程度努力すればどの高校生でもニュートン力学を把握できるようになっています。やりようによっては、各領域の高度な文化システムを、その概要においては、日常生活における共有事項にできる時代が来ているのではないでしょうか。ハーバーマスが特に問題としていたのは、実生活の基盤となっている資本主義経済システムと、自然科学、道徳・法領域との理性的対話が生活世界において十分に行われていないことですが、今やグローバル経済の歪による環境問題悪化の、自然科学的な見通しや法・道徳的な問題性は、一般人の了解事項になりつつあると思われます。
というわけで私は、近代という未完のプロジェクトの達成に関しては、ハーバーマスが述べているほどに悲観的ではありません。『近代 未完のプロジェクト』を書いた当時(1981年)のハーバーマスは、専門的な文化システムで構築された知識は普通の人には到底理解できないと初めから思い込んでいたのかもしれませんが、全体的に生活に余裕が出てきて大学に進学するのも特別でなくなった今となっては、たいていの事の概要は一般人にも理解できることが証明されているように見えます。ハーバーマス自身も今では考えを変えているかもしれません。

アメリカ 未完のプロジェクト

 「アメリカは本来民主主義の理想を実現することを目指す国であり、実際理想に向かって進んできた輝かしい歴史がある。現在、本来目指していた理想も輝かしい歴史も見失われているが、それらを再認することで、再びアメリカ国民は誇りをもって自国を理想に向けて前進させることができる」、これが『アメリカ 未完のプロジェクト』でローティが主張していることの大枠として私が理解したことです。
彼はウォルター・ホイットマン(1819~1892 アメリカの詩の伝統の大きな潮流をつくりあげた詩人)とジョン・デューイ(1859~1952 哲学者、心理学者、教育学者であり、プラグマティズムの大成者)の両者の考えにそって、アメリカの本来的な目標とは、「階級もカーストもない民主主義国家」というユートピアだとします。模範的な民主主義国家では、人々は「民主的討議に自由に参加するために必要とされている自尊心」を当然持っており、人間としての同等性に目覚めているでしょうから、「カーストや階級などあるはずはない」(『アメリカ 未完のプロジェクト』p.18 以下断りがなければこの項での引用文は同書からであり、ページ数のみを記します)のです。
そして実際アメリカは、左翼が原動力となってその目指す方向に前進してきた三つの段階からなる歴史を持っていると彼は語ります。第一段階は伝統的左翼(改良主義左翼)による労働運動・公民権運動です。それにより1900年から1964年のあいだに、労働条件は改善され、人種差別を終わらせる公民権法制定にまで至りました。これこそローティが設定したアメリカの目標に向けての最初の輝かしい業績です。
第二段階は新左翼の公民権運動とベトナム戦争反対運動です。1964年8月に「ミシシッピ自由民主党」はアトランティックシティでの民主党大会に参加することを拒まれ、また議会は「トンキン湾攻撃決議案」を可決しました。前者は白人優越主義がまだ厳然として生きていることをあからさまにし、後者は事件を捏造してまでベトナム戦争を強行したことでアメリカの正義を疑わせました。これらの二つの出来事を境に、1960年代初頭まで団結していた改良主義左翼(非マルクス主義的左翼)の分裂、衰退が始まり、立憲民主主義を標榜している組織の中で社会正義のために働くことはもはや不可能であると決断した人々(ほとんどが学生)による「新左翼(New Left)」が現れたとローティは述べています。立憲民主主義の組織内での活動を見限り革命を標榜するこの新左翼の主たる活動は平和運動と市民権運動(ベトナム戦争の停止と黒人の市民権を目ざす)であったそうです。
ローティは、この新左翼が「街頭デモに繰り出していくことがなかったならば、そして市民の反抗運動が組織内活動の重要性を強調する運動に取って代わることがなかったならば、アメリカは立憲民主制を維持できなかったかもしれない」(p.74)と述べ、ベトナム戦争終結に対する新左翼の役割を評価しています。逆説的ですが、革命を目指した運動が立憲民主制での改良をもたらしたのであり、これもアメリカの本来的目標に向かっての大きな業績とみなせると彼は考えているのです。
第三段階は文化左翼による女性差別・性的マイノリティ差別反対運動です。公民権法は制定されても、合理的な根拠のない偏見のもとに創り出された下位階級の個々のメンバーを辱めることから得られる甘美な快楽に基づくサディズムはなくなりませんでした。「<60年代の新左翼>の後継者たちは大学内で文化<左翼>を創り出し」(p.82)、このサディズムを主要な攻撃目標にしたとローティは述べています。そうして新しく現れた文化左翼は、女性、黒人、ゲイなどの「社会的に容認されているサディズムの犠牲者」(p.86)を援助する活動に励み、「アメリカの高等教育機関は、サディズムを克服するためにこの30年間で、(経済的)利己心を克服するために今世紀の最初の70年間に行なったのと同じくらいのことを行ってきた」(p.87)とローティは評価し、アメリカ本来の目標に向かっての輝かしい業績だとしています。
ところが、文化左翼によって社会的に容認されていたサディズムが減少した一方で、経済的不平等と経済的不安の方は着実に増加していったとローティは指摘します。第二次世界大戦中に始まりベトナム戦争の間も継続していたアメリカの白人プロレタリアートの中産階級化は停止し、逆に中産階級のアメリカ人をプロレタリアート化していると彼は述べ、このまま進行すると、「下からの人民主義的暴動が起こりそうである」(p.89)とします。
彼によればこのような事態は、労働市場のグローバル化によってもたらされたのです。アメリカの工場主や株主、国際的な富豪は、安い労働力を使用することで大きな利益を得ることになるので、さらに豊かになり、発展途上国の労働者との競争にさらされるアメリカの労働者はさらに貧しくなり、アメリカに社会的カーストが形成されるだろうとローティは予想しました(予想は当たっていたことが2018年の今、よくわかります)。
当然国際的な富豪は事の真相から人々の目をそらさせようとしますが、いずれ労働者たちは、「自国の政府が賃金の下落をくいとめようともせず、勤め口の海外流出をくいとめようともしていないこと」(p.96)、そして良い暮らしをしている郊外に住むホワイトカラーが、「他の人々の社会保障手当てを支給するために課税されたくないと思っていること」(p.96)を遅かれ早かれ知るだろうとローティは考え、その結果起こることについて次のように述べています。

