「名作再訪 『自我と無我』」をMMエッセイズ2に掲載いたしました
「名作再訪 『自我と無我』」をMMエッセイズ2に掲載いたしました。
日本では仏教に発する概念「無我」が、「滅私」と同じことを意味するとみなされる傾向が強かったそうです。自らが所属する集団(家族、村、民族・国家など)こそが個人を超えて尊ばれるべきで、自分よりその集団を優先して行動することこそが倫理的だと考えられていて、特に第二次世界大戦中は、私を滅して日本民族(日本国)に奉仕することが人間として最も大事なことだとされていたのです。
ところが敗戦後、滅私の考えこそ悲惨な国の状況をもたらした主要な原因だとされ、倫理の基準が180°向きを変えることになります。近代的な自我を確立すること、自分を最も大事に考えることが当然になったのです。そして個人としての自分が一番大事ということが、全ての人に当てはまることだと理解すれば、人々は互いを尊重せざるを得なくなるだろうというような、個人主義的ヒューマニズムが倫理の基準にされたのです。
しかしそのようなヒューマニズムの考えが適切に発展したようには思えない状況が今の日本には見られると本書で岡野さんは主張します。どちらかというと自分だけ、あるいは自分と利益を共有する者だけを大事にする、行き過ぎた個人主義(ミーイズム)が蔓延しているように見えるというのです。その最たることとして挙げられているのが、「警察官、医者、教師たちの不祥事」(p.31)がしきりに報道されていることです。そのため、「公務のために身を挺する滅私奉公の精神は、やはり必要なのではないか」(p.31)という論調まで現れるほどなのです。そうしたことの根本には、やはり、「個人が大事なのか、社会・集団が大事なのか」という意味での「自我か、無我か」という問題があると岡野さんは指摘します。
そこでいまこそ「自我と無我」というテーマについて、実は歴史的に醸成された混乱があることを明確にして、そこにある普遍妥当的なアイデアを見出し、やがてそれが国民一般に共有されれば、「個人が大事なのか、社会・集団が大事なのか」という対立的な考えを超えて「倫理の水準の向上につながる」のではないのかと岡野さんは思索を進めます。その思索についてまとめたのがこの本、『自我と無我 ――「個と集団」の成熟した関係』(PHP研究所、2000)なのです。もう20年も前の作品ですが、その内容は今こそ多くの人に読まれるべきだと思い、この文章を書くことにしました。