 その時点で何かが壊れるだろう。郊外に住むことのできない有権者は、その制度が破綻したと判断し、投票すべき有力者――自分が選出されたら、独善的で狭量な官僚、狡猾な弁護士、高給取りの債権販売員、ポストモダニズムの教授などが支配することはもはやなくなると、郊外に住むことのできない有権者に進んで確信させようとする者――を探し始めるだろう。(p.96)

そして、そのような有力者が政権を取った場合に起こりそうなことについて彼は次のように述べています。

 起こりそうなこと、それはこの40年間に黒人アメリカ人、褐色アメリカ人、同性愛者が得た利益など帳消しになるだろうということである。女性に対する冗談めかした軽蔑の発言が再び流行するだろう。「ニガー」とか「カイク」(筆者増田の注 「ニガー」は黒人を、「カイク」はユダヤ人を指す言葉で、蔑称として用いられる場合がある)という言葉が職場で再び聞かれるようになるだろう。大学<左翼>が学生に対して容認できないものにしようとしてきたあらゆるサディズムが再び氾濫することになるだろう。教育を受けていないアメリカ人が自分の取るべき態度を大学の卒業生に指図されることに対して感じるあらゆる憤りは、はけ口を見出すことになるだろう。
しかし、サディズムのそのような復活によって利己心のもたらす結果は変わりはしないだろう。それというのも、わたしの想像している有力者は、政権をとった後、ヒットラーがドイツの産業資本家と手を結んだように、ただちに国際的な超大富豪と手を結ぶと思われるからである。その有力者は、短期間の繁栄を生み出す冒険的な軍事行動を引き起こすために、湾岸戦争の輝かしい記憶に訴えるだろう。その有力者は、アメリカと世界にとって災厄となるだろう。(p.97)

トランプ氏が政権を取った今を生きている私は、引用文にある有力者が現れ政権を取るというローティの予想が当たってしまったことを認めます。残りの部分、冒険的な軍事行動が起こることと左翼が抵抗できずに終わるということは必ず外れてほしいと思います。そのために左翼はどうすればいいのか、その疑問についてローティは答えていきます。
大学で強い力を持つ文化左翼は、マイノリティに対するサディズムの克服という文化的な面における正義の追求を重視しすぎており、そのため過去にあったのと同じ経済面での不正義が、グローバル化が進む国際状況の中で復活、増長しつつあることに無関心になってしまったのが問題なのです。そこでまず「文化<左翼>は、古い改良主義<左翼>の生き残り、特に労働組合との関係を切り開くことによって、自ら変貌していかなければならない」し、「侮辱のことを話題にしなくなるという犠牲を払っても、金銭問題をもっと話題にしなければならない」(p.98)とローティは述べます。
そして文化左翼が多くの人々の支持を受け政治左翼となり、改革を推し進めたり政権を取ったりするには、「アメリカ人を鼓舞するようなイメージを考え出していかなければならない」(p.106)と彼は主張します。なぜなら、「ただそうすることによってのみ、文化<左翼>は大学の外にいる人々と――特に労働組合と――連合を組むようになることができる」(p.106)からです。より具体的には、教授も生産労働者もよく知っている「人民憲章」などのリストを絶えず増刷し、実際の政治公開討論会で同意することが「左翼政治をよみがえらせるかもしれない」(p.106)とローティは述べています。
こうして左翼を通じてアメリカ国民が、再びその目指すところと過去の実績を自覚し、誇りをもって「アメリカ未完のプロジェクト」の作業を再開することをローティは願い次のように論じるのです。

 私たちアメリカ国民の性格はまだ形成途上にある。1897年には、<進歩主義運動>、週40時間労働、<女性の参政権>、ニューディール政策、<公民権運動>、第二波フェミニズム運動の成功、<ゲイの市民権運動>などを予言するものはほとんどいなかっただろう。1997年に生きているアメリカ人ならだれでも、来世紀のうちに、アメリカが道徳的にはるかに進歩することを知っている。
ホイットマンとデューイは希望を知識の代わりにしようとした。二人は、アメリカ人に共有されるユートピアの夢――この上もなく慎み深く洗練された社会の夢――を、<神の意志>、<道徳法則>、<歴史の法則>、<科学的事実>といったものの知識の代わりにしようと思った。ホイットマンとデューイの政党、つまり希望の政党は、20世紀のアメリカをただの経済的軍事的巨人以上のものにしてきた。<アメリカ左翼>が存在しなかったならば、それでもなお、私たちアメリカ人は力強く勇敢であったかもしれないが、私たちアメリカ人が善良であるとは誰も言わなかっただろう。アメリカにその役割を果たす政治<左翼>があるかぎり、私たちアメリカ人は、なおアメリカの完成をめざし、アメリカをホイットマンとデューイの見た夢の国にするチャンスを持っているのである。(p.114)

ローティは、ハーバーマスが近代という未完のプロジェクトに対して悲観的なのに対し、アメリカという未完のプロジェクトに対して大いなる希望を寄せているようです。

日本 未完のプロジェクト

 スウェーデンでは政権を担当する社会民主党のリーダーが、「国民全体が連帯をして助け合って、家族のように生きていくのが、国というものなのだ」(『日本再生の指針』、岡野守也、太陽出版、2011、p.249 以下この項では、断りがなければ引用は同書からでありページ数のみを記します)という「国民の家」という国家の理想像を第二次世界大戦前に掲げ、それに向かって邁進することで、1980年頃には世界的に称賛されることになる福祉国家を築き上げたことが知られています。すぐれたトップ・リーダーのもと、自由・平等・連帯という民主主義の理念を、社会民主主義的な「混合経済システム」を基盤として高度なレベルで実現したのです。
しかし、いかに優れた福祉国家でも、資源の大量使用―大量生産―大量消費―大量廃棄による産業社会であるかぎり、資源の枯渇そして環境汚染という問題が必ず顕在化することになります。スウェーデンは、福祉国家を維持するためには健全な環境が持続することが前提であるという強い認識のもと、1967年に環境保護庁を設置し、1970年代に環境政策に本腰をいれ始めます。そして1996年には当時のパーション首相が「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な福祉国家)」という国家像を唱え、これをスウェーデンのあらたな国家目標とすることになります。岡野主幹はこの新しい国家像をこそ日本もまた目標とすべきだとしています。
ところで、もし日本の原点に理想とすべき国家像がすでに設定されていて、それがこの「緑の福祉国家」に一致するものであるなら、そしてまた、それを部分的にでも実現した歴史があったとするならどうでしょう。日本人はその原点、歴史を再認識することによって、自らの原点にあった理想像建設のプロジェクトとして、誇りをもって日本を「緑の福祉国家」へと進めていくことができるようになるのではないでしょうか。そのような原点がない場合に比べ、「緑の福祉国家」達成に向けての意欲には相当の隔たりが生じると思われます。岡野主幹は、まさにそういうことを主張しているのです。
しかし本当にそんな主張ができるのでしょうか。私は日本人ですが、受けてきた公教育において、日本の原点に誇りを持つように教えられたことはほとんどなかったような気がします。どちらかというと、西洋的な教養(自然科学や現代哲学)にこそ深みや先進性があるように教えられ、それらにあこがれるようになる教育を受け続けてきたと思います。社会の基本的構造も西洋的に作られていて、日本の伝統に誇りを持つという考えはあまり持たなかったように思います。いくら日本の科学力や経済力が世界有数のものになったといわれても、結局は西洋的なもので構築された枠組みにおけることであり、日本の原点にまでその起源をさかのぼって誇りを持つということにはなりませんでした。
ところがです、岡野主幹によれば、日本の原点には聖徳太子による「十七条憲法」という世界に誇ることができるものがあるのです。三経義疏を著した太子の仏教に関する造詣の深さからすると、十七条憲法第一条にある「和を以て貴しとなす」の「和」とは、「人間と人間との平和、人間と自然の調和」(p.21)を意味するのだと主幹は解釈します。そして憲法を読み進むことで、国のリーダーも官僚も、「すべての生きとし生けるものを庇護し支えるために」(p.95)あること、また「和」という国家理想を実現するには、「合議制でやるべきだ、徹底的に話し合ってやるべきだ」(p.65)と述べられていることがわかるとします。これらのことは、まさにスウェーデンが民主主義的な手続きで「緑の福祉国家」を建設しつつあることと重なるではないか、と主幹は主張するのです。
確かに、生態学的に持続可能でかつ福祉国家であることは、人間と自然、人間と人間が調和し、すべての生きとし生けるものが庇護され支えられることと重なりますし、民主主義的な手続きは人間と人間とが合議を尽くしてことを進めるということに一致します。
また歴史的に見ますと、古代日本には「班田収授法」という「日本国民と生まれたら、だれでもかなりの広さの田んぼをもらえる」(p.94)制度があり、それは古代的な福祉国家の制度と考えてもよさそうだということ、そして徳川時代は「対外戦争をしないという意味での平和と、自然を荒廃させてしまうことなく人間がなんとか食べていけるという持続的な状態をつくり上げたという意味での自然と人間の調和と、二つの面のかなりなレベルで『和』を実現した時代だったとみることができる」(p.23)ことを主幹は指摘し、十七条憲法の精神がある程度実現された事実があると主張しています。
そしてもし今、現代的に十七条憲法の目指すところを実現しようとするなら、「緑の福祉国家」という国家目標をたてることになるだろうと主幹は考えるのです。ただし、スウェーデン発の「緑の福祉国家」は近代的なヒューマニズムに基づいているわけですが、十七条憲法の場合は仏教的な哲学に基づいていて、ヒューマニズムを超えたところにその根拠を持っているので、究極的には、国民全部が菩薩になるという「菩薩の住む仏国土」の夢まで日本の原点には込められているとします。そのため近代的ヒューマニズムに基づく「緑の福祉国家」ではニヒリズムに陥る可能性が高いのに対し、日本ではそれをも克服することが目指されていたのだと主幹は考えているようです。
まとめますと、まず「緑の福祉国家」の実現、その先で「菩薩の住む仏国土」を実現することこそが、「日本という未完のプロジェクト」なのです。今日本が「緑の福祉国家」を明確に目指すことを決めそれに向かってスタートを切るなら、日本の原点にある未完のプロジェクトを再開したと言えるのです。
私は岡野主幹のように憲法十七条をとらえることに賛同します。そのためもし新しく日本国憲法を作るようなことがあるなら、その前文に憲法十七条の精神を明確に織り込むことを主張したいとさえ思います。

近代、アメリカ、日本 三つの未完のプロジェクト

 分化した各価値領域で、高度な文化的行為システムの下で集積された知識を、生活世界において統合し、理性的な生活を形成し、幸福を促進することが「近代」という「未完のプロジェクト」だというのがハーバーマスの考えだと思います。その達成のためには、「芸術と学問の発展によって自然の諸力に対する支配が進むだけではなく、世界と自我の解釈が、さらには、道徳的進歩が、公正な社会制度が、そしてついには人間の幸福が促進されるであろうという期待」(『近代 未完のプロジェクト』p.22)を再認し、対話的理性が存分に活用される必要があるのです。
「階級もカーストもない民主主義国家」というユートピアを改良主義左翼の力を借りて達成するのが「アメリカ」という「未完のプロジェクト」だというのがローティの考えです。今止まってしまっていると思えるその歩みを再開するためには、原点にある目標とそれに近づくためになされた過去の輝かしい歴史を再認し、国民が誇りを持つことが必要だとします。そしてとりあえずは1980年ごろに北欧で達成されていたような福祉国家を目指すことになりそうです。
「人間と人間との平和、人間と自然の調和した国」を達成するのが、「日本」という「未完のプロジェクト」だというのが私の解釈した岡野主幹の考えです。そのためには、憲法十七条に込められた意味と、その達成目標に近づいた歴史的事実を再認し、国民が誇りをもつことが必要なのです。とりあえずは「緑の福祉国家」を、究極的には「仏国土」を目指すことになります。
それぞれのプロジェクトにおいて、目標の規模、レベルは異なっていても、主体である人々が達成すべき理想の原点が自らにあることを明確に理解し、その目標に向かって進むことに誇りを持てることが重要だということは共通しています。特に「日本」という「未完のプロジェクト」に関しては、その原点を古代に置くことができること、またその理想像のレベルを極めて高く設定できることに、自国のことながら驚きを禁じえません。